岡野岬石の資料蔵

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テキストデータ 全元論 著書、作品集、図録

全元論 ー画家の畢竟地ー 岡野岬石

投稿日:2022-02-27 更新日:

全元論 ー画家の畢竟地ー 岡野岬石(全文)

まえがき(2頁)

不用になった物の処理は、自分がやらなくてもゴミ置き場に出せば行政がやってくれる。しかし自分の内なる煩悩の残滓の処理は、いくら無視しようとしても自身で自我意識を脱落しなければいつまでも残る。道元の師の如浄(にょじょう)は「身塵脱落(しんじんだつらく)」といい、道元は「身心脱落(しんじんだつらく)」といった。慧可(えか)が達磨(だるま)に、「修行しても修行しても、心が揺れて証(さとり)の世界に入れません」と聞くと、達磨は「その心をここに持って来なさい」と答えた。

いくら、自分にとって価値ある物や人や事であっても、関係が切れれば、ゴミや、タダの人や、そんな事もあったなぁ、ということになってしまう。諸行無常、すべての物はゴミになる。関係は切れているのに、いつまでも過去の世界に執着していると、ノスタルジーの感傷に悩まされる。時間空間の、周りの世界が相転移したのならば、私も当然相転移しなければならない。相転移できなければ、私自身が世界のゴミになってしまうだろう。

2010年(64歳)に、東伊豆の片瀬白田に借家を借り、イーゼル絵画(直接描画、裸眼のリアリズム)を始め、その後、富士を描くために御殿場、山中湖村と借家を移って、今年(2018年、72歳)は生まれ故郷の(岡山県玉野市玉)で大仙山山頂の岩塊の絵を描こう予定しているのだが、イーゼル画を始めて、私のそれまでの世界観は根本的に変わった。世界観が変われば、自我意識も生き方も絵も変わる。そして、その世界観が正しく、私の日々描いている絵が「美」の方向にピッタリと一致していることを身心全体が感じる。世界存在は軌持(きじ)の上に乗っている。その軌持の中に私も対象も含まれていて、絵を描いている。修証一等、梵我一如であって、その修も証も梵も我も無い。磁石のN極とS極は分けられないのであって、世界存在は、全体と部分、極大と極小が、どこまでいっても相似形な形態(かたち)で存在しているのだ。

西洋近代の世界観と根本的に違う、昔から変わらない日本人の世界観の正しさと、国の形体(かたち)とその歴史の正しさを、日本人はもっと誇ってもいいと思う。物理、数学、倫理、宗教、哲学、政治、経済の理論と、芸術畑の私の世界観が、歩んできた道は違ってもほとんど同じところに行き着くのは何故だろうか。その理由は簡単なこと、世界はそうなっているから、世界はそのように存在しているから、私はそう確信している。

この本は、過去に出版した二冊の本(『芸術の杣径』、『芸術の哲学』)の、文字起こしと校正をして貰った原田三佳子さんを相手に、2016年7月4日、アトリエで話したことを録音し、文字起こしをして貰い、私がそれをリライトしたものです。私の絵と同じく、この本のコンテンツが正しければ、この、ささやかでひそやかな本も、世界存在のゴミにはならないだろうことを信じて、この本を造りました。(2018年4月16日、アトリエにて)

(1)「全元論」という言葉が現れるまで(6頁)

全元論とは僕が作った言葉です。全元論という言葉が頭に浮かんだ時に、それがキーワードとなって、これまでいくつか分かれて島になっていた僕の世界観は、一気に整理され、結びつき、構造化され、統合されました。これは西洋哲学とはまったく異質な、世界観の流れです。西洋の世界観は、ギリシャ哲学を発端とし、分けて、分けて大元(おおもと)の一を探ろうとする、いわゆるアトム論です。

物だったら原子(アトム)になるのですが、部分のない純一な無垢の存在を見つけ、さらに根源的な一を解明すれば、多様な世界も根源的な一から派生したのだから、この多様な世界のすべてが解明できるという。原子が見つかれば原子の組み合わせで多様な物質が構成される。多様な物質の大元は何かということを、原子を分けていくことによって根源を探ろうとする。それが一元論です。一に一とに収斂されていく。歴史ならば、この世の最初の原因は何であるか…というように一に収斂しようと考える。

ギリシャ哲学は、やはり一なる神の宗教であるキリスト教と、結びつき融合して教父哲学やスコラ哲学の世界観を生む。キリスト教でいうと「神の一撃」によって世界は神が造ったと考えた。現在の、多様で複雑な世界存在の大元は、第一原因であるというのがその思考。今存在するものは、何らかの原因の結果であるとして、原因を順々に過去にさかのぼっていくと、第一原因があるということになる。未来に向かっては、神の似姿に作られた、つまり神になりたいという人間は、究極目的というものを定めて、世界を第一原因から究極目的まで、だんだんと進歩していくのだと考える。そういう思考がヘーゲル等のものであり、さらに究極目的に向かってしだいに良くなるというのが目的論的歴史観の進歩史観です。

それがヘーゲルの思考であるし、ヘーゲル左派のマルクスなどはヘーゲルの死後に、進歩していく課程をどう考えるかというと「歴史は弁証法的に進化する」と主張した。そういう思考が僕よりも前の世代の左派の、デモに行くような人たちの歴史観だった。「弁証法的に進化する」と言うと少々格好いいわけで、僕もそういう思想の先生から随分と聞かされたものだ。

弁証法的というのは、討論の方法論からきている。つまり、まずは正があって、正の矛盾を反がぶつけてその矛盾を合一(アウフヘーベン)させて、正・反・合、正・反・合と、歴史は矛盾を一つずつ解消させて最終的には矛盾のない世界になる、というのが弁証法的歴史観です。人間を唯物的にとらえ、社会を経済でとらえ当てはめると、西洋社会は多くの経済的階層(ヒエラルキー)が存在している。歴史は、その階層を一段づつ弁証法的に止揚(アウフヘーベン)して解消し、その最終段階の一歩手前が、資本家と労働者という訳で、最終段階が共産党の一党独裁だ。これも、分けて、分けていく考えで、分別された階層や思想が抹殺されたことは、近代史に明らかです。

弁証法的には、「反」というのは、今あるものに反旗を翻すという行為にも、反対、反対と主張する人たちにもきちんと理由があるということ。革命する側にとって都合の良い大義名分、お墨付きをもらったわけです。きちんとした歴史の後ろ盾があるということで、毛沢東も「造反有理」と紅衛兵を煽動した。造反することには理がある、として「反対、反対!」というのが、ずっと続いてきた。無政府主義やダダイズムの、代案無しの反秩序、反権力、反体制、永久革命の世界観歴史観は、現在もグローバリズムという形で世界の底流に残っている。文化的には、ほとんど反体制、反宗教、反秩序、反芸術的なものが席巻してきた。それが現代の西洋哲学、西洋芸術の流れです。

しかしここに来て、西洋哲学も共産主義も思うように行かない。アメリカでも、ポストモダン的人間主義、つまり人間の力や欲望を思うままに解き放ち、経済力と軍事力でヘゲモニーを握った。「自由と平等」「ヒューマニズム」というわけである。それにさらに富と力があれば、文明は進歩して良くなるとされてきた。しかし現在、全部がうまくいっていない。共産主義も行き詰まっているし、一時もてはやされた「アメリカンドリーム」もすっかり影が薄くなっている。

そういうときに僕はイーゼル絵画と道元に出会い、水の流れのように全元論に導かれた。出会ったときに「これは間違いない。世界はそうなっている。歴史はそうなっている」という確信を得た。この考えが、正しい。だって道元もお釈迦さまも正しいし、正しいから諸行無常の世界を残ってきたのだ。この全元論が世の中に広まれば、世界は確実に良くなる。仏教的というか日本的というか、この考えは本当に奇跡のように残ってきたのだ。

道元から800年後の自分が、まったく関係のない分野の芸術から取り組み始めて、奇跡のように残っているものに出会えた。また、日本と日本人のこともたいへん奥深い。平成25年に式年遷宮が行われたが、長年にわたって遷宮を繰り返してきた伊勢神宮は、まさに奇跡である。過去のものではない。あえて作り替え、過去から現在に生き続けている。世界遺産とは、全く概念が違うのです。

これから日本はますます良くなるし、世界も全元論的な世界が浸透すれば、世界中が良くなっていく。まあ、人間の実存がやっているのではないから、また人間の実存がやれるものではないので、良くならなくてもいいのだけど、ともかく存在は、全部、全体が一である、全体で一であるものが、今、ここに「現成公按」しているのだ。

(2)全元論とは何か「香厳撃竹(きょうげんげきちく)」(10頁)

全元論とは何かというと、これまで、僕は色々と道元に関わる本を読んできました。パソコンに保存している「読書ノート」をみると、2011年に読んだ『道元』(和辻哲郎著 河出文庫)が最初です。東伊豆に借家を借りてイーゼル絵画(現場での直接描法)をやり始めたのが2010年の5月ですから、戸外での描画現場での体験と、本から入る情報がシンクロして、一気に道元にのめり込みました。『正法眼蔵』も読んだけれども、たしかにものすごく難しい。ところどころはよくわかるが、なかなか全体像がつかめない。しかし、おぼろげながらでも全体像がつかめると正法眼蔵では、くどいくらい何度も「こうだろう、こうだろう」と丁寧に教えてくれているのが理解できます。全体像がわからないうちは、禅問答と同じでたいへんわかりにくい。しかし全体像さえわかると、ある時に視界がぱっと晴れるように見えます。そのようにしてわかったのが、僕のいう全元論です。

全元論という言葉がひらめいた助けになったのが、ゲシュタルト、フラクタル、マンデルブロー集合などの概念と形態を知っていたことでした。つまり、分けられない、ということは部分のない、ということは全体を要素の集まりに還元できない。全体が部分と自己相似形で、関係に関係する、全体で存在する存在。分けられないのだから、有も無も勾配があるだけで輪郭線がない。

まず、最初のポイントは『無門関』という禅の公案集です。『正法眼蔵』の中でも『無門関』の中の話と同じ話が、何度か出ていますが、中国で当時の禅僧の無門慧開がつくった公案集。公案集には、『碧巌録』『従容録』等色々ありますが、いちばんポピュラーなものが『無門関』で、現代訳の本や私的な訳もネットに多数出ています。

そのなかに『香厳撃竹』の話があります。要約するとこんな感じのストーリーで、潙山(いさん)という禅僧がいて、その弟子が香厳であるが、香厳はまだ新鋭の筆頭くらいの位置にあった。そろそろ悟ってもいいと期待されるような立場だ。ある時、師が香厳に課題を出した。すなわち「父母未生以前の一句を言いなさい」いう公案を与えられたのだが、「あなたの父母がまだ生まれる前のあなたのことを詩に書いて来なさい」というようなことだ。その課題は、はじめは香厳には意味さえ分からない。父母が生まれていないなら自分は生まれていないのだから、さっぱり分からない。香厳は本が好きで書物もたくさん持っていたが、書物の中を探しても手がかりがつかめず、それではいわゆる画餅だからといって、本を全部焼いてしまったという伝説もある。

香厳は長い歳月を費やしたが、どうしても答えを見いだせずに、師である潙山にどうか教えてほしいと懇願したが、「教えてやってもいいが、そうするとあなたに一生恨まれてしまう。だから教えられない」と言われ、香厳は元からやり直そうとして、下働きから始めてまた何年か修行し、やがて寺を出て転々としながら慧忠というお坊さんの墓の近くに庵を結び、墓守ををしながら修行していた。香厳はまだ、あのときの答えをずっと探している。

そこである日、竹箒で道を掃いていたら、石が竹箒で飛んで、近くの竹に「カーン!」と当たった。その時、香厳は大悟した。悟った後は、師のいる方向に礼拝して心からありがとうございましたと感謝した。さらに、師からあの時に教えられなくてよかったと、そのことにも深く感謝した。香厳はその後、解答の詩を寺に送って、「おお、よくやった」と嗣法されたという、そんな話です。「香厳撃竹」は禅宗では頻出する有名な話です。

ところで僕は、この話が全部解った。この逸話の意味が全部分かった。逸話の言わんとしていることも「教えてやってもいいのだけど教えられない」という意味も、すべてが解った。「世界はそうなっている」ということが解ったことが、悟りです。解釈書は色々あって、無門関にもこの逸話は入っているけれど、読んで納得できるものは少ない。

しかし道元の解説は凄い。もっとも、それでも分かりにくい。僕が解説したほうが分かりやすいかもしれない。香厳が、師から、解答を教えられて悟ったのではなく、自分で「そうだ、そうだ!」と思った。そこが重要なのだ。僕もイーゼル絵画と自分で本を読んで、自力で理解したのだから、解りやすく(解りやすくもないか)話せるのです。

鈴木大拙のエピソードに、両手を叩いて「右手が鳴ったのか左手が鳴ったのか」という話がある。また、白隠禅師には「隻手の音を聞いて来なさい」、という公案がある。「隻手の音声(おんじょう)」という話だ。どちらの音が鳴ったのか、また、片手の音を聞いてこいというのだが、ふつうに考えると訳が分からない、ナンセンスな話に思えるだろう。

しかし僕の解釈はこうだ。今、あなたの右手と僕の左手でパチッと音を立てるとする。この音、この現象は、事実であり真実で、嘘や幻想でもありませんし誰にも否定できません。音の原因は、あなたの存在と僕の存在が当たって、音という現象になったのです。あなたの存在と僕の存在。存在の原因は何かというと、僕のことで言うと親父とおふくろがセックスをしたから受精して生まれた。その時に受精しないと、兄弟、姉妹になるのであって僕ではない。そのときのたまたまです。昔のことだからきちんと育つかという問題もあり、今ならせっかく排卵しても避妊で受精しないとうケースもある。

また僕以前に、親父とおふくろもそうやって生まれてきたのだ。そこまでにずっと、親父とおふくろの背景も一つとしてすき間なく続いているのであって、どこかで途切れていたら今、僕は存在しない。僕にいたる一つのラインをずっと辿っていくと、僕になる母親の卵までの、どこかが途切れたら僕はいないのだ。親父とおふくろも、たまたまその日にセックスをして僕ができた。するともう滅茶苦茶に確率の低いところから、やっと自分は生まれているのだ。しかしここにいたるラインは、一度だって途切れたことがない。

今僕がここにいるというところまで、一度も途切れていない。僕の今の存在は、過去の世界存在の果てから、一度も途切れていない。僕がそうであるように、あなたもそうなっている。あなたと僕とでは、生まれた時間も空間も違っていて、出会う必然性はどこにもない。しかし、今この一瞬にあなたの右手と僕の左手が出会うということは…もう、考えられないくらいの確率なのです。そして今「パチッ」という音がするのです。「パチッ」という音はそうなっているのです。「世界はそうなっている」のです。世界は、オールオーバーに、自分も他人も物も差別なく、隅々まで、今、ここに「現成公按」しているという証拠が、この「パチッ」という音なのです。

(3)而今、現成、マンデルブロー集合(16頁)

じつに恐ろしい。いや恐ろしいのではなく、これは素晴らしいのだよ。世界は、こうやって存在しているなんて、世界に、こうやって存在しているなんて、自分の存在がなんと幸運でなんと不思議で、なんとありがたいことか。何かの本で読んだけれど、禅のお坊さんの言葉で、「お前たちは、天から大借金を背負っているのだ。みんな一文無しで、一生かけても返すに返せないのだぞ」といっている。そうやって生まれてきておいて、不満や屈託などをかかえてグチグチ言って過ごすな、ということだ。仏教では、人間の根元的な煩悩を三毒といって「貧・瞋・痴(とん・じん・ち)」を克服しなさい、といっている。そんな煩悩をかかえて、あるいは、そんな煩悩の充足を目標にして生きるなんて、つまらない生き方だ。せっかく、生まれてきたのに。

そしてこの世界観では、時間軸はどういうことかというと、時間というものは進歩史観ではない。「而今」といって、今、今、今と今ここに因と縁で現成している。未来に向かってラインは続いているけれど、今、ということだ。過去のラインは変えられないけれど、未来へのラインは、開き、続いている。

先ほどの話に加えると、香厳撃竹で竹に石ころが当たったということは、もともと竹が生えていた。そして石があった。これらはどこかで生まれたわけだ。竹の原因、石の原因もどこかにある。どこか宇宙の果てから突然に降ってきたのではなく、無から涌いてきたのでもない。あるものが流れ流れて、因と縁で竹という存在になり、石という存在になり、香厳の庵の周辺にあった。それを香厳がたまたま掃いていて、石が竹に当たって「カン」という音がした。

僕だけでなく全部の存在がそうなっているのだ。竹に当たったからといって、どうということもない。しかし香厳にはそういう歴史的必然性があった。香厳でないと、掃いて石が竹に当たる音がしても、それだけのこと。しかし、世界はそうなっているのです。今、今、今と現成しているのです。

道元のわかりにくい言葉に「薪が灰になるのでない。冬が春になるのではない」というのが、現成公案の中にある。どういうことかというと化学でいう「相転移」のことだとおもう。水は温度を上げると水蒸気になり、温度を冷やすと氷になる。これはエイチツーオー(H2O)というものがあって、温度が高いと水蒸気になり、下がると氷になりということであって、水が水蒸気になったり水が氷になったりするのではない。また、そのH2Oも、酸素一つと水素二つが結合したものだ。そして、その酸素と水素は、原子核と電子で……、どこまでいってもキリがない。万物は、世界は、一瞬、一瞬、刹那ごとに因と縁で現成するのだ。

西洋には、因果律で「因」はあるのだが、「縁」という概念と言葉がないらしい。因だけだと運命論になってしまう。過去は運命で、ラインは一度も途切れていない。しかし、未来は縁によって運命ではない。未来は、やはりラインは途切れないのだが、縁によって分岐する。ちょっと分かりにくいかもしれないが、じつはマンデルブロー集合のように、時間も空間も構成されている。全元論とマンデルブロー集合とで全体像のイメージをつかんで、存在の全体像をとらえる。その上で道元の『正法眼蔵』を読むとさらに分かりやすい。

マンデルブロー集合については、数学も物理も全部、最近はそう言っている。つまり紐理論とか、リーマン予想とか、物理も数学もみんな、境界が融合している。しかし、同じようなことを、800年前の道元が、2000年以上前のお釈迦さまがすでに言っていたのだからこれは凄い。

それから先ほどの逸話で、香厳の先生がなぜ「教えてやってもいいのだけど」と言いながら、教えなかったのか。マンデルブロー集合というのは、分けることができない。全体で、全体が一つである。すると、神も人間もお釈迦さまも道元も物も皆、万物、悉有は世界の内にある。今の世界内の、存在内の世界と、自分も神も超越も、真善美も、全部分けられない。分けられないとどうなるかというと、だからこそ、道元もお釈迦さまも、対象物にはならない。つまり拝む対象にはならないということです。お釈迦さまも禅宗も、自分の前に拝む対象を置かない。分けられないのだから、世界のなかに構成物としてすでに自分が入っているということだ。ちなみにマンデルブロー集合については、ネットで動画をさがして見ると、視覚的に分かりやすいかもしれない。

磁石というのは、無理に折ってもN局とS局とは分けられない。どんなに折っても、小さな磁石になるだけで、N局とS局は単独で取り出せない。磁石と同じように空間も時間も、じつは全部がそうなっている。全部が分けられない。自分とか、対象物とかいうようには分けられない。神も、天も、プラトン的イデア界も別個にあるのでなく、磁石のように、割っても割っても決して分けられないものなのだ。存在の構造が分けられない。細胞レベル、心のレベルも同様で、分けられない全体としてのマンデルブロー集合がある。時間についても同様です。

(4)世界は「そうなっている」(20頁)

全元論は不思議な世界だけど、この全体像がイメージできると一気に分かってくるのだ。これは運命論ではない。自分の生まれる以前は、世界に投げ入れられて変えられないし、自分の過去は、いまさら変えることは出来ないが、未来は、一瞬一瞬の出会い(因と縁)で、パッパッと、世界は今ここに、相転移して現成するのだ。道元は『正法眼蔵』の「現成公案」の章で書いているし、他の章でも何度も触れている。

ということは、先ほどの師が香厳(きょうげん)に言ったように、「教えられない」「教えたら一生恨まれる」というのは、お釈迦さまも道元も、この世界から別個の存在の、対象物ではないということだ。香厳も師に頼ってただ教えられるのでなく、香厳に対して師が「世界そのものをお前が知れ」と言ったということだ。問題(自分)も解答(神、仏)も、全部世界の中にあるのであって、分けられないのだから、自力で知ることによって初めて、師が悟ったのと同じように、世界と自分との存在の有り様(よう)を、自ら知ったということである。ただ教えられたのでは、そういう構造を体感できない。

イーゼル画にも通じるが、道元の話でいうと只管打坐(しかんたざ)で、ただひたすら座禅を組みなさいという。道元も座禅を欠かさないし、お釈迦さまも夏安居(げあんご)といって、雨期には三ヶ月くらい、叢林(そうりん)に籠っての座禅をずっと続けていた。これは、世界とシンクロしなさいということである。

これはランダムドットステレオグラム(3Dアート)と似ている。3Dアートは全部やり方や回答を教えたとしても、見ること自体はその人が見ないと分からない。解答を教えられても、自分の目で見ないと体感できない。自分でやってみて気づくわけだ(3Dアートは全体を見ないと立体が浮かんでこない。部分を見る事はできない)。

つまり師のソフト、あるいは出来合いのソフトではダメだということ。そういう禅僧の話では「修証一等」もそうだし同じような逸話がたくさんあって、禅問答は一見ナンセンスで分かりにくいが、しかし僕は今、そういう禅の逸話の意味が、ほとんど全部分かるのだ。それで結局、道元は素晴らしい、お釈迦さまは素晴らしいけれども、信仰の対象にならない。そもそも全元論では世界は分けられないのだから、神も仏も自分も、万物がこの世界の中に在るのだから、道元やお釈迦さまがいなくても、世界はそうなっているのだ。

なぜなら、まさに「世界はそうなっている」ということで、万有引力の法則でもピタゴラスの定義でも、ニュートンやピタゴラスが見つけなくても見つけても、見つける以前から見つけた以後も、世界はそうなっているのだ。すなわち「世界はそうなっている」ということに道元も気づいたし、お釈迦様も気づいた。僕はたまたま、絵を描いていて、「美」を追求するだけに生きてきて、ここにきてそこに気づいたわけだ。するともう、嬉しくてしようがない。

真・善・美に関わる人以外は、ふつうに生きていてはこの世界の実相に気がつかないのはなぜかというと、「自我の欲望」に囚われて人生を送るからだ。お二千何百年前から釈迦さまは、衆生に布教している。煩悩にとらわれた世界(此岸)で生きるな、解脱(げだつ)して(河を渡って)涅槃(彼岸)の世界で生きなさい、と。自我の欲望で四苦(生・老・病・死)八苦(愛別離苦(あいべつりく)・怨憎会苦(おんぞうえく)・求不得苦(ぐふとくく)・五陰盛苦(ごおんじょうく))して終わり。生きることの根本から、欲望に囚われ、だからあのパナマ文書などの結果に現れるのだ。ああいう行為は人間の欲望に根ざした行動だよ。勝った、負けた、損した、得したというそういう思考は、生きることは自分をこっち側に置き、他人や社会を向う側において、自分と分けている。そうやってプラスだ、マイナスだと、喧嘩腰の姿勢、人生を戦いの姿勢で生きていく。

お金は人間の欲望の記号であると考える、唯物史観のマルクスの世界観では、儲けるというのは相手の損が儲けとなるという考え方である。資本論のいう利潤とは、共産主義の考える利潤とはどこから来るか。ーーそれは資本家が、社会の労働者の実質的な賃金、つまり労働力の本来の価値から上前をはねて低い賃金で使って、その余剰のところで儲けようとしている、という考え方である。だから、進歩史観の最終状態の一歩手前の段階が自由主義であり、資本家が労働者の敵と考える。資本家を倒せば、国民全員が労働者階級で、共産党の一党独裁の平和で平等な社会になると考えた。実際の共産主義国家は、共産党が資本家の位置に取って変わっただけで、腐敗と矛盾はますます蔓延(はびこ)り、理論通りにはいかない。仏教的世界観(全元論)以外の国の世界観は、喧嘩腰の考え方だ。勝った、負けたとか、損した、得したとか分けて考えるのは欲望を肯定する考えである。すなわち、人間が生きるということは他人に勝つべきであり、他人より金持ちになるべきであり、他人より美味いものを食うべきという思考である。

つまり人間は、宗教がなくなり超越がなくなると自分の欲望しか生きるモチベーションがなくなる。日本以外のほとんどの国は、特に宗教的しばりが薄かったり、多民族多宗教の国は全部がそうで、さらに宗教がまた問題になる。ほとんどが一元論の宗教(一神教)である。一というのは、一と一とがぶつかると、お前の一は間違っているといって相手を叩きつぶすか、呑み込むか、あるいは鎖国(人ならば引き蘢る)するかである。だから宗教について、イスラムとキリスト教もそうであるし、同じ宗教でも分派すると骨肉の争いになる。一元論では無理なのだ。宗教であっても、一元論ではうまくいかないし、本来世界はそうなってはいないのである。

神も自分も含めて万物全体で動いているという思考を持たないと、世界には必ず矛盾が吹き出てくるのだ。イギリスのEU離脱問題も、同じ根っこで争っているから問題になる。国益で争っていると、お前の国益は俺の損ということになり、それでは解決しようがない。日本的な考え方(八紘一宇、英語ではウィンウィンの関係というらしい)でないと解決の道がない。

(5)奇跡の国、日本(24頁)

日本ではその「全体で動いている」という思考が、ずっと底流に流れてきた。さらにそうやって、全体が(′)一、全体で(′)一として国も文化も奇跡的に生き続けている。道元も文庫本にもなっているくらいだから誰もが知っている。いつの時代にも、さまざまな分野で、自分の仕事にベストを尽くし、お国の為に頑張っているし、時代が必要とすれば、その必要性に応(こた)える人物が必ず出てきている。

裏で大きく邪悪な陰謀(お金)が動いているのだろうが、世界の難民の問題などは、僕は、情けないと思うし、自分の祖国がそんな国に生まれた国民は、自分の祖国に誇りを持てない国民は、可哀想だともおもう。自分の祖国を捨て、他国の国民になることに疚(やま)しさを感じないのだろうか。祖国がそんな状態の時に逃げないで、身を捨てても自分達の国を良くしようという人物は出ないのだろうか。難民になってよその国に行って「差別されている…」などと不満を言うなんて、情けなく、可哀想なことだ。日本人なら困難な事態に遭遇したら逃げるだろうか。逃げないと僕は思う。また、かっての日本人は、外国と戦っても、仮に内乱があったとしても武士同士の戦いだけなので、虐殺などなく、日本人は逃げる必要も気もなかったのだろう。パナマ文書のように他の国で税金を逃れたりするなんて、よその国に行ってこっそりと自国のお金を外貨に換えて財産を隠すなんて、そんな思考で自分の国が良くなるはずがない。自分の命や、自分の権力や、自分のお金のために、平気で他者や他国や自然を、蹂躙し虐殺し汚すような人達が跋扈(ばっこ)する国が、良くならないのは当たり前のことだ。

驚くべきことに、僕の場合はこれまで子どもの頃に経験してきた事項が、ここに来てみんな納得されるのだ。海で溺れた時の体験(注1)とか、水晶の山(注2)とか、電話帳(注3)とか、かつての経験(時間)の縦のラインから横(空間)のラインを少し外すと、他のことが現成する。その日の予定も、たまたまの要素によって計画が中止になったり病気になったり、何ごともたった今の決断によって、変わっていくのだ。

運命的なのではなく、今、今、今と、未来に向かって開かれているのだ。過去はどうにもならないけれど、どうにもならない事項もまた、そういうことで成り立ってきたのだ。全体としてはそんな形で回っており、昨日も今日も明日も明後日も、たとえば津波があっても戦争があっても、ある程度のところできちんと終わっているし、終わらせたし、みんなでいつのまにか再興させた。日本がそうであるように、シジフォスの神話の人生観ではない、日本人の世界観(全元論)が世界に広まれば、いずれ世界もそうなるだろう。

それは存在の法則、存在の、全元論でいえば現成を公按しているということであるが、「真・善・美」は外に超越としてあるのでなく、こんなにも今(′)こ(′)こ(′)に「在る」ではないか。太陽は使用料を取らない。自然はモデル代も取らない。万人に対してそうである。「お前は絵を描かないのだから見せない」なんて決して言わない。善人にも悪人にも、勝者にも敗者にも、金持ちにも貧乏人にも、生物にも無生物にも、気前よくジャブジャブと恩恵を振りまいてくれている。するとブチブチと不満を言ったり、世の中に不満をぶつけたりなどは、とても考えられないのだ。

日本は奇跡のような国だ。今年(2017)は皇紀で言えば2677年で、世界でこんなに存続している国はない(ギネスブックに世界最古の国として登録されている)。一元論の国どうしによる戦いというのは、日本における戦争観とまったく違うのだ。日本以外では、文化も含めて相手を叩きつぶすという考えである。当時の先進国であり文化を誇っていた唐も宋も、今では中国にその姿が少しも残っていない。道元の先師であった如浄(にょじょう)や画家の牧谿(もっけい)などの先人を、今の中国人は知っているのだろうか(牧谿の作品は日本にしか残っていない)。ギリシャの哲学は、ギリシャでその後どうなっただろうか。ドイツの音楽もフランスの絵画も、もうその時々限りでせっかくあれだけのものが存在したのに、一時限りであった。

一方で日本は、良いものを残し続けてきた奇跡のような国家である。伊勢神宮は、あれは過去のものでなく、遷宮しながら今生きているのだ。パルテノンの遺跡とは違い、あんなにも美しくずっと生きて維持している。

だからギリシャで哲学好きの人がいたら、もしそれが日本人のようなら切歯扼腕しなければ。ギリシャ人が頑張らなくちゃいけない。「ギリシャでは景気が悪いから、どこかへ行こう」なんて日本人なら決して思わない。現実はたいていアメリカに行くわけだが。

ギリシャの数学者で面白い人物がいた。パパと呼ばれていたクリストス・パパ・モリアコフプーロスという人で、数式を解くのだけど、ポアンカレ予想に取り付かれたような数学者で、結局は解けなかった。最後はついにおかしくなった。まあしかし、ギリシャという国も哲学の発祥の地だし、あの時代にお釈迦さまも道元も、今より過酷な、戦争も内乱もある時代に生きていた。

日本人のこの資質はじつに素晴らしい。我々は、日本に生まれた幸せを感じるべきだ。存在すること自体も奇跡のような幸せだけど、さらによくぞ日本に生まれてきたものだ。だから、いろいろあっても大丈夫なのだ。そういう期は満ちていて、下に隠れていたように見えても国がおかしくなると、自分の身を捨てて国の為に尽くす逸材の人物たちが、明治維新の時のようにしっかりと出てくるのだ。

一昔前は、マスコミがそういう人物がいないかのように見せていた。しかし今は進歩的文化人と呼ばれたような人たちがむしろ危機を迎えている。朝日新聞の誤報問題もそうだが、およそ進歩的文化人というのは進歩史観を持っていた。戦後の丸山眞男とか朝日新聞、岩波書店などがそうだ。戦後のテレビや出版社には、戦後のあの時代特有の利得があった。美術の世界も、戦争画の問題で、良質の画家が、いわれのない追求を受けた。

しかし、最近ではネットで真相が叩かれたり、出版業界がおかしくなったりしている。とはいえ従来の一部の出版社がおかしくなっただけで、むしろ出版は売れているとも言えるのだ。いずれ志(こころざし)は、「真・善・美」は、しっかりと残っていくのだ。大本(おおもと)の原則、というか最上位概念というか、全元論でいえば世界存在そのもの、に添わないものは、どんなに金をつぎ込んでも、それが間違っていたら、つまり偽と分かっていることにいくら労力と金をつぎ込んでもうまく行かない。偽である限りはうまく行かない。あくまでも真でないといけない。あくまでも真・善・美でなくては存続できない。裸の王様は裸が真なので、どんなに、金と権力を使っても、偽は真にはならない。嘘は何度ついても、大声で脅したりデモをやっても、本当にはならない。竜安寺の石庭は今もちゃんと在るし、『正法眼蔵』は文庫本で書店に並んでいるし、モナリザは、デュシャンの作品で髭をかかれても、今も変わらず微笑んでいる。

(注1)実存的時空(溺れる)(30頁)

海で溺れた事もあった。これは、映画のワンシーンになりそうな場面だ。

アンドレイ・タルコフスキーの『鏡』という映画があって、自分の思い出を素材にしたシーンをつないで自分の一生を語っている。自分の少年時代と自分の子供、自分の壮年時代と自分の父親、自分の妻と母親の若い時、の俳優が同じ役者なので一見して分りにくいが、それさえ理解して観れば、優れて美しい作品である。もし『鏡』のような、僕の映画を撮るとしたら、これは、絶対に入れなければならない光景だ。

何故かというと、情景が美しいのだ。やはり小さい時の事で、幼稚園か小学一~二年生くらいか。母が僕を連れて、造船所の社宅の近所の母親とその家の子供と、四人で泳ぎに行った。二万五千分の一の地図では「獺越鼻」となっているが、そこは「オソゴエ」と呼ばれている鼻で、本当に美しい所なんだ。小さな岩をはさんで、白い小さな砂浜とゴロタ石の二つの浜があって、美しい所ではあるけれど、泳いではいけない。なぜなら、瀬戸内海は潮流が激しいから、とても溺れやすい。時間によっては、川のように潮が流れるから、本当は遊泳禁止だが、水際でポチャポチャと小さい子供が泳ぐくらいならいいだろうと、母は僕を連れて行ったのだろう。今ではもう、そこに下水の処理場ができて美しい砂浜は無くなっているが、堤防の下の岩は昔のままに残っている。

その日、白砂の方の浜で、母親達はござを敷いて、日傘をさして、ペチャクチャと喋っている。もう一人の子は何処で何をしていたか思い出せないが、僕は、波打ち際の岩から、浮き輪を持って、ボチャンと一人で飛び込んで遊んでいた。もっとも、飛び込むと言っても、立てば足がつくくらいの深さだった。そんな時、何かの加減でスポっと浮き輪が抜けてしまった。あわてて、子供だからパニックになって、本当は立てるけれど、それが分らずにアップアップする。

そして、水面の下で、視界がグルグル廻っていた。裏側から見た海の表面の明るさと、僕がもがいて出来た白い泡が印象的だ。そんな記憶も、事実かどうかは今となっては分らないけれど、そんな感じだった。スポっと抜けて、水中でもがいているうちに、偶然その浮き輪に手が触れて必死に掴んで、それで自分は助かったけれど、その最中の僕としては、もしかしたら死ぬかも知れない恐ろしい出来事だった。水の中でグルグル廻って、ちょっと水も飲むし、泳げもしないから、それは大変な事だったんだ。

それで、死なずに助かった僕が、母の所にそのまま歩いて行って、それを報告しようとした。大変だったことを訴えようとした。そうしたら母親同士でペチャクチャ喋っている。

やっと、僕の顔を見て言った。

「ン?ドーシタン(どうしたの)」

…僕は死にそうだったんだ。大変な事が起きたんだ。その時に、不思議な感覚があって、それは、いくつかの感覚に共通する感覚だった。それも、解釈は後年大きくなって分かるものだけれど、そういった感覚と同じものがそのときあった。つまり、空間というものは、人間の世界というのは、一つではないということ。

僕にとっては、生死を分ける恐ろしい空間だった。しかし、母にとっては近所のおばさんと話していて「どぉしたの?」というような感じ。

浮き輪を持った少年が、波打ち際から半べそをかきながら上がって行って、訴えようとしている。その情景を映画だったら、ござに座った白いパラソルのまだ若くて美しい(映画では)母親が隣のおばさんとペチャクチャと喋っていて…、砂浜には誰もいなくて…、少年が母親の所に行ったら、あっけらかんと「どうしたの?」と言う。これを、映画のワンシーンに入れたら美しい。美しくて、世界が不思議で。…母の様子も、これも解釈だから実際にどうだったかは、厳密には分らないけれど。

僕は、溺れたという事をそのとき言わなかった。「ドーシタン」と言われたから、う~ん…何だか変だなと思いながら、黙って呆然としていた。

あっちの空間と同じ時間を、自分が過ごしていたとは思えないというギャップ。溺れていて、浮き輪にしがみついたときにパっと砂浜を見る。しがみついて、必死に見る。そうして、僕の視線は向こうの情景をとらえるわけだ。

映画でいえば、「これは同じ時間の出来事だぞ」と表現する。同じ時間でありながら、同じ空間で起きた出来事であるとは、とても思えないという不思議。

僕が何故そんな事を覚えているのかというと、やっぱり、「なんか変だなぁ…。不思議だなぁ…」と思っている。思っていると、次々にそういう事が続く。そういう不思議さ。「なんだかなぁ…。変だなぁ…」という事が累積されて、世界は変だなというか、なにか、きっちりと一つになっていないという事を子供の時から感じていた。

(注2)実存的時空(水晶の山)(33頁)

今度の出来事は小学2年のころのこと。これは、記憶を辿ると同じ社宅に住んでいた櫃本君が小3の時同じクラスで、彼が大きなグレーの水晶を持っていた。その水晶を見たのは、ずっと後のことなのでその事から推理すると、たぶん小2のときの出来事だろう。

小学校の裏の山の上で、水晶が採れる場所があった。子供だから、鉛筆の先くらいの、小さな水晶しか見付けられなかったが、それでも、透明な6角錐の幾何学的な形は、自然の内部にひそむ抽象的な美しさを僕に教えてくれた。

そういう場所を誰かが見付けたのか、昔からあったのか、社宅の裏に住んでいた上級生の高橋のケンちゃんが「水晶ガトレル場所ヲオセーテモロータケン、コーチャン一緒ニ採リニイカンカァー(水晶が採れる場所を教えてもらったから、浩ちゃん一緒に採りに行こうよ)」と言った。学校が終ってから、家の廻りで遊んで、それから二級上のケンちゃんにそう言われて、二人で行ったんだ。もともと、出かける時間がそもそも遅かったのと、低いとはいえ山に登らなければならないから、もうドンドン日が暮れる。その場所に着いたら、もう辺りは薄暗い。急いで探して、やっと小さいのを1個見つけたくらいで、どんどん暗くなって心細くなる。

「もう、帰ろう」という事になって、それから帰るわけだから、とても暗くて、山の中をベソをかきながら、やっとの思いで家に帰った。実際、昔の夜というのは今の夜と違って家の外は暗く、とても恐ろしかった。それで、必死になって、どうにか家に辿り着いた。

家に着けば、当然ながらホっとする。「着いた…!」と一安心だ。そうして裏口から入っていくと、いつも通り、家族は皆で夕飯を食べていた。テレビはまだ市販されてなく、昔の労働者の一家の夕飯は、毎日家族全員が揃って喋りながら食べる、他にこれといって娯楽のない当時の楽しい時間の一つだ。そんないつもの時間に、皆でいつも通りに食べていた。

皆で食べている場に、僕が帰ってきた。そうしたら母が怒って「モー、イツマデ遊ビョールン(もう、いつまで遊んでるの)!」と言う。いつもの食事時間なのに「イッタイ、ナンショッタン(いったい、何してたの)?」というわけだ。その叱られた事が悲しいというのではない。

そこでもやっぱり、溺れたときと同じ感覚があった。僕が、その日、たまたまちょっといつもと違う場にいる。これも又、後からの解釈だけど、いつもの僕はそちら側で食べている。日常生活のルーティンだから、普通に食べているわけだ。しかし、たまたまその日、僕が水晶の山に行ったから、そういう事になった。そうすると、その時間とこの時間が同じところにあるというのは、何か変な感じがするのだ。

たまたまちょっとこの世界の中の、ちょっと場所が違ったり、ルーティンが変わると、そこには又違う時間と世界があった。僕が家に帰ったときに見たちゃぶ台の前の一家団らんの情景と、今までの自分の恐ろしさと心細さで一杯だったあの空間が、同じ空間にあるという事がどうにも不思議。そうすると、ルーティンの日常生活でない世界が、無数にあるわけだ。ちょっと水晶の山に行っただけで、空間と時間があんなに変わるんだ。何か変な感じ…。世界というのは一つでありキッチリと動いている、という日常の感覚とは、異質のものと出会った。

こういう感覚が、今の絵にも出てくるし、現在の僕の世界観の元になっている。そういう体験から、こうやって後から解釈している。あの時の僕は、叱られたから悲しいといったような、そういう事ではなかった。裏口から入っていって、いつもなら僕が本来いるべきテーブルで、皆が夕飯を食べているという事と、それまでの自分の恐かった体験との取り合わせが、何とも奇妙な感覚だった。

(注3)高校転校の事(35頁)

僕が幼少時の体験からできあがった世界観が現実の、僕と僕の家族の人生に大きな変化をもたらす事になった。

玉野高校一年の夏休みの前に、同じクラスの佐々木君が父親の転勤で二学期に千葉に転校するというので、クラスで送別会をおこなった。佐々木君は玉小、玉中と同窓で高校も同じ、彼の父親も僕の父と同じ造船所に勤めていた。その親しい身近な友人の転校の話を知って、僕の心は激しく動き始めた。

当時、造船所はタンカーの造船受注で好景気だった。船の大きさはどんどん大きくなるし、工法の違いもあるしで千葉県市原市の埋立て地に新しく千葉工場を造っているところだった。玉野工場からの転勤は社員みずから望み出てくれれば会社は渡りに船である。という事は、父が申し出さえすれば僕も東京の近くの千葉に転校できる。身近な友人の転校話が持ち上がって、俄に他人事だった話が現実味をおびてきた。

終湯まぎわでガランとした社宅の浴場で、浴槽のふちに腰掛けて足だけ湯に浸け…僕は決断した。

「千葉に行きたい…」「千葉に行こう!」

その夜父に、「千葉に転勤の願いを出してくれ」と頼んだ。唐突な話だが、理由に、「千葉には千葉一高という進学校があるのでその高校に行きたい。転入試験を受けて頑張って入るから僕の将来のために親父の余生を賭けてくれ」と父に頼み込んだのだ。

そのころの会社の定年の年令は五十才だったので、五十一の退職後の父はあと五五才まで嘱託で造船所に勤める事になっていた。貯金は無かったが退職金の一部の八〇万円で田井(地名)に土地を買い老後に備えていた。それが、突然息子がそう言ったからといって、「じゃあ、千葉に行ってみるか」なんて…珍しい親子だよネ。息子が息子なら、親父も親父だ。父の人生観は前に述べたが、父系にも母系にもファンキーな血が流れていて一家が現状にこだわりの少ない家風だったのだろう。

転入試験といっても、どんな勉強をしていいか分らないので、夏休みに中学校の教科書で基本的な勉強をおさらいして転入試験に臨んだら、それがうまく当たった。千葉高の数学の転入試験の問題は、基本的な問題で三問しか出なかったのだ。それが、全問できたからか千葉高に転入する事ができた。

当時は自分の気持ちを分析出来なかったが、今はうまく説明が付く。

僕の世界観は、一人ひとりのすぐ横に可能的な時空がたくさんあって、その時空の一つを他の可能的時空と一緒に生きている、というものだ。例えれば、人生は電話帳のようなものだ。たまたま開いたページの人生を生きているが、同時に、ページを変えればそのページの人生が開けてくる。幸運も、不運も、死さえも、可能的時空のページを、「今」、「ここ」、のすぐ横に抱えながら生きている。…という事は、現実が絶対ではない。今、ここ、の生活はタマタマの事なのだ。ページを変えれば新しい時空が出現する。

玉野高校に入学してすぐに僕はサッカ-部に入った。それは、当時テレビで『青年の樹』(石原慎太郎原作)という番組があって、そんな青春もいいなあ、という思いからだった。部員が少ないのと(当時は野球が全盛でサッカーはマイナーだった)もともと運動神経は良い方だったので、すぐにレギュラーになった。そして、高松に遠征しての他校との練習試合の後半に出場して、僕のせいで負けてしまった。初めての試合に、舞い上がってしまい状況判断がつかず走り廻ってスタミナ切れしてしまったのだ。試合後僕は泣いてしまった。

翌日、僕は退部した。上級生から引き止められたけれど、もともと自分には向いていないのかなあとうすうす感じていた所だったので、決心は変わらない。

部活はやめたけれど、人生は控えている。目下の行動を失ったら、急に自分の一生のストーリーが立ち上がって来る。このまま、ここで生きていけば、つまらない平凡な一生で終るだろう。今のページで生き続けるなら、僕の人生は決まってしまった。現実の人生とはこんなものなのか。こんな事の総体が人の一生なのか。

僕がこんな状態のときに佐々木君の転校の話があったのだ。

僕が、僕の新しいページを開き千葉でその後の人生を歩んだように、後々結局僕の家族も全員千葉に引っ越して来た。そして、僕の父の転勤願いのせいかどうか分らないが、佐々木君は父親の転勤が取り止めになり玉野高校に残った。

(佐々木君は後に千葉の大学を卒業後、玉の造船所に就職し、玉の同級生の出世頭だそうだ)

(6)お釈迦さまも現成した、誰もが現成した(38頁)

ちなみに美とは決して「人それぞれ、百人百通り」ではない。美は、真や善と同じく実存の内在ではない。これは描写絵画における大前定である。人それぞれだとしたら、「自分、自分!」と主張する表現主義になる。そんな表現主義は、真とか美という超越的なものでないから、もう、話にならない。

僕は、東洋の仏教的全元論という世界観から、西洋哲学の世界観を見ると、西洋の「分けて、また分けて」と対立的に考える考え方には無理があるのだ、と考える。神と人間を分け、人間と動物を分け、生物と無生物を分け、人間も、心と身体を分け、心も主観と客観と分ける。分けて考えるのは、いや、世界はそうでない、世界はそうなってはいない、ということだ。世界とはこうである。自己はない。人間中心主義でもない、全元論で世界存在の時間のラインを考えたら、自己なんていう、世界存在の別の時空から差し込まれた物は一個もないでしょう。このラインで考えたら「自己が出現した。では存在は?」などとはならない。どこかから自己がいきなり飛んできたわけでない。自我の存在と同じように、人格神の存在にも矛盾がある。人格神の周りの時間と空間は、誰が創造したのかという疑問だ。世界を人格神が創造したのなら、その神の存在する時空は誰が創造したのか。

この世界のなかの出会いは、平等である。なにも「お前は天からの啓示のもとに…」とのお告げがあるとか、その種の話でなく、お釈迦さまも道元も現成したし、それ以外の人も誰もが現成し、過去から現成し、今現成し、未来へ現成し続けるのである。すると、当然ながら霊魂という存在もない。全元論では、今(′)、こ(′)こ(′)という世界存在の全体から別の存在を、認めないのだから(神も自己も世界の内に在る)、霊魂というものは、身体から離れ、分かれて、特別にあるのではない。ただし死で、自分の存在はすべて終わるというわけではない。

このラインは僕が死んだ後も続いていく。ピタゴラスの定理はピタゴラスの前から世界にあったのだ。それを、ピタゴラスが発見し、ピタゴラスの死後も存続している。だから、実存主義のように、死んだら全部終わりだ等の説はとんでもない。僕の世界に存在した因は、未来永劫に、ずっと続いていく。しかし、人はまた生まれ変わって…というのを信じる人もいるが、僕の考えはこうだ。岡野岬石は過去にも未来にも一人かというと、まず、僕という存在は分けられないのだ。たまたま今両手を叩いたら、パンという音がして音に現成したり、因と縁で現成したりであって、生まれ変わる等の話はそもそも世界観が違う。過去の誰かが僕に生まれ変わった、などということは絶対にない。

死後の霊魂不滅論には矛盾があるのだ。誰かが誰かの生まれ代わりだとか、死後の霊魂があるとしたら、幾つの僕だというの? 仮に5歳で死んだらその霊魂は5歳になるのか。さらに、一瞬一瞬に現成するとしたら、5年前の僕と今の僕とではまるで違う存在なのだ。また、僕がアメリカに行ってアメリカで死んだらその霊魂は英語を話すのか。そして何度も離婚していたら、家族もいつの時点での家族なのか。あるいは人との間も、喧嘩する前の自分なのか、喧嘩後の自分なのか。霊魂という存在を考えると、時間という軸を入れるとおかしくなるのだ。

その霊魂は何を着て何語を話すのか、親父がもし40歳で亡くなって、自分が60歳で死に、子どもが80歳まで生きたとしたら、3人はどうやってどの空間で会うのか。それは論理的に矛盾してくる。そもそも死ぬ直前は、ふつうは病気などで弱っていたり、老人ならばボケたりする。ならば弱っている霊魂のまま行くのか。もし全盛機の霊魂が行くとしたら、それこそ元気な人が突然の落石に遭って死亡というような死に方しかなくなる。そもそもストーカーの天国は、ストーカーされる方の地獄なのだから、霊魂の世界でつきまとわれてはかなわない。そういう存在の仕方であるということが分かると、時間軸の問題があるからそういった考え方は僕から見ると話にならない。

神も人間も僕も、万物全部がこの世界の内にある。そして「今」「ここ」しかない。過去は運命的に変えられないけれど、これから先は今日の決断によって、違う世界が分岐現成してくる。だから僕は引越しが大好きだ。子どもの時に世界は「不思議だな、電話帳みたいだな」と思った。別のページを開くと別の世界がある。自分が子どもの時に漠然と感じていたことが、今になって「世界はそうなっている」と僕は実感している。

お釈迦さまの前はバラモン教があり、さらに以前にも似たような宗教はあるけれど、禅宗ではお釈迦さま以前の仏を「過去七仏」という。お釈迦さまが最初なのでなく、お釈迦さまの前から存在し、それをお釈迦さまに引き継ぎ、道元等、次々と伝承しているということだ。お釈迦さまの以前の教えは、大まかにいうとこういうことである。世界のダルマ(法)をブラーフマン(梵天)といい、世界は曼荼羅のようになっていて、世界のカルマと自己のダルマのアートマンを整え一致させることが悟りである。

ヨーガもそういった考え。自分の体(小宇宙)を自由自在に制御できれば、外側(大宇宙)に対しても自動的に制御できると考える。お釈迦さまの世界観とどう違うかというと、自己と世界を分けて考えるからそうであって、本当は自己と世界がみな含まれるのだ。ブラーフマンとアートマンは全体の内に在っても、分けられないのだ。ここのところが、道元と親鸞の「一切衆生 悉有(しつう)仏性」の解釈の違いでもあるのだ。

(7)時間も空間も〈今、ここ〉とズレてはいけない(42頁)

一般には、ブラーフマンとアートマンを分けたほうが考えやすい。ブラーフマンとアートマンの一致同調した世界は、西田幾多郎は「主客合一」「絶対矛盾の自己同一」といっているし、坂本繁二郎は「捨身本能覚」といっているし、道元は「身心(しんじん)脱落」といっているが、主客合一の世界を、身心全体で理解体感するのは難しい。禅では「不立文字(ふりゅうもんじ)」といって、悟りの世界は言葉ではいい表わせないといっている。だから、ブラーフマンとアートマンを分けた世界で説明します。世界と自己を分けて、世界はそうなっているのだから、自分はこう生きるしか仕方ないだろうと考えるほうが分かりやすい。たとえば、昆虫の話がある。これはフェイスブックの他の人の話だが、ある人のベランダのプランターに、キアゲハの縞模様の大きい幼虫がいて、サナギになりかけていた。鳥に見つかると食われるという危険もあるが、幼虫がそれくらい大きくなると、鳥でなくむしろ寄生蜂に体内に産卵されたりする。また、食草のパセリが足りなくなって、買ってきて与えたりすると、死ぬ場合があるので、無事に蝶になるのはけっこう難しいものである。

アゲハ蝶は、春に一回夏に一回と、年に二回蝶になる。夏に羽化した蝶は、産卵しその幼虫が大きくなって、秋サナギで冬を越して翌年に飛び立つ。その話では秋口の時に、大きくなった幼虫を家の中に入れてしまい、サナギになり、やがて蝶になり「良かった!」と言って外に逃がしたとのこと。

しかしそれは、蝶にとってはありがた迷惑なことだ。そんなふうにして外の世界に送り出されても、自分が生きていくにあたって花がない。交尾する相手もいないし、卵を産むのに適した草もない。僕はもともとファーブルや虫の話が好きで、関連本も読むのが大好きだった。しかし、この話は世界の構造に合っていない。そうやってズレていくのだ。

芋虫の時は食草をモリモリ食べて、食べること(口と消化器)に特化して虫は成長する。やがてサナギになり次は蝶々になるが、こういうのは完全変体。ちなみにバッタは、小さいバッタが大きいバッタになり、こちらは不完全変体である。なぜ、芋虫から蝶になるというような、ドラスチックな完全変体をしなければならないのかというと、単に芋虫がその場で成虫になるだけなら、交尾相手は自分の兄弟になるから、やがて種が劣化する。だから今度は交尾に特化する。交尾する時点で羽があるとチャンスが多くなる。つまり飛んでいって種の違う交尾相手を見つけるので種が新しくなるし、卵を産むときにも色んな場所に産卵することができる。

そのように頑張って、結果として子孫が二匹が成虫になったら、種としてはOKだ。大発生も絶滅もあるが、ともかくそうやって維持できる。問題はサナギだ。サナギというのはたいへん危ない。人間も同じで、外は硬く中が柔らかい。人間もたとえば今は男も女も、社会に出るにあたり、しっかりと完全変体しなければいけない。大人になる直前に危ない時期があるのだ。外は硬いけれど中はものすごく微弱で、なおかつ激烈な変化が内部で起こっている。サナギと同じような時が、人間にも思春期にある。

次は羽化。蝶は、羽化のときの場所の設定がけっこう微妙なのだ。サナギになった時と、羽化する時と、周囲の状況が変わったら、縮んだりきちんと広がらなかったり、けっこう危ないのだ。体液を翅脈(しみゃく)に送り込んで小さくたたまれた羽をきっちりと広げる。それをしっかりと乾かして一人前の蝶になる。だから仮にサナギを本来と違う場所に置いても、脱皮まできちんと上手にさせてやらないといけない。それらのプロセスの全部の面倒を見ないといけない。

何を言いたいかというと、外の環境と本来の時間・空間とがズレてはいけないということ。時間的にズレても、空間的にズレても、昆虫は生きてはいけない。空間的にというのは、違うところに、たとえば周りの環境と気温や湿度等が違う場所に持って行ってはいけない。時間的にというと、本来の羽化の時間でない時に家の中で羽化させても、その後、花の蜜くらいはあったとしても交尾の相手もいないし、食草もないし、蝶にとってはじつにありがた迷惑になる。

人間も同じである。天の理、本来の律に従わないといけない。律でも構造でも、ゲシュタルトでもいいが、全体から切り取って、ぱっと横に置いても人間は生きてはいけない。そこを敢えて、金と力で無理矢理に横車を押しても、すべては諸行無常だ。そうでなく、全体のなかの自分の位置で、しっかりベストを尽くす。そうすれば全体も部分も、国家も国民である自分も悪くなるはずがない。

分けていくということ、対立的に考えるということが、すでに根本的に間違っているのだ。神と人間もそうだし、心と身体(からだ)もそうだし、自分と他人もそうだし、善と悪もそうだ。そもそも悪は分けられない。磁石が、N局とS局を分けられないように、仮にそこだけ囲っておいて、これを抹殺すればあとは良い世界になるかというと、そんなことはない。他者の悪がなくなることはない。仏教と違う教えを信じる人のことを「外道(げどう)」というが、お釈迦さまは外道とは争ったり、戦ったりはしていない。道元は『正法眼蔵』の「諸悪莫作(しょあくまくさ)(注)」という章で、見事な論旨でこの点について書いている。

(注)諸悪莫作;七仏通戒偈(しちぶつつうかいげ) 過去七仏がともに守り続けてきた戒めの偈(げ)。 諸悪莫作,衆善奉行,自浄其意,是諸仏教 (あらゆる悪をなさず,もろもろの善を実行し,みずからその心を清らかにすること,これこそ諸仏の教えである) 」という意味の詩。

(8)パズルのピースがぴっちりと嵌った(47頁)

僕はもともと広範囲に興味があった。たとえばジグソーパズルの全体を思い浮かべてほしい。僕の場合、ばらばらにピースを持っていたとしても、興味のある部分のそれぞれにピースを寄せ集め、各々の島がいくつもできていた。そこで、全元論にいたった近ごろは、それまでの島同士がカチャカチャと、ピッタリとうまく嵌り合う。これはじつに感動的だよ。しかもピースは平面だけでなく立体である。空間だけでなく、今度は時間軸も出てくる。そうなると、平面のジグソーパズルどころか立体的に、ものすごく分かりやすい、堅固な構造の世界観が出来上がるのだ。

だから相手の論理に、ちょっと違うところがあると、それが分かる。「ここが飛び出てしまっていない?」とか「そこ、ズレているぞ」等、すぐに見えてくる。自分の目の前のものは、きっちりと秩序ができている。しかし、もし壁に墨のようなものが付いていると、それは破調であり、ズレているということがすぐに見える。それでは論理がおかしいのだ。

近ごろ余計に、そういうことが可能になってきた。「世界はそうなっている」のだ。「僕が」ではない。道元もお釈迦さまも凄い人だけれど、道元やお釈迦さまを含めて本来の世界がそうなんだということ、世界存在全体がそうなっているということ。万物が、万人がその世界内に、その世界の構成物として存在し生きているのだから、画家の場合は、それを美に持ってくる。イチローならバッティングに持ってくる。それぞれの世界に持っていくのだ。

さっきの話で言うと、ほとんどの人は、僕と同じ時代に生まれた人は同じだけのピースを持っている。僕は子どもの頃から、ピースを各々まとめてきたから覚えている。しかしほとんどの人にとって、ジグソーパズルのピースがただ、ばらばらになっている。しかし一塊(ひとかたまり)にすると、一つだけを覚えておけばいから覚えておける。ギンヤンマ(注)というと、あの塊が出てくる。しかし一個一個のピースがバラバラなら、全部を覚えないといけないので、これは脳のなかにあっても記憶として取り出すのは不可能だ。僕は、全部が生きている。だからとても面白いよ。全元論という言葉が頭にひらめき、それとマンデルブロー集合と、時間軸の存在と…。そういう存在で僕が生きている。自分のやることがはっきりと決まってくる。

自己の世界観がしっかりとしてくると、自己そのものの悩みなんてなくなってくるのだ。「ないもので悩んでいる」ということ。そういう話が出てくる。雪舟の絵にあるが『慧可断臂の図』の話である。慧可というのは、達磨の弟子である。達磨がインドから中国にやってくるのだが、その前に、達磨と武帝との会話が面白いのであるが、武帝というのは仏教を庇護しており「これだけやっているのだ」という自負もあった。それで「私はやっている」という思いから達磨に「何かいいことがありますか?」と問うと達磨は「何もない」と答える。仏教はそもそも、なにか利得を得るためというような、そんなものではなく、質問自体が達磨からしたら、もう話にならないだろう。

武帝もムッとして、では「仏教の一番の根本義は何か」聞くと達磨の答えは「廓然無聖」とひと言であった。青空のように天地一杯の清々しい境地に入れるよ、ということである。

武帝はそれを聞いても何を言っているか理解できずに「私の前に座っているお前は何者か」と聞くと達磨は「知らん」と、答えたという。これらは僕なりの解釈であるが、武帝は、身分や職業や名前、つまり世俗社会の存在としての達磨のことを聞いたのであろうが、ともかく「そんなこと知るか!」ということだ。

達磨はそれで西の方、少林寺に行き、やがて洞窟で「面壁九年」となる。壁の前に9年座り続けて、達磨さんになり中国禅宗の祖となる。そこに弟子が何人か来るのだけど、その弟子の一人が慧可である。禅宗の一祖が達磨で、慧可が二祖。禅宗というのは、お釈迦様の二祖が摩訶迦葉(まかかしょう)が一番近いのだが、お釈迦さまはおよそ生き方を説く。一方で禅宗は世界を説く。世界観の元になるものは同じであるが、地域性もあるだろう。

さて、慧可断臂の慧可であるが、もともと勉強家で、達磨のところに弟子入りしたらいいと聞いてやってきたが、達磨はまったく出てきてくれない。それで雪の中で膝まで雪に埋もれてじっと待ち続け、やがて慧可は肘を切って達磨に差し出して弟子にしてもらった。その逸話は伝説のようであるが、ともかくそうやって弟子になった。

雪舟の『慧可断臂の図』という絵は、肘を切って差し出す場面。そして慧可はその後、修行しても修行しても心のモヤモヤはとれません、という自分の苦しみを達磨に尋ねる。達磨は「では明日、君のその心をここに持ってきなさい」と言った。そこで慧可は翌日「昨日一晩、ずっと探しても、私の心は見つかりませんでした」と言う。

達磨の答えは、「それは良かったね」というような言葉だった。そこで慧可は悟った。ーーここは分かりにくいでしょう。分からないけれど、普通の会話で、もし達磨でなかったら「何を悩んでいるの?」とか答えそうだ。

(注)ギンヤンマと仮説演繹法(51頁)

科学の方法である仮説演繹法について話そう。

仮説演繹法というのは自然科学の方法である。ある現象を、統一的な因果率で認識しようというアプローチの方法なのだ。具体的には(1)仮説の設定、(2)その仮説により実験観察可能な命題の演繹、(3)その命題の実験観察のテスト、(4)その結果が満足なものであれば、さきの仮説の受容。その結果が不満足なものであれば、さきの仮説は修正または破棄される…という四つの段階をへて一つの見解が成立する。

こういう方法をとっていくのが仮説演繹法なのだ。仮説と実験観察。

逆もある。公理から個別に向かうのとは逆に、個々の具体的な事実をいっぱい集めてそこから共通点を見つけて、こういう法則があるのではないかという原則を立てるのが帰納法だ。

この、演繹と帰納を、僕は子供のときからいつの間にか遊びの中でやっていたんだ。たとえば、僕にとってはギンヤンマを捕る事がそうだった。ヤンマは最初、偶然に捕れた。僕がまだ幼い時だったので、捕れっこないと思っていたのに偶然捕れた。捕れたら嬉しくて感動する。どうして捕れたんだろう…。そこで今度はいろいろと実験を繰り返す。

そうすると、魚をすくう網でないと捕れない。目の細かい白い昆虫網では、チラッと見るだけで近づいて来ない。そういうことを何度か繰り返していって、次第に、トンボには網の動きが蚊柱のように見えるのではないかという、結論に達した。…その後も、知識が増えていくと、複眼という問題がある。単眼と複眼とでは、見える構造が違うらしい。

複眼というのは、動くものがすごくよく見える。たいへんよく認識できる構造になっているらしい。ところが、動かなければ何ともない。ジーっとしているものは、トンボには見えない。見えてはいるのだろうが、認識できない。一方、動くものにはすごく反応する。

その実験は、厳密には昆虫ではないが、子供にとっては同じ虫のハエトリグモで試した。まだ水洗ではない当時のトイレにはよくハエトリグモがいた。ハエトリグモは網を作らず、チョコチョコ歩き廻って餌を捜す、動きがユーモラスで可愛いいクモだ。獲物の手前から、三センチくらいピョンとジャンプして虫を捕まえる。そのハエトリグモに死んで動かないハエを与えても跳びつかない。目の前に死んだハエを置いて、そのハエをこよりでチョコチョコっと動かしてやると、とたんにパッと跳びつく。

つまり、ギンヤンマには、目の細かい白い昆虫網では実体が見え過ぎるのに比べて、タマ網を勢いよく振るとボーっと小昆虫の集団に見えるらしく、そのため餌と勘違いして網の動きを追うのだろう。本当にそうかどうかは分らないが、僕はそういうふうに子供ながら思ったのだ。

(9)上位概念でしか解決できない(53頁)

本来そうでない位置で、そうであるかのごとく、余計なことをしているのだ。そこを相手にしてはいけない。上位概念を持たないといけないのだ。慧可の悩みも「ある」ことを前提としていくと、自分の心の悩みは永遠に消えない。自己の煩悩は、自己そのものを放下解脱しなければ、煩悩の種は尽きない。達磨は「良かったね」とだけ言い、慧可は「ないものを、あると思って悩んでいた」ということが分かったのだ。慧可の逸話で「お前の心を持ってきなさい」というのは、じつは上位概念でないと解決できないよ、という話なのである。

これは僕が以前に、『発言小町』という読売新聞のネット掲示板で見た話であるが、「5000円のチケット事件」とでも呼んでおこう。内容はこうである。まだ結婚するかどうかは決まっていないカップルで、デートは割り勘と取り決めている二人がいた。発言小町に投稿したのは女性のほうで、内容は、ある時に二人で7000円の食事をした。女性がその店の5000円の食事券を持っていたので精算時に出した。男性は、「おお、ラッキー」と言って残りの2000円を1000円ずつ出したらいいと思った。

しかし女性は「なに言っているのよ!」と抗議してちょっとした喧嘩になった。男性は2000円を払って、外に出てから「金にシビアだな。引いちゃうよ」と女性に言った。女性は納得がいかずに「こんなこと言われたけど、皆さんどうおもいますか?」と掲示板に書き込んだ。その板に読者が書き込むわけだが、僕は回答がすぐ頭に浮かんだ。僕は、皆が書き込んだ回答を見たのだが、しかし、すぐに僕の頭に浮かんだ回答は、たくさんの回答のなかに一個も出てこない。たくさんあった回答は「そんな男性とは別れなさい」とか「ワリカンだと、あなたの出す金額は3500円だから、1500円男性からお金をもらいなさい」とか少数派では男性で「サービス券を割り勘分なんて、女性もせこいな」とか。

僕の回答は簡単で「このトラブルは忘れなさい。今後あなたは、ワリカン分はいつも現金で払いなさい。食事券やサービス券等は、あなただけか、家族などあなたがオゴッテもいいときに使いなさい。それで問題はない」ということ。そうしないと「どっちが正しいか」を論争すると、どちらにも言い分はあるのだから、いつまでも解決はない。一神教の宗教どうしの争いや、一元論どうしの論争も調停はできない。

そういう考えで世の中を渡っていたら、5000円のチケットで別れる、別れないと言っていたら、今後もトラブルの連続だろう。仮にその男性と別れても、人生には別れられない関係もある。家族や隣人や会社の同僚など、別れられない関係でいつも正しいか正しくないかと相手と論争していたら、ずっと解決しない。仮に、その問題が解決して、男性との関係が続いても、その女性の一生は、どっちみち周りとのトラブルの連続になる。隣の人ともそうだし、会社の同僚との飲み会で、チケットを出して「おつりをちょうだい」なんて言ったら怒られるだろう。

これは、上位概念で考えないといけないという例である。あるか、ないか、というと悩みを「あるもの」として慧可は考えていた。しかし「その悩みは何なの、その悩みを言ってごらん」と言われて仮に話しても、それで一つの問題が解決したとしても、自我意識という悩みの種は消失していないのだから、ずっと永遠にその種の問題は尽きることはなく、廓然無聖(かくねんむしょう)の畢竟地(ひっきょうち)には至れないのである。つまり上位概念で考えないと解決しないのだ。「明日、心を持ってきなさい」と言われて、悩みのほうに行ってはいけない。それではあることを前提としている。これらの諸々の出来事を含む世界の最上位概念が、全元論なのだ。

(10)漱石は僕には面白くない(56頁)

芸術というと、昔の子供が最初に出会うのは美術や音楽ではなく、学校の図書館での本(文学)であるのだが、小学校の5年生頃から僕の本好き、活字中毒は始まった。学校の図書館で、自分で選んで、手探りに読み散らかして、自分にとって面白い本を探していったのだが、小説家でいうと、夏目漱石から大正ロマンのあの辺が一番ダメだなと僕は思っている。それと「戦後民主主義」も同様だ。漱石に比べたら中学生の時に読んだ志賀直哉や森鴎外の方が面白かった。夏目漱石は有名だし、『坊っちゃん』や『我が輩は猫である』等は大衆小説なので、最初に読むのだけど、どこが面白いか分からなかった。それでも、その後何度も漱石の他の作品に挑戦するのだけど、そのつど本を読み進める興味がわかなかった。『三四郎』『草枕』『こころ』……、面白くなかったなあ。分からないというより、何を作者は書いているのかというと、3Dアート(ランダムドットステレオグラム)でいうとランダムなドットの世界なのだ。日常生活、世俗、世故のことを書いていて、世間がどうとか情に棹させば…とか言っても、それらは俗事だ。主人公の懊悩も、世俗との関係の悩みだ。今になっておもえば、漱石の、西洋近代哲学の自我意識を強調する世界観が、僕にはシンクロしなかったのだろう。

自分で本を借りて読もうと思って、子どもの頃に学校の図書室に行っても、アドバイスもガイドもないので、どういう本を読んでいいか分からない。何から手をつけていいか分からないから、手探りの行き当りばったりで適当なものから読んでいった。「少年少女偉人伝」の類のシリーズにエジソンなどがあって、そこで記憶に残っているのが塙保己一の名前。この本を選んだのは山中鹿之介や塙団右衛門のような英雄豪傑だろうと思って、借りたのだが、国文学者の話で、予想がはずれた。予想はずれで面白くなかったが、その時に、自分に決めた「決まり」は、一度借りたり買ったりした本は、なにしろ最後まで読み通すというものだ。そうしないと、途中で投げ出すという悪い癖がついてしまう。関孝和の和算などは、読んで面白くはなかったが、そのころこんな世界と人生もあるのかとおもい、読書に興味が広がった。そうやって、手探りで読み広げて、やっと自分が面白いとおもい、自分から熱中して読んだのは国木田独歩だった。

国木田独歩の『画の悲しみ』『馬上の友』『非凡なる凡人』『源伯父』『忘れえぬ人々』『春の鳥』などはとても面白かった。また、よく覚えているのは、志賀直哉。志賀直哉はたいへん印象に残っていて『清兵衛と瓢箪』では、清兵衛が瓢箪作りに熱中するのだが、いろいろあって山ほど作った瓢箪は、最後には捨てられてしまう。

これは僕のメンコでの体験(注)に通じるものがある。一生懸命に熱中して何かを作っても、若いときの一時期に終わるならまた別のものに向かって復活する道もあるのだが、もしそれが一生の最後にゴミになってしまったら、その人の一生はたまらないではないか。しかし、では何がゴミになるのか、何がゴミでないのか、そこは分からない。

僕は高校の途中で芸大受験に転向し、結果的に画家として一生を過ごし、今に至っている。その時の、人生の分岐は「おお、やっと自分の進むべき道、ゴミではない道に当たったぞ!」と思った。当時は、大学の進路を考えると、色んな可能性を考えた。数学の数式を解くのに一生をかけるとか、昆虫の研究とか、自分の一生をかけても興味の尽きそうにない、いろんな道があるが、しかし哲学や数学や昆虫の研究をやっても生活のためには、哲学や数学や生物の先生にならないと生きてはいけない。ところが絵は、それに全人生を賭けてもやりがいがあるし、なおかつ絵で食えるかもしれない。生きていけるかもしれない。哲学では生きていけないので、どこかの先生になったり売れるような本を書いたり、何かしないと、生きていけない。まず世俗のハードルを超えなくては生きていけない。

絵なら生きていけるかもしれないが、「かもしれない」と覚悟を決めたら、もしうまくいかなくても仕方ないのだ。それを禅では「百尺竿頭進一歩」といい、竿の先に登ってまだ先まで進め、ということである。つまりそれでは「死ぬではないですか?」と言っても「死んでもいいではないか、一歩進めよ」という話だ。

道元も言っているのだけれど、何かをやるためには、先延ばししてはいけないのだ。生活をきちんと成り立たせてから何かしようとか、病気がすっかり治ってから出家しようとか…。発心(ほっしん)したら即やらなくてはならない。これは在家の人に対していっているのではないけれど、何かをしてからにしようとか、そんな心得違いでは、短い一生のあいだに発心し、成仏することはないのだ。

(注)メンコでの駆け引き (59頁)

メンコ(僕の地方ではパッチンと呼んでいた)でも、それぞれの技術を競う。手の技術と、ゲーム全体の考え方。技術の問題として捉えるのと、もう一方で、上着の下のボタンを外して服の風も利用する等いろんなインチキなやり方も含めて、大人の世界と同じ事だ。そして暴力も。

もちろん、本気でやり取りする(ホンコ。遊びはジャラコ)ので、一枚ごとの取りっこはまどろっこしくて小さい子だけ。僕達の勝負は、リンゴ箱のような台とか、階段とか、階段状の場所を使った。

その台の上に何人かが、五枚出しとか一〇枚出しとか最初に決めた枚数を出しあう。上にひとかたまりにしておいて、最初は下に二、三枚置いておく。ジャンケンで順番を決めて、順番に自分の親札のハタいた風圧で、上の札を下段に落とし、下の札と、裏と裏か、表と表で二枚が重なれば(語源は分らないがテッションと呼んでいた)全部のメンコが自分のものになる。ちなみに、裏と表が重なるとオンメン(オス、メス)と呼んだ。

メンコが三枚以上重なって団子状態(クソと呼んでいた)になると、これは罰金で五枚出しの場合は五枚出して上の固まりを整えて、次の番のひとから再開する。

このゲームのコツは、上の固まりの札を乱暴にバラけさせると、後に続くひとにチャンスを与えるので、落とす札に狙いをつけたらその札1枚だけを下に落とす技術をマスターすることだ。その方法はネ…こんなことを言い出したら切りがないなぁ。

メンコのゲームで大勝負になると、下の札をギリギリに詰めていく。詰めていくと、上から落とした札は殆どが三枚以上に重なってしまう。そうすると、上の札が罰金で山のようになる。みんなの勝負の狙いどころは下の札のいちばん外側のメンコに上の札を落とすことで、その場合だけにテッションの可能性が少しある。

社宅の子供がメンコをよくやる場所は、集合浴場の入口のセメントの階段で、一番上の踊り場に溜まりを作り、下の階段に札を落として遊んでいた。端っこを狙うほかに、リンゴ箱に比べて、階段は高低差が小さいので、落とす札を階段の立っている面に滑らせて落とし壁に寄り掛からせて下の札と重ねる、という超難度の技をマスターしている子供もいた。要は、努力なしには勝てないのだ。また、その努力が勝ち負けという結果につながるから、楽しいんだ。

しかし、大勝負になると、技術だけで勝負は決まらない。腕力に自信のある、あるいは年上の相手だと、自分がテッションした時に、グズグズしていては駄目なんだ。グズグズしていると、必ず難癖をつけられる。いいがかりは何でもいいんだ。「ここの、繊維の一本が、毛が隣のパッチンと重なっトローガ…」でも「上着の下のボタンをはずしトル…」でも、何でもいいからイチャモンをつけて、自分らの負けを阻止するんだから。

勝った時は、嬉しくても自慢する暇はない。「テッション!」とか「取った!」とか「やった!」と宣言して、すばやく場を崩さなければ駄目なんだ。必ず誰かが難癖を付けるんだから。

年下の場合や腕力に自信がない子供はどうしたらいいんだ。

大勝負になって、罰金罰金でメンコの数が大きくなるし、勝負が決まる時間も長くなると、ギャラリーの子供も次第に増えてくる。

そういう時に、一人、ギャラリーの中で味方を付けるんだ。まだ勝負の決まらないうちに「オメー(お前)、かき集め係やってクレー」と頼んでおく。「取った!」といったら、その子が手伝ってさっさと場を崩して大量のメンコを集める。その代わりあとで二、三〇枚(数人だと一〇枚づつ)メンコをやるんだ。

もし、一人で孤立すると、勝負に勝っても、難癖をつけられたり、勝ったメンコを家に持ち帰るのを「勝ち逃げスルンカ」などと言われて、色んなハードルがあるから、仲間をあらかじめ作っておく。年上の連中は、大人の話していることを聞いての受け売りだろうが「勝負は下駄を履くまで分らない」と言っていた。たぶん、賭場から出る時に下駄を履くまで、つまり勝負を終えて帰り支度をするまで、勝ち負けは決まらない、というような意味だろう。そういう風に、実体験というのは、そんなもんだ。一人でやるコンピューターゲームとは違う。いろんな事があって単純にはいかない。

いつも負けている子も、色々と考える。弱い子は、いつも「つばめや(玉にあったおもちゃや)」にパッチンを買いにいかなくてはならない。その頃、鋏で切り離して使っていたメンコから、新しいデザインの相撲パンというメンコが出てきた。化粧まわしの実在の相撲取りが両手を顔の横に上げた形の、矩形ではないメンコで、一枚づつ打ち抜いた今でいうブランド品だ。弱い子どうしがこのメンコで遊んでいる中に加わろうとすると、相撲パン以外はダメだという。そのために、今まで使用していたメンコの価値が暴落し始めた。最初の頃は、それでも相撲パン一枚と並みのメンコ三~五枚と交換していたのが、一〇枚になり、そのうちにもうただの紙切れになってしまうのだった。倒産した会社の株券と同じだ。あの頃僕の持っていたリンゴ箱一杯のメンコは、最後にはクド(かまど)の焚き付けに母に燃やされてしまった。

後年、何かの小説で、似たような話を読んだ。…昔、エスキモー(昔はこう呼んだ。イヌイット)の長老が死ぬ前に一族の前で言った。「皆の将来の生活は心配無い。◯◯に充分な貯えを埋めてある。私の死後それを皆で分けなさい」。死後、そこを掘ったら、厳重な木の箱の中にカンが一個入っていた。カンの蓋を開けると、中には錆びた釣り針が何10本か入っていた。…という話。

そういうことがまったく無駄だったかというと違う。いろんな遊びを経験してきて、すべて面白かったが、芸術が一番面白い、という事を気付かせてくれた。だって芸術は、何と言っても、人生を賭けたゲームだもの。僕の一生を賭けたゲームだもの。この面白さはないよ。他のゲームは、賭ける物がメンコとかお金とかだが、こっちは、人生を賭けているんだ。目的は、金銭や地位や権力という相対的な価値ではなくて、絶対的な超越に向かって、自分の人生を賭けるのだから、だからハイリスク・ノーリターンの芸術は人間の最高の放蕩なんだ。

いい絵が描けなければ、ほかでどんなに成功しても負け。その代り、人生は不幸でも、いい絵を残せば勝ち。だからゴッホなどは僕からみれば、人生は悲惨でも、あんなに美しい絵が描けてうらやましい。

(11)修証一等(63頁)  

曹洞宗の二祖で、道元の最初の弟子の懐弉(えじょう)が、『正法眼蔵随門記』を書いている。これがまた面白いのだ。道元が宋から帰国したとき、あちらから日本に帰るときは空海や最澄は法具や経典などの多くの土産物があったし、僧にかぎらず、ふつうは何らかのお土産を持って帰ったものだ。ところが道元は手ぶらで帰ってきた。帰国してすぐの言葉が「空手還郷、眼横鼻直(がんのうびちょく)」というものだった。まあ「手ぶらで帰って来たよ、眼は横に付いている、鼻は縦に付いているという当然のことが私の持って帰ったものだ」というような意味である。

宋から帰って一時建仁寺に仮寓していた道元をたずねて、法戦を挑んだのが孤雲懐奘であった。懐弉は、三日三晩と言われるが、ずっと道元を相手に論破しようとしたが、最後は道元に心酔して師事を願い出た。実際に師事できたのは道元が深草に移ってからであるが、ともかく道元の教えを伝え、広めることに懸命だったのが懐弉である。

懐弉が道元に出会う前に属していた達磨宗、今では日本達磨宗と呼ばれるが、無認可というか異端扱いのようなその教団から、のちに多くの僧が道元のもとにやってくることになる。彼らが曹洞宗の僧の中核となっていったとも言える。その懐弉が、論戦のすえに「まいりました」と、道元に心酔した肝心なところは何かというと、ひと言でいうなら「修証一等」である。座禅というのは修と証があって、証は証明の証でありつまり悟りにむかって、毎日、毎日、修行する。それが座禅でしょう、と懐弉が言ったら、道元は違うと言う。

じつはこれとよく似た話が中国にあり、六祖の慧能に関わる逸話である。しかしその前に懐弉と道元の論戦の結論をいうなら、悟りのために行くというのは、違う。修証一等である、と道元は言うのであった。修証一如(いちにょ)ともいうが修と証は一つなのだ、というのが道元の説。修と証は分けられない。ここが肝心なところで、全元論はすべてのものは分けられない。全てのものは全体から分別して存在しない。

千歩の道も一歩からといって、千歩のなかの一歩一歩はすべてが平等でどの一歩も分けて全行程から外せない、じつは千と一は一つなのであるということだ。懐弉は、その時、道元の言葉に心から打たれ、深く納得し、その後の彼の人生はぴったりと道元に影のごとく終生仕えた。『正法眼蔵』をはじめとする道元の膨大な著書が記録として残されているのも懐弉の筆写や原稿の整理などのサポートが大きな力になった。懐弉自身の著者も、道元から直接聞いた言葉を懐弉が『正法眼蔵随門記』として残した。懐弉は、示寂(じじゃく)後の自分の墓は道元の近くに、仕える者として埋葬されることを望んだ。

先述の、六祖慧能のそっくりな話というのはこうである。五祖弘忍という人物がいて、初祖達磨から数えて五祖だから達磨の嫡嫡伝承者である。慧能はもともと薪を売って母一人、子一人で生活していた。ところがある時、読経の金剛経の一句を聞いて、一切を投げ打って弘忍のところに参じた。

それまで母を養っていたが、銀10両ほどを出してくれる人がいて、母に渡して慧能は家を出ていく。しかしすぐに修行ができるのではなく、米つきの下働きのような所にいた。後に、他の寺で正式に「具足戒」を受けて出家するのだが、当時は「廬安者(ろあんじゃ)」とよばれていた。弘忍の弟子の僧のなかでは、筆頭ともいえる神秀(じんしゅう)がいて、神秀が弘忍の法嗣(ほっす)となるだろうことはもう周知のことだった。

弘忍の後継者を決めるにあたり、悟りの境地を的確に詩に表しなさいと弘忍が言った。そこで神秀が壁に書いたのは「心は鏡のようなものだから、塵や埃で汚さないように…」といった内容。しかし慧能は別の壁に「心も鏡も本来ないのだから、塵や埃を払拭する必要がない」との詩を書く。そこで神秀よりも慧能を評価した五祖弘忍は、米をついていた作業場に来て、慧能に、自分の法衣を伝衣(でんえ)した。伝衣にはいろんな方法があるとされるが、自分が敵敵伝承した法をお前に嗣(つ)がせたという意味だ。法衣を渡してこっそりと逃げさせたわけだ。正式な僧でもない、年月も経っていない慧能が、弘忍から嗣法されてそのまま寺にいては神秀の一派から疎まれ、襲われるおそれがあるので、寺から出奔させた。

慧能は法衣を持って隠れながら過ごしたが、やがて慧能の優れた法力が次第に理解され、慧能のもとに優れた俊英たちが集まってきた。そして、慧能の流れのほうが南宗禅(神秀の方は北宗禅)としてその後興隆していく。このあたりは僕なりの説明になるが、ともかくそのときの鏡の世界観が、修証一等と似ているのである。修と証を分けない。「悟りの世界は、向こうにあるのでなく、自分の中にあるのでもなく、向こうにあり、こちらにあり、向こうとこちらと分けられない。向こうとこちらを分けない全部の存在が、世界存在の真の形態(かたち)だ」、というのだ。分けてはいけない。つまり、全体は要素に還元できないのだ。

(12)「天地一杯」の先人たち(67頁)

禅宗は自力本願と言われるけれど、そもそもお釈迦さまは拝む対象ではない。自己は何かというと「天地一杯」である。つまり、存在全体はフラクタルな形態なのだから、マンデルブロー集合のように、微小な部分も全体と自己相似形で天地一杯なのである。達磨は廓然無聖と言っているように、そこには「自己」とかそんなものはない。神も、仏も、自我も、物自体も、存在全体から分けられないし、今ここから分けて別の時空に存在することはあり得ない。だから、拝む対象としての神も、拝む自己も世界全体から分けて存在できない。主観(内)も客観(外)も分けられない。心も身体(からだ)も分けられない。そういった形態(ゲシュタルト)で存在は、今ここに現成公案しているのだ。

その辺が分かると、自己というものは、世界の構造と同じものがその中にもあるのだ。全体と自己相似形で、しかも細胞レベルまでずっと続く。人間のこの複雑な身体も、もとは一個の卵である。卵子が一個あって細胞としては一個から始まる。そして、各細胞は、外部を動脈の血液で取り込み、静脈で排泄しながら、身体全体は分裂しても分裂しても、情報は全部つながっている。この一個の中に、時間と空間が凝縮され而今(にこん)の存在というものがある。そうやって、ずっと分裂していって一人の赤ん坊になって出産する。

各々の時間をすべて積算して今がある。これは天地一杯ではないか。精神として考えなくても物としてもそうなっている。人間だけでなく、身近にある物も全部、天地一杯の結果としてここに現成している。これを懐弉も、弘忍も、よく分かっていた。弘忍も五祖だから、慧能を見て「こいつ、分かっているな」と思ったであろう。突然に弟子入りしてきて、その働きぶりを見ていたのだろう。そういったエピソードが、お釈迦さまや道元の周りに、もうたくさんあって、滅茶苦茶に面白いのだ。

禅問答というくらいだから、最初は何を言っているか僕も理解できなかった。しかし、分かってくると全部、過去の人物もただ物語とか禅の寓話というのでなく、あの時代にそういう生き方をした人間が累々と存在したということが、じつに素晴らしいと思う。今と同じように生きて、たぶん今より生きること自体がもっと厳しい時代に、そんな生き方があり、実際に生きたのだ。

こういう人物は、外国では奇人変人の部類に入れられるだろう。西欧でもアッシジの聖フランチェスコなどもいて、たいへん似ている。世界がそうなのだから、あちらにもいる。そしてやはり宗教的奇人扱いされている。一般の人の生き方と違って、芸術家も宗教家もおよそ奇人変人にされてしまう。しかし日本人の場合は、一般の人にもその辺りがよく分かるのだ。芭蕉の句をよく理解できる。

(13)数学に人生を賭けた人(70頁) 

神があるか否か、自己があるか否か等の最大の全体の概念は、全元論から考えたらなんと簡単なことかと僕は思う。世の中の悩みもトラブルもそうである。僕が『清兵衛と瓢箪』や昆虫の生態などと比べて面白くないな、と思った読みものは、全部が、四苦八苦している欲望を是認して、欲望や執着に囚われた人たちのことを書いていた。なんと面白くないことだろう。

ドフトエフスキーの小説に『賭博者』という作品があって、自身も賭博癖による借金で悩まされた。人間の欲望の記号であるお金にかかわるドラマは、それはそれで充分面白い。しかし、目的とするお金そのものは、人間の執著(しゅうじゃく)に耐える価値があるのだろうか。たとえばメンコの面白さ(注)を書いても、それは上位概念ではない。それでも僕はメンコの面白さも体験していたのだから書けるのだ。しかしそれは、上位概念ではない。なにしろ全元論が最上位概念なのだ。道元が言ったからでなく、世界がそうなっているのだ。子どもの頃から漠然と感じていたけれど「世界はそうなっている」のだ。だから今は嬉しくてたまらない。

佛教関係者で一般には有名になっていないけれど、古の教えを伝えている素晴らしい人物がたくさんいる。最近では澤木興道(1880~1965)という人。宿無し興道と言われ、各地に参禅道場を作った高僧で、無所得の座禅、つまり目的を持つことさえもやめてただひたすら坐るということを説いた。まさに只管打坐で、座禅の教育にも貢献した。

こちらは知らなくても、世の中に隠れた偉大な人たちは、これまでジャーナリズムの光が当たらなくても実際はいたのだから、実像もやがて明らかになる。だから、あのひどかった民主党政権の政治もいずれ元に復活するし、絵の世界では僕がいたようにじつは、それぞれに然るべき人物はいるのだよ。たとえば僕は無冠だ。どこの美術団体にも属していないし受賞歴もない。しかし、こうやってきちんと存在しているのだよ。

グリゴリー・ペレルマンというロシア生まれの数学者がいる。数学ではフィールズ賞というノーベル賞以上の賞があるが、賞を辞退した。ペレルマンは「ポアンカレ予想」を証明したことが驚くべき功績なのだけれど、フィールズ賞だけでなく百万ドルの賞金の付いたミレニアム賞も辞退している。

お母さんと二人で年金で細々と暮らしているような人で、今も表に出ることを避けて研究を続けている。自分が広く発表したというよりも、僕のサイトもそうだけど、たまたまのように公表していた資料から巷で「おい、解けているぞ…」と、次第に有名になった。数学のあの種の証明はきっちりと審査されるから、関係者が皆じっくりと検討した結果の受章で、そんな凄い人物がじつはどこにでもいるのだ。NHKスペシャルで「100年の難問はなぜ解けたのか」として、7年ほど前に取り上げられたこともある。

数学では、数学に人生を賭ける。これ、想像がつかないという人がいても、僕にはよく分かる。集中するあまりおかしくなったり、それでも解けない問題がある。ゲーデルの不確定性定理が出てから、結局、真か偽か分からないという問題も存在することが分かった。それまでは、すべての命題は真であるか偽であるかだったのが、真か偽か言えない問題に、もしそんな問題に深く関わったら、数学者としての一生が無駄になってしまう。もともと真か偽か分からない問題に出会ったら、その理論体系に矛盾がないことを理論体系の中では決して証明できないのだから、どこまで行っても行き着かない。

だから途中でおかしくなる人は一杯いるのだ。自分では解けなかったり、解く方法論が間違っていたりする。ペレルマンは問題を解くにあたり、当時花々しく流行していたトポロジー(位相幾何学)を使って解かれるだろうといわれていた問題を古典的、物理的な手法で解いて数学者をも驚かせる。ともかく凄い。受賞とか賞金に関係なく、数学で一生を過ごす。つまり禅の「天地一杯」と対峙しているのだから、自分の背後の世界は目に入らないし、聞きたくもないのだろう。

(14)塵を払え、垢を除かん(73頁) 

そういう天才的な人、世界中の色々な奇人変人と呼ばれる部類の人も、仏教的な世界観では、ぞくぞくと出てくる。今は便利なネットで検索すればキリなく出てくる。禅宗の三祖僧燦(そうさん)は立ったまま死んだと云われている。達磨から三代目の人物で「僕はこれから死ぬから」と、木の枝を握ってそのまま死んだり、釈迦十大弟子のうちの一人アヌルッダ(阿那律)は、お釈迦さまの説法の時に寝てしまい、あとでお釈迦さまの前で「私はもう横になって寝ません」と誓ってずっと座ったままだったり。

まあ凄い。そういうペレルマンのような人はたくさんいる。お釈迦さまの弟子で周利槃特(しゅりはんどく)という人は、兄に付いて教団に入ってきたが、少々頭がとろくて、偈(げ)という韻文などを一つとして覚えられない。周囲は出家修行が難しいと思い「もう帰れ」と言ったが、自分にそこが合っていると思ったか、その精舎の外で泣いていた。そこにお釈迦さまが来て「お前は、塵を払え、垢を除かん」と、この一つの言葉だけ覚え唱えて掃除をしなさいとだけ言った。その一つだけの教えを周利槃特はずっと守って、掃除してピカピカに磨くことを続けていた。あるとき、掃除をした直後に他の人に汚された。汚された周利槃特は怒りの気持ちが自分の心に湧いた。しかし、その瞬間に彼は悟った。

なぜ悟ったかというと、何回掃除してもすぐに汚れる。心もすぐに汚れる。どうせすぐに汚れるといっても、汚れたらまた毎回、毎回、掃除したらいいのだ。汚さないようにではなく掃除をする。心もそうである。

周利槃特は、釈迦の十大弟子ではないが十六羅漢の一人になって、日本では人気のある人だが、とろいと思われた人も、そこで悟ったのだ。何かたいへん素晴らしいではないか。世界をそのように認識するといいのだ。つまり汚すとか、汚されるとか、対立的に分けて考えるものではない。内と外、自分と他人を分けて考えるから、他人に汚されたと、怒りの気持ちが起こったのだ。お釈迦さまは「塵を払え、垢を除かん」と言ったではないか。垢は自分から出るもの。そのためには毎日、毎日、一回悟ったからといって止めずに、また毎日毎日の掃除のように繰り返す。これは僕にはいちいち納得が行く話である。ちなみに、仏教では出家者が克服しなければならない煩悩のことを三毒「貧・瞋・痴(とんじんち)」といって、瞋(じん)は怒りのことである。

お釈迦さまはすごいね。そういう覚えられない人には「塵を払え、垢(´を付ける)を除かん」のひと言だけ憶えて掃除をしなさいと言ったのだから。ここにいてもいいよ、ということだ。他の人は彼が覚えられないと言って、分けて考えた。そこが素晴らしいと思う。概念が広いと、こういう言葉が出てくるのだ。

道元に関わることはもう、そんな宝庫ばかりなのだ。江戸時代に風外慧薫(ふうがいえくん)という禅宗の僧がいて乞食風外とも言われた。風外にはもう一人、凧風外という人がいるが別人。良寛さまも、道元の本を読んで涙したというが、その乞食風外も凄い。

風外の伝説的な話で僕が聞いたのはこうだ。風外は弟子たちがいたが置いて寺を出た。心酔していた若い僧が行き先を探しやっと何年か後に見つけたところ、乞食村のようなところで風外は最低の生活をしていた。そこで若い僧はもう一度弟子にしてほしいと懇願したが、風外は「紹介状を書いてやるから、そこに行きなさい。お前にはここは無理だよ」と断ると、「いいえ覚悟してきましたから是非…」と、なんとか弟子入りすることが出来た。

まもなくその乞食部落で亡くなった人がいて、風外はその弟子を連れて葬式で読経し弔ってやった。弔いが終わって、では飯を食おうということになり、風外はそこで亡くなった人の残していた物、病人だった人の残り物で雑炊のようなものを作った。そういう物だからふつうは気持ちが悪い。そこで風外は普通に食べたが、若い僧は何とか平然と食べようとしたが、気持ち悪くて吐いてしまった。食べようと努力するのだが、身体が拒否反応をしてしまう。

そこで風外は「そうだろう、お前には無理なんだよ」と言う。気持ちが悪かった。身体が受けつけない。そう言われて若い僧は、泣きながらその村を去り紹介されたところに行ったという。凄いだろう。オーバーに書かれた伝説かもしれないが、本当のことで、風外窟と呼ばれる洞窟の跡などが見つかっている。真鶴のあたりで亡くなったが、生活していた痕跡がきちんと伝わっているのだ。

伝説ではなく実際にいたのだ。そういう人物が歴史の中で脈々と流れている。中国の高僧伝などを読むと感心するが、しかし今、その人達の痕跡は、今の中国ではどこに行ったのかということだ。「真・善・美」という良きもの善き人、そういうものを残していたら、現在の中国共産党幹部の生き方では、とても恥ずかしいだろう。悪や偽や醜は断たなければならないが、「真・善・美」は過去から伝承し、未来へとしっかり伝えなければならない。

(15)恥を知る(77頁)

「恥を知れ」と言うが、今はおよそ恥がない。恥ずかしさを知らない生き方は、多くの有名人や政治家のように、晩節を汚(けが)して悲惨な結果になる。真善美があるから真があり偽があり醜がある。しかし真善美はないとおもっている人にとっては、真善美は人それぞれ時々によって変わるという世界観の人にとっては、恥ずかしさもなくて、何をしても平気になる。

僕は子どものころの体験から、恥を知るということに付いて、薄々感じることがあった。何度か話した体験談だが、、父の勤務先の造船所に児島荘(現在は名前が違う)という宿泊所があり、船会社の高級船員やクライアントが泊まったりする贅沢な施設だった。その高級船員用宿泊施設の管理人兼コックとして、僕が小学校の3年生の時に転勤してきた家の子どもがA君という同級生で、僕はよく遊びに行った。昼間はだれもいないから、ロビーにテレビがあってビリヤードをしたり、その上にさらに台を置くと卓球台になったりで、僕たちはそこで自由に遊んでいた。

その頃の造船所は、タンカーの受注で舟も大きく、景気もよくて、その船が完成しての進水式は華やかなものだった。6年生の時、セレモニーを見学する他の小学校の児童を乗せた貸し切りバスが児島荘のすぐ前に止まった。僕と同じくらいの年齢の子どもたちであるが、バスの窓からは、ちょうどブロック塀の上からロビーの中が見えていた。すると、男の子は敵意の眼差しだが、女の子たちは「ネェ、見て見て!」とささやきあっている。どこのお坊ちゃま?というような目で僕たちを見る。子どもなのにビリヤードをしているから、ホテルのロビーのような室で、同じ年ごろの男の子が自然に遊んでいるのを、憧れの目で見るわけだ。

たしかにそんな目で見られたら、もの凄く気持ちがいい。しかし僕は、本当は違うわけだ。住んでいるところは社宅だし、そこにたまたま遊びに来ているだけで、お坊ちゃんでもなんでもない。A君もその施設の従業員の子供だ。この状況はかなり恥ずかしい。自分はそうでないことを知っている。しかし向こうの目は、同じくらいの年齢の男の子なのにビリヤードをして、こんな生活をしていて、いったいどんなお坊ちゃまだろう?という視線なのだ。この時の複雑な、恥ずかしさと気持ちよさの入り交じった気持ち…。すなわち自分の本当の姿とバスの中の女の子に写っている姿とにはギャップがあり、それに気づいている。人の目から見た姿と、僕の本来の姿とには大きな違いがある。これに気づくとたいへん恥ずかしい。

ところが、ベンツに乗ると急に偉くなる人がいる。あるいは高級腕時計をつけると偉くなった気がしたり、女性にしても旦那が偉くなると、あるいは偉い人と結婚すると急に自分が偉くなった気分の人がいる。「お前、お前が偉いわけでないだろう」と言いたいが、そのギャップに自分では気づかずに、そうなりきってしまう人が多い。もともとの真の自分の姿の認識がなければ、ギャップもないのだから、恥ずかしさも起こりようがない。恥ずかしさを知らない人たちである。

子どもの頃に、僕はそこに気づいた。僕は40代に、髪の毛が薄くなっても自分がカツラをつけるという選択肢は、まったく頭に浮かばなかった。だって本当の自分を知っているのだ。カツラをかぶったら髪がふさふさして見えても、本当の姿を、僕は本当は知っている。よく平気でいられるな、と思うのだ。ブランド品を着ると平気で急に態度を変えたり、整形手術をしたり、カツラをつけたり、タトゥーを入れたりとか、そういった発想はまったく思い浮かばない。だって、本当の自分を知っているだろう。よく恥ずかしいと思わないな…ということだ。

本来の真善美がある。真善美のダルマ(法)は世界存在を貫いている。しかし、ウソは百編ついたら本当になると思っている人もいる。百編ついても千編ついてもウソはウソなのだ。お金と、権力でいくらごまかしても、ウソはウソなのだ。一方でウソを平気でつけない人もいる。ウソをつくと良心がとがめる。ウソと本当の概念がない人は、すぐにその姿になってしまうことが出来る。だからブランド品が好きだったり、車なら高級車に乗りたがったり、そうすると人の目が違うといってトクトクとしている人がいるのだ。

(16)ただのリンゴ、描写絵画(80頁)

このような話がいくらでもあるというのは、これまでの諸々の体験と知識の集まりが、ジグソーパズルの途中の島どうしがガチンと組み合わさって、一つの世界観が現成されたからなのだ。だから、僕の話はどの方向にも延々と伸びるし、一見関係ない話も次々と繫がっていく。バラバラに在った島が一つの世界に形成された。この全元論の世界観に至った、真・善・美の大きな島での出会いが、2010年に始めたイーゼル絵画(美)と、そのころ読み始めた道元(真)が絡み合って、現在僕はこうなったのである。イーゼル絵画の良さについて少し話そう。イーゼル絵画、つまり描写絵画だね。描写はリアリズムで、リアリズムでは世界の実在を信じないと描写は成り立たない。「この世界は本当に存在しているのだ」「世界は実在しているのだ」という前提がもし虚妄だったら、世界存在がウソだったり、幻想だとしたら、描写というものの意味と価値はありえないことになる。

西洋の印象派以降の、後期印象派までは描写だった。日本の花鳥風月もそうだった。それが今、イーゼル絵画と道元の全元論とで、完全に今僕は、自分のやっていることが正しいといえる。描写しなければならないのだ。創造も自己表現もない。

フッサールにおいては、要は「記述するだけ」である。あるものを記述するだけであると、現象学では言う。現象学は主観と客観とエポケー(スイッチを切る)するだけで、主観と客観を分けて認めているので全元論とは違うが(注;このことは、神秀と慧能の偈についての解釈で、別に取り上げます)、ともあれ、創造するのでなく記述するだけ。実在を真のものと考えない限り、描写は成り立たない。ドイツ観念論からの西洋近代哲学の人間の側に寄った世界認識、その極端な支流の実存主義では、アプリオリな実在を真なるものと考えないので、小説でいうところの「意識の流れ」になってしまう。私の美校生時代の周りの芸術、文学も映画も音楽も演劇も、解りにくい自己満足の作品が多かった。実存主義では、意識のほうが本当だと考えるし、そう考えればそういった作品になるのは仕方がない。美も真もアプリオリにはないのだから、他者には解りにくい、美しくもない、本人だけの真実と本人だけが感じる美を表現するのも当然である。

ところがセザンヌや、日本でいえば花鳥風月では違うのだ。全元論的世界観の日本で、特に分かりやすいのが松尾芭蕉である。例を引けば「古池や蛙飛び込む水の音」である。古い池にカエルが飛び込んだ音がした。これ、素晴らしいだろう!と外国の人に言ってみても、とても理解できない。なに? 正岡子規の、柿を食っていたら法隆寺の鐘が鳴った。それがどうしたの? ソーファット?と言われるだろう。

セザンヌが分かるということは、それだけ高度なことが分かるのだ。外側の描写だけであって、芭蕉は「私はこう思った」とか「私はそれを聞いた」とか言わない。しかし、この句には全部が入っている。つまり香厳撃竹なのだ。「竹に石がぶつかった」それだけ。凄いだろう。それが分かる人がいることが凄いのである。こういうものを作る人がいる。外国の人に言ったら、池にカエルが飛び込んだなんて、それがどうしたと言われるだけである。

これがまさに描写絵画の真骨頂だ。絵画で言えば、ただのリンゴ、ただの洋梨、ただの山、ただのひまわり…。ただそれを描いて凄いということが分かるのは、あの少しの間の時代、西洋の印象派の時代と、日本美術だけである。世界的にそんなものは、過去にもなかったし今もない。

逆に「ただの描写」でないとは装飾であったり、意味であったりする。意味とは、だれを描いたか、つまり裸のマハを描いたとか、法皇を描いたとか、神話を描いたとかその意味内容を問うものだった。一方で、ただのなんでもない風景、ただの人、モジリアニのただの牛乳屋のお姉ちゃんとか、ただのリンゴとか、その種のものがわあっと来て凄いと理解できるのは、イーゼル絵画を勉強した人か、日本人だけである。そういう人以外には、絵をそのように捉えられる人はいなかった。稀有のことだったのである。ただ描写しただけで、いったいそれが何なの?とずっと言われて来たし、カメラやパソコンがあるのにまだ見て描いているの?と言われるのだ。

しかし芭蕉が石川啄木になると「東海の小島の磯の白砂にわれ泣きぬれて蟹とたはむる」だ。東海の小島の磯の白砂に、というそこまではいいよ。しかし、われ泣きぬれて、って泣きぬれてどうするのだ。自分の手をじっと見て、あなたの生活が良くなろうとどうであろうと、世界存在にどう関係がある?ということだ。お前が泣きぬれたとか、関係ないよ。まさに僕の言う「5000円のチケット」だし、それは夏目漱石なのだ。

そういうのは、禅の人から見たら破門と言われるよ。棒で叩かれるよ。しかしイーゼル絵画と全元論では、啄木や漱石とは明らかに違う。全元論では世界は分けられない。そして世界はオールオーバーである。オールオーバーとは、どこにも穴がないし、どこにも差別がない。物も、人も神も世界も、すべてがだあっと連なって、今、今、今と現成している。そしてこのように素晴らしい。太陽は人を幸せにして、明日も出てくれる。人間が代わってできるものではないし、誰かが、代わってやると言っても誰にもできない。神にもできない。神も自己も物も世界存在全体の中に含まれているのだから、そして各部分は境界線でもって全体から分けられないのだから。

(17)富は独占したら意味がない(85頁)

結局、アメリカもロシアも中国もみな国柄が違うのである。日本は全員が底力があるから成り立っているのであって、アメリカのように個人の力ではできないことを、強引にやろうとしても難しいのだ。トランプもクリントンも、どっちが大統領になっても、あるいはもっと凄い人物が就任しても無理なのだ。大統領制でやろうとしても、個人の力ではどうにもならない。全体をうまくやって底辺にまかせても、自分は大きなところだけ舵を取るくらいとしても、大統領制では無理。

全体と部分が自己相似形で、その形が真・善・美に沿っていないと、体制は長くは続かない。世界存在の法と、全体と部分の形を一致させないと、事象は毀れるのだ。日本の歴史が、神武天皇の即位以来、2677年一国で存続し続けているのは、全体と部分の形の一致という、世界のなかで、特異で稀有な国柄のおかげなのだ。

ソ連の破綻も同様のことだった。どういうことかというと、フラクタルにしないと、世界がきっちりと回るのは無理なのだ。仮にトップ集団が全部を決めていこうとすると、すべての事項をぴっちりと決めないといけない。たとえば僕が絵の額を作るときに、後ろにビスをつけるが、ビスを修理したり付け替える時に、もし大きさのばらばらなビスを使っていたら、穴の大きさもばらばらになるから、後から合わなくなる。だから同じ物を使う。あるいは他のビスをを買ってきても、穴のサイズはどのメーカの製品も合っていなければならない。

そのように、全部がぴっちりと行くようにしようとすると、各々の部分部分ががきちんと正確にやってくれないといけない。中国で一つだけ団地を造ったがゴーストタウンになっている、というのはもう当たり前の結果である。マンションを一つだけ作っても、エレベーターはどうするのか。水も届かなければならない。トイレも機能しないといけない。住んでいる人たちの職場やそこへのアクセス手段も必要。すべてをきちんとやって初めて成り立つのである。

実際は2、3軒の人だけ住んでいて、水をもって上がっているという話も聞く。水道からゴミ回収からすべてが機能しないと生活できない。隅々までそうであって、いくら工場を造っても、ビス一本の納入が遅れたら生産ラインは止まってしまう。ビス1本の原料、生産、納入、それを使っての製品の組立、販売、使用、修理、廃棄処理まで、それだけでなく、道路も車も、働いている人も家庭も国も、すべてがうまく円滑に回らないといけない。この全部のことを、一部の支配層が計画して出来る訳がない。

そのように世界はなっている。世界の構造がそうなっているのに、自己の欲望で、自分だけ金持ちになろうとしても、世界中の富を独占したらその富は意味がない。子どもの頃のメンコと同じで、メンコの全部を僕だけ持っていても意味がない。パソコンも特別に凄いハードを一人だけで持っていても仕方ない。電話も一人だけ持っていても使えない。みんな持って初めて活用できるのだ。理想的、自発的共産制というか、そういう意味で日本はじつに素晴らしい。貧富の差も少ない。資本家と労働者とか、勝ち組と負け組とか、党幹部と党員と市民とか、そもそも分けることは本来の構造に反している。

絵も同様である。絵はオールオーバーで、ここが中心というのを作ってはいけない。すべてが同価値で、空も富士も湖も全部、どこにも穴がなくて同価値にすると美しくなる。世界はそうなっているのだから、描写すると絵もそうなる。僕がしているのでなく、世界がそうなっているのを僕は描写しているだけ、記述しているだけである。

作品で「古池やかわず飛び込む水の音」と言っているだけである。そこに芭蕉が入り、蛙も入り、天地一杯に時間も空間も現成するような作品になってくれたら理想的である。だから自分が入る余地がない。あるいはただ、天地一杯だと言っているのだ。

(18)セザンヌもゴッホも見えている通りに描いている(88頁)

一生ただ、絵だけをやってきた僕が、こんな世界観の所まで来ることができたのは、つまり「世界がそうなっている」ということである。今伝えたいことは、僕の個人的な世界観の主張ではなく、世界がそうなっているということを伝えたいのだ。

存在の全体があって、時間と空間と存在は、今、今、今と連続して現成しているけれど、この形(かたち)、すなわち全体を通貫しているものが真・善・美である。いや、この全体は実在なのだから、全体の存在が真善美そのものである。数学もそうだ。真とは、数字という記号の集合のことではなくこの世界存在のことを表象しているのだ。美術はこれが美しいと言っている。善を受け持つ宗教の分野では、お釈迦さまも道元も、ただ「そうなんだ」と言っていて「私を拝みなさい」とは言っていない。ただひたすら「世界はそうなんだよ。こうなっているのだよ」と言っているのだ。万有引力はニュートンが発見する前からあったし、発見した後も、ニュートンの死後もあり続けるのであるし、猿も枝から手を離せば落ちることを知っている、鳥も羽ばたきを止めれば落ちることを知っている。地球上のすべての存在は、真善美の法に含まれ、その全体の構造の形態を構成している。神も、仏も、真善美も、自我も、すべてがこの今に、オールオーバーに差別なく現成していて、分けられない。だから、今在るものは、過去にもあったし、未来にもある。逆に、今在るものは、別世界から湧いたり降ってきたものはない。

こう見てくると、今、目の前にある世界はなんとも凄いだろう。じつに広大無辺である。決して誇大妄想ではなく、昔から言われていたことが、連綿と残っているわけである。それに僕が出会うわけで、イーゼル絵画で世界のことをはっきりと知ることができた。思い返すと、子どもの頃からいろんなものに出会っていた。それが、がっちりと全元論というところに行き着いた。夢の中の空間(注)なども全部そうである。

イーゼル絵画をずっと続けていたら、僕のような境地に到達できるかというと、誰でも大丈夫である。世界がそうなっているのだから、僕に限ったことではない。方向さえ合っていたら、周利槃特でさえ十六羅漢の一人にまでなったのだから、世界がそうなのだから誰にでも平等に漏らすことなく開かれているのである。

だから道元から800年後の僕が、絵だけを描いて生きてきた僕がこうやって出会うわけで、世界を正確にきっちりと理解すれば、出会うことが出来る。ただし分かりにくいのは3Dアート(ランダムドットステレオグラム)のようなもので、見えている人は立体を見て描いている。世界のカオスのアトランダムなドットしか見えない人には、「世界はこうなっているだろう」と言っても、香厳が悟る前のように何を言っているか分からないし、問題の意味さえ分からない。禅問答のように思ったり、何かがどこかから飛んできて天才にしか見えないとか、天才と狂人は紙一重だとか自分とは別のものと考えたりする。ランダムなドットしか見えない人は、そう解釈するしかない。

3Dアートは見えない人には見えない。しかし見えている人には見えていて、セザンヌの絵を見ていると、セザンヌは見て描いているのだ。ゴッホだって見て描いている。ゴッホが見て描いているのに、立体が見えない人つまりランダムなドットしか見えない人には、ゴッホの絵が描写とは思えない。描写と思わずに、無理やりにねじ曲げて天才的な造形力で、デフォルメで描いていると思っている。しかしゴッホは形をわざと変えるのではない。見えているとおりに描いている。

つまり認識の仕方が違うのだ。セザンヌやゴッホにはあのように見えている。そうでないと、モデルが必要ないという話になる。モデルがいないと描けないのは、見ているから。立体があのように見えているからセザンヌはそう描いている。立体がありありとそのように見えているから描いている。決してデフォルメしているのではない。裸眼のリアリズムなのである。西洋美術史は、クールベの物のリアリズムから、モネの光りの関係の印象派にいき、セザンヌの光りと空間(フォルム)の後期印象派へと描写絵画は続くのである。

ここが絵画の一番分かりにくいところであって、ほとんどの絵や小説は、ランダムなドットの世界を一生懸命にランダムなドットのままに、こうだろうと言いながら扱っているわけだ。夏目漱石も、石川啄木もそうである。セザンヌは見えている立体を描いているのに、ピカソ以後の現代美術が、裸眼のリアリズムのセザンヌの絵を曲解して、人間の創造力、造形力で自然を造り変えていく方向に進んできたのだ。そして今、対象を前にして見て描くイーゼル画の画家は、ほとんどいなくなってしまった。

道元は、くどいくらいに懇切丁寧に説いている。しかしそれでも分かりにくい。ランダムなドットしか見えない人には、禅問答が分かりにくいのと同様に、道元の話も分からない。ところが一方で、周利槃特はある時に悟った。パッと見えてしまったのだろう。見える瞬間、一番の瞬間というのが香厳撃竹である。僕も2010年からのイーゼル絵画の体験と、ちょうどその前後から読み始めた道元の本の体験で、縦の軸がきちんとパアっと見えてきた。「ああ、自分という存在だって現成している」ということだ。

(注)夢の現象学(92頁)

夢は、自分の脳の内部で起きている現象だ。さて、「夢の中に出てくる他人は誰が話しているのか?」。

他人の出てくる夢は誰でも見るだろう。誰もが見る夢なのに、この本の『虚数』の章でも話したが、僕のこういう疑問の立て方が非凡だろ。最初の単純な疑問、それは夢の中の他人は誰かということ。他人が僕の頭の中に居着いているのか?

ところで僕は、単純な疑問があると解けるまで放っておけない。中学生の頃の疑問は「生まれつき目の見えない人は夢を見るのか?見るとすれば、どんな夢をみるのか?」ということ。こんな疑問が次々に続いて生まれ、まわりまわって結局現在の僕の絵のコンセプトにまで影響している。子供の頃から、世界は不思議なことだらけだった。そういう疑問から入っていって「動物は夢を見るのか?」「昆虫は夢を見るのか?」とサツマ芋のように疑問がずるずると連なってわいてくる。

僕が出した結論だけ言うと、夢は「見る」のではなくて、夢の空間の中で「生きている」。夢を「生きている」とすると、生まれつき目の見えない人は当然夢を見る。動物も夢を見る。昆虫も夢を見る。

夢の中の他人の話に戻ると、夢の中の他人は、誰が話しているのか。夢を、映画を見ているように見ていると仮定すると、自分が観客席で見ているとして、では映画を映している人はだれか?自分の中の一部が観客で、一部が映写している人で、では、映画を撮ったのはだれか? これも自分。

そうすると、脚本を書いて台詞を指示したのは自分だし、カメラマンも自分だし……。では俳優はだれ? 台詞を全部指示したとしても、台詞をしゃべっているのはだれ? 俳優そのものはどうするの? 俳優だけはどうこじつけても後ろに自分がくっつかない。どこかから連れてこなければならない。俳優を連れてこなければ成り立たない。すべて自作自演だとしても、夢の中の他人だけは純粋な他者だ。他人だけでなく、風景や、物も。つまり自分の中に他者が住みついている。風景や物も住みついている。起きて、生活している空間が、そっくりそのまま頭の中に映りこんでいる。これをどう考えたらいいか? そこからフラクタルという考えに入っていく。

ものごとを、こういうふうに考える。こちらに自我があってそちらに社会があって、ここに境界線があって、自分と世界、内部と外部が境界線のもとにはっきりと分け、自我の存在、世界の存在というように、これを対立させて闘わせるから矛盾が生じる。また夢の中の他人のことも、説明がつかなくなる。このようにイメージしたらどうだろう。磁石のように、外側の世界をN極自分の内側をS極だとすると、磁石を折るとまた磁石になるように、外部世界N極と自分S極の関係が、そのままスッポリと自分の内部にもあると考えると、夢の中の他人についても説明がつく。全体と部分が相似形(自己相似形)の構造、境界線のない構造、それがフラクタルなので、マンデルブロー集合の図像には境界線がない。有機物はそもそも外部空間と内部空間の境界がないので、だから水や空気や食べ物を取り込み、またはき出すことができる。外部の存在であるリンゴを自分が食べて消化吸収して一方は内部の血となり、一方は外部に便となって排泄される。この全課程で、自分がリンゴを認識した時から、食べて排泄する時までのリンゴは外部から内部に移る境い目はどこにもない。人間は肉体も精神もフラクタルになっているのではないか。つまり、自分の中に外部が開かれ、取り込まれている。人間の膨大な数の細胞の一つ一つにまで血液は供給され、時間と空間と個体の全体の情報が詰まって、全体も部分も同時に生きている。空間の概念が、外側の大きな世界の中に小さな部分の自分がいるという、こういう構造が、脳の中にもあって、細胞の一個一個がまたそういう構造になっている。ハイデガーは人間の在りようを、箱の中の石のような存在のしかたで存在していないとして、人間のことを実存(現実存在)と呼び、その様態を世界=内=存在と名付けた。

人間は実存で目一杯ではない。実存が世界を、内部に飲み込むかたちで認識(フロイドの認識)しているのではない。世界の中で自分は部分だ。同じように自分の中(脳)でも自我意識は部分なのだ。脳の中の自我意識の周りには、あらかじめ身体にインプリントされたパースペクティブが広がっている。人間だけでなく、有機物はすべて外に向かって世界=内=存在であるが、内に向かっても世界=内=存在である(内~であるに丶)。

高度な自我意識がなくても、動物や昆虫も、外部と内部がフラクタルな構造で生きている。植物や単細胞の微生物も、脳はなくても細胞の中に、外部の時間と空間のパースペクティブの情報は持っている。自我意識に近い、「今、ここ」「自他」の情報は細胞の中に入っている。

無機物は内部が世界=内=存在になっていないので、そこが有機物とは違っている。だから機械の事故は情け容赦がない。森や林の植物を見てみると、きれいに住み分けている。隣り合った木同士が生存競争しても、無機物の接触と違って、隣の木の幹を突き抜けるというようなことは無い。

犬はしゃべれないが、飼い主のしゃべる夢をみる。犬がごちそうを前にして飼い主に「待て!」と命令されてうなされる、こんな夢はきっとみるだろう。飼い主の「待て」という言葉は起きている時は外部のできごとだが、夢の中では犬の脳の内部での出来事だ。犬はしゃべれないのに、飼い主のしゃべる夢をなぜみることができるのか? それは、犬の自己意識の外側に犬の身体を通して外部が、意識に関わりなくインプリントされているからだ。飼い主(外部)の形象は、意識(犬の知性)が解釈するのではなく犬の身体が写し込むのだ。

さて、夢を見るという話の結論は、夢は見る(見る、の横にヽ)のではない、「夢の中の空間を生き(生き、の横にヽ)ている」のだ。だから目の見えない人も夢を見る。日常の覚醒時の空間が、スッポリ夢の中の空間になっている。その夢の中の自我が生きている。自我意識のない夢はない。夢の中で自分があちら側(見られる対象の方)に出てくることはめったになく、ほとんどいつもこちら側(見る主体の方)にいる。自分がライオンになったりする夢は見ない。時系列はとんだりしても、夢はビデオテープのように逆回りの時間はない。これらはすべて、夢の中の空間を「生きている」証拠。つまり、肉体は眠っていても脳の中の自我意識だけは、完全にではないが覚醒している(レム睡眠)。だから苦しい夢を見ると、夢の中でも苦しんでうなされるのだ。覚醒時は脳と身体は繋がっていて、身体は意志どおりに動くが、睡眠中は脳と身体の間のスイッチが切れていて身体が反応しない(たまにスイッチがONのままの人がいて、夢の中の動きを睡眠中にする人がいるのをテレビで見たことがある)。逆に、スイッチが切れたままなのに、脳が完全に覚醒した状態がいわゆる「金縛り」で僕も寝入りばなに時々かかる。睡眠中は覚醒時の空間が、スッポリ頭の中にあって、その頭(脳)の中の自我意識が、その夢の中の空間を生きている。「夢の中の空間を生きている」、そういう構造になっていると思う。

(19)薪が灰になるのではない(注)(96頁)

シャケが川を上ってくる。途中で捕まるシャケもいる。卵の中でイクラにされるのもある。シャケの卵から作ったイクラは、シャケの卵が原因だと言ったら、きっとシャケは怒るだろう。イクラになるためにシャケは腹に卵を抱えているのではない。薪が灰になるのでないと同じように、卵には卵そのものに意味がある。たとえば僕の母親も、初潮から閉経まで多くの卵を産むのだが、その中のたった一個の卵が僕になったわけで、妊娠しないとサッと流れる。

卵子といってもそれが全部人間になるのではない。シャケなら卵をかかえて来て、全部が受精して全部が卵として散ったとして、一つずつの卵から孵った一匹一匹の稚魚は、人間なら僕であり、弟であり、妹であり…というようにずっと連なる。一匹、一匹違う世界が現成するわけである。

人間から見たらシャケの卵はみな同じだが、個体から見たらそれぞれに散るわけである。一匹一匹が新たな縁で、食われたり、病気になったり、餌があったりなかったり、一匹一匹の世界が、今、今、今と続くのである。あるものは、卵や稚魚の時に他の魚に食われるし、途中で釣られるのもいるし、せっかく成魚になって産卵のために生まれた川に戻ってきても、途中で網にかかったりで多難である。仮に、一腹(ひとはら)の卵から二匹が成魚になった帰ってくれば種は循環する。しかし、よく考えてみたら、前の個体とは違う。人間から見たら同じシャケでも、シャケ本人からしたら四年前の二匹のシャケは、あれは親父とおふくろだったのだという話だ。本人はいろんなことを乗り越えて、そこまで来たのだ。

つまり薪が灰になるのではないのだ。春になったら毎年桜の花が咲くといっても、桜の花は個体が違うのだ。去年の桜とは違う。今年はまた新しく現成していくわけで、運命的にすでに決まっているわけではない。過去のすべての存在は運命的に流れて今に現成しているのだが、今からの未来は、今、今、今、今と各個体の因と縁で物の在り様(よう)は分岐してゆくのだ。もし僕がイーゼル絵画に入るという決断をしていなくて、今のところから別れるとしたら、また新しいページが開いてく。

だから決して、自分をどうするこうするという問題でなく、世界のことをしっかりと見ていくと、翻って自分の行動が何をすべきかが分かる。そんな世界観には、表現主義も実存主義もフロイドの人間観(シュールリアリズム)も何も出てこない。人間が新しい世界を創造する云々はないし、ゆとり教育もない。自由意思もない。真理の前には自由はないし、美は人それぞれ百人百通りではないし、善は恒常普遍でコロコロ時代によって変わったりはしない。世界存在の法の中に含まれて、すべてのものが存在していて、その全体の在り様が真善美、真であり善であり美であるという、三様で世界に現成公案しているというということを認識すると、生き方も、画家がどういう作品を描かなければならないかも、おのずから導かれる。

それから所有の問題がある。近代は所有を巡ってことごとくやり合ってきたとも言える。しかし全元論のなかに私のものという私有権などはない。特許もない。そもそも真理に特許権を取らせたら大変なことになるのだ。僕が見つけたから僕のものだと主張したらそれは、ピタゴラスの定理を見つけたでピタゴラスが所有権を主張するようなものだ。ピタゴラス以外はピタゴラスの定理を使用してはならないとなったら、それはとんでもないことになる。だから今でも、数学の証明、物理、科学の発見者は名誉以外になんの権利もない。

それが薬になると、新薬の開発などは問題が大きい。特許権を取らせたらいけないが、研究費の問題があるから何とか対応しないといけない。薬は、全世界の人の命に関わるから特許を取らせたら大変だが、報奨金のようにするとか、それで全世界が助かるなら何かしなければ…。

私有権の問題は、芸術において真似した真似されたという問題が起きる。絵でも音楽でもそう。研究費がないといけないという面もある。しかし本当はただでもいいのだ。あのペルリマンも報酬を求めなかったし、お釈迦さまでも道元でも、ケチケチしないで惜しみなく太陽が地球を照らすように全部与えた。それでいいのだ。

西洋近代哲学およびポストモダニズムの世界観は、お釈迦さまの説いた、人間が壊滅(えめつ)すべき三つの煩悩である貧・瞋・癡(とんじんち)をすべて認め、むしろそれを人間の権利として戦いとるものだと主張した。この世界観では、紛争はなくならないしむしろ紛争を生みだす。そして、この世界観で生きれば、この世界観の国で生きれば、人間の一生は四苦八苦で終わる。

(注;たき木はひとなる、さらにかへりてたき木になるべきにあらず。しかあるを、灰はのち、薪(たきぎ)はさきと見取すべからず。しるべし、薪は薪の法位(ほうい、物のありよう)に住して、さきありのちあり。前後ありといへども、前後際断せり。灰は灰の法位にありて、のちありさきあり。かのたき木、はひとなりぬるのち、さらに薪とならざるがごとく、人のしぬるのち、さらに生とならず。

 しかあるを、生(しょう)の死になるといはざるは、仏法のさだまれるならひなり、このゆゑに不生(ふしょう)といふ。死の生にならざる、法輪のさだまれる仏転なり、このゆえに不滅といふ。

 生も一時のくらゐなり、死も一時のくらゐなり。たとへば冬と春とのごとし。冬の春となるとおもはず、春の夏となるといはぬなり。道元『正法眼蔵』「現成公案」の章より一部抜粋)

(20)野菜の無人販売が可能な日本(101頁)

経営では考え方として、トップダウンで何かと末端とトップを分けてしまって、末端から搾取するというような形に考えるのは良くない。経済のことは分からないけれど、形としてそれは悪いと思う。たとえばイギリスがかつて、東インド会社を作った。一方でイギリスの資本家が綿を作り、一方ではイギリスの元からの羊毛産業がある。新しく会社を作ったほうはインドでやったほうが儲かるが、するとイギリスの本来の生産が空洞化してしまう。つまり、儲けるのは資本家だけ、本国の国民のことなどおかまいなし。その後も、資本家、経営トップ、労働者と分けてそれぞれが、自分の取り分のお金をめぐって争う。こうやって、けんか腰で人生をおくる組織や会社や国が、いいものが作れる訳がないし、作り続けることができる訳がない。

もう一つ、ハンバーガーショップが中国で生産すると安いからとそれを実行したら、それは利潤のためである。安全で、美味しくて、安価なものを作ろうとするのでなく、買って食べる人に喜ばれるものを作ろうとするのではなく、儲けのための経費削減。すると、全部がグルっと回って儲かるのは経営者だけである。人件費は少なくし材料費も削減、関わる皆の労働は辛いし儲かるのはトップだけとなると、それで金を儲けた人は、パナマ文書のように、税金も払わず、国から外に持ち出して隠すことになる。これで世の中が潤うはずがないし、きちんとした組織や会社や国に、いつかは負けるだろう。

みんなで良いものを作るという、末端までどこを切っても同じ形ちにしないといけない。買う人が「この価値にしては安くて美味しいね、安全だね」と言える食べ物を作り、作る側も社長から末端の社員まで全員が同じ姿勢で働けば、損をする人は一人もいない。お金を払うお客も得をする。しかし、逆にトップダウンで、一部の儲けのために全員のお金が吸い上げられるとしたら、形が悪い。そんなことをして、世界が良くなるはずがない。

日本ではよく見かけるが、無人の農産物販売があると、安くて便利で農家の人も手間がかからずコストがかからず、買う人も皆が助かる。損する人は誰もいない。いつも買わないとしても、それはあってほしい。しかし、一人でもインチキをする人がいるとコストが生じるようになる。タバコやウイスキーの小瓶を一つ買うのにも、アメリカでは仕切りを挟んで慎重にお金をやり取りする場がある。それでは一個の小瓶の販売にどれだけコストがかかっていることだろう。買う人にとっても高くなるし、売る人も面倒である。

保険もそうである。日本でしか保険は無理だろうと思うが、みんながインチキをしないから保険制度が維持できるのであって、もし不正が当たり前の国で保険を作ると掛け金が異常に高くなる。医者も不正をして架空請求したり、患者もニセものの保険証を使ったり他人の保険証を使ったり、もう保険金詐欺は山ほどあるだろう。医者と結託すると詐欺ができる。保険会社も医師も患者も信用ならない。すると保険制度がすぐに破綻するのは、当たり前である。国も、会社も、国民もすべてにお互いの信頼とモラルがないと、保険はなりたたない。

そうなると皆で損をするのだ。不正の分皆で損をするが、日本では安い掛け金でしっかり成り立って皆で得をする。これはモラルが全員に伝わっていないと成立しない。保険制度のことは、外国から見ると理解できないらしい。オバマ大統領は保険制度を作ろうとしたがアメリカではうまくいかない。まず保険金詐欺でボロボロになるだろう。外国には野菜の無人販売なんて存在しない。あんなものを見たらビックリするのだ。

被災地の近くの自販機で、人もいないところでお金を入れたら商品が出るということに、外国の人はビックリするらしい。機械にお金が無事に入っていることに驚くのだ。壊してしまうかもしれないのに正常に動いているし、それを「なぜ?」と日本人に聞くと、かえって「何が不思議なの?」という顔をされる。そこがまた凄いというのだ。

 

昔の映画で観たことがある。マフィアのギャングで、路上駐車の料金のコインが入っている部分を盗んできてこじ開けているのだが、とんでもない開け方をする。日本人からみれば、小銭を取られることより器械を壊されることのほうがよっぽどお金がかかるとおもうのだが。銀行のセキュリティー信号の配線をいじって正常の信号を送り続け、その間に貸金庫をこじ開けて盗むギャングと警察と対決して、ともかく凄まじいやり取りが延々と続く。そんなことは、あらかじめ対策したら、滅茶苦茶にコストがかかって仕方ないのだ。

(21)社会の不正と直接闘わない(104頁)

つまり悪人が一人いると、お金がかかる。「世界はそうなっている」のだから、形を考えるとそれに反することは全体にマイナスになる。一人の貧(フリガナとん、むさぼり、貧欲)・瞋(フリガナじん、自己中心的な怒り)・痴(フリガナち、無知迷妄)が全体の形に歪みのテンションをかける。しかし、歪みはほんの一時的なことだ。本来、世界存在の構造を現わしめている法は「真・善・美」なのだから、その構造に反した形は撓(たわ)められる。「悪の栄えた試し無し」である。お釈迦さまは、悪因悪果、善因善果という。悪因苦果、善因楽果ともいうが、そういうことだ。闘うのは自分の中の三毒貧瞋痴で、それを八正道(正見、正思、正語、正行、正命、正精進、正念、正定)で壊滅(えめつ)しなさいと、そうすればその畢竟(ひっきょう)が涅槃ですよというのが、お釈迦さまの教えだ。

少し前に、収入の多い芸人の親が生活保護を受け続けていて問題になった生活保護の不正受給、不正だと分かっているのに受理している人がいたり、オレオレ詐欺、振り込め詐欺をする人がいる。しかし、そういうことをする人のことは、その人たちと相対して闘うなということだ。仏教ではその人たちは悪いことで自らが報いを受けることになっている。そういう人を相手にして、何かをしなくてもよいのである。

僕自身が直接被害を受けるとしたら何らかの対応が必要だが、自分から出ていって社会のそういう不正と闘わなくていいのだ。なぜなら不正受給をしても、その人の人生を考えると、せいぜいパチンコに行くくらいだ。せっかく、この世界に現成して、それも日本という奇跡的な国に生れてきたのに、そんな一生を送っていいと思うだろうか。不正受給で不当なお金を国からチョロマカしても、あるいは振り込め詐欺や保険金補償金詐欺をやってお金が入ってきても、その人の人生のトータルや家族や子供への影響を考えたら碌なものではない。可哀想なその程度のことだから、政治家や行政警察は別として、一般人は相手にしなくていい。

現にそうなっているのだ。中国でも韓国でもウソをついたら、慰安婦捏造問題にしても途中まで成功したような件だって結局はうまくいかない。中国もあんなに資金を使って南京大虐殺等の歴史工作をしようとしても、一部のある意味「形の悪い報道」フェイクニュースは、きちんと報いが来るのだ。

要は人をどうこうするのではなく、自分がしっかりとあるべき形で生きていたら「廓然無聖!」なのだ。日本のように大半の人が真面目に生きていれば、良い国になるのは当たり前である。ならず者や詐欺師が指導者の国は、その国が報いを受ける。世界中に貧富の差があって、さらにパナマ文書のように金持ちが、つまり上の一部の連中が自分の財を守ろうとするのは、僕のメンコ体験と同じことだ。そのお金を投資して儲かるのはモチロンいいけれど、彼らは儲けることよりも、それがゴミにならないようにずっと一生必死なのである。

ある通貨で持っていても通貨自体が変動するのだから、昔のように金本位制度で通貨が金や銀に交換できるのではない。そうすると莫大な価値の財産を持っていると、その実質的価値を減らさないように、減らさないようにと考える。これは、穏やかでない。

一部の人だけ金を持てば持つほど、価値は下がるのだ。全世界で一人だけがある通貨全部を持っていたら、その通貨は価値がない。そういうことを僕は、経済というより「形が悪い」と考える。世の中では形というか構造がとんがっていて美しくないものがある。全体がきれいに、オールオーバーに美しくならなければならない。そうすれば、全体(国)も部分(国民)も幸せになる。権力とお金が一部に集中している、つまりとんがっている国は、国民がその分不幸だ。

富というのは、パナマ文書が氷山の一角で、どれだけのお金が隠されているのだろう。それはやはり世界に還元しないと、血液と同じでお腹に脂肪が溜まり、血液に血栓ができたりするのと同じことになる。動脈は全ての細胞一つ一つに血を届け、静脈で回収して、一個一箇の細胞も一人の人間も同時に健やかに生きていけるので、血液が全部にスムーズに循環しないと、結局はそういう人や国が自滅する。ヨーロッパの歴史を見てもそうだった。全元論の考え方を持った人が出て、そういう人たちを凌駕しないといけない。

(22)歴史の真相(108頁)

それにしても、世界全体としてはきちんとうまく行っているのだ。この程度で終わっている。昔から戦争はあったし何人かは災害にも遭うし、理不尽な死に方をする人もいるし、しかし、そういうのは身の不幸と思うしかない。それでも自分の持ち分をしっかりと生きていけば、全体としても良くなるし幸せになる。そこで「自分だけ」というのが、自分と他人のラインを引いて自分を設定するところがいけない。

これらの話は僕が言うのでなく、日本にずっと続いてきた、日本ではごく当たり前の、世界のなかでも非常に珍しい世界観である。これをなんとか広めたい。もう本当に素晴らしいのだ。だからこそ日本は不滅で、だからこそ生き残っているではないか。原爆を2発落とされ、東京を含めて各都市を無差別に空襲されて虐殺され無条件降伏して、しかし戦後70年で再び世界のトップになっている。

これは昔の人の素晴らしい遺産である。戦争中の日本軍のモラルの高さとか、戦争の仕方がそうだ。あんな戦争の仕方をしたのは日本だけだろう。なぜならどこの国とも闘っていないのだ。闘った相手はイギリスでありロシアであり、現地を支配している国と闘ったのである。むしろ解放してくれて、国境を接する隣国を除いて感謝されているではないか。それがないと第二次世界大戦後のアジヤ各国の独立などは、まだまだ遅れていただろう。

今回も南京大虐殺の誤報が明らかになった。いろんな真相がネットでも出てきて、僕はホッとしたが、出る前は「そうは言ってもどこかでやっているのではないか?」などと、どこかで思ってしまう。日本が勝ったときは、捕虜たちにひどいことをしたのではないかという疑念。それをやったかのように言った人たちがいた。捏造して補償金を取ろうという、そのお金を日本側で工作した人達と山分けしようという構造である。慰安婦捏造問題と同じで、補償金ビジネスである。裏側は人間の欲望の記号であるお金が目的なのに、それを人権やモラルで隠蔽して捏造を広める。しかし、そういうことが一件もなかったというのだから、ありがたいね。日本の軍隊では、決してモラルに反することはなかった。強姦したとしたら裁かれたし、細菌部隊というような捕虜に毒別兵器の実験をしたという事実もなかった。小説家の森村誠一氏の『悪魔の飽食』の中で書いた731部隊とかのような中国人捕虜の話は、そんなのはなかった。生物兵器は、そんなものがあったら自分の部隊が危ないのだからありっこない。韓国軍の兵士がベトナムでやったような行為は、日本兵はやらないし出来ないだろう。日本人なら、そんな状況と、相手の気持ちを考えたら、強姦しようという気持ちが興らないし出来ない。だって日本人の男だったら、恐怖と不安におののいている女性を、無理矢理に強姦しようとしても男性性器が勃起しないから出来ない。日本人には、凌遅刑(りょうちけい)、宦官、纏足等の残酷でグロテスクな行為は出来ない。

真相は軍の衛生管理をする部隊が研究をしていたのに、細菌を培養して生物兵器を作っていたとか捕虜を細菌兵器の生体実験に使ったとかなんとか言われた。一時、朝日新聞の連載小説かでも読んだ記憶がある。そんな話も今になって真相が出てくる。沖縄戦の集団自決事件もあり、大江健三郎氏が訴えられていて大江氏は無罪になったが、裁判の過程でいろいろと曝かれた。つまり集団自決問題で、集団自決を軍が命令したとされた赤松隊長という人の、渡嘉敷島の事件があった。

その人物は認めたとされたのであるが、認めたという意味は、自決を軍が命令したとすると住民たちに補償金が出るからで、役場や遺族に懇願され、それならばと軍の命令にしておいたらいいのではと隊長が暗黙の了承をしたことが、後になってから沖縄の新聞社に叩かれた。当時のオピニオンリーダーだった大江健三郎氏の『沖縄ノート』にも、日本軍と赤松隊長の残虐非道ぶりを捏造して書かれ、赤松隊長はたいへん悔しいおもいのなかで、悲惨な老後を送った。しかしその後、沖縄の中でずっと押さえつけられていた情報が、インターネットのおかげで出てきた。情報の山のなかから、無償の行為で、掘り出しアップしてくれる人がいるのだ。時間はかかるけれど、結局歴史は真・善・美を残していくのだけれど、ネット社会は時間を縮めも空間を拡げた。ウソはすぐバレる。

真相はこういうこと。住民が、敵軍の上陸前に手榴弾をほしいと軍にやってきた。しかし赤松隊長は「戦うのは僕たちだから、君たちは隠れてやり過ごしてほしい」と言って追い返した。それだけで終わりの話だった。しかし、あとから数人がどこかから手に入れたもので自決した。その後、役場関係者等が、補償金が入るからという理由でそういうストーリーを作った。まあ、しかしそんなことをしても結局、真実には勝てない。真善美が残るのだから。どうやったって真理に勝てるものはないだろう。こうやって、ノーベル賞まで受賞した作家は晩節を汚し、イーベル賞自体の権威も落ちていく。この捏造事件に関わった、作家や出版社や新聞社や占領軍の、イデオロギーの衣に隠して、裏側に「欲望の記号」であるお金が欲しいという実体が、なんとも悲しく、情けない。

(23)紐を掛け替えればいい(109頁)

どんなにウソをついても、真偽について偽のために権力とかお金、エネルギーを投入しても結局は無理なのだ。ウソは新たなウソをよぶだけだ。「ウソつきは泥棒の始まり」といってウソをついて良心が咎めない、なんの戸惑いもなく平気でウソをつける人の一生は、晩節を汚すし、仮になんとか一生を終えたにしても、生前隠していたウソがあらわになって死後に名を汚す。「2+3=8」と、どんなに大声で言っても無理だ。出てくるのは真理だけ。真・善・美を信じて正しく生きていたらいいのであって、生きる目的のためにお金や欲望を持ってきてはいけないし、自分の欲望をみたすために一方的に他者を犠牲にしてはいけない。だから、日本の軍人は、当時合法的だった売春婦に、お金を払って性欲を処理していたのだ。

僕の言いたいことの核は「世界はこうなっている」ということである。世界は「真・善・美」が現成公案している、というのだ。「現成」という言葉は「顕現」という言葉と意味は似ている。しかし、少し違うところは、旧約聖書でいう枯れ葉が燃えるなど、隠れているものが見えるようになる話ではなく、ありありと、この世界に、今、隠し隔てなく現れているということで、この違いが重要である。この世界は、隠れていたりどこかに超越としてあるのではなく、今ここに自分の目の前に、世界はアリアリと現成している。要は香厳撃竹(フリガナ、きょうげんげきちく)だよ。竹の音は現実である。香厳は竹の音で天地一杯の音を聞いたのであり、芭蕉も蛙の跳び込む水音でそれを聞き、セザンヌはサントビクトワール山に、ゴッホはヒマワリにそれを見たのだ。

自己も超越(神やプラトン的イデア界)も含めて、全世界存在が現成している。びっちりと平等で、すき間がなく、アリアリと、オールオーバーに。日本人だから香厳撃竹で分かるし、モネやセザンヌやゴッホの絵の良さも分かる。「古池やかわず飛び込む水の音」であり、これらが全部、作者も自分も含めて天地一杯ではないか。日本人はヘタなりに自分でも一句ひねるし、皆分かっているのだ。印象派の絵をこんなに好きな国民はいない。セザンヌやモネや雪舟の画はじつに素晴らしく天地一杯なのだ。画家もその世界の中で、天地一杯とシンクロ(共鳴)してそれを描写していて、観る人もその画家の眼にシンクロするのだ。

3Dアート(ランダムドットステレオグラム)のランダムなドットの世界に生きていると、欲望は、生活や名誉などの欲望があり、同じ絵描きでも「美とは?」なんて今さらそういう芸術論は嫌がられる。そんなのは画学生のころのことで、もう皆、僕と話すのを嫌がる。

また、世界観そのものが違う。僕は「テンセグリティーの脱構築」と題してユーチューブに投稿して話しているが、自分の世界観をブロックを積むように積み上げると考える人は、組み直すのは大変だと考える。ブロックの形が行き詰まったり悪かったりしても、途中から組み直すのはブロックでは大変なのだ。国家や社会をブロックを積むように作ってきたら、脱構築して、一回チャラにして新たに積み直すのは困難で時間もかかる。

ブロックでは途中からはできない。ここまで人生をかけて積み上げてきたことだから。たとえば左翼の人は今になって「ああ若い時の考えは間違いだった」と言っても今更積み上げるものがない。組みかえ直しは若い時にしかできない。僕も若い時は、ブロックを積むように世界観を造っていたので、人生の上でも絵画の上でも、まだ若いから積み直しができた。勇気をもって積み直した。若いときだからこそできる。

その時は「上手くできなくてもいい。途中でもいい」と僕は決断したのだけれど、本当は決断なんて要らなかったのだ。それは構造体を、ブロックを積むように捉えるからであって、テンセグリティー(バックミンスター・フラーの造語)つまり紐構造にすると、紐を掛け替えればいいのだ。原素材はなにもいじらず捨てたりしないで、紐の結び方だけを正しく変えることで、あっという間に新しい世界が構築できるのだ。

だからイーゼル絵画のことも、仲間にもやれよと言うのだけど、今さらブロックでここまで積み上げたのに…ということになる。僕はテンセグリティーを知ったから、6年前の60代のことだが、紐を組み変えればいいのだから何の不安もなかった。従来のことを捨て去るわけではないのだ。ふつうは組み替えとは考えないから「今さら、そんなこと言っても」となる。ブロック型の人生観からすると、とても今さらと思うのが普通だろうな。

社会や国家の構造もブロックを積んで造ると考えるから、これまでの世界の歴史は、あえて革命と言ったわけだ。無政府主義とか、芸術で言えばダダイズム。これらは全部代案なしに一度すべてを壊す。壊してできあがってくるものをまた積み上げようと主張したのだ。日本でもアメリカからネオダダがアメリカの国策に近いかたちで輸入され、ネオダダイズムオルガナイザーズというグループができて赤瀬川源平氏等が戦後の美術ジャーナリズムを引っ張った。進歩的左翼と言われ、読売アンダパンダンなどは一連の既成の芸術をいったん全否定する。真も善も美も、既成の組織や体制や歴史もアプリオリなものは全部否定する。マルセル・デュシャンをまるで教祖のように崇めた世界観芸術観の間違いが、行為や作品の全部に通底しているのだ。

(24)世界観をきれいにする(113頁)

しかし経済から何から、世界はそのもとに経済活動し、そのもとに芸術活動をするのだから、大元の人間の「世界観」そのものをきれいにすれば、仏教的全元論の世界観を世界中の人に解ってもらえたら、世の中が悪くなるはずがない。絵描きは当然、美しいものを目指すだろう。美は、ありありと現成公案しているのだ。秘密も何もない。

公案というのはいろんな解釈があるが、いずれにしても公だから、差別なく、誰にも平等に隠し事無く、オールオーバーにアリアリと現成しているというような意味である。たぶんこの世界はモネの絵のように、セザンヌの絵のようになっているのだ。芭蕉の句のようになっているのだ。その世界を、道元は『正法眼蔵』で繰り返し、丁寧に語っているのだ。

全体として日本では心配は要らない。ホリエモンのように、自分だけ儲けようとしたり、自分の欲望を生きる意味にしたりする人が少ない。卑しい行為、恥ずべき行為をしたらきちんとペナルティーがつく。しかしもし皆が皆卑しければ、卑しい行為も責められない。「あいつ、うまいことやったな」というくらいで、海外では酷い、卑しい行為の歴史が山ほどある。

全体としてはそういうことだ。「全元論」という言葉が、世の中で少しでも使ってもらえればといいなと思っている。意味が理解されて、全元論がいろんな所に使われればいい。全元論が解れば、間違いなく道元も無門関も解る。

ランダムなドットしか見えていないから複雑になっている。ランダムなドットを、西洋では要素還元的に分けていって、根元的な1を見つけようする。根元的な1で成り立つ一元論では、物と精神、人間では肉体と心、数学的真理のような抽象的イデア界が互いに、どちらが本家本元の1かで相争う。西洋では言語も主語と述語がないということはないし、主観と客観とか、二元論的対立に捉えている。それで二元論ができてきたが、そもそも二元論はおかしい。2がもとなんてそもそもおかしいのだ。どう考えても矛盾がある。そこで両サイドをかっこに閉じて、真ん中の現象だけを見る「現象学」というのができたのだ。主観と客観とを一旦はエポケーして、スイッチを切って、棚上げにして、現象のところだけを見ていこうというのが現象学。

フッサールの現象学から、ハイデッガーの実存主義が生まれてきた。イギリスの経験論とドイツ、フランスの観念論とが争い、結局は分けていくとどうしても問題になる。ハイデッガーも、人間のことは『存在と時間』で30代の若い頃に実存で説明した。その後存在一般を、世界や物をきちんと哲学的に進めていくという予定だったが、杣径という草稿はあるが、現実には纏まらなかった。

全元論を知ったらハイデッガーどころではない。分けていく考え方では世界は説明できない。一に一にと分けていく思考では、世界の存在を説明できない。世界がそうでないのだから矛盾を孕む。驚くべきことに、全元論的世界が、今まで孤立して単独に成立していると考えられていた、最先端の数学の世界や物理の世界にも言えるようになってきている。

これから全元論という言葉を「あれ?」と気に留める人が増えてきたら、しめたものだと僕は思う。現状はハイデッガー等の西洋哲学を本流として東洋哲学が貶められているが、とんでもない。お釈迦さまや道元の世界観の方が、哲学的にも西洋哲学よりはるかに正しく、優っている。日本人は数学なども元来、優れているのだ。世界観の大元が正しく素晴らしいからである。何せ日本人に任せると、何ごともきちんとするのだ。自分の仕事に対する情熱とモラルが凄い。スポーツもきちんとイチローが出るし、イチローの言うことはとても東洋的で、修証一等だ。記録だけが凄いのではない。イチローのバットやグラブを作る無名の職人たちの仕事から、イチロー本人や、元愛媛県知事の加戸氏や安倍首相まで、日本人の全元論的世界観持って行為すれば、世界は良くなる。僕の画だって、道元の全元論で良くなったのだから、ましてや世界が良くならない訳がない。

かつて東北大学にドイツからオイゲン・ヘリゲルという哲学者が来て、日本の弓術を学んで『日本の弓術』(岩波文庫)という本を書くのだが、その本によると、全元論的世界が最初はどうしても分からなかったという。禅は日本の武士階級に広まった。仏教は最初のうち、最澄や空海によって貴族階級に広めたが、その後武士階級に、鎌倉仏教となって広まっていく。武道にも禅的要素がある。武道でも茶道でも中身はたいへん禅的である。

(25)人も幸せ、自分も幸せ(117頁)

素晴らしいだろう。僕が素晴らしいのでなく世界が素晴らしいから安心である。まさに廓然無聖なのだ。本当に幸せになる。悩んだり苦るしんでいるとしたら、自分の小さな欲望の充足感に悩み苦るしんでいるのであって、それさえ「どうでもいい」と解脱すれば、つまり竿灯進歩である。この先、手を離したら落ちて死ぬではないかと恐怖にかられても、それでも進めばいいので、そういう真理を武術も言うのだろう。

まだテレビのない頃、ラジオの講談で聞いて子供ながら納得したのだけれど「見切り」ということ。物事を見切るということ。ここに幅一メートルの橋がかかっているとする。田んぼの小川ではまるで何ともない。ところが千尋の谷のようなところにその橋がかけられたら、とても幅が一メートルには見えない。刃のやり取りもそう。相手の刀の切っ先と自分の距離を恐怖心で正確に認識できない。目の前に届かない位置でも、自分から離れていたら大丈夫なのに、それを見切れない。「見切る」というのは、一メートルを一メートルと明確に認識すること。谷が深いと一メートルが細く見えるのと一緒である。

ただそれだけのことなのに、戦場では命のやり取りだから、見切ることができるか否か命がけになる。相手の刀が自分に触れないことを見切ることができるか。恐怖心が先に立つとダメで、ラジオの講談で聞いた高柳又兵衛の話などに出てくる、竹刀では強いけれど木刀や真剣では勝てない。それを克服するにはというと刃を当てなければいい。音無しの構えということであいての刀と自分の刀を交差させなければよい。練習場では強いのに真剣では弱いのは、恐怖心が先に立って見切れないわけだ。

つまりランダムドットステレオグラムの立体視ができない、ドットしか見る事ができなければ世界を見切れない。自分の欲望でお金が欲しいとか、命が惜しいとか、食べたいモテたいとかの執著(しゅうじゃく)心を持って世の中を見ると、世界を正しく見ることができない。恐怖心こそ一番の敵である。勝つか負けるか、幸せであるかないかなど二元論で考えると、負け組はルサンチマンを、勝ち組もまた、勝ったは勝ったでその幸せを逃したくない、今度負けたらどうしようという不安と恐怖を抱える。地位とか名誉とかお金がなくなったらどうしようと、せっかく勝ち組になっても、次にはパナマ文書が曝かれるように、何代も食べられるだけの金があっても死ぬまで四苦八苦する。

そこを諭したのがお釈迦さまの教えである。異性に執著(しゅうじゃく)すれば嫉妬心に駆られ、金持ちになれなければ負けたという敗残者意識とで結局は勝っても負けても苦しみの連続である。もともと自分と他者の間を境界線を引いて分けた世界観で、勝った、負けた、損した、得したという思考だったものを、全元論に世界観を組み換えれば人の幸せは自分の幸せになるのである。

僕がいうのは「世界がそうなのだ!」「世界はそうなっているのだ!」ということである。自分も幸せ、人も幸せ。そういう考えに行き着いた僕が凄いだろう、と言いたいのではない。子どもの頃からの世界との直接体験で僕は分かってしまった。道元もそう言っている。お釈迦様もそう言っている。

マチスも絵が変遷するが、若いときに斬新な革新的ことをやって、前衛の旗手だった。40歳台の終わりのニース時代から、もう一度描写に戻ってくる。そこでマチスはかなり周囲の美術界から攻撃を受けた。ライバルのピカソは華々しいし、一人でやっていてオファーもなく反応もなく、すると不安になる。ピカソは共産党に入り、マチスの「私は人々を癒す肘掛け椅子のような絵を描きたい」という言を批判して「マチスの肘掛け椅子はブルジョアジー用の椅子だ」と言う。絵を描く時は一人ぼっちなので、有名無名に関わらず、どんな画家も同じような状況に出遇うことはある。そのときにマチスが思ったのは、自分がもしかしたら間違っているかもしれない。しかしマチスはそのとき、「僕が間違っているならセザンヌも間違っている」と言った。セザンヌも、自分と同じ美意識の絵を描いているのだ、セザンヌが正しいのだから、自分も正しい。たとえ、たった一人でも自分のやっている方向に間違いない。

僕もだからこれを進めると、「僕が間違っているならモネもセザンヌも間違っているのか」加えて「僕が間違っているならお釈迦さまも道元も間違っていると言うのか」。僕個人が正しいとか間違っているとか、そんなのことはどうでもよい。だから本当に幸せなのだ。廓然無聖だ。

(26)現在は未来の原因である(120頁)

僕が「今、ここ」に居るという、存在のラインを過去に遡ると、宇宙のビッグバンまでリンクは繫がって辿れるように、このラインの未来を考えたら、僕の残す存在のラインは、世界のどこかでずっと続いていくわけだ。僕の残したものは残る。善因は善果として残るし、悪いことをしてゴミのような害毒を流しても、それで終わりではなく、悪因は悪果として残る。その人の為したことはラインとして未来に消えずに続いていく。そうならば恐ろしいではないか。このことを知れば、悪い行為をすれば後悔だらけになってしまう。恥ずべき行為をして、たとえば振り込め詐欺をしても後悔だけだ。恥ずべき行為があれば恐ろしい。詐欺をして、たとえ見つからなくても、それで手に入れたお金は、その後の本人の人生や、家族や周りの人の人生に悪い結果をもたらすだろう。その生き方の因と縁は、一回も消えない。これは、この不生不滅のラインを知れば実に恐ろしいことだよ。

誰でも恥ずかしい行為があるし、僕にもある。恥ずかしい行為はときどき思い出すといたたまれない。少ないからいいとしても、少なくとも悩まされるのに、人に知られたくないことを山ほどかかえており、人を騙すような生き方を山ほどしてしたら、本人の身のうちにプリントされるのであってじつに恐ろしい。全元論を理解したら、そんな行為は、ハナからできない。

自分が詐欺をした人間だとしたら、懺悔してこれから善い行為をするんだね。仏教というのは過去の因縁で現在があるとするから、自分が不幸な境遇に生まれたり身体に障者をもって生まれたりするのは、親の因果が子に報いということで、差別を肯定し固定化しているのではないか、という説がある。しかし、そうではない。たしかに悪因は悪果をもたらすが、ここが重要で、現在は未来の原因なのだ。

ここから未来は、つまりここから善行を積めば、すぐに自分に良い結果が出るとは限らないけれど、子どもの代に善い結果をもたらせたりする。あるいは何らかの善因は善果に通じる。過去は後悔してもどうこうしようもない。しかし多くの場合に、年をとると現在を未来の原因として捉えない。若いときは、今の勉強は将来の結果になると考え努力するが、ある時から、現在を未来の原因としなくなる。

定年後の普通の生き方は年金で生活している。過去の結果として今日を生きている。昨日も今日も明日も、過去の結果だけで生きていて、未来に向かっての行為は何もない。だからこそ孫が可愛い。子や孫は自分が原因だ。ある程度結果の見えている自分の子供と違って、孫は未来のかたまりだから可愛い。まだ結果の出ない未来のかたまりが孫であって、自分の未来は終わってしまい、過去の結果だけで生きている。年金とか健康とかはこれまでの結果である。

未来のかたまりが現成すると、つまり孫は可愛いに決まっている。しかし、年をとってもいつの時代でも、死ぬまで未来に開いた生き方をすればいいのだし、すべきだ。過去の罪を犯した人はどうしたらいいかというのは、仏教の問題に必ず出てくるテーマである。罪を犯した人は、懺悔したら、そして修行したら悟れますか等々。親が罪を犯しても、子ども本人にとっても同じことである。

自分がこれから、未来の原因として今日を生きていけば、善行は自分の未来にも蓄積されるだろうし、自分の子どもの原因ともなる。過去は仕方ないというよりも、生まれたというだけで、父親が悪かろうが、母親がだらしなかろうが、もう生まれただけで自分がこの世に現成したなんて、何ともありがたい。こうやって幸運に、しかも日本という素晴らしい国に生まれたのに、詐欺をしたり何かを企むという、自分の欲望をみたすために他人を犠牲にする、そもそも、それが本人の不幸の原因というわけだ。それで不幸になるのは当たり前の話だ。生活保護を不正受給したところで、パチンコをするくらいだ。そんな一生はつまらないね。自家用ジェットで愛人とバカンスを南の島で過ごすことが、最高の夢だなんて、生活保護を不正受給して遊んで暮すのとあまりかわらない。そんな人生は、つまらない。

(27)僕は間に合わなくてもいい(124頁)

生きとし生きるもの、動物だけでなく、植物も、物も、万物は因と縁で今ここにこのように現成している。そして、幸運にも自分たちは、世の中で、シャケで言えば一腹の卵のその中のたった一個の卵が自分だ。他の卵は自分の兄弟姉妹。自分だけでなく、みんなが、万物がそうなっている。何かになっている。初潮から閉経まで、母親から一生に何個卵子が出来るか知らないが、その中のたった一個が僕になった。僕でない確率の方がずっと高かったのに、そんな一個の卵から僕が現成した。それが悪人でも善人でも、万人がそうやって世の中に現成しているのだ。

それなのに、いったい何が不満というのか? ありがたいことだ。そういう風に世の中が見えたら、バナマ文書のように、使いきれない莫大なお金を持っていながら、税金を取られたくないために他国の通貨で他国の銀行に隠すとか、そんなのは嫌だ。恥ずかしくグロテスクなことだ。恥を知れと言いたくなる。「人々(にんにん)食分(じきぶん)あり、命分(みょうぶん)あり」と、道元禅師も言っている。一人で食べ切れない食料を冷蔵庫にため込んでも、ゴミになるだけだ。お金だって例外ではない。

僕が一番言いたいことは香厳撃竹である。僕自身が全元論に気づいたのは、香厳撃竹で、それまですべての意味不明だったことが、僕が子供の時に偶然ギンヤンマを捕る方法を見つけて、世界の構造に気付いたのと同じように、ひらめいたのである。ひらめいた時には嬉しい。香厳の先生が「教えたらお前に一生恨まれるのだよ」と言ったのもよく分かる。ふつうは教えてやったらいいと思うが、だからこそ香厳も気づいたときに、教えてくれなかったことに限りなく感謝した。先生のいる方向に礼拝し、父母の恩よりも高いと言った。香厳にはその時、立体が見えたのだろう。ランダムなドットしか見えなかったものが、自力で見えた。

そこで重要なことは、箒で掃いた石が竹に当たる音を聞いて悟ったからと言って、翌日から箒で石を竹にぶつける練習をしたらおかしいだろう。これを画家を含めて他の芸術家がやりがちなのである。それがマンネリズムである。それは世界が自分の裸眼で見えたのでなく、形だけのまねである。自分の身体で直接悟れば、そんなナンセンスなことはしないし、それが無意味な行為だと分かる。

悟ったら修行を止めるかというと、止めない。それが素晴らしい。道元は「一発(いちほつ)菩提心を百千万発するなり」という。発(ほつ)菩提心というのは悟りの一歩目。自分はそういう道をこれから進もうと発心(ほっしん)する、その一歩目からじつは始まっているのである。修証一等だからである。そして同様に、悟ったからといって修行は終わりではない。香厳はその場だけで悟ったのではなく、悟ろうとする過去の蓄積があったから悟ったので、どの一点でも外したら、もし諦めていたらその場を箒で掃いても悟ることはできない。全部が修証一等なのである。

ここからではない。ずっとそうなのだ。それで悟れなくてもいいのだ。その方向で努力していたらいいのだ。自分はそう思う。絵を描いて僕は間に合わなくて、そこまで行けなくても良い。還暦を過ぎてイーゼル絵画を決断したけれど、もし中途でも構いはしない。それこそ竿灯進歩だ。悟ろうが悟れまいが、このラインを考えたらこの原因を考えたら、僕が途中で倒れたとしても、過去にこんな奴がいたのだと、いつか継ぐ者がいるだろう。そういうものだ。世界はそうなっている。

お釈迦さまも道元も、みな過去の人がそう言っているわけで、香厳の先生も、教えてもいいけど教えたら恨まれるのだよ、と教えなかったのは、僕が知っているとかそういうものではないということである。気づかないと意味がないのだ。回答はこうだよと教えても、お前自身がお前の身体で直覚しないと仕方ないのだ、ということだ。

人に教えるのもまた面白いのだ。僕のものでもなんでもないのだから、この真理をみんなに分けたい。皆もやれ、幸せになるぞということ。道元は一人で帰ってきて、勢力的には小さいところから始まった。でも、そういうのでいいのだ。慧能や禅宗のいろんな話は、身につまされるものがたくさんある。道元も慧能も時間と空間を越えて残り、僕の今ここで出会う。世界の法である真善美に当て嵌まるものだけが、歴史に残っていくのだ。いやそうでなくて、「存在」そのものが「真・善・美」なのだ。そうなので、画家はそれを現場でイーゼルを立てて描写するだけなのである。

「世界はそうなっている」の世界に触れて 原田三佳子(128頁)

『芸術の杣径』と『芸術の哲学』に続いて、今回のテキストのお手伝いをさせていただいたのは、たいへん楽しい時間でした。アトリエで岡野先生の語られることは、いっそのこと話し言葉の一字一句そのままのほうが勢いが伝わるのではないかとも思います。しかし本書の、ご本人が再構成された文章からも存分に、若い青年そのままのような、話しても話しても尽きない岡野岬石氏の中身が伝わるのではないでしょうか。

青年そのままといってももちろん、壮大な変遷がありました。一連の文章は書籍となっていない、ネット上にアップされたテキストも含めて先生の世界観の大きな軌跡と言えるでしょう。

取材にあたり、今度は道元ですか? なんて言いませんが、もちろんあっちこっちに行くの類でなく、いったいどこまで行くのでしょう!という意味で、期待とも、もはや諦念ともいえそうな感慨で今回のお話を伺いました。

何度も出てきたのが「世界はそうなっている」というフレイズです。それを語るときの先生の嬉しそうな表情がなんとも言えません。先生らしさが溢れ出て、幸せオーラに包まれるときでもありました。

しかし聞いているだけでは一連の流れに付いていけず、復習も含めてマンデルブロー集合の動画を見て、少し納得(?)したりしました。香厳撃竹も廓然無聖も耳にした時点では、ただのキョウゲンゲキチク、カクネンムショウ。それでも少しずつ咀嚼する中で、先生の境地をわずかでも想像できるようになった気がします。

咀嚼というか消化というか、納得したことにはもう一つの面がありました。つまり七〇歳を越えた先生の現在と、お風呂で数字を覚えていた幼時や、銀ヤンマを採り、メンコに興じた少年時、バイト帰りにトンカツを食べたことでバイトを辞めた青年時などの先生の姿は、見事にブレずに一貫していることが見えてきました。

体験から絶えず何かをひらめき、自分のセオリーをまとめ上げ、先生の言葉を借りると「ジグソーパズルの島が組み合って」ついに全元論にいたった。その経緯を思い浮かべるだけで、これまでの記憶も含めてご本人の感動や喜びを丸ごと提供され、共有されたような気がします。全元論の中身を自分の言葉で言い表わすことは未だできませんが、共有された喜び――。それだけは今も驚くほどの実感として続いており、感謝しています。

 

お話を聞く中で、ドキッとした瞬間がありました。質問した言葉は思い出せないのですが、先生の答は数秒の沈黙のあと「差別しちゃいけないんだよ」とのこと。おそらく、先生の学生時代にしたことを今の学生は何故できないのでしょう、というような質問だったと思います。

「差別してはいけない」。それはたまたま当時気になっていたテーマで、ある方の「悟りとは差取りだよ」という言葉に軽くショックを受けていた時期でした。あれ? 先生も同じことを言われる。自分と他者の間になんらかの条件を設けてこちらにはない、あちらにはあるとかその逆とか。わざわざ「差」を作り上げて勝手に煩いを生み出している愚かしい日々・・・。いや、愚かしいと言ってその時点の姿を差別してはいけないのかも? いずれ、小さな煩いというのは自覚していないけれど、長い歳月で積み上げるとかなりの量になることでしょう。おそらく内と外、自分と他人を分けて考えることが日常化したような凡々とした日々でした。

しかし、本書にもあるように向こうとこちらを分けられない、全部の存在として意識する。それだけでも世界は別の色に見えるのだと、できるだけ今は考えるようにしています。

 

岡野先生は「素晴らしいだろう!」と、少々引かれるかもしれないことを言われます。しかしそれは自分が素晴らしいのでなく「世界が素晴らしいから」。八〇〇年前の道元の言葉に著者が出会ったように、八〇〇年と言わず近い未来のいつか、どこかで誰かが本書と出会ってワクワクと嬉しい境地を開かれることを、心から期待しています。ありがとうございました。

原田三佳子 (元編集者)

岡野岬石画歴(131頁)

 1946年

3月1日、岡山県玉野市玉にて岡野国輝、マサ子の二男(兄、姉、本人、弟)として生まれる。戌年、魚座、AB型。

 1951年

幼稚園のお絵かきの時間で、太陽を黄色く描いた所、先生から「太陽は赤でしょう」と言われ腑に落ちない感じがした。また、汽車を描くのに、横向きの汽車の車輪が2本のレールの上に乗らず、1本余ってしまう事に困った。

 1952年

小1の図画の時間で、教壇の上のランドセルを描けという指示に、僕は見た通りに描いてやろうと思い描写すると、先生に驚かれる。ただし、ランドセルが小さ過ぎるので家で大きく描き直してきなさいといわれ、描き直した所平凡な絵になってしまった。

 1960年

倉敷にある大原美術館は玉に近かったので、学校や子供会で何度か訪館した。美術館にある絵は、学校の先生やプロの絵描きといわれる人達の絵と全然違い、だからその人達のいう事は信用できないなぁと思う。『落ち穂拾い』と『晩鐘』で最も偉い画家だと思っていたミレ-の絵(崖の上で牧夫が寝そべっている絵)がゴーギャンやセガンチーニの絵に見劣りするのに驚かされた。

 1961年

3月、岡山県立玉野高校に入学。9月、千葉県立千葉高校に転入。

 1962年

4月、高2になって美術クラブに入部。夏休みに入って油絵の道具を買う。9月、東京芸大受験を決める。2学期から学校をサボり始め、芸大受験のため絵に没頭する。

 1963年

高3の担任の教師に芸大受験のため、授業のサボタージュを認めてほしいと頼み、黙認するという事で了承される。学校の行事はすべて不参加、各学科の出席日数はギリギリだった。学校をサボってよく絵を描きに行った出洲(デズ)の海岸の季節外れの海の家で演劇部の同級生の高橋君と秋晴れの午後ビールを飲みながら過ごした時間は、青春だった。芸術を志した選択に間違いないという確信を持った。

 1964年

3月、県立千葉高校を卒業。4月、東京芸術大学油絵科に入学。8月、同級生で同じ寺田教室だった小田君と、四万十川の上流の村の彼の親戚の医者の家で一夏を過ごす。

 1965年

8月、同級生で寺田教室だった田島君の熊本の家で一夏を過ごす。彼の親戚の家がある天草に行ったり、阿蘇にも帰るまぎわにあわただしく一人で行ってきた。

 1966年

2年生から3年生への進級時に小磯教室を選ぶ。3年生のコンクールで芸大の学内賞である安宅賞を受賞。

 1968年

3月、東京芸術大学卒業。卒業制作の作品がサロン・ド・プランタン賞を受賞。卒業後、何とかなると思っていたが、どうにもならず新聞広告の求人広告で出版関係の会社に応募して就職したが3日でやめる。ガックリきて自分は絵以外の仕事は無理だと思い知らされた。改めて、美術教育の関係で生活を立て直そうと思い芸大の大学院に入り直そうと思う。美術研究所の講師のバイトで食いつなぐ。

 1969年

4月、東京芸術大学大学院基礎デザイン研究室に入学。油絵科の大学院を受験しなかった理由は、大学にしがみつかずに飛び出した手前、おめおめと引き返す事が恥ずかしかったから。

 1970年

11月、生活費を稼ぐために実家のある市原市の辰巳団地の集会所を3日間借りて個展を開く。その時作ったすべて自作のモノクロのDMを東京のめぼしい画廊に送った。そのDMを見て日本橋画廊の児島徹郎氏(故人)より絵を見たいとの葉書が届き、展覧会が終って、弟から借りたネクタイとスーツを着て日本橋画廊を訪ねた。12月、新作の風景画を持っての2度目の訪廊のときに児島さんから契約の話が出る。映画『モンパルナスの灯』などで、画商との契約は恐ろしかったが、「うなぎ」(自著『芸術の杣径』の中のエッセイの題名)を思い浮かべてサインする。

 1971年

4月日本橋画廊にて個展。前年の暮れあたりから予兆のあった第一次絵画ブームの波にシンクロして在庫も含め完売だった。ちなみに、第一次絵画ブームは新人ブームだった。

 1972年

3月、東京芸術大学大学院修了。前年から絵で生活できるめどが立ってきたので、アッサリと大学を離れる。5月、日本橋画廊にて個展。完売。個展の後に北海道札幌市西区手稲西野に転居。日本橋画廊とは独占契約なので断わるのだが、絵画ブームの本格的な到来で、南浦和のアパートにも画商が押し掛けてくる。以前の生活に比べて、あまりにも異常な状況に画家としての本能的な防御だったのかも知れない。北海道は前年の9月に取材に訪れ、風景と光が気に入っていた。

 1973年

5月、日本橋画廊にて個展。完売。

 1974年

オイルショックの影響で第一次絵画ブームはいっきに終焉する。日本橋画廊から買い取り契約の解除を言い渡される。僕の契約点数では3年間は予約で埋まっていると聞いていたのだが、今はすべて消え去ったという。フリーになる。

 1975年

千葉県市原市能満に転居。茅葺きの農家を借りて手を入れ住み始める。6月、飯田画廊(銀座)にて個展。

 1976年

田島英昭氏、三栖右嗣氏と「赫陽展」を企画。名前の由来は、僕がまず各人各様で「各様展」はどうだと提案して、三栖さんがそれに赫陽と漢字を変えて決まった。12月、第一回展を資生堂ギャラリー(銀座)にて開催。赫陽展は資生堂ギャラリーで、1978年5月第二回展、1980年10月第三回展を開催し、1984年3月第四回展を最後に解散する。

 1981年

4月、国立近代美術館にてマチス展を観る。自分の絵のベクトルとモネやマチスの絵のベクトルの違いに気付く。千葉県柏市に転居。

 1982年

4月、月刊美術画廊(銀座)で個展。それに合わせて最初の作品集『岡野浩二作品集1964~1981』を刊行。月刊美術画廊は以前画材屋の月光荘があったビルの一階から三階まで各フロアーを貸していて、それを全階借りて100号の風景画20数点を展示した。今までのベクトルの仕事の総括のつもりだった。マチス展から一年、画集作りと大作の制作に掛かりっきりだった。そうやって今までの暖めていたアイデアを出し尽くして、その後、心置きなく新たな方向で挑戦をしようという計画だ。

 1983年

8月、杏美画廊(新宿)にて個展。開廊記念展。以後1988年まで毎年個展。このころの絵は、フォービックで偶然性が強く、悩み多き時期だった。柏市塚崎にアトリエを建てる。

 1984年

3月、第四回赫陽展に『横たわる女』(100F)を出品。ピカソとマチスの絵の研究により、やっと行き先に光明を見い出す。2冊目の作品集『岡野浩二WORKS DOCUMENT(1)1974~1984』を刊行。

 1990年

10月、オンワードギャラリー日本橋にて個展。線の使い方にいいアイデアを思い付いて、ピカソ、マチスの影響から抜け出せる自信が湧く。

 1991年

10月、ギャラリー銀座汲美(銀座)にて個展。出品作の『瓶と影』(30F)は自信作だった。

 1993年

6月、資生堂ギャラリー(銀座)にて個展。『Horizon』シリーズの100号13点を展示。画面は抽象的だが作者としてはまだ具象を描いているつもり。7月から読売新聞の夕刊紙上で毎月一回日野啓三氏(1929-2002)のエッセイ『流砂の遠近法』のカットを描く。1999年11月まで続いたこの仕事は、楽しくまた重要な仕事だった。研究と発表を同時にできる事で、つまり、発表をひかえた研究なのでモチベーションが増し、いっきに探究が進んだ。12月から翌年1月まで、たけうち画廊で個展。作品の題名は『Dimension』で紙にアクリル絵具。

 1994年

このころより2006年まで、作品が完全に抽象になる。題名も例外を除いてすべて『無題』。

 1996年

5月、西武池袋アート・フォーラムにて個展。個展のサブタイトルは「脱現実化的実在化」。目(視覚)の超越的な美への志向と、人生上の実存主義が齟齬をおこしてこんな難解な言葉を使わざるをえなかった。

 1998年

10月、アートギャラリーオオハシにて個展。この個展より、自分の絵画上のコンセプトとして「抽象印象主義(Abstract Impressionism)」を標榜する。10代後半からの人生上のイズムだった実存主義から超越的実在論者に変わる。このころより、会話に「美」、「超越」、という言葉が頻繁に出るようになった。

 2002年

8月、フォーラム・アート・ショップにて個展。サブタイトルは「光と空間∞抽象印象主義」。抽象のリトグラフを星野工房で6点作りタブローと共に展示。リトグラフを作る過程で、光と絵具の関係を再認識した。

 2004年

7月、3冊目の作品集『岡野浩二作品集1993~2004』を刊行。画集出版記念展パート1を8月にアートギャラリー樹(銀座)にて、パート2を11月に藤屋画廊(銀座)にて開催。作品集のために数扁の文章を書く。この文章をきっかけに文章だけの本の刊行を勧められる。

 2005年

6月、前年に観たピカソ展とマチス展の彫刻からインスパイヤーされて、彫刻を作ろうという思いを実行に移す(ブロンズと真鍮の作品を10点、黒みかげ石1点、大理石1点制作)。並行して、『芸術の杣径』の執筆にかかる。10月、イサム・ノグチ展(9月16日~11月27日、東京都現代美術館)を観て、ますます彫刻への刺激を受ける。

 2006年

『芸術の杣径』を出版。4月彫刻と絵画展をギャラリー仁家(横浜)にて開催。10月「視惟展」と個展を藤屋画廊(銀座)にて開催。「視惟展」は藤屋画廊の濱田さんからもちかけられた話で、僕が日頃注目していた画家に声をかけ実現したグループ展で以後毎年開催される予定。

 2007年

昨年の暮れ頃より、人間の外界の認識と認識の内部構造を考える糸口をつかむ。そのヒントになったのは画家坂本繁二郎が晩年よく使っていた「物感」という言葉で、この言葉の解釈を考えることが推論の役に立った。もちろん今後の絵画作品にそのことは反映されるが、まず絵の題名が「無題」から「光景」に変わり、画面にサインが入るようになった。そして、色使いに中間色が多くなり、明度差がせまくなり、色面の塗り方も〔ゆらぎ〕を意識的に使うようになった。

 2008年

2006年に出版した『芸術の杣径』に続き、2冊目の芸術論の本『芸術の哲学』の執筆にとりかかり12月に脱稿。文章を書く過程で、絵画における「記号」と「描写」の違い、及び存在の時間性の問題が明確になる。

 2009年

1月横浜美術館の『セザンヌ主義』を観展する。「丘の上の仲間」の九州の画家の友人に展覧会の図録を送り、連日長電話をしてセザンヌ論で盛り上がる。『芸術の哲学』を脱稿したばかりなのに、セザンヌを観て新たな問題に気付き、芸術に終わりのないことを知らされ、しみじみ画家になってよかったと思う。何年か後に、三冊めの芸術の本を書こうと決める。とりあえずのタームは「自分への発注芸術の禁止」と「人間の相転移」。4月『芸術の哲学』を出版。8月千葉日報の「郷土の人の本」の紙面に『芸術の哲学』がとりあげられる。その事がキッカケで2009年9月5日から2010年1月9日まで隔週土曜日の紙面に『芸術書簡』という見出しで、私と匿名の読者との芸術に関する論争が連載される。今年のはじめより試していた作画の上で、コンパスや定規やマスキングテープの使用を止めることに決める。

 2010年

1月ワシオ氏との詩画展のギャラリートークに想定外の7~80人のひとが話を聞きにきてくれ、うれしくて舞い上がる。『芸術書簡』の千葉日報の紙面上の掲載は1月9日に5回で終わったのだけれど、ギャラリートークの後、ビヤホールで〈読者〉と私的にメールの交換で続けることにする。しかし結局、私はもっと続けたかったのだが7回で相手がギブアップして、残念ながら終わる。

5月東伊豆の片瀬白田に借家を借りて、イーゼル絵画への取り組みを始める。前年のセザンヌ展、相次いで開催されたモネ、ルノワール、それに以前から好きなモランディーや坂本繁二郎等々、芸術の薫り立つ絵、物感のある絵の作者はすべてイーゼル絵画であることに、セザンヌ展の会場で気付いたことが決断の理由だ。アトリエ絵画からイーゼル絵画への、転換の決断と分岐は、私の画家人生の大きなエポックになるだろう。

 2011年

1月イーゼル絵画の正しさを確信する。イーゼル絵画のタームは「目ん玉芸術」「対象を裸眼で(他人のソフトや自分自身のオファーを排して)見る」「事件は現場(目)で起こっている」。3月11日、東北地方大地震。11日は午前、毎週書いている【片瀬白田だより】をHPにアップした後、去年お亡くなりになった三栖右嗣さんの遺品の多量の巻きキャンバスと木枠と新品の絵具を川口額装の川口君に前日とりにいってもらい、当日アトリエに届けてもらった。午後3時前に「東北地方太平洋地震」があった。今まで生きて来た65年間、地震で外に出ることはなかったが、今回はあまりに揺れるので2度外に出た。さいわい、アトリエでは食器が2、3個割れた程度で被害はなにもない。テレビもラジオもつけていなかったので、こんな大災害になっていると思っていなかったので、郵便局にいったり、『かめやま』で宅急便をだしたり、『伊勢角』に買い物にいったりと日常と変わらぬ行動をしていると、なんだか周りの空気と自分の態度がズレている感じがして、帰ってからブラウン管のアナログテレビでやっと事態の重大さを知った。

 2012年

7月東伊豆から御殿場に借家を転居。遠景が肉眼より小さく写る写真(逆に近景は、写真の方が肉眼より大きく写る)に比べて、肉眼で見る富士山は圧倒的で、その大きさと存在感は宗教的で崇高だ。さて、これをキャンバス上に変換、定着するにはどうするのか……冨士という、普遍や超越に近い存在に対する挑戦にワクワクする。

 2013年

『芸術の哲学』の文章が日大の入試の問題に使用される。嬉しく、誇らしい。絵画作品と同じように、いい作品、コンテンツのしっかりした文章さえ書いておけば、いつかどこかで誰かの目とシンクロして目にとまるだろうという期待は持っていたが、大学入試の問題に使用されるということは想像もしていなかった。こういうことがあると、漠然と、死ぬ前にもう1冊書きたいと思っていた本の出版への気力が湧きあがってくる。11月御殿場から山中湖村に借家を転居。

 2014年

「道元」関係の本を読みまくる。ブッダ及び道元の世界観は、西洋哲学、宗教の一元論的世界観と根底が違うことに気付き、「全元論」という言葉がポッカリ浮かび上がってきた。この言葉をキーワードにして、イーゼル絵画も道元も、解釈が明確になる。

 2015年

10年前、藤屋画廊からの要請で偶然立ち上げたグループ、『視惟展』が11月に10回展で終了。

 2016年

9月、第1回『イーゼル画会』展を開催。このグループ展は毎年開催で10年間続ける予定。11月島根県今井美術館において、岡野岬石(浩二)T・Sコレクション展を開催。

 2017年

11月、山中湖村の借家を引き払う。御殿場から山中湖まで、イーゼルを立てて描(えが)いた富士山の画はトータルで241点。

 2018年

4月、2016年に録音し文字起こしをしたまま、途中で頓挫して眠っていた『全元論』(副題ー画家の畢竟地(ルビ、ひっきょうち))の出版が、偶然のめぐり合わせで息を吹き返す。

6月、体力のあるうちに、故郷の岡山県玉野市の海と山の前で、イーゼルを立てたいと、以前から周りの友人知人に口をかけていたところ、大阪にいる小中の同級生の井上正康氏より、玉にある実家の2階を6月から1年間貸してもらえることになる。ひと月ごとに玉野と柏を行き来する。

11月、『全言論』ー画家の畢竟地ーを静人舎より出版。

 2019年

6月、『瀬戸内百景』展ー岡野岬石玉野の海と山を描くーを、アトリエの階下の『ギャラリーカフェ マザーズ』で展覧する。あわせて、同展覧会を電子画廊『ギャラリー仁家』でネットでも展覧する。

12月、画文集『瀬戸内百景』を静人舎から出版。

 2020年

7月22日~8月8日、藤屋画廊で個展。この時の個展は18日と期間も長く、武漢ウィルス禍で来廊者も疎らだったが、私自身は手応えを感じた個展だった。

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世界は大きく変わろうとしている。この変化の方向は、世界存在の法(ダルマ)の流れに沿って進んでいるのだから、人間の実存の欲望では止められない。世界の中の日本の役割は、今後ますます大きくなっていくだろう。このような、時代の分岐点で、私の個展が重なるのは、これぞ〔天の配剤〕だと、自分勝手に考えます。(『画中日記』2020.07.20より)

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10月1日~10月11日、玉野に行く。小島地(こしまじ)の風景と、小島地から滝(たき、地名)にかけての、田園の彼岸花を描くのが目的だった。滞在途中の7、8、9日と島根県の断魚渓にも描きに行く。

 2021年

 

-テキストデータ, 全元論, 著書、作品集、図録

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