■レオナルドの言に、「自分の画は常に描き足りない未完成のものであるけれど、もし他人が自分にそういう事を言えば、自分はゆるさない」というような意味の言を言っていたのを読んだことがあるが、さすがはレオナルドの言だとそのとき思った。レオナルドの画を見て吾々は描き足りないとは思えない。尽くしていないとは思えない。むしろその反対に自然のまだ知らない美を教えられる。よし見方の相違を感じることができるにしても。(54㌻)
■人生にとっても芸術にとっても大切なのはこの「真実」である。美術における自然はこの「事実」に相当する。そして「真実」はすなわち美である。美術にとっても、もっとも真なるもの、「これこそ」と思うものは、「美」の外にない。美とは、形象の「真」であるともいえる。美術家が美を見た気持は動かし難いという気持ちである。絶対を見た気持ちである。代えるものなきを見る。(82㌻)
■ロダンも「芸術に罪悪はありません」と言っている。たとえ不道徳なもの、殺人の光景やニンフを掠うパン等を描いても、そして、その不道徳が否定されずにむしろ肯定的に描き出されてあっても、そこにもし本当の美が出ていれば、そこに不浄や不徳の与える醜悪な感じは打消されてしまうのである。観る人がもし、その美術の前に立って不道徳の心を起こしたとすれば、それは画の罪ではなく見る人の罪である。その人は美を見得なかったからである。(117~118㌻)
■芸術上の本当の美とは心の喜悦のことだ。視覚によって人間が味わうことの出来る心の喜悦である。・・・中略・・・。芸術家は人間の心の求めるところの本当の感じを知らなくてはならない。人間の心が本当に喜び潤うものを知らなくてはならない。文芸においては愛、善、美術にあっては美である。それは心の喜びである。肉体や物質以上の喜びである。それはこの世に娯楽以上の喜びを与えるものでなくてはならない。こういう人の作品は観者に感じることができれば美感以上のものを感じさす。永遠、尊貴、豊麗、厳粛、神聖、神秘等がそれである。それは観者の目(心)の程度によって違ってくる。芸術とはこれである。さもないものは芸術的美ではない。(131㌻)
■勝利はおのずと来る。来るべきもののところへはおのずと来る。
展覧会場での勝利よりも、画室での勝利を知るものは幸いなる哉。(195㌻)
■美術上の正しい写実とは目に見えた通りに描くということではない。眼に見えた美の通りに描こうとすることである。真実らしく描くことではなく真実を描くことだ。美術において、実とか真実とかいうことは美以外の何物でもない。形象のクライマックスの感は美である。形象のみの世界においての真理は美以外にはない。形象のクライマックスの感は美である。(214㌻)
■画家は文学に媚びてはいけない。
真面目な画家は、ともするとこの誘惑に陥りやすい。しかしさらに真面目な画家は、その誘惑に打ち克つであろう。
画家は画家たれ。(313㌻)
■画家は画家になりきることより外に、深いものを見ることも表現することもできない。
画家になりきれ。(312㌻)
『美の本体』岸田劉生より2006年3月24日