岡野岬石の資料蔵

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『仏陀』増谷文雄 著 角川選書ー18

『道元のことば』 田中忠雄著 黎明書房

投稿日:2020-12-04 更新日:

『道元のことば』 田中忠雄著 黎明書房

■一発(ほつ)菩提心を百千万発(ほつ)するなり。(正法眼蔵発菩提心)(11頁)

「しかるに、発心は一発にしてさらに発心せず、修行は無量なり、証果は一証なりとのみきくは、仏法をきくにあらず、仏法をしれるにあらず、仏法にあふにあらず」(『正法眼蔵発菩提心』)

発心は1度だけで、あとは長い修業がつづくと思うのは、仏法を傍観している者の見かた・考え方である。身をそこに投げ入れている者には、1日として新たに発心しない日はなく、1刻として新たに発心しない時はないのだ。それゆえに「百千万発」の発心なのである。最初の発心を百千万発するのだ。これを真実の修行という。(12頁)

おおよそ事をなさんとするならば、人は志を立てねばならない。(中略)

しかし、その志を貫き通すには、立志はⅠ回だけで、あとはくる日もくる日も努力あるのみと思ってはならない。初発の志を百千万発するのである。たとえば学問が成就しても、重い椅子に就任しても、事業が成功しても、なお初発の志を百千万発するのである。この百千万発がなければ、次の瞬間から学問も業務も事業も生気を失い、下降の方向をたどり、やがて頽廃におちこんでゆく。

ましてや、発心は人生の一大事にかかわるのである。発心は1どだけという姿勢では、長い修業は新鮮さを失い、マンネリズムになるほかはない。そこには喜びがない。あるのは歯をくいしばっての努力だけである。このような、いやいやながらの努力には、息抜きが必要であり、その息抜きの際に、あらぬ誘惑に引かれて初発の菩提心を失い、志を失って頽廃におちこんで行くのである。

この語は、まことに常見(常識)の徒たるわれらへの一大衝撃である。幸にして、われらに一代衝撃を受けるだけのセンスがある。これを有りがたいことと思いさだめて生涯の姿勢を正したい。(13~14頁)

■誠に夫(そ)れ無常を観ずる時、吾我の心(しん)生ぜず、名利の念起らず、時光の太(はなは)だ速かなることを恐怖(くふ)す、所以(ゆえ)に行道は頭燃を救う。身命の牢(かた)からざるを顧眄(こべん)す、所以(ゆえ)に精進は翹足(ぎょうそく)に慣(なら)う。(学道用心集、原漢文)(14~15頁頁)

そもそも、天地間の一切の事物は1つとして恒久不変なものはなく、絶えず生滅して常にあらざることを、よくよく心の眼でみるならば、利己の心が生ぜず、名声欲も利益欲も起らなくなるものである。そうして、時というものが極めて早く去ってゆくことに驚き恐れるところから、頭上にとんでくる火の粉を払うように急切に仏道を行ずるようになるのだ。わがいのちも無常生滅のなかにあり、いつ死ぬともわからないことをかえりみて、過去世の釈尊が一脚を翹(つまだ)てて7日も休みなく仏を讃歎された故事に慣って、一刻もむだにせず仏道に精進努力するようになる。

当(まさ)に無常を観ずべし(当観無常)ということが、われらをして無上の真理を求めしめる原動力であり、一大勇猛心の根源なのである。(16頁)

■道元が「故(こと)さらかくなん云はじとも」と語ったことは大切だと思う。あえてY談はせぬなどと力んで言わずとも、僧のY談はいけないと知ったら、しだいにやめなさい、というのである。じつにやわらかなお示しで、自然に頭がさがる思いである。(82頁)

■身学道といふは、身にて学道するなり。赤肉団の学道なり。

身は学道よりきたり、学道よりきたれるは、ともに身なり。(正法眼蔵心学道)(85~86頁)

ここに「身学道」というのは、身をもってする学道である。この丸裸の身体をめぐらして、直ちに仏々祖々に参ずる学道である。

そもそも「身学道」の「身」とは何ぞや。身とは学道よりきたるものであって、学道に入らざるものは、いまだ身にあらず、そこにあるものは肉であって、ただの臭皮岱にすぎない。それゆえに、学道よりきたれるものは、すべて身である。赤肉団の肉体も忽ち化して身となり、臭皮岱の肉魂も忽ち一変して身となるのである。かくのごときを身学道という。

「この身体をめぐらせして、十悪をはなれ、八戒をたもち、三宝に帰依して、捨家出家する、真実の学道なり。このゆえに真実人体といふ。後学かならず自然見(じねんけん)の外道に同ずることなかれ。」(正法眼蔵心学道)(86頁)

こうした自然見のの外道は、1度も道に向って志を立てることがない。彼らにあるものは肉体だけであり、肉欲だけである。そこには身体というものが欠如している。身学道がないからである。

身学道がなくて、観念を空転させるだけの学者、文人も、やはり自然見の外道である。頭の中で考えることと行なうことが、くいちがっている。言うことと為すことが相応しない。こうした観念の徒は、必ず自然見の外道に加担して、肉魂の世界に奉仕しているのだ。いかに高遠なことを言っても、その高遠なものが、そっくりそのまま肉魂の自然見を増長しているのである。(87頁)

近代文化というものは、自然見の外道(自然主義)が作りあげたものである。だから、近代化すればするほど、肉体がはびこり、身体が衰亡する。

1度も志を立てず、1度も道を求める気をおこさず、自然に出てくる欲望を「人間性」(ヒューマニティ)と称し、これを解放することを主義としてヒューマニズムを名乗る。近代というものの本質はこの自然見にある。

自然にわいてくる欲望を大事にしろというのが、いうところの人権尊重である。そうでないといくら弁明しても、自然見の外道は、ここまで堕落しないではおさまらないのだ。これを「肉体民主主義」というのである。(88頁)

■他は是れ吾れにあらず。(典座教訓)(89頁)

彼は私ではない。私の仕事は私の仕事、彼に代わってもらえるものではありませんぞ。

道元が天童山で修行しているとき、典座の職に慶元府出身の某用という僧がいた。典座とは一山の衆僧のために食事を管する役目である。

夏の日に、法会(ほうえ)が終って東廊をすぎ超然斎という名の堂宇に行こうとしたら、途中で年老いた典座の姿を見た。手に竹の杖を持ち、笠をかぶっていない。太陽はかんかん照りつけ、地面の敷き瓦は焼けている。典座は仏殿の前で、しきりにきのこをさらしている。流れる汗をものともせずに、懸命にきのこをさらしているが、この作務はいかにもいたましく見えるのであった。典座の背は弓のように曲り、長い眉毛は鶴のように白い。

道元は近づいて、年齢を問うたら、68になるという。

「貴僧はなぜ人を使ってこの作務をやらせないのか。」

このとき老典座いわく、

「他は是れ吾れにあらず。」(89~90頁)

 

この老典座との問答は、つづけてもう1つある。このとき道元は感激して、

「老僧の如法(にょほう)の(法そのままの)作務には頭がさがります。しかし、この炎暑のなかで、このように苦しい作務をやる必要がありましょうか。」

ときに老典座いわく

「さらに何の時をか待たん。」

この応答には、無常迅速なり、この時をおいて、いずれの時にか作務せん、というひびきがある。道元は、この老典座によって生活の全体について開眼(かいげん)するところがあったのである。(90~91頁)

■大道は従来一実(いちじつ)より通ず

蓬瀛(ほうえい)何ぞ必ずしも壺中に在らんや

逍遥(しょうよう)たる世外誰人(たれひと)か識(し)る

赤肉団辺(べん)に古風を振う(永平元禅師語録)(108頁)

「蓬瀛」は詳(くわ)しくは「蓬莱(ほうらい)」と「瀛洲(えいしゅう)」のこと、どちらも仙人の住む神仙境、普通に天国とか極楽とか呼ばれてるものに似ている。

「壺中」とは、むかし壺公という仙人がいて町で薬を売り、夜になるとそばにある壺のなかに入って寝た。ある日、壺公が居合わせた男に「お前も壺の中に入ったらどうだ」というので、その男が思い切って壺の中にとび込んだら、そこに蓬莱(ほうらい)といおうか瀛洲(えいしゅう)といおうか、素晴しい金殿玉楼で、その中で壺公は数十人の侍者にかしずかれて悠々としていたという。この『漢書方術伝』の伝説をふまえて「壺中」という。

「逍遥」は、あちらこちらぶらつくことであるが、ここでは遠くかけ離れた様子。

「世外」は世間のそと、つまり別天地のこと。

「赤肉団」とは、さきにも1度述べたように、赤い肉のかたまり、すなわち肉体のこと。「団」はかたまり、かたまるから団結といい、かためて作るから「団子」という。赤い肉のかたまりだから、肉体の生き生きした、なまなましさが響いてくる。(108~109頁)

「大道は従来一実より通ず。」……これこそ千古万古の金言である。人類だの、世界だのと言って、大風呂敷をひろげて、きまり文句を叫んでいる者にろくなやつはいない。

(中略)

歎くには及ばぬ。その一実こそ人間の真実の落ちつくところで、いつでもどこでも安楽境を現成するのである。

赤肉団辺に新風を競う者に、ろくなやつはいない。フーテンもゼンガクレンも、進歩的文化人も、質的には同じものである。流行を赤肉団辺に振ってゴーゴーを踊っている女と進歩的文化人とは同じもので、それ以上でもなければ、それ以下でもない。いよいよ大道はふさがって、どうにも身動きができなくなるばかりである。(110~111頁)

■いまといふ道は、行持よりさきにあるにあらず、行持現成するを、い まといふ。(正法眼蔵行持(上))(112頁)

「行持」とは「行」を持続すること、一時的な実践でなく、久しく行持てやめないこと。発心、修行、証悟を貫いて、少しのすきまもあらしめないものは行持である。

「現成」はここでは実現とか顕現の意と解してよい。(112頁)

時というものは過去、現在、未来の三時より成るというが、そのいずれも、これといってつかむことのできないものである。過去は過ぎ去ってすでに無く、未来はいまだきたらずして無く、現在すなわち「いまという道」か一瞬にして過去に呑み込まれて無に帰するものである。それゆえに過去心不可得、現在心不可得、未来心不可得という。

他方、知性で表現されるときは、無眼に長い過去と無現に長い未来が、どこまでもどこまでもつながり連続していて、その中間に一刹那のいまが泡沫のようにあり、ありと思われた瞬間に消えてなくなるものである。

いまという道は不可得で、測定することはできない。いまというものは何秒間で消化、それとも何分間でしょうか、あるいは何時間でしょうかと聞いたやつがいるが、そんなことを聞くやつには、いまという道は存在しないのである。

さてまた情緒的に時をとらえると、過去にとりすがれば感傷となり、未来にとりすがれば不安となる。過去を呼び出して持ち越し苦労をする感傷の人にも、未来を思うて取り越し苦労をする人にも、いまという道はない。いまという道は過去と未来のはさみ打ちをくらって、なきものにされているのだ。いまという道は死んでいる。

(中略)

この最も重大ないまという道は、どうしたら成立するか。ここが参究の眼目である。そもそも、いまという道が、客観界のどこかに存在すると思うのが大いなる誤りである(岡野注;「全元論」ではそもそも客観界というものがない)。いまという道はそんなものではないのだ。身心を打ちこんで行じているところにのみ、いまはある。行じていないところには、いまはない。

(中略)

「行持現成するを、いまといふ」のである。このいまが、過去を背負い、未来を孕んでいる。いずれも彼方にあるがごとくであるが、「いま」に呑み込まれて、いまのなかにおさまる。これが生命になり切った時間というものの実相なのである。(112~114頁)

■公案話頭(わとう)を見て聊(いささ)か知覚ある様なりとも、それは仏祖の道にとをざかる因縁なり。無所得無所悟にて端坐して時を移さば、即(すなわち)祖道なるべし。(正法眼蔵随聞記、第五)(115頁)

「無所得、無所悟」は所得なく所悟なしの意で、道元禅の神髄を示す言葉になっている。何か代わりに得る所、悟るところあらんとアテにして修行しては仏道にとをざかる(遠ざかる)という重大な教えである。(115~116頁)

「坐禅すると、どんなよいことがありますか。」

「坐禅してもなんにもならん。」

「なんにもならんのに、なんでするんですか。」

「なんにもならんから、するのである。」

「そんなら、僕は坐禅をやめます。」

こんなことを言って下宿に帰った。佐賀の多布施川のほとりの下宿の一室がいまも目に浮ぶ。ここで私は、あの問答を何度も繰りかえした。すると、あの「なんにもならん」という一語のひびきの何とさわやかで確信にあふれていたことよ。生まれて以来、一度も味わったことのない清冽さではないか。

その魅力に惹かれて、翌日また出かけて行って、

「老師、その何にもならんのを教えてください。」

こうして老師に入門したのであった。老師の「なんにもならぬ」が道元の「無所得」であり、「無所悟」であることは、その後の参禅によって、はじめて知ったのである。老師というが、あれはまだ先師40代の頃だった。坐禅して食えなくなって餓死するなら、それもよかろうという大修行をしてまもない頃(大正11年)の老師だったので、栄養不足の顔つきが60代の人に見えたのである。

晩年の老師は次のように説かれた。「悟るとは損をすることなり」と。「さとる」の「とる」は、やはり「取る」であろうが、その「取る」が脱落し切ったとき、つまり損したとき、本当の仏法になるというのだ。和尚の「損する」とは、損得づくを脱落することだった。

仏法は、だから「途法もないもの」で、たくさんの民衆が、われもわれもとやるものではない。「こんなに大ぜい集まるのは、おかしい」と、よく老師は参禅会の壇上で言われた。(118~119頁)

■それ修証(しゅしょう)はひとつにあらずとおもへる、すなはち外道の見なり。仏法には修証これ一等なり。いまも証上の修なるゆえに、初心の弁道すなはち本証の全体なり。かかるがゆえに、修行の用心をさづくるにも、修のほかに証をまつおもひなかれとをしふ、直指(じきし)の本証なるがゆえなるべし。(正法眼蔵弁道話)(125頁)

「修証」は修と証の意、修は修行、証は証悟、さとり、得道のこと。

「外道の見」とは仏法にあらざる見解のこと。

「直指の本流」とは、寄り道しない端的な本来の証(さと)りという意味。(125頁)

いま我らが坐禅するのは、証悟を向う側において、これをアテにする修行ではなくて、本来証悟の身体をめぐらしてやる修行である。これを「証上の修」というのだ。すでに証上の修である。ゆえに初心の弁道(修行、坐禅)は、直ちにこれ本来証悟の丸だしで、どこかにまだ発現していない証悟などというものは存在しない。初心の弁道も信じて打坐すれば、直ちにこれ本証の露堂々(ろどうどう)なる丸だしである。

初心の発心も仏性の全体、修行の弁道も仏性の全体、あに証悟のときをのみを仏性とせんや。道元では、草木は発芽のとき、枝葉繁茂のとき、開花のとき、結実のときを「條々の赤心なりと参学すべし。」…その1つが仏性の全体と参学すべしという。つまり過程と究極との間隙を打ち払う道元の家風を想起することが必要である。

修と証とに間隙なく、2にして実は1であるから、古仏たちが修行の心得をさずける場合にも、修のほかに証を待つ思いを持つなと教えたのである。修すなわち坐禅こそは、直ちに証(さと)りそのものであるからである。かくのごとく信じて坐るのが道元の坐禅である。(126頁)

■仏道をならふといふは、自己をならふなり。自己をならふといふは、自己をわすれるなり。自己をわすれるといふは、万法に証せらるるなり。万法に証せらるるといふは、自己の身心(しんじん)および他己の身心をして脱落せしむるなり。悟迹(ごしゃく)の休歇(きゅうかつ)なるあり、休歇(きゅうかつ)なる悟迹(ごしゃく)を長々出(ちょうちょうしゅつ)ならしむ。(正法眼蔵現成公案)(129頁)

「万法に証せらるるなり」の「万法」とは、万物の意と解してよい。自己が「無我」で、いささかの我見も付着しないときは、自己は万法に証せられているのである。

「他己」とは自己との対になる用語であるが、「他」といえども「自」と同じく己(おのれ)であるという自他一体感から、「他」を「他己」というのである。

「脱落」とは「身心(じん)脱落」のことで、道元が天童山の如淨(にょじょう)禅師の道場で大悟したときの言葉である。道元は大悟の境地を「身心(じん)脱落せり」といい、師の如淨はこれを全面的に肯(うけが)ったのである。旧来の身と心とが共に滅して、真空無我の妙境を究めたことを身心脱落せりという。

「悟迹の休歇」の「悟迹」とは、悟りの迹(あと)という意味であるが、悟りへの経路も悟りの内容も、あとづけんとしてもその姿が見えないことを「悟迹の休歇」という。「休歇」とは、休止、つまり休(や)んでいること。

「長々出」とは、右の悟りのあとをとどめない悟りを、どこまでもどこまでも現してゆくこと。(129~130頁)

仏道を学ぶとは、よそごとを学ぶのでなく、自己自身を学ぶことである。自己自身を学ぶとは、自己を忘れて無我になることである。自己を忘れて無我になるとは、自己を運んで万物を証するのではなく、万物が進んで自己を証することである。万物が進んで自己を証するとは、自己も他己も旧来の身心を脱却し脱落して、大乗の「空」ならしめることである。ここに悟りの妙境がある。しかも、そこには悟った迹(あと)も払拭(ふつしき)されて、悟りの染汚を一点もとどめないのである。この染汚なき悟りを、どこまでもどこまでも行じつづけ、現じつづけてゆく。これが仏道の究極なのである。

学仏道は、他事の学でなく、汝自身を知ることである。しかし、自己の学とは、つまるところは自己の無我を究(きわ)め尽すことである。自己が実体であり自性(じしょう)を持っているとして自己に執著(しゅうじゃく)するかぎり自己の本質に撤することはできない。

この無我は、自己のみでなく万法の実相であるから、われと万法との2元対立を超出している。この消息を「万法に証さるるなり」という言葉で示す。自己が今日いうところの「主体性」のようなものでないことを知るべきである。

それはまた自・他の同根一体を意味する。自己・他己として共に「己(おのれ)」とする語法にもそれが現われている。自とは自己という「己(おのれ)」であり、他とは他己(万物)という「己(おのれ)」であるのだ。その一つ一つの身心が脱落するのである。一つ一つの身心は原子のごとき「実体」ではない。そのような死せる実体から脱出しなくてはならない。この脱出のときを身心脱落という。

身心脱落には悟りの迹(あと)をもとどめない。悟りが悟りにとどまって、そこにあぐらをかくとき悟りといえども染汚(しみ)となる。これを洗浄し、染汚(しみ)がなくても洗浄しもてゆくのが学仏道の極意であり、道元はこれを「行持」(行の持続)といった。(130~131頁)

■原(たず)ぬるに道本円通(えんずう)、争(いかで)か修証(しゅしょう)を仮(か)らん。宗乗自在、何ぞ功夫(くふう)を費やさん。(普勧坐禅儀、原漢文)(133頁)

「原ぬるに」とは、根源にさかのぼってつらつら思うにという意味。

「道本円通」は、道は本(もと)円満にして自在ということ。そのうち「道」とはここでは大宇宙の真理をいう。「本」とは元来、本来、本質上という意味。円通の「円」は、あまねくして到らぬところなく、欠くるところなしの意、すなわち修行と悟りのこと。

「仮らん」は、借らんと書いてもほとんど同じことで、借りる必要がどこにあろうかと訳してよいだろう。

「宗乗」の「宗」は旨(むね)とか本(もと)とかの義、すなわち第一義の真理のことであり、「乗」は元来乗りもののことで、人類を乗せて向う岸に渡して救出する大いなる法の意味。

「功夫」の「功」は功労、「夫」は扶助の義であるから、努力とか修行とかを意味する。普通の「工夫」というのは、いろいろ考案することで道元の「功夫」とは異なる。(133~134頁)

この一節なくして坐禅を説けば、おそらく結跏趺坐の坐禅は手のこんだ人為の極となる。道元の思想の根底には、かような人為を滅尽するという姿勢があった。彼はこれを「不染汙(ふぜんな)」と呼んだ。人為の付着が寸毫でも残っていれば、染汙(ぜんな)すなわち、しみであり、けがれであるのだ。

修行して得悟するなどという人為的な功夫の必要がどこにあろうか。坐禅して大悟するなどという施設の必要がどこにあろうか。元来、そのような功夫や施設は、すこしも必要ではない。必要でないところが大道であり、不染汙であり、円通自在なのである。

道元は少年の頃に、「すべての仏たちによると、人間は元来仏性そのものだとあるが、もしそうであるとすれば、なぜ彼らは発心修行して無上の真理を体得し、そうして仏とならねばならなかったのか」という困難な問題に逢着して行き詰ってしまった。元来仏性として生まれたのなら、発心も修行も証悟も不要であるはずだ。彼は時の最高学府比叡山の学匠を歴訪したが、誰ひとりとして腑におちる解答を与えてくれなかった。そこで彼は比叡山を捨てたのである。

この主題が、身心脱落し一生参学の大事を了(おわ)った道元の口から、質を変えて再び現れる。それが『普勧坐禅儀』劈頭のこの一節である。

「いかでか修証を仮らん、何ぞ功夫を費やさん」というのだ。そのような人為の主体性を容れる余地は寸毫もないというのである。

ではなぜ彼は三世の諸仏と同じように坐禅したのか、精進努力したのか、そうしてなぜ大悟したのか、大事を明(あき)らめたのか、身心脱落したのか。そもそも何がゆえにあまねく坐禅の儀を勧めるのか。ーこのような疑問をすべて打ち捨てて、道元のこの一節に耳を傾けよう。「道本円通、宗乗自在、いかでか修証功夫の要あらんや」と彼自身が言っているのだ。(134~135頁)

人為にあらず、自然にあらず、これを道元はアジアの生んだ最高巨峰のひとりとして、「道本円通、いかでか修証を仮らん」という1句によってその全体系の発想たらしめているのである。

このような人為の全面否定が確立したうえで、人間の自発的な努力やさまざまな施設がそれぞれ所を得るのである。近代の多くの思想家はこの消息にくらいので、道本円通なしに実存や主体性から出発しようとするのである。それは全宇宙から疎外された人為的主体性にすぎないのである。(136~137頁)

■諸仏如来の妙法、円通無礙自在の大道は、全宇宙にあまねきものである。ゆえに、人間もまたひとりひとり、個々にこの妙法・大道をそなえている。しかし、いかにゆたかにそなえていても、そのままほっておいて修行しないと現れない。修行して悟りをひらかないと自己のものにならないのである。ーいまだ修せざるにはあらわれず、証せざるにはうることなし。

(中略)

これを明かにするのに、最もふさわしい公案がある。私はこれ以上に適切な公案は他にないと思う。ー

唐の麻谷山宝徹(まよくさんほうてつ)禅師が扇を使っていた。僧きたりて問う、「風性は不変で且つあまねからざる処なし。」風の本性は恒久不変でかつ天地一ぱいどこにも存在する普遍的なものであります。さすれば和尚がことさらに扇を使って風を起そうとするのは可笑しいではありませんかと。

師答えていわく、そなたは風性が不変だということは知っているが、あまねからざる処なしという普遍の理が少しもわかっていないようじゃと。僧問う、しからばその普遍の理を示してもらいたいと。ときに師、扇を使うのみなり。僧、礼拝す。

道元は『正法眼蔵現成公案』最後の一節に、この公案を挙げて、「仏法の証験、正伝の活路、それかくのごとし」と言っている。風性とは仏性のことであり、「この法」のことである。それは天地一ぱいのもので、万人それぞれの分上にゆたかにそなわっている。だからこそ、もし人がみずから扇を使って行ずるならば、風はいつでも、どこでも、必ず生ずるのだ。いつの時点でなければならぬということもないし、どこかの一隅でなければならぬということもない。扇を使えば、風性は普遍であるから涼風が必ず生ずる。扇を使わずに涼風を得ようとするのは、風性の普遍なる所以を知らないものだ。いまだ修せざるには風は現れず、いまだ証せざるには涼風は得られないのである。(138~139頁)

■山僧、叢林を歴(ふ)ること多からず。只(ただ)是れ等閑(とうかん)に天童先師に見(まみ)えて、当下(とうげ)に眼横鼻直を認得して人にせられず。便(すなわ)ち空手にして郷(きょう)に還(かえ)る。所以(ゆえ)に一毫も仏法無し。(永平広録、巻1)(141頁)

「山僧」は「山野の僧」という意味で、一般に僧が自分を指して山僧と言う。

「叢林」とは禅の寺院のこと、「檀林」ともいう。真実の道を求める人々、すなわち僧衆が和合して一緒に住み、林のなかに樹木がたくさんあっても少しも少しも争うことがなく調和しているのと同様であるというところから来た言葉。

「等閑に」は、なおざりにということ、元来は事物を軽く見るときに使う言葉であるが、ここでは「求めずに」、「尋常に」、「当たり前の仕方で」というように、さらりとした心持を示す。

「当下に」は、すぐさまという意味で、廻り道や寄り道をせずにという心持を示す。

「一毫」の「毫」は細い毛のこと、分量の極く少いこと、髪の毛ひとすじと訳してもよい。(141~142頁)

私は大宋国に渡ったが、それほど多くの道場を歴訪して学歴を積んだわけではない。ただ学道者の常の仕方で先師、天童山如淨(にょじょう)禅師の門に入り、よそ見せずに眼は横、鼻は縦についているという道理を体得して、人にだまされないようになっただけである。

つまり私は何の御土産も持たず、すでで日本に帰ってきた。だから私には、いわゆる仏法などという特別なものは微塵もないのである。ー(142頁)

■渾身(こんしん)是れ口、虚空を判ず

居ながらに起す東西南北風(ふう)

一等に玲瓏(れいろう)として己語(こご)を談ず

滴丁東了滴丁東(てきていとうりょうてきていとう)(永平広録、巻1)(133頁)

この偈(げ)は、道元がその師、天童如浄の風鈴の偈に和して詠じたものである。そこで、まず如浄の風鈴の偈を掲げる。

渾身口に似て虚空に掛る

東西南北の風(ふう)を問わず

一等に他の与(ため)に般若を談ず

滴丁東了滴丁東

全身まるごと口みたいで虚空にぶらさがり

東西南北、風のまにまに

万物のため平等に般若空を説いている

テイ、ティン、トン、リャオ、テイ、ティン、トン

この風鈴の偈が、道元は大好きだった。若き日、如浄の会下(えか)にありしとき、師の風鈴の偈を聞いて感歎措(お)く能わず、進み出て師を排し、「和尚の風鈴の頌(じゅ)は最好中の最上なり。諸方の長老、縦(たと)い三祇劫(さんぎごう、百億万年)を経(ふ)とも、亦(また)及ぶこと能わざらん」と言い、さらに「道元何の幸ありてか、今見聞することを得て歓喜踊躍(ようやく)し、感涙衣(ころも)を湿(うる)おし、昼夜叩頭(こうとう)して頂戴す。然る所以は、端的にして而も曲調あればなり」と申しあげた。そのものずばりで、しかも曲調(ユーモア)があるからです、と言ったのである。

如浄はそのとき、ちょうどかごに乗ろうとしていたが、「笑を含んで示していわく、爾(なんじ)の道(い)うこと深く、抜群の気宇あり」と言い、つづけて「諸方賛歎すると雖(いえど)も、而も未だかって説ききたって斯(かく)の如くに非ず(おのずから出来たもので、ことさら作ったものではない)。われ天童老僧、儞(なんじ)、頌(じゅ)をつくらんと要せば、須(すべから)らく恁地(かくのごとく)つくるべし」と語った。

師弟一枚になっての、美しくもまたほほえましい光景が目に浮ぶ。道元は、後にこの偈頌(げじゅ)に唱和して、みずから一偈を成した。それが、いま揚げるところの風鈴の偈である。

全身口になり切って、虚空をよりわけ

居ながらにして東西南北の風を起す

その風の一つ一つに澄み切った声のひとりごと

チリン、チリリン、チリリン、ツン(154~155頁)

■うらむべし、山水にかくれたる声色(しょうしき)あること、又よろこぶべし、山水にあらわるる時節因縁あること。(正法眼蔵渓声山色)(165頁)

道元において、山水は人為にあらず、自然にあらず、じつに「古仏の道原成」であった。『正法眼蔵山水経』には「而近(にこん)の山水は古仏の道原成なり」とある。いま、まのあたりに見る宇治の山水は、直ちに是れ古仏の道原成、すなわち仏の成り姿である。されば渓流は間断なく古仏の道を説きつづけ、山色は仏の姿をすこしもかくすことなく露現しているのだ。

しかるに、あわれむべし、凡夫にはそれが聞こえず見えず、自然は死んで向う側の対象界に横たわっているものとなった。しかし、修行者にとっては、仏の道はただかくれているだけだ。かくて現れないことは、うらむべきことだが、努めて倦むことなくんば、現れる時節因縁がある。

宋の偉大な詩人蘇東坡は盧山に遊んだ夜、渓流の声を聞いて、仏の「八万四千偈」を聞き、たちまちに大悟した。同じく霊雲は茶店に腰かけて休息したとき村里一ぱいに咲く満開の桃の花を見て大悟した。また香厳(きょうげん)は庭の掃除をしているとき石ころが竹にあって発した声に忽然(こつねん)として真理を体得した。

むかしから渓流は声をあげて説法のしどうしだ。桃の花も太古以来、春になれば毎年満開だ。石ころがころがって竹にあたるのも、むかしから何度あったか知れない。彼らが修行の果てに仏声、仏身にふれるまで、それはかくれていたかのようである。道元はこれを「うらむべし」と言った。

しかし時節因縁によって、すなわち修行の果てに彼らは仏声を聞き仏身を見た。これを道元は「よろこぶべし」と言ったのである。

うらむべし、よろこぶべしという文章のなかに無限の思いがこめられている。道元は、じつに詩人であった。無感動の世界を禅と称するのではないのである。(167~168頁)

■ある一類おもはく、仏性は草木の種子のごとし、法雨のうるおひ、しきりにうるほすとき、芽茎(がきょう)生長し、枝葉華果(しようけか)も(茂)すことあり、果実さらに種子をはらめり。かくのごとく見解(けんげ)する、凡夫の情景なり。(正法眼蔵仏性)(173頁)

ある一群の人々は、仏性というものを草木の種と同じように考えている。種を蒔くと、雨のうるおいがしきりにやってきて、その種のなかに可能性として潜在しているものがしだいに現れ、やがて芽を出し、茎を生じ、枝や葉を茂らせ、ついに花を咲かせ、そうして実を結ばせる。かくてこの実は、また種を宿している。仏性もその通りで、一切衆生のなかに仏性の種が宿っていて、いろいろの法雨、つまり因縁がこれを育てると、ついには仏性の花が咲き実を結ぶことになる。こんなふうに思っている学者が多いけれども、これは迷える凡夫の勝手な憶測にすぎないのである。

自分の内部に仏性の種子があって、それが時間をかけてうまく育てられたら仏性の花が咲き実が結ぶと思うのは、只管打坐していない者の思いである。

そもそも道元は『涅槃経』の「一切衆生悉有仏性」を「一切衆生、悉有は仏性なり」と読んだのである。(174~175頁)

人生は芽のときも、茎のときも、枝のときも、花や実に至る単なる過程ではない。芽のときに死んだら人生は徒労だったことになるのか。ただ花と果実のときが究極目的で、他はそこへ到る手段や過程にすぎぬのなら、枝葉繁茂のところまでこじつけて死んだら、これも徒労だったことになりはしないか。

道元はこれを断乎として退ける。それは「凡夫の情景」だ。発芽(発心)は過程であると同時に究極である。枝葉(修行)も究極である。開花(小悟)も究極である。そうして果実(大悟)も究極である。究極とは何ぞや。これすなわち仏性にほかならぬ。

過程であると同時に究極の意味がないなら、人生の意味はぼやけ、生活の意義は曖昧になる。途中で無常の嵐に散らされたら、無意義だったことになる。その予感があれば、途中の一々の時期に全力を打ち込む力が抜けてしまう。

ゆえに道元は、これにつづけて、「種子および華果ともに条々の赤心なりと参究すべし」と述べた。条々とは、一つ一つということで、それぞれのときの一つ一つが赤心、すなわち仏性のまる出し、かくしようのないものと参学せよというのである。

洗面のときも究極、食事の時も究極、草むしりのときも究極、読書のときも究極、休息のときも究極であって、それらの一々は何か一つの目的に到達するための道程や過程としてのみ意義づけられるのではない。(176~177頁)

■禅宗の称は魔波旬(まはじゅん)の称するなり。魔波旬の称を称しきたらんは、魔党なるべし、仏祖の児孫にあらず。(正法眼蔵仏道)(177頁)

いまの世にも人々は禅宗の称を口にしているし、ほとんど全ての禅学徒が禅宗を自称している。しかし、道元がこれを天魔波旬のなすところと断じたことを肝に銘じなければならない。道元においては、仏祖の児孫であるかないかだけが重大なので、ことさらに宗派を立てるがごときは断じて許されることではなかった。

見よ、釈尊も迦葉の正法を伝えただけであって、いまだかって仏宗とか釈迦宗とか名乗ったことなく、宗派を名乗ったこともない。達磨にも慧可にもなく、弘忍にも慧能にもない。青原にも南獄にもない。禅宗の称を用いたのは、おそらくつまらぬ学者が仏法をこわすためにやったことであろう。なぜなら、禅宗の称は、仏祖の法以外に禅宗という特別の法があると思うところからきているからである。

宗派根性というものは、自己主張からきている。多くの宗派に伍してこれに対立しようとするところから生ずるのである。それは道元の言葉を借りていえば「慕古(ぼうこ)の志気(しいき)なく」、みずから「自立」せんとする「庸流(ようる)」のすることである。

古えを慕うことなく、いまの世にこびて、世人の気に入りそうな新味を打ち出そうとする庸流(凡庸者)が一宗一派を立てようとするのだ。もし仏法においてひとりひとりが異を立てて「自立」したら、それこそ仏法の破壊であり、そうなったら仏法は断絶して今日に伝わらなかったであろう。

「仏道におきて各々の道を自立せば、仏道いかでか今日にいたらん。迦葉も自立すべし、阿難も自立すべし。もし自立する道理を正道とせば、仏法はやく西天(インド)に滅しなまし。各々自立せん宗旨、たれかこれを慕古せん。」(正法眼蔵仏道)

古を慕うには、格外の力量と過節の志気がなくてはならない。ゆえに凡庸者は、魔王にさそわれ、一宗一派を立てて自立しようとするのである。自立した宗派は、たとえ数百万の信者を集めても、やがては消えうせるものだ。古の道を求める慕古の志の生じようがないからである。(179~180頁)

■古人云(いわ)く、百尺竿頭如何進歩(ひゃくしゃくのかんとういかんがほをすすめん)と。然(しか)あれば百尺の竿頭にのぼりて、足をはなたば死ぬべしと思ふて、つよく取りつく心のあるなり。(正法眼蔵随聞記、第三)(187頁)

百尺の竿の頂上におる人が、どうして一歩を進めることができましょうと言ったのは、一歩を進めたとたんに地に落ちて命を失うだろうと思って、竿にしがみついているからである。

師の長沙は、それを敢えて一歩を進めよと言ったのだから、師の一語「よもあしからじ」と思い切って、手足を放って一歩を進めるがよい。むろん身命はないものと覚悟せよ。

渡世のわざも捨て、わが身の暮らしも捨て、思い切って一歩を進めよ。いかに師の言葉といえ、生活の手段まで捨てては死ぬばかりだから、これだけはとても師に従えないという気があっては、いくら猛然と勉強しているようでも、道を体得することはかなわぬ。頭燃ー頭にふりかかる火の粉を打ち払うような急切さで修行に努めているようでも、わが身可愛やの一念があって、身心を放下し打ち捨てきれないかぎり、真実の道を体得することはできない。この僧には「足をはなたば死ぬべしと思ふて、つよく取(とり)つく心」がある。この取りつく心を放下するのが、まことの修行である。

すなわち、一僧の心の裏まで見通ししての一語である。懐奘をはじめ道元門下の学人たちが、いかに身をひきしめてこれを聞いたか、思いやるだに感動のきわみである。(188~189頁)

■ただわが身をも心をも、はなちわすれて、仏の居へに投げ入れて、仏のかたよりおこなはれて、これにしたがひもてゆくとき、ちからをもいれず、こころをつひやさずして、生死をはなれ仏となる。たれの人か、こころにとどこほるべき。仏となるにいとやすきみちあり、もろもろの悪をつくらず、生死に著(じゃく)するこころなく、一切衆生のために、あわれみふかくして、かみをうやまひ、しもをあはれみ、よろづをいとふこころなく、ながふこころなくして、心におもふことなく、うれふることなき、これを仏となづく。またほかにたづぬることなかれ。(正法眼蔵生死)(194頁)

■この生死(しょうじ)は、すなはち仏の御(おん)いのちなり、これをいとひすてんとすれば、すなはち仏の御いのちをうしなはんと、するなり。これにとどまりて、生死に著(じゃく)すれば、これも仏の御いのちをうしなふなり。(正法眼蔵生死)(197頁)

生命体は母胎に宿る瞬間から刻々に無数の生と滅を繰りかえし、しばらくもとどまることがない。これを「刹那生死(しょうじ)」という。ひろげて言えば万物は「刹那生滅」して、一瞬も停止しない。有情はこの刹那生死によって身心発達し、幼、壮、老を経て一生を終えるので、これを「一期の生死」と名づける。そうして、この一期の生死を繰りかえして車輪のめぐるように一刻も停止せず六道(りくどう)に輪廻するのである。六道とは地獄、餓鬼、畜生、修羅、人間、天で、衆生はその業によってこの六道のなかをさ迷うて、脱出できないから、「生死の苦海」という。仏法はこの苦海からの解脱を説くものと考えてよい。すなわち、生死を離れて涅槃に入ることを教える。インド仏教の元来の発想は右のごとくである。(198頁)

もし人、生死のほかにほとけをもとむれば、ながえをきたにして越(えつ)にむかひ(越はみなみの国)、おもてをみなみにして北斗をみんとするがごとし。いよいよ生死の因をあつめて、さらに解脱のみちをうしなへり。ただ生死はすなはち涅槃とこころえて、生死としていとふべきもなく、涅槃としてねがふべきもなし。このときはじめて、生死をはなるる分(ぶん)あり。

生より死にうつるとこころうるは、これはあやまりなり。生はひとときのくらいにて、すでにさきありのちあり、かるがゆえに仏法のなかには、生すなはち不生という。滅もひとときのくらいにて、またさきありのちあり、これによりて滅すなはち不滅といふ。

生といふときには、生よりほかにものなく、滅といふときは、滅のほかにものなし。かるがゆえに生きたらば、ただこれ生、滅きたらばこれ滅にむかひてつかふべしといふことなかれ、ねがふことなかれ。(199頁)

■又見んと 思ひし時の 秋だにも 今夜(こよひ)の月に ねられやはする(傘松道詠)(213頁)

この一首には、「御入滅之年八月十五夜、御詠歌に云」とある。御入滅の年とは建長5年(1253)で、道元54歳、その日は8月28日であるから、この一首は死の13日前に当る中秋の夜に詠まれたものである。(213頁)

■不惜(じゃく)身命なり、但惜身命なり。(正法眼蔵生死)(222頁)

「但惜身命」の「但」は「たん」と発音する。この字を「但(ただ)し」の意に解するのは大なる誤りで、但(ただ)と訓(よ)まねばならない。ほかに余念なく、ただ身命を惜しむ、これを但惜身命という。(222頁)

■いたづらに百歳いけらんは、うらむべき日月なり、かなしむべき形骸なり。たとひ百歳の日月は、声色(しょうしき)の奴婢と馳走すとも、そのなか一日の行持を行取せば、一生の百歳を行取するのみにあらず、百歳の佗生(たしょう)をも度取すべきなり。この一日の身命は、たとふべき身命なり、たとふべき形骸なり。かるがゆえに、いけらんこと一日ならんは、諸仏の機を会(え)せば、この一日を曠劫(こうごう)多生にもすぐれたりとするなり。このゆえに、いまだ決了せざらんときは一日をいたづらにつかふことなかれ。この一日はをしむべき重宝なり。(正法眼蔵行持、上)(226頁)

われらのこの一日は、惜しみてもあまりある貴重な宝である。この宝をいたずらに空費しないことを「但惜身命」ともいうのである。(227頁)

むなしく百歳を生きるとは、肉体に奉仕して五官の世界に引きずられることである。

古代インドのある都城に4人の妻をもつ億万長者がいた。第1の妻は、長者の最も愛する妻で、長者は彼女の欲しがるものは何でも与えた。欲しがる着物、首飾りを買ってやり、旅行ものりものも意のままにさせ、食物、飲みものも好きなものを与えた。

第2の妻は苦労して手に入れた妻で、多くの競争者と争って、ついに自分のものにしたのであった。長者はこの妻を第1の妻の次に愛し、いつも身近にはべらせ、お前がいるのでわしは仕合せだと言った。

第3の妻は、ときどき会って慰め合い、飽きると口論して離れることもあるが、しばらくするとまた寄りを戻すという仲であった。

第4の妻は、むしろ下女というべき女で、長者は彼女を大切にしたことは1度もなく、勝手次第にこき使った。彼女は長者に仕えて立ち働いたが、1度も愛撫されることはなかった。

さても、あるとき突然のことが生じて、長者は住みなれた都城を去って、遠い遠い国に旅立たねばならないことになった。ひとりで遠い旅路に出るのはさびしい極みである。そこで、長者は第1の妻をつれて行くことにした。「お前はわしの1ばん可愛がった妻で、お前の欲しいことは何でも叶えてあげた。さあ、旅の用意をしておくれ。」すると、第1の妻は意外にも、すげなく拒んで、「私はいやです。いくら愛してくださった人でも、一緒に遠い国へついては参りません」という。なだめても、すかしても、おどしても無駄であった。

仕方なく第2の妻をつれて行くことにした。「そなたはわしの苦労して得た掌中の玉だ。一緒に旅立ってくれるだろうね。」すると第2の妻がいうには、「あなたの1ばん溺愛した第1の夫人すら行かないというのに、私がどうして行かねばならないのですか。」こう言って、彼女は拒んだ。「あなたが遠いへ行くとき、私もついて行くという約束をしたおぼえはありません」というのが彼女の拒む理由だった。

やむを得ず、長者は第3の妻に出発を命じた。「お前とは喧嘩もしたが、また仲直りした。たがいに慰め合ってきたのだからね。」すると第3の妻が言った。「あなたの御恩は忘れませんわ。ご出発のときは、あたし都城の外までお見送りします。」「いやいや、遠い国まで一緒に行ってほしいのだよ。」「いいえ、あたしは城外までしか行きません。」

長者は憂苦し懊悩したが、ついに不本意ながら第4の妻をつれて行くことにした。「わしはお前をこき使うばかりで、すこしも大切にしてあげなかったが、お前はわしの命令に1度だってさからったことはない。」ー「はい、私はただ旦那さまだけに仕える身ですもの、楽しくても苦しくても、生きても死んでも、はい、旦那さま、わたしはついて行きます。」

『雑阿含経』にこの話があり、仏説(と)いてのたまわく、都城とは是れこの世の生の世界。遠い国とは是れ死の世界。4人の妻をもつ長者とは是れ人間の魂である。

第1の妻とは人間の肉体である。あれほど一生かかって肉体に奉仕したのに魂の出立にあたっては、無表情に床(とこ)の上に横たわって振り向きもしない。

第2の妻とは人間の財宝である。人と争って苦労のすえに得たもので、これさえあれば仕合せと思っていたが、死後も一緒についてゆくと約束したおぼえはないと言い張るのだ。

第3の妻は妻子、兄弟、姉妹、友人、親戚である。口論したり、協力したり、慰め合ったりした仲で、彼らは死別を悲しみ、城外の墓場まで涙ながらに見送る。しかし、その後は家に帰り、やがて長者のことは忘れて、おのおの自分の生きることに没頭する。

第4の妻は人間の心(しん)意識である。衆生は自分の心を大切にしないで、奴婢のごとくにこき使い、あくまで働かせ、貪欲(どんよく)に駆り立て、怒りに燃えさせ、嫉妬に狂わせる。しかるに心意識は魂と一体だから、どこまでも魂についてゆく。地獄へも、畜生界へも、どこまでもどこまでも輪廻の旅をつづけてゆく。

人々よ、愛の順序がまちがってはいないか。このまちがいこそは、生のむなしさの根源ではあるまいか。釈尊はこのように説きたまうた。(227~230頁)

(2014年1月20日)

-『仏陀』増谷文雄 著 角川選書ー18

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