過去の【画中日記】から
2010.07.26【2010年6月27日 越智氏とアトリエで】
昨日、アートヴィレッジの浜田さんから同じくアートヴィレッジの越智氏が6月27日に私のアトリエに来た時の雑談をICレコーダーに録ったものを文章におこしたものをメールで送ってきてもらった。これを下記にアップします。
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〈O)…越智発言。 他は岡野の話〉
これを、音声のテストにしよう。
テープと違ってパソコンに保存できるから。
昔みたいにカサを取らないから。USBメモリーに保存しておけばいいから。
気にしないで入れておけばいいや。
O)音楽も本も、近ごろみんなデジタル化していますね。
何年か前に新潟の人が来て録音した。竹内さんという人。
それをダビングしたテープがあるのだけど、何年かぶりに聞くと面白いね。
違うこともあるし、しかし、延々と(テーマが)繋がってきているから面白いね。
こういうことは本と同じで、日記と同じで、取っておこうかと思う。
O)(個展に)「毎日、行くわけですね。
そうそう、誰も居ない場合は、ギャラリー仁家の小沼氏に「お前、聞け!」と言って。
寝床の番頭と同じで。逃げても、それでもね。
O)これらを見ると、作品が変わってきたかなと…
いや変わっていない。意識は変わったけど。
これが虹になったわけだ。 これ見た?
少し前にまだ岡野浩二のころの。今年のだけど、こっちはメビウスの輪の。
こっちは光の虹。ブルーも描いているけど、こっちは虹で。
4箇所、こっちは3箇所。
それで5月からね、東伊豆の片瀬白田という所に小さい借家を借りて週に半分、火・水・木とそっちで描いていた。
2年くらいは借りようと。まあ、場所はそのうち変わってもいいし。
あとは状況次第だね。絵が売れればそのままでいいし。
「稲取」と「あたがわ(熱川)」の間。下田のちょっと前のところ。
O)(下田の)ちょっと前と言うと、かなり南に行くのですね。
下田というのは、勘違いしていたけれど、先端じゃない。
だいぶ東のほうなんだ。先端まではまだ、だいぶある。
O)途中に観光地がありますね。
あそこは、二箇所あってね。熱海と伊東の間と、熱川のあいだと。
小さい街で、駅からは歩くとちょっとある。2キロくらいで、歩いても行ける。
O)週に半分ですか。
イーゼル絵画をやるんだ。ブログに全部書いてあるんだ。
片瀬白田日記と言ってね。
O)ブログ読んでから来るんだったな。
(HPの写真を見ながら)
ここは金網が貼ってあって。ここはトンネルになっていて。…
外で描くと難しいんだよ。場所が。
どうしてかというと、イーゼルを立てる場所とか。引きがないといけないし。
虫とか風とかいろいろあって。昔のように道路では描けない。
ロケハンをしっかりしないと難しい。
それと、最初はね、アクリルで描いてから油にしようと思ったけれど、
アクリルは外で描くとすぐに乾いてしまうから、忙しくて、
もうこれはすぐダメだと思って、油絵に変えた。
下絵を水彩でスケッチしてではなく、ダイレクトにキャンバスに油を…。
昔の方法が一番いいんだ。
すごいもんだね。豚毛ので、こうやるのがいい。
アトリエ絵画とはだいぶ違う。
O)楽しいですね
イーゼル絵画に尽きるな、やっぱり。この前ルノワール展があった。
その前に横浜のセザンヌ。あれらを見ると圧倒的だもの。作品の美しさが。
現代絵画とか、アトリエで描くコンセプチュアルアートとか。
実際に目の前のものを描写する絵と、意識を使う、つまり記号を使ったりするけれど、それは全く違う。
ルノワールとかセザンヌとかを見ると、どんなに言われようとも芸術はこっちだ…と。
それで、急きょ、色々考えて、小豆島に行こうかなとか、福江島とか。
でもそうなると大変だから、まずは安い借家ならいいからと借りたわけ。
そうすると面白い、面白い。
日光、光を前にすると、そういう色んなことなんて飛んでしまうね。
芸術の、コンセプチュアルというか、脳を使う前に「目ん玉」を使う。
(目は)認識の一番前、肉体の初期のもので、それが芸術だなと思う。
他のもいいけど、ヒエラルキーが落ちる。
セザンヌヤルノワールを見ると、やはりね。
O)国立国際でルノワールやっている。
ああ、まだやっているだろうね。
O)新刊の本を持ってきました。
おお、虹色じゃないの。
O)歴史学者が書いたから史実に忠実です
いま白田に行くのに、ロケハンも含めて情報を得るために検索していたら、「下田街道」というブログと「やまいが」というブログがあって、それは「山さ行がないか…」という略。マウンテン自転車で古道や廃道の、そんなところに突っ込んでいて、写真と経過の文章で、それがとても面白い。
下田街道のほうは下田の先生がやっていて、古道や、石の石彫場というのか、鉱山のあるところを、かなり克明に描いている。ブログだから、つまり、なんになるの?というと、何にもならないけれど、面白いからやっている。
いまそれが、ブームだよ。
廃墟ブームも含めて、鉄道は廃線。あれはメジャーになるな。
最近、本が出ている。ブログを見ると、そういう本が最近出ている。
灯台は灯台で、全国の灯台を全部回ってい人がいる。
昔、僕がやったことと重なる。昔と今という比較があるし。
前、神威岬をよく描いていた。北海道に行ってすぐのころ。
あそのにはトンネルを通っていく道と、山の上の道とがあって。
トンネルの道は、昔、燈台守の家族が住んでいた。それで波が高くて何かの事故があったらしい。家族が子供とかが亡くなった。それで、トンネルを人力で掘って、通れるようにした。
そのトンネルが、そういう経過で、途中でまだ曲がっていたりしたが、今では通れなくなっていた。たぶん通れるけれど、万が一の時に責任問題があるから、通れなくしている。
山側の道も、行く人はまあ、自己責任で行くわけだ。
なぜ面白いかと言うと、道というのは、ものすごく人生に似ている。
以前に『杣径』にも書いたが、ものごとというのは、関係の輪を外れるとだめになる。
作るのも大変だけど、維持するのが大変なんだ。
あっという間に、無化してしまう。
使わなくなったら、廃墟と同じで、廃墟も美しさはほんの一瞬で。何年後かにはもう…。
軍艦島のこともずいぶん調べたけれど、今は全然だめ。いま開放しているけれどだめだ。
生活のある美しさとは違う。
だからサッカーでも、こんどの「はやぶさ」でも、あれを作るのも大変。
現実に「なせ!」ということ。
たとえばあなたが、「あの惑星に行って、あそこの砂を取って来い。予算はいくらでもつけるから…」と言われても、受ける人は少ないだろう。やらしてくださいなんて言う人はまず少ない。
道路でも同じで、橋をかけるとか、トンネルを作るとか、ビルを作るとか、それを上の人が取ってきて、「君、設計ね」なんて言われたらたら、道路なら線を引き、水が出たらどうするかとか、全ての人がサッカーと同じで、完全に仕事をこなさないと、いけない。
「いや~失敗しちゃった!」なんていえない。
「ネジ。ちょっと、これ… いいや!」なんて、言えない。
一人ひとりが、サッカーのゴールキーパーから、全員、監督から、一人ひとりが完璧に仕事をこなさないと、力を持っていないと、ものごとは成就できない。
道路一本もできない。建築もできない。
そしてやったからと言って、そのまま放置すると、さっき言ったようにすぐに廃墟になったりする。すぐに自然は廃道になる。自然は、がけ崩れとか、岬の回していくところが地すべりとか、そういうのがつき物だから、メンテナンスが必要である。
そういうことを経て、現実の日本がある。
だからブログを見たり、道路の現実とかを見ると、いまの日本は凄いね。
そういう人たちが道を作り、あるいは鉄道を作り…。
あれぐらいの事故でね、この前、中国であったらしいけてど、線路に石が一個あっただけで、脱線したりする。道だって、ちょっと何かあったって事故になる。
それなのに、何もなく行けるということは、それは素晴らしいことだ。
はやぶさでもサッカーでも、凄いことだ。
しかし、これも放っておくと、すぐダメになる。
ここで予算をカットすると、すぐに情報が拡散して、また一からになる。
絵でも、人生でも、会社でも、本でもなんでもそう。
作るのも大変だけど、過不足なくみんなが仕事をして、やっとできる。
しかし、維持・発展させるのはもっと大変。
これはすべてに言えるね。
エネルギーと情熱を、ずっと持ち続けなければ国でもそうなる。ギリシャも。
ドイツもあれだけの音楽家が出たのに、いまどうなっている?
中国も、陶器とかあれだけの文化を持っていたのに。
陶器といえば中国のはずだったのに、いまどうなっている?
フランスだって、絵画と言えばフランスだった。
ギリシャの哲学もどうなっている?
作るのは、その時代の天才が作るが、それを伝承するのはもっと大変。
現実に描いて、風景を見ていると、もういま、みかん畑なんか、手が入らなければ、草だらけというより、すぐに病気になってしまう。
下がはげて、上だけちょっとあるような夏みかん畑。
田んぼもそうだし、家もそう。もちろん、脳の中もそう。
体も、脳の中も。だから、頑張らなくちゃ! 維持するだけでも。
放っておくと、必ず、退化する。エントロピーの法則に支配されるから。
O)伊豆までどれくらい?
大磯まで行って、そこから車で。
こういうことで言えば、何事も作り上げるのも大変だけど
そこからの維持の方向を間違えると、大変。
O)そういうのは私も苦労します。
デジタル書籍とか、アイパットとかが出てきて。
デジタル化が進むほど、先生のようなアナログのアートの部分は貴重になるというか…
変わらないともいえるでしょうけど。
それは記号論で話したけれど、デジタルはものすごくいいけれど、記号は抜け落ちるところがあるから、それで全部できると思うと大間違いだ。
ただし、デジタルというのは(便利で)びっくりするな。
情報を得るのに昔なら大変だったなと思う。一人で地図で情報を仕入れたり、僕の取材方法は、それも体験で身に付けていったが、色々やったんだよ。
車を使うべきか、使わないべきかとか。
車を使ってもダメ。車は視点が下だから。タクシーを使ってロケハンしても、どんなに走ってもいい所に出会わない。
視点が低いから同じパターンのものしか出てこない。
道路の、道が入ってくるのとか、こういうふうに出ているとかは分かるが。
鉄道はなかなかいい。鉄道から見ると、いいないいなという場によく出会う。
バスも一番後ろとかはいい。
そして描く時は、イーゼル絵画も座って描いてはいけない。視点が下がるから。
それで車をやめるだろう。
しかし、車をやめてバスを乗って歩きだすと、なんとも効率が悪い。何とかしなくちゃ。
で、自転車になるわけだが、しかしそうやって歩いていると、自分が探しているものが、こういう風景を探していたんだというのが、分かってくる。
たとえば岬は、あまり高いとダメ。低くてもダメ。前に木があっても見えない。いくつかの条件がある。まず狙いをつけたところの、各県の出先の案内書が、八重洲口にあった。今は、八重洲口と平河町に県のがあって、そこに行って、観光パンフレットを全部集める。
そこで狙いをつけてから、25000分の一の地図を買ってきて、こういうところにはこれがあるなと、地図で読める。稜線とか読める。
そこを中心に行く。そうすると、あまり外れない。
ここらならこんな感じだと、わかる。
O)すると外れない?
外れない。
自転車がいい。自転車はレンタサイクルを借りたり、観光地でないような場所は自転車屋に行って「ちゃんとお払いしますから」と言って、当時ならタバコ10箱とか、1000円くらいで借りて。
ところが今は自転車屋がなくなった。観光地でレンタサイクルがある代わり、自転車屋がなくなってきた。
あとは、自転車を送る。玄関にある、あれを送る。
そこに知り合いのうちがあったら知り合いの家とか、旅館とか泊まるところに事情を言って送っておいて行くとか、帰りにまた送り返すとか。
今は自転車が送れる。ところが昔は送れなかった。きっちり箱に入れないと送ってくれない。あんなのを1個ずつやっていると大変だから。ところがフットワーク(ダックスフントの引越し屋)だけは送ってくれた。あと、小さな引越し便にして送るとか。。
小豆島はそれで1週した。
あれを送って、玉野の同級生のところにまず送って。
そこからフェリーで行って、帰りに寄って。
そうやって苦労していたら、ところが今は違う。
りんこう(輪行)と言って汽車に、三角に分解して乗せる。
いまは送るのもそうだし、公共のところに乗るにしても、子供が乳母車でくるのと一緒で、何でも便利でよくなった。
で、デジタルだよ。
デジカメもそうだよ。最初、借りて使ってみたら、なんだ、こんな小さいのが、僕のニコンのF4のあれよりいいんだもん。僕もカメラは苦労したんだよ。
ハーフの簡単なのとか、色々やったけど上手く行かなくて。
そうやって何度も失敗しているから。重いけど仕様がないなと思って。
交換ズームと広角とか。
何度も失敗しているから。
昔、ワンテンカメラとかいうのもあって買ってみて全然ダメで。
だからデジカメだってそんなものだと思ったら、なんだ、デジカメは凄いな。
ばちばち撮っても削除できるし、パソコンにも全部入れられるし。
O)デジカメは買ったんですか?
デジカメはその人が使わないから借りて、実際もらったようなもので。
O)でも、作品の保存はまだポジで?
やっぱり、なんか気持ちが悪いから。
あんなもので、というのが、アナログ人間だから、バシャッとやらないと。
シャッターは、三脚使わないといけないよね。
O)デジカメも照明やるとよく撮れる。三脚ありますよ。
ネジが必要。レリーズはいいのかな? ガシャッとするの。
そうか、オートにすればいい。
なんか気持ち悪くて。一眼レフのワンデジ?
あれ、もって行くの大変だから、作品撮るだけでワンデジ買うのもなんだから…
ワンデジ、高いんだろう?
O)レベルによるのでしょうけど。10万前後かな。
私が失敗したのは、キャノンのユースを買ったら、普通のカメラのように重くて、持ち運ぶのが嫌になって。ズームで400倍になるんですが。
あれはあれでいい。
(ポジは)作品だけなんだけど、まあ面倒くさいけどまあいいや。
あるんだもの。
デジカメでは風景はいいけれど、ちょっと絵を描いていて不安なところがある。
全部データで読み込むわけだから、数値を読み取る時に、逆転する時に、紙焼きとかに読み取れないと、困る。グラデーションのところとかを読み取れないと困る。
『作品集』のときにもあったが、デジカメはつまり、オートだからピントが合わない。
ぼおっとしたものとか、何もない白い壁なんかはピントが合わない。
そういう数値を読み取れないと、こちらに変換できない。
その点は、アナログカメラでは見てやれるからいい。
ぼおっとしたグラデーションを、デジカメは読み取れるのだろうか、という不安がある。
風景はいい。風景はどこかに全部、ものがあるから、問題ない。
変換していくわけだから素晴らしいが、問題ないが、どうも絵に関しては、やや不安がある。
それは、僕も若ければやるけど、もう面倒くさい。今までのでいいのだから
O)作品集を作るときは便利ですよ。
ポジフィルムはどっちみち分解する必要があるので。印刷時はデータにするので。
ただし、印刷はパソコンのRGBをCMYKに変換すると若干、色の調子が変わるみたいですね。それを調整しないといけない。
その辺はまあ、not my business だから。
そちらの、専門家がいい仕事をしてくれればいいから(お任せ)。
もちろん、若ければやるけどね。
やることは一杯ある。
O)(作品は)ますます抽象と具象の境目がなくなっている感じですね。
そう、抽象を具象化するというのが今のあれで、物感を込めるというかね。
セザンヌと、そう物(絵)をみればすぐ分かるけどね、ルノワールも初期のころに、神話上の女性を書いて、獲物の鹿を描いて、女性が居て、すごく上手い絵なんだけれど、風景と女性と鹿を、別個に書いた絵があった。で、アトリエで描いた。
セザンヌも、変な絵がある。ものを見ないで描いている絵が何点かある。当然最後の「大水浴」なんか現実に見ていない。
ものを見ていなくてあとで組み合わせたやつは、すぐ分かる。僕はすぐ分かる。
モネの最後のオランジェリーの絵(睡蓮)は、あんな大きい絵。イーゼル絵画にすると大きい絵は描けない。100号は持っていけない。
100号を描く時は、100号をそこに画面設定して、イーゼルでそこで描いたということを情報を入れてその絵を描かないといけない。
モネの絵はここで失敗する。
こっちで描いておいて、これを大きくして、視覚が狭い絵なのに、でっかくなってしまっている。
するとルノワールの鹿と女性も同じで、そこに本当にあったら、そういう絵にならないものを絵にしている。
それは僕には…。それは人間の意識がすることで、めんたまの作業ではない。
アトリエ絵画からイーゼル絵画に変わったのは…。
『芸術の哲学』にも書いたけれど、国吉がヨーロッパに行って、それまで彼は資料とかで、つまりアトリエで描いていた。しかし、パスキンとか、エコールドパリの人たちは、ダイレクトに描いていた。
それで国吉は、自分のやり方をアメリカに帰ってから変えていくわけだ。
それは簡単なことではなくて、絵画の根本的なところの問題ではないかな。
めんたまの仕事に、それが芸術のクオリア、芸術のテイストはそれがないと…。
アメリカにはイラストレーターしかいなかった。
ワイエスの親父もそうだし、挿絵かとかイラストとか人たちはそうやって描くけれど、それと芸術は違うではないか。
竹久夢二の絵もいいけれど、セザンヌとそれは違うのではないか。それは芸術とは違う。
それに気づくと、抽象も、現実にこういう光がこうあって、こうなっている光を僕はここにイーゼルを立てて描いている…という設定のもとで抽象を描かないといけない。
ただただ画面の上で、造形的にこっちこっちとか、こういう色をつけて…とやっていると、美しい絵にはなるけれど、デザイン的になってしまう。
だから(自分の)絵に題名が付き出した。
そのことを物感と、坂本繁二郎が言った。
あなた(o氏)に、物感のことを言い始めたのは何年前かな?。
あの頃からだな。その頃の話が延々と続いていってそれで、物感の話が結局イーゼル絵画ということになる。「物感とはこうだな」とか、上野の駅の食堂かなにかで話したな。
物感だよ。
O)虹というのも、光を描く上で、虹という具体的なものを想定しながら描いているのですね?
そう。虹を書き出したのは、現実の虹の、ああいう本当の虹を描けなかったんだよ。
光る光源はどうやって描くだろう?
太陽を、チョンチョンとやって、これが太陽だというわけには行かない。
物感をこめるには、向うが光そのものにならなくてはならない。
で、虹を具象で描け出して、それから、この虹を直線にしたり、ひねったり・・・
虹もね、いろいろあるんだよ。描けだすと色々と出てきて。
虹、まっすぐな虹があるな。
プリズムを買ってきてやってみると、別に、虹はまっすぐにもできるし色々とできる。
もし空にまっすぐな虹とか、ねじれた虹とか、具体的に設定して描くと、次第に抽象的になる。
光のフォルムというものもある。普通は光はテープのようなものを考えるだろう。
これをフォルムとして考える。なんかこう四角い、真四角の、あれ…
あれだよ、イサムノグチのあれを「光のフォルム」と考えると、光のフォルムを光の彫刻にもできるだろうし、光のフォルムを絵画化すればいい。それもエスキースにある。
たとえば、窓があってそこにスクリーンを斜めに張ると、三角形ができる。
三角形が光にこっちにあって、三角柱ができる、三角錐か。
そこに光の塊ができる。
これを描いたら、あるいはこれを抽象化すると、ここに光のフォルムがポコンとできる。
これはほとんど抽象というか具象というか、具象だよ。
ほとんど具体的な光のねじれとか、光のテープがあって、それを折ったらどうだろう。
あとで見せるけど。
そういうふうに具象と抽象がもうほとんど…。
O)三角柱が、金属だったものが、光になったのと変わらなくなるわけですね。
考えると、金属も光の反射だから。ほとんど、物と抽象というか。
それで、世界はね。録音もしているからついでに言うけど、
「世界は特異点を持たない。世界はオールオーバーである。」
これがいまの、これから本を書くとしたら、これがポイント。
O)特異点というのは?
球というものには、どこも特異点がない。
ところが三角錐というのは、円錐というのは、頂点は他とは違う。
こういうのが特異点。時間で言えば始まりとか終わり。
ビッグバンの一番の始まりは、特異点になる。
今の時間・空間とは特別の点になる。尖ったところになる。
特異点をなくすのが、現代物理の(課題)。
どうしても特別の時間と空間があると言うと、そこだけ、法則が違う。
いままでの、真理とされているものが、そこだけ違うというものになると…。
自分らが一生懸命に証明しようとしたものまでも、そこだけ特別の、一種の神様というか、あるいは特別の飛躍したものになってしまう。それを特異点だ。
O)特別の法則を作らなければならない?
法則も何もない。
そこは特別に、時間も空間も当てはまらないというのが出てしまう。
それが特異点。
O)それが、ないのが世界である?
それがないということに、今、なっているのではないかな。
つまり「無の揺らぎから始まる」というような、宇宙物理の…(認識)。
無から始まるんだよ。
原因の原因……因果律はずっと行くと、原因の最終原因を何処にするかというと、やはり特異点のような、神の一撃というようなことになる。
ところがここも、無の揺らぎから始まる。
で、インフレーションが起こって、いまのようになる。
世界の特別のあれ、ではない。
O)無の揺らぎだから、ないわけですね。
いや。無と有の間は、「こっちが無」で「こっちが有」ではないの。
ここを行ったり来たりする。それを揺らぎという。
ここに、二つの気体を、こう境目をもって二つの気体があって、ここれをしゅっと取ると、最初はピシッとある。
これが次第に揺れて、均一になっていくのだけど、この最初の(境目を)取った時も、こっちがこっちでと、きっちりとはなっていない。
そこはグラデーションというか、ぎざぎざというか。
ここはちょうどフラクタルになっている。
こっちがA、こっちがB、とはなっていない
こっちが「ある」で、こっちが「ない」とはなっていない。
無と有があるとしたら、境目無しに、ちょうどマンデルブロー集合のように、あの境目は、ギザギザというかグラデーションというか、無と有は非連続ではない。
記号は非連続だよ。最後の章で言っただろう。
記号は非連続だけど、それはすべて、人間の内と外も、物の内と外も非連続ではない。
O)そういう意味で、人間そのものも、存在そのものも、無であり有である?
いやいや。全部が特異点を持たない。
特別に、人間の内と外は特異点を持たない。
世界も時間も、すべて特異点がない。オールオーバーに。
O)無の揺らぎから始まるということは、始まりもないということ? 終わりもない?
始まりもない。終わりもない。特定できない。
全てのものに始まりがあり、終わりがあると言ってもいい。同じこと。
この世界だけがこうあって、この世界が終わる。
ちょうど、人間があると同じように、この世界も、無の揺らぎからぽこっと出て、いつの間にか、もっと上位の無の揺らぎの中では消えていく。
空間も時間も、風景も、すべてのものがそうである。
仏教のあれみたいだよ。
僕のブログを読んでみてよ。このまえやったのは阿毘達磨。
(『存在の分析〈アビダルマ〉』櫻部建・上山春平著 )
O)読んでいたら長くなりそうだから。
いま道元の原稿を読んでいるけれど、難しくて、わけわからないんですよ。
これ、この前読んで読書ノートに入れてあるけど、
これ、アビダルマ。倶舎論。面白いよ。
O)道元は、なんかハイデッガーと共通するとか…
ハイデッガーがびっくりしたのは、道元の時間論のこと。
時間なんて、考えるやつはいないよ。
なのに東洋で、まあ自分はすごいというか、自負があったのだろうけれど、それがあってハイデッガーはびっくりした。
いや、東洋の思想は凄いね。
そういう僕も、広範囲に興味があるけれど、もう凄い。負けない。
どっちがというのでなく、それをアウフヘーベンしたものが世界だと思う。
書いたたかな。ペンローズの三角形。
あとで読んだ本の中で、物の世界と、心の世界と、
プラトン的イデア界が、三位一体だ、というのが彼の考えかた。
これが僕にピッタリ合うね。
三位一体という、要素でなく、その三つのかたまりが、存在というもの。
ここに、パソコンに、図を入れておいたけれど、ないかな。
これ。これがペンローズ。
僕の従来の考え方はこうだった。従来は、こうだ。
だから超越、超越と言っていたんだ。
ここが地上の現象界で、ここに天と地があって、
上下はこっちに、天上界と地上界。
これがプラントン的イデア界。
これが、科学では一緒になってしまった。天も地も同じ法則で。
で、この地上界を分けると物の世界。こっちが科学というか唯物的な世界。
こっちが心の世界。実存主義なんとかの、心の世界。
ここに現象が起きる。
僕はこれを一緒くたにして、相互挿入空間にして、物と心が、肉体と精神が相互挿入にして、これが現実の生きている世界で、ここに真善美という超越を、超越としてずっと措定して…。
だから超越、超越、真・善・美とか宗教とか、そういう世界。
いろんな科学の数学的定理などの世界。
相互挿入を争っていたのが、いままでの西洋近代哲学。
客観と主観を争う。一致するかどうかとか、これを延々とやっていた。
僕はこれは相互挿入で、どっちが主でも従でもない、そして、美は超越だと言って来た。
(しかし)こういうことを、数学や物理の人が言い出した。
こういう世界観のもとに、いろんな人がそれぞれの世界で、いろんなことをやっていく。
O)いわゆる超越というものは措定しないということ? 渾然となっているということ?
そうそう。この世界に特異点も何もない。
人間も特異点でない。神も特異点でない。物からすべての存在には、特異点がない。
存在そのものが、こういう3つの世界で成り立っている、ということ。
これがパラダイムになって、それぞれ、科学、政治、宗教、芸術をこういう世界で見るのが、一番、正しいのではないかという考えになっている。
これはペンローズが考えた不可能三角形。
写真ではできるが、この三角形を作ることはできない。
O)実際、作れないのですかね?
作れない。写真ではできるけど。
錯視の本にもあるよ。
で、こういう物が世界存在の構造だとしたら、物感とかイーゼル絵画というのは…。
イーゼル絵画はこの三角形……対象と、心の世界という僕自身と、キャンバスと、この三角形を崩すと、どうもヒエラルキーが落ちるというか、何かが足りない。洋服のデザインと変わらなくなってしまう。
芭蕉の句がそうだ。
「ふるいけや…」。ここで芭蕉のことは何も語っていない。
外の世界を描写しているだけ、だけど芭蕉の立ち位置が入っている。
イメージの中に、芭蕉がいないことはない。
芭蕉が立っていて、対象があって、蛙の音がしたということがあって、俳句があって、これの三つが、三位一体となってある。
ここに俳句という現実の作品が出来上がる。
これが、1個でも欠けると、あるいは1個で自分の心を言おうなんていうと、それはヒエラルキーの低い、日記のような文体であって、作品ではない。
僕も芭蕉のようなこういう世界を、この画面に定着できれば、相当、ヒエラルキーの高い美が出るだろう、という仮説のもとに片瀬でもイーゼル絵画を目指してる。
今度の個展に1点だけある。
O)作品にアトリエでは手を加えない?
いや、やはり手を加えないと。
今度は、実際そこでやると、書き始めは構図とかは、写真とか想像でやると、この世界は間違いだらけ。ワンショットでは、つまり記号で置き換えるからダメ。
だから書き初めでの構図は、イーゼル絵画でやるが、描き進むにつれ、どうしても物に引きずられる。僕の未熟のせいかもしれないが、今のところアトリエでなければ、現実に目にすると、どうしてもディテールに目が行ってしまう。
現実に目の前にすると、すぐに特異点を作ってしまう。
あんなふうに、セザンヌのように描くというのは、マチスのように描くというのは…。
現実を目の前にすると、すぐに顔に行ってしまう。
似ているとか似ていないとか、そういう記号的なものに行ってしまう。
もっと綺麗に描かなくちゃとか。
この先どうなるか分からないし、どっちがいいか分からないが、描き始めはイーゼル絵画で描いて、その美しさを定着するためにアトリエで描く。
あちらで描いて、相当練っておいて、こっちで描く。