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(53)「花チャン」一家

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(53)「花チャン」一家(190頁)

小学六年の時に、少年少女文学全集で読んだ国木田独歩の『忘れえぬ人々』という小説があるが、花チャン一家は僕にとっての「忘れえぬ人々」だ。

僕が小学三年の時の春休みにその事故が起こった。僕が前に話した、自転車の男性とぶつかった玉本通り、あの今は一方通行の狭い道でのことだ。その道を、両備バスと下電(シモデン、下津井電鉄の略称)の定期バスが走っていて、僕の一家が住んでいた造船所の社宅のすぐ近くを通っていた。車などほとんどない時代で、商店の運搬はオート三輪車、黒田医院はスクーターだったし、自家用車を持っている家は玉の町では池上医院くらいのものだったろう。

玄関の前で、いつも手押し車で魚を売りにくる「ヤッサン」(ヤスエとかヤスコという名前だったのだろう)から魚を買って、さばいて貰っているのを母と一緒に見ていると、道の向こうにニスケ(乞食)の母親と男の子二人(僕より年上と年下)がゾロゾロと一列になって通り過ぎるのが見えた。「今日はヌキー(ぬくい。暖かい)からニスケ(乞食)の親子も歩キョールガ(歩いてるが)…」と言ったヤッサンの軽口に、近所のおばさんが笑って、その一家が視界から消えてしばらくして、「子供がバスに轢かれた!」と大人がふれ廻って来た。僕は近所の男の子と一緒に「見に行こう」と言って、「ヤメトキネー(やめておきなさい)」と言う母の制止を聞かず事故現場に走った。

当時、ニスケの一家が神社の近くの防空壕の横穴を住まいにして住んでいた。小さな母親と男の子二人と、ほとんどその三人と行動を共にしない父親の「花チャン」の一家だ。

花チャンは異形の人で、男なのに白粉でまっしろな顔に口紅をつけ、派手なベロベロした女物の着物を着て女物の下駄を履いていつも内股で歩いていた。映画が全盛の時代で、「大映」映画館の興行のチンドン屋をやって小使い銭をもらっているらしい。夏の夜、縁台を道に出して子供達は花火、大人達はワイ談をしているときに花チャンがどこからか現れて、隣の家の加門のおじさんが花チャンに色々の芸をさせた後、少額のお金を渡していた。四枚の竹の小片を両手に二枚づつはさみ持って、カチャカチャとリズムをとりながら歌いながら踊ったり、阿波踊りを踊ったりと、加門のおじさんのすべてのリクエストを喜々としてこなすのだった。花チャンが、背中に映画のポスターを吊るして、体の前の鉦と太鼓をチンチンドンドン鳴らして社宅の表通りから裏道まで一人で宣伝しているのに出会ったときには、子供達が「花チャーン」と呼び掛けると「ハーイ」と答えるのであった。いかにも嬉しそうに。

早朝の、まだ水がきれいだった「白砂川」で、変電所の排水が暖かいらしく、花チャンが体を洗っているのを、父と二人乗りの自転車で奥玉の親戚の家に行く途中に、自転車の荷台から見た事もあった。

後に、丸山明宏が元祖「シスターボーイ」と呼ばれて当時の芸能ジャーナリズムを騒がせた時、僕達男の子の間では、「シスターボーイの元祖は花チャンジャローガ(だろうが)」と憤慨したものだった。

ニスケの子供の父親は花チャンだという噂だが、それに現に横穴でニスケの母子と一緒に暮らしているのだが、花チャンは自分が女と見られる事が喜びなので、ニスケの母子と一緒に行動することはなかったし、一緒のところをを見られるのも極力嫌がっていた。

その年下の男の子がバスに轢かれた。事故現場に行って見ると、すでに遺体にはゴザが掛けられ、何故か上の子供はいなく、母親がとても小さい人だったけれど、遺体の前で号泣していた。身を心もここにあらずという感じで、天を仰いだり、地面をこぶしで叩いたり、ワァワァと号泣していた。(北朝鮮の金日成が死んだときにニュースで泣きわめく女性達を見て、このときの母親の様子を思い出した)

バスが現場の前に止まっていて、運転手と警察官が喋っている。警察といっても事故の直後だから、近くの交番の警察官だろう。大人や子供がゾロゾロと周りに集まって見ていて、即死らしく遺体にはゴザ(ムシロではない)が掛けてあって、その前で母親が髪を振り乱して号泣している。そういう状況の中に小三の子供の僕が入って行った。

バスの運転手と警官が話している所に近づいて、二人の話を聞いていると(何故こんな事を覚えているのだろう…)「後輪で轢いた」とか「子供がすーっと飛び込んできた」とかと話している。前輪か後輪かは、たぶん事故の責任の問題があるのだろう。前輪では運転手の不注意という事になるし、後輪では見えなかった事になる。そんな事を淡々と警察官と話していた。

後ろの方では、事故を目撃したのか運転手から話を聞いたのか、訳知り顔のおじさんが「後輪で轢いトルケン(ているから)運転手は悪ルーネーケンノー(悪くないからなあ)」とか、おばさんが「ナンデか(何故か)パーンとユー(いう)ふうせんの割れヨールヨウナ(たような)音がしたがー」とかと喋っているのが聞こえた。そのなかでも一番印象強いのは、少しはしゃぎぎみで、現在のテレビのコメンテ-タ-気取りのおじさん同士が話していた事だ。

ニスケの子供が死んだわけだが、大人達は「これで、見舞金はナンボ(いくら)貰エルンカノー(もらえるのかな)。10万カノー(かな)、30万カノー」と話している。昭和三一年前後のことだから今から五〇年前の一〇万円とか三〇万円とかいったら、普通の人にとっても大金だった。「三〇万は出ンジャロー(出ないだろう)」「三〇万も出リャー(出れば)ニスケの一家も大喜びジャロー(だろう)」などと言っている。(後の噂では二〇万円もらったらしい)

一方で、ニスケの母親は号泣している。少年の僕は、バスの運転手と警官の話とか、子供を突然目の前で亡くして呆然自失の母親とかを、初めて見る光景、初めて見る世界を見ていた。それらの出来事について子供だから、何も分らない。分らないけれど、大人になるという事は、凄いことだと思った。こんなに号泣して嘆き悲しんでいる人がいて、一方では淡々と現場の検証をしている。直前に見かけた僕と同じくらいの年令の男の子が今はもう死んでしまっているし、大人達は「大喜びジャ」などと言っている。凄いなぁ、この世界は…という驚きだ。少年の僕にとっては、忘れられない貴重な体験だった。

後日僕だけに、ニスケの子供がバスに吸い込まれていくように飛び込んでいった原因に思い当たる事があった。

事故のあった日の数日前、社宅で紙芝居の後か何かで男の子達で喋っていたとき、ニスケの子供二人がニヤニヤしながら、会話に加わりたい素振りで皆の近くに立っていた。その時、誰かが「自動車の通った後はエー(いい)匂いがショー(するだろう)」と言った。ガソリンやベンジンの匂いは当時の少年にはハイテクニカルなまだ出会った事のない真新しい匂いだったのだ。玉の本通りまで、わざわざ自動車が通り過ぎた後の排気ガスを嗅ぎにいく子供もいたくらいだ。それを横で聞いていて、ニスケの子供はその匂いを嗅ぎたくてバスの下に入っていったのだろう。

その証拠に事故の現場は「郵便局前」のバス亭のすぐ前だ。バス停で止まったバスが動き出した直後のまだスピ-ドの出ていない時にもぐり込んでいったのだろう。そうでなければ、発車まぎわのバスの、それも後輪に轢かれるということがあるだろうか。

学校に行ってなかったもう一人のニスケの子供の人生を含めて、その後の花チャン一家の人生はどうなったのだろう。

時代は変わり、玉の町に四軒もあった映画館も無くなり、造船所の社宅も無くなり、商店街はさびれ、バスも今は違うルートを走っている。

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