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『仏陀』増谷文雄 著 角川選書ー18

『臨済録』入矢義高注 岩波文庫

投稿日:2020-12-09 更新日:

『臨済録』入矢義高注 岩波文庫

 上 堂

■僧「仏法のぎりぎり肝要の処をお伺いします。師はすかさず一喝を浴びせた。僧は礼拝した。師「この坊さん、結構わしの相手になれるわい。」

僧「師は一体だれの宗旨を受け、また、だれの法を継がれましたか。」師「わしは黄檗禅師の処で、3度質問して3度打たれた。」僧はここでもたついた。すかさず師は一喝し、追い打ちの1棒をくらわして言った、「虚空に釘を打つような真似はするな。」

示 衆(じしゅう)

■「諸君、三界(凡夫の迷いの世界)は安きことなく、火事に会った家のようなところだ。ここは君たちが久しく留まるところではない。死という殺人鬼は、一刻の絶え間もなく貴賤老若を選ばず、その生命を奪いつつあるのだ。君たちが祖仏と同じでありたいならば、決して外に向けて求めてはならぬ。君たちの〔本来の〕心に具わった清浄の光が、君たち自身の法身仏なのだ。君たちの〔本来の〕心に具わった、思慮分別を超えた光が、君たち自身の法身仏なのだ。また、君たちの〔本来の〕心に具わった、差別を超えた光が、君たち自身の法身仏なのだ。この三種の仏身とは、今わしの面前で説法を聴いている君たちそのものなのだ。外に探し求めないからこそ、このような〔すばらしい〕はたらきを具えているわけだ。経論の専門化は、この仏の三身を仏法の究極としている。しかし、わしの見地からすれば、そうではない。この三身は仮の名前であり、また三種の借り物なのである。古人も、『仏身の区別は仏法の教理によって立てたもの、また仏の国土はその理体によって設定したものだ』と言っている。法性の仏身とか、法性の仏国土と言っても、それは明らかにちらつきなのだ。諸君、君たちはそれをちらつかせている当体を見て取らねばならない。それこそが諸仏の出どころであり、あらゆる修行者の終着点なのだ。君たちの生ま身の肉体は説法も聴法もできない。君たちの五臓六腑は説法も聴法もできない。では、いったい何が説法聴法できるのか。今わしの面前にはっきりと在り、肉身の形体なしに独自の輝きを発している君たちそのもの、それこそが説法聴法できるのだ。こう見て取ったならば、君たちは祖仏と同じで、朝から晩までとぎれることなく、見るものすべてがピタリと決まる。ただ想念が起ると知慧は遠ざかり、思念が変移すれば本体は様がわりするから、迷いの世界に輪廻して、さまざまの苦を受けることになる。しかし、わしの見地に立ったなら、〔このままで〕極まりなく深遠、どこででもスパリと解脱だ。」(38~39頁)

■三、師は皆に説いて言った、「諸君、正しい見地をつかんで天下をのし歩き、そこいらの狐つき禅坊主どもに惑わされぬことが絶対肝要だ。なにごともしない人こそが高貴の人だ。絶対に計らいをしてはならぬ。ただあるがままであればよい。君たちは、わき道の方へ探して行って手助けを得ようとする。大まちがいだ。君たちは仏を求めようとするが、仏とはただの名前である。君たちはいったいその求め廻っている当人〔が誰であるか〕を知っているか。三世十方の仏や祖師が世に出られたのも、やはり法を求めんがためであった。今の修行者諸君も、やはり法を求めんがためだ。法を得たら、それで終りだ。得られねば、今まで通り五道の輪廻を繰り返す。いったい法とは何か。法とは心である。心は形なくして十方世界を貫き、目の前に生き生きとはたらいている。ところが人びとはこのことを信じ切れぬため、〔菩提だの涅槃だのという〕文句を目当てにして、言葉の中に仏法を推し量ろうとする。天と地の取りちがえだ。」(47~48頁)

■いやしくも出家ととあれば、ふだんのままな正しい見地をものにして、仏を見分け魔を見分け、真を見分け偽を見分け、凡を見分け聖を見分けねばならぬ。こうした力があってこそ、真の出家と言える。魔と仏との見分けもつかぬようなら、それこそ一つの家を出てまた別の家に入ったも同然で、そんなのを〈地獄の業を造る衆生〉というのだ。とても真の出家者とは呼べぬ。たとえばここに仏と魔が一体不分の姿で出てきて、水と乳とが混ぜ合わさったようだとする。そのとき鵝王は乳だけ飲む。しかし眼力を具えた修行者なら、魔と仏とをひとまとめに片付ける。君たちがもし聖を愛し凡を憎むようなことなら、生死の苦界に浮き沈みすることになろう。(53頁)

■五、問い、「仏と魔とはどんなものですか。」

師は言った、「お前に一念の疑いが起れば、それが魔である。もしお前が一切のものは生起することなく、心も幻のように空であり、この世界には魔ひとかけらのものもなく、どこもかしこも清浄であると悟ったなら、それが仏である。ところで仏と魔とは、純と不純の相対関係に過ぎぬ。わしの見地からすれば、仏もなければ衆生もなく、古人もなければ今人ももない。得たものはもともと得ていたのであり、時を重ねての所得ではない。もはや修得の要も証明の要もない。得たということもなく、失うということもない。いかなる時においても、わしにはこれ以外の法はない。たとい、なにかこれに勝る法があるとしても、そんなものは夢か幻のようなものだと断言する。わしの説くところは以上に尽きる。諸君、現に今わしの面前で独自の輝きを発しつつはっきりと〔説法を〕聴いているもの、その君たちこそが、あらゆる場に臨んで滞(とどこお)らず、十方世界を貫いて三界に自由なのだ。一切の個別の世界に入りつつ、少しの影響も受けぬ。一刹那の間に、あらゆる世界に入り、仏に逢えば仏に説き、祖師に逢えば祖師に説き、羅漢に逢えば羅漢に説き、餓鬼に逢えば餓鬼に説き、あらゆる場所で、さまざまの世界に遊行して、衆生を教化(きょうげ)しながら、当初の一念を離れない。いたるところが清らかであり、光明は十方にあまねく、一切のものは一つとなる。(56~57頁)

■六、問い、「正しい見地とはどういうものですか。」

師は言った、「君たちはそのままでともかく凡俗の世界にも入り、高貴の世界にも入り、不浄界にも入り、浄界にも入り、諸仏の国土にも入り、弥勒の殿堂にも入り、毘盧遮那法界にも入るなど、至るところにそれぞれの国土を現じて、成住壊空することだ。釈尊は世に出られ、大法輪を転じて、そのあと涅槃に入られたが、そこには出入去来の姿はなく、生まれたの死んだのという沙汰は全くない。そのままに無生滅の世界に入り、種々の国土に遊行し、蓮華蔵世界に入って、すべてのものは仮の姿で、実体はないのだと見究めた。ほかでもない〔今そこで〕この説法を聴いている無依独立の君たち道人こそが諸仏の母なのだ。だから、仏はその無依から生まれる。もしもこの無依に達したならば、仏そのものも無存在なのである。こう会得したならば、それが正しい見地というものである。(60頁)

■八、師は皆に説いて言った、「今、仏道を学ぼうとする人たちは、ともかく自らを信じなくてはならぬ。決して自己の外に求めるな。そんなことをしても、あのくだらぬ型に乗っかるだけで、邪正を見分けることは全然できぬ。祖師がどうの、仏がどうのというのは、すべて経典の文句の上だけのことだ。もし人が一句もち出して、明暗の両様をあやつって見せたりすると、とたんに君たちはもたついて、ばたばたとうろたえ、わき道の方へ尋ねまわって、ひどいあわてようだ。いっぱしの男子たるものが、やたら政治むきのことをあげつらったり、世間の是非善悪を論じたり、女や金の話しなど、むだ話しなど、むだ話ばかりして日を過してはならぬ。

わしのところでは、出家であろうと在家であろうと、どんな修行者が現れても、一目でその内実を見抜いてしまう。たとえ彼がどんな境界から出できても、彼が持ちだすお題目はすべて夢か幻にすぎない。逆に境を使いこなす者こそが三世諸仏の奥義を体した人である。仏の境界は自ら私は仏の境界ですなどとは言い得ない。この無依の道人こそが境をあやつって立ちあらわれるのだ。もしたれかがわしに仏を求めたならば、わしは清浄の境として現れる。もし菩薩を求めたならば、わしは慈悲の境として現れる。もし菩提を求めたならば、わしは清浄微妙の境として現れる。もし涅槃を求めたならば、わしは寂静の境として現れる。その境は千差万別であるが、こちらは同一人だ。それだからこそ『相手に応じて形を現すこと、あたかも水に映る月のごとし』というわけだ。(69~70頁)

■師子一吼(いっく)すれば、野干脳裂(やかんのうれつ)す。(78頁)

注1)ジャッカルに似た狼。それが獅子の一吼えで脳が割れるという話は『五文律』三に見える。

■平常心(びようじようしん)是れ道(どう)(80頁)

■一〇、問い、「その心と心とが異らぬところとはどういうところですか。」

師は言った、「君がそれを問おうとしたとたんに、もう異ってしまい、根本とその現れとが分裂してしまった。諸君、勘ちがいしてはいけない。世間のものも超世間のものも、すべて実体はなく、また生起するはずのものでもない。ただ仮の名があるだけだ。しかもその仮の名も空である。ところで君たちはひたすらその無意味な空名を実在と思いこむ。大間違いだ。たといそんなものがあっても、すべて相手次第で変わる境に過ぎない。それ、菩提という境、涅槃という境、解脱という境、三身という境、境智という境、菩薩という境、仏という境があるが、君たちはこういう相手次第の変幻世界に何を求めようというのか。そればかりではない、一切の仏典はすべて不浄を拭う反古紙だ。仏とはわれわれと同じ空蝉(うつせみ)であり、祖師とは年老いた僧侶にすぎない。君たちこそはちゃんと母から生まれた男ではないのか。君たちがもし仏を求めたら、仏という魔のとりこになり、もし祖を求めたら、祖という魔に縛られる。君たちが何か求めるものがあれば苦しみになるばかりだ。あるがままに何もしないでいるのが最もよい。(84~85頁)

■頭を丸めただけの坊主のなかには、修行者に向って、仏陀は完成の極致である。三大阿僧祇劫という長い長い間、修行し徳を積んで、始めて成道されたのだと言う連中がいる。諸君、もし仏陀がそんな極致の人だというのなら、ではどうして〔たったの〕80年でクシナガラ城の沙羅双樹の間で横になって死んだのだ。仏は今どこにいるのか。明らかにわれわれの生死と違ってはいないのだ。

君たちは、32相・80種好の瑞相を持つ者が仏であると言うが、それなら同じくそれらの相をそなえている転輪聖王は如来なのか。これで分かる、仏は空蝉の身であることが。だから古人も言った、『如来の全身にそなわる瑞相は、人びとの思い入れに応えようとしてのもの。人びとが断見を起こさぬようにと、方便のために付けた空な名。仮に32相と呼び、80種好と言うのもただの空名。釈尊の肉身は仏ではない、姿かたちなきものこそ真の姿』と。(86~87頁)

■諸君、出家者はともかく修行が肝要である。わしなども当初は戒律の研究をし、また経論を勉強したが、後に、これらは世間の病気を治す薬か、看板の文句みたいなものだと知ったので、そこでいっぺんにその勉強を打ち切って、道を求め禅に参じた。その後、大善知識に逢って、始めて真正の悟りを

得、かくて天下の和尚たちの悟りの邪正を見分け得るようになった。これは母から生まれたままで会得したのではない。体究錬磨を重ねた末に、はたと悟ったのだ。

諸君、まともな見地を得ようと思うならば、人に惑わされてはならぬ。内においても外においても、逢ったものはすぐ殺せ。仏に逢えば仏を殺し、祖師に逢えば祖師を殺し、羅漢に逢ったら羅漢を殺し、父母に逢ったら父母を殺し、親類に逢ったら親類を殺し、そうして始めて解脱することができ、なにものにも束縛されず、自在に突き抜けた行き方ができるのだ。(97頁)

■諸君、ほかならぬ君自身が現にいま見たり聞いたりしているはたらきが、そのまま祖仏なのだ。それを信じきれぬために、外に向って求めまわる。勘ちがいしてはならぬ。外に法はなく、内にも見付からぬ。しかし、こう言うわしのその言葉に飛びつくよりは、先ず何よりも、静かに安らいで、のほほんとしていることが一番だ。すでに起こった念慮は継続させぬこと、また起こらぬ念慮は起こさせぬことだ。そういけたら、君らが十年も行脚修行するよりもずっとましなのだ。(100~101頁)

■諸君、わしの仏法はきちんと受け伝えて来たもので、麻谷和尚・丹霞和尚・道一和尚・盧山和尚・石鞏和尚いらい、同じ道を天下に行じてきたのだ。しかしその道をたれも信ずるものはなく、一斉に誹謗したものだ。例えば道一和尚の宗風は純一そのもので雜りけがなく、修行者は4、5百人もいたが、たれもその真意を見ることができなかった。また盧山和尚は転変自在なまともさ、順逆縦横のはたらきに、修行者はその世界を測ることができず、みな茫然とさせられた。丹霞和尚の如きは、掌に珠を翫(もてあそ)んで隠したり顕したりして、やって来る修行者はみな頭から罵られた。また麻谷和尚の宗風は黄蘖(きはだ)のように苦み走っていて、たれも近寄れなかった。また石鞏和尚のやり方は、弓につがえた矢で修行者を試みたので、来る者はみな恐れた。(117頁)

■仰山「それ、楞厳の法会で阿難が仏を讃嘆して、『この深心を無数の国土に捧げまつる、これぞ真実に仏恩に報謝するもの』と言っております。これこそ真に師の報恩に報いるものではありますまいか。」潙山「いかにもそうだ。弟子の見識が師と同等では、師の徳を半減することになる。見識が師以上であってこそ、法を伝授される資格がある。」(199頁)

解 説

■その毒舌の切っ先が向けられるのは、自らを信じ切れぬ(「自信不及」な)修行者達の、自らの外に仏を求め法を求めようとする在り方であった。ほんものの修行者(真正の道人)はそんなことはせぬ。仏はこちらがわに奪い取って己れに主体化するのだ。なにものにも依存せぬその「無依(むえ)の道人」こそが仏法を創出するのだ。この人こそは「諸仏の母」にほかならぬ。その「この人」とは、実はお前たちそのものなのだと知れ。こう臨済は叱咤する。

臨済は「お前たちは無依(むえ)の道人であるはずだ」という言い方は絶対しない。一貫して「まさにお前達こそがそのままで無依の道人なのだ」と直示しつづける。(220~221頁)

■「仏もなく、法もない」となれば、では求道者はどうすればよいのか。外にも求めるな、内にも求めるな。「「平常(びょうじょう)無事」でよいであればよい。「ほかでもない〔今そこで〕この説法を聴いている無依(むえ)独立の君たち道人こそが諸仏の母なのである。だから、仏はその無依から生まれる。もしこの無依に達したならば、仏そのものも無存在なのである。こう会得したならば、それが〔平常の〕正しい見地というものである」(60頁)

なんという恐ろしい言葉であろう。自らがもともと無依の道人であることを信じ得るには一体どうすればよいのか、それは説かれていない。信じ得るか否かは、本人の意志と力量にかかわることだからである。(223頁)

■唐代の禅では、8世紀ごろから「自己」という用語が愛用され始める。それは、一者・絶対者としての仏と対決する気概を籠めた言葉であり、聖なるものへの反措定であった。臨済の師であった黄檗は、「三千世界(全宇宙)はすべて汝という自己にほかならぬ」と教えたし、また「学人(わたくし)の自己とは一体なんでしょうか」という一見奇妙な問い方が、9世紀になると定型化するに至った。「自己本来の面目」「自己本来の主人公」もそうである。さらには「超仏越祖」(仏祖をも越え出たところ)とか、「仏向上事」(仏の上へ踏み出た世界)という新用語が、臨済の時代には特に南方で流行した。つまり一種の超越志向の氾濫である。臨済の有名な「仏を殺し祖を殺す」という発言も、一見この志向につながるかと見える。しかし彼には、上述のようなギラリとした「自己」(Self)の措定は全くない。せいぜいのところ、「一箇の父母」とか、「自家屋裏」(自分の家のなか)という、おとなしやかな言い方だけである。おそらく彼は黄檗の師だった百丈(749-814)の次の戒めを知っていたに違いない、

本来、自知自覚の是れ自己仏なることを認めず。(私はもともと、自らの認識のはたらきは自己という仏のそれであるとは認めない)

如今の鑑覚は是れ自己仏なりと説くは、是れ初善なるのみ。(「現在の我が認識のはたらきは自己という仏のそれなのだ」という言い方は、初歩のテーゼに過ぎぬ)

百丈が否定するそのテーゼは、実は彼の師の馬祖のかつての教えそのものなのであるが、この教えが実は求道者を「解脱の深坑」に誘いこみかねないものであることを百丈を強く自戒している。臨済も、このような短絡した「自己」信仰が自らを陥れる穽に転化しかねないことを心得ていたに違いない。彼はやはり「脚(あし)は実地を踏む」――大地にしっかりと足を下ろす――ことを忘れない人だったのである。(225~226頁)

(2012年11月12日)

-『仏陀』増谷文雄 著 角川選書ー18

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