(52)記憶法(188頁)
先日(2005年6月)、故郷で中学の四五年ぶりで初めての同期会に出席した。その時皆が僕の子供のときの記憶力の良さに驚いた。僕の記憶というものは、シーンで憶えている。だから、記憶が消えないのだろうと思う。
子供の時にテレビで見た(『街のチャンピオン』か『私の秘密』という番組で)記憶術は、たとえばいくつかの言葉を並べて記憶して、その後順番に、全部を言っていく。テレビの番組では、100個くらいの単語を数分で覚えて、言った。
それを見て、僕が小学校で流行らせたゲームは、「リンゴ」「富士山」「パイプ」といったような関係のない単語を5つ書いて、皆に廻す。ちょっと時間をおいてから、答えを別の紙に書いて当てっこするわけ。記憶するコツをテレビで見て知っていたから、このゲームで僕はダントツだった。その方法とは、視覚的に覚えるか、ストーリーで覚えるかだ。
「リンゴ」「富士山」「パイプ」とあるとすると、大きなリンゴの上に富士山の模型が乗っていてその横にパイプが突き刺さっている形象をイメージする。さらに、次に何かあったら、またそこにくっ付けていって、全体で一つの形象を記憶する。そうすると、五個覚えることが一個ですんでしまうのだ。
それが空間的な方法で、もう一つの方法は文学的方法。ストーリーとして覚えるわけだ。リンゴを食べながら、富士山に登っていると、道にパイプが落ちていて…というように、次々とストーリーに沿って単語を加えていって、一つの話として覚える。これは確かタモリがテレビの『笑ってイイトモ』でやっていたが、彼の方法はストーリーで覚える。
だから記憶は、一つひとつバラバラにしないで、一つのストーリーにまとめるか、情景を映画のワンシーンのように絵としてイメージするとなかなか忘れない。
そしてこれを、人に話したりすると、塊としてもう一度トレースしていくわけだから、それによって余計忘れなくなっていく。一度話す事によって…。だから、僕が子供のときの事をよく覚えていると言われるけれど、そういう事なんだと思う。
皆が、僕の場合の「かすがい」(【注】かすがい)を持っているのだ。これは消えていないし、一生消えない。自分が意識しようとすまいと認識しようとすまいと、自分の目に写ったものは、ビデオテープのように、どこかに隠れているわけだ。それを、上手く引き出せるかどうかの問題だ。