岡野岬石の資料蔵

岡野岬石の作品とテキスト等の情報ボックスとしてブログ形式で随時発信します。

『仏陀』増谷文雄 著 角川選書ー18

『正法眼蔵』【真実の求め】酒井得元 大法輪閣

投稿日:2020-12-02 更新日:

『正法眼蔵』【真実の求め酒井得元 大法輪閣

●先師古仏云わく、渾身口に似て虚空に掛く、東西南北の風を問わず、一等に他が為に般若を談ず、滴丁東了滴丁東(てきていとうりょうてきていとう)

これ仏祖嫡々の談般若なり。渾身般若なり、渾自(こんじ)般若なり、渾他般若なり、渾自般若なり、渾東西南北般若なり。(132頁)

■この詩は『宝慶記』の中に出ているでしょ。この詩に対して道元禅師は、大変随喜されておりますね、非常にほめておられます。昔からこの詩は東洋一だという話があります。東洋一の名詩であると。文学的にはともかくとして、私たちの宗乗(しゅうじょう)(注)から、これは素晴らしい。

「渾身口に似て虚空に掛く」ー中略ーつまり、鈴(れい)というものは、身体全体が口で、そして虚空と一体であると、こう言いたいところですね。

そして「東西南北の風を問わず」――どっちの風が吹かなければならないということはない。風が吹きさえすれば鳴る。これは方角なしだ。方角なしということは、尽十方界ということを表わしている。

「一等に他が為に般若を談ず」――一等に、みんな平等です、いつでも、ジャランジャランジャランジャラン鳴っております。あのジャランジャランジャランジャラン鳴っている音が般若の音なんですね。つまり具体的に般若を示してくれる。(132~133頁)

注1;大乗・仏乗・一乗の乗と同じ。これに乗って直に道場・如来地に至る乗り物、仏が本来乗っている乗り物。それに宗の字がつく。

■道元禅師が自己ということを一体どう取り扱っておられたか。一体、自己というのは何だろうか。私たちが普通やっている自己、「オレが、お前が」という自己を突き詰めてまいりますと、寝ている時には、自己は一服しています。やっぱり物が欲しいという時にこれが出て来る。つまりこの自我というものは、私たちの身体の生命活動の一つの表情だったのです。自我というものは、それしかないのです。だから私たちの日常生活の主体である自己というものは、自我意識であり、それは身体の生命活動の一つの表情と見たらいいのです。すなわち私たちの生活活動のすべては、身体の生命活動の表情、生命活動の景色でこの自己というものを考えなければならない。(169頁)

■ここで道元禅師の有名な「現成公案」の巻の言葉、「仏道をならふといふは、自己をならふなり」を参究してみたいと思います。この自己というものについて、道元禅師はこう言っておられます。「自己をならふといふは、自己をわするるなり」。この「わすれる」ということはどういうことでしょうか。「自己をわするるといふは、万法に証せらるるなり」。これが「わすれるということだ」とあります。これは、我々の日常生活の中での忘れるという一つの精神現象ではなく、身体の生命活動そのものの事実が「わすれる」であったのです。

「万法」と言いますと、道元禅師の好きな言葉には「尽十法界の真実」という言葉があります。これは禅の独特の言葉です。この尽十法界という言葉を六祖以後で一番先に使い出したのは南泉普願(なんせんふがん)あたりからでしょう。その弟子たちが尽十法界という言葉を盛んに使っています。趙州(じょうしゅう)も使ってます。趙州になってから遂に「尽十法界真実人体(にんたい)」という言葉に結実しました。この言葉は当然、仏法にあっては、結実しなければならなくて結実したものです。

尽十法界ということは宇宙全体のことです。つまり宇宙全体が真実であったのです。考えてみると、宇宙全体とはどういうものであるか。これが道元禅師の『正法眼蔵』の中心となっています。と申しますのは、道元禅師はこの宇宙の真実というものを存在として見ないんですね。すべてのものが一時も休まず、休憩なしに生命活動をしていると、こういうふうに見ておられる。だからそのことが言葉になって「仏向上事」という語が出現した。この仏向上事という語は宇宙の真実の実態を表現したもので、これが「仏向上事」の巻という『正法眼蔵』独特の巻と現成したのです。

じつはこれを私も、どういうふうに読んだらいいかと思って苦しんだんです。そうしていたらこれは「仏は向上事なり」と読むとよいと分った。つまり宇宙のすべてのもののあり方には向下はありません。向上ばかりです。すべては絶えず、ずっと生き続けています。世の中には何一つとして若くなるものはありません。みんな毎日々々歳を取っています。コンクリートの建物も、歳取るんだそうです。私らもそうです。みなさんももう後50年たってごらん、みんなこんな顔になることでしょう。そのころの顔を見てみたいと思うけれども、仕方がない。全部ただひたすらに歳取っています。つまりこれが向上ということで、いつでも向上を続けています。宇宙全体がこのように、のべつ幕なしに生命活動を続けているのです。つまり言うと、この実態が因縁和合であったのです。すべてのものはかく一生懸命に新しく新しく生き続ける努力をしています。それと同時に新しく出来たものはすぐ壊れています。(170~171頁)

■だからすべての形というものは、それぞれ出来上がった時の姿がすべてで、それが絶えず続けられているのであったのです。だから、すべてはその時の姿が絶えず連続的に続けられているのですから、言ってみるならば、すべてのもの、形態というものは一時的なものの姿であったのです。だからその姿は「時」であったのです。「法」という概念もこのような実態を表現したものですから、私は法という概念を、ものごととか事件というように理解しています。ものごというように解してみると、すべてのものの実態がよく理解できます。すべてのものはこういうふうですから、いつも新しいのです。ですから道元禅師には有名な「有時(うじ)」の言葉がある。そしてそれによって「有時」の巻が撰述されている。これは「有は時なり」ということです。または時は有なりということです。(171~172頁)

■したがって人生で悩んだり悲しんだりして、人生の一大事とばかり大騒ぎをしても、それはあなたがただ狼狽しているだかで、事実は大したことはありません。これらはみんな向上事の風景です。その風景というものは、その時だけのもので、消えてしまったらそれまでのものです。その時だけのものだから、道元禅師は、このことを「夢中説夢」という言葉で、これを巧みに表現されておられます。(173頁)

■「自己の身心および他己の身心を脱落せしむるなり」というのは、この尽十方界真実人体の実修実証の只管打坐の実態を実践的に表現したものです。そしてこれが「自己をならふ」ということであったのです。その時、すなわち本当に自己に撤するのであり、人生を超えているのです。つまり「自己をならふ」ということは人生の中でのことではなかったのです。仏道における「自己」とは「尽中方界真実人体」のことであったのです。(175頁)

■補注

【現成公案】;『正法眼蔵抄』には「現ハ隠顕ニアラズ、成ハ作学ニアラズ、公ト云フハ平等ノ義也、按ト云ハ守分ノ義也。平不平名曰公、守分名曰按」とあり、『正法眼蔵』の現成公案の意味はこれによって解すべきである。(208頁)

【六祖と神秀上座】:六祖慧能が廬行者(ろあんじゃ、行者は得度を受けず在俗のまま寺の労務に服する者。姓が廬であるので廬行者という)として五祖弘忍の下にあって碓坊(たいぼう)で修行していた時、五祖は門人を集め、自分の意にかなう一偈(げ)を作った者があれば、衣法(えほう)を付して第六代(達磨を初祖として)の祖にしよう、と告げた。黄梅(おうばい)七百の僧中の教授師として衆望をになった神秀上座は「身は是れ菩提樹、心は明鏡台の如し、時々に勤めて払拭(ほっしき)して、塵埃(じんない)をして惹(ひ)からしむこと莫(な)かれ」という偈を作って壁上に書した。これに対し廬行者は「菩提本樹なし、明鏡も亦た台にあらず、本来無一物、何の処にか塵埃を惹かん」という偈を作った。五祖は密かに廬行者に衣鉢(いはつ)を授け六祖とした。(六祖壇経)(210頁)

【六祖】;河北省范陽(はんよう)の人、姓は廬氏。父が広東省に左遷されて新州で生まれる。幼くして父を失い、薪を売って母を養う。一日、客が『金剛経』を読むのを聞いて心が明らかになり、問えば黄梅山の五祖弘忍禅師より得たという。黄梅に至っての五祖との問答は、『伝灯録』五祖章によると、「汝何よりか来る」「嶺南(れいなん)」「何事をか須(もち)いんと欲す」「唯だ作仏(さぶつ)を求む」「嶺南人、仏性なし、若為(いかん)してか仏を得ん」「人に即ち南北有りとも、仏性豈然(あにしか)あらんや」とある。これによって五祖は異人なることを知ったが、呵して碓坊(たいぼう)に去らしめた。六祖は昼夜休まず碓(うす)を踏んで服労すること八ヶ月、五祖は時の至るを知って、門下に付法の為の偈を作らせた。六祖の偈が五祖の意にかない、衣鉢を授けられたことは前述のとおりである。この後六祖は猟人の中に隠れて十六年、上元三年(678)風動幡動の問答で法性寺(ほっしょうじ)の印宗に見出され、印宗に法を説いて来歴を明かし、祝髪(しゅくはつ)し具足戒を受けた。翌儀鳳二年、曹渓の宝林寺に移り、大いに宗風を発揚した。

六祖の門下からは青原行思と南嶽懐譲が出て、いわゆる五家(ごけ)として繁栄し、中でも曹洞宗(そうとうしゅう)・臨済宗の系統は現在に続いている。その他、南陽慧忠・永嘉玄覚(ようかげんがく)など多くのすぐれた禅者が輩出した。また、神秀の系統を北宗と言うの対して、六祖の系統は南宗と言われる。

六祖の遷化は先天二年八月三日、春秋7十六歳。憲宗より大鑑禅師と諡(おくりな)されたので大鑑慧能(だいかんえのう)といい、また六祖、曹渓等という。(210~211頁)

【毘盧舎那仏】;Vairocanaの音訳。盧舎那仏ともいう。真言宗では大日如来とする。華厳経・梵網経等に説かれる。(212頁)

【無所得】;得る所なし。『摩訶般若波羅蜜多心経』に、「舎利子よ、是の諸法は空相にして、不生不滅・不空不浄・不増不滅なり。是の故に空の中には、色も無く、眼耳鼻舌身意も無く、色声香味触法も無く、限界も無く乃至意識界も無く、無明も無く無明の尽くることも無く、乃至老死も無く老死の尽くることもなく、苦集滅道も無く、智も無く亦た得ることも無し。得る所無きを以ての故に」とある。得て自分のものにしようとしても、自分のものとして得られるものは一つもない。物的にも、認識においても、納得においても、すべて得られない。(213~214頁)

【無性闡提(むしょうせんだい)】;無性は無性有情。法相宗で説く五種姓(菩提定姓・独覚定姓・声聞定姓・無性有情)の一。仏になる種子(しゅうじ)を先天的に持っていないため成仏できないとされる。闡提(せんだい)は一闡提(せんだい)の略。断善根・信不具足と訳され、仏になる善根を断じているので成仏できないとされる。

観世音菩薩のように大悲を先にとする菩薩は、衆生を先に度して一切の衆生が成仏し終って後でないと自らは成仏しないという誓願をたてている。ところが衆生は尽きることがないので、永遠に成仏できない。故に無姓闡提(むしょうせんだい)の菩薩という。(215~216頁)

【苦集(じゅう)滅道】;四聖諦(しょうたい)、または四諦という。諦はsatyaで、現代の学者は真理と訳している。この身はすべて苦であるという真理(苦諦)。苦の生起の原因(それは渇愛である)という真理(集諦)。苦の滅尽という真理――それは渇愛を完全に離れ滅することである(滅諦)。苦の滅尽に導く道、それは八正道である、という真理(道諦)。(78頁)

【孤雲懐奘】;孤雲懐奘(こうんえじょう、1198~1280)。建久九年、京都に生まれる。比叡山の円能法印について剃髪、十八歳で菩薩戒を受ける。倶舎・成実・三論・法相を学び、摩訶止観を学すが、名利の学業の益なきことを知って叡山を下り、浄土の教門を学び、小坂の奥義を聞き、多武峰(とうのみね)の覚晏が見性の義を談ずるのを知って参じる。時に道元禅師が帰朝して建仁寺に寓するを聞いて参問し、文暦元年(1234)深草の草庵に参じ、翌年仏祖正伝の戒法を受け、更に参じて一毫衆穴を穿つの因縁を聞いて省悟し法嗣とされる。これより後二十年、影の形に随うがごとく、諸職を務めても必ず侍者を兼ね、一日も禅師の元を離れなかった。道元禅師も、懐奘禅師を重んじて永平寺の一切の仏事を行わしめ、室中の礼はあたかも師匠のごとくであった。建長五年、道元禅師の退院によって師席に住し、禅師の遺跡を継いで永平寺僧団を率いた。文永四年(1167)席を徹通義介に譲ったが、義介退院の後、再び住持して、公安三年八月二十四日示寂、八十三歳。死期も先師に同じく八月下旬を願い、遺骨は禅師塔の傍ら侍者位に安じて別に塔を立てないよう遺言した。(228~229頁)

【聞法】;◆身心を決択(けっちゃく)するに自ずから両般有り。参師門法と功夫坐禅となり(学道用心集)。

門法と坐禅は、車の両輪、鳥の両翼とされる。(230頁)

(2015年2月15日)

-『仏陀』増谷文雄 著 角川選書ー18

執筆者:

関連記事

読書ノート(2013年)全

読書ノート(2013年) ――――――――――――――――――――――――――――――――――――― 『正法眼蔵随聞記』懐奘編 和辻哲郎校訂 岩波文庫 正法眼蔵随聞記第一 ■一日示して云く、人其家に生 …

『善の研究』西田幾多郎著 全注釈小坂国継 講談社学術文庫

『善の研究』西田幾多郎著 全注釈小坂国継 講談社学術文庫 ■純粋経験を唯一の実在としてすべてを説明してみたいというのは、余が大分前から有(も)っていた考えであった。初めはマッハなどを読んでみたが、どう …

no image

『詩に架ける橋』斎藤庸一著 五月書房

■「貴方の詩集『防風林』を送っていただきました。有難く御礼申上げます。未だよく読みませんが夜の静かな折読ませていただきます。孤独ななかでこんなに気取らないで極めて平易でそれでいてするどいまた骨節のある …

no image

『回想のセザンヌ』エミル・ベルナール著 有島生馬訳 岩波文庫

『回想のセザンヌ』エミル・ベルナール著 有島生馬訳 岩波文庫 ■翁は近東風な敷物の上に3つ骸骨を並べた畫を描きかけていられた。これはもう一月も前から毎朝従事していた仕事で、朝の6時から郊外の畫室に通い …

『ブッダの真理のことば(ダンマパダ)』中村元訳 岩波文庫

『ブッダの真理のことば(ダンマパダ)』中村元訳 岩波文庫 ■第1章 ひ と 組 ず つ 1)ものごとは心にもとづき、心を主とし、心によってつくり出される。もしも汚れた心で話したり行なったりするならば、 …