(注2)実存的時空(水晶の山)(岡野浩二『芸術の杣径』より)
今度の出来事は小学2年のころのこと。これは、記憶を辿ると同じ社宅に住んでいた櫃本君が小3の時同じクラスで、彼が大きなグレーの水晶を持っていた。その水晶を見たのは、ずっと後のことなのでその事から推理すると、たぶん小2のときの出来事だろう。
小学校の裏の山の上で、水晶が採れる場所があった。子供だから、鉛筆の先くらいの、小さな水晶しか見付けられなかったが、それでも、透明な6角錐の幾何学的な形は、自然の内部にひそむ抽象的な美しさを僕に教えてくれた。
そういう場所を誰かが見付けたのか、昔からあったのか、社宅の裏に住んでいた上級生の高橋のケンちゃんが「水晶ガトレル場所ヲオセーテモロータケン、コーチャン一緒ニ採リニイカンカァー(水晶が採れる場所を教えてもらったから、浩ちゃん一緒に採りに行こうよ)」と言った。学校が終ってから、家の廻りで遊んで、それから二級上のケンちゃんにそう言われて、二人で行ったんだ。もともと、出かける時間がそもそも遅かったのと、低いとはいえ山に登らなければならないから、もうドンドン日が暮れる。その場所に着いたら、もう辺りは薄暗い。急いで探して、やっと小さいのを1個見つけたくらいで、どんどん暗くなって心細くなる。
「もう、帰ろう」という事になって、それから帰るわけだから、とても暗くて、山の中をベソをかきながら、やっとの思いで家に帰った。実際、昔の夜というのは今の夜と違って家の外は暗く、とても恐ろしかった。それで、必死になって、どうにか家に辿り着いた。
家に着けば、当然ながらホっとする。「着いた…!」と一安心だ。そうして裏口から入っていくと、いつも通り、家族は皆で夕飯を食べていた。テレビはまだ市販されてなく、昔の労働者の一家の夕飯は、毎日家族全員が揃って喋りながら食べる、他にこれといって娯楽のない当時の楽しい時間の一つだ。そんないつもの時間に、皆でいつも通りに食べていた。
皆で食べている場に、僕が帰ってきた。そうしたら母が怒って「モー、イツマデ遊ビョールン(もう、いつまで遊んでるの)!」と言う。いつもの食事時間なのに「イッタイ、ナンショッタン(いったい、何してたの)?」というわけだ。その叱られた事が悲しいというのではない。
そこでもやっぱり、溺れたときと同じ感覚があった。僕が、その日、たまたまちょっといつもと違う場にいる。これも又、後からの解釈だけど、いつもの僕はそちら側で食べている。日常生活のルーティンだから、普通に食べているわけだ。しかし、たまたまその日、僕が水晶の山に行ったから、そういう事になった。そうすると、その時間とこの時間が同じところにあるというのは、何か変な感じがするのだ。
たまたまちょっとこの世界の中の、ちょっと場所が違ったり、ルーティンが変わると、そこには又違う時間と世界があった。僕が家に帰ったときに見たちゃぶ台の前の一家団らんの情景と、今までの自分の恐ろしさと心細さで一杯だったあの空間が、同じ空間にあるという事がどうにも不思議。そうすると、ルーティンの日常生活でない世界が、無数にあるわけだ。ちょっと水晶の山に行っただけで、空間と時間があんなに変わるんだ。何か変な感じ…。世界というのは一つでありキッチリと動いている、という日常の感覚とは、異質のものと出会った。
こういう感覚が、今の絵にも出てくるし、現在の僕の世界観の元になっている。そういう体験から、こうやって後から解釈している。あの時の僕は、叱られたから悲しいといったような、そういう事ではなかった。裏口から入っていって、いつもなら僕が本来いるべきテーブルで、皆が夕飯を食べているという事と、それまでの自分の恐かった体験との取り合わせが、何とも奇妙な感覚だった。