岡野岬石の資料蔵

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『仏陀』増谷文雄 著 角川選書ー18

『神々との対話(サンユッタ•ニカーヤ1)』中村 元 訳 岩波文庫

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『神々との対話(サンユッタ•ニカーヤ1)』中村 元 訳 岩波文庫

第Ⅰ篇 神々についての集成(注)

(注)集成;samyuta. サンユッタという語を、わが国では「相応」と訳すことがあるが、それは仏典でそのように訳されている訳語を採用したのである。しかしその意味は「結びついた」「結合した」「集成された」という意味であって、現在の日本語で「身分相応」とか「相応のことはいたします」というような意味ではない。だから、新しい訳語を用いることにした。

第1章 葦

第4節 時は過ぎ去る

■傍らに立って、その神は、尊師のもとで、この詩句をとなえた。

「時は過ぎ去り、〔昼〕夜は移り行く。

青春の美しさは、次第に〔われらを〕捨てて行く。

死についてのこの恐ろしさに注視して、

安楽をもたらす善行をなせ。」

□〔尊師いわく、ーー〕

「時は過ぎ去り、〔昼〕夜は移り行く。

青春の美しさは、次第に〔われらを〕捨てて行く。

死についてのこの恐ろしさに注視して、

世間の利欲を捨てて、静けさをめざせ。」(16~17頁)

第5節 どれだけを断つべきか?

■傍らに立って、その神は、尊師のもとで、この詩句をとなえた。

「どれだけを断つべきか? どれだけを捨てるべきか? その上にどれだけを修めるべきか? どれだけの束縛を超えたならば、修行僧は、〈激流を渡った者〉と呼ばれるのであるか?」

□〔尊師は答えた、ーー〕

「五つ〔の下位の束縛〕(注1)を捨て。五つ〔の上位の束縛〕(注2)を捨てよ。さらに五つ〔のすぐれたはたらき〕を修めよ。五つの執著(注3)を超えた修行僧は、〈激流を渡った者〉と呼ばれる。」(17頁)

(注1)5つの下位の束縛;五下文結をいう。欲界に属する5つの煩悩。結は束縛のことで、煩悩の異名。下分は欲界のこと。三界のうち最下の欲界(感覚で知ることのできる下界)に衆生を結びつけ、束縛している5種の煩悩、すなわち欲界における貪・瞋恚・有身見・戒禁取見・疑のこと。この五下分結のあるかぎり、衆生は欲界に生をうけ、これらを断滅すると、欲界に帰らぬ不還果を得るというのが、説一切有部などの伝統的見解であった。ところが前掲のパーリ文註解は、死後に四悪道のいずれかにおもむかせる5つの束縛と解していたようである。だから最初の時期には必ずしも解釈が一定していなかった。

(注2)5つの上位の束縛;五上文結をいう。上方(色界と無色界)に結びつける5つの煩悩。結とは煩悩の異名で、上方とは色界、無色界をいう。三界のうち、上二界であるある色界と無色界とに衆生を結びつける5種の煩悩、すなわち色界における貪、無色界における貪・掉挙(じょうこ)・慢・無明をいう。衆生を色界と無色界とに結びつけて解脱させない煩悩であるから、上文結と名づける。これを断ずると阿羅漢界を得るのである、というのが説一切有部などの伝統的解釈であった。ところが、前掲のパーリ文注解は、死後の神々の世界におもむかせる5つの束縛と解している。そこで言えることはこの『サガータ・ヴァッガ』(『サンユッタ•ニカーヤ』の第1集「詩をともなう集」のこと)の詩や『ダンマパダ』のこの詩がつくられた時には、五上文結、五下文結という観念は恐らく成立していたのであろうが、まだ三界説と結びついていなかった。三界説は『ダンマパダ』や『スッタニパータ』のなかにもまだ出ていないから、かなり遅れて成立したものであろう。

(注3)5つの執著;貪りと怒りと迷妄と高慢と邪しまな見解という5つの執著である。これらは執著を起こさせるもとであるから「五著」という。(228~229頁)

■〔尊師いわく、ーー〕

「〔5つ〕(注1)がめざめているときに、5つ(注2)が眠っている。5つが眠っているときに、5つがめざめている。

5つによってひとは塵にまみれる。5つによってひとは清められる。」(18頁)

(注1)〔5つ〕;信などの五根、修行に関する五根とは解脱に至るための5つの力、また能力。さとりを得るための5つの機根、可能力のある5つの美徳とでもいうべきものである。南方の上座部においては(他の諸派においても同様であるが)次の〈5つの勢力〉をいう。⑴信ーー信仰。ブッダの説いた理法、道理を心の底から信ずること。⑵精進ーー努力。修行に精励すること。⑶念ーー憶念。つねに心を落ち着けて、気をつけていること。⑷定ーー禅定。心を統一して、動揺させないこと。⑸慧ーー知慧。真理を見とおす認識。これらは、諸々の善いことを生ぜしめる根本であるから「根」と訳される。(230頁)

(注2)5つ;五蓋、5つの覆い、とは、⑴欲望。⑵嫌悪。それが昂まると怒りになる。⑶気のめいること。心暗く、身も重く、ものうい状態。ふさぎこむこと。⑷心のざわざわすること。心がとりとめなく浮わついた状態。または後悔。⑸疑いをいう。真理の教えを疑いためらうこと。

五根と五蓋とは、正反対のはたらきをもっているということになる。ここでは信などの五根を修めよ、ということを教えているのである。このように古い時期においては、信などの5つのすぐれたはたらきを身につけるだけで、究極の境地に達し得ると考えていたのである。最初期の教えは至極簡単であった。(230~231頁)

第7節 知りぬいていない

■傍らに立って、その神は、尊師のもとで、この詩句をとなえた。

「真理(注1)を知りぬいていないので、異教に誘い込まれる人々は、眠っていて、めざめていない。今こそかれらを覚醒させるべき時である。」

□〔尊師いわく、ーー〕

「真理を知りぬいていて、異教に誘い込まれることのない人々こそ、正しくさとり、正しく知り、平(注2)かでない難路を平らかに歩む。」(18頁)

(注1)真理;dharma.ブッダゴーサは四諦のことだと解するが、必ずしもそのように限定して解する必要はないのではなかろうか。『雑阿含経』には「正法」と訳している。

(注2)平らかでない…;漢訳には「険悪なる世に平等なり」と訳している。(231頁)

第8節 いとも迷える

■傍らに立って、その神は、尊師のもとで、この詩句をとなえた。

「真理に迷い、異教に誘い込まれる人々は、眠っているのであって、めざめていない。今こそかれらを覚醒させるべき時である。」

□〔尊師いわく、ーー〕

「真理について迷うことなく、異教に誘い込まれることのない人々は、正しくさとり、正しく知り、平らかでない難路を平らかに歩む。」(18~19頁)

第10節 森に住んで

■傍らに立って、かの神は、次の詩句を以て、尊師に呼びかけた。

「森に住み、心静まり、清浄な行者たちは、日に一食を取るだけであるが、その顔色はどうしてあのように明朗なのであるか?」

□〔尊師いわく、ーー〕

「かれらは、過ぎ去ったことを思い出して悲しむこともないし、未来のことにあくせくすることもなく、ただ現在のことだけで暮らしている。それだから、顔色が明朗なのである。

ところが愚かな人々は、未来のことにあくせくし、過去のことを思い出して悲しみ、そのために、萎れているのである。ーー刈られた緑の葦のように。」(20頁)

第2章 歓喜の園

第2節 歓ぶ

■傍らに立って、その神は、尊師のもとで、この詩句をとなえた。

「子ある者は子について喜び、また牛のある者は牛について喜ぶ。

執著するよりどころによって、人間に喜びが起こる。執著するよりどころのない人は、実に喜ぶことがない。」

□〔尊師いわく、ーー〕

「子ある者は子について憂い、また牛のある者は牛について憂う。

執著するよりどころによって、人間に憂いが起こる。実に、執著するよりどころのない人は、憂うことがない。」(23頁)

第3節 子ほど可愛いいものはない

■傍らに立って、その神は、尊師のもとで、この詩句をとなえた。

「子ほど可愛いいものは存在しない。牛に等しい財は存在しない。

太陽に等しい光輝は存在しない。海は最上の湖である。」

□〔尊師いわく、ーー〕

「自己ほど可愛いものは存在しない。穀物に等しい財は存在しない。

智慧に等しい光輝は存在しない。雨雲は最上の湖である。」(23~24頁)

(岡野注;仏教は、愛を、愛執として自分の所有物への執著として否定するが、万民、万物への平等な愛は慈愛として否定していません)

第4節 王族

■〔神いわく、ーー〕

「王族は、人間のうちで最もすぐれたものである。牡牛は四足獣のうちで最もすぐれたものである。諸々の妻のうちでは、少女が最もすぐれている。諸々の子息のうちでは、長子が最もすぐれている。」

□〔尊師いわく、ーー〕

「人間のうちでは〈正しく覚った人〉が最もすぐれている。四足獣のうちでは、駿馬が最もすぐれている。諸々の妻のうちでは、柔順なる妻が最もすぐれている。諸々の子息のうちでは、忠実なる子(注)が最もすぐれている。」(24頁)

(注);assava.ところが漢訳者は a +sravaと解し、「漏尽なるは子の上なるものなり」と訳している。つまり出家した修行僧となることを最上のりそうとしたのであって、教団的な解釈なのである。(236頁)

(岡野注;日本人なら、天の理法に忠実なという意味で、素直なる子、と訳せばいいとおもう)

第6節 睡眠なるものうさ

■〔神いわく、ーー〕

「眠く、ものうく、あくびをし、楽しまず、食べ過ぎてぼうっとしている。そのために、この世において人々には尊い道が現われない。」

□〔尊師いわく、ーー〕

「眠く、ものうく、あくびをし、楽しまず、食べ過ぎてぼうっとしている。ーー

努め励んでこれを払いのぞき、尊い道が清められる。」(25頁)

第8節 恥

■〔神いわく、ーー〕

「みずから恥じて自己を制し、駿馬が鞭を受ける要がないように、世の非難を受ける要のない人が、この世に誰かいるであろうか。」

□〔尊師いわく、ーー〕

「恥を知って制する人は少ない。かれらはつねに気をつけて行い、苦しみの終滅に到達して、逆境にあっても平静に行う。」(26~27頁)

第9節 庵

■〔神いわく、ーー〕

「あなたに庵はないのですか?巣はないのですか?つなぎの糸はないのですか?あなたは束縛から解脱しておられるのですか?」

□〔尊師いわく、ーー〕

「たしかに、わたしには庵はありません(注)。たしかに巣はありません。たしかにつなぎの糸はありません。たしかにわたしは束縛から解脱しているのです。」

(注)庵はありません;ゴータマ・ブッダやその弟子は、特別の庵や巣を所有することなく、遍歴の生活を送っていたのである。教団の建造物としての精舎が造られたのは、或る時期以後のことであった。(242頁)

□〔神いわくーー〕

「わたしは、何をあなたの庵と呼ぶのでしょうか?わたしは、何をあなたの巣と呼ぶのでしょうか?わたしは、なにをあなたのつなぎの糸と呼ぶのでしょうか?わたしは、何をあなたの束縛と呼ぶのでしょうか?〔あなたは知っていますか?〕

□〔尊師いわく、ーー〕

「そなたは母を〈庵〉と呼ぶ。そなたは妻を〈巣〉と呼ぶ。そなたは子らを〈つなぎの糸〉と呼ぶ。そなたは、わたしの妄執を〈束縛〉と呼ぶ。」(27~28頁)

第10節 サミッディ

■このように、わたしは聞いた。或るとき尊師は、王舎城の(温泉の園)に住んでおられた。

□そのときサミッディさんは、夜の明け方に、立ち上がって、身体を洗い入浴するために温泉におもむいた。温泉で身体を洗い浴したのちに、上がって、一つの衣をまとい、身体を乾かしながら立っていた。

□そのとき、夜も更けてから、或る一人の神が容色うるわしく、温泉を遍く照らしたあとで、サミッディさんに近づいた。近づいてから、空中に立って、詩句を以てサミッディさんに話しかけた。

「修行僧よ。そなたは、欲するがままに食べないで托鉢している。そなたは、欲するがままに食べてから托鉢するということがない。欲するがままに食べてから托鉢せよ。そなたは〔青春の〕、時を空しく過ごすな。」

〔サミッディいわく、ーー〕

「わたしは、あなたの言う〈時〉なるものを、知っていません。

〔わたしの考える〕時は、欲するがままに食べないで、欲するがままに食べないで托鉢をするのです。わたしにとって、時が空しく過ぎることがありませんように。」(28~29頁)

□そこで、かの神は地上に立って、サミッディさんに次のように言った。

「修行僧よ。あなたは若くて、初々しく、髪が黒く、すばらしい青春をそなえていて、人生の第一の時期に欲楽を享受することなしに、出家した。修行僧よ。人間的な欲望を享楽しなさい。現に目の当たり経験されることを捨てて、時を要するものを追求するようなことをなさるな」と。

□「友よ。わたしは、現に目の当たり経験されることを捨てて、時を要するものを追求するということをしない。わたしは、時を要するものを捨てて、現に目の当たり経験されることを追求する。友よ。愛欲は、実に時を要するものであり、苦しみ多く、悩み多く、禍いがここに甚だしい、と尊師が説きたもうた。この理法は、現に目のあたり体験されるものであり、時を要せず、〈来り、見よ〉と言われたものであり、導くものであり、叡智ある人々が各自みずから体得すべきものである。」

□「修行僧よ。では、尊師は、どのようにして、『愛欲は、実に時を要するものであり、苦しみ多く、悩み多く、禍いがここに甚だしい』と説かれたのであるか?『この理法は、現に目のあたり体験されるものであり、時を要せず、〈来り、見よ〉と言われたものであり、導くものであり、叡智ある人々が各自みずから体得すべきものである』と、どのようにして説かれたのであるか?」

□「友よ。わたしは、出家してまだ間がない、今到来した新参者です。わたしは、この教えと戒律とを詳細に説明することはできません。今、かの尊師、拝まるべき人、正しく覚った人が、王舎城の〈温泉の園〉に住しておられます。その尊師のもとにおもむいて、この意義をたずねなさい。そんしがあなたに説明なさったとおりに、教えと戒律とを受けたもちなさい。」

□「修行僧よ。かの尊師は、他の大威力ある神々に囲まれておられるから、わたしが近づくことは、容易にはできません。もしもあなたがかの尊師に近づいてこの意義をたずねてくださるならば、われらもまた教えを聴くために参ることができるでありましょう。」

□「友よ。承知しました」とサミッディさんはその神に答えて、尊師のおられるところにおもむいた。近づいて、尊師に挨拶して、傍らに坐った。傍らに坐して、サミッディさんは、尊師に次のように言った。(29~31頁)

■このように言われたときに、その神は、サミッディさんに、次のように申しました。「修行僧よ。たずねよ。わたしはここに来ているのだ。

□そのとき、尊師は詩句を以て神に呼びかけられた。

「名称で表現されるもののみを心の中に考えている人々は、名称で表現されるものの上にのみ立脚している。名称で表現されるものを完全に理解しないならば、かれらは死の支配束縛に陥る。

しかし名称で表現されるものを完全に理解して、名称で表現をなす主体が〔有ると〕考えないならば、その人には死の支配束縛は存在しない。その人を汚して瑕瑾(かきん、傷、欠点)となるもの(煩悩)は、もはやその人には存在しない。

ヤッカよ。もしあなたが、そのような人を知っているならば、告げてください」と。

□「尊いお方さま。尊師が簡略に説かれたこの事柄の意義を、わたしは詳しくは知っていません。よろしい。尊師が簡略に説かれたこの事柄の意義を、わたしが詳しく知り得るように、お説きくださいませ。」

□〔尊師いわく、ーー〕

「思慮雑念を捨て、迷いの住居におもむくことなく、この世における名称と形態とに対する妄執を断じ、結び目(束縛)を断ち、〔煩悩の〕煙りの消えた、欲求のないかの人を、

この世とかの世とにおいて、神々と人々とが探し求めても、ついに見出し得なかった。ーー天界においても、すべての住所においても。

神霊よ。もしもあなたが、そのような人を知っているならば、告げてください。」

□〔神いわくーー〕

「尊いお方さま。尊師が簡略に説かれたこの事柄の意義を、わたしはこのように詳しく知ることができました。

いかなる世界においても、ことばによっても、心によっても、身体によっても、いかなる悪をもしてはならない。諸々の欲楽を捨てて、よく気をつけて、しっかりと念(おも)い、ためにならぬ苦しみに身を委れるな。」(33~35頁)

第3章 剣

第2節 触れる

■〔神いわくーー〕

「触れない人には、〔何ものも〕触れることがない。

もしも触れるならば、その人に〔何ものかが〕触れるであろう。」

□〔尊師いわく、ーー〕

「汚れのない人、清らかで咎(とが)のない人、を汚す者がいるならば、その邪悪は、かえってその愚者に戻ってくる。ーー風にさからって細(こまか)い塵を投げると、〔その人に戻ってくる〕ようなものである。」(38頁)

第3節 結髪

■〔神いわくーー〕

「内に結髪のしがらみ(注1)あり、外に結髪のしがらみあり、ーー

人々は結髪のしがらみにまといつかれている。

それ故に、ゴータマよ、あなたにお尋ねします。ーー

この結髪を解きほごす(注2)のは、誰ですか?」

(注1)結髪のしがらみ;インドの修行僧が頭髪を束ねたのをいう。漢訳仏典では「螺髪(らほつ)」という。

(注2)結髪を解きほごす;ここではバラモンの結うた螺髪を、心の束縛の象徴と見なしているのである。(284頁)

□〔尊師は答えた、ーー〕

「人として、堅く戒めをたもち、明らかな智慧をそなえ、心の念いと明らかな智慧とを修養し、つねに熱心で、慎み深くつとめる修行僧は、この結髪を解きほごすであろう。

欲情と憎悪と無知(迷い)とが脱落し、煩悩の汚れを滅ぼし尽くした〈敬わるべき人々〉ーーかれらは、結髪をすでに解きほごしたのである。名称と形態とがすっかり滅び、障礙も、形態についての想いもすっかり滅びてしまったところでは、〔内的と外的との〕結髪は断ち切られるのである。」(38~39頁)

第4節 心の抑制

■〔神いわくーー〕

「ひとが、いかなることをなさないように心を抑制しようとも、まさにその故に、苦しみはその人に到達しない。

ひとは、あらゆることを離れるように、心を抑制せよ。そうすれば、かれはいかなる苦しみからも解脱する。」

□〔尊師いわく、ーー〕

「心を、あらゆる事柄から離れるように抑制すべきではない。

すでに自制されている心を抑制すべきではない(注)。

悪の起こるところから離れるように、それぞれの場合ごとに心を抑制すべきである。」(39~40頁)

(注)……抑制すべきではない;神の立言は、心をして善悪両者から離れさせようというのである。それに対して釈尊は、「施与をなそう。戒めを守ろう」という心は抑制すべきではない、という。

最初期の仏教の立場は、倫理的であった、と言うべきである。つまり「善悪を超え…」という般若経的、禅的な表現とは異なったものであったのである。

『雑阿含経』の漢訳は趣旨を適切に表現していると思われる。「決定して遮を以て遮せば、意は妄想もて来る。必ずしも一切を遮するにあらず。ただ其の悪行を遮するのみ。彼の悪を遮しおわり、其をして逼迫せしめず。」(247頁)

第5節 敬わるべき人(注1)

■〔神いわくーー〕

「なすべきことをなし了え、煩悩の汚れを滅ぼし、今や最後の身体をたもっている真人となった修行僧は、

『わたしが語る』と言ってもよい(注2)のでしょうか。また『人々が〔これこれは〕〈わがもの〉である、と語っている』と言ってよいのでしょうか。」

□〔尊師いわく、ーー〕

「なすべきことをなし了え、煩悩の汚れを滅ぼし、今や最後の身体をたもっている真人となった修行僧は、

『わたしが語る』と言ってもよいのでしょう。また『人々が〔これこれは〕〈わがもの〉である、と語っている』と言ってよいのでしょう。

真に力量ある人は、世間における名称を知って、

言語表現だけのものとして、〔仮りに〕そのような表現をしてもよいのである。」

□〔神いわくーー〕

「なすべきことをなし了え、煩悩の汚れを滅ぼし、今や最後の身体をたもっている真人となった修行僧は、

『わたしが語る』と言ってもよいのでしょうか?また『人々が〔これこれは〕〈わがもの〉である、と語っている』と言うのでしょうか?」

□〔尊師いわく、ーー〕

「慢心を捨て去った人には、もはや結ぶ束縛は存在しない。

かれには慢心の束縛がすべて払いのけられてしまった。

聡明な叡智ある人は、死の領域を超えてしまったので、

『わたしが語る』と言ってもよいであろう。また『人々が〔これこれは〕〈わがもの〉である、と語っている』と言ってもよいであろう。

真に力量ある人は、世間における名称を知って、

言語表現だけのものとして、〔仮りに〕そのような表現をしてもよいのである。」(40~41頁)

(注1)敬わるべき人;『雑阿含経』のは「羅漢」。シナでは「真人」をこれの訳語として用いていることがある。

(注2)『わたしが語る』と言ってもよい;これは我(アートマン)が存在すると主張する議論である。『雑阿含経』には「何言説有我」。(248頁)

第6節 光明

■〔神が問うていわくーー〕

「世にはいくつの光明があって、世を照らすのですか。

あなたにおたずねしたいと思って来たのですが、われらはそれを、どうしたら知ることができるのでしょうか?」

□〔尊師いわく、ーー〕

「世には4つの光明がある。ここに第5の光明は存在しない。

昼には太陽が輝き、夜には月がてらし、

また、火は昼夜に、あちこちで照らす。

正覚者(ブッダ)は、熱し輝くもののうちで最上の者である。これは無常の光である」と。(41~42頁)

(注)正覚者;『雑阿含経』には、「仏」と訳している。(248頁)

第7節 大水流(注1)

■〔神が問うていわくーー〕

「大水流は、何にもとづいて休止し、渦巻きはどこで止むのでしょうか?

名称と形態(注2)とは、どこですっかり滅びるのでしょうか?」

□〔尊師いわく、ーー〕

「水も、地も、火も、風も侵入しないところーー、

そこで、大水流は止まる。そこで渦巻きは止む。

そこで名称と形態とは、すっかり滅びる。」(42~43頁)

(注1)大水流;語源的には「流れ」であるが、そういうと、小さな小川の流れを連想し、渦巻きを立てて流れる激流を連想させない。

リス・デヴィッズ夫人は‘The Tides’と訳しているが、それは「潮流」を連想させ、海をつねに経験してきたイギリス人にはピッタリするが、インドの大平原の洪水は、一面の大水で、流れることもなく、向う岸も見えなくなるので、渦巻を立てることもない。ヨーロッパ人や日本人の想像もできぬものである。「洪水」という訳語も適合しない。そこで「大洪水」という訳語をつくってみた。註によると輪廻(samsara)を意味する。『雑阿含経』で音を写して「薩羅」と訳しているのは、シナ人には理解し難い風土的現象であったのである。

(注2)名称と形態;古ウパニシャッドにおける表現であるが、仏教では身心より成る個人存在を意味する。(249頁)

第8節 大いなる財

■〔神が問うていわくーー〕

「大いに財宝あり、大いに財産あり、国土を占有している王侯たちは、欲望に飽くことなく、互いに貪り獲得しようと望んでいる。

熱望をいだき、迷いの生存の流れに押し流されているかれらのうちで、誰が貪りと妄執を捨て去って、世にあっても熱望することがなくなったのでしょうか?」

□〔尊師が答えていわく、ーー〕

「家を捨てて出家遍歴し、子と家畜(注1)と愛しきものを捨て去って、情欲と怒りを断ち、無明を離れて、煩悩の汚れを滅ぼし尽くした真人たち(注2)、ーー彼らこそ、世にあっても貪り熱望することがないのである。」(43頁)

(注1)子と家畜;当時の人々にとって、「子と家畜」が最も大切な財産であった。つまり都市において貨幣経済が大規模に進展する以前の段階においてこの詩は作られたのであると考えられる。

(注2)真人たち…;arahanto.『雑阿含経』には「羅漢」と訳す。(249~250頁)

第9節 四輪あるもの

■〔神が問うていわくーー〕

「4つの車輪(注1)あり、9つの門(=穴)(注2)があり、(汚穢)に満ち、貪欲に結びつけられ、泥土から生じたものである。大いなる健き人よ。どうしたら、そこから脱れ出ること(注3)ができるでしょうか?」

□〔尊師は答えた、ーー〕

「紐(注4)と革帯(注5)を断ち、

悪い欲求と貪りとを断ち切って、妄執を根こそぎえぐり出して、

このようにしたならば、脱出が起こり得るであろう」と。(43~44頁)

(注1)4つの車輪;行、住、坐、臥の4種のふるまいをいう。

(注2)9つの門;身体に分泌または排泄する穴が9つあることをいう。(249~250頁)

(注3)脱れ出ること;解脱のことである。ただし原義は、ただ「おもむくこと」というほどの意味。

解脱とは霊魂が身体から脱出して束縛のない状態におもむくことであるという見解は、ウパニシャッドからヴェーダーンタ学派に至るまで一貫して存すものであるが、ここではそれを通俗的な一般的観念として受け入れているのである。

(注4)紐と…;以下については、Dhp.398に類句がある。紐は力強い怒り、ときには恨み、怨恨のことをいう。nandi.は結ぶ性質があるので、怒り(kodha)を紐に譬え手ていう。『雑阿含経』には「愛喜」と訳す。

(注5)革帯;縛る性質があるので、妄執を革帯に譬えていう。『雑阿含経』には「長麼(ちょうび)」と訳す。(250頁)

第10節 羚羊(かもしか)の脛(すね)

■〔神が問うていわくーー〕

「羚羊の脛のように、ほっそりしていて、しかも雄々しく、食物を摂(と)ること少なく、貪り求めることなく、

獅子や象のように独り歩み、諸々の欲望を顧みない人のことを、〔尊師に〕近づいて、われらはお尋ねします。どのようにしたならば、苦しみから離脱できるでしょうか?」

□〔尊師は答えていわく、ーー〕

「世間には5つの愛欲の要素(注)がある。心は、第6のものである、と説かれている。

ここで欲求を断ったならば、このように苦しみから解脱する。」(44~45頁)

(注)5つの愛欲の要素;『雑阿含経』には「五欲徳」と直訳しているが、意味をなさない。五官の対象のことをいう。(251頁)

第4章 サトゥッラパ群臣(注1)

第1節 善き人々と共に

■わたしは、このように聞いた。あるとき尊師は、サーヴァッティー市のジュータ林・〈孤独なる人々に食を給する長者〉の園に住しておられた。

□そのよき多くのサトゥッラパ群神たちは、夜が更けてから、容色うるわしく、ジュータ林を遍く照らして、尊師のもとにおもむいた。近づいてから、尊師に挨拶して、傍らに立った。

□傍らに立った或る神は、尊師のもとで次の詩をとなえた。ーー

「ただ善き人々と共(注2)に居れ(注3)。

ただ善き人々とだけ交われ(注4)。

善き人々の正しい理法を知って、ひとは、より良きものとなる。より悪き者とはならない。」

□ついで、他の或る神は、尊師のもとで次の詩をとなえた。ーー

「ただ善き人々と共に居れ。善き人々とだけ交われ。

善き人々の正しい理法を知るならば、智慧が得られる。そうでなければ、得られない。」

□ついで、他の或る神は、尊師のもとで次の詩をとなえた。

「ただ善き人々と共に居れ。善き人々とだけ交われ。

善き人々の正しい理法を知ったなら、憂いのさ中にあっても憂えない。」

□ついで、他の或る神は、尊師のもとで次の詩をとなえた。ーー

「ただ善き人々と共に居れ。善き人々とだけ交われ。

善き人々の正しい理法を知ったならば、親族のあいだで輝く。」

□ついで、他の或る神は、尊師のもとで次の詩をとなえた。ーー

「ただ善き人々と共に居れ。善き人々とだけ交われ。

善き人々の正しい理法を知ったならば、人々は良い境地におもむく。」

□ついで、他の或る神は、尊師のもとで次の詩をとなえた。ーー

「ただ善き人々と共に居れ。善き人々とだけ交われ。

善き人々の正しい理法を知ったならば、人々はいつまでも安立するであろう。」

□ついで、他の或る神が、尊師に向かって次のように言った。ーー「尊師さま。みごとにとなえられたのは、だれの詩でしょうか?」

〔尊師いわく、ーー〕

そなたらは、すべて、順次みごとに詩をとなえた。しかし、わたしの詩にも耳を傾けよ。

「ただ善き人々と共に居れ。善き人々とだけ交われ。

善き人々の正しい理法を知ったならば、すべての苦しみから脱れる」と。(46~48頁)

(注1)サトゥッラパ群神;ブッダゴーサは通俗語源解釈によって、「よき人々の教えを受けたので、教えを語って、天に生まれた者ども」と解する。ブッダゴーサによると、むかし海を渡る多くの商人が海で難破したが、700人の商人は五戒を受けて守っていたので、死後に忉利天の宮殿に生まれ、今ここに釈尊のもとに来たのだという。

(注2)善き人々と共に;前後の箇所から見ると、ブッダも一人の「善き人」にすぎないのである。

(注3)ただ善き人々と共に居れ;ここで「共に居れ」「交われ」といっているのは、仏教の教団(サンガ)が次第に形成されて行くその発端を示しているのである。

(注4)交われ;「交わる」というのは「友として交わる」ということである。「友として交わる」というのは、ブッダ・縁覚・ブッダの弟子たちと交わりをなさねばならぬ、というのが内含されている趣意である。驚くべきことである! ブッダとも友人としてつき合え、と言うのである。後代の仏教の所説とはまるっきり異なる。(252~253頁)

第2節 もの惜しみ

■〔尊師いわく、――〕

「そなたらのどの詩も、すべて、順次にみごととなえられた。しかし、わたしの詩にも耳を傾けよ。

落穂を拾って修行している人でも、妻を養っている人でも

乏しき中からわかち与える人は、法を実践することになるであろう。

千の供養をなす人々の百千の供養も、そのような行いをなす人の〔功徳の〕百分の一にも値しない。」

□そこで、他の神は尊師に大して、次の詩をとなえた。――

「これらの供養をなす人々の、大がかりな豊かな祭祀は、どうして、正しくなされた施与の百分の一にも値しないのですか?

千の供養をなす人々の百千の供養も、そのような施与をなす人の〔功徳の〕百分の一にも値しないのは、なぜですか?」

□そこで尊師は、その神に向かって次の詩をとなえた。――

「或る人々は悪い行いになずんで、ものを与える。――生きものを傷つけ、殺し、また苦しめ悩まして。

そのような贈与(注)は、涙にくれ、暴力をともない、正しい施与には値しない。

同様に、千の供養をなす人々の千の供養も、そのような施与をなす人の〔功徳の〕百分の一にも値しない」と。(50~51頁)

(注)贈与;バラモンを聘(へい)して祭祀を行って、バラモンに与える報酬である。バラモン教の祭祀では生きものを殺すから、それは理想的な意味での寄進、喜捨、施与にはならないというのである。

ここの立言は重大な問題を内蔵している。宗教儀礼よりも、何かを人に与える行為のほうが、はるかに大切だというのである。漢訳には「小財なるも浄心もて施す」という文句があるが、それが強調されているのである。(256頁)

第3節 善いことだ

■傍らに立った或る神は、尊師のもとで、ひとり喜んでこのように語った。――

「友よ。〈与える〉というのは、善いことだ。

もの惜しみと怠惰ゆえに、このように施与はなされない。

功徳を望んで期待し道理を識別する人によって、施与がなされるのである」と。

■そこで他の或る神は、尊師に向かって、次のように語った。――

「尊師さま。みごとにとなえられたのは、だれの詩でしょうか?」

〔ブッダいわく、――〕

「そなたらのどの詩も、すべて、順次にみごとにとなえられた。しかし、わたしの詩にも耳を傾けよ。

信仰をもって〈与えること〉が実にいろいろと讃めたたえられた。

しかし〈与えること〉よりも「法の句」のほうがすぐれている。

昔の善き人々、それよりもさらに昔の善き人々も、智慧をそなえて、ニルヴァーナにおもむいた」と。(51~55頁)

第4節 存在しない

■傍らに立った或る神は、尊師に向かって次の詩をとなえた。――

「(注)人間のあいだにある諸々の欲望の対象で常住なるものは存在しない。

この世には諸々の美麗なるものが存在し、ひとはそれに束縛されている。

それらに耽って怠けている人は、死の領域から脱して〈もはや輪廻の範囲に戻ってくることのない境地〉に来ることがない」と。

「罪は欲望から生じ、苦しみは欲望から生じる。欲望を制することによって、罪が制せられ、罰を制することによって、苦しみが制せられる」と。

「世間における種々の美麗なるものが欲望の対象なのではない。

〔むしろ〕欲望は人間の思いと欲情である。

世間における種々の美麗なるものは、そのままいつも存続している。しかし気をつけて思慮する人々は、それらに対する欲望を制してみちびくのである。

怒りをすてよ。慢心を除き去れ。

いかなる束縛をも超越せよ。

名称と形態とにこだわらず、無一物となった者は、苦悩に追われることがない。

思念を捨てた。空想に耽らなくなった。

この世で名称と形態とに対する妄執を断ったのだ。

束縛を断ち、苦しみもなく、願望もない人、――この人も神々も人間も、この世でもかの世でも、天上にも、いかなる住み処にも、さがし求めたが、跡を見出すことができなかった」と。

□尊者モーガラージャは次のように問うた。

「もしも神々も人間も、この世でもかの世でもそのように解脱した人を見ることができなかったのであるならば、人々のためになることを行う最上の人を敬礼する人々は、称讃さるべきでありましょうか?」と。

□尊師は答えた、

「モーガラージャよ。

ビクよ。

そのように解脱した人に敬礼する人々も、また称讃さるべきである。

かれらもまた理法を理解し、疑惑を捨てて、束縛を超えた者となるからである。修行僧たちよ」と。(56~57頁)

(注)人間のあいだにある……;もはや輪廻の範囲に戻ってくることのない境地――apunagamana.これはウパニシャッドの若干の哲人にとっては究極の理想の境地であったが、初期の仏教はそれを継承してやはり理想の境地と考えた。ところが後代の教義学者は、それを「不還(ふげん)」という、聖者の中間的段階として片づけてしまった。(257頁)

第5節 咎め立てする神々

■空中に立った或る神は、尊師のもとで次の詩をとなえた。――

「自分が実際にあるのとは異なったふうに自己を誇示する人にとっては、自分の享受するものは、盗みによって得たことになる。――詐(いつわ)りをなす賭博師のように。

自分のなすことを語れ。自分のしないことを語るな。

かれらが実際に自分でなさないのに〔口先だけで〕語っていても、賢者はそれをよく知りぬいているのだ(注1)」と。

□〔尊師いわく、――〕

「安定している堅固なこの道は、ただ〔口先で〕語るだけでも、あるいはまた一方的に聞くだけでも従い行くことはできない。

心をおさめて、〔この道を歩む〕思慮ある人々は、悪魔の束縛から脱するであろう。

思慮ある人々は、世のありさまを知って、実に業をつくることがない。

思慮ある人々は、よく理解して、縛(いまし)めを解きほごし、世の中にあって執著をのり超えている。」(57~58頁)

□〔尊師いわく、――〕

「一切の生きとし生ける者をあわれむ修行完成者・ブッダに、

罪過は存在しない。かれに過失(道から外れること)は存在しない。

かれは迷妄に陥ることがなかった。かれは、思慮深き者として、常に気をつけている。

罪過を告白して〔懺悔するのを〕受け入れない人は、

内に怒りをいだき、憎悪で重く、怨恨をまとう。その怨恨を、わたしは喜ばない。そなたの罪過〔の告白〕を、わたしは受け入れる。」(59~60頁)

(注1)よく知りぬいているのだ;漢訳には説明はないが、パーリ文注解によると、〔咎め立てをする神々〕が、釈尊は口では質素な生活をするように説きながら実際は豪奢な生活をしているから、釈尊は言行一致しない、と言って非難して、これらの詩句を説いたのだという。

「沙門であるゴータマは、ビクたちには、糞掃衣をまとい、樹下に坐せ、糞尿を薬とせよ、といってそれらに満足せよといって、極端な行いを称讃している。ところが、自分は美麗な衣を着て、王にふさわしいような最上の食物を食べ、天の宮殿のような香室というすばらしい寝所に臥し、ヨーグルトやチーズなどの薬を用いている」という非難があったのをいう。歴史的人物としてのゴータマが非難されていた、という点で注目すべきである。これは仏教教団が広大なジュータ林園の寄進を受け、教主としてのゴータマ・ブッダの生活が豊かになったのを、他の宗教の修行者たちが非難していたそのことばが、神々の口にかこつけられたのであろう。(259頁)

第6節 信

■傍らに立った或る神は、尊師のもとで、次の詩をとなえた。――

「信(まこと)は男に伴れそう妻である。

もしも〔人に〕不信が残らないならば、かれには、名声と名誉とが生ずる。

かれは、身体を捨てたあとで、天に行く。

怒りを捨てよ。慢心を除き去れ。いかなる束縛をも超越せよ。名称と形態との執著せず、無一物となった者は、苦悩に追われることがない。

智慧乏しき愚かな人々は放逸(わがまま)にふける。しかし聡明なる人は、つとめはげむのをまもる。―最上の財宝(たから)を〔大切に〕まもるように。

放逸(なおざり)に耽るな。愛欲と歓楽になずむな。おこたることなく思念をこらす者は、最高の楽しみを得る。」(60~61頁)

第5章 燃えている

第9節 もの惜しみ

■〔神いわく、―〕

「この世でもの惜しみし、吝嗇で、乞う者を罵(ののし)り退け、

他人があたえようとするのを妨げる人々、――その人々の報いは、どんなものでしょうか? 死んでから、どんなことにことになるのでしょうか?

それをあなたに尋ねるために来たのですが、どうしたら、われらはそれを知ることができるでしょうか?」

〔尊師いわく、――〕

「この世でもの惜しみし、吝嗇で、乞う者を罵(ののし)り退け、

他人があたえようとするのを妨げる人々、――かれらは、地獄、畜生の胎内、ヤマ(閻魔)(注1)の世界に生まれる。

もしも人間の状態になっても、貧窮の家にうまれる。

そこでは、衣服、食物、快楽、遊戯を得ることが難しい。

愚者たちは、それを来世(注2)で得ようと望むが、かれらはそれが得られい。

現世ではこの報いがあり、死後には悪いところに堕ちる。」

〔神いわく、――〕

「このことが、このように説かれるのを、われらは知っています。ゴータマよ。他のことをお尋ねしましょう。

この世で、人たる身を得て、気前よくわかち与え、もの惜しみをしない人々が、ブッダと真理の教えとにたいして信仰心あり、修行者の集にたいして熱烈な尊敬心をもっているならば、

その人々の報いは、どんなものでしょうか? 死んでから、どんなことになるのでしょうか?

それをあなたに尋ねるために来たのですが、

どうしたら、われらはそれを知ることができるでしょうか?」

〔尊師いわく、――〕

「この世で、人たる身を得て、気前よくわかち与え、もの惜しみをしない人々が、

ブッダと真理の教えとにたいして信仰心あり、修行者の集にたいして熱烈な尊敬心をもっているならば、

かれらは天界に生まれて、そこで輝く。

もしも人間の状態になっても、富裕な家に生まれる。

そこでは、衣服、食物、快楽、遊戯が労せずして手に入る。

また〔来世には〕他人の貯えた財物を、他化自在天(たけじざいてん)のように、喜び楽しむ。

現世ではこの報いがあり、死後には善いところに生まれる。」(75~77頁)

(注1)閻魔;Yamaloka.ここではヤマ(閻魔)が死後の審判者として現れている。

(注2)来世で;parato.‘anderswaher’(Geiger)という訳は直訳にすぎ意義不明。‘by and by’(Mrs.RhysDavids)と言う訳は曖昧である。これはparalokatoの意味で副詞的用法に解したい。前の句で、現世の楽しみに言及しているから、それと対句になっているのである。(273頁)

第6章 老い

第5節 生まれさせるものを(1)

■〔神いわく、――〕

「何が人(注1)を生まれさせるのか? 人の何ものが走り廻るのか? 何ものが輪廻に堕しているのであるか? 人にとって大きな恐怖とは、何であるか?」

〔尊師いわく、――〕

「妄執が人を生まれさせる。人の心が走り廻る。生存するもの(注2)が、輪廻に堕している。人にとっての大きな恐怖とは、苦悩(注3)である。」(83~84頁)

(注1)人;『雑阿含経』には「衆生」と訳しているから、「衆生」という語は実際問題として人間のことを意味していたことが解る。

(注2)生存するもの;『雑阿含経』には「衆生」。

(注3)苦悩;dukka.(278頁)

第6節 生まれさせるものを(2)

■〔神いわく、――〕

「何が人を生まれさせるのか? 人の何ものが走り廻るのか? 何ものが輪廻に堕しているのであるか? 人は何ものから解脱しないのであるか?」

〔尊師いわく、――〕

「妄執が人を生まれさせる。人の心が走り廻る。生存するものが、輪廻に堕している。人は、苦悩から解脱しないのである。」(84頁)

第7節 生まれさせるものを(3)

■〔神いわく、――〕

「何が人を生まれさせるのか? 人の何ものが走り廻るのか? 何ものが輪廻に堕しているのであるか? 人の帰趨(きすう)とは、何であるか?」

〔尊師いわく、――〕

「妄執が人を生まれさせる。人の心が走り廻る。生存するものが、輪廻に堕している。行為(業)(注)は、人の帰趨である。」(84~85頁)

(注)行為;kamma.ここでも行為の意義を承認しているのである。(279頁)

第8節 邪道(注1)

■〔神いわく、――〕

「何が邪道と呼ばれるのか? 昼夜に尽きて行くものとは、何であるのか? 清らかな行いの汚れとは、何であるのか? 水を必要としない沐浴とは、何であるか?」

〔尊師いわく、――〕

「欲情が邪道と呼ばれる。青春(注2)は、昼夜に尽きて行く。清らかな行いの汚れは、女人(岡野注)である。水を必要としない沐浴(注3)とは、苦行と清らかな行いとである。」(85頁)

(注1)邪道;『雑阿含経』では「非道」。

(注2)青春;vaya.「いのちの時期」「生きている時期」とも解し得る。『雑阿含経』には「寿命」。

(岡野注)女人;初期仏教集団には、比丘尼(びくに)はいなかったが、後に、アーナンダのとりなしによって、お釈迦さまの養母を含む、釈迦族の女性数人の出家を受け入れ、その後の出家希望の女性の参入によって、教団に比丘尼集団を形成する。エピソードで名の知れた尼僧に、ウッパラヴァンナやキサーゴータミ等がいた。『尼僧の告白』テーリーガーター 中村元訳 岩波文庫を参考。

(注3)沐浴;インダス文明から始まって、インド人および北部パキスタン人は、沐浴に神聖な宗教的意義を認めていた。ところが、仏教はそれに対して、身を修養することのほうがはるかに重要である、というのである。(279頁)

第9節 伴れそう人

■〔神いわく、――〕

「何が、男に伴れそう妻であるのか? 何がかれを教えさとすのか? 人は何を楽しんで一切の苦しみから脱れるのであるか?」

〔尊師いわく、――〕

「信(まこと)は伴れそう妻である。明らかな智慧がかれを教えさとす。人は、安らぎ(ニルヴァーナ)を楽しんで(注)、一切の苦しみから脱れる。」(85~86頁)

(注)安らぎを楽しんで;この文章から見ると、ニルヴァーナの境地は、みずから楽しむものなのである。(280頁)

第7章 打ち勝つ

第1節 名(注)

■〔神いわく、――〕

「何が一切に打ち勝つのか? 何が、それよりもさらに多く存在しないのか?

いかなる唯だ1つのものに、一切のものが従属したのであるか?」

〔尊師いわく、――〕

「名は一切のものに打ち勝つ。名よりもさらに多くのものは存在しない。名という唯だ1つのものに、一切のものが従属した。」(88頁)

(注)名;節の題名としてはNamanとなっている。(岡野注;私はテンセグリティ構造の形態の全体のことだと思う。仏心といってもよい。『正法眼蔵』の即心即仏の章を参考)

第2節 心

■〔神いわく、――〕

「世間は何者によって導かれるのか? 何ものによって悩まされるのか? いかなる1つのものに、一切のものが従属したのであるか?」

〔尊師いわく、――〕

「世間は心によって導かれる。世間は心によって悩まされる。心という1つのものに、一切のものが従属した(岡野注)。」(88~89頁)

(岡野注;人間の心と、仏心の心は意味内容が異なる。ここのところを理解しないと、仏教の世界観は、後の唯識や西洋哲学の観念論や唯心論に誤解されてしまう。仏心や仏性は、道元の言っている、世界存在のテンセグリティ構造の全体の形態(ゲシュタルト)のことだと思う。『正法眼蔵』の即心即仏の章を参考)

第3節(注1) 妄執(注2)

■〔神いわく、――〕

「世間は何者によって導かれるのか? 何ものによって悩まされるのか? いかなる1つのものに、一切のものが従属したのであるか?」

〔尊師いわく、――〕

「世間は妄執によって導かれる。世間は妄執によって悩まされる。妄執という1つのものに、一切のものが従属した。」(89頁)

(注1)第3節;この一説は、前説と同文で、ただ前節の citta の代わりに tanha を置き換えただけである。ちょうどこの節に対応する漢訳は見当たらない。

(注2)妄執;tanha とはもとは「喉の渇き」をいうが、ここでは渇きに譬えられる衝動的な欲望をいう。「渇愛」と訳されることもある。(283頁)

第4節 束縛の絆

■〔神いわく、――〕

「世間は何者によって束縛(注)されているのか? それの経めぐり歩きは、何であるのか? それは、何物を捨て去ることによって「ニルヴァーナ」と呼ばれるのであるか?」

〔尊師いわく、――〕

「世の人々は快楽に束縛されている。人々がくよくよ思慮するのは、逸(そ)れてよろめき歩くことである。

妄執を断じ捨てることによって「ニルヴァーナ」と呼ばれるのである。(89~90頁)

(注)束縛;煩悩の異名である。(283頁)

第5節 縛る(注)

■〔神いわく、――〕

「世の人々は何に縛られているのであろうか? それの経めぐり歩きは、何であるのか?

何を断つことによって一切の束縛の絆を断ち切るのであるか?」

〔尊師いわく、――〕

「世の人々は快楽に束縛されている。人々がくよくよ思慮するのは、逸(そ)れてよろめき歩くことである。

妄執を断つことによって一切の束縛の絆を断ち切るのである。」(90頁)

(注)縛る;煩悩の束縛を意味する。(284頁)

第6節 圧迫されて

■〔神いわく、――〕

「世の人々は何によって圧迫されているのであるか? 何によって囲まれているのであるか?」いかなる矢に刺されているのであるか? 何によって常に燻(くす)べられているのであるか?」

 〔尊師いわく、――〕

「世の人々は死によって圧迫され、老いの矢に囲まれ、愛欲の矢に刺され、常に欲望によって燻べられている。」(90~91頁)

第7節 制圧された

■〔神いわく、――〕

「世の人々は、何ものによって制圧され、何ものによって覆われているのか? 世の人々は、 何ものによって閉じ込められ、世の人々は、何ものの上に安住しているのか?」

 〔尊師いわく、――〕

「世の人々は妄執によって制圧され、老いによって覆われている。世の人々は、苦しみのうちに住している。」(91頁)

第8節 閉じ込められた

■〔神いわく、――〕

「世の人々は、何ものによって閉じ込められているのか? 世の人々は、 何ものの上に安住しているのか? 世の人々は、何ものによって制圧されているのか? 何ものによって制圧されているのか? 何ものによって覆われているのか?」

 〔尊師いわく、――〕

「世の人々は、死によって閉じ込められている。世の人々は、苦しみの上に住している。世の人々は、妄執に制圧されていて、老いに覆われている。」(92頁)

第9節 欲求

■〔神いわく、――〕

「世の人々は、何ものによって縛られているのか? 何を制することによって、解脱するのか? 

何を断つことによって一切の束縛の絆を断ち切るのであるか?」

 〔尊師いわく、――〕

「世の人々は、欲求によって縛られている。〔しかし〕欲求を制することによって解脱する。

欲求を断つことによって一切の束縛を断ち切るのである。」(92~93頁)

第10節 世の人々

■〔神いわく、――〕

「何ものが生起するときに、世の人々が生起するのであるか? 何ものがあるときに、交際をなすのであるか? 何ものに依って世間は存在するのであるか? 何ものがあるときに、世間は苦しむのであるか?」 

 〔尊師いわく、――〕

「六つのものが生起するときに生起して、六つのものがあるときに、交際をなす。

六つのものに依拠して、六つのものにおいて世間は害(そこな)われる。」

第7章「打ち勝つ」おわる(92~93頁)

第8章 断ち切って

第2節 節車

■〔神いわく、――〕

「車の標識は何であるか? 火の標識は何であるか? 王国の標識は何であるか? 婦女の標識は何であるか?」

〔尊師いわく、――〕

「(注)車の標識は幡(はた)である。火の標識は煙である。王国の標識は国王である。婦女の標識は、夫である。」(96頁)

(注)車の標識は……;『雑阿含経』は、趣意をとってうまく訳している。「幢蓋を見て、車を知る。煙を見て則ち火あることを知る。王を見て〔その〕国土を知る。夫を見て其の妻を知る。」(287頁)

(岡野記;自己の標識は仕事(画家は作品)である。日本の標識は(天皇)である。2020.08.14)

第3節 節財

■〔神いわく、――〕

「この世で、人にとって最上の財は、何であるか? 何を良く実行したならば、幸せをもたらすか? 実に諸々の飲料のうちですぐれて甘美なるものは、何であるか? どのように生きる人を、最上の生活と呼ぶのであるか?」

〔尊師いわく、――〕

「信(まこと)(注1)は、この世において人の最高の財である。徳を良く実行したならば、幸せをもたらす。真実は、実に諸々の飲料のうちでもすぐれて甘美なるものである。明らかな智慧によって生きる人(注2)を、最上の生活と呼ぶ。」(96~97頁)

(注1)信;ただし教養や人物(教祖など)を信ずることではなくて、ありのままの真理を信ずることである。『雑阿含経』には「清浄信楽心」と訳す。

(注2)明らかな智慧によって生きる人;これには世俗の人々と出家者と両方の生き方のあることをブッダゴーサは認めている。前者については「在家の人でありながら、五戒をたもち、算木・食物などをしつらえて、明らかな智慧によって生きる」。「賢聖智慧命」(『雑阿含経』)。(287頁)

第5節 恐れおののいている者

■〔神いわく、――〕

「この世で、多くの人々は何を恐れているのでしょうか?

道は、種々のしかたで説かれたが、あなたにおたずねします。智慧豊豊かなゴータマよ。――何に安住したならば、かの来世をおそれないですむでしょうか?」

〔尊師いわく、――〕

「ことばと心を正しくするようにこころがけ、身に悪事をなさないで、もしも飲食(おんじき)豊かな〔富んだ〕家に住んでいるならば、〔1〕信(まこと)あり、〔2〕柔和で、〔3〕よく分ち与え、〔4〕温い心でいるならば、これらの4つの事柄に安住している人は、来世を恐れる要がない。」(98頁)

第6節 老いない

■〔神いわく、――〕

「何ものが老い、何ものが老いないのか?

何ものが(邪道)と呼ばれるのか?

何ものが、昼夜に尽きるものであるのか?

何ものが(清らかな行い)の汚(けが)れであるのか?

何ものが(水を必要としない沐浴)であるのか?

心がとどまらないような穴が、世にはどれだけあるのか?

それをあなたにお聞きしたいと思って、ここに来たのですが、われらはどのようにしたら、それを知ることができるでしょうか?」

〔尊師いわく、――〕

「人々の物質的なすがたは老い朽ちる。しかし名で示される氏族は老い朽ちることがない。

欲情は〈邪道〉と呼ばれる。貪欲(とんよく)は、諸々の善きことがらの妨害なのである。

命は昼夜に尽きて行く。女人(にょにん)は〈清らかな行い〉の汚れであり、人々はこれに耽溺する。

苦行と〈清らかな行い〉とは、〈水を必要としない沐浴〉である。世には六つの穴があり、そこに心がとどまらない。

懶惰(らんだ)と、怠りと、不実行と、不自制と、睡眠と、耽溺と、――

これらが〔六つの〕穴である。

それらをすっかり除去せよ。」(99~100頁)

第8節 求めて

■〔神いわく、――〕

「〔自分の〕利益を求めている人は、何を与えてはならないのか? 人は、何を捨て去ってはならないのであるか? いかなる善きものを解き放つべきであろうか? また、いかなる悪を放ってはならないのであろうか?」

〔尊師いわく、――〕

「人は〔利を求めて〕自分を与えてはならない。自分を捨て去ってはならない(注)。ひとは、善い〔やさしい〕ことばを放つべきである。悪い〔粗暴な〕ことばを放ってはならない。

〔やさしいことばを口に出せ。荒々しいことばを口に出すな。〕」(101頁)

(注)自分を捨て去ってはならない;「獅子や虎などに、自分を与えて捨て去ってはならぬ」という意味である。このように解すべきであるとすると、獅子や虎にも身を与えるべきであるとするボーディサッタの理想と、無思慮に自分を捨ててはならぬという世俗人のための倫理と、両方を原始仏教は説いていたことになる。(289頁)

第Ⅱ篇 〈神の子〉たち

第1章

第2節 カッサパ(その2)

■傍らに立ったカッサパなる〈神の子〉は、尊師のもとで、次の詩をとなえた。

「修行僧が瞑想に入り、心が解脱し、

心の思いの起こらぬことを望み、

世の興亡盛衰をさとって、

善い心で、こだわることがないならば、

すぐれた境地が得られる。」(108頁)

第3節 マーガ

■〔あるとき尊師は、〕サーヴァッティー市のジュータ林・〈孤独な人々に食を給する長者〉の園に住しておられた。

□そのとき、〈神の子〉マーガは、夜が更けてから、容色うるわしく、ジュータ林を遍く照らして、尊師のもとにおもむいた。近づいてから、尊師に挨拶して、傍らに立った。

□傍らに立った〈神の子〉マーガは、尊師に向かって次の詩をとなえた。――

「何をやめて、安らかに臥すのですか? 

何をなくして、悩まないのですか? 

いかなる一つのものを滅ぼすことを、あなたは好ましく思うのですか? ゴータマよ。」

□〔尊師いわく、――〕

「怒り(注)をやめて、安らかに臥す。怒りをなくして、悩まない。〈毒の根であり、その頂きが甘いものである怒り〉を滅ぼすことを、聖者たちは称賛する。ヴァートラブーよ。それを滅ぼしたならば、悩むことがないのである。」(108~109頁)

(注)怒り;kodha.「瞋恚(しんい)」(『雑阿含経』)。(294頁)

第4節 マーガダ

■傍らに立った〈神の子〉マーガダは、尊師に向かって次の詩を以て呼びかけた。

「世の中には、どれだけの光があって、世の中を照らすのですか? 

あなたにお尋ねするために来たのですが。われらは、どうしたらそれを知ることができるでしょう。」

□〔尊師いわく、――〕

「世の中には、4つの光がある。ここに第5の光は、存在しない(注)。

太陽は昼に輝き、月は夜に照らす。また火は、昼でも夜でも、あちこちで輝く。

正しいさとりを得た人(仏)は、輝くもののうちで、最も優れている。これは無上の光輝である。」(109~110頁)

(注)第5の光は存在しない;直訳すると、第5のものは、語られていない。(294頁)

第5節 カーマダ

■傍らに立った〈神の子〉カーマダは、尊師に次のように言った。

「尊師さま。それはなしがたいことです。いともなしがたいことです」と。

「カーマダよ」と尊師は言われた。

□〔尊師いわく、――〕

「彼らは、実に、なしがたきことをなし、学びにつとめ、戒めを守り、心が安定している。

出家の行を実践する人(注)には、満足あり、安楽をもたらす」と。

□〔カーマダいわく、――〕

「尊師さま。この満足なるものは、得がたいものです。」

(「カーマダよ」と、尊師は言われた)

〔尊師いわく、――〕

「彼らは、実に、得がたいものを得たのだ。

かれらは、心の安らぎを楽しんでいる。

昼も夜も、かれらの心は、瞑想を楽しんでいる。」

□「尊師さま。この心なるものは、静め安定しがたいものです。」

(「カーマダよ」と、尊師は言われた)

〔尊師いわく、――〕

「彼らは、沈め安定しがたいものを、静め安定した。かれらは、諸々の感官の安らぎ静まるのを、楽しんでいる。

かれらは、死神の網を断ち切って、聖者(立派な人々)として歩む。カーマダよ。」

□〔カーマダいわく、――〕

「この道は、行きがたく、険(けわ)しいのです。

聖者たちは、行きがたき、険しい道をも進んで行きます。

聖者ならざる人々は、険しい道において、頭を下にして倒れます。

聖者の道は平らかです。聖者は険しい道においても平らかに歩むからです。」(111~112頁)

(注)出家の行を実践する人;anagariyopeta.この表現は、単に「家を出た人」ではなくて、「出家者としての行を身に具現している人」という意味である。(295頁)

第2章 孤独な人々に食を給する長者(注)

(注)孤独な人々に食を給する長者;かれはサーヴァッティー市第一の富裕な長者であったが、よるべのない孤独な人々、貧しい人々に食を給して慈善事業を行っていた。かれはスダッタ(「よく与えた」の意)という名でも知られている。かれは釈尊の教団に祇園精舎を寄進した。

第5節 チャンダナ

■傍らに立った〈神の子〉チャンダナは、尊師に向かって詩を以て話しかけた。

「昼夜に怠ることはないが、足場もなく、よりどころもないのに、いかにして〔人は〕激流を渡るのであろうか? 誰が深淵(しんえん)に沈まないのであろうか?」

□〔尊師いわく、――〕

「常に戒律を具現し、智慧あり、よく心を統一し、断乎として精励して努力する人は、渡りがたい激流を渡る。

欲の想いを離れ、みめ麗しさを想うことなく、欲情も消え失せた人は、深淵に沈むことがない。」(124頁)

第8節 カクダ

■傍らに立った〈神の子〉カクダは、尊師に対して、次のとうに言った。

「修行僧(注1)よ。あなたは喜んでいますか?」

「友よ。何を得たならば、〔わたしは喜べるのでしょうか?〕」

「修行僧よ。ではあなたは、悩んでいるのですか?」

「友よ。では、、何を失ってわたしは〔悩んで〕いるのでしょうか?〕」

「修行僧よ。では、あなたは、喜んでいるのでもなく、また悩んでいるのでもないのですか?」

「友よ。そのとおりです。」

□〔カクダいわく、――〕

「修行僧よ。あなたは、悩みもなく、また喜びもないのですか?

独り坐っている(注2)あなたに、不快が襲うことはないのですか?」

□〔尊師いわく、――〕

「神霊よ。わたしは、悩むこともない。また喜びも存在しない。独り坐っているわたしに、不快が襲うこともない」と。

□〔カクダいわく、――〕

「修行僧よ。あなたが悩むことがないのはどうしてですか? 喜びが存在しない、というのは、どうしてですか? 独り坐っているあなたに、不快が襲うことがないのは、どうしてですか?」

□〔尊師いわく、――〕

「悩みの生じた者には、喜びが起こる。喜びの生じたものには、悩みが起こる。修行僧は、喜ぶこともなく、悩むこともない。友よ。このように知れ」と。(126~127頁)

(注1)修行僧;samana.「沙門」と音写される。

(注2)独り坐っている;ゴータマ・ブッダは独り坐っているのである。1250人の修行僧を伴れているのではない。後者は恐らく後世の仮託であろう。(302頁)

第9節 ウッタラ

■王舎城が因縁(ゆかり)の場所である。

傍らに立った〈神の子〉ウッタラは、尊師のもとで、この詩をとなえた。

□「生は〔死に〕導かれる。命は短い。

老いに連れ去られた人には、救いのよるべが存在しない。

死にはこの恐怖があることを観察して、

安楽をもたらす功徳を積め」と。

□〔尊師いわく、――〕

「生は〔死に〕導かれる。命は短い。

老いに連れ去られた人には、救いのよるべが存在しない。

死にはこの恐怖があることを観察して、

世の中の誘惑のもとを捨てて、静かな安らぎを願え」と。(128頁)

第10節 孤独な人々に食を給する長者

■そこで尊師は、その夜が過ぎてから、修行僧たちに告げて言われた、――

□「修行僧たちよ。この夜、或る〈神の子〉が、夜が更けてから、容色うるわしく、ジュータ林を遍く照らして、わたしのもとに近づいた。近づいてから、わたしに敬礼して、傍らに立った。傍らに立っていたその〈神の子〉は、わたしのもとで、これらの詩をとなえた。

□『ここは、健やかなジュータ林である。仙人の集いが住みついている。

真理の王(ブッダ)が来り住みたまう。

わたくしにますます喜びを起こさせる。

行為と知識と理法と戒律と最上の生活と――。

これによって人々は浄められる。種姓によるのでもなく、また財産によるのでもない。

それ故に、賢者なる人は、自己のためになることを見て、

真理を正しく思考せよ。

このようにしたならば、人はそこで浄められる。

サーリプッタのように、智慧と戒律と心の静かな安らぎによって彼岸に達した修行者は、

これだけでも最上のものとなるであろう。』

□その〈神の子〉は、このように言った。このように言ったあとで、わたしに敬礼して、右まわりの礼をして、その場で消え失せた」と。

□このように言われて、尊者アーナンダは、尊師にこのように言った。――「尊いお方さま。かれは恐らく〈孤独な人々に食を給する長者〉という〈神の子〉だったのでしょう。〔実在していた人物としての〕〈孤独な人々に食を給する長者〉という資産者は、尊者サーリプッタを信仰していました」と。

□「みごとだ。みごとだ。アーナンダよ。思考(推測)によって達し得る限りのことを、そなたは達成した。かれは恐らく〈孤独な人々に食を給する長者〉という〈神の子〉(注)なのだ。」(129~131頁)

(注)〈神の子〉;漢訳によると、〈孤独な人々に食を給する長者〉は、この世で亡くなってからトゥシタ天に生まれ、それから天子(神の子)としてこの世に現れたということになっている。これは、後代の発展付加である。(303頁)

第3章 種々なる異学

第1節 シヴァ

■そこで尊師は、〈神の子〉シヴァに詩を以て返答した。――

「善き人々とともに坐せ。善き人々と交われ。

善き人々の説く正しい教え(注)を学び知って、

すべての苦しみから脱(のが)れる」と。(133頁)

(注)正しい教え;漢訳では「正法」とか「妙法」とか訳される。(304頁)

第2節 ケーマ

■傍らに立った〈神の子〉ケーマは、尊師のもとでこの詩をとなえた。――

「聡明でない愚人どもは、自分に対して仇敵(かたき)に対するようにふるまう。かれらは悪い行いをして、苦い報いを受ける。

もしも或る行為をしたのちに、それを後悔して、顔に涙を流して泣き叫びながら、その報いを受けるならば、その行為をしたことは善くない。

もしも或る行為をしたのちに、それを後悔しないで、嬉しく喜んで、その報いを受けるならば、その行為をいたことは善いのである。

自分の益になるものであると知り得ることを、あらかじめなすべきである。

〔無暴な〕車夫のような思いによらないで、賢者は思慮して気を落ち着けて邁進すべきである。

譬えば(注)、車夫が平坦な大道を捨てて、凹凸ある道をやって来て、車軸を毀してはげしくふさぎこむように、

愚かな者は、法(のり)から逸脱して、なしてはならぬことを実行して、死魔の口に入り、車軸を毀したように、悲しむ。」(133~134頁)

(注)譬えば……;以下は『義足経』にも引用されている。「車を道に行(はし)らすに、平なるを捨てて邪道に就き、邪なるに至りて憂患を致し、是くの如く轂輪(こくりん)を壊すが如し。法を遠ざくるも、正に亦た爾り。意は、邪行に著して痛み、愚かにも死生の苦しみを服するも、亦た轂(こしき)を壊す(がごとき)の憂ひあり。」(305頁)

第6節 赤い馬

■〔あるとき尊者は〕サーヴァッティーに住しておられた。……

□傍らに立った〈神の子〉である〈赤い馬〉は、尊師に次のように言った。

「尊いお方さま。そこにおいては、生ずることもなく、衰えることもなく、死ぬこともなく、没することもなく、生まれることもないところの世界の終極は、そこに歩いて行っても、知り、見、達することができるでしょうか?」□「友よ。そこにおいては、生ずることもなく、衰えることもなく、死ぬこともなく、没することもなく、生まれることもないところの世界の終極は、そこに歩いて行っても、知ることができないし、見ることができないし、達することができないと、わたしは説く。」

□「尊いお方さま。わたくしは昔は「赤い馬」という名の仙人でありました。ボージャの子であって、神通力あり、空中を飛行しました。わたくしには、このような形があり、速かでありました。譬えば、屈強な射手(弓取り)が、習熟し、練習し、神技を示すが、軽い矢を弓につがえると、易々と、横ぎって、ターラ樹の葉を射通して、超えて飛んで行くようなものである。

□わたくしの一足の歩みの幅は、東の海から西の海に至るほどでありました。

しこで、わたくしには、次のような願いが起こりました。――『わたくしは、歩行し世界の端に到達しましょう』と。

□ところで、わたくしは、そのような速力があり、そのような足の歩み幅がありましたが、食べたり飲んだり消化したり臥したりするときを除いては、排尿、排便の動作を除いては、睡眠や疲労を取り去るときを除いては、百年を生き、百年にわたって歩行をつづけましたが、ついに世界の端に到達することなしに、中間で亡くなってしまいました。

□尊いお方さま。すばらしいことです。不思議なことです。尊師が、このことをみごとに説かれましたのですから。――『友よ。そこにおいては、生ずることもなく、衰えることもなく、死ぬこともなく、没することもなく、生まれることもないところの世界の終極は、そこに歩いて行っても、知ることができないし、見ることができないし、達することができないと、わたしは説く』」と。

□〔尊師いわく、〕

「友よ、わたしは、世界の終極に達しないで苦しみを消滅する、と説くのではない。そうではなくて、意識もそなえ心もあるこの一尋(ひろ)の身体に即して、世界そのものと、世界の生起と、世界の止滅と、世界の止滅にみちびく道とを説示するのである。

□歩行したからとて、いつになっても世界の終極に達することはできない。

世界の終極に達しないで、苦しみから離脱することはあり得ない。

それ故に、世界を知れる人、聡明な人、清らかな行いを修めた人は、世界の終極に至る人となるであろう。

かれは、悪を静めて、世界の終極(注)を知り、この世をもかの世をも望まない」と。(143~145頁)

(注)世界の終極;世界の終極ということを、一般世人は空間的物理的な意味に解していたが、初期の仏教はニルヴァーナの意味に解していたことが解る。(307頁)

第7節 ナンダ

■傍らに立った〈神の子〉ナンダは、尊師のもとで、次の詩をとなえた。

「時は過ぎ去り、〔昼〕夜は移り行く。

青春の美しさは、次第に〔われらを〕捨てて行く。

死についてのこの恐ろしさに注視して、

安楽をもたらす善行をなせ」と。

□〔尊師いわく、――〕

「時は過ぎ去り、〔昼〕夜は移り行く。

青春の美しさは、次第に〔われらを〕捨てて行く。

死についてのこの恐ろしさに注視して、

世間の利欲を捨てて、静けさをめざせ」と。(146頁)

第10節 種々なる異学

■そこで悪魔・悪しき者は、〈神の子〉ヴェータンバリにこっそり忍び込んで、尊師のもとで、次の詩をとなえた。

「苦行と厭い離れることに専念し、ひとり遠ざかって暮らす生活を守り、

物質的なかたちに執著し、

神々の世界を喜び、

それらの人々は、来世のために正しく教えさとす」と。

□そこで尊師は、「これは悪魔・悪しき者である」と知って、悪魔・悪しき者に詩を以て答えた。――

「この世またはかの世におけるいかなるかたちでも、空中に現れる光り輝きや彩色でも、

これらはすべて〔悪魔〕ナムチの讃(ほ)めたたえるところである。

魚を殺す(=魚を釣る)ために餌が投げ込まれたのである」と。(154頁)

第Ⅲ篇(注1) コーサラ(注2)

(注1)第Ⅲ篇;この「コーサラ篇」に含まれている20のスッタ(短編)は、すべて釈尊とコーサラ国王パーセナディとの交友、対話に関するものである。

(注2)コーサラ;ガンジス河の北方に位置し、ネパールのあたりまで領域がひろがっていた国。その首都がサーヴァティー市で、その郊外の丘の上にジュータ林(祇園)が位置していた。

第1章

第2節 人

■〔あるとき尊師は、〕サーヴァティー市の〔ジュータ林・〈孤独な人々に食を給する長者〉の〕園に〔住しておられた〕。

□そのとき、コーサラ国のパセーナディ王は、尊師のましますところにおもむいた。近づいてから尊師に挨拶をして、傍らに坐った。

□傍らに坐って、コーサラ国のパセーナディ王は、尊師に次のように言った、――「尊いお方さま。どれだけの性質が、人の内部に生じて、その人の不利、苦悩、不快適な暮しとなるのですか?」

「大王さま。3つの性質が、人の内部に生じて、その人の不利、苦しみ、不快適な暮らしとなるのです。その3つとは何であるか?貪り(注1)という性質は、人の不利、苦しみ、不快適な暮らしとなるのです。また憎しみ(注2)という性質は、人の内部に生じて、その人の不利、苦しみ、不快適な暮らしとなるのです。迷妄(注3)は、人の内部に生じて、その人の不利、苦しみ、不快適な暮らしとなるのです。以上これらの3つの性質は、人の内部に生じて、その人の不利、苦しみ、不快適な暮らしとなるのです」と。

□〔尊師は次のように言われた、――〕

「貪りと怒りと迷妄とが、己れに生じると、悪心ある人を害する。――

茎の細い植物が、実が生(な)ると、〔害されて倒れる〕ようなものである」と。(161~162頁)

(注1)貪ぼり;lobha.『雑阿含経』にも「貪欲」。

(注2)憎しみ;dosa.『雑阿含経』にも「瞋恚(しんに)」。

(注3)迷妄;moha.『雑阿含経』にも「愚癡(ぐち)」「癡」。(313頁)

第4節 愛しき者

■〔あるとき尊師は、〕サーヴァティー市の〔ジュータ林・〈孤独な人々に食を給する長者〉の〕園に〔住しておられた〕。

□傍らに坐したコーサラ国王パセーナディは、尊師に次のように言った、――

「尊いお方さま。ここでわたくしが独り退いて沈思しているときに、心にこのような思考がおこりました。――『自己は、どのような人々にとって愛しき者であるのか? また自己は、どのような人々にとっては愛しからざる者であるのか?』と。そのとき、わたくしは次のようにおもいました。」

□身体によって悪行を行い、ことばによって悪行を行い、心によって悪行を行う人々がいるが、かれらにとっては自己は愛しからぬ者である。

さらにまたかれらは『われらにとっては自己は愛しい者である』と言うかもしれないが、かれらにとっては実は、自己は愛しからぬ者である。それは何故であろうか? 愛しくない者が愛しくない者に対してなすことを、かれらは、みずから自分のためにしているのである。それ故に、かれらにとって自己は愛しき者ではないのである。

□だれでも、身体によって善行をなし、ことばによって善行をなし、心によって善行をなすならば、その人々にとっては、自己は愛しきものである。たといかれらが『自己は、われらにとって愛しからざるものである』と言うとしても、かれらにとっては自己は愛しいものなのである。それは何故であるか? 愛しい者が愛しい者のためになすことを、かれらは、みずから自分のためにしているのである。それ故に、かれらにとっては自己は愛しいものなのである」と。

□「大王さま。そのとおりでございます。そのとおりでございます。だれでも身体によって、ことばによって、こころによって悪行をなすならば、その人々にとっては、自己は愛しいものではない。それ故に、かれらにとっては自己は愛しからざるものなのである。ところが、だれでも、身体によって善行をなし、〔ことばによって善行をなし、心によって善行をなすならば、その人々にとっては、自己は愛しきものである。〕それ故にかれらにとっては自己は愛しいものなのである(注)。

□もしも自分を愛しいものと知るならば、自分を悪と結びつけてはならない。悪いことを実行する人が楽しみを得るということは、容易ではないからである。

死に襲われて、人間としての生存を捨てつつある人にとっては、何が自分のものなのであろうか。かれは、何を取って、行くのであろうか。

何が、かれに従うものであろうか。――影がそのからだから離れないように。

人がこの世でなす善と悪との両者は、その人の所有するものであり、人はそれを執って〔身につけて〕おもむく。それは、かれに従うものである。――影がそのからだから離れないように。

それ故に善いことをなして、来世のための功徳を積め。

諸々の功徳は、あの来世において人々のよりどころとなる。」(163~165頁)

(注)自己は愛しいものなのである;結局、身体と、ことばと、心とによって善行を行うことが自己を愛する所以であるというのである。(314頁)

第5節 自らを護る人

■傍らに坐したコーサラ国王パセーナディは、尊師に次のように言った。

□「尊いお方さま。ここでわたくしが独り隠れて坐し沈思しているときに、このような心の思考がおこりました。――『いかなる人々自己は護られていないのか? 』と。そのとき、わたくしはこのようにおもいました。

□「だれでも、身体によって悪行をなし、ことばによって悪行をなし、心によって悪行をなすならば、その人々の自己は護られていないのである。たといかれらが、『象軍が護れよかし』『騎兵隊が護れよかし』『戦車隊が護れよかし』『歩兵隊が護れよかし』と言ったとしても、かれらの自己は護られていないのである。それは何故であるか? 外面的にこのように護ることは、内面的に護ることではないからである。それ故にかれらの自己は護られていない。

□だれでも、身体によって善行をなし、ことばによって善行をなし、心によって善行をなすならば、その人々の自己は護られている。たといかれらが、『象軍が護らないように』『騎兵隊が護らないように』『戦車隊が護らないように』『歩兵隊が護らないように』と言ったとしても、かれらの自己は護られているのである。それは何故であるか? 内面的にこのように護ることは、外面的に護ることではないからである。それ故にかれらの自己は護られている」と。

□「大王さま。そのとおりでございます。そのとおりでございます。だれでも身体によって悪行をなし、ことばによって悪行をなし、こころによって悪行をなすならば、その人々の自己は護られていないのです。たといかれらが、『象軍が護れよかし』『騎兵隊が護れよかし』『戦車隊が護れよかし』『歩兵隊が護れよかし』と言ったとしても、かれらの自己は護られていないのである。それは何故であるか?このように護ることは 外面的であり、内面的に護ることではないからです。それ故に、かれらの自己は護られていません。しかし、だれでも、身体によって善行をなし、ことばによって善行をなし、心によって善行をなすならば、その人々の自己は護られているのです。たといかれらが、『象軍が護らないように』『騎兵隊が護らないように』『戦車隊が護らないように』『歩兵隊が護らないように』と言ったとしても、かれらの自己は護られているのです。それは何故であるか?このように 護ることは内面的であり、外面的に護ることではないからである。それ故にかれらの自己は護られているのであります。

□身について慎しむのは善い。ことばについて慎しむのは善い。心について慎しむのは善い。あらゆることについて慎しむのは善いことである。あらゆることについて慎しんで恥じる(注)人は、〈まもる人〉と呼ばれる。」(165~166頁)

(注)慎んで恥じる;『雑阿含経』には「慚愧(ざんき)」と訳している。(315頁)

第6節 少数の人々

■〔あるとき尊師は、〕サーヴァティー市の〔ジュータ林・〈孤独な人々に食を給する長者〉の〕園に住しておられた。

□傍らに坐したコーサラ国王パセーナディは、尊師に次のように言った、――。

「尊いお方さま。ここでわたくしが独り隠れて坐し沈思しているときに、このような心の思考がおこりました。――『世の中では、種々莫大な富を得ても、酔わず、なまけず、愛欲に耽らず、生ける者どもに対して過(あやま)ったことをしない人々は、少ない。ところが世の中では、莫大な富を得て、酔い、なまけ、愛欲に耽り、生ける者どもに対して過ったことをする人々は、さらに多い 』と。

□「大王さま。そのとおりです。そのとおりです。世の中では、種々莫大な富を得ても、酔わず、なまけず、愛欲に耽らず、生ける者どもに対して過ったことをしない人々は、少ない。ところが世の中では、莫大な富を得て、酔い、なまけ、愛欲に耽り、生ける者どもに対して過ったことをする人々は、さらに多い

愛欲の享楽に執着し、愛欲を貪って、迷っている人々は、道を外れるのに気がつかない。鹿がわなにかけられても〔気づかぬ〕ようなものである。

のちにかれらには苦渋がある。その報いは悪い。」(167~168頁)

第7節 裁決

■傍らに坐してコーサラ国王パセーナディは尊師に次のように言った、――

□「尊いお方さま。わたくしはここで裁決の座に坐して、大財産のある王族、大財産のあるバラモン、大財産のある資産者が、富裕で、大いに財貨あり、金銀豊に、資財豊かで、財宝・穀物に豊かであるのに、欲望に因って、欲望にもとづいて、欲望の故に、わざとことさらに偽りを語るのを見ました。そこで、わたくしは、このように思いました。――『今やわたしは〔司法、行政の〕裁決には飽き飽きした。〔将軍である〕君が、これから裁決を行って世に名声を高めるがよい』」と。

□「大王さま。大財産のある資産者が、富裕で、大いに財貨あり、金銀豊に、資財豊かで、財宝・穀物に豊かであるのに、欲望に因って、欲望にもとづいて、欲望の故に、わざとことさらに偽りを語るが、そういうことをすると、かれらにとって永いあいだ、ためにならず、苦しみをもたらすことになるでしょう。

□愛欲の享楽に執着し、愛欲を貪って、迷っている人々は、道を外れるのに気がつかない。――張られた簗籠に気がつかぬ魚のようなものである。

のちにかれらには苦渋がある。その報いは悪い。」(168~169頁)

第8節 マッリカー(注)

■〔あるとき尊師は、〕サーヴァティー市のジュータ林・〈孤独な人々に食を給する長者〉の園に住しておられた。

□そのときコーサラ国王パセーナディは、王妃マッリカー夫人とともに、みごとな宮殿のうえにいた。

□そのときコーサラ国王パセーナディは、マッリカー妃に言った、――

「そなたには、自分よりももっと愛しい人が、だれかいるかね」と。

□「大王さま。わたくしには、自分よりももっと愛しい人はおりません。あなたにとっても、ご自分よりのもっと愛しい人がおられますか?」

□「マッリカーよ。わたしにとっても、自分よりもさらに愛しい他の人は存在しない。」

□そこでコーサラ国王パセーナディは、宮殿から下りて、尊師のおられるところにおもむいた。近づいてから、尊師に挨拶して、傍らに坐した。傍らに坐したコーサラ国王のパセーナディは、尊師に向かって次のように言った、――

□「尊いお方さま。ここでわたしは、マッリカー妃とともに、みごとな宮殿の上にいて、妃にこのように言いました。――『そなたには、自分よりももっと愛しい人が、だれかいるかね?』と。そのように言われて、マッリカー妃は、わたくしにこのように申しました。――『大王さま。わたくしには、自分よりももっと愛しい人はおりません。あなたにとっても、ご自分よりのもっと愛しい人がおられますか?』と。このように言われたので、わたくしはマッリカーに申しました。――『マッリカーよ。わたしにとっても、自分よりもさらに愛しい他の人は存在しない』と。」

□そこで尊師はこのことを知って、その時、この詩を唱えられた。――

「どの方向に心でさがし求めてみても、自分よりもさらに愛しいものをどこにも見出さなかった。そのように、他の人々にとっても、それぞれの自己が愛しいのである。それ故に、自己を愛する人は、他人を概してはならない」と。(169~170頁)

(注)マッリカー;彼女はもとは「困窮せる花輪職人の娘」であったが、のちにパセーナディ王の妃となり、聡明を以て知られていた。

第10節 束縛

■そのときコーサラ国王パセーナディは、多くの人々を捕縛していた。或る人々はで械(かせ)で縛られ、或る人々は鎖で縛られていた。

□そのとき多勢の修行僧たちは、朝早く衣を着けて、衣と鉢とを手にとって、托鉢のためにサーヴァティー市の中を托鉢のために歩き廻って、食後に、鉢をもとにもどして、尊師のおられるところにおもむいた。近づいてから、尊師に挨拶して、傍らに坐した。

□傍らに坐したそれらの修行僧たちは、尊師に向かって次のように言った。――

「尊いお方! ここでコーサラ国王パセーナディは、多くの人々を捕縛しています。或る人々は械で縛られ、或る人々は鎖で縛られています」と。

□そこで尊師は、このことを知って、そのとき、次の詩を唱えられた。――

「鉄や木材や麻紐でつくられた枷(かせ)を、思慮ある人々は堅固な縛(いましめ)とは呼ばない。

〔愚鈍な人が、〕宝石や耳輪・腕輪をやたらにほしがること、妻や子にひかれること、――これが堅固な縛であると、思慮ある人々は言う。

それは、低く垂れ、暖く見えるけれども、脱れ難い。

かれらは、これをさえも断ち切って、顧みることなく、欲楽をすてて、遍歴修行する。」

第2章

第1節 結髪の行者

■あるとき尊師は、サーヴァティー市において、〈東の園〉にある〈ミガーラの母の宮殿(注)〉に住しておられた。

□そのとき、尊師は夕暮れ時に沈思瞑想から立ち上がって、門外の小屋に坐しておられた。

ときにコーサラ国のパセーナディ王は、尊師のましますところにおもむいた。近づいてから尊師に挨拶して、傍らに坐した。

□そのときに、また、7人の結髪行者と、7人のニガンダの徒と、7人の〈裸の行者〉と、7人の〈1衣の行者〉と、7人の遍歴行者とが、腋の下の毛や爪や身体の毛を長くしたままで、種々の旅行道具を手にもって、尊師から遠からざるところを通りすぎた。

□ときにコーサラ国のパセーナディ王は、座席から立ち上って、上衣を一方の(右の)肩にかけて、右の膝を地につけて、7人の結髪行者と、7人のニガンダの徒と、7人の〈裸の行者〉と、7人の〈1衣の行者〉と、7人の遍歴行者に向って、合掌して、3度、名をとなえた、――「尊い方々! わたくしはコーサラ国のパセーナディ王であります。わたくしはコーサラ国のパセーナディ王であります」と。

□さて、コーサラ国のパセーナディ王は、それらの7人の結髪行者と、7人のニガンダの徒と7人の〈裸の行者〉と7人の〈1衣の行者〉と、7人の遍歴行者とが立ち去ってまもなく、尊師のもとにおもむいた。近づいてから、尊師に挨拶して、傍らに坐した。

□傍らに坐したコーサラ国のパセーナディ王は、尊師に向かって次のように言った。――

「尊いお方! これらの人々は、世の中における〈敬まわるべき人々〉あるいは〈敬まわるべき人の境地に至る道〉に達した人々のうちのいずれかの方々なのでしょうか?」と。

□「大王さま。あなたは在家の人であり、愛欲を享楽し、子たちの多くの悩みごとのうちに住みつき、カーシー国産の栴檀(せんだん)を受用し、花輪や芳香や塗料を用い、金銀を受けたもっています。あなたが『 これらの人々が、〈敬まわるべき人々〉であるか、あるいは〈敬まわるべき人の境地に至る道〉に達したか』ということを知るのは、困難であります。

□大王さま。かれらが戒しめをまもっているかどうかは、共に住んでみて、知られるのです。それも長いあいだ共に住んでみて、知られることであって、僅かの期間では知られません。また気をつけて注意してみて解るのであって、注意していなければ解りません。また洞察力があってこそ知り得るのであって、愚鈍であっては解りません。

□かれらが清浄であるかどうかは、共に話し合ってみて、知られるのです。それも長いあいだ共に話し合ってみて知られることであって、僅かの期間では知られません。また気をつけて注意してみて解るのであって、注意していなければ解りません。また洞察力があってこそ知り得るのであって、愚鈍であっては解りません。

□かれらがしっかりとしているかどうかは、災難に出会ってみて知られるのです。それも、長い間にわたって知られることであって、僅かの期間では知られません。また気をつけて注意してみて解るのであって、注意していなければ解りません。また洞察力があってこそ知り得るのであって、愚鈍であっては解りません。

□かれらが智慧があるかどうかは、会談してみて、知られるのです。それも長いあいだ共に会談してみて知られることであって、僅かの期間では知られません。また気をつけて注意してみて解るのであって、注意していなければ解りません。また洞察力があってこそ知り得るのであって、愚鈍であっては解りません」と。

□「尊いお方。すばらしいことです。みごとです。――尊師が『大王さま。あなたは在家の人であり、愛欲を享楽し、……洞察力があってこそ知り得るのであって、愚鈍であっては解りません。愚鈍であっては解りません』と、みごとに説かれたことは。

□尊いお方。これらのわが官吏、密偵、偵察者は、国をへめぐって戻ってきます。かれらが先ず偵察したことにもとづいて、わたしはのちに結論を下します。

□今、かれらが、その塵汚れを除き去り、よく沐浴し、よく香油を塗り、鬢髪をととのえ、白衣をつけて、五欲にまかせ、充分にみたしてやってから、偵察に出かけるようにさせましょう。」

□そこで、尊師はこのことを知って、そのとき次の詩をとなえられた。――

「端麗な容貌によっても、いかなる人〔の心〕も識り得ない。動作を見ることによっても、信用するな。

この世では、よく身を慎んでいる人のように見せかけて、〔その実は〕慎みのない人々が、この世を闊歩している。

まがいものであり、泥土でつくられた耳輪のようなものもある。金のメッキがしてある半マーシャ(重量の名)の銅のように、或る人々はつき従う仲間をつれて歩き廻っているが、内心は不浄で、外側だけ立派なのである」と。(175~178頁)

(注)ミガーラの母の宮殿;ミガーラは、サーヴァッティーの長者であったPunnavaddhanaとその夫人Visakhaとの長子であった。したがって「ミガーラの母」とはヴィサカー夫人のことである。彼女は篤信者で、女性パトロンのうちの弟一人者であった。ここで言及されている宮殿は、ミガーラの母の寄進によって建てられたものである。(320頁)

第2節 五人の王

■〔あるとき尊師は、〕サーヴァティー市に住しておられた。

□その時コーサラ国のパセーナディ王を上首とする5人の王は、五欲を満たし、すっかり楽しみ、五欲の対象に取り巻かれていたが、かれのあいだで、次のことを論議した、――諸々の欲楽のうちで最上のものは、何だろう、と。

□そこで、或る人々は次のように言った、――「諸々の欲楽のうちでは、〔眼に見える〕色かたちが最上である」と。或る人々はこのように言った、――「諸々の欲楽のうちでは、〔妙なる〕音声が最上である」と。或る人々はこのように言った、――「諸々の欲楽のうちでは、芳香が最上である」と。或る人々はこのように言った、――「諸々の欲楽のうちでは、美味が最上である」と。或る人々はこのように言った、――「諸々の欲楽のうちでは、触れられるものが最上である」と。そのとき、それらの諸王は互いに他人を説得することができなかった。

□その時コーサラ国のパセーナディ王は、諸王に次のように言った、――「来れ、諸君よ。われらは、尊師のましますところへ行こう。近づいて尊師にこのことを尋ねよう。尊師がわれらに説いて決めてくださるとおりに、われらはそれを頂いて受けることにしよう」と。

□「君よ。そうだ」と、諸王はコーサラ国のパセーナディ王に答えた。

□そこでその五人の王は、パセーナディ王を首(はじめ)として、尊師のましますところにおもむいた。近づいて尊師に挨拶してから、傍らに坐した。

□傍らに坐したコーサラ国のパセーナディ王は、尊師に次のように言った。――「尊いお方! ここに、われら五人の王は、五欲を満たし、すっかり楽しみ、五欲の対象に取り巻かれていますが、わたくしたちのあいだで次のことを論議しました。――『諸々の欲楽のうちで最上のものは、何だろう』と。或る人々は次のように言いました、――『諸々の欲楽のうちでは、〔眼にみえる〕色かたちが最上である』と。或る人々はこのように言いました、――『諸々の欲楽のうちでは、〔妙なる〕音声が最上である』と。或る人々はこのように言いました、――『諸々の欲楽のうちでは、芳香が最上のものである』と。或る人々はこのように言いました、――『諸々の欲楽のうちでは、美味が最上である』と。或る人々はこのように言いました、――『諸々の欲楽のうちでは、触れられるものが最上である』と。諸々の欲楽のうちで、最上のものは何でしょうか?」と。

□「大王さま。『快適感に帰着するものが、五欲のうちで最上のものである』と、われは説く。それらの色かたちは、ある人にとっては快適であるが、他の人にとっては不快適である。人がある色かたちによって心喜び、思いが足りたならば、さらに他の、あるいはすぐれた色かたちを求めることをしない。それらの色かたちは、かれにとっては最高のものであり、無上のものである。

□それらの音声、……それらの香り、……それらの味、……それらの触れられるものは、或る人にとっては快適であるが、他の人にとっては不快適である。人が或る〈触れられるもの〉によって心喜び、思いが足りたならば、それらの〈触れられるもの〉とは異なった、さらに他の、あるいはすぐれた〈触れられるもの〉を求めることをしない。それらの〈触れられるもの〉は、かれにとっては最高のものであり、無上のものである。」

□そのときチャンダナンガリカという在俗信者がかれらの集まりのうちに坐していた。そこで在俗信者チャンダナンガリカは、座から起って、上衣を一方の肩にかけて、尊師に合掌礼拝して、尊師に次のように言った、――「尊師さま。わたしには或る思いが顕われました。思い浮ぶことがあります」と。

□「チャンダナンガリカよ。その思いを顕わせ」と尊師は言われた。

□そこでチャンダナンガリカという在俗信者は、尊師の面前で、その場にふさわしい詩で讃嘆した。

「香り芳しい紅蓮華が、朝早く開いて、

香りの去らぬようなものである。

アンギーラサ(=ブッダ)の輝きたまうを見よ。――

空中に太陽が輝くように。」

□そこでその五人の王は、在俗信者チャンダナンガリカに五枚の衣を着せた。

□次いで在俗信者チャンダナンガリカはその五枚の上衣を尊師に着せた。(178~181頁)

第3節 大食

■〔あるとき尊師は、〕サーヴァティー市に住しておられた。そのときコーサラ国王パセーナディは、1ドーナの量の炊いたご飯を食べるのを常としていた。

□さてコーサラ国王パセーナディは、食べおわって、大きな息をついて、尊師のもとにおもむいた。近づいてから尊師に挨拶敬礼して、傍らに坐した。

□そこで、尊師は、かのコーサラ国王パセーナディが食べおわって大きな息をついたのを知って、そのとき次の詩を唱えた。

「つねに心を落ち着けて、食物を得ても食事の量を〔節することを〕しっている人にとっては、諸々の〔苦痛の〕感覚は弱まってゆく。寿命をたもちながら、徐々に老いる。」

□そのとき若き学生スダッサナは、コーサラ国王パセーナディの背後に立っていた。

□そこでコーサラ国王パセーナディは、若き学生スダッサナに告げた。――「さあ、スダッサナよ。お前は尊師のもとでこの詩を習って暗記して、わたしの食事のときに唱えよ。わたしはお前に、毎日の手当として、百銭ずつ常時の給与をしてやるよ」と。

□「王さま。かしこまりました!」と、若き学生スダッサナは、コーサラ国王パセーナディに答えて、ついで尊師のもとでこの詩を習って暗記して、コーサラ国王パセーナディの食事のときに唱えた、――

「つねに心を落ち着けて、食物を得ても食事の量を〔節することを〕しっている人にとっては、諸々の〔苦痛の〕感覚は弱まってゆく。寿命は徐々に老い朽ちて、過ぎ去って行く。」

□そこでコーサラ国王パセーナディは、順次食物の量を減らして、ついには1ナーリカの飯だけに制限するに至った。

□さてコーサラ国王パセーナディは、のちの時期に身体が健やかになり、手で身体を撫でて、その時にこの感興のことばを発した、――「尊師は二つの利を以てわたしをあわれんで下さった。――目のあたり見る現世の利と、来世の利とで」と。(181~183頁)

第5節 戦争についての二つの説示(2)

■さて、多くの修行僧たちは、朝早く、衣を着けて、鉢と衣とを手に執って、托鉢のためにサーヴァティー市に入っていった。かれらはサーヴァティー市の中を托鉢のために歩き廻って、食事をすめせたあとで、鉢をもとにもどして、尊師のところにおもむいた。近づいてから尊師に敬礼して、傍らに坐した。傍らに坐した修行僧たちは、尊師に次のように言った。――

□「尊いお方さま! マガダ国王アジャータサットゥー、〈ヴィーデーハ国からの女〉の子、は、四軍を装備して、コーサラ国王パセーナディに対して、カーシー国に攻め入りました。コーサラ国王パセーナディは『マガダ国王アジャータサットゥー、〈ヴィーデーハ国からの女〉の子――が、四軍を装備して、われに対してカーシー国に攻め入ったそうだ』ということを聞きました。そこで

コーサラ国王パセーナディは、四軍を装備して、マガダ国王アジャータサットゥー、〈ヴィーデーハ国からの女〉の子、を〔カーシーで〕迎え討ちました。さてマガダ国王アジャータサットゥー、〈ヴィーデーハ国からの女〉の子、と、コーサラ国王パセーナディとが、戦いました。その戦闘において、コーサラ国王パセーナディは、マガダ国王アジャータサットゥー、〈ヴィーデーハ国からの女〉の子、に打ち勝ち、そして生け捕りにしました。そのときコーサラ国王パセーナディは、このように思いました。――『このマガダ国王アジャータサットゥー、〈ヴィーデーハ国からの女〉の子、は、害われることのなかった〔不敗の〕わたしに敵対したけれども、かれはわたしの甥である。わたしは、マガダ国王アジャータサットゥー、〈ヴィーデーハ国からの女〉の子、の、すべての象軍を奪い、すべての騎兵隊を奪い、すべての戦車隊を奪い、すべての歩兵隊を奪って、かれを生かしておいて放免しよう』と。そこでコーサラ国王パセーナディは、マガダ国王アジャータサットゥー、〈ヴィーデーハ国からの女〉の子、の、すべての象軍を奪い、すべての騎兵隊を奪い、すべての戦車隊を奪い、すべての歩兵隊を奪って、かれを生かしておいたまま放免しました」と。

□そこで、尊師は、このことを知って、そのとき次の詩を唱えられた、――

「或る物が人に役立つあいだは、その人は〔他人から〕略奪する。次いで、他の人々がかれから掠め取るときに、〔他人から〕掠め取った人が、略奪されるのである。

悪の報いが実らない間は、愚人は、それを当然のことだと考える。

しかし悪の実ったときに、

愚者は苦悩を受ける。

殺す者は殺され、怨む者は怨みを買う。また罵りわめく者は他の人から罵られ、怒りたける者は他の人から怒りを受ける。

業の〔輪の〕回転によって、掠め取られた者が掠め取る。」(187~188頁)

第7節 努め励むこと(1)

■〔あるとき尊師は、〕サーヴァティー市に住しておられた。

□かれは傍らに坐した。傍らに坐したコーサラ国王パセーナディは、尊師に次のように言った、――

「尊いお方さま。現世の利と来世の利と、両(ふた)つの利をたもっている1つの事柄がありましょうか?」と。

□「大王さま。現世の利と来世の利と、両(ふた)つの利をたもっている1つの事柄があります。」

□「大王さま。〈現世の利と来世の利と、両(ふた)つの利をたもっている1つの事柄〉とは、〈努め励むこと〉です。譬えば、いかなる歩き廻る生きものの足跡も、すべて象の足跡のうちにおさまり、象の足跡は大いさに関しては生きものの足跡のうちでは最上のものであると説かれているように、〔この〈努め励むこと〉という〕1つの事柄は、現世の利と来世の利と、両つの利をたもっているのです。」

□「生命(長寿)と健康と美貌と、天界に生まれることと、高貴の家に生まれることとますます広大なる喜びを追求するならば、……

福徳を生ずる行いにつとめはげむことを、賢者はほめたたえる。

つとめはげむ賢者は、(次に挙げる)2つの事柄を体得する。

1つは現世に関する事柄であり、他の1つは来世に関する事柄である。

思慮ある人は、事柄を見きわめてさとるから、〈賢明な人〉と呼ばれるのである。」(189~190頁)

第8節 努め励むこと(2)

■〔あるとき尊師は、〕サーヴァティー市に住しておられた。

□かれは傍らに坐した。傍らに坐したコーサラ国王パセーナディは、尊師に次のように言った、――

「尊いお方さま。ここで、わたくしが独り隠れて沈思していたときに、このような考えが、わたくしの心に起こりました。――『尊師は理法をみごとにお説きになりました。しかし、それは、善き友、善き仲間、善き人々に取り巻かれている人のためのものであり、悪い友、悪い仲間、悪い人々に取り巻かれている人のためではありません』」と。

□「大王さま。そのとおりです。わたしは理法をみごとに説きました。しかしそれは、善き友、善き仲間、善き人々に取り巻かれている人のためのものであり、悪い友、悪い仲間、悪い人々に取り巻かれている人のためではありません。

□大王さま。或るとき、わたしは、サッカ(釈迦)族の都邑に住んでいました。

□そのとき、修行僧アーナンダが、わたしのいるところに近づいて来ました。近づいてから、わたしに恭しく挨拶をして、傍らに坐しました。傍らに坐した修行僧アーナンダは、わたしに次のように申しました。――『尊いお方さま? 善き友のあること、善き仲間のいること、善き人々に囲まれていることは、清浄行の半ばに近い』と。

□このように言われたので、わたしは修行僧アーナンダに、次のように言いました。――『アーナンダよ。そうではない。そうではない。善き友をもつこと、善き仲間のいること、善き人々に取り巻かれていることは、清浄行の全体である。善き友である修行僧については、このことを期待することができる。善き友、善き仲間、善き人々に取り巻かれている修行僧ならば、〈8つの正しい道〉を盛んならしめるであろう。

□では、アーナンダよ、修行僧はどのようにしたならば、善き友、善き仲間、善き人々に取り巻かれたものとして〈8つの正しい道〉を盛んならしめることになるのであるか?

□ここに〈遠ざかり離れること〉にもとづき、欲情を離れることにもとづき、煩悩を捨て去ることに向う〈正しい見解〉を修め、〈正しい意向〉を修め、〈正しいことば〉を修め、〈正しい行動〉を修め、〈正しい生活〉を修め、〈正しい努力〉〈正しい落ち着き〉を修め、遠ざかり離れることにもとづき、欲情を離れることにもとづき、止滅にもとづき、煩悩を捨て去ることに向う〈正しい精神統一〉を修める。このようにするならば、修行僧は、善き友、善き仲間、善き人々に取り巻かれたものとして、〈8つの正しい道〉を修めることになり、〈8つの正しい道〉を盛んならしめることになる。

□それ故に、このようなしかたで理解されねばならない。〈善き友をもち、善き仲間をもち、善き人々に取り巻かれていること〉というこのことが、清浄行のすべてである。

□アーナンダよ。実に、わたしを善き友(注)とすることによって、〈(迷いの世界のうちに)生まれる〉という性質をもっている人々は、〈生まれること〉から解脱するのである。〈老いる〉という性質をもっている人々は、〈老い〉から解脱するのである。〈病い〉という性質をもっている人々は、〈病い〉から解脱するのである。〈死〉という性質をもっている人々は、〈死〉から解脱するのである。〈悲しみ、嘆き、苦しみ、悩み、悶え〉という性質をもっている人々は、〈悲しみ、嘆き、苦しみ、悩み、悶え〉から解脱するのである。〈善き友をもち、善き仲間をもち、善き人々に取り巻かれていること〉が清浄行のすべてであるということは、このようなしかたで理解されねばならない。』

□大王さま。それ故に、あなたはこのように学ばねばなりません。――『われは善き友となろう。善き仲間となり、善き人々に取り巻かれているようになろう』と。実にあなたは、このように学ばねばなりません。善き友であり、善き仲間であり、善き人々に取り巻かれているあなたは、1つの事柄、すなわち〈善きことをなすのに努め励む〉ということにもとづいて住しなければならない、と。(191~193頁)

(注)善き友;ゴータマ・ブッダという人は、人々にとって〈善き友〉であるにすぎないのである。(岡野注;ゴータマ・ブッダという人は、自分では人々にとって〈善き友〉であるにすぎないと思っているが、人々にとってはとても、〈善き友〉であるとは思えなく、やはり仏様なのである)

第9節 子がいない(1)

■サーヴァティー市が因縁(ゆかり)の場所である。

□時にコーサラ国王パセーナディは、日中に(注1)尊師のもとにおもむいた。近づいてから、尊師に恭しく挨拶して傍らに坐した。傍らに坐したコーサラ国王パセーナディに、尊師は次のように言われた、――「大王さま、まあ、あなたはどうして日中にいらっしゃったのですか?」と。

□「尊いお方よ。ここにサーヴァッティー市で或る資産家なる長者が亡くなりました。かれには子がいなかったので、わたくしは、その資産を没収して、王宮に持ってこさせて、それから、ここに来ました。かれには八百万金の黄金がありました。況んや銀については言を俟(ま)ちません。ところで、その資産家なる長者は、このような食物を食べていました。――糠を混ぜた酸っぱい粥なのです。かれは、このような衣服を着ていました。――三つの片(きれ)を綴じ合わせた麻布の衣を着ていたのでした。かれは、このような乗物に乗っていました。――木の葉で覆った天蓋のついたボロ車に乗っていたのです。」

□「大王さま。そのとおりです。そのとおりです。つまらぬ人は、莫大な富を得ても、自分を楽しませず、喜ばせず、父母を楽しませず、喜ばせず、妻子を楽しませず、喜ばせず、奴僕・召使い・使用人を楽しませず、喜ばせず、友人・朋輩を楽しませず、喜ばせず、道の人・バラモンたちに対し、〈上界に昇らせ、天にみちびき、楽の果報を得させ、天の世界に生まれさせる布施〉をしません。かれのその財産はこのように正しく用いられることなしに、国王に没収され、盗賊に盗まれ、火に焼かれ、水に流されてしまい、自分の気に入らぬ相続人に奪われてしまう。財産は、正しく受用されないならば、こういうふうに、滅びてしまい、充分に享受されないのです。

□譬えば、人間のいない地域に蓮池があり、その水は清く澄んで、清冷で、味がよく、色が白く、岸がしっかりとつくられていて、美麗であったとしても、その水を人が奪い去ることもなく、飲まず、浴せず、機縁に応じて適当に用いることもないように、そのようにその水も正しく受用されないようならば、滅び去ってしまい、受用されることがないであろう。それと同じく、つまらぬ人は、莫大な富を得ても、自分を楽しませず、喜ばせず、父母を楽しませず、喜ばせず、妻子を楽しませず、喜ばせず、奴隷・召使い・使用人を楽しませず、喜ばせず、友人・朋輩を楽しませず、喜ばせず、道の人・バラモンたちに対し、〈天にみちびき、楽の果報を得させて、天の世界に生まれさせる布施〉をしません。かれのその財産はこのように正しく用いられることなしに、国王に没収され、盗賊に盗まれ、火に焼かれ、水に流されてしまい、自分の気に入らぬ相続人に奪われてしまう。こういうわけで、財産は、正しく受用されないならば、滅びてしまい、充分に享受されないのです。

□大王さま。ところが、立派な人は、莫大な富を得ると、自分を楽しませ、喜ばせ、父母を楽しませ、喜ばせ、妻子を楽しませ、喜ばせ、奴隷・召使い・使用人を楽しませ、喜ばせ、友人・朋輩を楽しませ、喜ばせ、道の人・バラモンたちに対し、〈上界に昇らせ、天にみちびき、楽の果報を得させて、天の世界に生まれさせる布施〉をします。かれのその財産はこのように正しく用いられ、国王も没収せず、盗賊も盗まず、火も焼かず、水も流さず、自分の気に入らぬ相続人が奪うこともありません。こういうわけですから、財産は、正しく受用されると、充分に享受され、滅びてしまうことはないのです。

□譬えば、――村あるいは都邑から遠からぬところに蓮池があり、その水は清く澄んで、清冷で、味がよく、色が白く、岸がよくつくられていて、美麗であったとしよう。その水を人々は、あるいは運び、あるいは飲み、あるいは浴し、あるいは機縁に応じて適当に用いるであろう。そのように、その水も正しく受用されるならば、充分に受用されて、滅びることはない。それと同じく、立派な人は、莫大な富を得て、自分を楽しませ、喜ばせ、父母を楽しませ、喜ばせ、妻子を楽しませ、喜ばせ、奴隷・召使い・使用人を楽しませ、喜ばせ、友人・朋輩を楽しませ、喜ばせ、道の人・バラモンたちに対し、〈上昇に昇らせ、天にみちびき、楽の果報を得させ、天の世界に生まれさせる布施〉をします。かれのその財産はこのように正しく用いられ、国王も没収せず、盗賊も盗まず、火も焼かず、水も流さず、自分の気に入らぬ相続人が奪うこともありません。こういうわけですから、財産は、正しく受用されるならば、充分に享受されて、しかも滅びることがない。」

□〔尊師は言われた、――〕

「人のいない地域(=荒野)に清冷な水があっても、それを飲まぬならば、涸れて消え失せるように、

愚劣な人が富を得ると、自ら用いることなく、他人にも与えない。

健き人・智慧のある人は、富を得たならば、自ら用い、またなすべきことをなす。

牡牛のような人(注2)であるかれは、親族の仲間を養って、人から非難されることなく、天の場所におもむく」と。(197~194頁)

(注1)日中に;暑熱のインドでは、日中に歩くと、「暑い」を越して、「痛い」と感じる。日中には動かないのが慣わしである。だから「この暑い日中に、どうしてここまで来られたのですか?」と尋ねたのである。

(注2)牡牛のような人;人間のうちで特にすぐれた人を「牡牛のような人」と呼んでいるのである。(329~330頁)

第10節 子がいない(2)

■「尊いお方さま。こういうわけで、その資産者たる長者は、こういうわけで大叫喚(きょうかん)地獄に生まれたのです。」

□「大王さま。その資産者たる長者は、こういうわけで大叫喚(きょうかん)地獄に生まれたのです。」

□「穀物も財も、銀も金も、またいかなる所有物があっても、

奴隷も、傭人も、使い走りの者も、またかれに従属して生活する者どもでも、

どれもすべて連れて行くことはできない。すべてを捨てて行くのである。

ひとが身体でなし、またことばや心でなすところのもの(=業)、――それこそ、かれ自身の物である。人はそれを取って受けて、いくのである。

それは、かれに従うものである。――影が人に従って行くように。

それ故に、善いことをして、来世のために功徳を積め。功徳は、あの世でも人々のよりどころとなる。」(199~200頁)

第3章

第1節 人

■あるとき尊師は、サーヴァティー市に住しておられた。

□ときにコーサラ国のパセーナディ王は、尊師のもとにおもむいた。近づいてから、尊師に恭しく挨拶して、傍らに坐した。

□傍らに坐したコーサラ国のパセーナディ王に対して、尊師は、次のように言われた。「大王さま。世には4種類の人々がいます。

□その4つとは何であるか? ⑴闇から闇におもむく者、⑵闇から光におもむく者、⑶光から闇におもむく者、⑷光から光におもむく者です。(201頁)

□大王さま。或る人は、どのようにして光から光におもむくのでしょうか? ここで或る人は、高貴の家に生まれる。すなわち、大いに富裕な王族の家、大いに富裕なバラモンの家、大いに富裕な資産者の家、富んで、大いに財産あり、金銀豊かに、資財豊かに、財宝・米穀豊かな家に生まれる。かれは、容姿端麗で、みめ麗しく、皮膚が清らかに白く、蓮華のような最上の美しさをそなえている。かれは、食物・飲料・衣服・乗りもの・花かざり・芳香・塗料・臥床・住居・燈火具を得ている。かれは身で善行をなし、ことばで善行をなし、心で善行をなす。かれは身で善行をなして、ことばで善行をなして、心で善行をなして、身体が破壊したあとで、死後に、善きところ・天の世界に生まれる。譬えば、人が、輿(こし)から輿に移り、馬の背から馬の背に移り、象の肩から象の肩に移り、宮殿から宮殿に移るようなものである。わたしは、その人を、その譬えのごとくであると説く。このように、或る人は光から光におもむくのである。

□大王さま。世の中には、この〔4種の〕人々が存在するのです。

□〔Ⅰ〕王さま。或る人は、貧しくて、信仰なく、もの惜しみをして、けちで、悪い思いがあり、

邪な見解をいだき、人を敬わず、

道の人やバラモンや、食を乞う他の人々を、あざけり、罵(ののし)り、何でも否定して、怒り悩まし、

食を乞う者に施しをしようとする人を妨げる。――

そのような人は、死んでから、恐ろしい地獄におもむく。これは、闇から闇におもむく人である。

□〔Ⅱ〕王さま。或る人は、貧しいが、信仰あり、もの惜しみをせず、施しをなし、崇高な思いがあり、心が散乱していない人であり、――

道の人や、バラモンや、食を乞う他の人々に対して、

座から起ち上がって、恭しく挨拶し、安らかな行いに身を修め、

食を乞う者に施しをしようとする人を妨げない。――

そのような人は、死んでから、三十三天におもむく。これは、闇から光におもむく人である。

□〔Ⅲ〕王さま。或る人は、富んではいるが、信仰なく、もの惜しみをし、けちで、悪い思いがあり、

邪まな見解をいだき、人を敬わず、

道の人やバラモンや、食を乞う他の人々を、あざけり、罵(ののし)り、何でも否定して、怒り悩まし、

食を乞う者に施しをしようとする人を妨げる。――

そのような人は、死んでから、恐ろしい地獄におもむく。これは、光から闇におもむく人である。

□〔Ⅳ〕王さま。或る人は、富んでいて、信仰あり、もの惜しみをしないであ与え、崇高な思いがあり、心が散乱していない人であり、

道の人やバラモンや、食を乞う他の人々に対して、食を乞う者に施しをしようとする人を妨げない。――

そのような人は、死んでから、三十三天におもむく。これは、光から光におもむく人である」と。(204~206頁)

第3節 世間

■〔あるとき尊師は、〕サーヴァティー市に住しておられた。

□傍らに坐したコーサラ国のパセーナディ王は、尊師に次のように言われた、――「尊いお方さま。どれだけのものが生じて、世間の人々の不利、苦しみ、不安中となるのですか?」と。

□「大王さま。次の3つのものが生じると、世間の人々の不利、苦しみ、不安中となるのです。

□その3つとは、何であるか? 貪りは、生じると、世間の人々の不利、苦しみ、不安住となる。憎しみは、生じると、世間の人々の不利、苦しみ、不安住となる。迷妄は、生じると、世間の人々の不利、苦しみ、不安住となる。

□「大王さま。この3つの事柄は、生じると、世間の人々の不利、苦しみ、不安中となります。」

□〔尊師は、次のようにとなえられた。――〕

「貪りと、憎しみと、迷いとは、悪心をいだいている人を害なう。――

もとは自分から生じたものであるが。

茎の細い植物の実が生(な)ると〔害されて倒れる〕ようなものである。」(208~209頁)

(岡野注;仏教の三毒、貪瞋痴(とんじんち)のことを言っている)

第4節 弓術

■〔あるとき尊師は、〕サーヴァティー市に住しておられた。

□傍らに坐したコーサラ国のパセーナディ王は、尊師に次のように言った、――「尊いお方さま。どのような人に対して施しをなすべきなのでしょうか?」と。

□「大王さま。その人に向って心が静まり澄む(=信仰する)人に対して、なさい。」

□「どのような人に対して施しをしたならば、大いなる果報が得られるでしょうか?」

□「大王さま。『どのような人に対して施しをなすべきか?』ということと、『どのような人に対して施しをしたならば、大いなる果報が得られるか?』ということとは、別です。戒しめをたもっている人に施しをすると、大いなる果報が得られますが、悪い習性の人に施しをしても、そうはなりません。だから、わたしは、ここであなたにお尋ねしましょう。あなたのお気に召したとおりにお答えください。

□あなたは、どうお考えになりますか? ここに、戦争が起こって、戦闘部隊が集合したとしましょう。ときに、未だ武術を学ばず、未だ習練せず、慣れず、臆病で怯(ひる)み、こわばって恐怖し、逃げようとする〈王族の青年〉がやって来たならば、あなたはその男を傭うでしょうか? また、そのような男に用があるのでしょうか?」

□「わたしは、そんな男を傭いません。 また、そのような男に用はありません。

□もしも未だ武術を学ばず、未だ習練せず、〔慣れず、臆病で怯み、こわばって、恐怖し、逃げようとする〕〈バラモンの青年〉が来るならば、もしも未だ武術を学ばず、未だ習練せず、慣れず、臆病で怯み、こわばって、恐怖し、逃げようとする〈庶民の青年〉が来るならば、もしも未だ武術を学ばず、未だ習練せず、慣れず、臆病で怯み、こわばって、恐怖し、逃げようとする〈隷民の青年〉がやって来たならば、……わたくしは、そんな男に用はありません。」

□「大王さま。あなたは、どうお考えになりますか? ここに、戦争が起こって、戦闘部隊が集合したとしましょう。ときに、すでに武術を学び、習練し、慣れ、勇敢で、怯(ひる)まず、こわばらず、恐怖せず、逃げようとしない〈王族の青年〉が来たならば、あなたはそのような男を傭うでしょうか? また、そのような男に用があるのでしょうか?」

□「尊いお方さま。わたしは、そんな男を傭うでしょう。 また、そのような男に用があります。」

□「では、もしもすでに武術を学び、習練し、慣れ、勇敢で、怯まず、こわばらず、恐怖せず、逃げようとしない〈バラモンの青年〉が来るならば、もしもすでに武術を学び、修練し、慣れ、勇敢で、怯まず、こわばらず、恐怖せず、逃げようとしない〈庶民の青年〉が来るならば、もしもすでに武術を学び、修練し、慣れ、勇敢で、怯(ひる)まず、こわばらず、恐怖せず、逃げようとしない〈隷民の青年〉が来るならば、あなたはそのような男を傭うでしょうか? また、そのような男に用があるのでしょうか?」

□「尊いお方さま。わたしは、そんな男を傭うでしょう。 また、そのような男に用があります。」

□「大王さま。それと同様に、いかなる家柄からであろうとも、家から出て家なき状態におもむいて出家した人が、5つの性質を捨て、5つの性質を具えている人に施しをするならば、大いなる果報が得られます。

□いかなる5つの性質が捨て去られるのか? 貪欲が捨て去られる。もの倦さ、眠さが捨て去られる。そわそわして後悔する思いが捨て去られる。疑いが捨て去られる。それらの5つの性質が捨て去られるのである。

□いかなる5つの性質を捨て去られるのであるか? これ以上学ぶ要のない幾多の戒めを具えている。これ以上学ぶ要のない幾多の精神統一を具えている。これ以上学ぶ要のない幾多の智慧を具えている。これ以上学ぶ要のない幾多の解脱を具えている。これ以上学ぶ要のない〈自分は解脱した〉という知見を幾多具えている。これらの5つの性質を具えているのである。

□以上のような5つの性質を捨て去り、5つの性質を具えている人に施しをしたならば、大いなる果報を生ずる。」

□尊師はこのことを説かれた。……師はそのとき次の詩をとなえてくれた。――

「弓術巧みに、体力・勇気のある青年を、国王は、戦いのために傭えよ。

生まれが良いからとて臆病者を傭ってはならぬ。

また聡明な人は、たとい生まれは賤しくては、行いが立派で、堪え忍び柔和である性質をしっかりと具えている人を、尊敬してもてなすべきである。

楽しい庵を作って、学識多き人を住まわせよ。

水のない林の中には泉をつくり、嶮しいところには通路をつくり、

信じ喜ぶ心を以て、心の真っ直ぐな人々に、食物・飲料・硬い食物・衣服・臥床を与えよ。

譬えば、雨雲が電光の花輪をかざし百の尖塔を示して雷鳴を轟かし、

大地に雨降らし、高いところも低いところも低いところも満たすようにし、

信仰心あり、学び修めた賢明な人は、食物を用意して、食乞う人々を飲食物をもって満足せしめよ。

心に喜んで、撒き散らし、「与えよ」「与えよ」と語る。

かれは、天が雨降らすごとくに、その轟きを発するのである。

その豊かな功徳の流れは、施しを与える人に、降り注ぐ。」(211~212頁)

第5節 山の譬喩

■サーヴァティー市が因縁(ゆかり)の場所である。

□傍らに坐したコーサラ国のパセーナディ王に、尊師は次のように言われた、――「大王さま。あなたは、どうしてここに来られたのですか?」

□「尊いお方さま。権力支配の驕りに酔い、愛欲・貪りに耽り、国の安全を達成し、広大な領域を征服して支配する〈即位した王族・国王たち〉には〈国王としての務め〉があるのです。今わたくしはそれらの務めに熱中していたのです。」

□大王さま。あなたはどうお考えになりますか? ここに、信頼すべく、頼りにすることのできる人が、東方からあなたのところに来て、あなたに近づいて、このように言ったしましょう、――『大王さま。どうぞ、ご存じください。――わたくしは東方から来ましたが、そこでは、雲のような大きな山があらゆる生き物を圧しつぶしながら、やって来るのを見ました。大王さま。あなたのなすべきことを、なさってください』と。

□次に〔信頼すべく、頼りにすることのできる〕第2の人が、西方からあなたのところに来て、あなたに近づいて、このように言ったしましょう、――『大王さま。どうぞ、ご存じください。――わたくしは西方から来ましたが、そこでは、雲のような大きな山があらゆる生き物を圧しつぶしながら、やって来るのを見ました。大王さま。あなたのなすべきことを、なさってください』と。

次に信頼すべく、頼りにすることのできる第3の人が、北方からあなたのところに来て、あなたに近づいて、このように言ったしましょう、――『大王さま。どうぞ、ご存じください。――わたくしは北方から来ましたが、そこでは、雲のような大きな山があらゆる生き物を圧しつぶしながら、やって来るのを見ました。大王さま。あなたのなすべきことを、なさってください』と。

次に信頼すべく、頼りにすることのできる第4の人が、南方からあなたのところに来て、あなたに近づいて、このように言ったしましょう、――『大王さま。どうぞ、ご存じください。――わたくしは南方から来ましたが、そこでは、雲のような大きな山があらゆる生き物を圧しつぶしながら、やって来るのを見ました。大王さま。あなたのなすべきことを、なさってください』と。このような大きな恐怖・脅威が起こり、恐ろしい人類の破滅が迫っていて、人身たることが得難いのに、何をしたらよいのでしょうか? 唯だ、法にかなった行い、正しい行い、善い行いをなすこと、功徳をつくること以外にないでしょう。」

□「大王さま。わたしはあなたに告げます。あなたにしらせます。〈老いと死〉があなたにのしかかっています。〈老いと死〉があなたにのしかかっているのに、何をしたらよいのでしょうか?」

□「尊いお方さま。〈老いと死〉があなたにのしかかっているのに、何をしたらよいのでしょうか? 唯だ、法にかなった行い、正しい行い、善い行いをなすこと、功徳をつくること以外にないでしょう。

□権力支配の驕りに酔い、愛欲・貪りに耽り、国の安全を達成し、広大な領域を征服して支配する〈即位した王族・国王たち〉には、象軍により戦いが行われていますが、それらの象群による戦いによっても、〈老いと死〉を防ぐ逃げ道や可能性は存在しません。

□権力支配の驕りに酔い、愛欲・貪りに耽り、国の安全を達成し、広大な領域を征服して支配する〈即位した王族・国王たち〉には、騎兵隊による戦いが行われ、……戦車隊による戦いが行われ、……歩兵隊による戦いが行われていますが、それらの歩兵隊による戦いによっても、〈老いと死〉を防ぐ逃げ道や可能性は存在しません。

□この王家には、地下に蔵し、また高楼にかくされた莫大な黄金があり、われらはそれを以て、迫りくる敵軍に対し財による交渉工作をなすことができますが、その財による戦いによっても、〈老いと死〉を防ぐ逃げ道や可能性は存在しません。

□〈老いと死〉があなたにのしかかっているのに、何をしたらよいのでしょうか? 唯だ、唯だ、法にかなった行い、正しい行い、善い行いをなすこと、功徳をつくること以外にないでしょう。」

□「大王さま。そのとおりです。〈老いと死〉があなたにのしかかっているのに、何をしたらよいのでしょうか? 唯だ、法にかなった行い、正しい行い、善い行いをなすこと、功徳をつくること以外にないでしょう。」

□尊師は次の様に説かれた。師は……〔次の詩をとなえられた。……〕

「虚空をも打つ広大な岩山が、四方から圧しつぶしつつ、迫ってくるように、〈老いと死〉とは生きものにのしかかる。王族、バラモン、庶民、隷民、チャンダーラ、

下水掃除人であろうと、いかなるものをも免除しない。すべてのものを圧しつぶす。

そこには、象軍の余地なく、戦車隊や歩兵隊の余地もない。

策略による戦いによっても、財力によっても、勝つことはできない。

それ故に、賢明な人は、自己のためになることを観察して、

ブッダと法と集いとにたいする信仰を安住させよ。

身体により、ことばにより、心により、法にかなった行いをなす人を、

この世では人々が称賛し、死後には天界で楽しむ」と。(213~217頁)

解説 中村元

□『サンユッタ・ニカーヤ』はパーリー文での原始仏教経典の1つである。「サンユッタ」というのは、「結びつけられた」という意味で、「ニカーヤ」というのは「集まり」を意味するから、つまり「主題ごとに整理された教えの集成」という意味である。

パーリ文の原始仏教経典は、5つの大きな部類(ニカーヤ)に分かれているが、『サンユッタ・ニカーヤ』は、そのうち第3の部類のもので、漢訳仏典のうちの『雑阿含経』にほぼ対応する。

□『サンユッタ・ニカーヤ』は全体は5つの集に分かれ、その1つ1つの集がまた細かに分かれているが、その中でもこの第1集は、特に古い教えの集成である。

□いきなりこの『サンユッタ・ニカーヤ』全体を検討するということは容易ではないが、最初の第1集、つまり詩を多く含んでいる部分は非常に古いと言われている。そこでその第1篇を解明することによって、歴史的人物としてのゴータマ・ブッダ(釈尊)が、どのような生活をし、どのような思想をもっていたか、ということを、かなりの近似度を以て、じかに知り得ると思われるので、それを手がけることにした。

□わたくしは、今までに、厖大なパーリ語聖典のうちでも特に古いと思われるものを翻訳注解し、岩波文庫でもすでに数冊を刊行した(『ブッダのことば――スッタニパータ』『ブッダの真理のことば・感興のことば』『ブッダ最後の旅』『仏弟子の告白――テーラガーター』『尼僧の告白――テーリーガーター』)。このたびの刊行書はそれらにつづくものである。その古さにおいては『スッタニパータ』の若干部分と並ぶものであると言われている。

□ここでは、漢訳者のみならず、諸々の邦訳者も、ゴータマ・ブッダを非常に尊敬して訳している。しかし、原文を見ると、神はゴータマ・ブッダを「そなた」と呼び、せいぜい「あなたさま」と呼んでいる程度で、決して度はずれの敬語は用いていない。つまり、これらの詩は、非常に初期の段階のものであるということを示している。(339~341頁)

〔付論〕 神々について

□仏教においては、世界創造者としての唯一神は、これを認めない。ありとあらゆるものは、因縁、すなはち無数に多くの因果関係によって形成されるというのである。その代わりに、人間よりもすぐれた者としての多数の神々の存在を認めていた。天にも、地にも、日月の中にも、樹木の中にも、多数の神々がいるということを想定したのである。それらはいずれも仏教成立以前から、民衆の間で信奉されていた神々であり、その信仰は民衆に定着している。その神々の性格は多分にギリシヤの神々やまたわが国の神々と類似している。

□神々の原語は deva であり、本来「輝く」という意味の語源に由来する。神を意味するギリシア語の theos, ラテン語の deus と同一起源である。(中略)

称号としては、人間よりもすぐれた存在に付されていた。のちには悪鬼や精霊のようなものにも適用されるようになった。

□漢訳仏典では、通常「天」と訳して、神を意味する。弁財天、帝釈天という場合の「天」がそれである。

□ devata は deva のあとに、抽象名詞としての語尾 ta が付加された抽象名詞であって、神たる状態、神性を意味する。さらに神的な存在を意味する。実質的には deva と同じことであり、崇拝される存在はみな devata と呼ばれる。わが国の学者はこの語を「神格」と訳すことがある。天神地祗というのがそれに当るであろう。雲井昭善『巴和小辞典』には「神祗」とも訳されている。

□ devaputta の字義は「神の子」であるが半神、仕える神を意味する。通常はヤッカの類の呼称とされる。

漢訳仏典では「天子」と訳されている(読誦のときには「てんじ」と濁って読む)。雲井は『巴和小辞典』には、神の子、天の子と解しているが、その典拠は挙げられていない。

□神々の世界の住者を deva と呼ぶが、それの単数主格 deva という形はほとんど現れない。その代わりに devata という語が用いられるれるのである。しかしその性を明示する必要があるときには、男性の神を「神の息子」(devaputto)、女性の神々を「神の女(むすめ)」(devadhita)という。だから devaputto とは単に男性神ということであり、devadhia とは単に女性神というだけのことにすぎない。三十三天の神々が devaputto と呼ばれ、月がdevadhia と呼ばれていることもある。

□さらにブッダゴーサの注解を参照すると、次のように解すべきである。

〈神の子〉(devaputto)とは神々のもとに生まれた男神であり、〈神の娘〉(devadhita)とは神々のもとに生まれた女をいう。神の子は過去世に地上で暮らしていたときに、〈これこれ〉という名をもっていた人である。これに反して〈これこれ〉という固有名をもたない神は devata と呼ばれる。

そうして最初期の仏教においては全体として deva はもと神を意味する語であるが、 devata あるいは神の子(devaputta)というときには、低次の神を意味すると言えよう。

それは必ずしもインド宗教史の全般について言えることではない。(中略)ただ、ここでは最初期の仏教だけについて言うのである。

□わたくしは、現代人に解り易くするために deva や devata を「神」「神々」と訳すことにした。それは漢訳仏典にも充分に根拠のあることである。(339~346頁)

(2020年10月24日、了)

-『仏陀』増谷文雄 著 角川選書ー18
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