(11)分岐点(40頁)
何故、芸大を受験して絵描きになろうと思ったのか、何故そう決断したのか。この決断が、僕の人生の最大の分岐点だった。
高校一年の夏休み明けに転入試験を受けて、千葉の高校に二学期から転校した。その学校の芸術科目は、音楽と美術と書道の選択で、美術を選んでその授業を受けた。
そのころはまだ、美術が特にどうという事もなく、芸大を受けようとも思っていなかった。あるとき石膏デッサンの授業があった。木炭紙じゃなくて、スケッチブックに鉛筆で描く。その時に、偶然同じクラスだった石井君という美術クラブの生徒がいた。その人が、めちゃくちゃうまい。うまいというか、今まで僕が見たことのないようなデッサンを描いていた。うまいなぁと思いながら、それを真似しながら描いてみるけれど、僕には描けないんだ。
美術学校の石膏デッサンというのは、あるメソッドがないと描けない。習っていないから、僕は当然知らない。彼のデッサンをよく見ると、輪郭線がない。影だけで描いている。僕には影が見えない。石膏像をよく見ていると、コントラストの強い影は見えて来るが、面の角度で徐々に変化する陰影の調子が見えない。見えないし、だいいち黒い鉛筆で描き加えて白い石膏像を描写することが、僕にはマジックのように見えた。
僕はどうしても線で描く。それは「認識」がないということなんだ。影が、石井君のデッサンのようにきれいに形についていかない。僕には見えないんだよ。石膏デッサンを知らない人にいきなり描かせてみたら、みんなうまく描けないだろう。最初はみんな白と黒のコントラストの強いデッサンになってしまう。普通ハーフトーンはみえない。そういう「認識」で見ていかないと、見えない。日常の人間の認識は、どうしても輪郭線やはっきりとした影を追ってしまう。人間は写真のように外界を認識していない。つまり、眼球の網膜に写り込んだ映像を、脳の中の意識が補正し解釈しているのだ。
ちょっと違う話になるけれども、石川啄木、ああいうロマンチックな、ロマン主義的な作家は芭蕉に比べると「どうもこれは挌落ちだな」と思う。どこに引っかかるかというと「われ泣きぬれて」という部分。「東海の小島の磯の白砂に」…。そして「われ泣きぬれて」。あなたが泣きぬれようと何しようと、ソーホワット、それがどうしたの、僕にそんな事言われても関係ありません、という事。そういう個人的なものが入ってくる。そうではなくて、そういう「自分」が入らない客観的な描写で、くるっと全部が芸術に変わるといったものこそ、超一流だなという感じがする。「泣きぬれたり」とか、自分の人生上のことをどうこういうのは恥ずかしいというか、僕にとっては、格が落ちるのだ。芭蕉の言葉は、薬の効能書きと同じ言葉を使って客観的な事実だけを言って人を感動させる。僕だって、若いときは青木繁、佐伯祐三、松本竣介、モジリアニなどそういうロマン主義的な部分にすごく惹かれた。若いときはやはり青春というか、甘酸っぱい感傷的な独特の感覚があって反応していたけれど、どうも歳を取ると、ああいうのはなんか恥ずかしいという思いになる。若い時はともかく、歳をとってまでまだそんな絵を描くという事は、若作りというかブリッ子というか何だか品が悪いと僕は思う。
美術に関わる最初のきっかけが、石井君のデッサンの、世界の見方、見え方、だった事は、その後の自分の画業にとって幸運だった。つまり、絵の内容ではなくて様式、フォーム、世界の「認識」。ともかく、石井君のデッサンがきっかけで、美術への興味と魅力に引きつけられていった。