(62)マンガ「さくら」(218頁)
知り合いの娘で、マンガを描いている子がいて、その娘のマンガのためのストーリーを考えたんだけど、彼女の描いているマンガの傾向と違うために興味を惹かなかったようで、そのままになっている。その話をしよう。
冒頭のシーンは、その娘が二階の自室でマンガを描いているところに、母親がトントンと階段を上がってきて言う。
「サーちゃん(名前が桜子だから)、あんたどうするのよ? いい年してマンガばかり描いて…これからどうするつもりなの?」
マンガでお金を稼いで生活できるわけでもないし、他の仕事をするわけでもないし、かといって結婚する気もないしと、母親は焦っている。
娘も、そう言われてもどうしようもないから、プンプンと苛立っている。
「取材、取材!」
そう言って、出て行こうとする。
「どこへ行くのよ?」
それには答えず、もううるさいから、スケッチブックを持って階段をドタドタ走り降りて出て行く。それが最初のシーン。
春の心地よい時期で、いい天気で、その娘は千駄木に住んでいるのだけれど、ブラブラあても無く歩いていたら、荒れ果てた屋敷があった。もうほとんど廃墟寸前で、庭に一本の桜が咲いている。広い庭に大きな桜の樹だけがポツンと満開の花を付けて立っている。崩れかけた板塀の間から、その桜の樹を見て、描きたいと思って、門の呼び鈴を押してみたが古くてコードが切れているらしく鳴っている様子がない。横に「◯◯医院」と縦書きの木の看板があり、それも、注意して読まないと分らないくらいで、消えかかったうっすらとした文字だ。昔、医者の家だったことが、その看板でやっと分る。
この情景はいい資料になるなと思って、描かせてもらおうとしても呼び鈴も壊れているから、塀の破れ目から声をかける。
「ごめんください。描かせてください。どなたかいませんか?」
一人で入っていって、その桜を描くわけだ。
「いいんですね!」
言い訳だけど、きちんと断わってから入ったという事を自分で確認している。描いていると、そのうちに絵にのめり込んで夢中になる。
夢中になって描いていて気付かなかったが、後ろでジッと青年が見ていた。
青年はその娘と同じくらいの年齢。絵が一段落した時に、青年が声をかける。
「うまいね」
「あっ…」
マンガ家志望の娘と、その青年とは、そこで出会うわけだ。青年はその家に住んでいて、後で分るがおばあさんもいる。その廃墟寸前の一室で、二人は生活している。そういうシチュエイションでストーリーが始まる。
登場人物と出会いの設定は、その3人から始まる。これがそのマンガの始まりで、次々と展開する。
この青年の両親は離婚している。これがまた、一つのストーリーだ。何故離婚したかというと、父親は一種の生活無能力者で、絵描きだったんだ。父親は医者の一人息子だったが、絵描きになり、結婚と離婚をへて、外国で勝負したいと言ってアメリカに行ってしまい、そのまま日本に帰ってこない。そして、一年に一度だけ年の暮れに手紙がくる。手紙といっても、ありふれた絵葉書の横に「I’m alive.」と、私はまだ生きているという一行だけの文章が届く。その時の絵葉書の風景写真で、その年に住んでいる所が分るけれど、最近はどうもニューヨークに住んでいるらしい。
青年の母親は父親と離婚して後、バブリーな起業家と、正式かどうかはあやしいけれど再婚している。
青年はというと、やっぱり絵描き志望で、美大を卒業したばかりで画材屋の絵画教室の講師のアルバイトをしながら、絵を描いている。まだ社会とどう折り合いをつけて生きていったらいいのか、どんな絵の方向を自分の目標にしていくのか分らず、とりとめもなく鬱々と日を送っている。その辺のディテールは、もう延々と、いくらでも話は伸ばせるのだ。
青年とその娘とは、その出会い以後付き合いが始まる。青年がマンガ家の彼女と付き合い始めるが、しかしその前に付き合っていた美大の同級生だった女性がいて、その女性は青年の母親と同じで、彼の生活力の無さに愛想をつかして去っていく。まあ、切りがないのでその辺は省略するとして…。
ともかく青年は、シンデレラ物語のように、画商界で劇的に成功していく。この辺の成功の場面は、僕の日本橋画廊でのデビューの体験を参考にして話を作る。青年は日本で成功して、その後ニューヨークで個展の話が持ち上がる。
そのニューヨークでの個展。父親も絵描きだし、ニューヨークにいるらしいから展覧会を知らせたいが、どうしても消息が分らない。桜を展覧会の作品のグランドモティーフにしてのニューヨークでの個展。娘の名前が桜子で、冒頭のシーンが桜の木、ニューヨークの個展の絵のモティーフが桜、桜が全編を通してのキーワードになるわけだ。最終日に、早めの夕方からの打ち上げで、関係者と画廊で飲んでいる。展覧会の成功でほっとしていた。
すると、展覧会会期中ずっと同じ場所、画廊の前のビルの角に立っている浮浪者がズーッとこちらを注視しているんだ。開廊中は忙しくて目にも入らなかったが、今は展覧会も終わり、ウイスキーのグラスを片手に、夕暮れの街をなにげなく見ていたらそのホームレスが目に入った。“あぁ、あのホームレスの男はずっとあそこの場所に立っていたなぁ…。人種は東洋系だなぁ…”突然、無意識に言葉が口を突いて出てきた。
「親父だ…」
急いで出て行ったら、その人はクルッと後ろを向いて、スタスタと地下鉄の駅の方に歩いて行くんだ。急いで追いかけていって声をかける。
「エクスキューズミー。アーユーマイファーザー?」
ほとんどホームレス状態の親父と、そこで再開するんだ。それが父親との再会のシーン。
あるネタがあると、次から次へと芋づる式にストーリーが浮かんでくる。人物の生い立ちや性格を設定すると作中の人物が勝手に動きだす。最近、『廃墟』の写真の本を書店でよく見かけて、実際何冊か買ったが、昔から僕は廃墟には惹かれた。思い出の廃墟もいろいろある。朽ち去る前の残された情報から、以前の住民の生活を想像すると楽しい。また、その空間は時間がフリーズしているので独特の美しさと郷愁を感じる。柏の駅裏にも時代から取り残されたような一角があるが、芸大の近くの谷中や千駄木と同じく、ブラブラ歩くのは楽しい。その空間から、ストーリーが自然に湧いてくる。