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(76)芸術美は自然美よりも美しい

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(76)芸術美は自然美よりも美しい(262頁)

表現(事)ではなくて、世界(物)の描出を画家の使命だと信じて絵を描いていると、芸術美と自然美の比較の問題が出てくる。結論を先にいえば、芸術美の方が自然美よりも美しい。現実のひまわりよりも、ゴッホの『ひまわり』の絵の方がいい。僕は、子供の頃からそう信じていた。「あぁ、現実のひまわりよりも美しいな」と思っていた。サント・ヴィクトワ-ル山の実物を見るよりも、セザンヌの『サント・ヴィクトワール』の方が、よほど美しい。一度でもゴッホのひまわりを見れば、その後からは、現実のひまわりの方がゴッホの絵に影響されて、つまりゴッホの目に影響されて、美しく見える。だから芸術は人間に必要なのだ。だって、芸術に感動すれば、ひまわりだけでなく世界は「美」に満ち満ちている事を知らされるのだから。自然は発想の原点ではあるけれど、そのアルケー(原理)を人間が抽出してこそ美しい。

昔、先輩のリアリズムの画家の佐藤照雄さんとリアリズム問題を議論したことがある。ク-ルベ的自然主義リアリズムは、今の絵描きがやるべき事でないと言って僕は反論した。もし、実物の方がよくて、それに肉薄することが画家の仕事だとしたら、「絵を壁面に掛けるより、モデルを裸にして並べた方がよっぽどいいって事なの?」と言った。実物の方が良ければ、そうする方がいいじゃないかと。佐藤さんは何と答えたか、忘れたけれど。現実の対象を踏み切って、垂直に天に向かって跳ぶのが、画家の仕事だ。

僕の今の画法は、エスキースの段階できちんと完成図まで決めてしまう。タブローの上では試行錯誤をしない。光の問題を考えると、先述のようにマチスの光の問題に気づけば、当然そうなる。光の量が落ちたり、色が濁ったりしないためにそうする。空間の秩序立てもエスキースで測りながら検証する。背景の形とか空間など、両方の美しさを見ながら画面を攻めて行く。

マチスも最初から分っていたのではない。

ここで僕が以前マチスについて書いた私論を引用してみよう。

” 晩年(一九四〇年~一九五四年)の美の本質と置き換わったような、歴史の中でもピークをなす作品群と、四十歳代の後半までの若々しい実験的な作品群に挟まれて一九一七年~一九二九年までのオダリスクや室内風景の作品はなんだか異質だ。私は最初この時期の作品を見て戸惑った。これが私の最も好きな最晩年(一九四五年前後)のマチスの作品とどう繋がるのだろうか理解に苦しんだ。だいたい画面がぬるぬるしていてグレーがかったモデリング(肉付け)のトーンが少しも美しく感じられなかった。当時のマチスの周りも、それまでの革新的で実験的作品に比べて描写的で保守的に見えて否定的な評価だったようだ。一九二〇年、マチスは五〇歳である。五〇代のマチスはほぼ一〇年間何の考えを基にこのような作品を描き続けたのだろうか。

結論を先に言えば、眼(視覚)の独立と自由の為にもう一度自分の絵画を再構築しようとしたのではないだろうか。何からの独立と自由かと言えば自分自身の自己意識から、という事だ。例えば人が花瓶に花を入れてテーブルの上に置いてその絵を描く時、画面上の位置関係、大きさ等だれが描いてもほぼ似てくる。意識が対象を捕らえに行く時の共通点が眼(視覚)を縛るのであろう。対象を眼の前にして自己の意識から自由になるという事は至難の技なのだ。

マチスのオダリスクでは画面の全ての場所を同価値で描こうとしている。モデルの顔も壁紙の模様もテーブルの花もタッチの差はほとんど無い。まるで望遠レンズでピントをぼかしたような奥行きの浅い感じを持たせる。この事はマチスの作品が対象をマチスの意識がとらえ解釈し表現した世界を私達観賞者が見ているというよりも、マチスの眼前の対象を直接にマチスの目を通して触れているという感じを持たせる。そのような考えのもとにそれまでの実験的で主意的な作品から視覚的、感覚的、エロス的な世界へとたて直しをはかったのではないだろうか。そしてそれが晩年の人類の宝物ともいうべきすばらしい作品群に連なって行く。

もしもマチスが晩年のピークに到達しないうちに死を迎えたなら(年齢的にもその可能性は高かった)と考えるとその勇気と美に対するあくなき探究心は、東洋の片隅の画家にも時代を超えて生きることえのエネルギーを与えてくれる。” 

(【参照】「マチスのニ-ス時代(1917~1929)の作品に対する私論」(一九九九年八月)より)

人間の、視覚ではなく、意識が差別しているのだ。ある状況を描こうとすると、視覚的には、眼には同等に入ってきているのだけれど、意識が、差別している。「これがリンゴだ」などと意識が言う。でも、リンゴの外側のものも同等に視界に入ってきているのだ。

モデルでも花でも、マチスでないと画面の中にこんな入れ方は絶対にしない。写真を撮る時でも絵を描く時でも、目の前にモデルを置いて描けば、対象を画面の中心にもってくるのだ。モデルがいて、モデルの足だけ入れて、このように物を見るという事は、普通はしない。そして、描いている自分の足や手やスケッチブックは、眼に入っているのだけれど意識には登らず見えてはいない。

という事は、マチスのような絵を描くという事は、意識的に自我を殺さなければ描けない。自我意識が邪魔をするのだ。自我意識は、視覚にバイアス(偏向)をかけて濁らせる。人は普通、窓の外と内、人物と壁紙を、同時に同等に見ないのだ。またシボリとピントの関係で見えないのだ。マチスは意識的に意識を殺すというはなれ技を意識的に使って制作しているのだ。マチスは、室内風景でそういう絵を描いている。人物でも、驚くべき作品がある。『腕』(1938年)という作品で、描かれているのはモデルの左腕が中心で、コスチュームと首の一部、椅子と壁か床。モデルの顔はどこにも無い。こういう構図は絶対に普通はありえない。

同じ絵描きとして、ああいう作品を見ると、よくそんなふうに物を認識できるなと、もう本当にびっくりしてしまう。『ロココ風肘掛け椅子』(1946年)もこんな絵を発想するなんて凄い。発想というよりも、このように画面を造形することが凄い。これが椅子で、ここに花がある。もはや、椅子として見ないで画面の中のフォルムとして空間として構成として見る。画面の方を大事にする。物の方を見ないで、物の方に向かわないで、美に向かって造形のベクトルに進めていくわけだ。

モデルを置いて、具象から造形するというのは、「ここ、いいなぁ」なんていう自我の意識とは離れて、造形というか画面という事に、意識を向けなければどっちみち描けない。

マチスは、もうここまで描いたら、これがあえて腕でなくてもいいじゃないかという事で描いたのだろう。だから晩年は切り絵になってしまった。マチスは純粋抽象には行かなかったけれど、その先にあるものが「抽象印象主義」になるわけだ。自画自賛すると、そういう事だ。

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