(59)美の構造(207頁)
一般の観賞者は、ただ絵の美しさを味わっていればいいが、画家はその美しさを制作しなければならない。一般の人が、おいしい料理を食べた場合、ただ「おいしい、おいしい」ですんでしまうが、自分が料理人の場合はそのおいしさを再現できなければならない。
リンゴやテーブル、壁などの画面空間の位置関係を、観賞者は何もこだわらないが、画家は、空間を秩序立てなくてはいけない。その当時やり始めた一番最初の方法は、平面的に秩序立てる事だった。セザンヌやキュービズムを分析する前だから、空間の秩序は二次元(平面)と三次元(リアリズム)しか知らなかった。だから、リアリズムを脱けようとすると、平面しかないではないか。
絵の下手な人の画面は絵具の具材感が残っている。絵具の赤が、リンゴの皮の赤に変換しきれていない。絵具の赤がきっちりとリンゴに変換出来ても、それがゴールではない。さらに印象派になると、絵具の赤がリンゴに反映した赤い光になるのだ。
絵の下手な人の画面空間はというと、デコボコして無秩序だ。ゴミ捨て場は、一見して醜いし、汚い。あれを美しいと感じる人は、ほとんどいないだろう。あれは、ごちゃごちゃしていて、無秩序なんだ。けれども改まった席に出席するときなど、不精ヒゲを剃ってきれいにしたり、あるいは生け垣を面一(ルビ、つらいち)に整えたり、何故そうするかというと、その方が美しいからだ。雑草が生えて、ごちゃごちゃして、いかにも汚らしいというのは、そこに秩序がないからである。仮にほったらかしにしても、自然という秩序が、再び美しさを再構築する時もある。人工的な秩序も1つの秩序だけれど、人工と自然がごちゃまぜになると、無秩序になるからあまり美しくない。自然そのものは、自然の秩序があって美しくなる。
そのように、描かれているモティーフの表面を下部構造が縛っているのだ。描かれているもの、表現されているものの内容の説明の下に、内容の描写の下に、まず光と空間があるという事を、その当時、岸田劉生、モネ、マチスで体験したわけだ。
当初は現在のように良く分かっていないから、先ほど述べたような事を、一つひとつ仮説演繹法で実験しながら一生懸命やってきて、今に至っている。そういう体験をすると、それに気付くと、画商間で売れっ子だった当時の状況をさて置いても、まずその事をやらざるを得なかった。
美は自分の内面からではなく、外から飛んでくる。実存の向こうから超越的な存在が、僕の内面に関係なく、外側から飛び込んでくる。僕の好き嫌いや、信じる信じないに関係なく、否応なく「いいなぁ」と、「美しいなぁ」と感じさせられるのである。そうすると、次第に唯美的に判断せざるを得なくなる。シュールリアリズムや表現主義は、自分の内面性や自我を主題にするのだから「あぁ、こんな事は自分のやるべき仕事ではないな」と思った。
昨年(二〇〇四年七月)出版した僕の画集(『岡野浩二作品集1993~2004』)に書いた文章を改めて読むと、結構いい事を書いていると思うのだが、ああいう事も僕は誰に教えてもらったわけではなくて、先人の画集を見ながら、あるいは絵を描きながら、一つひとつ、演繹と帰納と実験の繰り返しから生まれたのだ。仮説演繹法で、何年もかかって、ともかく今に至ったわけだ。だから、絵の注文があろうが無かろうが、それに関係なく毎日が忙しかったのだ。
芸術は永く、人生は短い。魚類学者の仕事と漁師の仕事とでは、勉強の方法や努力の方向が全然違うのだ。知識も努力も一人の人間のやれる事には限りがあるのだから、進むべきベクトルをきちんと合せて毎日を過ごさないと、人生は短いのだから、間に合わない。「美」の大魚を釣り上げるためにはどうしたらいいのか、と設問すると、毎日のアトリエでのやるべき仕事が、具体的に見えてくるだろう。