(12)デッサン(高校の美術クラブ)(43頁)
石井君のデッサンを見て衝撃を受けて、その後二年生になって美術クラブに入った。でも、そのときもまだ、芸大受験は考えていない。成績は、進学校の中でもよかった。そういう上昇志向というか、勉学の方の未来にやる気を持っていた。父は、僕の転校希望のために転勤もして来たのだし…。
当時、千葉高校では1日5時間授業だった。だから午后に1時間の授業が終わったら帰宅。帰っても午后から時間がたくさんあったので、夕方の内房線の汽車(その頃は単線でディーゼル車。SLも両国と館山間を朝と夕方一本づつ往復していた)の時間まで学校の図書館で本を読んでいた。それで、その時間があるから、美術クラブに入ってみようかナと思った。当時の美術の教師は山口達という方で、後に千葉大の教育学部の教授になった、東京芸大の日本画を出た先生だった。美術クラブは、その先生の指導を受けて、芸大受験の予備校のようになっていた。毎年芸大のデザイン科か油絵科か、入る科は違うけれども毎年途切れなく続いて入学していた。
同好会感覚でクラブに入った人はたいていはじかれてしまう。芸大受験を目指すような人が、一生懸命やっているのだから。そういう美術クラブに入って、その人達に教わったら、僕の体質に合っていたのか、見る見るうちに石膏デッサンがうまくなっていった。
感覚で描くのではなく、構造で考える。面取りの石膏像を最初に描くと、影の構造が分る。なるほど、面として見ると影のトーンの違いがはっきりと分るとか、測量するとか、そういう方法が嬉しかった。自分の認識を、外に取り出して客体化するわけ。ただ見て描いているわけではない。自分の視覚を外部に取り出して、紙の中心と像の中心を合わせて、正しく入れると、予定した構図通りに、ピシッと木炭紙に入るわけだ。
いかに自分の認識というものが、あやふやなものかが分る。それを、外側に取り出して客観視して検討していくと、きっちりと描写できる。その方法でデッサンすると、見る間に絵がうまくなる。一枚描くごとに、グングンうまくなっていった。
今でもそういう方法は伝承しているのだろうか。例えば、測量の道具に自転車のスポークを使う。細い直線の代りに使い、補助線代りに対象にあてて透かし見て使う。鉛筆でやってもいいけれど、細いほうがいい。石膏像があって、画面の中に最初の予定通りに入れようとするときに、漠然と入れたら、ちょっとズレれば全部描き直さなければならない。
入れようとする構図をイメージして、紙の真ん中と構図の中の像の中心を合わせる。合わせて、上下と左右を別々に測量していく。そうすると構想通りに、ぴしゃっと落ち着く。しかし、漠然と描き始めて、もう少し右に入れたほうが良かったかななどと途中で思うと、やり直さなければならない。つまり、正確に描写するということは、感覚で写すのではなく、理性的な作業なのだ。絵において、感覚を使う所は別の場所だ。
たとえば、スポークを立てて測った長さと、横に寝かせて測った長さは同じ長さではない。縦と横は、別個に測らないといけない。
また、5円玉などを黒い糸でぶら下げてフリサゲを使う人がたまにいる。この場合、自分の目と像が同じ高さで並行にあるときはいいけれど、見上げたり見下ろしたりすると、垂直線自体に遠近がついてしまう。フリサゲを使って、見上げた像を描くと頭が大きくなる。そのように、次々と気づくことがあって、とても面白く、のめりこんでいった。