岡野岬石の資料蔵

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読書ノート

『坂本繁二郎文集』 昭和31年 中央公論社刊

投稿日:2020-08-08 更新日:

『坂本繁二郎文集』 昭和31年 中央公論社刊

■藝術は藝術家の感能性を感得すること能わずして其あつかわれた材料の目を奪はるゝならば敢えて藝術家の感能性を待つ必要はない。之れ等を指して自分は形骸観者と名付ける。情熱的藝術家が一個の石を描いたのを見て彼れ等は冷やかな情熱に乏しい作物だと思ふだらう。多くの画がしかも努力されて並んで居るのに情緒感能の動いて居るのがないとは情ない様な気のするものだ。若し自分の要求が充たさるゝ程の作品が見付かつたならば其前に跪拜する事を辭さない。實に藝術の天地は六ケ敷い事で藝術の天地に動いた作物は滅多にない。世間は藝術を求めて居る。希望はさうなつて居るのに藝術はあべこべに實世間によりていがめられ侮辱せられて居る形なきや。批判と云ふ事を全く去つてしまつた藝術感の貴さは却つて何んにも知らぬ只の素人(かりに名付ける)の間に却つて多く見られる。彼等は幾何(いか)にも奇麗と思つたもの丈けを奇麗とするのだ。此點生なかな藝術社會者(之れもかりに名付ける)の一顧を要するところだらう。或は自分等も藝術の堕落を自覺出來ずに居るのかもしれぬ。(方寸 第4卷第8號〈明治43、12、昭和30訂正〉)(55頁)

■物の存在を認むる事に依つて、自分も始めて存在する。

 存在によりて存在する意識は、自分の外には何物もないけれども、物の存在を認むる事は、自他同存でありながら意識には物なる只其事のみである。自分なる者があつては、それ丈け認識の限度が狭くなる。自分を虚にして始めて物の存在をよりよく認め、認めて自己の擴大となる。

 此存在の心は、自然力その脈動する意識であるかも知れない。刹那々々のみを、自分たり得る心である。強ひて説明すれば消滅する心だらう。假に一元と名付けるが、茲(ここ)に云う一元は物の力の根原が、自然力と云ふ一原に起因したと云ふ理論の一元ではない。意識の同化である。理論には其意識をも一元と名付くるかもしれぬが、しかし理屈其儘を意識たり得る事の出來ない様に、意識其儘を理屈する事も出來ない。只假定は出來ても、直ちに其れが其事にはならない。眞に其れで理屈するならば、理屈を放れて意識の内に入つて來ねばならぬだろうが、さう云ふ事は理屈の表現では際限が付かなくなる。……只一點の立脚地により、只一方の見得る心は、心愕する程の存在境を意識するだらう。虚は實に逆に一大存在の意識である。此存在は石礫や、虫類、人、或は自分其事に歸するのである。自分なる五體の上にも、適切なる虚其事が脈動して居るのである。或は之れを現存の通り約束せられて居る理とでも云ふ可きか。燃ゆる火が熱いと云ふ約束は、現存の約束に相違ないのである。しかし此約束も現存こそすれ、或る時期に達したときに變化する事なしとは云はれず、現に其れが認めらるゝ意識に相違ないのであるにも係はらず、吾等は其絶對を保證する事は出來ない。斯(しばら)く進行して吾人は現存理外の想定可能に逢着する。一口に云へば自然の力の有を認める故に、之は恐ろしい事だがその無が匂ふ事である。さうして現有の姿が實に確實となつて來る。自分の五體の現肉欲に依りて見たるものは、たつた皮肌的神經の力の範圍である。音も、色も、熱も確かに認め得るには相違ない、けれども自分丈けの事、例へば不透明の物のあちらは見えない丈けの認め方である。それで此神經が動いて居る間は、其れ以外の脈動と云ふ様な意識は隠れてしまつて居る。虚の意識は我利と相容れない。我利も極度に達すれば又別であるが、要するに文字は只假示である。(虚或は一元等假に此の名稱を借る迄である)人體には、自分の肉丈けの慾を充たす丈の神經と共に、意識の慾望と其の可能性が存して居る。若し之がないならば、哲學など云ふ意識探求の喜悦があるわけがない。哲學的進路に眼を圓くして心を引かるゝものがあるだろうか。直接衣食住其事でない、此の道に人が興味を持つ筈がない。或は哲學に無感興の人もあるには相違ないが、其等は根本的に意識力が少いか無いかで、其無い意識を辿る事ならば、無論馬鹿氣た無用事に相違ないから、感興もないだろう。此種の人はそれ丈け狭い範圍に存在して居るので、其人の叫ぶ權限は隨つて狭い範圍しか力が及ばない。怒りと笑ひと泣くのと而して相論ずるときは、必ず喧嘩である。火に手をあてゝ熱いと云ふ意識を、馬鹿として笑ふ事の出來ない様に、哲學の意義は理屈でなく本能意識に於てである。狂とは違ふのである。それが一見非實際なるかの如き形なるが故に、狭い實際場裏に稍(やや)ともすれば無視せられる。しかし哲學意識程、實際界に密接して離るゝ事の出來ぬ意味のものはない。

 藝術が、自己の慾望希望に一致するものを得しとき喜悦さるゝならば、虚の現した藝術は總べての人の意識に關係を持って居る何物かの伏在があるに相違ない。所謂達人の藝術が人心と深き交渉を持つところは、虚の意識或は一元の意識に接觸の境地、又は其れに近い或るものゝ存在であると思ふ。一元意識の上に認められた藝術は、(藝術と云つても之れは必ずしも作品の事ではない)其の喜びは衣食住の嬉しさの如くに、限内の喜びではなく、大きな世界に大きな自分を發見した喜びである。之は良心と言つてもいゝかも知れぬ。しかし其神經の發原地は、脈動こそは廣義に通じて居るのであるが、五體の盛衰と共に盛衰せらるゝ位置に在るので、衣食住を無視しては存在されないものである。衣食住の満足が足りた上に、其後に表はれて來る意識界である。此意識に依つて衣食住を超越した境地に入る事は出來るだらう。しかし意識の働きは何處迄も生肉でなければなるまい。

 一元意識に住する間は、其脈動の通じ得る總べては自分たり得る境地である。他人は勿論木片草蟲其事の存在を認め、眞に此れを意識し其處に自己を認めたものである。脈動界の其總べては之れ自分の生存である、頭である、血である。其時肉の五體に起る憎悪好醜しないのである。此形を、單に五體主觀以内に住するところから見たならば、何か却つて不足した行動に見えるかも知れない。其形は或る不足があるに相違ないと共に、また只肉の範圍の存在者は只其れ丈けの存在にて、意識の存在なきものは其物の存在も其處にはないのであるから、矢張り狭い半面のみである。かわるがわる此兩面に出入りすることは出來るかもしれないが、同時に住する事は恐らく出來ない事だらう。

 一元意識の如く、虚のところに立脚すれば、之れを説明すればする程非虚となつて、立脚地を遠ざからねばなるまい。虚なる事は虚其事で、言ふ事も示す事も出來ない、おのづから會得するところに出現する脈動である。其脈動なる事も存すれば即ち非虚である。而して虚なる事は非情に行渡りたる切實なる存在感に同居する。脊中の痒さを掻いて貰ふとき、も少し上の方下の方とは云へても、直ちに其當體を指す事の出來ぬ様に、偶然に痒いところに手が届いたとき、其處だ其處だとは云はるゝだらう。

 藝術品もこの消息が自づから深さ大きさに關連するものと思ふ。哲學に渉つた藝術は、必ずしも人間と關係を保たない方面と、又最も適切な關係の方面とあるだらう。無論人的立場より求むる心の要求には、關係の適切なる方面が交渉するに相違ない。肉的範圍の藝術は、其れ丈け一元的の藝術意識にないところも存在して居るには相違ないが、一元的藝術には、又肉的局限立脚の藝術には及ばないものが宿る。そして之れが世間と云ふところに用事を持つとき、肉的立場のものは狭い近い周圍にのみ關係を持つもので、時代でも過ぎれば直ちに忘却さるゝ藝術であるが、一元的のものは總べて脈動して時代を經た世界に迄、何處迄も関係を持つだらう。斯くして却つてつ尤(もっと)も世間的用事を發揮して來る。之は人間向上慾の大なる一つの方向でこの立場より見れば、人肉限内的慾望は狭い消極の満足にしか見えないだらう。(『存在』方寸 第5卷第3號〈明治44、7、昭和30訂正〉)(56~60頁)

■相逢うてより相別れる迄特別なる印象を以つて自分に現はれて居た其君の顔が、大きな口を開けて無遠慮に笑った、其の吝でなかった心持ちのいゝ気魄、ハッハッハッと笑つた其の意味深き聲は忘れられない。大いに食った揚句、大いに描いた揚句、君は手を敲いて踊つた。『ポゝンのポン、ポポンポポンポポン』之れはいつも直ぐやり出す君の得意の調子である。それを繰り返して足拍子を合する、自分は之れを見るときに、君を尊敬せずには居られなかつた。妙義に登山したとき、夕日に染まつた錦鶏山の頭を望んで、君が大聲に『エヒヨウ』を叫んだのが木魂に響いたとき、自分は寫生の手を止めて只わけもなく胸を躍らした。社務所の2階にⅠケ月餘り丸野君と3人で宿つたとき、山中のシーンとした夜に只藝術の事許り話した事、幾夜さか夜撤(よあか)しした事、曙町の事や、房州に旅行した事など、皆新しい渦巻として頭の内に響いて居る。少年の折の君の優しかりし顔が、僅かの間に鋭く進んで、惣ちに又消えた。其一々の移り行きがありありとして、君が30年の生涯は、態々悲惨なる運命を求めて流星の如く現はれたものゝ様に許り思はれてならぬ。(『逝ける青木君』)(61~62頁)

■時勢や知識は何處迄も横には擴がる。しかし、それは必ずしも感能の深さではない。作品の上では之が屢々混同されて、唯時勢に依って作られた形式の變化に過ぎないものでも、直ちに感能の深さであるかの様に間違へられる事がある。

 平面的進行は左程の骨は折れずに、時勢や流行の力で以て、無性者でも働き者でも差別なしにどんどん押しやって仕舞ふ。今日の小學生徒は遊び半分に、14,5年前の大家の苦心惨憺で以つてやつと仕上げた様な事を、御茶の子で仕て退ける。但し多くは平面的丈けの意味での事で、深さの方は時勢や流行と必ずしも倶(ともな)はないから、各自の先天的器量の馬力に依る外仕方がない。だから此方面にレコードを破る程の進行をする人は容易に出てない。(『寸感』)(81頁)

■畫の出來るのは元より物が是認されたときに限られて居る。若し否定するならば繪畫などとは無論縁が切れる。

 しかし是認と云ふ事には自づから否定が裏付いても居る。其れは丁度否定の心理が即是認である様に、吾人の心は在るとか無いとか云ふものが常に遠心力と中心力との様に連絡を保つて居る、それで心の働らきと共に物の見え方なども餘程位置が違つて來る。例へば麥の生えて居るのを見ても、只麥が生えて居ると見た丈けでは其れ丈けで終へる。麥は麥吾は吾で明々白々ではあるが、只其れ丈けである。けれど1度麥なるものが否定され出すと、其次に麥は確かに麥に相違なき働きが一層感ぜられて來る。此否定は自づから心に迫って來るもので、理由は何う云ふものか分からない。例えば或る物を敲く場合に、只當てた斗りでは其れに障る丈けで打當る迄にはならないけれど1度他の一方に振り上げて打下ろすと強く打當り得る様な工合である。屢々(しばしば)人が善を善と知って、しかも之れ丈けが自己の行の總べてだと極めて満足して居る様な場合に起る反感の如きもので、之れは一寸事は違ふけれど要するに同じ意味になると思ふ。吾等は善人に反感を持つ事を普通の心では不条理とも見えねばならぬが、一面に此の動かす可からざる或る物は根強くより眞

實を求めんとする心に陰(かく)れて居るから仕方がない。(『思って居る事共』)(84~95頁)

■畫をかくからには誰れでも何かつかむところがあるには相違ない、しかしつかむと云ふ事は其處に悲哀がある。畫を描くからには何か機縁がなければならぬだらうけれ共、希望より云へば、つかむと云ふ事は仕度(したく)ないものである。つかまずして現はれたものならば、まだまだ自己の信(ママ)實の形を見得る丈け我慢も出來る。自己に意識しない進行には、詭(いつは)りのあり得様がないからである、意識して歩を進めると云ふところには、多く或る不滿が倶なひ勝である。意識は智的になり易い、知らず知らずにも本能感得の純を妨ぐる事があるからである。其かと云つて意識なしに進む事は事實される事ではない。偶然の結果以外に其れは期待する事は出來ない位置である。それでさうなると進路は只一筋の羽目から羽目を進まぬわけに行かない事になる。今羽目から羽目に行かねばならなくなつて居ると思つたら其處にはもう其羽目の信實は消失するわけである。此處に羽目から羽目の道がいや應なしに開けて居ると思はぬわけに行かなくなる。此の心も亦直ちに捨てられねばならない。

 要するに新鮮と知とが相容れない形を持って居る間、吾等の進路は是が非でも此の無理な形に居ねばならぬ。此處に不斷足の裏に火の燃えて居る悶々が起る。知は何處迄行ったところで盲に追ひ及ぶ事が出來ない、盲は又知に従はねばならぬ、困った形なのである。吾等は批判の心を要すると共に、愈々(いよいよ)歩を進める時は盲に就かぬわけにはいかぬ。盲智に依って新鮮の世界に接する以上のいゝ道を、今の處思ふ事が出來ない。若し一を知って其儘一に居たならば、其處にはもう堕落の第一歩が芽ぐむであらう。知って其儘居るのは安逸である、其うして安逸に居るには此の世界は餘りに勿體ない。進む可き唯一の信實の道は、かくて盲に就いて得る捨身本能覺の道しか開けては居ない、止むを得ず吾等の最上の難有い位置は只默々の裏に迎合するのみにならぬわけに行かないのである。

 批判の上からは色々と價値の上下も出來得るけれども、創作進行者には實際難有いものゝ外に難有(ありがた)いものゝ有り得様はない。(『進路』みづえ〈大正3、1、昭和30訂正〉)(100~101頁)

■中毒と云つても、一度作品となつたものが他に與へるところには大した事はない様なれど、作する事、筆を握る事には努力の結果などに中毒が起る。

 画家は却つて畫の見え方が片寄り易い、正當な觀察は局外者の方が却って確かだ、などゝ云ふ空気を或る一方に作つたのなども、畫家の内にさう云はれても仕方のない事實があつたからに相違ない、現在にもある様だ。畫家なるが故に却って他のいゝものが見えないとは馬鹿らしい話しである。此んな矛盾した事が當り前にあるわけがない、之れは畫家自らの畫に對する考への至らない結果としか思はれない。枝葉事などに捉はれて畫の根本義を忘れたり、多年の間に自ら第二の天性などが出來たりした結果だらうと思ふ。此れを目して、畫家自身の境地に忠實なるものゝ必然に起る不可避のものだとされて居る向もあるが、自分はそれを認める事はない。不可避のものがあるなら、云ふ迄もなくそれは其畫家の至らぬ事を意味するに過ぎない。

 一寸(ちよ)い一寸いした枝葉や、好き嫌ひの相違は無論ながら、いゝと云ふ事は例へそれが形式的に遠く東西に相分れて居るやうなものでも、火と水の様に根本的に迄相扞格するものでないのは云ふ迄もない事である。宗教が宗旨の是非を取つてこそ一歩も相下らずとも、其眞理の向ふ希望に於て相一致する如く、畫の力も形こそ多様なれ、いゝと云ふ事には自づから共通に近接すると思ふ。いゝ事をいゝとなし得ない不明なる自己の偏した歩調から、畫も中毒に足踏み入れた事になる。

 努力とか硏究とかは半面常に却つて危險が倶(ともな)ひ易い、強く進めば進む程一度誤つた場合となると其中毒も一層となる。個性の發揮なども云はばただ中毒の有るなしに歸すると云つてもいゝ位だらう、つまり中毒がなければ個性も出る。畫が正常に身について育つ人ならば、進めば進む程個性は延び、明瞭となり、又其正當の當然の結果として、他に對する理解も開らけて來るのが當り前であると思ふ。此の行處は『だから』とか『でなければならぬ』とかを外から強ひるよりも、自己の歩調が自づから自己に道を開らく、行く可きところに自づから自信が現はれる。何よりも自己を欺かざる事が其道を得る尤賢なる態度だらうと思ふ。眞理を蹈む事は只自己を欺かざる事丈ではなからうか、そして其道を蹈み得しものは、いゝ事をいゝと自づからなし得る様になると思ふ、畫は覺(さと)る外ない。

 大抵の人が畫の稽古を始むると一先ず下手になる。下手になる斗りでなく以前よりは下等な状態をすら呈する。あれなども云はば中毒の一つであらう。一度下等になつても一時丈ならばいゝが、それが一生其人から離れないで、畫をやる様になつたが故に却つて本來の自己自然の心をいがませ妙なものにしたらしい人も居るのを、感ぜしめらるゝのはなぜだらうか。畫作と云ふ事の困難、自己意志の發現不充分等が形式的に此現象を呈して居るのならば、實に愚も及ばざるわけである。努力や硏究やは危險が付随し易い、畫は描けば描く程、愈々(いよいよ)素躶であればある程にいゝ畫も近づくのだと思ふ、正直以外に道なし。

 又吾々は畫筆を握る故に一面畫から面を背けても居ねばならぬ、繪畫以外の世界は却って密接に繪畫のあり方を暗示又一致共動もして居る、物事の眞實大切なのはその知覺、其處に生まれて來る繪畫が何よりも動かす事の出來ない眞(ほん)ものとして自己にも生きて働いて呉れるのだと思ふ。(『畫の中毒』みづえ〈大正4、4、昭和30訂正〉)(121~123頁)

■感激、總べての事は只この此一事に盡きる、理屈はない、感激が事實であるならばそれはそれで眞であらねばならぬ、感激は要するに事實の眞であらねばならぬ。

 優れた位置と云ふ様な形式に知らず知らず進む事がある、さう進む事に或る嬉びがうつかりすると働くけれども對自然の生活味は位置の様な形式ではない、只感激丈である、其證明丈である、それ故に無智の幼年も感激に於いて老年者の上に立つ事が出來る、生活味が強いのだ、それ丈高價と云つていゝ、複雜とか廣さとかの價値は横に擴がる計りである。

 感激を有する者は感激故に進む、此行處は只其れ丈け故の其れ丈けである外に何物もありはしない、世の中が轉がらうと破れ様と此心を何うする事も出來はしない、それ故に段々一方的に深入りもして行く。

 微妙と熟練は加はりしもそれは必ずしも感激の高潮ではあらざりし故に思った程向上の結果を現はさなかつたのだ――但し珍又は新故の高潮なるものがある、それと自己本能と自然との動かす可からざる關係の高潮とがよく混同され易い、旅行でもすると見るものが珍らしく高潮をなす、しかし其高潮は只場合の高潮のみに過ぎないのが大分ある、珍らしさ新らしさ故の高潮は只面白さや或る別な快感の心等只の動感で此の意味でならばおどろかされて喫驚したのも感激になる、しかしそれ等の感激は感激の内容が違って居る。

 尤も高潮適歸せる自己と自然との力の交渉は常に只一線の上にある。例へ複雑にても眞實に於て一線の上にある、そしてその意味では益々クラシカルに又宗教的に共鳴ともなる、所謂正直の頭に神宿るもの、此一線の進行はそれ丈深き意味を生ずる。深遠の境地の如きはさうなつた上からでなければ開けはしない様に思へる、一國一民族が段々築き上げた藝術が容易に一個人力の及び難き大きな境地を現出する如く、即ち必然性の發見。

 此根本の何物であるかが意識に入らぬ人が感激の行處に迷ひ屢々(しばしば)中途より忘れた様に力點のきまらない敢果(はか)ない藝術の衰に入るのではなからうか、要するに彼は血気一つの馬力で兎も角は持つて居たのだから血気のなくなると共に消えるのだらう、本來必然の線に立てる者ならば中途からさうぼけはしなからう様に思へる、自己によく結合を有するならば世の中のすべてとも自づから結合すべきものに相違ない。

 感激とそれに倶(ともな)ふ誠實良心何れも兄弟分である、人の顔に露骨に現はれるものは誠實の有無である、そして彼は其處に彼の感激の有無を語つて居る、専門家の相貌には従つて藝術の有無も大抵顔に示されて居る、誠實なくして藝術の事を云々する者に對する程心持のわるいものはない。

 要するに感激の有無は直ちに善心の有無と云つてもいゝ様である。

 感激の事實を有する者からその誠實を引きのける事が無理である如く、感激なきものに誠實を求むる事も無理である、誠實は何處迄も内容の事實に倶ふものであつて誠實の外形のみを装ふ事は許されない。

 感激の消滅する事は人世から存在を辭する事である、あらゆるつまらない堕落の情念は感激のなくなるところに住家を有して居る、感激と云ふ事のいかに貴きものであるかを思はざるを得ない。

 作品の消えざる意味なるものは此の感激の働ける故に外ならぬ、感激を作品にする以外に藝術の作品はない筈だ、其の感激を無理した努力感激のない只の馬力で出來た作品之等は皆折角出來ても反古になる作品である、感激は何うしても事實の眞に相違ない、感激の何物であるかを味得された者ならば情理共に味得されたものとしてもいゝ筈だ、貴といものは實に感激である。(『感激』みづえ〈大正4、9、昭和30訂正〉)(126~128頁)

■斯う云ふ企は面白い事だと思つて見ました。茲(ここ)に集められてある作品は代表的作品許るではない様ですが、兎に角古るいものから順々に並べて一處に見る事になると、色々の意味で反省を與へられます。殊にはつきり示されて居るのは今更でもないが、畫中の眞實性丈けが時代を超越して力である事で、其當座丈の豪さうな作品や、實在と交渉のうすい畫は、時代の前には頭の上らない事が暗示されて居る。それから眞(ほん)とな意味の永遠性の外に、單に風俗畫報的又は寫眞的に骨董的に交渉して來る永遠性に似て非なるものもあるのなどを面白く見ました。沿革と云つてもさう大した時代の相違ではないから、變遷と云つても僅かに未だ畫の解釋や技術上の事が少し斗る推移して居るのが示されて居る丈けで、非情な變化は見る事は出來ないけれど、兎に角推移の跡は見えて居る。しかし集まれる作品が代表的なもの斗りでないから、其點望蜀のこころから遺憾でありました。(『日本水彩畫會の沿革陳列を見て』)(137頁)

■村山君の畫を最初に見たのは、まだ同君の12か3位の頃山本鼎君のところに送られた繪葉書を見せられたときで、其れは一見尋常ならざる英気芽生のはみ出して居る、之は只者ではないと云ふ心持に打たれたるものでした。其時驚歎した事を覺えて居ます。其後數年にして君の畫は東京の展覧會に見らるゝ様になり、前の記憶があるので自然君の畫には注意を引かるゝ様な事になつて居ました。そして段々見て居ると君の畫は益々赤爛れのした様な色彩、血の流れ落さうな花の色、思切つて奔放な構圖、中には畫がうまからうが拙からうが其んな事にはさまで頓着されて居ないかの様になへ思はるるものもあるのを見て、之は少し期待と反した、何だ之は單に元気に淫して居るのみではないかと云ふ少し気乗りの抜けた心持ちになりました。そして其元気には感心しつゝも餘り其等の畫を好みませんでした。之等の奔放さは熱烈的ではあるかも知れない。然し私自身とは少し他處になつて居る熱烈で、刃物を直ちに向けらるゝ様な怖れの來ない、何だか對岸の火災の如きものに思はれました。之れは私自身の或る曲がつた感情がなす業かも知れないが、私には或る種の聰明さ、強さ、それが只體力的處産に屬するものであるとき、直接生々と嬉しさを受付けられません。其等に自づから倶(ともな)ふ快濶率直元気等を無論嫌ひではありませんが其れは間接的に私の心を嬉ばせる程度で、私の性分として尤も直接的に親しみを感ずるのは、熱烈を包んだ冷静にある様です。其んな方面を見出すと私の心も握手を求め度(たく)なるのですが、君の作品には此冷静が足りないと思はれて居ました。其れは寧ろ君の方が自然であり、率直であるかもしれませんが。それで君の作品の中でも人物よりも風景に、又作の態度でも君が思ふ儘に描き荒れたものよりも、單にモデルを追究し、率直に風景の如き無情物に對して其其奔放性が手放しにならずに居るところに、私の同感は動きます。其等の作品は熱烈が祈願を示して居るからです。畫以外の君の平常に就ては嘗(かつ)て只1度或る用件で遇つた斗るで何にも知りませんでしたが、先日の兜屋に展覧會で其目録にある諸氏の文章や話しを聞き、始めて君の他方面の事をも少し知つたのですが、兎に角君は畫を愛しては居たに違ひないが、畫以外に尚幅廣きものがあり、畫の中に全心が入つて仕舞ふと云ふよりも、君の或る行程から畫は放射されて居たものではないでせうか。君と畫との關係は恰(あたか)も排泄物が排泄さるゝ様に、君は畫慾を掃き捨てつゝあつたかの如き傾向ではないでせうか。只現在丈けのあるがまゝであつたらしいその色彩も形も自然の中に自己の投影を凝視したと云ふよりも、只見えた儘に興じた儘に描き捨てたところがあり、其畫は随分皮肉らしい圖柄もあつても少しも其處に批評は見えない。2人の男が片手を各々擧げて居る畫の如き、一見ムンクの畫などを連想されるものであるが、其持つ感じは自然の剔抉(てきけつ)と云ふ風ではない。君に自然があゝ見えたとは受取れるが自然があゝであると云ふ威壓は來ない。此畫に限らず他の乞食と女の畫其の他此感じは同様のやうです。君は又一二の展覧會に出品して居るが、其れは君の我儘の發揮さrた方のを多く撰ばれてある様ですが、先日の遺作展覧會で見ると却つて其等のものよりも出品されないである方により同感を持たるゝものがあつた様です。君としては冷静よりも奔放が自然であつたからでせうか。(『村山槐多君の藝術に就いて』みづえ〈大正9、2〉)(146~148頁)

■美術院の佛國の作品紹介は難有(ありがた)い事であつた。天覽會場に入る前から心が緊張する。よい藝術に對する止み難い憧憬である。恐ろしさに體を固くしながら場内を一巡二巡三巡と繰返へす。更に四巡五巡としかし最後に残った心持ちは何だか淋しかつた。此淋しさは何處から來るか。其等の作品がつまらないのか、其うではない。然らば何處から來る淋しさか。一方に頭の中では斯んな事を考へ始める、藝術の行付く最後の事など浮んで來たりして。

 ルノアの前に立つ。大家の投げて呉れる恩惠のあり丈けは一滴ものがすまいと子供が母親の乳にしやぶり付く様な心持、しかし乳は澤山出て來なかつた。呑み方が惡るいのか口が届かないか。セザンの前に立つ、矢張り物足りない。ドガの前に立つ、矢張り物足りない。全部幾度繰返しても矢張り物足りない。此んな筈ではないがと自分の頭を疑つたりして更に考へねばならなかつた。

 ロダンとルノアの作品に何となく慣用的表現を感ずる。始めて知るマチスの一々の自然に絶對的交渉が目立つ。マネエの流石に旨い美しい色。其等の中にピサロは一番親しく握手が出來さうな日本語を發して居る事。

 要するに此淋しさは餘りに過大な期待を持つた反動なのか、其れとも國民性的相違からか。山本君の云ふところを聞けば巴里當りに往つた當座一寸其んな気がするが段々數多く見て居る内に奥の知れない味が分つて來るのだと。して見ると矢張りまだ自分がわからないのだらうか、願わくばそれであつて欲しい。其れでないなら餘りに藝術の淋しさがなさけなくなる、しかし一方之は國民性的相違もあるに相違ないと思ふ。そして改めて周圍の友人達の畫を考へる。そして其處に一層親し味の深い事に改めて気が付く。誠に日本の畫だと云ふ感じである。復製で見ると連想なども手傳ふのだらう、西洋の作品とて其れ程違つては思へなかつた様だつたが實物を見ると其點が目立つ様である。尤もルノアの作品などは一二前に見た。しかし要するにそれ等は片鱗隻影で迚(とて)も作家を充分知らるゝものでないとして居たが、今度のルノアは揃つても居るし其作中でも悪るくないものと云はれる。何だか淋しい気がする。更に気が付く事は何うも根本的に藝術の要求に幾分の違ひがある様である。早く云つて見れば吾々の心持ちよりも科學的行動がより多く容(ゆ)るされて居る。ルノアにしろロダンにしろ又セザンにしろ仕事臭いと云ふ事を其れ程気にしては居ない様である。道を藝術の上に取つた者としては其うなるのが當然ではあるが、しかし自分の心持から云はせて貰ふならばそれは理屈で、願(ねがは)くならば慣習的自然にはなりたくない。比較的マチスかピサロの方により同感が動く。自分の心には何うしても作品には一々新たなる詩を要求される。詩と云ふと少し語弊があるが文字の詩ではない。對自然の新鮮な最初の心である。自然に對して可成(なるべく)習慣的行動をきらふ筆触でもさうである。所謂惡るい意味の畫かきになり度くはない。科學的筆觸、頭のよい事に於て西洋人から教へられては居るが其れは嬉しさの最上のものではない。兎に角豪らいものには引かれろけれ共同じ引付けらるゝ内にも心から難有(ありがたく)引付けらるゝのとそれ程でなく引付けられるのとある。今自分の心は之等大家の作品に接して却つて或る淋しさ不安さと云ふやうな疑問が殘つて居る。(『佛國の作品を見る』みづえ〈大正9、10〉)(149~151頁)

■西洋人の作品は畫面の大小に不係(かかはらず)精神的に根本が社會意識衆意識になって居る。日本人の畫はまだ過去の習慣現在の生活感から家庭的個人的味がつきまとつて居る。大味と小味の原因がここにもあるようだ。日本人の畫は展覽會場に置くと少し落付き惡(にく)いのもある位。西洋人の畫は最初から會場的意識である。

 日本の畫でも昔から、襖や、屏風の畫はやゝ衆的で大味だ、掛物も大幅になるとやゝ大味だが、多くは個人的生活感に立脚され又鋭さ純一さも、其處に嚴敷(きびしく)要求されて來て居る、匠気とか下品とか云ふ點に潔癖である事恐らく日本程嚴敷(きびしい)ところは他にあるまい。此の目で睨まれたら西洋の畫で助かる作品は少ないだらう、吾々には無意識の裏に此個人自分の心、云ひかへれば既に一種宗教意識化した希望が潜んで居る。その要求が充たされない作品には、容易に頭は下がらない。サロンドウトンヌの會場を歩いても、斯う云ふ自我から眺めて廻はるならば、下品でいやな畫、第一畫作の態度が根本に卑しいのが鼻につく。生存競爭などの結果もあらう、下品なものが大聲で廣告して居るやうなのが實に多い。信念の主張でなくして、商賣兢爭の浅間しさになつて居る、しかし濁流の中に揉まれても大水の中に自づから大魚居る如く、巴里の畫界には何としても日本よりは大物が居る事は事實である。色々の點で之ぞと取立てられないにしても、暗示は受けられる、表面あまりに多き藝術に神經麻痺の形がないでもないが、矢張骨は大きい。(『雑感』みづえ〈大正4、10〉)(180~181頁)

■新藝術の魅惑はしきりに吾人をそゝる、現代思潮の流れは何物も同様に押流そうとする。若し理解すると云ふ事が直ちに向上を意味し得るものならば現今の状態は何と解したらよいか、時代思潮は何物も押流す力はあつてもそれは必ずよいものとは極つて居ない。場合によつては時代に逆行する覺悟もなければならぬ、しかし此事は難事だ、時代に乗つて之にこびて居るものは兎も角も時代と共にあり得る、ピカソの如きは此點に於ける親玉だ、だが時代にのらぬものは大凡つぶされる、現代は特に時代の力の暴威が見える、そして此アンデパンダン(先年巴里に開かれたアンデパンダンの展覧會)の如きもそれに引ずられて居るのではないか、之れはアンデパンダンに限った事ではないが會の性質と國別陳列によつて特に此會の主義其ものと反對のものが皮肉にも最顯著に語られて居るのを見て改めて反省させられたのである、恐ろしき時代風潮の感化力。(『境遇の感化』みづえ〈大正15、1〉)(186頁)

■之迄西洋美術には色々とよい事を教へられ今後とも尚教へられるゝところは多いでせうが大凡西洋美術の、殊に繪畫の輸入時代はもう仕舞へました、最早吾々は自己の力によつて立上がる可きときになつて居ますが西洋の畫――と云つても佛國を中心として云ふのですが印象派以後根本的な大事な人間を忘れた禍根が未だに惰力的に進行を續けて居り此情勢を助長させたのは實に彼セザンヌであり次でピカソなどと思ひますが、現代佛國畫界の常に歸趨(きすう)するところのないたうなちからの据わらぬ原因は茲(ここ)に眼の届かぬ苦しみを意味して居ると思ひます。徒らに主義方法が重視され過ぎて居る。若し未來派式の見地からすれば、人間などゝ云ふような意識其事も既によくない保守の塔とさるゝかもしれませんが、吾々の生活は保守と生長との結合に力ある建設は見らるゝ筈です。嚴敷(きびしき)意味から云へばいくら保守して見たところで吾々の生活は刻々に新陳して居る、人間の一生はいやでも新陳し又いやでも保守である、根本的に新たなるものを求むるならば別人の次の時代でなければあり得ない、一個人の生活を無理に新しく刻々に押進むるのだつたら單なる分裂に過ぎぬ、自個と云ふ一固形の運命は其當然の保守が根とならねばならぬ、新しさはただ後天的の努力にしか容るされない、そこに建設も可能であり人間の深さも有意義となる、人間相互の補助ともなり得る、徒らに根據なき浮草の生活に建設は豫期されない。一と頃ピカソは現代のミケランゼロと云はれた事がある、又マチスはさながらビンチの描法を取り入れた、立體派となり未來派となり新古典とかはつてもそれが根本的の意義を外れて居ては遂に方法的の循環にしかならぬ。之が大凡現代佛國の状態と思ひます。(『之からの道』アトリエ〈大正15、2〉)(189~190頁)

■陰鬱な巴里の冬もやつと通過ぎてやゝ寒さもくつろぎ、鼠色の佛國は佛蘭西と一變して、長い籠居から郊外へ郊外へと人は飛出す。自分もやつと獨で汽車にもどうやら乗れるやうになつたので、もう矢も楯もたまらず巴里から逃るやうに佛國の西海岸クロアジックに向つたときは全く久々振りに蘇生するやうな心持がしたが、生憎にも夜汽車の空が次第に明けはなるゝのを見ると、あやしげな天候で車窓の硝子のは雨つぶがぽちぽちとかゝつて居る。窓から見らるゝ珍しき田舎の光景も陰うつにして折角の旅行も前途不安、愈々(いよいよ)クロアジックに着いて汽車から下りると、細雨霏ゝ(ひひ)と云ふ有様、兎も角も村の中央にある小さい宿屋には入つて天候恢復を待つ事にしたが、中々雨が止まぬ、翌日も翌々日も降りつづく眞に寂寞の雨が霧の如く只一つしかない窓の先を斜に流れる。來る日も來る日も四日目になつても晴れそうにない、折角の林檎の花も之では雨に散仕舞(ちりしまひ)になりそう、氣は氣でない、殊に旅先で降りこめられのやり切れなさにとうとうたまりかねて、雨中ながら外に出る。

 雨傘で景色の見物である、海岸に足を向けると遠淺になつた海上には遠くの方迄岩の頭が點々と並ぶ、陸地一帶小山續きの平野で、雨の海は糢糊として淋しい。漁村の人々も雨籠りで外は人影も稀である、其翌日も雨に加へて風迄更に加はつて來たがもう絃を放れた矢のやうになる、觀念して風雨の中に七つ道具かついで飛出す。窓際に編物などして居る村の娘や、お婆様たちが此變な雨中の黄色のエトランゼーをけげんな目付で眺める、泥路を雨風と戰ひながらあちこちする、ひゆうひゆうと雨雜りの風が横なぐりに顔を打つ、しかし特別な場合の光景は苦しい中にも又快感がないでもない。海は暴れ雲行いよいよあやしくなる、天候をしきりに警戒して居る係員らしい男が、小高い物見の岡の上から沖の方を見て居る、沖には一隻の船影もない、たまたま景あるも風曝しでは畫架が立たぬ、物蔭を利用さるゝところではさう旨くは景がない、だが何うしても此まゝ引返へす気にもならぬ。矢張り珍らしさに引ずられて先から先をうろうろと雨をよけて立てば風に、風をよけると雨に木の下蔭は雫され人には見られ疲れ亡者のやうな姿を運ぶ。或廢屋の片蔭に風をよけてぬれながら辮當の牛鑵を開く、ぬれパンを嚙る、雨のしづくが襟首に鑵の中に、憂き事の尚此上につもれがし、戰へ戰はと自らはげましては一と口、はげましては一と口、吾ながら悲惨だが止むに止まれぬ意志だ、雨中にさまよふ鬼のやう、宿の主婦は恰もマリー・ローランサンの畫が抜け出したやうな風貌の持主、悄然とぬれて歸つた自分を見てムッシュウ此天氣に何處へ仕事に往つたか、海岸へ、オーと眼を見張つて肩を寒いと云ふようにすぼめる。此村は避暑地で宿も夏季の客を主に待つて居る、今はまだ其時期でないので空き部屋斗りが並ぶ。吹きすさぶ雨風の音も窓を〆ると陰陰として物音がない、静かさはよいが蜘蛛の巣のsりさうな部屋、主屋とは中庭一つ隔つた自分の一室に引取て夜は豆ランプ一つ、幽靈のやうに吾只獨灰色の壁に對す、達磨になつたつもりで瞑目しても追付かぬ、獄中生活が想像される、色々の事が徒らに頭の中を往來する、襲ひ來る憂鬱に壓倒されまいと反抗する斗り。翌日も雨の音、窓を明けて見ると向ふの屋根には朝日が光つて居るのに軒先をかすめて雨雜りの汐風が矢張りひゆうひゆうと悲鳴を擧げて居る、顔を洗はんとして水盤の前にかがむと鼻から鮮血がさらさらと滴り落ち盤中眞赤となる。血の止まるのを待つて又外出、もう度胸は据つて仕舞つた、強行軍が何處迄遂げらるるか天気と根比べだ、強風中の寫生のとほらぬ無理にこりて、今度は剥らの家に風をよけ、道路の片蔭に畫架を立てる、冷たい雨の雫と時々は霰も雜じる、全く氣違日よりだ。雨合羽の漁師が木靴でがぽがぽと通る自分の姿を見付けてムッシュウと云つて天を指して驚いたと云ふ顔を見せたりする、何でもかまはない、やうやう畫の具を半分塗りかけたとき、砂をつんだ牛車を追つてやつて來た一人の男、場處もあらうに今冩して居る直前にがつちと立ち止まり、さらさらと其處に砂山を築いて仕舞つた。眞に天無情、惨として云ひやうもない心持、すごすご中止、ぬれたトワル(キャンバス)を提げて再び宿に歸る。

 入口の盤臺にいつも鎭座するローランサン夫人、ムッシュウ御覽なさい、まあ大變にぬれた肩を、あまりに無理をすると病氣する、休めやすめと云ふ、無理とは知つても外に仕様も無い田舎の旅の空、止むに止まれぬ衝動だ、室内に居ても心は矢張り死んで居る、まだ雨曝らしでも外に立つ方が心やりになる。

 トワルを改めて更に出なほす、海邊には無人の別莊が幾つも立並ぶ、一つ一つ個性を見せた家が暴れ狂ふ海に對して居る、空き家は却つて家其物に不思議に生氣あるものゝやう、轟々と遠淺の岩共に押寄する浪の音が暗たんとして壯大なり自然其物の合奏曲を作つて居る。磯には浪に打揚げられた烏賊を拾ひ歩く子供の姿がうろつく、吹きつのる風と止んだり降つたりの雨、斯う云ふ場合でなければ見られない壯觀である、遮二無二又も風中に畫架を立てる、トワルは帆布の如くあをり立られ沖の方からは更に黒雲が雨を垂らして襲ひかゝる、斯うなると一種悲壯な氣持になつて仕舞ひ何處迄無理がとほるかとほらぬか、もう畫作よりも試練である。トワルの耳にはひゆうひゆうと風が鳴る。だがいくら踏張つて見ても風は無際限に吹いて來る、いつの間にか心身底冷が喰入つて來る、氣分は次第に變になる、醉つたやうになつて居た氣持もさめて漸く不安になる、何としても無理はとほらないのだ、千載一遇の光景も遂に見捨て止むなく畫架をたゝむ。せめて手帳を擴げると萬年筆のインクは雨に打たれて紙面怱絞り模様とかはる、最早云ふ事はない。頭斗りは火のやうになつて體は氷のやうに冷え切つて疲勞と冴えと憂鬱との混亂、宿に歸ると食事の時間はとうに過ぎて居る。腹の底にこたへるみじめさ、サーバントに食事を頼むとムッシュウあまりに時間が過ぎた、もう用意がない、オムレッ位ならばと云ふ、それで澤山だ、がらんとした食堂の片隅に自分獨りの食事、之でも特別の御なさけである。オムレッの一皿に申わけ丈けの腹をやつと濟す。深閑として居る牢屋のやうな一室の扉の前に立つと、吾部屋ながら中にはお化が待つて居さう、かちやかちやと云ふぁ手先の鍵の音が氣味悪るく響く、失敗のみじめなトワルは首くゝりのやうに恨みを呑んで壁にぶら下がる、豆ランプの覺朿ない光に自分の顔を鏡に映し出すと之が自分かと思はるゝ憔悴と角立つた意志の醜悪さ、翌日もしよぼしよぼと呪はれ切つた雨の音、愈々(いよいよ)無理が崇つて其朝はやゝ熱を帶た頭がふらふらとする、もう何としても斷念の外はない。折角意氣込んだ荷物を片付けるのも力なくとうとう悄然パリーに歸る。毎年此天候は此地方での例になつて居ると後で知つたが異境不案内の悲哀だ。アトリエでモデルを充分吾物につかひこなすのも一と骨だが旅行先の仕事は一層天祐なしには旨く行かぬ。

 日本に歸つて二科會に自分の畫を並べたとき何だか詩のやうなものが胸裏に往來した。『私のタブローが並ぶ、泣きもせず笑ひもせず死人の眼玉のやうに眺むる人々に對して居る。私獨の胸の裏にはタブロー一つ一つの思出が悲痛、夢、自嘲、泣笑ひ、墓地の死骸の如くくらすみに折重なる。だがタブロー共の表情は泣きもせず笑ひもせず喜怒なきマスクの如く静寂の世界にある』。(『畫作難』マロニエ〈大正15、2〉)(192~197頁)

■今度二科出品の多くの畫に接して、全體に旨い畫が多くなつて居ると思ひました。色々の方向に色々な努力がされて居る。只しかし大體に於て、其旨さの割合に、やゝ必然性の缺けて居るのは物足らぬ思ひです。しかし此事は、二科斗りでなく現代的一面の傾向と思はれます。明治大正の名畫展を私は見ませんでしたが、人の噂によると、昔の作品の方がよかつたなどゝ云ふ人が多い。美術が發達して居る筈の時勢と矛盾したこんな現象は、つまり必然性の有無から来たものと察せられます。いくら上手に旨くなつたところで、必然性のないのは根本的に力はない、必然は人間本然の希望だから、之は如何なる場合もそれがないと云ふのは卽ち嘘である。必然性の稀薄な、上づつた社會の潮流の中などに居ると、作家もつい其勢ひに押流されたりするのであらう。凡そ作家自身は一生懸命で必然を追つて居るに違ひないのであるが、それでもいつの間にか社會の潮流には流されるのであらう。だからいやしくも作家たるものは、超時勢的達眼がなければならぬ。今日では水彩畫も技法の進歩から他の畫法との間にはつきりした境界がなくなつた程だが、水彩のやうに筆觸に一層其成立が托されて居るやうなものが、今日の如き旨さの發達と共に發達するのは當然でもあるが、一面又時勢の弊を受けて居る事も爭はれぬやうである。必然さと云ふ事は直ちに社會との交渉を意味される筈だ、道樂の如きものでもそれが必然性の上に立脚されたものである程、意義がある筈だ。必然性のないと云ふ事は作家としての耻辱であり、社會から見れば餘計な仕事にしか過ぎないのであらう、つまりカンバスや畫の具や努力の浪費に過ぎないのだ。(『必然性が割合に缺けて居る』みづえ〈昭和2、10〉)(200~201頁)

■寫實も色々であるが君の寫實は實相的であり寫實である、其物感にしんとした味野あるところ餘程クールベーを思はせられる、其色彩にありても何處か相通じたものがあるやうに思はれる、日本人の寫實には大凡寫實が寫實になつて居ないで何處かに一幕かゝつたものが多い、此點で硲君のは珍しく其鏡面はよく拭はれて隅々迄はつきりと澄んで居る、君は嘗て君自身の視覺について疑ひを抱き、永い畫人生活を一擲して彫刻に移り度いと云ふやうな希望を漏らされた事があるが、君の色覺がそれ程異狀であるとは私には思へない、尤もずつと以前の深川あたりの寫景時代にありては、墨つぽい色や青黒い色が慣用された事もあつた様に思うふが、滯佛當時のものにありては、見える可き色はちやんと描かれて居たと思ふ、クールベーにしても同様實相的な作家にありては、單に色彩計りが實相から離れて飛躍されないのは當然で、其色彩には常に物感が裏付いて居り、其邊の制限からたとへ色の見える人にありても色彩の跳躍が出來ないと云ふ點も考へらるゝところである、繪畫に於ける物感は凡そ畫である限り何程かは必らず裏付いて居るに相違ないが、人によりて物感の厚薄は甚しい相違がある、中には殆んど物感など無視されたものもある、しかし其いかによき色彩の趣味性であり明確らしい線條が引かれてあるとしても、それに物感の裏付いて居るものがないならば、それ丈け物足らぬものであり作家の趣味又は主觀的意志以上の生活感は稀薄となる、物感は特に作家の本能的個人的なもので、形や色の如く人間相互の感化傅習が容易でない、趣味色彩も勿論個人的なものではあるが、物感に比すれば遙かに共通消長のものである、物感はそれだけ畫者個人的生活感の實證が裏付いて居る、時代思潮や趣味やを超越して、尚且つ今日の人にも働きかゝるものをもつ、古代作品の如きは作家の偉かつた本能物感の働いて居る力に因るところが深いのである、永遠性の如きは物感の裏にあるとも云へるのであらう、物感もしかし色々で單に物感が濃厚と云ふ丈けでは寧ろ醜悪を催す、鋭どく優秀に咀嚼されたる本能が藝術に化合した物感でなければいけない、露國や獨逸あたりの畫によく見らるゝやうな咀嚼されない惡寫實はたまらない、つまり低能なる本能物感は論外である、物感があるとそれ丈け畫面も重々しくなり易い、上品なさつぱりした作品には物感のない、つまり消極的に上品なものも多い事である、日本人の作品には之が多い、つまり畫よりも字を喜び描いたものよりも布地の染模様を喜ぶ心である、畫家のそしつによつて物感にあまり要がなく、描寫の問題にしても色や形其物技術其ものにのみ關心してあつさり片付いて居る人は多い、畫から文學を撥無する事を早解して畫を單に畫模様的範圍に止めて居るやうな人も或はあるであらう、近代佛國畫壇の行づまりの如きも、要するにタブロー上の技巧的思索關心に過ぎて、物感的本能のほうが營養不良になつたのではあるまいか、勃興時代の作品は物感の脈搏が凡そ盛んだが、世紀末的になる程技巧が之と入りかはる、技巧の練達思想の新奇を誇られても、物質的實質が之に裏付いて居ないのでは、遂に問題が問題ともならないのである、東洋畫の如く氣韻墨色精神に重きを置かれ、一見物感と云ふ如き實形を超越された如きものでも、其事實は矢張り畫面の墨色に裏付く物感なくして何の表現でもあり得ないのである、氣韻も精神も物感に確實性があつての上の事で、よい作品になればなる程此事は明らかに實證されて居ると思ふ、紙本に於ける墨色床の間との調和等の上から、表現の約束が自づから東西洋の畫風を甚敷(はなはだしく)別趣にして居るけれ共、繪畫成立の歸するところにかはりはないであらう。寫實の力強さは直ちに筆触色調と共に物感に作家のメスの刃先が触れるところにある、之迄に冩實以上に出ようとする各種の運動は方々に飛躍を試みられはしたが、今のところ此本格さを壓倒する如き本道が外に現はれたのをまだ見る事が出來ない、繪畫の約束が視覺をとほして現はるゝ本能にある限り、此眞理を跳躍して百尺竿頭更に歩を進めるのは至難であるらしい、遂に之に満足し切れない者は、繪の具以外の物質迄を利用して畫の領域外に走つて行つた、豫覺は色々とつい其處にちらついて居ながらも中々到達する事が出來ない、丁度瀧の下迄寄せて來た魚群が尚上流に水の暗示を受けながらも瀧にせかれて混沌として居る形で、新しい運動が色々と動いては立消えて、矢張り寫實の本道に立かへるやうな有様である、寫實と云ふ事も單に理論にのみ考へると結局妙な事に歸着しなければならぬけれ共、之が畫人の本能に依つて解釋さるゝとき始めて意義が光つて來るのである、だから寫實の味覺なき人が單に理論的に寫實を形通り進めたとしても、それは結局よく徃つて寫眞機械位のところであらう。

 硲君にありては此實相が本能的であるところに生命がある、多くの人は寫實に徃かんとして寫實以外に到りついて仕舞つた、君にありては落付くところが實相になつて居る、君は情に厚く友に優しき人であるが其道念に就ては犯す可からざる意氣を藏す、必然的に本格的である君の歩みは恐らく將來とも益々發揮さるゝであらう。

 そして如何なる方向に更に進展さるゝとしても此寫實がそれに裏付く事によつて眞實の力を強めるであらう。(『硲(はざま)君について』アトリエ〈昭和5、6〉)(214~218頁)

■繪畫の健全性と云ふ問題が、改めて日本の畫界に起つたのはつい最近時局下に入つてからの事で、最近『或る種の不健全な傾向は遠慮せねばならぬ』と云ふことが云はれるやうになつて、一部の作家を間誤つかせたものである。

 ではその禁制の『不健全』と云ふ意味を作家としての良心にどう解釋したらよいものか、これが作家の間には今も漠としたまゝになつて居るやうである、これは又反射的に『健全性を如何にすれば進め得らるるか』の意味にもなるのである、近代繪畫が個性を尊重するやうになつて以来、繪畫は畫面の獨立した美の問題を問題とひたすらするやうになり、色々な傾向の違つたものが簇簇と現はれて來た、畫面の美である限り、如何なるものをも美としての有用性を主張出來るわけともなつて『われ斯く感じ表現せり、それが人に解されようと又解されまいと、それは人各々各自生活の相違から來る事で仕方ないのである』とかいふ論理も一面成立分にである。

 しかし、其結果作家自身以外の人には了解出來ないやうなものも當然視さるる形となつて居るのである。このやうな態度は、作家としての良心に一應撤したものではあるかも知れないが、これは近代佛國畫弾に現はれて居る思想外形的匂ひでもある。

 畫壇の間にありては、健全性と云ふ如きことは餘りに分り切つた事であつて、且また、これはたヾ或る感じの上の事で抽象的なものであるからであるが、この健全性と云ふ感じは一個の作品だけを見る場合にはあまり目立たぬもので、或る數以上の作品、一團體、一畫壇、または一國の傾向と云ふやうに擴大さるゝ程この様相は顕著になるものである。

 近代佛國畫壇の様相の如きは健全性の寧ろ反對でどうも不健全性と思はれるやうなものが多分に見られ『こんな事でよいか』とさへ思はれる程であつた、もつとも、これは二十年も前の私の體驗であるが、その當時色々と顯はれていた『立體派』とか『未來派』とか『野獸派』などと外形だけは色々華やかで、日進月歩の形であつても向上の實質は、必ずしもそれと添はないやうで、つまりあまりに方法的變化のみであつて眞實の響きが足らぬ思をされていた。

 それらの主張も事實その後大した結實もなく、改めて古典に取りすがるやうな形が顯はれたりして、それ等佛國畫壇の狀勢はやがて來る可き佛國の運命を暗示して居るものとすると誠にこれは恐ろしい事である。

 健全性には『眞實』『愛念』『熱意』等云ふやうな向上性が自然に附随せる現象であつて、單に上手下手と云ふやうなものとは違つた性格、興国的なものを暗示したものである。

 健全性はか様に性質として重大な意味を持つものであるが、個人作家心理にあつては自覺され惡(にく)いものであるらしいのである、意識せざる裏に過誤をも犯す事になるのであらう、これは誠に機微なる魂の含みの問題であつて、出發點は殆んど同位置に見えたものでも此の僅かな性格の相違から來る進行結果の相違は甚だしい隔りともなるものであつて、前に述べた思想『わからぬののは仕方がない』として分かり惡い畫も當然として描くのと『是非分からせねばならぬ』と云ふ意志、何れも理路は殆んど同出發點であるが、意志の含みの僅かの相違から結果に於いて雲泥の差ともなるのである。

 作家としては此邊よくよく考えねばならぬ大切なところと思ふのである。前者は或る程度以上周圍と無縁のままともなるが、後者は全人類への結合を指向する。自然に表現法も内容意義もそれに相應して發展し、大きい線となつて伸展するのであらう。

 内容自體は勿論個性の上に立つものでも表現様相はここでは必然エスペラントに重點が進むであらう、前者にあつては個性特長等矢張りそれ相應の形に止まり、發展性は人に解され悪い範圍丈け狭い事にならねばならぬ道理である。

 この創作眞理が何れにあるかは俄かに斷定されないが、これが單に一個人の上の事に止まるのであれば問題は小さいのであるが、全畫壇ひいては一國家の情勢にも連なる事になると問題は重大である。

 日本畫壇の現在は、誠に見様によつては人類始つて以来の藝術上えらい機會に抱かれて居つて、西洋美術を吸収した東洋美術の生ひ立ち、過去及び將來の世紀を通じ再びこのやうな情勢はあり得ないだらう世紀の山を辿りつゝあるのである。

 昭和16年12月8日、この偉大なる世紀の日以來、日本の國勢は計り知られぬ雄大な相貌を呈して來た、國勢と藝術が一致するものであるならば天平、桃山、の過去日本藝術の最高峰を更に遥かに抜くものとならねばならぬわけである。

 今日の日本の作家はこの偉大なる情勢に壓倒されないためには餘程の逞しき輪廓、骨格、足踏を必要とされるのである。そして表現意志の如きも『わからぬものは仕方がない』と云ふ理窟に安居せず『何處々々までも徹底明瞭にわからせる』藝術を押し進め、世界人類の隅々まで意志は通ずるものと豫期してさしつかへない筈と思ふのである。

 ここに健全性の如き性格も顯現されて來るのであらう。世界的藝術を目指すものであつたならば、かういふのが當然の性格、姿だらうと思ふのである。以上只アトリエ内にての一畫人としての考へで私の自戒とも致し度いところである。(『繪畫の健全性』福岡日日〈昭和17、3、17ー21、昭和30訂正〉)(249~253頁)

■此頃ダヴィンシの書いた芥子園畫傅的な著書の譯本を讀んで居るが聽く可き事を色々云つてある。「根源を究めずして學技を弄するものは梶なくして羅針盤なき航海に等しく、何處に着く可きやを知らず、實技は常に深き自然探究の上に建てざる可からず』『書物を一瞥して、其全體細部迄究め盡す能はず、例へば本を開きて紙上に視線を投ずるとき、最初様々の活字の充満せるを知るのみ、その内容は一字々々を辿つて後判斷する事を得、山の頂きに到るには一歩々々を重ねて後に達する事が出來る。畫に於て物の眞髄を知り、個性を知り、その特徴を充分頭脳に収めて、そらんずるに到る迄は、第2の仕事に着く可からず。然らざれば徒らに時間の空費多かるべし。畫は第1に常住勤勉急ぐ可からず』『自然のうちには原因なき結果なし。原因を究めよ、筆技の事自づから法あらん』『理論は實驗なき科學』『畫は大なる鏡にうつる自然の如くならざる可からず。名匠たらんには、自然の與ふる美を殘る隈なく描き盡し得る技術を知らざる可からず。汝の心に先ず自然の美を深く刻むに非ざれば此一事なり難し。』『何人も作畫の當初にありては、誤りあるを免れず、此時にあたり自然の妙諦を會得するに非ざれば、その誤謬を斧正する事も叶はず、先づ眞體に徹して過誤を批判せよ。最初より準備規矩を以て臨む如き安易なる態度は、一作遂にまとまる事なく支離滅裂に終る可し。』『よき解釋は、自然の原理、不變の法則を捉へる。之は一りつの準縄規矩とは以て非なるもので、眞の法則は各自實驗が生み出す愛嬢であり、また繪畫の母である。』こんは風だ。此本にはペラダンと云ふ仏文學者の讀後感も所々に入れてある。それには『ジョコンダは生けるが如しと雖も、生きたる肉體の再現ではない、此畫のモデルになつたモナリザは、疑ひなく美人であつたに違ひないが、セリメータの如く、崇高幽玄なるルーヴルのジョコンダではなかった。』などゝ書いてある。現本はヴァチカンに在るさうだ。ヴィンシがフローレンスのアカデミーで生徒に教へた講義録ださうだが、今日の畫論としても結構だね。

 今春ポチパレーでは、プーサンからコロー迄の風景畫が展覽された、プーサンもクロードローレーンも實に澤山の鉛筆畫を勉強して居るのに驚く。その外にコロー以後現代迄のものがルウヴルの工藝美術館で催された。又ベルネイムジョンでも之に似た催しをしたが、之は寄せ集めたもので、シャンとしたものではなかつた。チェイルリーの現代展はまだ見ない。畫かき仲間、批評家仲間、美術雑誌新聞等々、現在も全く迫力なし。庭の草花の方が確かに養ひになる。どうも近代のだれ方は世界的ぢやないかな。何か暗然たるものを感ぜざるを得ない。つまりダヴィンシの云ふ根本の勘所があやしく徒らに方法許り氾濫の形だ。凡そ一國の文化が一たん向上しながらそれを次期時代に持ち越して進む事も出來ず、下向して仕舞ふ如きは理屈にあはぬ話だが、此の根本狀態は云つて見れば良知の消長で、良知の根本なくしては科學も衆の力も無意義となり充分に生きないので、止むなく下向線となるのであらう。

 日本の場合にして見ても、能樂にしても、藝道にしても、足利時代からずつと下り坂で、只光悦等の後を追ふ許りとは寧ろ不思議な位、能樂興隆の恩人世阿彌は、作曲も脚本もそして出演も、自らの一手によくし、全組織の立體的成就者であり、見物群集心理迄、つまり自他一如の總合藝術を成し遂げて居る。その美貌であつたと云ふ事迄何だか日本の小ダヴィンシを思はす。天才と云へば何だか特別に平凡人の近づき難い位置にある人のやうだが、要するに之も眞髄知覺の有無に過ぎないのだらう。世阿彌も云つて居るやうに、遠く高く、及び難く見える彼岸でも覺つて見ればほんの一寸した違ひだと、その一寸した違ひがしかし、一國文化の高下を因し、時代の大衆と相關しつゝ文化を押し進めるのだらう。徒らに賑やかであつても其實質之に倶はなければ矛盾の現象も出て來るのだね。(『友人よりの古い書面』西部美術〈昭和21、5・6月合併號〉)(263~266頁)

■此の畫を描いた頃の思出としては現在の事情とは随分違ふものであつた。特に地方田舎のそれ等の狀態が頭に浮ぶ。藝術等と云ふ如き改つた觀念は普通一般人間には縁なきものゝやうに見えたものである。畫作も當時は寫生其場仕上げが唯一の方法になつて居た私は此百號のカンバスを現場にかつぎ出して寫生したものである。農家の軒下にカンバスを立てかけて寫生を始めたところ、經師屋と間違へられて襖の張りかへを頼まれて面喰つた。此村は附近に皿山の窯業地をひかへ、焼物類が色色村中に轉がつて居て興味を引かれた。木賃宿が村の出外れの往還端に一軒在つたのを幸に其家に一週間程滞在して出來たものである。畫中の人物は、同じ宿に滞在して居た盲目の女按摩を頼んでモデルになつて貰つたものだが、下を向いて居るので盲目の顔は見えない。此畫の外に百五十號のカンバスも用意して櫨畑の寫生を別に取りかゝつたが、第一日はどうやら描けたが二日目から少し風が出て宿から寫生場所迄カンバスを運ぶ事が出來ず、非力の私はカンバスに當る風に引摺られて動けず馬鹿を見た斗りで此方は遂に止めて仕舞つた。盲目蛇で只矢たらに描き度い斗りであつたものだ。私の行動は此村では不思議なものが降つて湧いたやうに見られたらしく警官の注意迄引く事になり、私の宿の居間に不意に警官に立入られたり、寫生中に話しかけられ調査を受けたりしたものである。その頃の気持には生きて居る内には現在の如き藝術認識時代が日本に來ようとは全く豫期の外であつた。それ丈けに今日になつて思ふと當時の二十代頃の畫學生氣心が思出の中に目立つのである。つまり洋畫では衣食出來ない事が今日とは比較にならなぬはつ切りして居る時代、それを承知で各地から出京して來た學生である。私のお世話になつた小山先生の不同舎の畫友も、それだのに何れも申合わせたやうに貧乏者が揃つて居たのは何か皮肉な感じさへある位、各思々のアルバイトでさゝへて居た。少し遠出の寫生には無錢旅行や野宿もする行者にも似た精進が競はれたものである。其等の人々は今日畫人としては消えて多くは行衞も不明である。明治時代頃は周圍が周圍であつたので畫人は畫人同志でないと分らぬものがあり、畫學生同志の人間的意志の共鳴は切實なものがあつて、以前は知らなかつた人間らしいものを此間に教へられた悦は今も忘れられない。(『「北茂安村の一部」につき』國立近代美術館ニュース〈昭和30、7〉)(291~292頁)

■もともとただ一人の兄が京都の第三高を出るのが小生一家の唯一の期待で、卒業すれば兄が私を何とかしてくれるというようなことでしたが、その兄が中途で病死しましたので、小生も一時は途方に暮れ、學校も當時の高等小學校を出るのがやつとでありました。このような狀態で繪の研究に上京するのは、どだい不合理滅法で明かに冒險で、ただ行けるところまで行つてみるばかりで、ただもう畫を描くこと以外は一切の希望を自然に捨ててしまいました。しかし何と云うても母が小生一人を頼りにしているという矛盾は自分に迫つていますから、絶體絶命でありました。自分一人なら橋の下や立ん坊にもなれるが、そんなわけで全く捨身でした。自分のような者が他にあるのだろうかと思いおりました。しかし不同舎に入つてみると、友人はそれぞれ似たり寄つたりの人々だつたので、自分のことなど當り前とわかり、妙な安心をしたものです。

 こんなふうで東京へ一人出ても、母が田舎でひとり寂しく待つているということで絶對的に尻を叩かれ通しで、貧乏に對して臆病だつた私は、却つて捨身になつて消極的に我慢をする習性がついたようです。ですから、その頃私は、生きるということはどこまで行けるか行けるところまで行つてみる試しだ、というふうに思いおりました。(『幼少時代の囘想』〈昭和30、12、18談〉)(303~304頁)

■時代の先頭が決して追ふ者に期待さるゝ筈なく自ら往く者の力にのみ待つ可き筈なのに兎角批評家などが一般的に早分かりさす為か新しい表現の外形式を問題にする傾があるので輕薄な畫家は誘惑されたりする事になるらしい。

 時流を追ふなどは自ら世間より後れて居る事を自白するものです。尤も時代の空氣を呼吸する事は必要に相違ないが此ところの微妙な相違は自ら進む者にはよくわかる筈でしょう。――中略――抑々作家でありながら時代と共に行く事を喜ぶなどは云ひかへれば意氣地のないわけで作家は宜敷(よろしく)いつも背後に時代は持つ可きです。つい氣焔になつて來ましたが此位の抱負は持つて居て然る可きと思います。(井上三綱氏宛書簡〈昭和4、9、9〉)(318頁)

■小生はセザンを認めないのではありません。只セザンのように一切が見へるのならセザンにはなり度くないと云ふのです。セザン位徹底した行き方には小生も賛美を惜しみません。又あのつめたい美しさも認めます。しかしセザンの如く自然を無機的に見做さずともまだとり當然なそして高い世界はある筈と思ふ心持です。セザンが若しアングルとかルーベンス位でも其畫境が吾々より遠い位置でしたらそう迄批難を投げる氣も却つてないでしようがつまりそれ程セザンは近々と働きかゝるところがある故にまだまだと押しのけずに居られぬわけです。少し無理な例へですが強いて云へばセザンは法律の眼でものを見てゞも居るようでそれよりは佛心で見た方がより當然さと大きさ深さがあるように思はるゝ心持です。没我的な人が應物の自在性を有する事は御説通りと思ひます。之について丁度よい例があります。或る學者が大人物を分類して『英雄型と偉人型の二つに區別し英雄型は自己本位で敵手は勿論自己の好まぬものはじゆうりんして仕舞ふ。身邊は好きにまかせて金殿玉樓をつくり其周圍は常にさんらんとして居る。ナポレオンや秀吉の如きがそれでつまり何處迄も自己肯定である。然るに偉人型は自己否定である。常に自己の缺點をのみ反省し之でもいかぬまだまだとして進む。一見平凡である。其實質が天下の大學者であつても尚及ばざらん事を恐れて行く。身を持するにも草屋布衣に甘んじ愛他は益々擴大する』と云ふのです。右の事は丁度畫家の自然に對した態度にあてはまると思います。英雄的な天才で自然を見た畫家の内尤其一長一短を露骨にして居るのはクールベでしよう。つまり彼の天才は自然の實相をあれ程捉へて居る程であるのに其才を自由自在にのばした半面には途方もないうそを無邪氣に曝露しても居る。つまり自然に對していつの間にか不遜となり忽ちにして實相力があべこべに裏切られる事になつて居る。彼の畫集を開くならば到るところに其破たんは見出されるでしよう。岸田君などはやゝ之に似たところがあると思ひます。岸田君と云へばつい最近なくなられた新聞を見ました。何とか云つても惜しい人でありました――

 ミレとかピサロとか云ふ人々は偉人型の方でしよう。つまり没我的に應物されて其裏に一層の生(ママ)きが得られてある。之をセザンの場合にあてはめるならば英雄型と偉人型と半々に備へて居るとでも云ふ可きか。セザンの自然に喰付いたところは謙虚さがたしかにあるが他面彼は頑固に自然を型にはめて押しても居る。或はセザンに云わすれば此押しの信念はセザンを生かしたところかもしれないが第三者として見るときセザンに對する不滿のところもその邊に根源がある氣がされます。

 つまり主觀的な押しも客觀的な没我もそれは何れにしても作家其者の性情本能の如何によつて是非の歸着は決せらるゝ事でそれを外にして單に此兩態度の是非は云へないでしよう。貴兄の云わるゝやうに「セザンの如きは何物も同じように描きはせぬかと小生の迷いに候」とありますのも若しセザンと同じ態度を持する人が外にあるととして其人の性格本能次第では或は其態度がよい結果をもたらすかもしれないし又人によつてはわるいでしよう。つまり筆者の本能の問題で態度丈けでは是非されないでしよう。

 自然に對して謙虚でないと自然は決して見へないのは凡そたしからしいですがそうかと云つて全く没我になつて仕舞つては之も仕方のない事になる筈でよい自我は押して行く可きであるがそれを押し過ぎると罰が當るのでしよう。客觀主觀と云ふ事は容易に外からは云へない事で作家の本性生れつきを解ぼうでもして見ない限りわからない事で例へセザンにしても客觀的とも云へるし又主觀的とも云へましよう。ビンチにしてもそうです。つまり作品に現われた形について實相的とか想像的とか云ふ事は云へましようが主觀か客觀的かとは簡單には云へない事でしよう。ミケランゼロとダビンチの仲の悪るかつたと云ふのはつまりどちらからでも近々と働らきかゝるものがあり合つて却つて反撥したのではないかと想像します。つまり兄弟喧嘩に類するものです。ミレーとコローの如くです。――よい作家は一切をよく知り又容れ得る。しかしながら愈々(いよいよ)自己燃焼の場合となると當然一路(3字削)境地となる。此消息でしよう。御手紙の最後にある『自己に歸着する慾を出してはいけないと云ふのか』の御質問もつまりは前述の如く作家の生まれつきによる事でしよう。――しかし理想的な狀態なるものを假想するならば自己慾を充分に發揮してもそれが立派であると云ふならば之に越した事はないわけでつまり英雄的に進んでしかも英雄的缺點がないならばそれは自然人的神人的狀態と云ふ可く大乗でありそして小乗であり得て居るものでしよう。畫を描くにも出來る丈け自分に歸着する慾望がよい意味に生きるのならば大に自欲を進む可きではないでしようか。問題は此よい意味かそうでないかを判別さする知慧にありましよう。(井上三綱氏宛書簡〈昭和4、12、24〉)(320~324頁)

■つまり小生は時勢的と云ふよりも常に根本的を土臺として行き度いのです。例へば構成と云ふ如き事も勿論考へて居るつもりですがつまり小生がやゝ保守と見られ易いと思はるゝ點をかりに云つて見ますれば小生は何處迄も實體を解決し度いのが目的です。勿論實體と云つても比較的に過ぎぬのでありますが例へば線を入れて描けば割合に一見さし當りはよく解決され感じも出出來上りもきびきびして行くやうな場合でも線と云ふものは可なり主觀的なもので後日になつて見ると案外それが畫をうすつぺらにして居る場合が多い。つまり實體的追究より外れて早く畫になり過ぎる恐れがある故小生は畫面構成等の事についてもすべる事を要心し度いのです。勿論線を絶對に捨てるのではありません。しかし又一面美術的繪畫的興味的又藝術的とも云ふかしいて云へば畫面的の面白ささう云ふものの存在もあるのだから(勿論切り離して考へられない事ですが比較的です)大にそう云ふ意味の造形趣味に筆を雄健に揮ふのもよいに違いないのだから特にそう云ふ方面に才を持つて居る人が適者適處に筆をふるふのは當然でよいと思います。しかし小生自身としては實體に届くメスを常に問題とし度いので思想も描寫も之から外れたものには單に參考以上に深く引かれるわけには行きません。更に云へば見方はあまり問題にして居ないのです。見へ方を問題とし度いのです。現今の仕事は多く見方斗りの變化で其實大して變つたものが見へて居ないので外形程に働らきの事實は平凡であるのが物足らぬのです。しかし勿論見方も一つの方便だから實質が實際見へて來たら問題とし度いと思います。(井上三綱氏宛〈昭和5、9、19〉)(326~327頁)

■藝術の世界は誠に何と云つたらよいか只妙とでも云ふ外はない。此世界のみは無限の魅力と希望の奥が擴がつて居る。どうして斯う云ふものを人間に與へられて居るか其是非などは考へられぬ以上のものである。如何なる此道念の本には堪へ得られるのが不思議と云ふ外はない。吾々は只自然の命のまゝにわけはわからず歩ませられる斗り。匆々(井上三綱氏宛〈昭和6、11、2〉)(331頁)

■東洋は自然の中に解け入る大乗覺知に謎の鍵があり西洋は何處迄も自然を對照解釋して居る。西洋でも自然を見ない作家はないでしようが之は微妙な本能性の中の動き方を指す意味ですが東洋は宗教的で西洋は科學的とも云へさうです。何れにしても風土的地方的趣味的装飾感等の如きは各人の居所によりてそれぞれの必然性があり彼は彼之は之である外ないでしようが超國土的藝術は之れより以上の人間性が實證されたものでなければならないように思われ之の意味に於て小生は未だ表面化に至つて居ないものもあるらしい東洋の潜在力を期待されるように思います。更に云へば風土の力とも云へさうです。西洋は兎角作家の指向方向や態度其ものが割合問題となる多元的要求から來る平面的消長にも心引かれ易い傾向あり尤も日本でも之の傅染は流行して居るのですが問題の鍵はより高度の人間性に潜む筈で之が實證されない程度のものにありては只局部的變化平面現象に止まるのでしよう。(黒田重太郎氏宛〈昭和25、2、24〉)(362頁)

■自分の描画上の氣持丈けを云いますと一切は只作家の冩實々證に過ぎない。それ丈けで其人はまざまざと姿を現わして居る。只消極的と積極的の表現相違はある。それ故自己に既存せる内容ならばコローの言葉のように只正直に自然を描く事によつて自づから積極的でなくとも超現實もアプレゲールも出て來る筈である。自らにないより以上のものを取り入れる積極的歩みを行くには色々の思想や方法が其人に或る程度は役に立つ事にもなるのでしよう。しかし何れにしても作品の結果は常に正直であるものが現わるゝ外どうにも仕方はないものである。時代性が如何にあらふ共自らにないものはそれを追つても外形の無意味な姿以上に在り得る筈がない。要するに問題は自己にありての足の蹈みようを誤らぬ事。積極的と云ふ事も消極的と云ふ事も自己への適否できまる事でありませう。此のかね合いを尤も適當に自覺出來るのは其人の天才による外ない。更に云いかへればクラシックにありて如何なる未知の前途を加ふるか保守と進化向上の結合を實現するのが作家の姿でしようからこのかね合いは微妙な本能の作用が大に其消長を握つて居り新らたなる前途を偉(おほ)いなる結果をも作り出す。(黒田重太郎氏宛〈昭和25、2、24〉)(364頁)

■小生の抱いて居る油彩についての考へを云つて見ますと油彩表現の長處が實相表現に便宜であるところにあるのですが――繪畫表現に就いて現在考へられる理想的狀態は實相具象つまり作家の姿が出來る丈けそのまゝの眞相を現わす事例へ表現法其形式の如何にかゝわらず抽象となりシュールとなりキュービックとなつても此實相具象を帯同せる範圍にある事が必要と思われる事。

 若し此根本性が他に外れて抽象が勝手な形の抽象化となれば其造形が如何に明確愉快に繪畫的構成色調の美しさ等が發揮されたとしても結局は繪畫としての目標よりも工藝美の方へ近づく事となり作品として面白くとも人間表現としての力が稀薄に傾く。

 近代抽象作品に共通する一長一短がこゝにあり。あらゆる方面に自由明せき多様性の装飾性構成表現に於て魅力的であり會場効果的である事は結構ですが繪畫が單に面白く又美しい装飾的魅力に留つてよろしいものならば特に繪畫としての獨立した境地もなくなり他の工藝品とかわらぬ存在でしかない事になります。繪畫は繪畫の長處であり得る人間表現でならねばならぬと思ふのです。(井上三綱氏宛〈昭和25、8、29〉)(370~371頁)

■ピカソマチス展は小生も大阪迄往つて見ました。以前の彼よりも彼は彼なりの世界を今度見直されましたがしかし彼の一長一短は現代的思想一面の大勢を象徴した標本見たようなものでいやでも人の目を引く會場効果をつくるその意味での天才と思います。之は丁度新聞雑誌の編輯心理を思われまた作家と大衆關係が益々世知辛く密接せねばならなぬ職人としての合理性社會理念現實は否應ない此大勢にあるようで之は一面矛盾を内藏するものと思いますが事實ルオーやブラックの(彼等に限らないが)仕事を見ると其努力は貴とい事ながら何だか半面氣の毒の感じさへ起ります。畫面表現効果についてのやつ氣な姿、日本の大衆が最近畫を見る目に進歩があらわれて居るのは確かと見られるのですが要するに大衆は表面的空氣に導かれてあとからついて來る丈けであるようです。専門畫家も大體此姿が多いと思います。小生最近相當な作家として見て居た某君の口から「青木繁の作品が此頃よき見へるのに考へさせられる」と云ふ言葉を聞かされ青木は四十年も前に仕事して居るのに(4字削)尚斯の如きかと寧ろ(3字削)現代心理の面に考へさせられた事です。案外作家についての人の是非心理のどこかに他あいもないものゝひそんで居る事を思わされた事です。

 兎に角畫面表現効果の近代は進みました。特に抽象的主觀方面の擴大を認められるのですが之は又半面遊戯自己に傾き易い危險性ありて作家としては此事要心せねばならぬかと思います。小生最近馬遠の大作を見ましたがそのスケールの大きさまざまざと來ろ人間の迫力。此頃の新しいとか舊るいとか云われる空氣が井戸端會議か何かのようにけちけちな哀れさに見へてなりませんでした。(井上三綱氏宛〈昭和28、3、31〉)(384~385頁)

■畫作についての小生の今の考へを言つて見ますと近代の抽象的思想は一面にの表現力を擴げ高めた事で結構ですが要は作品の到達點如何にある事勿論で作家としては象徴でも自然派でも各自の當を得たものに立場を取ればよいのですがそれぞれに一長一短もあるように抽象思想の半面に見出され易い冩實性の不足云いかへれば冩實が一層成就される範圍に於ては抽象も結構であると云ふ意味に歸着します。つまり抽象も象徴も廣い意味の眞實こそ冩實と解されるので畫面にありては抽象と冩實は矛盾しないものと解しての言い分です。繪畫と彫刻が特に單なる装飾美以上の表現に適して居るのは此冩實力であり折角の兒童自由畫の殆んどが面白さはあつても足りないのは此冩實の不足から來るもの足りなさで大人の畫でも冩實のないものは面白いものでも兒童畫に近似する冩實の眞實(廣い意味の)こそ人類的エスペラントの大道のあるところで大事な問題のあるところと思います。しかし抽象とか冩實とか名づけても明瞭な境界線があるわけではないので此要點を把握するのが天才の仕事でしよう。(井上三綱氏宛〈昭和29、5、26〉)(389~390頁)

(2012年1月29日)

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