(47)『トロッコ』と『抵抗』(174頁)
中学2年の国語の教科書に、芥川竜之介の小説『トロッコ』(1922)が入っていた。国語の授業中にそれを読んで、自分の体験を思い出した。「あれ~?このトロッコのような事が、僕にもあったぞ…」。
トロッコの話とは、こうだ。線路工事が終って、まだ現場に器材が残っている所で主人公の少年が遊ぶ。その描写が何ともすばらしい。トロッコを押し上げていって、手を離して飛び乗ると、耳もとでビュンビュンと風を切る音がする様子など、生き生きと臨場感があって、主人公の少年に感情移入した事を覚えている。
ある日、土工の若者に付いてトロッコを一緒に押しながら、かなり遠くまで行ってしまう。時々下り坂を滑り降りる。そうするうちに、とんでもなく遠くまで行って、暗くなって、最後は心細い思いをして家まで帰って行く。その少年「良平」の心理が、水晶の山での小二の僕の体験した時とそっくりだ。それで、小学生の時から本を読むのは好きだったけれど、その時あらためて感動した。「いやぁ、才能のある人っていうのは、僕が分らない事まで、自分では何か不思議だなぁというくらいしか分らない事まで、少年の心理の微細な所まで、僕の代りに素晴らしい文章で表現してくれる。凄いなぁ」という事だ。
芸術って素晴らしい。文学、絵画、音楽、映画・・・芸術はすべて、おもしろくて、いいものだとおもったね。そうやって、自分の心の内部にいちど道がつくと、また次々と同じような事に出遭うものだ。映画もよく覚えている。僕は子供の時からもともと映画が好きだったが、それだけでなく、父親が造船所の現場で割といい地位にいたから、下請け業者の関係で、映画や興行のただ券がいつも家にあった。その券を持って、僕はしょっちゅう映画館に行っていた。
玉の町には、洋画と松竹の「衆楽館」、洋画の「太陽館」、大映と東映の「大映」、の三館、後に日活と東宝の「セントラル」が出来て最終的には四館あった。その映画館で無作為に次々と観る。名画も観れば、チャンバラ映画も観る、もう何でも観るんだ。その時は名画と知って観たわけではないが、名画というのは記憶に残っているから凄い。
僕がまだ三歳くらいのころの記憶。なぜ三歳と分るのかといえば、弟が生まれたのは、僕が三歳半の時だから、それからの推理。ちなみに、弟の生まれた前後の記憶はハッキリと残っている。その日は、病弱だった越智のオバさん(母の姉)
が珍らしく家に来て、天井から紐で吊るして、ゼンマイを巻くとプロペラが回って、ぐるぐる廻るブリキの飛行機を買ってもらった事と、オバさんが「コーチャン、オバサンガ、コノコヲモローテモエエ(浩ちゃん、オバさんがこの子を貰ってもいい)?」と僕に聞いてきたので「ソンナンイケン(そんな事は、いけない。駄目だ)」と答えた事が記憶にある。
還暦近くになると、過去の記憶のディテールを掘り起こすことは、脳の内部に存在する実存的時間への旅といってよく、楽しみの一つなんだ。
それで弟の生まれる前の事、母が僕を連れて「大映」に映画(たぶん母もの映画)を観に行った。当時「大映」映画館はスクリーンに向かって左の壁際は桟敷席だった。その席とスクリーンは同じ高さで続いていて、僕はスクリーンが不思議だから、スクリーンの前に歩いていくと、自分の体にも映像が映って不思議でたまらない。観客が怒ってどなっても自分の事だとは理解できないのでスクリ-ンの前からどかないでいると、僕を連れてきた母が「すいません、すいません」と皆に謝りながら、僕を抱きかかえて桟敷席に戻る。戻っても、さっきの興味が消えたわけではないので、また隙をみてスクリーンの方へ行く。そんな事を二、三度繰り返した記憶は、幻影だったのだろうか。まるで映画『ニュー・シネマ・パラダイス』の世界だ。
中学3年生の時に「太陽館」で『抵抗』(―死刑囚の手記よりー1956年制作)という映画を観た。監督はロベール・ブレッソンで、もちろん白黒映画。死刑囚が独房から脱獄するまでを克明に描いている。
全編モノローグが続いて、画面は脱獄までのディテールをしつこく、くどいくらいに追っていく。食事の時に隠したスプーンで作った刃物で、ドアの四角い継ぎ目を少しづつ削って外すところなどを、延々とやるんだ。もちろん、そういうちょっと変わった映画だという事は分った。チャンバラ映画とか西部劇なだとは違う。そして、映画の最後のシーンに何しろ僕は驚いた。
延々とやって脱獄は最終的には成功するのだが、成功して塀の外に出ると、塀から降りてスタスタと、ただ歩いて行って終わる。何と言うか、やはり同様の感覚なのだ。最後の場面は、再確認していないが、とにかく歩いて行って終わり。