(2)超越(18頁)
僕は意志が強いように思われているが、その事は私の性格とは無関係なのだ。自己の内部に超越を抱え込んだ人間は、それを行動の最上部に置くので、他の事をさておいてそうせざるをえない。
自分一人の場合は自己責任で問題ないのだが、困ることは家族内で、違う「超越」を持ち出された場合、その超越と僕の超越がぶつかったときに困る。芸術、真善美は、私にとって超越だと思っている。ところがたとえば主婦は、家庭が超越なわけだ。
戦後一時期「女性とストッキングは強くなった」と言われたけれど、「家庭」の超越に対抗する超越を男が持てなくなると、当然、この家庭の超越に負けてしまう。
たとえば「忠臣蔵」の事件が今現実に起こったとしたら、男からはともかく、主婦からは絶対笑いものになるだろう。自分が赤穂浪士の一人として、女房に討ち入りの決心を話したとすると、彼女はきっとこういうだろう。
「あんた馬鹿じゃないの。上司が討ち入りするからといって、なんであなたが一緒に討ち入りしなくてはならないの。退職金を少しでも多く貰って、さっさとやめるのよ」
社長が親会社に意地悪されたからといって、その社長の不始末で会社がつぶれたからといって、そのためになんであなたが仇討ちをしなくてはいけないのよ」
「残された家族の生活はどうなるの」
主婦は、この論理だ。
たとえば、かって隠れキリシタンの「踏み絵」があったが、踏まなければ拷問を受けて殺される。これにしても、女房がクリスチャンでなければ(実際にこんな例はないのだろうが)「あんた、踏むのよ」と言う。「簡単じゃないの。踏んでおいて、コッソリ蔭で信仰すればいいことでしょう。踏んだからって何なのさ」と言う。こういう論理で全部くるんだ。家族思いで、稼ぎがよければご主人の仕事は問はない。たとえ泥棒でも、という訳だ。
走り高跳びの話をいつもするが、ここが地面だとすると、芸術は地面から高く跳び上がりたいために、地面を踏み切って「どれだけ跳ぶか」という事を日々やっている。地面とは日常。稼いで、食べて、家庭を持ってという日常。そこから「跳びたい」わけだ。
超越的なものを自己の内部に持って人生を送っている人たちの多くは、生涯独身だったり、女性関係や家庭(人間関係までも)がうまくいかなかったりする。芸術家、哲学者…すぐに、次々と名前が浮かんでくる。