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『仏陀』増谷文雄 著 角川選書ー18

『人生論』トルストイ著 米川和夫訳 角川文庫

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『人生論』トルストイ著 米川和夫訳 角川文庫

■普通、科学はあらゆる面から生命を研究している、といわれている。ところで、どんなものにでも、球に半径が無数にあるように、無数の面があるもので、それをあらゆる面から研究することなぞとてもできないのだから、どれがいっそう重要で必要な面なのか、どれがあまり重要でもなく必要でもない面なのか、そのけじめをつけてけんきゅうすることがだいじなのだ。あらゆる面からいちどきに一つのものに近づけないのとおなじことで、生命の現象も、やはり、あらゆる面からいちどきにきわめることはできないのである。いやがおうでも、順序というものが定められなければならない。ここが肝心なところだ。しかも、この順序は、生命を理解して、はじめて、定められるものなのである。(27~28頁)

■きわめて古い時代から、それこそさまざまな民族のあいだで、人類の偉大な教師たちが人生の内面の矛盾をはっきりと解決する数々の定義を人々に啓示して、人間にふさわしい真の幸福や、真の生活を教えてきたのだが、けっきょくのところ、あらゆる人々のこの世の立場というものがおしなべておなじ一つのものでしかなく、したがって、個人の幸福をねがう気持とそれを不可能とみる意識との矛盾も、だれもがおなじように感じているわけなのだから、人類のもっとも偉大な頭脳によって啓示されたこの真の幸福、ひいては、真の生活の数々の定義も、本質的には、まったく一つで、なんの違いもないものなのである。

「人生とは、人々の幸福のために、天から人々のうちにくだった光が、あまねくゆきわたることである」紀元前6世紀に孔子はこういった。

「人生とは、ますます大きな幸福にたえず到達しようとする魂の遍歴であり、完成である」おなじ時代のバラモンたちはこういっている。

「人生とは、幸福な涅槃に到達するために、自分をすてることである」孔子の同時代人、仏陀はこういった。

「人生とは、幸福になるために、謙遜と卑下とに徹する道である」やはり孔子の同時代人である老子はこういっている。

「人生とは、神の掟をまもりながら人が幸福になれるように、神が人のうちに吹きこんだ生命の息吹である」ユダヤのある賢人はこういっている。

「人生とは、人を幸福にする理性にしたがうことである」ストア派の人々はこういった。

「人生とは、人を幸福にする愛――神と隣人にたいする愛にほかならない」先人のすべての教えをひっくるめて、キリストはこういった。(42~43頁)

■そして、こういう人々のあいだにたちまじって、うわべの特別な地位のために、自分を人類の指導者のように思い込んで、人間生活の意味がわかりもしないくせに、自分のわかりもしないこの人生のことを、人間生活は個人的な生存にほかならないなどと、他人に教えるような人々がいつもいたし、また、いまでもいるのである。

こうしたにせ教師たちはどんな時代にもいるもので、現代でもあとをたたない。あるものは、自分たちがその伝統を受けてそだった人類の教師たちの教えを口にはするが、実のところ、その合理的な理由などいっこうわかっていないので、そうした教えを人々の過去や未来の生活にかんする超自然的な啓示にしてしまったあげく、ただもう儀礼の実行だけを重んじている。これはごく広い意味でのパリサイの徒――つまり、不合理なこの人生を正すには、形式的な儀礼をひたすら実行して、来世を信じるようになればよいと説く人々の教えである。(44~45頁)

■註1(52頁)真の科学は、科学ほんらいの位置を知っているので、そのほんとうの研究対象についてもよく心得ているし、謙虚なためにまたいっそう強い力ももっているのだから、このようなことはけっして言ったことがなかったし、現に、言ってもいないのである。物理学は力の法則や関係については説くが、力とはなにか、という問題に答えようとはしていないし、力の本質を説明しようともしていない。化学は物質のいろいろな関係については説くが、力とはなにか、という問題に答えようとはしていないし、力の本質を説明しようともしていない。化学は物質のいろいろな関係については説くが、物質とはなにか、という問題に答えようとはしていないし、物質の本質を説明しようともしていない。生物学は生命の形態については説くが、生命とはなにか、という問題に答えようとはしていないし、生命の本質を説明しようともしていない。力も、物質も、生命も、真の科学にとっては、研究対象そのものではなく、知識のほかの分野から公理としてとられてきた基礎概念――そのうえに、おのおの異なった科学の殿堂を建てるための礎となるものなのである。真の科学は研究対象をこう見ているのであって、こうした科学が一般民衆を無知の闇にひきもどすような有害な影響など与えるわけはない。しかし、まちがった科学のゆがんだ知恵は研究対象をこうは見ないのである。「物質も、力も、生命もわれわれは研究する。われわれが研究すれば、そうしたものもすべて明らかになるに違いない」まちがった科学の使徒たちは、自分の研究しているのが物質でも、力でも、生命でもなくて、ただその関係や形態にすぎないということを考えもせずに、こうしたようなことをいうのである。(原注)(54~55頁)

■だが、それにしても、生きなければならない。

ところで、生きていくとなると、人間の生活は、朝起きてから夜とこにつくまで、さまざまなおびただしい行動でうずまっていて、毎日毎日、人は自分のすることを、ほかにもやればできないこともない実にたくさんな行動のうちから、たえず選んでいかなければならないのである。そういう行動の指針ということになると、天上の生活の神秘を説くパリサイの徒の教えも、宇宙や人間の起源をしらべ、その未来の運命まできわめる学者の教えも、ぜんぜん役にたたない。しかし、人は、自分の行動を選ぶのになにか指針となるものがなくては、生きて行けないのだ。そこで、いやおうなく、人間社会にいつも存在してきたうわっつらな生活の指針にしたがって、理性的な判断からいよいよ遠ざかってしまうことになるのである

■ちょうど集会というものを見たことのない人が、入口で押しあいへしあいがやがや騒いでいる人を見ただけで、それを集会そのものと早合点してしまったうえ、戸口のところでちょっと押しあったきりなのに、すっかり集会にでたつもりになって、つっつかれた脇腹をおさえおさえ、うちに帰るようなものである。

人は山をうがったり、世界を飛びまわったりする。電気、顕微鏡、電話、戦争、議会、博愛、党派争い、大学、学会、博物館……さまざまなものを使って、さまざまな活動をする。しかし、こうしたことがはたして人生だといえるだろうか?

貿易とか、戦争とか、交通とか、科学とか、芸術とかいったものにともなう人間のはげしい複雑な活動は、大部分、人生の戸口でひしめいている愚かな群衆の雑沓にすぎないのである。(64頁)

■来世のために生きるのがいいのだろうか?人はこう考える。しかし、自分にとって人生の唯一の見本ともいうべきこの生活――自分のいまの生活が、何としても、無意味だとしか思えなければ、人は、そのほかに合理的な生活があるなどとは、自分の実感として、とても信じられないばかりか、むしろ、一歩進んで、人生とは本質的に無意味なもので、無意味な人生以外には、どんな生活も考えられないと、断言しないではいられなくなるのである。

自分のために生きるのがいいのだろうか?しかし、考えてみるまでもなく、自分の個人的な生活は無意味なのである。では、家族のために生きたらいいのか?仲間のためか?それとも、祖国、人類のためか?だが、自分の個人的生活が不幸で無意味だとすれば、ほかのすべての人たちの個人生活も、やはりまた、無意味なのだから、そうした無意味で不合理な個人生活をいくら無数によせ集めてみたところで、まとまった一つの幸福で合理的な生活ができあがるわけはない。それなら、自分でもわけのわからぬまま、他人(ひと)のしていることをそっくりまねして、生きていけばいいのだろうか?けれど、知ってのとおり、ほかの人たちだって、やはりおなじことで、自分がいましているようなことをいったいなんのためにするのか、自分でもさっぱりわかっていない有様なのだ。(65~66頁)

■だれを見ても、みんな、自分のいまの状態のみじめさも、自分のしていることの無意味さも、まるで感じないような顔をして、いきている。「あの人(横にヽ)たちか、この自分(横にヽ)か、どっちかが、きっと、理性をなくしてしまったに違いない!」と目ざめた人は考える。「ところで、だれもかれもがみんな理性をなくしてしまったに違いない!」と目ざめた人は考える。「ところで、だれもかれもがみんな理性をなくしてしまうなんて、とても考えられないから、おかしいのは、さしずめ、自分のほうということになる。しかし、そんなはずはぜったいにない。こうしたことを考えるほど理性的なこの自分(この自分の横にヽ)がおかしいなんてはずはない。たとえ世界じゅうの人たちから異端と見られ、たったひとりきりになろうとも、自分のほうを信じないわけにはいかない」

こうして、人は、その魂をひき裂く恐ろしい疑問にせめられながら。自分の孤独をひしひしと身に感じるのである。だが、それでも、生きなければならないのだ。

「生きるんだ」と、自分のうちで、一つの声――本能の強い指示が聞こえる。

「生きてはゆけない」と、やはり、自分の心のうちで、もう一つの声――理性の声がきこえる。

人は自分が二つにひき裂かれるのを感じる。そして、この分裂が人の心をせめさいなむ。

こうした分裂や苦痛の原因は理性にあると、人は考えないわけにはいかなくなる。

理性、人間の最高の能力であって、生きていくのになくてはならぬ理性、生存の方法や、享楽の方法を、自然の暴力にさらされている素裸の頼りない人間に、教える理性――この理性が人間の生活をこのうえもなく苦しい不愉快なものにしてしまうのである。(68~69頁)

■理性的な意識のうちでは、人は自分の出身など問題にせず、ほかの理性的な意識と、時間や空間を超えて、一つにとけあうのを自覚する。こうして、他はおのれの中に入り、おのれは他の中に入るのである。人間のうちに目ざめたこの理性的な意識が、普通人生と思われているいかにもそれらしい生活の流れをとめてしまうような働きをするので、迷いやすい人々は、この意識の目ざめた瞬間から、生活の動きがどうにもとれなくなり、にっちもさっちもいかなくなったように思うのである。(73~74頁)

■われわれがこの新しいものの誕生、動物的な意識にたいする理性の意識の新しい関係を見ることができないのは、ちょうど、たねがその茎の成長を見ることができないのと、おなじことだ。また、理性の意識がかくれていた状態からぬけだして姿をあらわすとき、われわれは矛盾を感じるような気がするものだが、そんな矛盾などぜんぜんないのは、芽をだしたたねに矛盾がないのと、まったくおなじことである。芽をだしたたねにみられることといったら、もともとたねのからのなかにあった生命が、いまでは、芽のうちにあるということだけだ。理性の意識に目ざめた人の場合も、ちょうどそれとおなじことで、そこにはなんの矛盾もなく、あるのはただ新しいものの誕生、動物的な意識と理性の意識との新しい関係の発生にすぎないのである。(81~82頁)

■「いまいちどきみたちは新しく生まれなければならない」(ヨはネによる福音書3章7節)とキリストはいった。実際、生まれかわれと、だれにいわれなくとも、人は、どうしたって、そうならないわけにはいかないのである。ほんとうの生命をもつためには、人は理性の意識に導かれて、それにふさわしい存在にもういちど生まれかわらなければならないのだ。

人に理性の意識が与えられているのも、けっきょく、この理性の意識のしめす幸福を手に入れて、人が真の生活を送らなければならないからだ。こうした幸福のうちに生きるものは、ほんとうの生命をもつことになる。ところが、そうした幸福のうちに生きようとせず、動物的な自我の幸福に生きるものは、そのことだけで、もう、生命を失うのである。キリストのいう生命の意味はここにある。

しかし、個人の幸福を求めることが人生だと考えているような人たちは、こういう言葉を聞いても、ただきいたというだけでその本質を理解しない、いや、理解できないのだ。この人たちは、そういう言葉がぜんぜんなんの意味もないものか、でなければ、意味が会っても、まったくとるにたらぬもの、なにか感傷的で神秘的(この種の人たちはこんなふうなよび方を好む)な気分を、もっともらしく、よそおったものでしかないなどと、思っている。けれど、実は、こういった言葉はこの種の人たちには、とても、およびもつかないような状態を説明しているのであって、それが理解できないのは、ちょうど、ひからびて芽のでないたねに、もう芽をのばしかけたみずみずしいたねの状態が、理解できないのと、おなじである。ひからびたたねにしてみれば、これから生まれでようとするたねにふりそそぐ太陽も、ほんの無意味な偶然――少しばかり熱や光をよけいに与えるものでしかないが、芽をのばしかけたたねにとっては、いきいきした生と命にみち溢れて生まれでる原因なのだ。ちょうどそれと同じように、動物的な自我と理性の意識の内面の矛盾をまだ感じない人の場合も、太陽の光、つまり、理性は、やはり、ただの無意味な偶然――感傷的で神秘的な言葉にすぎないわけだ。太陽の光をうけてよみがえり、生きいきとするのは、そのうちにすでに生命をやどしているものだけなのである。(126~127頁)

■実際、こんな幸福が人間の手に入れられるはずもなければ、他人が自分自身を愛するのをやめて、ただこの自分だけを愛そうとするわけもないということなど、自分の経験からおしてみても、まわりの人の生活を見てみても、理性のささやきに聞いてみても、もうわかりきった話なのに、それでもまだ、富とか、権力とか、高い地位とか、名声とか、追従とか、欺瞞とか、ありとあらゆる手をつかって、なんとかして他人が自分自身でなくて、この自分を愛するようにさせてやろうと、人は、めいめい、そんなことで、あくせく日を暮らしているのだ。ただおどろくほかはないが、それが事実なのである。(130頁)

■「おまえはすべての人がおまえのために生きるのを望んでいるだろう?すべての人が自分自身よりももっともっとおまえを愛するのを望んでいるだろう?」理性の意識は、こんどこそ、はっきりと力強く人に語りかけるに違いない。「おまえのこの望みがかなえられるような状態は、ただ一つしかないのだ。それは、すべての人が他人の幸福のために生き、自分自身よりもいっそう他人を愛すような状態である。そのとき、はじめて、すべてのものがすべてのものによって愛されるようになるだろう。もちろん、おまえも、そのひとりとして、望んでいたとおりの幸福を手に入れることになるだろう。こうして、すべての人が自分より他人を愛するようになるとき、はじめて、おまえが幸福になれるとすれば、おまえも、人間のひとりとして、当然、自分よりも他人をいっそう愛せねばならぬはずではないか」(131~132頁)

■つまり、この世界が、理性の法則にしたがうことによって、敵意や不和やあつれきといったようなものから、調和と結合にしだいに近づいているのが、生活の変化の実相なのである。見てみるがいい。もとはたがいに食いあっていた人々が食いあいをやめたり、とりこや自分の子どもを殺していた人々が殺すのをやめたり、人殺しを誇りとしていた軍人たちがそれを誇るのをやめたり、奴隷制度を始めた人々がその制度をなくしたり、動物を殺していた人々が飼いならすことをおぼえて、むやみに殺すのをひかえ、肉のかわりに、その卵や乳を食用とするようになったり、また、植物のようなものまで、やたらにそれを絶やすのをいましめるようになったりしたという事実――こういう事実があるではないか。また、人は、人類のうちのすぐれた人々が享楽の追究を非難して、節制を勧めているのを知っている。それから、また、のちの世の人に讃嘆されるようなきわめてすぐれたひとびとが、その身を犠牲にすると言う、立派な手本を残しているのも知っている。こうして、人は、自分では、ただ理性の要求によって認めただけのことが、実際に、この世におこなわれているばかりか、人類の過去の生活によって、その正しさまですでに証明されているのを、知らされるのである。(140~141頁)

■「自分の幸福のために他人と戦ってはいけない、享楽を追究してはいけない、苦痛をさけようとしてはいけない、死を恐れてはいけない!こうして、いけない、いけないというけれど、しかし、それは、どだい、むりな注文だ。それは人生をすっかり否定してしまうことになる!自分の自我の要求を自分で感じて、その要求の正しさまで理性に照らして知っているのに、いったいどうしてその自我を否定しなければならないのだろう?」現代の教養のある人々は、まったく確信に満ちた調子でこういうのである。

■欲求とよばれているもの、つまり、人間の動物的な生存の条件は、膨張してどんな形でも自由にとれる無数の小さな玉にたとえることができるだろう。どの玉もみんなおなじで変りがなく、それぞれの場所におさまっているから、膨張でもし始めないかぎり、たがいに圧迫しあうようなことはない。人間の欲求にしたって、どれもみんなおなじもので、それぞれの位置をそれぞれにしめているだけのことだから、とくに意識されでもしないかぎり、病的に感覚されるようなことはないのである。しかし、いちど膨張し始めると、たちまち、玉はふだんよりずっと大きな場所をとって、ほかの玉をおしつけたり、また、おし返されして、せめぎあうことになる。人間の欲求も、これとおなじでその一つだけに理性の意識がむけられて働きだしたりすれば、たちまち、意識されたその欲求が生活のすべてとなって、矛盾をよび、人を苦しめずにはいないわけだ。(146頁)

■現代の社会にそだった人間――病的に発達しふくれあがった動物的な慾望にとらわれている人間が、理性的な自我(横に丶)のうちにいくら自分自身を認めようとしてみたところで、こうした自我(横に丶)のうちに、いつも動物的な自我のうちで感じているような気持――生命にひかれる気持を感じはしないだろう。そして、絶望してこんなふうに考える。「理性的な自我(横に丶)ときたら、ただ生命を高みから観察しているだけで、いっこう生きのいいところもなければ、生命にひかれるふうなところもない。理性的な自我(横に丶)には生命にたいする欲求がなく、動物的な自我(横に丶)には、欲求があっても、その実現の見込みがねくて、そこから生まれるのは苦痛だけだとすれば、残された道はただ一つ――この人生からのがれることだけだ」

こうした問題を、現代の否定的な哲学者(ショウペンハウレルやハルトマン)は、きわめて不誠実に解決している。つまり、人生を否定しながら、そこからのがれでる機会をつかもうとせず、あいかわらず、人生にとどまっているのだ。それに反して、人生を悪以外のなにものでしかないと考えたすえ、この世から逃れでた自殺者たちは、こういった問題を誠実に解決しているといえよう。この人たちには、現代の人間生活の不合理からぬけだす唯一の方法が自殺だとしか、思えなかったのだ。(154~155頁)

■真の愛は、動物的な自我の幸福を否定しすてさったときに、はじめて、可能となる。

真の愛の可能性は、動物的な自我の幸福など、自分にとって、ありえないと人が理解したとき、はじめて、そこにあらわれるのだ。そのときこそ、動物的な自我という野生の若木の幹につぎ木されて、そのたくましい力をすいあげながら、おいしげる真実の愛のつややかな美しい枝に、人間の生命の樹液は、いささかかのよどみもなく、ひたひたと流れかようのである。愛のつぎ木――これこそ、実に、キリストの教えだったのだ。自分と自分の愛はたわわにみのる一本のブドウの木だ。実を結ばぬ枝はことごとく切りはらわれるだろうと、こうキリストはいっている。(ヨハネによる福音書15章1-11節)

「自分のいのちをひたすら守ろうとするものはそれを失い、わたしのために自分のいのちを失うものは、かえって、それをまっとうしよう」(マタイによる福音書10章39節)このキリストの言葉をただ頭で理解しただけででなく、心の底から実感として認識した人――自分のいのちをいとおしむものはそれを亡ぼし、この世の自分のいのちをいとうものは、かえって、それを永遠の生命のうちに生かすということをさとった人、ただそういう人だけが真の愛を認識するわけだ。(173頁)

■いってみれば、愛の大きさは分数の大きさのようなものなのである。この分数の分子となるのは、他人にたいする愛とか、共感とかいった感情で、自分の思うままにはなかなかならないもの、分母は自分自身にたいする愛で、これは自分の動物的な自我を見るその見方しだいで、いくらでも、大きくしたり、小さくしたりすることのできるものだ。ところが、愛や愛のだんかいについて、われわれ現代人のくだしがちな判断ときたら、まるでもう、分子ばかりを標準にして、分母のことを考えない分数計算のようなものである。(176頁)

■動物的な生存のはかなさとまやかしとを知ることが、そして、愛というたった一つの真の生命を自分のうちにときはなすことが、それだけが、人にほんとうの幸福を与えるのだ。ところが、この幸福を手に入れようとして、いったい、人はどんなことをしているのだろう?いわゆる生きるということは、この自分の肉体をしだいしだいに消耗させ、いやおうなく死んでいくことにほかならないのをよく知っているはずの人々が、生きているあいだじゅう、手をかえ品をかえ、一生懸命になってしていることといったら、このこの亡んでしまう自分の身をひたすらまもり、そのさまざまな欲望を満足させ、それによって、人生のたった一つの幸福――愛に生きる可能性をわざわざなくすことばかりといった始末なのだ。

人生を理解しないこうした人々の活動は、それこそもう一生涯、自分の身をまもるための闘争に、さまざまな快楽の獲得に、苦痛をまぬかれることに、避けようもない死から逃避することにむけられる。(186頁)

■こうした世間なみの考えにとらわれて、その理性をもっぱら一定の生活条件をつくりあげることばかりにつかっている人たちは、人生の幸福をますためには、その生活の外部的な条件をもっとうまくととのえればいいと考えたりするのだが、しかし、生活の外部的な条件をととのえるには、他人にできるだけ強い圧迫をくわえなければならないので、しょせん、愛とはまっこうから対立しないわけにはいかなくなる。したがって、生活の条件を具合よくととのえればととのえるほど、愛も、生命も、そこでは、ますます影のうすいものになっていくのである。(188頁)

■まったくおどろいたことではないか!おそろしくたくさんの人たち――ほんとうなら理性と愛にあふれた生活をいとなめるはずの人たちが、燃えさかる小屋からひきだされる羊の群れ――おろかにも、火のなかに投げ込まれるものとばかり思いこんで、助けようとしている人間に、死にものぐるいではむかう羊そっくりのふるまいをしているのである。

こうした人たちは、死を恐れるあまり、かえって、めちゃめちゃに自分自身を苦しめる。こうして、とどのつまりが、たった一つきりしかない幸福と生命の可能性を、自分から、すててしまうことになるのである。(191頁)

■「死はない」と真理の声は人々に説く。「わたしはよみがえりだ、生命だ。わたしをしんじるものは、たとえ死んでも、生きるだろう。また、生きていて、わたしを信じるものは、いつまでも死ぬことはないだろう。きみはこれを信じるか?」(ヨハネによる福音書11章25-26節)

死はないと、世界のすべての偉大な教師たちは、口をそろえて、こう説いた。また、人生の意味を理解した数百万の人たちも、やはり、おなじことをいっているばかりか、めいめいの生活でもって、その正しさを証明している。それどころか、ほんとうに生きている人なら、だれしも、その意識のうちにぱっと光のさしこんだ瞬間、魂の奥底でそう感じるじるのだ。しかし、人生を理解しない人たちは、なんとしても、死を恐れずにはいられない。かれらは死を見るのだ。死を信じるのだ。(192頁)

■「たしかに、死はまだ一度もこのおれをとらえはしなかったが、いずれは、とらえるにきまっている。なんといったって、それだけはたしかだ。おれをひっとらえて、亡ぼしてしまうんだ。それが恐ろしくてならない!」人生を理解しない人たちはこんなことをいうに違いない。(193頁)

■人々はこの自分の自我というものを重んじている。そして、この自我は自分たちの肉体の生命と分かちようのないものとかんがえてうるから、肉体が亡びれば、自我も、自然、それにともなって亡びるものだと、結論しないわけにはいかなくなる。

こういった結論はしごくありふれた平凡なもので、別に疑うまでもないと、だれしも、ついおもいがちなものだが、その実、なんの根拠もない考え方にすぎないのである。ところが、唯物論者だと自分で認めているような人たちにしても、精神主義者だと考えている人たちにしても、自我とは、つまり、なん年かのあいだ生きてきた自分の肉体の意識にほかならないという、この考え方にすっかりなれきってしまっているので、そういったふうな断定がほんとうに正しいかどうかたしかめなければという考えさえ、起こそうとしない始末なのだ。(202頁)

■もしもわたしが、こうして生きているあいだじゅう、たえず、自分の意識のうちで、自分自身にむかって、「おれは、いったい、なにものだ?」と問い続けるとするならば、きっと、わたしはこう考えるほかないだろう。「なにかしら、かんがえるもの、感じるもの――つまり、自分というまったく特別な形で、この世界につながっているもの」とこう答えるに違いない。(202頁)

■時間の流れるままに、とぎれとぎれにつづいていく意識を、すべて、一つに結びあわすこの別のものというのは、、じゃ、いったいなんだろうか?このもっとも根本的で特殊なわたしの自我――つまり、わたしの肉体の生存と、肉体のうちに起きるさまざまな意識によって、くみたてられるるような単純なものではなくて、とぎれとぎれにあとからあとからあらわれる一切合財、くしにでもさしとおすようにして、いちいちまとめていくこの根本的な自我とは、ほんとうに、いったいなんのだろうか?(207頁)

■人生をほんとうにあるがままの本来の姿で理解している人にしてみれば、自分の生命が病気や年のせいで衰えたなどといって、なげき悲しんだりするのは、ちょうど、光にむかって進んでいる人間が、光に近づくにつれて、自分の影が小さくなっていくのを悲しむのとおなじように、ばかげたことなのだ。肉体が亡びるからといって、自分の生命も亡びると信じ込んだりするのは、四方八方からいっせいに照らす光のなかにはいると、ものの影がたちまち消えてしまうのを、ものそのものがなくなってしまったしるしだと信じ込むのと、ぜんぜんなんの変りもないのである。こうした結論を平気でくだすことのできるのは、あんまり長いこと影ばかり見つめていたため、しまいには、とうとう影がものの本体だと思い込むようになった人だけであろう。(223頁)

■これは、ちょうど、芽をふいてカシの木となったドングリのそばに、巣をくったアリのいいそうなことだ。ドングリの芽はずんずんのびて、カシの木となって、土のなかふかく根をはり、枝をたれ、新しいドングリの実をふらし、日ざしや雨をさえぎって、そのまわりに生きているいっさいのものを変化させる。「これはドングリの生命の結果にすぎないのだ。われわれがこのドングリをひきずってきて、穴のなかにおとしたとき、その生命は終わってしまったんだから」(230頁)

■死のばかばかしい恐ろしい迷信にこれ以上悩まされぬようにするには、わたしの生活の根本となっているいっさいのものが、わたしよりさきにこの世に生きて、もうとうに死んでしまった人々の生命からなりたっていること、したがって、生命の法則に則って、自分の動物的な自我を理性に従属させ、愛の力を発揮しさえすれば、すべての人が、肉体の生存の亡びたのちにも、ほかの人々のうちに生き続けるのだということを知れば、もうじゅうぶんなのである。(232頁)

■しかし、自分の生まれるまえになにがあったか、死んだあとになにが起こるか、いますぐ知ることができないといって悲しむのは、ちょうど、自分の視力の届かぬさきが見えないといって、悲しむのとおなじことである。もしわたしが自分の視力の及ばぬさきのさきまで見ることができたとしたら、肝心の自分の視野のうちのものはなにも見えないで、こまったに違いない。実際、わたしの動物的な自我の幸福のためには、自分のまわりのものを見ることが、なによりもいちばん必要なのである。(250頁)

■理性は人間をたった一つの真実の道にたたせてくれる。この道は、しっかりとぐるりをかためた壁のむこうに、円錐形に口をひらいているトンネルのように、永遠の生命と幸福を、まごうかたなく、行くてにしめしているのである。(251頁)

■(訳者あとがきから)

この論文は、人生とはなにか?いかに生きるべきか?というトルストイの終生の課題に、はじめて、くわしいまとまった解答、結論をくだしたものとして、注目される。そこに説かれている思想は、せんじつめれば、愛の一語につきる。つまり、人間は、肉体と肉体にやどる動物的な意識を理性に従属させること、いいかえれば、自我を否定して愛に生きることによって、同胞あいはむ生存競争の悲劇から救われるばかりか、死の恐怖からも救われる、なぜなら、そのとき、個人の生命は全体の生命のうちにとけこんで、永遠の生命をうけるからだというのである。キリストの思想のこんていにはすえられているのだが、しかし、かれの人生観はどこまでも現世的で、理性によってすべてをわりきろうとしているから、キリスト教の神の観念のかわりに、人間の集団意識、人類の意識といったようなものを正面におしだして、それに究極の救いを見いだそうとしているわけである。(287頁)

■(訳者あとがきから)

ヤンコ・ラヴリンの言葉をかりれば、「その文学活動の前半期において、トルストイの書いたものが、死にさからってまでも横溢する生命を主張し、そこに陶酔しようとする営みだったとすれば、かれの後半生は、生命にさからっても、死を肯定し、かつ、その恐ろしさをすこしでも少なくしようとするたえまない努力にすぎなかった」(寿岳文章氏訳「トルストイ――一つの心理批判的研究――」)ということにもなるのである。(288頁)

2010年2月8日

-『仏陀』増谷文雄 著 角川選書ー18

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