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『仏陀』増谷文雄 著 角川選書ー18

『空海の風景』を旅する」 NHK取材班 中公文庫

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『空海の風景』を旅する」 NHK取材班 中公文庫 

■「明経道にすすめ」と叔父がいったとおりに空海はすなおにこの道(コース)にす

すむのだが、結局は、この創造力にあふれた少年は、ぼう大なもろもろの注疏

(ちゅうそ)の暗唱をしていっさい創意がゆるされないという知的煉獄にあえぎ、

沙上で渇えた者が水を求めに奔るようにしてそこから脱出するにいたる。この知

的創造性を抑圧された煉獄のはてにきらびやかな代償としてあたえられるものが

栄達であったが、しかしながらいったんこれを契機に疑問をいだけば、いったい

そういう栄達が人間にとって何であるかという、渇者のみがもつ思考の次元にゆ

かざるをえない。しかも大学明経科において百万語の注を暗誦したところで、そ

こで説かれているものは極言すれば具体的な儀礼をふくめた処世の作法というも

のでしかなく、人間とはなにかという課題にはいっさい答えていないのである。

(『空海の風景』二 司馬遼太郎)

ひとたび人間とは何か、という哲学的問いを立てたならば、本質的な問いを回避したところに積み上げられる知識や規範などは、逆にみずからの精神を束縛しようとするものだと感じられる。さらに、世の中の秩序が、大衆を奴隷的精神の持ち主へと貶め、管理することによって成り立っていると考えたならば、高級官僚など、いわばその精神的な奴隷たちのリーダーに過ぎないと思い至ったであろう。(100~101頁)

■「儒者よ、あなたは私より年長であり、年長であるからといって長幼の序をやか

ましく言い、その躾を核にして浅薄な思想を作りあげているが、それは錯覚であ

る。長幼の序などというそんなばかなものは実際には存在しないのだ。時間には

始めというものがなく、あなたも私も無始のときから生まれかわり、死にかわ

り、常無く転変してきたものである」(『空海の風景』三)

儒教的思想によって空海の出家を阻もうとする大足への反論と、大学で学んできた儒教への決別の宣言である。空海は道教に対しても同様に、不老長寿の薬をいくら飲んでも、結局人はいつか死ぬ運命にあるのだ、と批判する。

仮名乞児の言葉とは、空海の言葉であり、この作品は出世ばかりを求める大学のエリートたちの群れとも、俗世との関わりを断って、無為に生きようとする流民たちの思想とも決別することを宣言しているのだ。その表現スタイルと書の美しさに加え、24歳にして身につけた教養の幅と思索の深さに驚く。(106頁)

■あらためていうべきことでもないが、遣唐使は国家使節である。

国家使節である以上、入唐する僧もまた、国家が認めた正式な得度僧(官僚)である必要がある。つまりは、僧侶としての国家資格をもっていなければならないということだ。しかし、今まで私たちが見てきた空海は、室戸岬や山野を跋渉する放浪の私度僧だったはずである。

ここに、注目すべき年がある。

空海入唐の前年、808年(延歴22年)という年だ。

実は、空海が乗り込んだ第16次遣唐使船は、この803年3月に、すでに大阪を出航してしまっているのである。この時、遣唐使の中に空海の名はない。この船が順調に航行を続けていれば、空海は次の遣唐使船の出発(836年)まで30年以上待たねばならなかった。

しかし、空海が乗り遅れたこの船は往航の途中で暴風にあい都に引き返すことになったのである。船の修繕を行ない態勢を整えて再出発したのが、804年5月。空海は、この時、乗船に成功した。

803年は、石山寺に伝わる太政官符の写しによれば、空海が得度受戒した年と記録されている。となれば、空海は入唐ののために「あわただしく」受戒した可能性が高い。

空海は生来、山岳を好み、厳しい肉体的精神的鍛錬を経て力を得た。かたちの上では私度僧ながら、実としては都の官僧を上回る知識と実践を積んできた自信があったことだろう。深い個の自覚と自信に支えられた空海が、いきなり人生の方針を転換して今さら国家承認の僧侶になろうとする理由が見あたらない。空海の得度受戒の理由は、ただひとつ、唐に渡りたいと願う何らかの動機が突如発生し、その目的を達するための手段として行なわれたと考えるのが自然だ。

司馬遼太郎は、その「動機」を、空海がある経典を発見したことのよると考えた。

『大日経』と呼ばれる密教の根本経典のひとつである。

『大日経』は、従来の仏教経典とはまったく異質の新鮮さを持っていた。それまでの経典がブッダ(釈迦)が説法をする形式をとるのに対し、『大日経』では、歴史上の実在人物ではない法身の大日如来が、直接、仏の最高の悟りの知恵とは何かを説く。

インドで成立したのは7世紀末頃といわれ、それが唐に伝えられ擤ん訳されたのは724、5年のことだという。空海が生まれるわずか50年前のことだ。多くの経典を読破し、山岳修業を積んで断片的な密教(雑密)を次々と身につけていた空海も、この時すでにインドでは雑密を超えて『大日経』を中心に据えた新しい密教体系が成立していることは知らなかったにちがいない。『大日経』は思想的年代的に当時最先端の経典だったということができる。

『大日経』は驚くべき速度で日本にも伝わっていたが、司馬遼太郎によれば、空海がその重要性に気づくまで誰もそれを解せず、諸寺の経蔵に埋没していた。

空海は、この漢詩を読むことによって大日経の理論は理解できた。

ただし、空海にも解せない部分がある。大日経には、仏と交感してそこから利

益をひきだすという方法が書かれている。その部分は、秘密(宇宙の内部の呼吸

のようなもの)であるがために、宇宙の言語である真言を必要とした。(中略)

こればかりは手をとって伝授されることが必要であった。

空海はこれがために入唐を決意した。大日経における不明の部分を解くためで

あった。空海の入唐目的ほど明快なものはない。(『空海の風景』6)(146~

149頁)

■最澄について触れておきたい。

空海が「毛人」(蝦夷と呼ばれた東国人捕虜)の系統をひいていたとするならば、最澄は「渡来人」(中国・朝鮮半島からの移住者)の家系にあった。かれは、空海のように国家官僚への道にいったん入るような迂回路をとらず、一直線に出家している。12歳の頃だった。20歳で受戒すると、琵琶湖を見下ろす比叡山に登り「比叡山寺」という小さな草庵を建立した。これがやがて現在の延暦寺となる。都を離れ、山に修行の地を求めた点においては、空海と同様の山岳修業者の系統に属する。最澄入山は思想的信念によるものだったが、その行動の背景には、政教を混濁する一方で官僚化し、仏教哲学の原典である経典をないがしろにして解釈論ばかりを争う奈良の仏教界に対する批判があったからに他ならない。最澄が華々しい仏教界のリーダー的存在として姿を現すのは、遷都後、平安京の時代になってからのことだ。むろん、独学で求道(ぐどう)することを旨とする最澄の意志によってではない。桓武天皇の政治的思惑によってである。

最澄は時代の人であったろう。かれの運命は、かれが得度した翌年に桓武天皇

が即位し、いわば大帝の時代がはじまったことで――当時の最澄自身はきづかな

かったろうが――大きく基礎がつくられたといっていい。(中略)

桓武の政治方針のひとつの重点が、害のみがあって益するところのすくない奈

良仏教との絶縁にあった。長岡や平安京への遷都も、仏教の巣窟である奈良から遁げだすためであったとさえいわれているほどであった。(中略)

桓武がその後の態度でもわかるように最澄に異常なほどの肩入れをする気持をもつにいたったのは、ひとつには桓武の生母高野新笠が天皇家にめずらしく「諸蕃」の出身だったということにもよるかもしれない。百済から渡来した者の子で、実家はなお百済の遺習をもっていたらしい。(『空海の風景』7)(153~154頁)

■最澄の入唐動機は、かれ自身が書いた上表文によれば、中国本場の天台教学の移入にあった。空海が『大日経』を研究対象にしたとするならば、最澄のそれは『法華経』だった。『法華経』は経典の王と呼ばれた古典的最高経典である。ここにも奈良仏教への懐疑が根本にある。

奈良仏教は宗論ばかりを重んじて肝心の経典を軽んずるが、本来は、論が従で経が主でなければならない。天台大師智顗(ちぎ)は『法華経』を核にして、一人その道を行っている。私も長年天台を研究してきたが、いまだ真意をつかみがたい。このうえは、師から直に教えを請いたい――。

これが、最澄の思いだった。空海がブッダ(釈迦)の仏教から飛翔し変転した最澄の教理に活路をもとめようとしたのに対し、最澄は実直にブッダの言葉に返りその原点に立ち戻ろうとしたともいえる。新しい仏教を新しい仏教を創始しようという覇気は同じでも、方法論のベクトルは反対方向にのびていた。

最澄は空海にくらべ、ぎらつくような独創性に欠けるところがあった。が、物事の本質を見ぬく聡明さにおいては同時代の僧たちから卓越しており、見ぬいた以上はそれを追求する執拗さと勇気を多量にもっていたかに思える。

最澄は空海とはちがい、密教的性格のもちぬしではなく、うまれつきとして顕教的な合理性と素直さの側にいるひとであった。(『空海の風景』7)(155~156頁)

■はたして恵果と空海はどのように出会い、師弟となっていったのだろうか。

以下のことは、空海自身が書いた『御請来目録』の文章に拠る。

恵果は空海を見るなり、笑を含んで喜歓したというのである。

和尚、乍チ見テ、笑ヲ含ミ、喜歓シテ曰ク、我、先ヨリ汝ノ来ルヲ待ツヤ

久シ。今日相見ル、大好シ、大好シ

恵果があれほどによろこぶさまが目に見えるようである。「大好々々」というのは、おそらくこの当時の口語であったものを、空海が文中にはさんだにちがいなく、このため、恵果の音声まできこえてくるようである。

恵果はさらにいう。自分は寿命が蝎きなんとしている(中略)。しかしながら付法(法を伝えること)に人が無かった、さっそくあなたに伝えたい(中略)……と恵果は全身でよろこびを示し、きわめて異例なことに、初対面の空海に対し、どうやら何の試問もおこなわず、すぐさまあなたにすべてを伝えてしまおう、と言い放ってしまっているのである。

事実、そのとおりになった。(『空海の風景』15)(206~207頁)

■インドで成立した密教は呪術的宗教の域を脱し、体系的な宇宙観を持つ思想としての純粋密教を成立させてゆくが、その過程でそれぞれの根本経典を持つふたつの流派を生んだ。ひとつは空海が入唐動機に掲げた大日経であり、もうひとつは金剛頂経を軸とする流派である。

それぞれの法は、師から弟子へ阿闍梨位を相伝することで引き継がれてきた。たとえば金剛頂経系の法の伝授を見れば、その第一祖は大日如来である。以下、金剛薩埵(こんごうさった)、龍猛(りゅうみょう)、龍智、金剛智、不空と続き、第七祖が恵果となる。金剛智から恵果の師、不空まで来唐したインド僧であり、恵果はインド直伝の密教を中国人として初めて承け継いだ阿闍梨だった。恵果から阿闍梨を譲位されるということは、密教の正統後継者になることを意味し、空海は大日如来から数えて第八祖になるということなのである。

加えて、恵果はそれまで別々の流れの中にあった大日経系、金剛頂経系のふたつの系統をはじめて一人身で受け継いだ阿闍梨だった。かれを師とした空海は、片一方だけの系統に属することのない密教の統合的な阿闍梨として君臨することになるのである。

空海は日本にいるときから、大日経のなかに出ている梵字の象徴としての真意、あるいは印契、三摩耶、真言などについてはわからず、それを恵果はたちどころに答えて空海というあたらしい器にそそぎ入れた。(中略)

おそらく、かれは不眠不休であったにちがいない。たとえば玉堂寺の珍賀などは20年以上もこの宗乗に参じていながらその一部をわずかに知るのみであるのに、独学者の空海はわずか3ヶ月でこれらのすべてわ習得したことになる。(『空海の風景』16)(209~210頁)

■――密教と顕教はどのようにちがうのでしょうか?

「根本的にちがうところもあるのですが、大きく3つあると私は思っています。

第一は、観想と真言念誦(ねんじゅ)のどちらに比重を置くかという問題。顕教では観想が重視され、真言を唱えるのは一回でも苦心して唱えれば効果があるとされる。しかし密教ではちがいます。基本的な真言は最低でも10万回くりかえすことが要求されます。

第二には、密教ではその真言の伝授が非常に大切です。書いた言葉ではなく、師によって体ごと伝えられた真言こそ効果があるとされます。その真言によってあらわれる感応も重要です。たとえば密教では、その力によって雨を降らせたり止めたりできるようになります。これは顕教にはない部分です。

三番目は法の伝授の厳しさです。顕教では誰でも師について学ぶことができる。師は導いてくれるだけの存在です。しかし、密教においては師が法を伝える弟子を選ぶとき、優れた弟子を見極める責任が問われます。もし、選んだ弟子がうまく修行できなかったら、その責任は師である自分の罪になります。ここが密教の法を伝える難しいところです」(212頁)

■ 渭城朝雨浥軽塵 渭城(いじょう)の朝雨 軽塵(けいじん)を浥(うるお)す

客車青青柳色新 客車(かくしゃ)青青 柳色新たなり

勧君更尽一杯酒 君に勧む 更に尽くせ一杯の酒

西出陽関無故人 西のかた陽関を出づれば故人無からん

詩吟でうたわれる「無からん無からん故人無からん」で有名な詩である。

「渭城の朝の雨は埃り立ちやすい地を湿らせた。宿の柳も雨に洗われ、みずみずしい緑を取り戻している。さあ君よ、更に一杯の酒を尽くせよ。陽関を過ぎれば友もいなくなるのだ」

王維が、友人元二(げんじ)の官命による出立に際して詠んだ惜別の詩だ。王維は8世紀、盛唐の人で、空海が長安に入るおよそ40年前まで、ここで暮らしていた。敬虔な仏教信者で、晩年は仏教の教えによる人々の救済を夢見ていたという。(221頁)

■ 留学生の空海は、素手で長安に入ったようなものであった。かれは20年間かかって密教を学べばいいだけのことで、密教をシステムごと「請益」して帰るのが義務でなく、また請益についての経費も、国家は一文もかれに持たせていない。

空海は、恵果から、一個人としてゆずりうけたのである。その経費は、20年間の留学費をそれに充当したとはいえ、そういうものだけでまかないきれるはずがなさそうであった。ともかくも、空海は工面して、一応事なきを得た。しかし、このぼう大なものを買うについての経済的苦しみは、かれの気分を、ときに重くしたにちがいない。(中略)

空海の帰国後の態度の痛烈さは、こういうことにも多少の理由があるであろう。(中略)国家とか天皇とかという浮世の約束事のような世界を、布教のために利用するということは考えても、自分より上の存在であるとは思わず、対等、もしくはそれ以下の存在として見ていた気配がある(後略)。(『空海の風景』16)(244~245頁)

■ この時期、最澄は幸福であった。彼は、空海という20年期間の留学生が、早々に帰ってくるとは夢にもおもわなかった。さらにその空海が、密教の全体系を伝承しているなどということは、最澄は気配にも感じていない。(『空海の風景』18)(248頁)

■すでに最澄は、みずから持ちかえった「密教」を紹介して一世を風靡していた。これに対し、いまだ無名ではあるが、両部の密教を相承し、その正統後継者であることをもって最澄に対峙せんとする空海は、みずからの思想に一点の曇り、矛盾があってもならぬと考えたであろう。智(精神の原理)と理(物質の原理)は対立する概念ではなく、真実の世界においては一つのものであるという「両部不二」の論理を完成させることで、空海が京に入る準備は思想的には整った。(262頁)

■「お大師さんは、大学を飛び出して自然のなかに修行に入っていったときから、俗世と非俗の世界を行ったり来たりしてはったわけです。京都にいて忙しかったときも、なんべんも山に籠って修行したりしている、その間は天皇さんの頼み事もほっぽり出しておられるんですわ」(松永有慶)(266頁)

■ 理趣経(般若波羅蜜多理趣品)というのはのちの空海の体系における根本経典ともいうべきものであった。他の経典に多い詩的粉飾などはなく、その冒頭のくだりにおいていきなりあられもないほどの率直さで本質をえぐり出している。

妙適清浄の句、是菩薩の位なり

欲箭(よくせん)清浄の句、是菩薩の位なり

触清浄の句、是菩薩の位なり

愛縛清浄の句、是菩薩の位なり

(中略)妙適清浄の句という句とは、文章の句のことではなく、ごく軽く事というほどの意味であろう。

「男女交媾の恍惚の境地は本質として清浄であり、とりもなおさずそのまま菩薩の位である」

という意味である。

以下、しつこく、似たような文章がならんでゆく。インド的執拗さと厳密さというものであろう。以下の各句は、性交の各段階をいちいち克明に「その段階もまた菩薩の位である」と言いかさねてゆくのである。(中略)

理趣経はいう。男女がたがいに四肢をもって離れがたく縛りあっていることも清浄であり、菩薩の位であると断ずるのである。この経の華麗さはどうであろう。(『空海の風景』3)(280~281頁)

■『理趣経』には煩悩からの解脱をめざす釈迦仏教とは、人間というものの捉えかたにおいて決定的に異なる価値観がはっきりと示されている。釈迦仏教においては煩悩として否定されてきた人間の本能的営み、それも含めてあらゆるものは清浄であり、我々の生きる宇宙は慈悲に満ちた世界であって、絶対的に肯定されるべきものだという思想がそこには貫かれている。

しかしそれを当時の一般的仏教理解に照らしてみれば、その衝撃の度合いは、はかり知れなかったであろう。『理趣経』は、もし、表面的に理解されたならば、矮小なセックス礼賛の教えとして人口に膾炙(かいしゃ)してしまいかねないと考えられてきた。(282頁)

■(中略)それを最小限にするためには、静止したワンカットにおいて、全体が写し撮られているべきなのである。

しかし、幅26メートル余、奥行き7メートル余という仏像の壇だけでもワイドレンズには収まりきらず、かならず画角からはみだす仏像が出てきてしまう。私たちは、カメラを3脚に据えて右端から左端までゆっくりとパーン(横移動)するほかなかった。

人間の眼はこの「空間」を気配とともに一瞬でとらえ、なおかつそのひとつひとつを無意識下にズームアップして自在に観察する力をもっている。人間の持つ潜在的な肉体の能力の深みを痛感した。

空海のねらいはまさに、そこにあったともいえるだろう。これは人間がふだん自覚しない自分自身の能力を引き出すことを要請する装置である。(296頁)

■ 生まれ生まれ生まれ生まれて生の始めに暗く

死に死に死に死んで死の終わりに冥(くら)し

(空海『秘蔵宝鑰(ひぞうほうやく)』)(364頁)

2009年1月24日

-『仏陀』増谷文雄 著 角川選書ー18

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