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(16)ただのリンゴ、描写絵画

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 (16)ただのリンゴ、描写絵画(80頁)

このような話がいくらでもあるというのは、これまでの諸々の体験と知識の集まりが、ジグソーパズルの途中の島どうしがガチンと組み合わさって、一つの世界観が現成されたからなのだ。だから、僕の話はどの方向にも延々と伸びるし、一見関係ない話も次々と繫がっていく。バラバラに在った島が一つの世界に形成された。この全元論の世界観に至った、真・善・美の大きな島での出会いが、2010年に始めたイーゼル絵画(美)と、そのころ読み始めた道元(真)が絡み合って、現在僕はこうなったのである。イーゼル絵画の良さについて少し話そう。イーゼル絵画、つまり描写絵画だね。描写はリアリズムで、リアリズムでは世界の実在を信じないと描写は成り立たない。「この世界は本当に存在しているのだ」「世界は実在しているのだ」という前提がもし虚妄だったら、世界存在がウソだったり、幻想だとしたら、描写というものの意味と価値はありえないことになる。

西洋の印象派以降の、後期印象派までは描写だった。日本の花鳥風月もそうだった。それが今、イーゼル絵画と道元の全元論とで、完全に今僕は、自分のやっていることが正しいといえる。描写しなければならないのだ。創造も自己表現もない。

フッサールにおいては、要は「記述するだけ」である。あるものを記述するだけであると、現象学では言う。現象学は主観と客観とエポケー(スイッチを切る)するだけで、主観と客観を分けて認めているので全元論とは違うが(注;このことは、神秀と慧能の偈についての解釈で、別に取り上げます)、ともあれ、創造するのでなく記述するだけ。実在を真のものと考えない限り、描写は成り立たない。ドイツ観念論からの西洋近代哲学の人間の側に寄った世界認識、その極端な支流の実存主義では、アプリオリな実在を真なるものと考えないので、小説でいうところの「意識の流れ」になってしまう。私の美校生時代の周りの芸術、文学も映画も音楽も演劇も、解りにくい自己満足の作品が多かった。実存主義では、意識のほうが本当だと考えるし、そう考えればそういった作品になるのは仕方がない。美も真もアプリオリにはないのだから、他者には解りにくい、美しくもない、本人だけの真実と本人だけが感じる美を表現するのも当然である。

ところがセザンヌや、日本でいえば花鳥風月では違うのだ。全元論的世界観の日本で、特に分かりやすいのが松尾芭蕉である。例を引けば「古池や蛙飛び込む水の音」である。古い池にカエルが飛び込んだ音がした。これ、素晴らしいだろう!と外国の人に言ってみても、とても理解できない。なに? 正岡子規の、柿を食っていたら法隆寺の鐘が鳴った。それがどうしたの? ソーファット?と言われるだろう。

セザンヌが分かるということは、それだけ高度なことが分かるのだ。外側の描写だけであって、芭蕉は「私はこう思った」とか「私はそれを聞いた」とか言わない。しかし、この句には全部が入っている。つまり香厳撃竹なのだ。「竹に石がぶつかった」それだけ。凄いだろう。それが分かる人がいることが凄いのである。こういうものを作る人がいる。外国の人に言ったら、池にカエルが飛び込んだなんて、それがどうしたと言われるだけである。

これがまさに描写絵画の真骨頂だ。絵画で言えば、ただのリンゴ、ただの洋梨、ただの山、ただのひまわり…。ただそれを描いて凄いということが分かるのは、あの少しの間の時代、西洋の印象派の時代と、日本美術だけである。世界的にそんなものは、過去にもなかったし今もない。

逆に「ただの描写」でないとは装飾であったり、意味であったりする。意味とは、だれを描いたか、つまり裸のマハを描いたとか、法皇を描いたとか、神話を描いたとかその意味内容を問うものだった。一方で、ただのなんでもない風景、ただの人、モジリアニのただの牛乳屋のお姉ちゃんとか、ただのリンゴとか、その種のものがわあっと来て凄いと理解できるのは、イーゼル絵画を勉強した人か、日本人だけである。そういう人以外には、絵をそのように捉えられる人はいなかった。稀有のことだったのである。ただ描写しただけで、いったいそれが何なの?とずっと言われて来たし、カメラやパソコンがあるのにまだ見て描いているの?と言われるのだ。

しかし芭蕉が石川啄木になると「東海の小島の磯の白砂にわれ泣きぬれて蟹とたはむる」だ。東海の小島の磯の白砂に、というそこまではいいよ。しかし、われ泣きぬれて、って泣きぬれてどうするのだ。自分の手をじっと見て、あなたの生活が良くなろうとどうであろうと、世界存在にどう関係がある?ということだ。お前が泣きぬれたとか、関係ないよ。まさに僕の言う「5000円のチケット」だし、それは夏目漱石なのだ。

そういうのは、禅の人から見たら破門と言われるよ。棒で叩かれるよ。しかしイーゼル絵画と全元論では、啄木や漱石とは明らかに違う。全元論では世界は分けられない。そして世界はオールオーバーである。オールオーバーとは、どこにも穴がないし、どこにも差別がない。物も、人も神も世界も、すべてがだあっと連なって、今、今、今と現成している。そしてこのように素晴らしい。太陽は人を幸せにして、明日も出てくれる。人間が代わってできるものではないし、誰かが、代わってやると言っても誰にもできない。神にもできない。神も自己も物も世界存在全体の中に含まれているのだから、そして各部分は境界線でもって全体から分けられないのだから。

 

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