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『仏陀』増谷文雄 著 角川選書ー18

『道元』 和辻哲郎著 河出文庫

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『道元』 和辻哲郎著 河出文庫

■もとより自分(岡野注;和辻)は「解し得た」だけを自分の生活に実現し得たとは言わない。たとえば、自分は彼(岡野注;道元)が「衣糧に煩ふな」と言い、「須(すべから)く貧なるべし、財おほければ必ずその志しを失ふ」といった心持ちを解し得たと信ずる。これらは「1日の苦労は1日にて足れり。」「往きて汝の有(も)てる物をことごとく売りて、貧しき者に施せ。さらば財宝(たから)を天に得む。」「富めるものの神の国に入るはいかに難いかな」というごとき言葉とともに、唯一なる真理を体得した人の自由にして晴朗なる心境、その心境に映った哀れな人間の物欲を、叱責しつつ憐れみ嘆く心、の表現である。じぶんはその心を理解し、その心境に憧憬する。(15頁)

■人類の持った宗教が単一の形に現れずしてさまざまの「特殊な形」に現れるのは何ゆえであるか。またその特種の形に現われた宗教が「歴史」を持つのは何ゆえであるか。

宗教の真理はあらゆる特殊、あらゆる差別、あらゆる価値をしてあらしむるところの根源である。それは分別を事とする「世の智慧」によってはつかまれない。ただ一切分別の念を撥無(はつむ)した最も直接なる体験においてのみ感得せられる。人はその一切の智慧を放擲して嬰児のこころに帰ったときに、この栄光に充ちた無限の世界に摂取せられるのである。――自分はこのことを自証したとは言わない。しかし自分はそれを予感する。そうしてしばしば「知られざるある者」への祈りの瞬間に、最も近くこの世界に近づいたことを感ずる。しかもそれは、世の智慧を離脱し得ない自分にとっては、確固たる確信の根とはならないのである。自分がそれをつかもうとするとき、確かにそこには一切の「根源」がある。それは自分の生命でありまた宇宙の生命である。あらゆる自然と人生とを可能にするところの「1つ」の大いなる命である。それは永遠なる現在であり、この瞬間に直感せられ得るものである。が、かく理解せられたものは、祈りの瞬間に感ぜられるあの暖かい、いうべからざる権威と親しみとを持った「あのもの」ではない。自分の「あのもの」は、「アバ父よ、父には能はぬことなし」というごとき言葉に、「御意(みこころ)のままをなし給え」という言葉に、はるかに似つかわしい表現を得る。しかしこれらの言葉の投げかけられたあの神は、自分の神ではない。「あのもの」は畢意知らざるある者である。

自分はロゴスの思想に共鳴を感ずる。不断に創造する宇宙の生命の思想にも共鳴を感ずる。時にはかくのごとき全一の生がたとえば限りなく美しい木の芽となって力強く萌えいでてくる不思議さに我を忘れて見とれることもsる。しかしこの種の体験は自分の内に真理を植えてはくれない。自分の求めるのは「御意(みこころ)のままに」という言葉を全心の確信によって発言し得る心境である。「しられざるある者」が「知れれたる者」に化することである。自分は永い間それを求めた。しかし現代の「世の智慧」に煩わされた自分にとって、このことはきわめて困難なのである。(18~20頁)

■我々はこの種の果てしのない思慕と追究を人類の歴史の巨大なる意義として感ずる。いかに彼らが迷い苦しみ願望しつつ生きて行くか。いかに彼らがその有限の心に無限を宿そうとして努力するか。人は永遠を欲する!深い永遠を欲する!しかも欲する心は過ぎ行く心である。ある者はその心に無限なるものの光を湛(たた)えた。人々は歓喜してその光を浴びた。しかし――その光もまた有限の心に反射された光であった。人々はさらに新しい輝きを求めて薪を漁る。これら一切の光景が無限なるものの徐々たる展開でなければ、――神の国の徐々たる築造でなければ、総じて人類の生活に何の意義があるだろう。(26~27頁)

■栄西が死んだのは道元16歳の時である。道元は真実の道心のゆえに山門を辞して諸方を訪い、ついに栄西によって法器とされた。(32頁)

■栄西の死後道元は、建仁寺の明全に就いた。道元の言葉によれば、「全公は祖師西和尚の上足として、ひとり無上の仏法を正伝し」た人である。

後年の道元はこの明全についてもただその人格をのみ語っている。

(中略)

この時道元も末臘にあって言った。「仏法の悟りが今はこれでよいと思われるならば、お留まりになる方がよい。」明全は答えた。「さよう、仏法の修行はこれほどでよかろう。始終このようであれば、出離得道するだろうと思う。」道元は言った。「それならばお留まりなさるがよい。」そこで評議がおわって、明全は言った。「おのおのの評議、いずれも皆留まるべき道理のみである。が、自分の所存はそうでない。今留まったところで、死ぬにきまった人ならば死んで行くであろう。また自分が看病したところで、苦痛が止むはずはない。また自分が臨終の際にすすめたからといって、師が生死を離れられるわけでもない。ただ師の心を慰めるだけである。これは出離得道のためには一切無用だと思う。むしろ自分の求法の志しを妨げたために罪業の因縁となるかも知れない。たとい一人の人の迷情に背いても、多くの人の得道の因縁となるであろう。この功徳がもしすぐれているならば、師への報恩にもなるわけである。たとい渡海の間に死して目的が達せられなくとも、求法の志しをもって死ねば本望と言ってよい。玄奘三蔵の事蹟を考えてみよ。一人のために貴い時を空しく過ごすのは仏意にはかなうまい。だから今度の入宋の決意は翻すことができぬ。」かくて明全はついに宋に向かった。(33~35頁)

■ここに真理の探究と体現との純粋な情熱がある。ここから彼の真理の世界に対する異常な信仰が生まれた。後年の彼はいう、――仏法修行は、すなわち真理の探究と体現とは、ある目的のための手段ではない。真理のために真理を求め、真理のために真理を体現するのである。真理の世界の確立が畢竟の目的である。行者自身のために真理を求めてはならない。名利のために、幸福のために霊験を得んがために、真理を求めてはならない。衆生に対する慈悲は、自分のためでも他人のためでもなくして、真理それ自身の顕現なのである。従って慈悲の実行は、「身を仏制に任じ、」「仏法のためにつかはれて」なさしめらるる所、すなわちただそれ自身を目的とする真理の発動にほかならぬ。(随聞記1、5、学道用心集4)――この覚悟にとっては自らの修行は自らのためではない。自他を絶した大いなる価値の世界への奉仕である。このことを道元は明全の人格から学んだ。それは道元の生活にとって、一つの力強い進転であったと思われる。(36~37頁)

■道元の天童禅院追悼は、如淨の鍛錬の仕方をつぶさに語っている。――如淨は、夜は二更の三点まで座禅し、暁には四更の二点より起きて座禅する。弟子たちもこの長老とともに僧堂の内に座するのである。彼は一夜もこれをゆるがせにしたことがない。その間に衆僧は多く眠りに陥る。長老は巡り行いて、睡眠する僧をばあるいは拳をもって打ちあるいは履(くつ)をぬいで打つ。なお眠る時には昭堂に行いて鐘を打ち、行者を呼び、蠟燭をともしなどする。そうして卒時に普説して言う、「僧堂の内で眠って何になる。眠るくらいならなぜ出家して禅堂に入ったのだ。世間の民衆は労働に苦しんでる。何人も安楽に世を過ごしているのではない。その世間を逃れて禅堂に入り、居眠りをして何になる。生死事大、無常迅速といわれている。片時も油断はならない。それを居眠りするとは何たるたわけだ。だから真理の世界が衰えるのだ。」ある時近仕の侍者たちが長老に言った、「僧堂裡の衆僧、眠り疲れて、あるいは病にかかり退心も起こるかも知れぬ。これは坐禅の時間が長いからであろう。時間を短くしてはどうか。」長老はひどく怒って言った、「それはいけない。道心のないものは片時の間僧堂に居ても眠るだろう。道心あり修行の志あるものは、長ければ長いほど一層喜んで修行するはずだ。自分が若かった時ある長老が言った、以前は眠る僧をば拳が欠けるかと思うほどに打ったが、今は年とって力がなくなり、強くも打てぬ。だからいい僧が出て来ない、と。その通りだ。」(随聞記第2)

が、如淨の鍛錬は、坐禅が真理への道であることの確信に基づくのである。従ってかれの呵嘖は彼の慈悲であった。道元はこのことについて言っている。――淨和尚は僧堂において眠る僧を峻烈に呵嘖したが、しかし衆僧は打たれることを喜び、讃嘆したものである。ある時上堂のついでに淨和尚のいうには、「自分はもう年老いた。今は衆を辞し、菴に住して、老いを養っていたい。が、自分は衆の知識として、おのおのの迷いを破り、道を授けんがために、住時人となっている。そのために呵嘖し打擲する。自分はこの行を恐ろしく思う。しかしこれは仏に代わって衆を化する方式である。諸兄弟、慈悲をもってこの行を許してもらいたい。」これを聞いて衆僧は皆涙を流した。(同上第1)

この慈悲心とあの厳しい鍛錬と、それが道元の心に深く記された如淨の面目である。我々はここにも真理の世界を確立しようとする火のごとき情熱の具現者を見ることができる。この如淨の道が唯一の道であるか否かは別問題として、その力強い人格は嘆美に値する。道元はこの人格に打たれて、恐らく衆僧とともに泣いたのであろう。「これ人に逢ふなり」の詠嘆は、まさしくこの人格に対する嘆美の声なのである。(40~42頁)

■が、道元に力を与えたものは、右のごとき淨和尚の人格のみではない。淨和尚を中心とする天童禅院の雰囲気もまた彼に力強い影響を及ぼした。彼はいう、――大宋国の叢林には、末代といえども、学道の人千人万人を数える。その中には遠国の者も郷土の者もあるが、大抵は貧人である。しかし決して貧を憂えない。ただ悟道のいまだしきことをのみ憂え、あるいは楼上にあるいは閣下に、父母の喪中ででもあるかのごとくにして、坐禅をしている。自分が目のあたり見た事であるが、ある西川の僧は遠方よりの旅のために所持の物をことごとく使い果たして、ただ墨2、3丁のみを持っていた。彼はそれをもって下等な弱い唐紙を買い、それを衣服に作って着た。起居のたびごとに紙の破れる音がする。しかし彼は意としなかった。ある人が見かねて、郷里に帰り道具装束を整えてくるがいい、とすすめると、彼は答えていう、「郷里は遠方だ。途中に暇をかけて学道の時を失うのが惜しい。」こうして彼は寒さにも恐れず道を学んだ。こういう緊張した気分のゆえに、大国にはよき人が出るのである。(同上第6)同様にまた彼はいう、――大宋国によき僧として知られた人は皆貧窮人である。衣服も破れ、諸縁も乏しい。天童山の書記道如上座は官人宰相の子であったが、親類を離れ、世利を捨てたために、衣服のごときは目もあてられなかった。自分はある時如上座に問うて言った、「和尚は官人の子息、富貴の種族だ。どうして身のまわりの物が皆下品で貧窮なのか。」如上座は答えて言った、「僧となったからだ。」(同上第5)(42~43頁)

■坐禅は如淨の最も重んずるところであった。彼は如淨のもとに昼夜定坐して、極熱極寒をもいとわなかった。他の僧たちが病気を恐れてしばらく打坐をゆるがせにするのを見ると、彼は思った、「たとい発病して死ぬにしても、自分はこれを修しよう。修行しないでいて体を全うしたところで、それが何になる。また病を避けたつもりでも、死はいつ自分に迫るかわからない。ここで病んで死せば本意である。大宋国の善知識のもとで、修(しゅ)し死(じに)に死んで、よき僧に弔われるのは、結構なことだ。日本で死ねばこれほどの人には弔われまい。」かくして彼は昼夜端坐を続けた(同上第1)(44~45頁)

■もとより人は、この瞬間に導ききたる難行工夫について、詳しく語ることができる。またこの瞬間を経た後の、自己と宇宙とを一にする光明の世界についても、豊かな象徴的表現を与えることはできる。ただこの両者を結びつける身心脱落(しんじんとつらく)の瞬間のみは、自らの心身をもって直下(じきげ)に承当(じょうとう)するほかないのである。

が、我々は知っている、人を動かし人を悟らせるものは真理を具現した人格の力である。動かされて悟りにたどりつくものも同様に人格である。道元はいう、「仏祖は身心如一なるが故に、一句両句、皆仏祖の暖かなる身心なり。かの身心来たりてわが身心を道得す。」(正法眼蔵行持)その最奥の内容は説くべからずとするも、その内容を担える人格は、我々の前に明らかに提示せられている。我々はいかなる人格が道元を鍛錬したかを見た。また道元の人格がいかにしてこれらの人格に鍛錬せられたかを見た。ここに道元の修業時代は終わるのである。(45~46頁)

■絶対の境界――永遠なる最高の価値の顕現が究竟の目的であるならば、何ゆえに直ちに自余の価値を放擲しないのか。罪悪の根拠が畢竟滅尽せらるべきものであるならば、何ゆえに罪悪を離れようとしないか。たとい人は弱いものであるにしても、ある人々はそれをなし遂げたのである。我々のみがその道を踏み得ないわけはない。もとよりこの道は困難である。が、本来仏法そのものが釈迦の難行苦行によって得られたものではないか。本源すでにしかりとすれば流末において難行難解であることは当然であろう。古人大力量を有するものさえも、なお行じ難しと言った。その古人に比すれば今人は9牛の1毛にだも及ばない。今ひとがその小根薄織もってたとい力を励まして難行するとも、なお古人の易行には及ばないのである。その今人が易行をもってどうして深大な仏の真理を解し得るか。困難であるゆえをもって避け得られる道ならば、それは仏の真理ではない。(学道用心集第6)54~55頁)

■しかし彼は、生涯「帝者に親近せず、丞相(じょうしょう)と親厚ならざりし」天童如淨の弟子であった。彼の目ざすのは真理王国の建設であって、この世に勢力を得ることではなかった。彼は「仏法興隆のために」関東への下向を勧めたものに答えて言っている――否、自分は行かない。もし仏の真理を得ようとする志しがあるならば、山川紅海を渡っても、来たって学ぶがよい。資力を得、世間的になをなすために人を説くごときは、自分の最も苦痛とする所である。(随聞記第2)(57頁)

■彼はいう――世間の無常は思索の問題ではない。現実の事実である。朝(あした)に生まれたものが夕(ゆうべ)に死ぬ。昨日見た人が今日はない。我々自身も今夜重病にかかりあるいは盗賊に殺されるかもわからない。もし生命(いのち)が我々の有する唯一の価値であるならば、我々の存在は価値なきに等しい。(随聞記第2)(59頁)

■道元はいう――もし行者が、このことは悪事であるから人が仏法者と思うだろうと考えてある善行をする、というような場合には、それは世情である。しかしまた世人を顧慮しないことを見せるために、ほしいままに心に任せて悪事をすれば、それは単純に我執であり悪心である。行者はこの種の世情悪心を忘れて、ただ専心に仏法のために行ずべきである。。(同上第2)遁世とは世人の情を心にかけないことにほかならぬ。世間の人がいかに思おうとも、狂人と呼ぼうとも、ただ仏祖の行履に従って行ずれば、そこに仏弟子の道がある。(同上第3)仏道に入るには、わが心に善悪を分けて善しと思い悪しと思うことを捨て、己れが都合好悪を忘れ、善くとも悪くとも仏祖の言語行履に従うべきである。苦しくとも仏祖の行履であれば行わなくてはならない。行いたくても仏祖の行履になければ行ってはならない。かくして初めて新しい真理の世界が開けてくるのである。(同上第2)(62~63頁)

■この修行の態度は自力証入の意味を厳密に規定する。確かにここには「たまたま生を人身に受けた」現実の生活に対する力強い信頼がある。が、この信頼は吾我我執に対する信頼ではない。吾我、我執を払い去った時にのみ明らかにされる「仏への可能性」に対する信頼である。すなわち自己の内にあってしかも「自己のものでない力」に対する信頼である。従って我々は、自己を空しゅうして仏祖に乗り移られることを欲する。乗り移られた時に燦然として輝き出すものが本来自己の内にあった永遠の生であるとしても、とにかく我々は自力をもってそこに達するのではない。我々がなし得、またなさざるべからざることは、ただ自己を空しゅうして真理を要求することに過ぎない。すなわち修行の態度としては「自らの力」の信仰ではない。(64頁)

■死の恐怖に打ち勝ったものでなくては、すなわち10丈の竿のさきにのぼって手足を放って身心(しんじん)を放下するごとき覚悟がなくては、仏の真理へ身を投げかけたとは言えなかろう。かくのごとく前者は肉体のために弥陀にすがることを是認し、後者は真理のために肉体を放擲することを要求する。しかし前者は解脱をただ死後の生に置き、後者はこの生においてそれをじつげんしようとする。一は自己の救済に重心を置き、他は仏の真理の顕現に重心を置く。自己放擲という点ではむしろ後者のほうが徹底的であると言えよう。(66頁)

■懐奘を初めて首座に請じた夜、道元は衆に向かって言った、――当寺初めて首座を請じて今日秉払(ひんぼつ)を行なわせる。衆の少なきを憂うるなかれ。身の初心なるを顧みるなかれ。汾陽(ふんよう)はわずかに六七人、薬山(やくさん)は十衆(じっしゅ)に充たなかった。しかし彼らは皆仏祖の道を行じたゆえに、叢林盛んであると言った。見よ、竹の声に道を悟り、桃の花に心を明からむるものがある。竹に利鈍あり花に浅深があるのではないまたこの竹の響きを聞きこの花の色を見るものがすべて得梧するわけでもない。修行の功によって得悟の機に迫ったものが、これらを縁として悟るのである。学道の縁もそれに変わらない。真理はすべての人の内にある。しかしそれをつかむには衆を縁としなくてはならない。ゆえに衆人は心をひとつにして参究すべきである。練磨によって何人も器となる。非器なりと自ら卑下することなく、時を惜しんで切に学道に努めよ。云々。(随聞記第4)(70~71頁)

■彼は「自己の救済」を目的とせずして、「真理王国の建設」を目的とした。もとより自己は真理の王国において救われる。しかし救われんがために真理を獲ようとするのではない。真理の前には自己は無である。真理を体現した自己が尊いのではなく、自己に体現せられた真理が尊いのである。真理への修行はあくまでも真理それ自身のためでなくてはならぬ。(71頁)

■彼にとって仏法の修行は他のある物を得んがための手段ではなかった。「仏道に入り仏法のために諸事を行じて、代わりに所得あらんと思うべからず」。皆無所得!皆無所得!これ彼の言説を貫通して響く力強い主導音である。仏法は人生のためのものでない。人生が仏法のためのものである。仏法は国家のためのものでない。国家は仏法のためにあるのである。(72頁)

■この種の邪道を別にしても、真実信心と言われるものの多くは、福利を得んことを目ざしている。「わが身のために。」「己が悩みを救われがために。」「己が魂を救われんがために。」「永遠の安楽を得んがために。」これらはすべてなお我欲名利の心に根ざしたものである。有所得のこころである。魂の救い、永遠の幸福が究竟の目的であるならば、仏法は手段であって最高の価値ではない。真実の仏法修行はこの種のこころをも放擲しなくてはならぬ。「ただ身心(しんじん)を仏法に投げすてて、さらに悟道得法までをも望むことなく」修行しなければならぬ。(73頁)

■道元は仏法のために身心(しんじん)を放擲せよという。そうしてこの身心の放擲は、「汝の隣人に対する愛」にとってきわめて重大なる意味をもつものである。愛を阻む最大の力は道元のいわゆる「身心」に根ざした一切の利己心、我執にほかならない。自己の身心を守ろうとするすべての欲望を捨て、己を空しゅうして他と触れ合う喜びに身をまかせるとき、愛は自由に全人格の力をもって流れる。親鸞の絶望した人間の慈悲も、身心を放擲した人にはかのうとなるであろう。なぜなら前者において自ら否認する以外にいかんともすべからざるものであった宿業は、後者においては捨て得られるものだからである。他の苦しみを完全に救い得る力が自分にあるかどうかは、ここでは問題でない。ただ自分の内にあって隣人への愛を阻む一切の動機を捨て得るかどうか。ただ1つ愛の動機にのみなり得るかどうか。それによってのみ自己の問題として慈悲心は解決せられるのである。(83~84頁)

■ここにおいて親鸞の慈悲と道元の慈悲との対象が明らかになる。慈悲を目的とする親鸞の教えは、その目的を達するために、一時人間の愛から目をそむけて、ただ専心に仏を念ずることを力説し、真理を目的とする道元の教えは、その目的を達するために、人間の没我の愛を力説するのである。前者は仏の慈悲を説き、後者は人間の慈悲を説く。前者は慈悲のに重きを置き、後者は慈悲の心情に重きを置く。前者は無限に高められた慈母の愛であり、後者は鍛錬によって得られる求道者の愛である。(86~87頁)

■頼む人に一分の利益をも与える事ならば、自己の名聞(みょうもん)を捨てて頼まれてやるがいい。仏菩薩は人に請われれば身肉手足さえも截った。この道元の言葉に対して、懐奘は問うていう、――まことにそうである。しかし人の所帯を奪おうとする悪意のある場合とか、あるいは人を傷つける場合などにも、助力していいかどうか。道元は答える、――双方のいずれが正しいかは、自分の知ったことではない、ただ1通の状を乞われて与えるだけの話である。その際言うまでもなく正しい解決を望むと書くべきであって、自分が審くべきではないであろう。またたとい頼み手の方が正しくないと知っている場合でも、一往その望みをきいて、手紙には正しい解決への望みを披瀝しておけばよい。「一切に是ならば、かれもこれも遺恨あるべからざるなり。かくの如くのこと、人にたいめんをもし、出来(いできた)ることにつきて、よくよく思量すべきなり、所詮は事にふれて、名聞我執を捨つべきなり。」(随聞記第1)(91頁)

■道元はこの意味で僧の徳と俗の徳を明白に区別する。「孝順に在家出家の別あり。在家は孝経などの説を守って、生につかえ死につかふること、世人皆知れり、出家は恩をすてゝ無為に入る故に、恩を報ずること一人に限らず」というごときそれである。在家はただその「親」に孝順であればよい。しかし出家は万人に対してその親に対すると同じくふるまわなくてはならない。すなわち「孝」というごとき特殊の人に対する徳に拘泥してはならない。在家にとっては親のために自己を犠牲にすることは徳の中の徳である。しかし出家にとっては、親のためにその道心を捨てるというごときは、私情に迷ってその本分を傷(そこな)うことである。在家は利己心のために親を捨ててはならない。しかし出家は道心のために親を餓死せしめてもよい。(同上第2)(99頁)

■ある僧が道元に問うて言った――自分には老母があって、ひとり子である自分に扶持されている。母子の間の情愛もきわめて深い。だから自分は己を枉(ま)げて母の衣糧(えりょう)をかせいでいる。もし自分が遁世ち籠居すれば母はⅠ日も活きて行けないであろう。が、そのために自分は仏道に専心することができない。自分はどうすればいいのか。母を捨てて道に入るべきであるのか。道元は答えていう――それは難事である。他人のはからうべき事でない。自らよくよく思惟して、まことに仏道の志があるならば、どんなほうほうでもめぐらして毋儀を安堵させ、仏道に入るがよい。要求強きところには必ず方法が見いだされる。母儀の死ぬのを待って仏道に入ればすべてが円く行くように思えるが、しかしもし自分が先に死ねばどうなるか。老母は真理への努力を妨げたことになる。これに反して「もし今生(しょう)を捨てて仏道に入りたれば、老母はたとひ餓死すとも、1子をゆるして道に入らしめたる功徳、豈(あに)得道の良縁にあらざらんや。」(同上第3)(100~101頁)

■彼が「俗なほかくのごとし」として僧侶に訓える美徳は、すべて儒教の徳なのであるが、彼はそれを仏徒にもふさわしいと見るのである。そうしてこれら一切の美徳に共通な点は、それが我執や私欲を去るということである。「俗は天意に合(かな)はんと思ひ、衲子(のっす)は仏意に合はんと思ふ。」「身を忘れて道を存する。」畢竟これが――絶対者の意志に合うように「私」を去って行為することが、――あらゆる人間に共通な道徳の原理として道元の暗示するところである。(103~104頁)

■「衣糧に煩ふことなく」とは明日の準備をあらかじめしておくことではなくして、明日の食を全然念頭に置かないことでなくてはならぬ。もとよりこのことは、寺院に常住物(もつ)なく、乞食の儀もまた絶えて伝わらないわが国においては、特に困難であるかも知れない。しかしそれにもかかわらず仏徒はあらかじめ食を思うべきでない。絶食するに至って初めて方便をめぐらすべきである。「三国伝来の仏祖、一人も飢え死にし寒(こご)え死にしたる人ありときかず。」世間衣糧の資は「生得の命分」があって、求めても必ずしも得られない。求めずとも必ずしも得られぬのではない。道元自身は「一切一物を持たず、思ひあてがふこともなうして」10余年を過ぎた。わずかの命を生くるほどのことは、いかにと思い貯えずとも、天然としてあるのである。「天地これを授く。我れ走り求めざれども必ず有るなり。」ただ任運にして心を煩わすなかれ。たとい餓え死に寒え死にするにしても仏教に随って死ぬのはこれ永劫の歓びである。(随聞記第1、第3)(110頁)

■以上説くところの道元の思想は、すべて彼の根本の情熱――身心(しんじん)を放下して真理を体得すべき道への情熱に基づいている。(117頁)

■道元によれば、真理を修行体得しようとするものにとって、第1に重大なのは導師である。正しい師に面接し、「人を見る」のでなければ、求道者は永遠の理想を把捉することができない。第2に重大なのはこの師に従い、一切の縁を投げ捨て、寸陰を惜しんで精進弁道することである。師を疑い精進を欠くものは同じく真理を体得することができない。しかしかくのごとく迷蒙を断じて仏の真髄を体得した場合に、彼をして体得せしめた畢竟のものは、他の何人でもなくして彼の自己である。彼の人格の底よりいづる至誠信心である。「髄を得ること法を伝ふること、必定して至誠により信心による。」しからばこの至誠信心とは何であるか。それは外より与えられるものではない。が、また自分の心よりいづるものでもない。自ら欲し、自ら努めて至誠信心をつくり出すことはできぬ。「たゞまさに法を重くし身を軽くするなり。世をのがれ道をすみかとするなり。いさゝかも身を顧みること法よりも重きには法伝はれず、道得ることなし。」すなわち真理体得の究極の契機は、法を重くし身を軽くすることである。(119~120頁)

■この念仏宗の立場に立てば、弥陀仏の前での人の平等の上に、さらに価値の段階を持ち来たすごときことは、思いもよらない。弥陀の大いなる慈悲を思うとき、人間に保持する微小な価値が何の権威を持ち得よう。救われるために仏を念ずるか、否か、それのみが問題である。価値を作り出すための一切の努力は何の意味も持たない。高き価値を体現した人が自分の前にあるということも顧みるに足らず、得髄を礼拝するというごときことも不必要である。人はただ大いなる弥陀仏を念ずればよい。

しかし道元は別の道を歩いた。彼にとって「法と人との関係」は「弥陀と人との関係」のごときものではない。法は弥陀のごとき人格的存在者ではなくして、人間に保任せられるものである。人に憑くことによって、現われ働くものである。釈迦仏はその模範であるが、しかし唯一の仏ではない。あらゆる人は、釈迦仏に従って、自己において法を現しめねばならぬ。すなわち人の真正の任務は自己の活動によって法を実現することである。救いとは赤児が母のふところに抱き取らるるがごとく何物かに抱きとらるることではなくして、自己を仏にすることである。法を我々において具現することである。(127~128頁)

■ここに道元の思想の優れたる特徴がある。彼の「脱落身心(とつらくしんじん)」が何を意味するにもせよ、とにかく彼は、永遠の理想(法)を自己の全人格によって把捉せんとする人間の努力に、十分な意義を与えた。それによって此岸の生活が再び肯定せられる。絶えざる「精進」が人性の意義になる。精進を斥け文化の展開を無意義とした弥陀崇拝に対して、これは明らかに人類の文化への信頼の回復である。「礼拝得随」は文化の上昇を可能にする重大な契機と見ることができる。「法を重くし身を軽くすべし」という道元の標語は、かくして、「努めてやまざるものはついに救われる」という思想に接近する。それは生活を永遠の理想に奉仕させることである。人類の健やかな生活は、この精神に導かれることを措いてほかにないであろう。(130頁)

■道元のいわゆる「法」が、人類の文化の根源でありまた目標であるところの1つのものを、余蘊(ようん)なく意味しているか否かは別問題である。しかしその究極の意義に対する止み難い根本的要求――現世のいかなるものをもってしても結局満たし切られることのない心は、ここに欠くことができない。(130頁)

■彼が『正法眼蔵仏性』においてまず考察するのは、「一切衆生、悉有仏性、如来常住、無有変易」という涅槃経(巻25、師子吼菩薩品の1)の言葉である。「一切衆生、悉有仏性」は、通例、「一切衆生、悉(ことごと)く仏性有り」と読まれる。そうして涅槃経の文(巻25)から察すると、この仏性は「仏となる可能性」である。「一切衆生、未来の世にまさに菩提を得べし、これを仏性と名づく。」ある者はすべて菩提を成じ得る。一闡提(いっせんだい)(極悪人)も成仏し得る。それゆえに彼らに仏性があるのである。しからば「一切衆生悉有仏性」は「現在煩悩に捕われている一切の衆生にも、悉(ことごと)く、解脱して仏となる可能性がある」という意味でなくてはならない。しかし道元にとっては、涅槃経においてこの語がいかに解されるべきかは問題でなかった。彼はこの仏語を経から独立させ、直ちにその中を掘り下げて行く。彼はいう、「悉有は仏性なり。悉有の一分を衆生といふ。正当恁麽時(しょうとういんもじ)は、衆生の内外(ないげ)、すなはち仏性の悉有なり。」ここに道元は「「一切衆生、悉有仏性」を全然異なった意味に読んでいるのである。悉有は、「衆生に悉く仏性が有る」、あるいは「衆生が悉く仏性を有する」というごとく、衆生と仏性との関係を示す言葉としてではなく、独立に、「悉く有ること」、すなわち「普遍的実在」を意味すると解せられている。悉有すなわちAll-seinである。従ってそれは一切を包括する。衆生も仏もともに「悉有」の一部分に過ぎない。そうしてこの「悉有」が仏性なのである。だから悉有仏性はまた仏性の悉有(仏性の遍在)でなくてはならぬ。かくのごとく道元は悉有の語義を涅槃経の知らざる方向に深めた。もはやここでは衆生の内に可能性として仏性が存するというごとき考え方は成り立つことができぬ。逆に仏性のうちに衆生が存するのである。衆生の内(心)も外(肉体)もともに同じく悉有であり仏性であって、この仏性に対立する何物もない。(131~133頁)

■ここにおいて道元は、「悉有」の「有」を絶対的な有として、あらゆる相対的な有の上に置く。有無の有、始有、本有、妙有などは、限定せられた有として皆相対的である。しかし悉有は、「心境性相にかゝはらず」、ただ有である。因果性に縛られない。時間を超越し、差別を離れる。「尽界はすべて客塵なし、直下さらに第二人あらず。」すなわち、我に対する客体も、我に対する彼、汝もない。従って我が悉有を認識する、というごときことは全然不可能である。仏性を婆羅門の「我(アートマン)」のごとくに解するものは、仏性の覚知を説く点において、右の消息を知らない。彼らは「風火の動著する心意識」を仏性の覚知と誤認しているのである。仏性は悉有であって覚知を絶する。「まさにしるべし、悉有中に衆生快便難逢(かいびんなんふ)なり。悉有を会取することかくの如くなれば、悉有それ透体脱落(ちょうたいとつらく)なり。」(133~134頁)

■かくて道元は諸方実相の思想を徹底させる。「この山河大地みな仏性海なり。」山河大地はそのままにお「仏性海のかたち」なのである。山河を見るはすなはち仏性を見るのであり、仏性をみるとは驢馬の顋(あご)、馬の口を見ることである。ここに現象と本体との区別は全然撥無(はつむ)される。世俗諦(たい)(シナにおいてはこの語は自然的態度における真理の義に解された)と、勝義諦あるいは第1義諦との区別もない。有るものはただ仏性のみである。否、「有るものは」と言うこともできない。ただ「仏性」である。ただ「悉有」である。(137頁)

■驢馬の顋を見て仏性を見るのは、驢馬の顋を驢馬の顋とする世俗諦を超脱して第1義諦に立つゆえでない。また世俗諦すなわち第1義諦と言う実在論的な立場を取るがゆえでもない。認識をより高き立場の「行」において活かせ、行の権利によって認識するがゆえである。「悉有仏性と道取する力量がある」がゆえである。すなわち、悉有仏性と知って解脱(成仏)するのではなく、解脱して悉有仏性と知るのである。道元はこの点に仏法参学の正的を置き、「かくのごとく学せざれば仏法にあらざるべし」と言う。我々は道元の説く悉有仏性をかくのごとき真理体得の指標として解せねばならぬ。(138~139頁)

■すなわち、仏性の有無を問題とした言葉でなく、仏性が成仏の後に具足するという立場に立って、いまだ成仏せざるもののために仏性の真義を説いて無仏性と道破したのである。(142頁)

■仏性の意義はかくのごとく悉有あるいは無において現わされる。しかしそれは単に思惟されるべきものではなくして、大力量にやって体得され、住持さるべきものである。従って、いまだ成仏せざる立場にあって仏性を知ろうと思うならば、それを思索するのではなくして、それを住持せる「人」において見なくてはならぬ。(145頁)

■道元が、人における仏性の具現をいかに考えたかは、明白に現されている。彼が石頭草庵歌の欲識菴中不死人、豈離只今這皮袋〔菴中不死の人を識らんと欲すれば、あに只今のこの皮袋を離れんや〕を引いて、肉体の主人たる不生不滅者は、たとい誰の(釈迦や弥勒の)それであっても、決してこの皮袋(肉体)を離れることはない、と説いているのを見ても、仏性を最も具体的に、人格において現わるるものと見たことは確かである。そうしてここに我々は、彼の悉有と、差別界に住する我々の生活との、直接な接触点を見いだすのである。(147~148頁)

■悉有仏性あるいは無仏性の真理は、ただ解脱者にのみ開示せられる。逆に言えば、この真理の体得者はすなわち解脱者である。そうしてそこに達する道は、道元に従えば、ただ専心打坐のほかにない。単に思惟によっては、人はこの生きた真理を把捉する事ができぬ。もし我々が道元を信ずるならば、彼の宗教的真理は哲学的思索の埒外にあるものとして、思索によるその追究を断念せねばならぬ。しかし一切の哲学的思索が結局根柢的な直接認識を明らかにするにあるならば、我々はかかる直接認識が何であるかをこの場合においても思索することができよう。彼によれば仏性は人格に具現する。仏性を具現せる人は仏性と我々との間の仲介者である。我々は「人」を見ることによってその真理にふれ得る、また触れねばならぬ。彼の場合について言えば、悉有仏性あるいは無仏性の真理は、彼の人格を通じて我々に接触する。この真理を真理を体得した彼は、真理を真理のために追究する熱烈な学徒、生活の様式において教祖への盲目的服従を唱道する熱烈な信者、無私の愛を実行する透明な人格者、真理の王国を建設するために一切の自然的欲望を克服し得た力強い行者、として我々の前に現われる。我々はこの人格を通して彼の「悉有」の認識を思索せねばならぬ。その時にこの悉有の内的光景が幾分かは彷彿せられるであろう。思うにそれは、最も深き意味における「自由」である。彼の「身心脱落」の語も、恐らくこれを指示するのではなかろうか。(148~149頁)

■道元はこの種の汎神論的思弁を斥けていう。仏祖の保任する即心是仏は、外道の哲学のゆめにもみるところでない。ただ仏祖と仏祖とのみ即心是仏しきたり、究尽しきった聞著(もんじゃ)、行取(あんしゅ)、証著(しょうじゃ)がある。ここにいう「心」とは一心一切法、一切法一心である。宇宙の一切を一にしたる心である。かくのごとき心を識得するとき、人は天が墜落し地が破裂するごとくに感ずるであろう。あるいは大地さらにあつさ3寸をますごとくに感ずるであろう。かくのごとき打開によって人格的に享取せられたせられた心は、もはや昔の心ではない。山河大地が心である。日月星辰が心である。しかもその山河大地心はただ山河大地であって、波浪もなく風煙もない。日月星辰心はただ日月星辰であって、霧もなく霞もない。この極度に自由にして透明なる心、――自ら生くるほかには説明の方法のない心、――その心こそすなわち仏である。だから即心是仏は発心、修行、菩提、涅槃と離して考えることができない。一瞬間、発心修証するのも、また永劫にわたって発心修証するのも、ともに即心是仏である。長年の修行によって仏となるのを即心是仏でないと考えるごときは、いまだ即心是仏を見ないのである、正師にあわないのである。「釈迦牟尼仏、これ即心是仏なり。

かくのごとく悉有あるいは無の無がすなわち心であり、この絶対的な意識において山河大地がそのまま心でありまた山河大地であるという思想には、我々は1つの深い哲学的立場を見いだし得ると思う。(150~151頁)

■さらに一歩進んでこの道得は、それ自身独立の活動として規定される。修行者が他人に従って、あるいは「わがちからの能(岡野ルビ;はたらき?)」によって、道得を得るのではない。「かの道得のなかに、むかしも修行し証究す、いまも功歩し弁道(はんとう)す。仏祖の仏祖を功夫して仏祖の道徳を弁肯(はんけん)するとき、この道得おのづから3年8年30年40年の功夫となりて尽力道得するなり」(同上道得)。すなわち一切の修行は道得のなかに動くのである。道得が功夫として活動し、努力して道得するのである。道得自身の自己道得である。修行者(その修行が道得のなかにある意味においてすでに仏祖である)が数10年の修行は、道得がそれ自身を実現する過程にほかならない。ここに道得は、何人かが道い得る道得ではなくして、主客を抜き去れる道い得ること、すなわち道の能動的な活動として立てられる。ロゴスの自己展開である。(168頁)

■かく道得がイデーのごとき働きをするものとすれば、この道得の働きとして現われる功夫は、道得が内より産み出す開展の過程であるほかはない。「いまの功夫、すなはち道得と見督とに功夫せられてゆくなり」という言葉は、恐らくそう解すべきものであろう。達せられるべき道得を内に具えた1つの見解が、その道得に呼び出されて現われてくる。しかしそれはまだ道得ではない。従ってそこに疑団が生ずる。この見解と疑団との対立のために功夫が必要となるのである。ところでこの疑団もまた右の見解に内具する道得が呼び出したものであるゆえに、この功夫は道得と見得とに功夫さられると見られなくてはならぬ。かくて一切の功夫は、人が任意に取り上げるものでなく、道得自身の内より必然に開展しいづるものと解し得られるのである。そうしてそれは、1つの疑団が解けて新しい見解に達しても、その見解が道得でない限り決して止むことがない。新しい見解はさらに新しい疑団を産む。「道得と見得とに功夫せられてゆく」という言葉がこの事を含意すると見られるであろう。やがてついに、「この功夫の把定の月ふかく年おほくかさなりて、さらに従来の年月の功夫を脱落するなり。」脱落とは恐らくaufhebenに当たる言葉であろう。いまの道得はかの時の見得をそなえたるものであり、一切の功夫は今の道得の内に生かされる。脱落は滅却ではなくして、とり高き立場に生かせることである。ここに道得は、一切の見解一切の功夫をそれぞれその立場において殺し、より高き1つの立場において殺し、より高き1つの立場において全体的に生かせたものとして現われてくる。(161~163頁)

■道元は日本においてまだ禅宗の伝統の確立されない時にシナに渡った。真に禅宗の思潮に没入し得た日本人は、彼が最初であったと言ってよい。しかるに彼は、すでに67百年の伝統を有する末期のシナ禅宗の中に飛び込むとともに、敢然として、このただひとりなる如淨を正しとしたのである。すなわち彼は、禅宗の伝統よりも、如淨一人を択んだのである。彼の後にいかなる禅宗がシナ人によって日本へ導き入れられたにもせよ、とにかく最初に力強くそれをなしたこの日本人は、その禅宗に対する抗議者として「禅宗」なるものを否定しつつそれをなしたのであった。この点から見ても、禅宗の非論理的傾向に対する彼の反抗の思想が、当時のシナの流行思想をそのまま輸入したものでなかったことは明らかであろう。ここに我々は、彼の道得や葛藤の思想の特に重大視せらるべきゆえんを見るのである。(174頁)

(2011年6月17日)

-『仏陀』増谷文雄 著 角川選書ー18

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