(75)絵を描くのは具体的(261頁)
何度も強調しているけれど、画家は漁師だから具体的に考えなければいけない。いい絵に感動したら、その感動に対して具体的にアプローチしなければ自分の作品に取り込めない。具体的に魚を釣るには、具体的な物でやらなければ釣れない。いくら念じたって釣れやしない。だから僕は、すべて具体的にどうするかと考えている。絵描きは漁師と同じ方法論でやらなければ、特に若い人で絵描きを志す人は、絶対に具体的に考えなければいけない。
たとえば、こういうふうに考えるとよい。自分が一番感動する絵描きがいるだろう。「いいなぁ」と感動すると、こんな絵を描きたいと思うだろう。そうしたら、その画家のいい絵と、駄目な絵を探すのだ。いい絵と駄目な絵を並べて、いい絵を上に駄目な絵を下にピッタリと頭の中で重ね合わせて、引き算すると絵の良さを成り立たせているものだけが残る。作者も同じ、道具も同じ、絵具も同じ、モチーフも同じ等々、同じものを引いていくのだ。この絵は何故いいのか、一方、こちらの絵は何故駄目なのか、そういう事を突き合わせると何故いいかが見えてくる。
そういう方法で、ロスコの絵を精査して、僕は彼の絵の良し悪しを発見した。そのあたりを気づかないとロスコのような絵は描けない。同じすぐれた作者でも、首をかしげざるをえない作品もたくさんあるのだ。そういう作品は、光も空間も良くない。ロスコといえども。
タブローでも失敗作があるんだ。失敗作というと怒られるけれど、僕には失敗に見える。失敗だと思うし、首をかしげる。そういう作品は、お金を持っていざロスコの絵を買うとなったら、買わない。おなじ人が描いているのに、そんなにも違うのだ。
何故こちらの絵は僕にはよく見えて、こちらはあんまり感じないのかなという事を、具体的につき合わせていくと、分ってくる。このブルーは、ボーっときれいに全部が光っている。しかし、この部分は光っていない。絵具が残っているし、この間が全然うまくいっていない。では、これを自分ならどうするかというように考える。
セザンヌでも、ゴッホでもそうだ。ゴッホの、あのオランダ時代の茶色っぽい作品は僕なら要らない。それと、セザンヌの初期のころの絵は駄目である。
ロスコの、水彩のエスキースの中で、こういうのも全然駄目である。一方、こっちのはよくて、光になっている。しかし、こっちは全然光っていなくて、汚れている。こことここが重なり合っているから…。こうやって画集や展覧会の図録などで、突き合わせる。そうすると具体的に見えてくる。