(21)社会の不正と直接闘わない(104頁)
つまり悪人が一人いると、お金がかかる。「世界はそうなっている」のだから、形を考えるとそれに反することは全体にマイナスになる。一人の貧(フリガナとん、むさぼり、貧欲)・瞋(フリガナじん、自己中心的な怒り)・痴(フリガナち、無知迷妄)が全体の形に歪みのテンションをかける。しかし、歪みはほんの一時的なことだ。本来、世界存在の構造を現わしめている法は「真・善・美」なのだから、その構造に反した形は撓(たわ)められる。「悪の栄えた試し無し」である。お釈迦さまは、悪因悪果、善因善果という。悪因苦果、善因楽果ともいうが、そういうことだ。闘うのは自分の中の三毒貧瞋痴で、それを八正道(正見、正思、正語、正行、正命、正精進、正念、正定)で壊滅(えめつ)しなさいと、そうすればその畢竟(ひっきょう)が涅槃ですよというのが、お釈迦さまの教えだ。
少し前に、収入の多い芸人の親が生活保護を受け続けていて問題になった生活保護の不正受給、不正だと分かっているのに受理している人がいたり、オレオレ詐欺、振り込め詐欺をする人がいる。しかし、そういうことをする人のことは、その人たちと相対して闘うなということだ。仏教ではその人たちは悪いことで自らが報いを受けることになっている。そういう人を相手にして、何かをしなくてもよいのである。
僕自身が直接被害を受けるとしたら何らかの対応が必要だが、自分から出ていって社会のそういう不正と闘わなくていいのだ。なぜなら不正受給をしても、その人の人生を考えると、せいぜいパチンコに行くくらいだ。せっかく、この世界に現成して、それも日本という奇跡的な国に生れてきたのに、そんな一生を送っていいと思うだろうか。不正受給で不当なお金を国からチョロマカしても、あるいは振り込め詐欺や保険金補償金詐欺をやってお金が入ってきても、その人の人生のトータルや家族や子供への影響を考えたら碌なものではない。可哀想なその程度のことだから、政治家や行政警察は別として、一般人は相手にしなくていい。
現にそうなっているのだ。中国でも韓国でもウソをついたら、慰安婦捏造問題にしても途中まで成功したような件だって結局はうまくいかない。中国もあんなに資金を使って南京大虐殺等の歴史工作をしようとしても、一部のある意味「形の悪い報道」フェイクニュースは、きちんと報いが来るのだ。
要は人をどうこうするのではなく、自分がしっかりとあるべき形で生きていたら「廓然無聖!」なのだ。日本のように大半の人が真面目に生きていれば、良い国になるのは当たり前である。ならず者や詐欺師が指導者の国は、その国が報いを受ける。世界中に貧富の差があって、さらにパナマ文書のように金持ちが、つまり上の一部の連中が自分の財を守ろうとするのは、僕のメンコ体験と同じことだ。そのお金を投資して儲かるのはモチロンいいけれど、彼らは儲けることよりも、それがゴミにならないようにずっと一生必死なのである。
ある通貨で持っていても通貨自体が変動するのだから、昔のように金本位制度で通貨が金や銀に交換できるのではない。そうすると莫大な価値の財産を持っていると、その実質的価値を減らさないように、減らさないようにと考える。これは、穏やかでない。
一部の人だけ金を持てば持つほど、価値は下がるのだ。全世界で一人だけがある通貨全部を持っていたら、その通貨は価値がない。そういうことを僕は、経済というより「形が悪い」と考える。世の中では形というか構造がとんがっていて美しくないものがある。全体がきれいに、オールオーバーに美しくならなければならない。そうすれば、全体(国)も部分(国民)も幸せになる。権力とお金が一部に集中している、つまりとんがっている国は、国民がその分不幸だ。
富というのは、パナマ文書が氷山の一角で、どれだけのお金が隠されているのだろう。それはやはり世界に還元しないと、血液と同じでお腹に脂肪が溜まり、血液に血栓ができたりするのと同じことになる。動脈は全ての細胞一つ一つに血を届け、静脈で回収して、一個一箇の細胞も一人の人間も同時に健やかに生きていけるので、血液が全部にスムーズに循環しないと、結局はそういう人や国が自滅する。ヨーロッパの歴史を見てもそうだった。全元論の考え方を持った人が出て、そういう人たちを凌駕しないといけない。