(36)哲学への興味(112頁)
四〇代になって、急激に哲学が面白くなってきた。
僕は、一〇代の後半から、実存主義によって救われ、その後の生き方のフオームを実存主義と決めていたので(【参照】『続・夢の中の空間』)、哲学よりも小説や映画の方が面白いと思っていた。ところが三〇代のの後半になって、自分の生き方のフォームの実存主義と、目の美意識が少しずつズレてきた。生き方のイズムと感覚(美意識)のズレだ。自分が美しいと感じる絵が実存主義的ではない事に気付いたのだ。
乱暴にいえば、僕の解釈で間違っているかも知れないが、実存主義は世界を「内在」と捉えるので、「超越」的存在を認めない。そのため、実存主義の弱点は、実存の関わる余地のない客観的な真理(科学、数学)、倫理(善)、芸術(美)、他者、の存在が論理的にうまく説明できない事だ。実存主義を美術史にあてはめると、主観表現の系統、ダダイズム、シュールリアリズムや表現主義になる。一方、僕の惹かれる絵は、世界の存在を自己の外側に超越と措定する、自然主義リアリズムや印象派の客観描写や、美を超越的存在と措定する唯美的な造形の作品に惹かれていった。自分の主義がどうであっても、画面の方から美しさが勝手に飛び込んできて、僕を感動させるのだからどうしようもない。
そのあたりから、次第に実存主義からの脱皮を考えなければ、絵の方がたちいかなくなってきていた。そして、そのころから次第に読む本が文学から哲学、物理学、数学、に少しずつ変わっていった。
哲学の入門書やFMラジオの放送大学を聞いたりして「現象学」に出会った時から、急激に面白さが増してのめり込み、そのころ友人に長電話を掛けまくりヘキエキされたものだ。何故現象学かというと、僕は子供のときから、どんな事象にも自分で考えていたわけだ。その事象に対するアプローチの仕方が、現象学的だったのだ。
「なーんだ。そーだったのか。…僕は、子供の時から哲学をやっていたんだ」という感じかな。
いっきに哲学の堅固な壁が溶けてしまった。
ある事象に対して、そこには構造があって、構造を形態化することで本質が浮かび上がってくる。勝負に勝つコツとか、トンボを捕る裏技などせっかく自分で見付けた方法も、そこだけで終らせたらつまらない。そこで終らせたら、無駄な知識で終ってしまう。
後年、フラクタル幾何学やマンデルブロー集合を知って、僕の子供のときの直感で漠然と描いていた世界観が的外れではなかった事を知った。つまり、部分と全体、ミクロとマクロ、一見関係のない事柄など、世界に存在する事や物のゲシュタルト(全体の形態、全体性)はすべて似ている。
そこから、トンボだけでなく、世界とはこういう風になっているんだと類推する。数学も世界の表象なんだ。自然数、実数、負の数、虚数、複素数、4元数、多元数・・・これらの存在は数学だけの事ではなく、世界も自己もそのように存在しているはずなんだ。
若い人にとっては、これから参入する社会そのものが未知の世界でだろう。これから社会に出て行くわけだから、社会そのものが訳が分らなくて不安じゃないの。今は訳が分らなくても、きっとギンヤンマが捕れたように、その社会の構造を努力して理解すれば、社会に出ても何とか生き抜いていけるだろう。
現象学とは、ガリレオが物にとった物理科学の方法を使って、精神や文化や社会を解き明かそうとする「方法論」なのです。原因の原因、結果の結果、の両サイドを切り離し、目の前に起きている現象だけを解析する。「落ちるとは何か」「何故落ちるのか」という原因の原因を問わないで、また「落ちた結果はどうなるのか」という結果の結果を問わないで、「落ちるという現象はどのように事が起こっているのか」を精査する。この方法を人間に使う時には、同じように、主観と客観の両サイドをエポケー(判断停止。スイッチを切る)して、主観と客観が出会って起こった、その現象のみを分析する。
そういうアプローチの仕方を、僕は子供のときに、いち早く遊びの中で見付けたわけだ。もし僕に才能が少しあるとしたら、それは、IQや計算能力や知識ではなくて、方法論とアナロジー(類推、比喩)への感受性の部分だろう。
だから、銀ヤンマのことは、それがどうしたんだというような話だけれども、僕にとってはギンヤンマも、うなぎも、人生の中の重要な知識というか勉強だったんだ。