(16)自分が歳をとるにつれて評価が上がる父親像(53頁)
問題は父だ。ところで、父親とは、自分が歳を取るごとにだんだん評価が上がっていく。どういう事かと言うと、最初は喧嘩になるわけだ。父にしたら、馬鹿みたいな話だ。僕の転校のために、50歳を過ぎてわざわざ玉野から千葉まで転勤して来た。それなのに、多くの選択肢のなかで、よりによって貧乏絵描きの道に息子が進みたいと言うのだから、父にとっては「何のために、わしゃあここまできたんじゃ…」という事だ。
結局、一晩そうやって二人で話した。僕の言ったことは、芸大に入るかどうかは分らないけれど、その後は自立して絶対に経済的に負担をかけないから、4年間はなんとか面倒をみてくれ、というような事を…。
だから実際、仕送りも一万円(父の月給は三万円位だったと思う)だったけれど、それでも学生時代に六畳で六千円の部屋を借りていた。育英会の奨学金を三、四千円か貰って(借りて、後に完済しました)いたけれど、どうやって暮らしていったのか、結構楽しい学生生活を送ったので、不思議だ。
そういう話をしているなかで、父のいった言葉が忘れられない。今思い返すと、素晴らしい、男親でなければ、母にはとても言えない事を言った。
父の祖父は岡野弥三郎という人で、岡山県の児島で回船問屋をやっていた。「興福丸」という船を持って裕福に暮らしていた。その身代を、父の父親の岡野岩太郎という人がファンキーな人で、潰してしまった。
父は、高等小学校を卒業するとすぐに大阪の小企業の鉄工所に丁稚奉公をした。そして、三井造船所が岡山県の玉に出来たときに、造船所に就職した。そこで、工員の現場から最終的にはブルーカラーの頂点の職場長にまで叩き上げていった。千葉工場では勲六等瑞宝章の勲章を貰い、大学生だった僕が皇居まで、心細がった両親に付き添って行ったことも懐かしい。
造船所で順調に出世する過程で、貯金をして家を建てる予定もあったが、それも戦争で予定が狂い、戦後ゼロになって、結局今あるお金は全部使おうという価値観になったようだ。家は退職するまでずっと社宅。貯金なし。僕は子供のころ、自分の家は裕福だと思っていたけれど、裕福なのではなく、全部使っていたわけだ。そういう父の人生観が、僕の千葉に行こうという提案に簡単に「行ってみるか」となったのだ。
そうやって、千葉に来たのも、息子がいい大学に進学して、出世するという夢のためであるのに、高二になったら絵描きになりたいと言うから…。
そういう、言い争いの終わりころ、父は僕に言った。
「そうだな。人生に大事なことは、ほとんどないからなあ」。大事なものとは、超越的なものの事だ。人間が生きていくうえで、実存の外側に、自分の価値判断の範疇外の信念を措定することで、そんなものは父にはほとんど無かったと、僕に言いたいわけだ。「だから、お前が、貧乏しても苦労しても、そこまで芸術というものをやりたいというのは、そうした世界を持って生きていくということは、幸せかもしれないな」と言った。どちらにしても、人生はたいした事はないのだから。どうやって生きたとしても…。
父は子どもの時から自分の構想が全部ずれてしまって、周囲に翻弄されきた。そういう父の人生の後半の大きな決断が、僕のための転勤で、これはうまくいったのに、ここでまた僕に裏切られるわけだ。裏切られるわけだけれども、まあそうやって、お前が芸術を、貧乏絵描きでもいいと、そう思っている事は、そういうものを持ってこれから生きていくのは、いい事かもしれないな。それもいいだろう、どちらにしても大した事ではないんだからお前の思い通りにしろ…と。
自分が歳をとるとよく分るが、そういうことを言える男って、たいしたもんだよ。