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(51)唯美主義者マチスと、実存主義者ピカソ

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(51)唯美主義者マチスと、実存主義者ピカソ(185頁)

マチスの、「芸術のための芸術」と言うか、ただ美しいものを目指すともいえる態度は、今では認められているけれど、僕の学生時代は否定されていた。第二次大戦中に、娘と奥さんがレジスタンス運動の容疑でドイツ軍に捕まって、マチス本人はもちろん色々と心配しただろうけれど、彼の当時の作品には全然関係ないというか影響しなかった。そういう態度に周囲の反応は、当時は否定的だった。ピカソは、『ゲルニカ』がいい例で、自分の周りの状況に即反応して作品の中に取り入れた一方、マチスの場合は、周囲は「なんだ、こいつは…」というわけだ。「こんな大変な時に、よくものうのうと美しく描けるネ」と思われた。でも、僕の考えでは、それこそが素晴らしい。画家はそうでなければいけないのだ。

ピカソはそれに比べて実存主義的だ。だから自分の人生の周辺がそのまま作品に投影される。その時に付き合っていた女性とか、日常の中の状況が作品化され、徹底して実存主義的である。そんなモチーフでも画面を造形化していくピカソの腕力は素晴らしいけれど、僕はそこの所がマチスよりピカソは、ちょっと落ちるなと思う。

一生の全体の仕事を比べればピカソの方が、才能が上であると思うが、一瞬の記録は、瞬間風速というかアスリートの記録は、マチスの方が記録はいいと思う。

マチスは、晩年にヴァンスのロザリオ礼拝堂の内部装飾の仕事を手がけた。そのマチスの仕事に対してピカソは、あくまで実存主義的だから、非常に否定的な意見であったようだ。

フランソワーズ・ジロー(ピカソの『花の女』のモデルの女性)の「ピカソとの生活」という本で読んだのだと思う。フランソワーズ・ジローは、同級生の画家と付合ってピカソの元から離れていくのだが、ピカソとのその後の確執も、お互いの厳しいやり取りも非常に面白い。ピカソとジローの別離のいきさつもケッサクだけれど、その本の中に、マチスの教会の仕事についてのピカソの反応が書いてあるはずだ。

実存主義は「超越」を認めない。「真善美」を「内在」と考える。だから、行為の原因は主体だと言う。自分の行為の主体、行為の原因となるのは自分だというわけだ。その本の中で確か、その実存以上の「超越」を措定してマチスが芸術制作をするという事をピカソが問題視していた、というような事が書いてあった。その記憶が正確かどうか分らないけれど、僕はそのような印象を受けた。教会の仕事をするという事に対して、ピカソはジローに向かって、何かそのような事を言った部分を読んだと思う。

ピカソは、根っからの実存主義者だから凄い。

人は自分が死んだら、残された者は、遺産を含めて死後の処理が大変だ。ところがピカソは、何も手を打っていない。実存主義では、死ねば終わり。世界も実存の内に在って、その実存が無くなるわけだから、死後の、「世界」そのものの存在を認めていないのだから、死後をなんとかなんていう対応は、何もしない。実存主義においては、あくまでも世界は、実存の内に在るわけで、客観世界が実存の外に超越して在るとは考えない。それぞれの、実存の中に世界があるので、自分が死ねば世界も終わりだ。だからピカソは、一切何もしていないはずだ。おそらく、遺書だとか、死んだらどうするどうするとか、自分の絵は…とか、その辺の事を、ほったらかしにして死んでいるはずだ。その前に、「きちんとしておいた方が、いいんじゃないですか」とか、色々と外部から助言があっても、彼は何もしなかったようだ。

このへんの事実関係も、本当かどうか僕の解釈だったり間違っているかも知れないけれど、要するに自分は実存主義だという事を、意識していたのではないだろうか。凄いもんだネ。ピカソも凄いし、マチスもまた凄い。

ピカソの『ゲルニカ』は一九三七年の制作だが、一九三五年のエッチングで『ミノタウロマキア』という作品がある。海から上がってくるミノタウロス(ギリシャ神話で、頭が牛で首から下が人間の怪物)がいて…これがピカソかな、左側にローソクを持った少女がいて…これはマリー・テレーズかな、この作品を反転すると、『ゲルニカ』と同じ構図になっている。もともと、版画の作品は左右反転して刷り上がるのだから、版の上では同じ構図だといってもいいだろう。

ちなみに僕は『ゲルニカ』は、ピカソの作品の中では、色がないし、大して感心しない。僕は、あの考え方がちょっと嫌だ。さらに、ピカソの絵のなかで一番ダメな絵は『朝鮮の虐殺』(一九五一年)だ。あの頃の絵(『戦争』、『平和』共に一九五二年)は、じつにつまらない。

僕の美意識からすると、そういうモチーフを、その種の動機で描いた絵はつまらない。やはり、「美」に向かって造形していかないとつまらないし、第一に美しくない。『ゲルニカ』や『朝鮮の虐殺』とかの一連の、非常に社会的政治的な、あるいはメセージ性のある絵というのは決して成功していない。

ただし『ゲルニカ』の、一連の周辺のエスキースは、また素晴らしい。『ゲルニカ』本体よりもよほどそちらの方が造形的で、いい絵だと思う。『泣く女』は大好きな絵の一つだ。

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