(32)魚はいつも上流に顔を向けて泳ぐ(100頁)
もし、自分がマラソンの選手だったらどうするか。もし、オリンピックに出場して金メダルを取ったら…スポーツ選手にとってそれがゴールだったはずだから、それを達成したら、次に何をするかというと、それはやっぱり、走るしかないんだ。他には何も、することはない。その後の競技で記録を出さなければ、次のオリンピックにも行けない。競技者として現役を続けるかぎり、走ることしかするべき事は何もない。
では絵描きは何をするんだ? 絵描きも、同じだと思う。過去の自分の絵のコピーを描く事はなさけない。あくまで、自己の記録の更新を狙うべく、負荷をかけたトレーニングに専念すべきだ。いい絵が描けなければ話にならない。他に何をするの? 金銭、名誉、生活…それらは、いい絵を描いた結果としてもたらされるもので、それらのために日常生活を送るのは、スポーツ選手と同じで、話が逆なんだ。
スポーツ選手は、オリンピックで金メダルをとればCMの出演依頼も来るし、色んなお金も附随して入ってくる。しかしそれは、金メダルの結果としてのことで、金メダルをとった後も、やるべきことは負荷をかけた練習しかない。少しでも記録を延ばす努力のほかにやるべき事はない。
画家も同じだ。だから、自分がどの程度の記録を出し、過去の画家も含めて他の画家達がどの程度の記録を出しているかをきちんと評価さえできれば、するべきことは、他の画家の記録を抜いて世界新記録に挑戦し続けることに尽きるのだ。やるべき事はそれしかない。他に何をしろというの?
ところが一般の人生は、棋士やスポーツ選手のように、勝負や記録のように客観的な評価が外部に出ないから、努力のベクトルが分らない。違う方向でお金儲けをしたり、違う方向で出世したりしている人をみると、ああなんだか一生懸命努力する事もないんだなとか、自分の努力の方向は違うのかなとか…かって、こんな迷いを持たなかった人はまれだろう。
画家は、自分の位置と進むべき画のベクトルを見極められれば、棋士やスポーツ選手と同じだ。そのベクトル上の上位の画家を目標にして、それを乗り越え、たとえ無謀でもそのベクトルの頂点に挑戦し続ける。だから、他にどう考えたって、記録を延ばすために練習して、今のフォームをチェックしたり、より良きフォームを試したり、あとは何をする?
だからピカソやマチスなどの、いろいろな展覧会に行って、他人事のように見てきて、自分の絵に返って平気だというのは、僕には理解できない。
つまり、自分の絵の記録と、そのとてつもない記録を持った人達とを、きちんと評価できていないから、平気でいられるんだ。正確に評価できたら、もう、恥ずかしくて自分は芸術家だなんて言えなくなってしまう。
だから、他人の絵に感動すれば、そのままではいられない。それが丁度、僕が美術市場で売れっ子だったときに、そういう経験をして、このまま何十年、一生かかってやったってこのベクトルでは無理だな、という事が分ったんだ。だからある決断をしたというわけだ。その頃僕が作ったアフォリズムを二つ。「魚はいつも上流に顔を向けて泳ぐ」、「ライオンは風上に顔を向ける」。
ついでにもう一つ、還暦を来年迎える歳になって、「鮭は死ぬ前に川を昇る」。