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読書ノート

『正法眼蔵(5)』増谷文雄 全訳注 講談社学術文庫

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『正法眼蔵(5)増谷文雄 全訳注 講談社学術文庫

凡 例

■よく知られるように、『正法眼蔵』は未完の大著である。その最後の制作である「八大人覚(にんがく)」の巻(1253)の奥書によれば、道元は、それまでの制作もみな書き改め、それに新草をも加えて、これを全百巻の制作とするつもりであったという。懐弉の記すところである。しかるに、その頃から病ようやく重くして、その事を果すにいたらず、その年(建長五年、1253)の八月二十八日にこの世の生を終えられた。

この未完の大著がまず編集されたのは、それも他ならぬ永平寺第二世を嗣いだ懐弉によってである。その巻数は七十五巻である。懐弉は、早くから、道元が衆に示した、もしくは衆に示すために用意した草稿を書写していたのであるが、この七十五巻は、おおむねそれらによって編集されたもののごとく、人に書いて与えられたものは、「現成公案」の一卷のみ(それは建長四年に収録されていた)である。その編集がなったのは建長七年、道元の滅後三年目であったという。この未完の大著の主体をなすものが、この七十五巻本であることは申すまでもない。

しかるに、懐弉はなおその後も、みずから道元の草稿を書写し、あるいは人をして書写せしめたようである。それはどういうことであるか。そこで思い出されることは、彼は宝治元年(1247)よりしばらく永平寺を離れ、豊後(ぶんご)国大分郡に下向(げこう)して、大龍山永慶寺の草創のことに尽瘁(じんすい)していた。そして、道元の病ようやく篤(あつ)きにいたって、急ぎ永平寺に帰ってその第二世を命ぜられた。とするならば、その間になった新稿や再治のものについては、さきの七十五巻本に収めえなかったものがあったとしても少しも不思議ではない。そして、今日みるところの永平寺所伝のいわゆる十二巻本は、おおよそ、そのようにして新たに追加せられたもののように思われる。

それで、今日みるところの「正法眼蔵』の根幹は、おおよそ成ったものといってよかろう。だが、ふと気がついてみると、そのなかには、「菩提薩埵四摂法(ぼだいさったししょうぼう)」の漢がみえない。「法華転法華」の巻がみえない。あるいは、「唯仏与仏」の巻もなく、「生死」の巻もない。さらには、「弁道話」の巻もどこにもない。それは、近年流布の刻本ないし活字本によって九十五巻本に親しんできたわたしどもにとっては、まことに淋しいことである。(7~8頁)

三 界 唯 心 (さんがいゆいしん)

■開 題

この一巻は、見られるとおり、その奥書に、寛元元年(1243)閏初七月一日、越宇(えちう)吉峰頭(よしみね)にありて衆(しゅ)に示したとある。それには異本があって、その吉峰頭を禅師峰(やましぶ)としたものもある。吉峰頭といえば、またしばしば吉峰寺・吉峰精舎・吉峰古精舎・吉嶺寺ねどとも記されている「吉峰の茅舎(ぼうしゃ)」であって、いまの永平寺の主山の背にあたる松岡の渓の奥にあったという。また、禅師峰といえば、天台宗平泉寺のふもとであって、この年の十一月のなかばから、翌年二月のころまでは、そこで示衆(じしゅ)のことが行われたようである。おそらくは、冬たけて雪ふかきころには、禅師峰なで下っておられたものでもあろうか。

だが、それよりももっと、わたしにとって忘じがたいのは、その七月一日という日付である。かの『建撕(けんぜい)記』は、それについて次のようにいう。

「この年七月十六日の比(ころ)、京を御立あるかと覚ふ。同月末に志比荘(しびのしょう)に下著あると見へたり、正法眼蔵三十二巻(「三界唯心」の巻)の奥書に、寛元元年閏七月初一日、在越宇(えちう)吉峰頭(よしみね)にありて示衆と云(いえ)り。……越に著して、最初は吉峰に住せられて、閏七月初一日に開示始まれり」

わたしは、はじめ、わが眼を疑ったことを忘れえない。京都を立たれたのが七月十六日ごろだというのに、おなじ七月の一日に示衆とはと、よくよく検(しら)べてみると、それは閏初七月の初一日であった。とはいえ、やっぱり、七月の末にお着きになって、あくる閏七月の初一日には、もう示衆ということであるから、道元禅師がいかにこの『正法眼蔵』のことに精魂を傾けておられたか、ひしひしと感ぜられざるをえないのである。

ともあれ、この一巻は、道元禅師が越前に入られてからの、はじめて開示された一本である。そのなかで禅師が、衆にむかって示そうとなされたことはなんであったであろうか。

ここでもまた、道元は、そのいわんとするところの大凡(おおよそ)を、その冒頭の一節にうち出している。そこではまず、『華厳経』によって(ただし取意文)、つぎのような四句の偈(げ)がおかれる。

「三界唯一心 心外無別法

心仏及(ぎゅう)衆生 是三無差(しゃ)別」

そして、それを道元は、この「一句の道著(じゃく)は一代の挙力(こりき)なり、一代の挙力は尽力(じんりき)の全挙なり」と語りはじめる。道元の文章に馴染まぬ人々には、まったく難解であろうが、すこし馴染んでくると、ああそうかと、すっと頷(うなず)くことができる。わたしは、それを次のように訳しておいた。

「この一句の表現は、如来一代の総力をあげてなれるものである。一代の総力をあげるということは、如来の力をこぞって余すところなきをいうのである」

ということは、ここに仏智はことごとく結晶しているのであり、ここに仏教の世界観の根本基底があるとでもいうところであろう。

しかるに、「三界唯心」もしくは「三界唯一心」といえば、人はとかく、ああ仏教は結局のところ唯心論なのだなあと、早合点しがちである。はやい話が、古来から仏教をもって唯心論だとしている人々は、けっして少なくないのであるが、それは、けっして「三界唯心」の真意を得たものではない。道元がつづいて語っていることはそのことである。

「三界は全界なり、三界はすなはち心(しん)といふにあらず。そのゆゑは、三界はいく玲瓏(れいろう)八面も、なほ三界なり」

三界とは、この世界のすべてをいうことばである。だが、その三界はけっしてそのまま心であるなどというのではない。この三界はどこから見ても、あきらかに、どこまでもなお三界であるという。そのいう意味は、つまり、仏教を唯心論などと思うのは、とんでもない誤解とするのである。かくて、よくその誤解より脱出することを得るならば、そこから、またいろいろというべきことが開けてくるのである。(16~18頁)

■釈迦牟尼仏は仰せられた。

「三界とはただ一つの心である。

心のほかにまた別のものはない

心といい、仏といい、衆生というも

その三つは別のものではない」

この一句の、表現は、如来一代の総力をあげてなれるものである。一代の総力をあげるということは、如来の力をこぞって余すところなきをいうのである。それは、凡夫にとっては、無理をしてやっとできることであるが、仏にとっては、それがおのずからにしてそうなるのである。だからして、いま如来がいう「三界唯心」とは、如来の悟れるすべてである。一代のすべてがこの一句に結晶しているのである。

その三界とは、すべての世界のことである。けっしてこの三界がそのまま心(しん)であるというのではない。なんとなれば、この三界は、どこから見ても、あくまでも明らかになお三界である。それを、三界ではあるまいと考えても、とてもそう考えきれるものではない。内も外も中間も、初めも中も終りも、みな三界ならざるはない。

つまり三界は三界というそのことばのとおりである。それをそうではあるまいと見るのは、三界の正しい見方ではない。詮(せん)ずるところ、三界は、迷うたままの目で見ればふるい三界であるし、悟った目で見ればあたらしい三界なのである。つまり、古巣にあっても三界が見え、新しくなったからとて、やはり三界が見えるのである。

だからして、釈迦牟尼仏がまた仰せられた。

「三界を、三界として見るのが、いちばんよろしい」

そのようにして見られているのが三界であり、この三界はそのように見えるのである。だから、三界とは、もとから存在するというものでもなく、また今だけそんざいするというものでもない。あるいは、新たに存在するというものでもなく、また今だけ存在するというものでもない。あるいは、新たに成るというものでもなく、なにか条件があって生ずるものでもなく、また、初めにあり、中にあり、後にあるというものでもない。

あるいは、三界を出離するということがあり、また、いまこの三界にありということもあるが、それは、そういう仕掛けがあるというだけのことであり、ことばがことばを生み出しただけのことである。つまり、いまこの三界にありというのは、三界で見ているのであって、ではなにを見ているかといえば、三界を見ているのである。三界で三界を見ているのだから、三界がよく見える、三界がよく判るのである。それで課題はみごとに解けるのである。よく三界をして発心・修行・菩提・涅槃をとげしめるのである。かくて、これを、ああみんなわたしのものだ、ということができるのである。(20~21頁)

〈注解〉三界唯一心、心外無別法;『華厳経』(八十巻本)第三十八、離世間品に、「三界所有、唯是一心」とある。

  心仏及衆生、是三無差別;『華厳経』(六十巻本)第三十六、夜摩天宮菩薩説偈品に、この二句が見えておる。したがって、道元はそれらの意を取り、あるいは合成して、この四句の一偈をなしたのであろうか。(22頁)

■それによっても判るように、三界のほかにはなお別に衆生の世界があるなどというのは、外道の実在論者ののいうところであって、けっして七仏の説きたまうところではないのである。さきには、唯心とあったが、それも、あれだこれだというものではない。また、三界はただ心のみというのでもなく、三界を出てほかに心があるわけではない。そんなことは考えようとしたって考えられないから、誤りっこはありえない。思念のいとなみをしたからとてそれであり、思念のいとなみがなくってもそれである。つまりは、牆壁瓦礫(しょうへきがりゃく)も心なのであり、山(せん)河大地も心なのである。

さらにいえば、心とは皮肉骨髄がそれであり、あるいは、拈華(げ)破顔がそれである。そこでは、心のはたらきがあることもあり、あるいは、それがないこともある。あるいはまた、有身の心というがあり、無身の心というもある。さらには、身先の心というがあり、身後の心というもあろう。生物がその身を生ずるには、胎生(しょう)・卵生(しょう)・湿生(しょう)・化生(しょう)といろいろの種類があるという。それと同じく心の生ずるにも、またそのようないろいろの種類がある。

青・黄・赤・白というも心である。長い短い・円い四角いというも心である。生まれて来り、死して去るというも心である。年月日時というのも心であり、夢まぼろしといい、空中の華というのも心であり、水沫(すいまつ)といい泡といい焔(ほのお)というも心である。あるいは、春の花といい秋の月というのも心であり、ほんのわずかの間のかりそめのこともすべて心である。それでいて、それをどうすることもできない。だからして、諸法実相というのも心、唯仏与仏というのも心であるというのである。(29~30頁)

■いま玄沙院の師備は問うて、三界唯心というが、そなたはそれをどう理解しているかといった。どう理解しようが、どう理解せまいが、どちらにしても、同じく三界唯心である。だからして、また、かならずしも三界唯心といわなくてもよろしい。それで地蔵院の桂琛(けいしん)は、かたわらの椅子を指さして、和尚はこれを呼んでなんと申されるかといった。つまり、どう理解するかということは、どう呼ぶかということなのである。

だから、いま玄沙院の師備が「椅子じゃ」といったなら、われわれもまたそういってみるがよろしい。そういいながら、いったいこれは三界を理解したことばか、それとも理解していないことばか、あるいは、これは三界のことばか、それとも三界のことばではないのか、あるいはまた、これは椅子がいうのか、大師がいうのかと、そんな具合にいってみるがよろしい。そうすればまた、解ったかどうかも判り、納得できたかも判るというものである。(34~35頁)

■すると、玄沙院の師備が、「この世界には、仏法を理解したものなどは、ただの一人も見つからぬぞ」といったという、その表現をもつぶさにしらべてみるがよろしい。

いまもいうように、玄沙院の師備もただ「呼んで竹木となす」である。地蔵院の桂琛(けいしん)もただ「呼んで竹木となす」である。さらにいえば、まだ三界唯心を理解したわけでもなく、またいわないわけでもない。とはいいながら、ひとつ玄沙院の師備に問うてみたい。「和尚はいま、この世界に仏法を会(え)する人などは、ただの一人も見つけがたい、と仰せられたが、では、試みにいうてみるならば、なにを呼んでこの世界というのでありましょうか」と。だいたい、そんな具合にいろいろと工夫して思いめぐらすがよいのである。(36~37頁)

〈注解〉玄沙院宗一大師;玄沙師備(908寂、寿74)。雪峰義存の法嗣(ほっす)。福州の玄沙山に住した。宗一大師は賜号(しごう)である。

  地蔵院真応大師;羅漢桂琛(らかんけいしん、928寂、寿61)。玄沙師備の法嗣(ほっす)。はじめ地蔵院にあり、のち羅漢院に住した。諡(おくりな)して真応大師と称する。(37頁)

説 心 説 性 ( せっしんせっしょう )

■開 題

いま一つは、この巻において、大慧宗杲(だいえそうこう)のことばをもって代表せしめている誤れる見解であって、それは、つぎのように述べられている。

「いまのともがら、説心説性をこのみ、談玄談妙をこのむによりて、得道おそし。ただまさに心性ふたつながらなげすてきたり、玄妙ともに忘じきたりて、二相不生のとき、証契(しょうかい)するなり」

どうやら、そのような見解は、禅門のいたるところにおいて、よく聞くところであるようであるが、いま道元が、この巻において強調していることは、初中終をつらぬいて、「説心説性は仏道の大本(おおもと)」であるということなのである。

「説心説性は仏道の大本なり。これより仏仏祖祖を現成せしむるなり。説心説性にあらざれば、転妙法輪することなし、発心修行することなし、大地有情同時成道することなし」

それは、この巻の冒頭に、さきにいう洞山と僧密の対話につづいて記された道元の所見である。

それにあたかも呼応するがごとく、結びをなす一節は、つぎのように記されてある。

「しるべし、唐代より今日にいたるまで、説心説性の仏道なることをあきらめず、教行証(きょうぎょうしょう)の説心説性にくらくして、胡説乱道する可憐憫者(かれんみんしゃ)おほし。身先身後にすくふべし。為道(いどう)すらくは、説心説性はこれ七仏祖師の要機なり」

それなのに、心のこと、性もこととなると、その姿もみえず、その当体の捉えがたいものであるので、ともすれば、さきにいうがごとき誤解におちいり易い。その誤解をいましめながら、やはり、説心説性のことのおもきを語ろうとするのが、この一巻の趣きなのであろう。(41~42頁)

■説心説性ということは仏道の大本(おおもと)である。そこから仏たち祖たちが現われてくるのである。説心説性のことなくして、仏の説法はありえないのであり、発心修行もありえないのであり、大地有情、同時成道ということもありえないのであり、あるいは、一切衆生、仏性なしともいいえないであろう。さらにいうなれば、拈華(ねんげ)瞬目も説心説性であり、破顔微(み)笑も説心説性であり、あるいは、二祖が初祖を礼拝してそのあるべき位置によって立ったのも説心説性であり、初祖が西より来たって梁(りょう)に入ったのも説心説性であり、五祖が夜半にして衣を六祖に伝えたのも説心説性である。あるいはまた、杖を拈(ひね)りまわすのも、説心説性のほかではなく、払子(ほっす)を横たえるのも、説心説性のほかではないのである。

つまり、仏祖のかたがたのなされることはすべて、ことごとく説心説性のほかではないのである。「平常是道(へいじょうこれどう)」というのも説心説性である。「牆壁瓦礫(しょうへきがりゃく)」と語るのも説心説性である。あるいは、「心生ずれば種々の法生じ、心滅すれば種々の法滅す」という、その道理がほのみえてくるのも、すべてみな、心の説かれる時、性の説かれる時ならざるはないのである。

しかるに、心なるものを知らず、性なるものに通じない凡庸の徒は、おろかにして説心説性を知らず、その玄妙のところを談ずるのだと知らないものだから、そんなことは、仏祖のことばにはありえないことといい、またそのように教える。それは、説心説性というのは「心と説き性と説く」ということと知らないものだから、説心説性といえば、「心を説き性を説く」と思っているからである。それは、なによりも、仏道のことは、どうすれば通じ、どうすれば塞(ふさ)がるかが、なおよく判っていないからである。(44~45頁)

〈注解〉神山僧密禅師;(生没年不詳)。雲巌曇晟(うんがんどんじょう)の法嗣(ほっす)。洞山と同道して行脚すること久しきにわたったので、洞山の弟子たちは彼を密師伯(みっしはく)と親しみ称したという。師伯とは師の法兄の意である。

  洞山悟本大師;洞山良价(869寂、寿63)。雲巌曇晟の法嗣(ほっす)。曹洞(そうとう)の流の祖である。

  大地有情同時成道;仏陀の正覚(がく)をいう。その正覚とともに、天地も衆生もすべてが新しくなったとするのである。

  夜半伝衣;五祖弘忍が六祖慧能に、黄梅山(おうばいざん)の夜半に法を伝え衣を伝えたことをいう。「伝衣(え)」の巻などにみえている。

  説心説性を説心説性と……;ここに説心説性の句が四たび語られている。その同じ句を駆使していわんとすることは、同じく説心説性といっても、正しい把握があり、正しからぬ把握があることをほのめかしているのである。その正しからぬ把握とは、いわば心または性を常、すなわち固定的に捉えている把握である。それを、わたしは、ここでは一応、正しい把握を「心と説き性と説く」となし、正しからぬそれを「心を説き性を説き」と訳しわけてみたが、それはけっして、いかに読むかの問題ではなく、むしろ、心もしくは性に対する理解の基本的態度の問題である。そして、「大道の通塞(つうそく)」もまた、一つにかかってそのことに存するであろう。だが、道元はそのような理解の基本的態度につき、さらに説き来り説き去るのである。(46~47頁)

■すこし後のことであるが、径山(きんざん)に大慧禅師宗杲(そうこう)なるものがあって、かようなことをいっておる。――いまのものは、心だ性だと説くことをこのみ、いろいろと玄妙のことを談ずるのがすきであるが、それで道を得るのがおそいのである。そこのところは、心も性もふたつともともに投げすて、玄妙のことなどはすっかり忘れて、あれもこれも念頭から消えてしまったとき、その時はじめて悟りの境地にいたるのである――と。

このようなことばは、いまだ仏祖の経をしらず、仏祖の教えを聞かざるもののいうところである。だからして、心といえばただ一筋に思慮し分別することとのみ心得て、さらに思慮し分別することも心の一面であることをまなばないから、こんなことをいうのである。また、性といえばただひとえに清らかにして静かなのであろうとのみ考えて、それには仏性ということもあり、法性(ほっしょう)ということもあり、すべてあるがままなるがそれだなどとは、夢にも気がつかないから、仏法をこんな具合に思い誤るのである。仏祖が仰せられるところの心とは、皮肉骨髄がそれである。また、仏祖が保持したもうところの性とは、竹箆拄杖(しっぺいしゅじょう)がそれなのである。あるいは、仏祖がうなずき悟るところの玄とは、露柱や燈籠がそれであり、仏祖のあげて示したもう妙とは、知見すること理解することがそれなのである。

いったい、仏祖がまことに仏祖にまします所以はいかにといえば、それは、はじめから、この心のこと、この性のことを、正しく聴取し、説きいたり、行じきたって、証するにいたるのである。あるいは、その玄妙のところをはっきりと把握し、かつまなびいたるのである。そして、そのようにするのが、仏祖をまなぶ弟子というものである。もしそのようでなかったならば、それは仏道をまなぶものではないのである。

だからして彼らは、道を得べき時には道を得ずといい、道を得られない時にかえって道を得るのだとする。つまり、道を得る時と得られない時が、まるで反対になってしまっているのである。たとえば、彼らは、心も性もふたつとも投げすててしまうというが、そういうことがすでに、身を説いていることにほかならないではないか。たといごく少しではあっても、心を説く分がのこっているのである。また、玄も妙もともに投げすててしまうということが、それもまた玄妙を談ずることを談じているのではないか。そこの微妙なところをまなばずして、ただ愚かしくも忘れてしまえ、投げ捨ててしまえというのは、われとわが手を離れよといい、われとわが身を遁(のが)れよというようなものと知られる。そんなのは、まだ小乗のせまくるしい量見を脱却していないのである。とても、大乗の奥ふかい幽玄さには及びえまいし、ましていわんや、仏に向って上りゆく勘所を知ることはできまい。それでは、仏祖の家の茶飯(さはん)をくってきたとはいいがたいではないか。いったい、師についてこの道をいそしむというのは、ただこの説心説性のことを、ぴたりとわが身心(しんじん)にあてて、わが身心をもって究めるがよいのである。さきにも、あとにも、どこまでも説心説性のことをまなびいたるのであって、そのほかに、べつにあれこれと為すべきことがあるわけではないのである。(49~50頁)

〈注解〉径山(きんざん)大慧禅師宗杲;大慧宗杲(だいえそうこう、1163寂、寿74)。圜悟克勤(えんごこくごん)の法嗣(ほっす)。大慧禅師は賜号(しごう)である。(51頁)

■その時、初祖は二祖にいった。

「汝はただ、外はいろいろの事に惹かれることをやめ、内は心をくるしむることなく、心はあたかも牆壁(しょうへき)のごとくにして、その時はじめて道に入ることができるのである」

そこで二祖は、いろいろと心を説き性を語ることを試みたが、いずれもぴたりとゆかなかった。しかるに、ある日、忽然としてみずから省みて得るところがあり、ついに初祖に申していった。

「わたしは、このたび、はじめて、いろいろの事に心惹かれることをやめました」

よそは、それで、彼がすでに悟りを得たことを知って、さらに問い詰めることをせず、ただいった。

「どうだ、それが杜絶えることはないか」

二祖はいった。

「ございません」

初祖はいった。

「せは、そなた、どんな具合だ」

二祖はいった。

「あまりはっきりとしているので、ことばではとてもいえません」

初祖はいった。

「それが、とりも直さず、これまでの仏祖のかたがたが伝えてきた心のありようである。そなたはいますでにそれを得たのである。よく自分でそれを大事にするがよい」

この話のことは、それを疑うものもあるし、また、とりあげていろいろと論ずるものもあるが、ともあれ、二祖が初祖に近持(きんじ)していたころの話の一節は、右にいうがごとくである。そのころ、二祖はしきりに、心とは、性とは、ああでもあろうかと考え、こうでもあろうかと考えてみるが、どうしてもぴったりとはゆかなかった。それが功を積み徳を累(かさ)ねて、ついに初祖がいうところを実現することができたのである。それを凡庸のものどもは、はじめ二祖が心や性について考えていた時には悟ることができなかったのであって、その罪は心や性についてあれこれと考えたからだと思い、そして、のちにそれを止めたときに悟りにいたることができたのだと考える。そんなのは、心をあたかも牆壁のごとくにして、その時はじめて道に入ることができるという条(くだり)を、よくよく考えてみないから、そんなことをいうのである。それは、なによりも、仏道をまなぶまなび方にくらいからである。

なぜかというに、はじめて菩提心をおこし、仏道の修行をはじめてからも、なおはじめのうちは、いかに難行苦行をかさねても、その行うことはなお百に一つも、ぴたりと的(まと)を射るものはない。だが、あるいは善知識の教えるところに従い、あるいは経巻の示すところに従って行じているうちに、ようやく次第にそれが的に当たるようになる。そして、振り返ってみると、いま的に当たるのは、かってそのむかし、百に一つも当たらなかったそのことの力であると知られる。つまり、百の不当があって、それがいまの一当になっているのである。そして、いま説心説性のこともまた同じである。きのうまでの説心説性があって、はじめて今日のみごとに当たる説心説性があるのである。初心にして仏道を行ずるとき、いまだ熟練せずして、うまくゆかないからといって、それで仏道をすてたのでは、ほかの道を通ってまた仏道を得るというわけにはゆかない。仏道の修行というものは、まだその終始に通じないものには、どうすればうまくゆくのか、そこの道理がなかなか判りにくいのである。(54~56頁)

■そもそも仏道は、初めて発心した時にも仏道である。すでに正覚(さとり)を成じた時にも仏道である。初めも中ごろも終わりも、いずれもすべて仏道である。それは、たとうれば、万里を行くものにとっては、一歩も千歩のうちであり、千歩も千里のうちだというようなものである。初めの一歩と千歩とはちがうけれども、千里のうちということでは同じことである。それなのに、愚かなやからは、仏道をまなんでいる時はまだ仏道にいたらぬのであって、証(さとり)の成った時それが初めて仏道だとばかり考えている。その道程のすべてが仏道を語っているのであり、その道のすべてが仏道を行じているのであり、また、その道のすべてが仏道を証(あか)しているのであるのに、それが判らないからそんなことを考えるのである。あるいは、迷った人が仏道を修行して大悟するのだとのみまなんで、迷わぬ人もまた仏道を修行して大悟するということを、まなんだことも聞いたこともないものだから、そんなことをいうのである。

つまり、人はいまだ悟りにいたらぬさきに心を語り性を説くのであるが、それもまた仏道なのであって、そのように説心説性してやがて覚りにいたるのである。悟りを得るというのも、迷ったものがあってはじめて大悟するをのみ悟りを得るというのだとまなんではならない。迷ったものも悟るのであり、悟れるものも悟るのであり、また、悟らぬものも大悟するのであり、迷わぬものも大悟するのであり、ぴたりと証しすることを得たものもまた証しするのである。(56~57頁)

■ただ、その流れを汲む嗣子(しし)だけがそれを正伝しているのである。また、もしその道理を正伝しなかったならば、どうして仏道の大本(おおもと)に通達(だつ)することができようか。では、その道理とはいかにというと、裏にも面にも、人々のあるあって、心を説き性を説くというのであり、また、面(おもて)でも裏でも心が説き、また、証が説くというのである。それをよくよく思いめぐらしてみるがよろしい。つまり、性でない説などというものはどこにもなく、説にあらざる心などというものはいまだかってないというのである。

たとえば、仏性という、それは一切を説いている。また、たとえば無仏性という、それも一切を説いているのである。仏性が性であることは誰にでもすぐ判るところである。だが、そこはもう一歩すすめて、一切衆生、有(う)仏性といいうるところまで到らねば、ほんとうに仏教をまなんだとはいえない。あるいは、一切衆生、無仏性というに到らねば、真に仏教をまなんだものとはいえない。説が性であることをまなび到る、それが仏祖の弟子というものであり、性とは説にほかならぬことを信受する、それが仏祖の嫡孫(ちゃくそん)というものである。

いったい、心は外境に対して動きやすく、性はそのようなことには恬(てん)として静かであると、そのように見るのは外道の所見というもの。あるいは、性は深々と澄みきって静まりかえり、相はたえず移り変わっているものだと、そんなことをいうのも外道の見解である。仏道において心を学び、性を行ずる仕方も、外道と同じではない。あるいは、仏道にて心をあきらめるゆき方も、外道のまったく知らざるところである。(60~61頁)

■かって臨済は、その全力をこめて無位の真人(しんにん)を説いたことがあったけれども、彼はなお有位の真人について語ったことはない。まだまなぶべき境地がのこっているのであり、いうべきことが残っているのである。それがまだ実現しないからには、いまだ究極地には到らずとしなければなるまい。思うに、説心説性ということは説仏説祖にほかならない。したがって、仏祖には、その聞くところにおいて相見えるがよいのである。(61頁)

〈注解〉無位真人;『臨済録』にみえるよく知られた一句である。「赤肉団上有一無位真人」とある。凡夫と仏の境をこえた一箇のあるがままの人間を語っているのである。それに対して、いま道元は、「有位真人をいまだ道取せず」と批判を加えている。そこに臨済と道元の仏教観の大きなちがいが存することを見落とすことはできまい。(62頁)

仏 道 (ぶつどう)

■開 題

この一巻は、寛元元年(1243)の秋九月十六日、越州吉田県の吉峰(よしみね)寺にあって衆(しゅ)に示したとある。越前にやってきてから、どうやら三巻目の示衆(じしゅ)にあたるようである。はじめての山中の秋気に、しきりに制作の意欲をかきたてられていたのであろうか、この九月中だけでも、さらに三本の制作があった。

この一巻の内容とするところは、かなりながいものであるが、しかし、そのいわんとする趣きは、きわめて明快である。つまり、仏道には宗派の称などあるべからざるものだということをずばりと説いているのである。

それをもうすこし具体的にいってみるならば、その第一には、この仏祖正(しょう)伝の大道を、ことさら禅宗などと称するのは、それは仏教そのものがまるで解っていないのだというのである。その第二には、さらに近来においては、その禅宗のなかにいわゆる五家の家風なるものがあるなどというが、そんなのはもはや仏法でもなければ、また祖師道でもないという。そして、その第三には、さらに、それら五家の祖とせられている祖師がたについて、それらの祖師がたもけっして、あるいは潙仰(いぎょう)宗を名告(なの)り、あるいは臨済宗を称し、あるいは曹洞(とう)宗を立てるなどという意向はもっておられなかった。そのことを道元は、それぞれの祖師がたについて一人ずつ証(あか)ししてゆくのである。ともあれ、まったく至り尽したことであるというほかはあるまい。

では、そのように論じ来って、すべての宗見をしりぞけ、あらゆる宗派を否定し去った道元その人は、いずれに依って立つというのであるか。もし、そのようなことが気になる人があったならば、わたしはその人のために、この巻の結びのつぎのような一節をあげて注目を促したい。

「世尊在世に一毫もたがはざらんとする、なほ百千万分の一分におよばざることをうれへ、およべることをよろこび、違せざらんとねがふを、遺弟の畜念とせるのみなり。これをもて多生の値遇奉覲(ちぐうぶごん)をちぎるべし、これをもて多生の見仏門法(ぽう)をねがふべし。ことさら世尊在世の化儀(けぎ)にそむきて、宗の称を立せん、如来の弟子にあらず、祖師の児孫にあらず」

まことに明快、まことに清純な仏教観であって、ちょっと道元その人の常套の表現を借りて申してみるなれば、そこには、天下の庸流(ようる)どもとはまったくその類を異にした仏教者がそそり立っている、とでもいうことができようかと思う。

だが、わたしはふと思い出す。かの「弁道話」の巻を読んでみると、そこでは、道元は、「いささか臨済の家風をき」いて、やがて海を超えて大宋国にまなんだと語っている。また、かの国に渡ってみると、そこには「いはゆる法眼(げん)宗・潙仰宗・曹洞宗・雲門宗・臨済宗」の五門があったが、なかでも「見在大宋には、臨済宗のみ天下にあまねし」などという観察も記しとどめている。

それとこれとを思い比べてみると、やはり、そこにはなにか大きな違いが生じている。むろん、その間にはすでに十幾年かの歳月が流れている。だが、その違いは、どうも幾月の経過だけでは解釈できないものを含んでいる。いや、もっとずばりというならば、道元はどうやら、その越前行の前後において、なにか大きな内的変化を経験したように思われる。あるいは、なにか大きな思想的展開をとげたように思われるのである。わたしには、そのように思われてしかたがないのである。いや、もしかすると、あの突如として行われた越前行そのものが、そのような内的変化もしくは思想的転回の一つの現われではなかったかと、わたしは考えているのである。

では、そのような変化もしくは展開の証(あかし)はいかにというならば、わたしはまず、この「仏道」の巻をあげて、これがそのような思想的転回の一つの顕著な現われであるとする。つづいて、まもなく吉峰寺において衆に示される「仏道」の巻がまたそうであるとする。あるいは、さきに興聖寺において衆に示された「仏道」の巻もまたそのようなものであったといってよいであろう。

では、あらためて、それらの巻々を綜合して、その大きな内的変化もしくは思想的転回がどのようなものであったかを論ずる機会をもちたいと思う次第である。(70~72頁)

■かくて、釈迦牟尼仏より曹谿慧能にいたるまでを算(かず)えれば三十四祖である。その仏祖の相承(じょう)は、いずれの側から申しても、摩訶迦葉(しょう)が釈迦如来に相見(あいまみ)えたがごとく、釈迦如来が摩訶迦葉を得られたがごとくであり、また釈迦牟尼仏が迦葉仏にまなばれたごとくであって、その師資のありようは連綿としてなお今日にいたるまで存している。だからして、正法の眼目もまたじきじきに嫡嗣(ちゃくし)より嫡嗣へと相承(じょう)しきたったのであって、仏法の正しき命はただこの正伝のなかにのみ存する。つまり、仏法はそのように正伝するものであるから、これを伝うるは付属の嫡嗣のほかにはなく、だからして、また仏道の功徳も要領もすべてそのなかに具わっている。かくして、西の方天竺より東の方中国にまで伝えられて十万八千里におよび、また釈迦仏在世のころより今日にまで伝わって二千有余歳にわたるのである。

しかるに、その道理をまなばぬやからどもは、みだりに誤って、仏祖正伝の正法の眼目、涅槃の妙心を語るに禅宗という。あるいは、祖師をば禅祖と称し、学人を禅子もしくは禅和子(ぜんなす)とよび、あるいはまた自ら称して禅家流などという。それらはみな、ひがめる考え方を根本として、そこから出てきた枝葉である。いったい、西天と東地をとわず、古(いにしえ)より今にいたるまで、いまだかって禅宗などという称はない。それをみだりに自称するのは、仏道をみだす悪魔であり、仏祖のまねかざる仇敵というものである。(74~75頁)

〈注解〉曹谿古仏;六祖慧能(713寂、寿76)。五祖弘忍の法嗣(ほっす)。諡して大鑑禅師と称する。

  禅和子;「ぜんなす」と読む。参禅の人をいう。

■いま、その菩提達磨を第二十八祖と称するのは、摩訶迦葉を初祖としてかくいうのである。さらにかの毗婆尸仏(びばしぶつ)より数えていえば第三十五祖である。そして、その七仏ならびに二十八代の祖たちはすべて、かならずしも禅那のみをもって道を証してきたものではなかった。だからして、さきの石門も、「禅那はもろもろの行の一つにすぎない。とてもそれをもってこの聖人のすべてを尽くすことはできない」といっておる。この先徳は、いささか人の判る方であった。ちゃんと初祖の奥ふかいところにいたっておる。だから、このことばもあるというものである。近ごろでは、大宋国の天下にも得がたい存在であり、希有なる存在というべきであろう。(77頁)

〈注解〉習禅;禅定を修習するの意。もと「禅」とは、梵音「ディヤーナ」もしくは、その俗音の「ジャーナ」(禅那)の音写を略して禅としたもので、またそれを意訳して「定」もしくは「静慮(じょうりょ)」とした。禅定とは、その音写と意訳を重ねたのである。しかるに、その禅定なるものは、もともと『ヨーガ・スートラ』に説くところの「ヨーガの八支」の一つであって、その『ヨーガ・スートラ』の説くところは、「そこにおいて意識作用が一点に集中し尽くす状態が静慮である」とみえる。それらはもと、インドの思想の諸派に通ずる実践論であって、仏教もまたはやくからその修行法を採用していたのである。「禅那とはもろもろの行の一つにすぎない」というのはそのことを指しているのである。しかるにいま、達磨が少林寺において面壁端坐したのは、その諸行の一つである禅定を修習していたのではないというのである。それが、いうところの「只管打坐」だからである。そこでは坐禅は、もはや単なる修行の方法としての地位からあげられて、いわば独一なるものとしての地位におかれているのである。(78~79頁)

■ 〈注解〉南嶽山石頭庵無際大師;石頭希遷(790寂、寿91)。青原行思の法嗣(ほっす)。はじめ六祖慧能につき、その没後、その法兄青原によって法を得た。衡山の南寺に住し、石上に庵を結んでいたので、人呼んで石頭和尚といった。諡して大無際大師と称する。

  江西大寂;馬祖道一(786寂、寿80)。諡して大寂禅師と称する。江西鍾陵の開元寺に住していたので、江西の馬祖といって、湖南の石頭と並び称されたが、それは適当ではなかったというのが、道元の評価である。(88頁)

■わたしもまた、まだかの先師なる如淨古仏を礼拝しなかった以前には、かの五宗の家風を学び究めたいと思っていた。だが、かの先師を礼拝してからのちは、あきらかに、五宗などというのは乱称であることを知った。だからして、大宋国の仏法がさかんであったころには、五宗などという称はなかった。また、古来から五宗などという称して、それでもって家風をおこした人などはけっしてない。こんな乱称が行われるようになったのは、仏法がおとろえてきてからのことであって、人々が参学をおろそかにし、道を弁えることが身につかないから、こういうこととなるのである。

もしも雲水の一人一人が、真の学道を求めようとするならば、けっして五宗の乱称などは頭においてはならない。あるいは、けっして五家の家風など記憶しないがよろしい。ましてや、三玄・三要とか、四料簡(しりょうけん)・四照用とか、あるいは九帯(くたい)などということが必要であろうか。ましていわんや、三句とか、五位とか、十同真智などを憶えておく要があろうや。

釈尊の仰せられたところは、そんな小さなことではなく、また、そんなにいろいろのことを仰せられたわけではない。だから、達磨だって、慧能だって、そんなことはいわなかった。ところが、かわいそうなことに、いま末代にして、法を聞かざるやからどもが、その身心も眼晴(がんぜい)もくらきままに、かようなことを説くのである。仏祖の児孫たるものは、そのようなことを口にしないがよろしい。仏祖のましましたころには、そんなざれごとはけっして聞くことがなかった。

しかるを、後代の世におもねる師匠などが、いまだかって仏道の全道ををきかず、また祖道のよってなる依処もなく、どうしてよいやら判らないままに、わずかに知りえた一つ二つのことを鼻にかけて、かような宗称を立てることとなったのである。そして、ひとたび宗を称してからこのかたの彼らは、もはや仏道の根本をたずねるなどということもなく、ただいたずらに末に走るのみである。したがって、また古(いにしえ)を慕うという志もなく、ただ世俗にまじわる行ないのみとなってしまうのである。世俗にしたがうということは、俗間でもなお卑しいこととして戒めるところである。(91~92頁)

■そのように、俗世にあってもなお、その国その道の危急存亡に瀕することを歎く。ましてや、仏法・仏道が存亡の危機に瀕するようなことがあったならば、仏教者たるものは当然これを歎くであろう。その危急存亡のもとはいかにして生ずるかといえば、それはなによりもまず、みだりに世俗に随うよりはじまるのである。世俗のほめるところに耳を傾けるようでは、本当の賢者を得ることはできない。本当の賢を得んと思うならば、まさに古今を照覧するの智略がなくてはなるまい。

思うに、世俗のほめるところだからといって、なおかならずしも賢でもなく、聖でもあるまい。だからといって、また世俗のそしるところだからとて、それでかならずしも賢でもなく、聖でもあるまい。であるけれども、賢にしてそしりを招くことと、偽りにしてほまれを得るのとでは、よくよく考えてみると、けっしていっしょにしてはならないところである。賢を用いなかったならば、それは国の損である。だが、賢ならざるを用いたならば、それは国の後悔をうむこととなろう。

いま、五宗の称が行なわれているのは、もとをただせば世俗のみだれである。その世俗に随いゆくものは多いけれども、なお俗とはどんなものかを知っているものは少ない。いったい、俗を教化するが聖人であって、俗に随いゆくのは愚かのいたりである。だから、その俗に随いゆくやからたちが、どうして仏の正法を知りうる道理があろう。ましてや、どうして仏となり祖となることができようか。

西の方天竺においても、七仏よりずっと嫡嗣(ちゃくし)より嫡嗣へと相承(じょう)してきているのに、いつの間にか、経の文によって注釈ににみ専らなるやからどもが、五部の律蔵をたてたという事実もある。だがしかし、仏法の正しい命を正しい命として伝えてきた祖師たちは、けっして五宗の家門があるなどとはいわないのである。仏道に五宗があるなどとまなぶのは、けっして七仏のながれの正しい嗣手ではないのである。(97~98頁)

■先師は衆(しゅ)に示していった。

「近年は祖師の道がすたれて、悪魔のやからや畜生ばかりがおおく、しきりに五家の門風などということをいう。苦々しいかぎりである」

それによっても判ることであるが、西の方天竺における二十八代、東の方中国における二十二祖、いずれも五宗の家門などということは説かれたことがない。祖師という祖師がみなそうなのである。五宗などを立てて、それぞれに宗旨(しゅうし)があるなどというのは、世間の人を誑(たぶら)かす奴どもか、学問のあさい物知らずのすることである。もしも仏道において、それぞれに道を立てたならば、仏道はとうてい今日までつづかなかったであろう。もし自立するのが正道であったならば、迦葉(かしょう)も自立したであろう。阿難も自立することを得たであろう。だが、もしそうであったならば、仏法はもうとっくに西の方天竺において滅びていたであろう。

もしもそれぞれが自立できるようであったならば、そこにはもはや古(いにしえ)を慕うなどということはありえないし、また、そこでは誰も正邪を決択(けつじゃく)するものはあり得ないはずである。もしも正邪を決択することができなくては、いったい誰がこれは仏法である。これは仏法でないと定めることができるか。そこがはっきりとしなくては、仏道とはいいがたいではないか。

いったい、五宗の称なるものは、それぞれの祖師が生きておられるあいだに定まったものではない。そこは、五宗の祖師といわれる祖師がたがすでに亡くなられたのちに、たいていは、その門下のいい加減なやからで、まだ眼もはっきりと開かれておらず、またその足もしっかりと立てないようなのが、先師に問いもせず、仏祖のこころに違(たが)って、そのような宗称を立てたのである。その辺の消息はあきらかであるから、誰だって判ることであろう。(100~101頁)

■思うに、中国において教学に専らなる連中が、しばしば宗を称してきたのは、たがいに肩をならべる誰彼があるからであろう。だが、いま仏祖たちは、正法の眼晴(ぜい)を嫡嗣(ちゃくし)より嫡嗣へと付属せられたのであるから、肩をくらべるものはあるはずはなく、まぎらわしい誰彼があるわけでもない。それなのに、いまのいい加減な長老たちが、しきりと宗の称を専らにするのは、それは自分で勝手なことを企てるものであって、仏道をおそれぬものである。仏道はけっしてなんじの仏道ではなく、もろもろの仏祖の仏道である。あるいは、仏道の仏道である。かって太公望は文王に申していったことがある。

「天下は、一人の天下にあらず、天下の天下なり」

そのように、俗のものもなお智があり、道を知っているのである。ましてや、仏祖の家にあるものが、みだりに仏祖の大道を勝手にし、愚蒙のはからいに従えて、一宗を自称するようなことがあってよいものか。それはたいへん可笑しなこと、仏道にあるもののすべきことではない。

もしも宗を称すべきものならば、世尊はご自分でも称されたはずである。それなのに、世尊はすでにご自分では称されなかった。とするならば、その流れを汲むものとしては、どうして世尊の称されなかったことを、その滅後におよんで称してよいはずがあろうか。世尊よりもすぐれた智慧や手立てのある人があろう道理はない。とするならば、そんな計らいは無益であろう。また、もしも仏祖たちが、古来からの道にそむいて、自宗を称して自立したならば、いったい誰がそれについてゆこうか。古今のことをよくよく顧みまなんで、みだりなことをしてはならない。

わたしとしては、世尊の在世のころに一毫も違(たが)うまじとするのが日ごろの念顏である。だが、なお百千万分の一がほども及びえないことが憂えられる。しかし、すこしでも及びえたと思う時にはまことに心うれしく、いよいよ違うまじとねがう。それがわたしの日ごろ念とするところである。そして、わたしは幾たびこの世に生をうけようとも、かならずこの念(おもい)をいただいて仏に遇い奉りたいと思いさだめている。また、仏に見(まみ)え奉ったならば、かならずその法を聞きたいものと願っているのである。

だからして、わざわざ世尊の在世のころの教化の作法にそむいて、あらたに宗を名告るなどというのは、とうてい如来の弟子でもない。その罪は重罪逆罪よりもおもいであろう。けだし、そのいとなみは、とりも直さず、如来の最高の智慧を軽んじて、おのれの宗を専らにするものであって、古(いにしえ)をかろんじ、古にそむいているのである。だから、彼らは古のこともしらず、世尊在世のころのすぐれた功徳も信じないのであるから、そんな奴等のところに仏法があろう道理はないのである。

だからして、仏法をまなぶ正しい道には、宗の称などを見聞すべきではない。仏より仏、祖より祖へと付属し正伝するものは、ただ正法眼蔵であり、最高の智慧である。仏祖が所有するところのものは、すべてそこに付属してきたのであって、そのほかに別になにかがあるわけではないのである。そこの道理が、とりもなおさず、仏法・仏道の骨髄というものである。(120~123頁)

〈注解〉黄龍の南禅師;黄龍慧南(えなん、1069寂、寿68)。石霜楚円(せきそうそえん)の法嗣(ほっす)。寧州黄龍山に住し、黄龍派を称する。諡して普覚禅師と称する。わが国の栄西(こうぜい)が伝えたのはこの派であった。(122頁)

諸 法 実 相  (しょほうじっそう)

■仏祖はいかにして成るか、それはあるがままの相(すがた)を究め尽して成るのである。あるがままの相とは、もろもろの存在のありようである。もろもろの存在のありようは、このような相(そう)であり、このような性(しょう)であり、このような身であり、このような心であり、このような世界であり、このように雲いたり雨いたるのであり、このように行住坐臥するのであり、このように憂いまた喜ぶのであり、このように拄杖(しゅじょう)・払子(ほっす)をもちいるのであり、このように花を拈じては微笑するのであり、このように法を嗣ぎ、成仏の予言を与えるのであり、このように参じ学んで道をわきまえるのであり、また、このように松の操、竹の節義を身にそなえるのである。

釈迦牟尼仏はいった。

「ただ仏と仏とのみ、よくもろもろの存在のあるがままの相(すがた)を究め尽くすことができる。そのいうところは、もろもろの存在のありようは、このような相(そう)であり、このような性(しょう)であり、このような体であり、このような力であり、このような作(さ)であり、このような因があり、このような縁があり、このような果があり、このような報があり、本末すべてかくのごとくであるとするのである」

ここに如来が、本末すべてかくのごとく等と仰せられていることばは、また、もろもろの存在のあるがままなる自己表現でもあり、同時に、この道を参学する学人の誰がいっても同じこととなるであろう。けだし、ここは誰がまなびいたっても同じところであり、これよりほかにはありようがないところだからである。(129~130頁)

■いったい、いうところの如是相(にょぜそう)とは、ただ一つの相(すがた)でもなく、ただ一つのありようでもない。それは数かぎりなく、いうことも、測ることもできないありようである。それは百だ千だという尺度をもって量るべきではなくて、むしろ、諸法を尺度として量るがよく、あるいは、実相を尺度として測るがよいのである。その理由というならば、唯仏与仏、乃能究尽(ないのうぐうじん)、諸法実相であるからであり、それはまた、唯仏与仏、乃能究尽、諸法実性であるからであり、唯仏与仏、乃能究尽、諸法実体だからであり、唯仏与仏、乃能究尽、諸法実力だからであり、唯仏与仏、乃能究尽、諸法実作だからであり、唯仏与仏、乃能究尽、諸法実因だからであり、唯仏与仏、乃能究尽、諸法実縁だからであり、唯仏与仏、乃能究尽、諸法実果だからであり、唯仏与仏、乃能究尽、諸法実報だからであり、唯仏与仏、乃能究尽、諸法本末究竟等だからである。(132~133頁)

〈注解〉如是相・如是性……;いわゆる「十如是」と称せされる一節であって、そこには、相・性・体・力・作・因・縁・果・報ならびに本末究竟等の十項に、それぞれ「如是」の二字は冠されて列記されている。それらの十項は、それぞれの存在のありようを語る仏教の述語であって、いまそのおおよそをいえば、相は形相、性は本性、体は実体、力は能力、作は作用、因は原因、縁は条件、果は結果、報は果報、そして、本末究竟はそれらのたがいに関係しあって帰するところとでもいうことができよう。また、それらの十項にそれぞれ冠する如是とは、それらがそれぞれにあるそのままのありようをいうことばであって、そのあるがままの相をほかにして仏教的真理のよりて存するところはないとするのである。したがって、如是すなわちこのようにあること、それが諸法実相すなわちもろもろの存在のあるがままの相にほかならず、それを究め尽くすことが仏教の真理にほかならず、また、それを究め尽くした者が仏にほかならないのである。ついでに冗舌を加えるならば、故鈴木大拙先生は、この実相とか如是とかの訳するに、よく“suchiness”とか“as-it-is-ness”などという英語をもってしたことが思いだされる。(133頁)

■かくて、日月(がつ)燈明仏も仰せられたことがある。

「諸法実相のことわりは、すでに汝らのために説いた」

そのことばをよくよくまなびいたって、仏祖はかならず実相のことわりを説くことを、なによりの大事としてきたということを、よくよく肝に銘ずるがよい。古来、仏祖は十八の世界において実相のことわりを説き来たったともいう。過去においても、未来においても、また、まさにいまの時においても、あるがままなる相・性・体・力などを説いてこられたのである。だから、もしも実相を究め尽くさず、実相を説かず、あるいは実相を理解しないようなものがあったならば、それは断じて仏祖ではないのである。それはおそらく悪魔のたぐいか畜生なのであろう。(138頁)

■釈迦牟尼仏は仰せられた。

「一切の菩薩たちの無上の等正覚(がく)は、すべてこの経に属している。この経は、方便の門をひらいて、真実の相を示すのである」

ここにいうところの一切の菩薩たちとは、つまり、一切の仏たちのことである。もろもろの仏と菩薩たちとは、けっして別のものではない。いずれが先、いずれが後といったものでもなく、いずれが勝(まさ)り、いずれが劣れるものといったものでもない。また、この菩薩はどうの、あの菩薩はどうのということもなく、みんな同じことであって、あれは過去のもの、あれは現在のもの、あるいは未来のものといった別(わか)ちもないのだけれども、しかも、その仏と成るにあたっては、かならず菩薩の道程を行ずるのが定まれる法式というものである。したがって、初発心にして成仏するものもあり、妙覚知にいたって成仏するものもあり、また幾度と数えきれないほど仏となった菩薩もある。ひとたび仏となってよりのちは菩薩行をやめてしまって、もはやなすべきことはないはずだなどというのは、まだまだ仏祖の道を知らない凡夫というものである。(142頁)

■かって雪峰(せっぽう)はいったことがある。

「この大地はことごとく解脱の門であるのに、人をいざなっても、なかなか入ろうとしないわい」

それでも判るではないか。この大地、この世界のことごとくが、たといすべて門であるとしても、その出入(しゅつにゅう)はけっしてたやすいものではない。出入りする者はけっして多くはない。人をひっぱっても、なかなか入りもせず出もしない。ひっぱらなかったら、なおさらのことである。進もうとすれば錯(あやま)ちがあり、退(ひ)こうとすればまたひっかかりがある。では、いったい、どうすればよいか。人をはげましてこの門に出入せしめようとすれば、いよいよ門が遠ざかってゆく。そこは、ひとつ、門のほうをひきよせて人を入るれば、出入は自由になろうというものである。(133~134頁)

〈注解〉阿耨多羅三藐三菩提;たびたび出ていることばであるが、もう一度いえば、それは“anutara-sammyaku-sambodhi”の音写であって、「阿耨多羅」は無上または最高、「三藐」 は平等または普遍、そして、「三菩提」は正覚(がく)の意である。いまは無上の等正覚と訳しておいた。悟りの内容にほかならない。(145頁)

■あるいはまた、三教がかならず一致するものであるならば、仏法が現われた時には、同寺にまた儒教や道教などもインドに出現したはずである。だがしかし、そうではなかった。仏法はまさしく「天上天下、唯我独尊」のものとして世にいでたのである。そのかの時のことを思いしのんでみるがよろしい。忘れてはならない。三教一致などというのは、あの小児のことばに遠くおよばず、まさに仏法をやぶるともがらである。いまは、そのようなともがらのみ多い。そんな連中が、あるいは人々の導師のような振る舞いをし、あるいは帝王の師となっている。まさしく大宋はいま衰頽の時節を現じている。そのことを、先師なる如淨古仏はふかく歎いておられた。

いったい、そのような連中は、もともと小乗や外道たるべき生まれつきのものであって、すでに二、三百年このかた、実相などということのあろうとも知らずして年月をへてきたのである。彼らは、仏祖の正法をまなびながら、ただ生死の流転をまぬかれたいとのみしかいえない。なかには、仏祖の正法をまなぶのは、いったいどういうことをまなんでよいかかも知らないものもある。彼らはただ一寺の住持たらんがためにのみ勉強しているのだと思っているらしい。そんなことで、祖師の道がすたれてしまったのが、残念でならない。心ある長老たちのふかく歎くところである。したがって、そのような連中のいうところのことばには、耳を傾けるべきでなく、ただ哀れむがよい。先師なる如浄古仏はよくそう仰せられたことであった。(148~149頁)

〈注解〉落処;帰着するところというほどの意であろうか。

種子;「しゅうじ」と読む。生起する原因となるものをいうことばであるが、ここでは、生まれつきとか、性格といったほどの意にとってよいであろう。(149頁)

■圜悟禅師はいった。

「生死去来(しょうじこらい)、すべてこれ真実人(にん)体である」

このことばを取りあげて、それが自己の真実であることを知り、かつ仏法とはこういうものかと知るがよい。

また長沙景岑(しん)はいった。

「尽十方界は、この一箇の真実人体にひとしい。つまり、尽十方界は、この自己の光明のうちにある」

このようなことばを、いまの大宋国の諸方の長老たちは、そもそもそれがまなぶべきものとすらも知りはしない。ましてや、それをまなびいたれるものなどは皆無であろう。いったい、もしそのようなことばを挙げて問うものがあったらどうするか。ただ赤面して黙っているだけであろう。

先師なる如淨古仏は仰せられたことがある。

「いまの諸方の長老たちは、古今に照らしてみるということがないので、まるで仏法の道理はなんにも知ってはいない。たとえば、尽十方界などというようなことをいっても、まるで知ってはいない。どうやら彼らのなかには、そんなことは聴いたこともないというものもあるらしい」

わたしは、その如浄古仏のことばを聞いてから、諸方の長老たちにそのことを問うてみたところが、彼らはほんとうに、そのことについて聴いたことのあるものはすくなかった。それでは、まったく資格なくしてその地位を汚しているものであって、あわれなことといわねばなるまい。(150~151頁)

■応庵曇華(おうあんどうげ)禅師は、ある時、徳徽(とくき)なる禅人に示していったことがある。

「なんじはもし、たやすく理解したいと思うならば、ただ二六時中の心の起こり念の動くところに向って、ひたすらその念の動くところに即し、その場においてずばりと見てとるがよろしい。それは、捉え得ざること大虚空のごとくであるということを。また、虚空にはここからここまでといった仕切りなどないということを。さらにいえば、そこでは表も裏もなく、知識とその対象の区別もなくなり、ふかい意味もあさい理解もなく、過去の現在の未来のということもないということを見てとるがよろしい。よくそのような境地にいたったならば、これをこそ、もはやまなぶこともなく為すこともない閑(ひま)の道人というのである」

これが、応庵老人が全力をあげていうことを得たる句である。だが、それでは、どこまでいっても、自分の影をおうて休むところを知らぬと同じではないか。

いったい、表裏のないところにいたらなくては、仏法にあうことはできないのであろうか。そもそも表といい裏というのはなんのことであるか。また、仏祖は虚空に形や仕切りがあるかどうかについて語ったようなことをいっておるが、いったい、虚空とはなんだとするのであるか。思うに、どうやら応庵老人はまだ虚空を知らないらしい。虚空を見たことはないらしい。あるいは、虚空を捉えたこともなければ、虚空を叩いたこともないらしい。

また応庵老人は、心が起こり、念が動くというが、心はもともと動ぜざるものだという。それがどうして十二時中に心が起こるというのであるか。よくよく気をつけてみるがよい。十二時のなかに心が入りきたるということもあり得ないし、また、心のなかに十二の時が入ってくるということもない。ましてや、心が起こるなどということはありえないのである。また、念が動くというのは、いったいどういうことなのか。念は動いたり動かなかったりするものか。それとも、そんなことはまったくないのか。そもそも動くというはどういうことか、そもそも動かないというのはどういうことか。なにを呼んで念というのであるか。あるいはまた、その念とは、十二の時のなかにあるのか、念のなかに十二の時があるのか、それとも、そのいずれでもない時があるのであろうか。

また応庵老人は、ただ十二時中に向かっておれば、たやすく理解することができるという。それは、いったい、なにごとを理解しやすいというのであるか。それは、もしかすると仏祖の道を会得しやすいというのであろうか。もしそうだとするならば、仏道というものは理解しやすいものでも、理解しがたいものでもないのである。だからして、たとえば南嶽(がく)にしても、江西(ぜい)にしても、ひさしく師にしたがって道を究めたものであった。

さらに応庵老人は、その得がたいものということを、ずばりと明らかに知ることができるという。そんなのは、いまだかって仏祖の道を夢にも見たことのないもののいうことである。そんな力量では、とても仏道をたやすく理解する要領ばど判るものではない。そのことばだけでも、彼がいまだ仏祖の大道を究めいたったものでないことが測り知られるというものである。もしも仏法がそんなものであったならば、それはとても今日まで続こうはずはありえないのである。

応庵老人にして、なおかくのごとくであった。だが、いま現在、諸山に長老としてある人々のなかに、もし応庵老人 ほどの人を求めようとするならば、いつまで探しても求め得ることはできないであろう。穴があくほど目をこらして見ようとも、応庵老人にひとしい長老をみつけることはできまい。だから、近隣の人はたいてい応庵をできた人であるとする。だがしかし、応庵にはどうも仏法に達した人として許しがたいところがある。禅院の席次でいえば後進であり、しごく普通のところだといわねばなるまい。なぜかというならば、まず、応庵は人を知ることのできる気力のある人であった。いまの連中は、とても人を知ることはできない。自分自身が判っていないからである。また、応庵はまだまだ仏法に達した人とはいいがたいけれども、すくなくとも仏法を勉強している。それに反して、いまの長老たちは、まるで仏道の勉強などはしていないのである。だがしかし、応庵は、残念なことには、よいことばを聞いても、それが耳に入らない、耳に見えない、目に入らず、目に聞こえないのである。いや、応庵はそのむかしはそうであったようだが、いまはきっと、おのずから悟っているにちがいない。しかるに、いまの大宋国の諸山の長老たちは、とても応庵の内も外もうかがいしることはできない。そのいうところも、その容姿も、まるで別の世界のやからどもである。そういうやからどもでは、仏祖が語った実相も、それが仏祖の語った実相も、それが仏祖のことばであろうやら、あるまいやら、まるで見当もつかないであろう。だからして、この二、三百年来のいい加減な長老たちは、すべて盲滅法で実相を語ってきたのである。(154~157頁)

〈注解〉南嶽・江西;南嶽懐譲と馬祖道一を挙げて、あれだけの資質をもってしても、まお永年師にしたがって大成したのだといっておる。たとえば、南嶽は六祖慧能に参じ、八年にしてはじめて悟るところがあったというがごとくである。(158頁)

■先師なる天童如浄古仏は、ある夜、方丈において説法していった。

「わしは今夜、牛児のように寝そべっていた。

すると金色に輝くお釈迦さまがきて実相をみせてくださった。

買いたいと思ったが、値段がないのでどうにもならん。

雲が一つ浮かんでいる彼方にはほととぎすの声がきこえた」

こんな具合に、仏道に長じた超老たちは、みんな実相を語る。仏法をしらず、仏道を勉強しなかったやからは、実相を語らないのである。いまここに挙げる如浄古仏のことばは、大宋の宝慶(ほうきょう)二年(1226)春三月のころのことであった。夜もふけてもう丑(うし)の刻になろうとするころ、彼方において太鼓の声が三つきこえた。いそぎ坐具をとり、袈裟をまとうて、僧堂の前門から出てみると、「入室(にっしつ)の牌(はい)がかかっていた。まず衆にしたごうて法堂(はっとう)のほとりにいたった。さらに、その西側を通って、寂光堂の西の階段をのぼり、さらに寂光堂の西側のまえを過ぎて、大光明蔵の西の階段をのぼった。その大光明蔵が方丈である。

西の屏風の南側から、香炉台のまえにすすんで、焼香し礼拝した。ところが、そこには入室のものがずらりと並んでいるだろうと思ったのに、一人の僧もみえない。ふとみると、妙高台には御簾がおりていて、ほのかに住持なる大和尚の御声がきこえる。その時、また、西川からきた祖坤(そこん)という維那も来あわせて、おなじく焼香し礼拝し終わって、ともに、ひそかに妙高台をのぞいてみると、そこには、衆がいっぱいで、東も西もない有様であった。そして、やがて説法がはじまったので、ひそかに衆のうしろにわけいって、法に聴取したことであった。

説法はまず、大梅法常禅師の山住みのころの物語であった。蓮の葉を衣料とし、松の実を食としたあたりでは、みんなたいてい涙をながした。

また、霊鷲山(せん)で釈迦牟尼が仏が三月のあいだ馬麦を食うて安居したという物語も、くわしく者語られた。聞くもののなかには涙をながすものも少なくなかった。

そして仰せられたことは、

「天童山でも安居がちかづいている。いまは時春にして、寒からず暑からず、坐禅にはまことに好き時節である。兄弟たちよ、いま坐禅しないでどうしようというのだ」

そのように説法されて、そして、さきの韻文を示された、さらに、その韻文が終ると、やおら右手をもって交椅の右側をぽんと一つ叩いて、

「では、入室するがよい」

といった。

入室の問答では、「杜鵑(とけん)啼(な)くとき、山竹(さんちく)裂(さ)ける」などと、そんな話があったが、別にとりたてていうべき話はなかった。集まる衆は多かったが、たいてい黙っていて、ただ恐懼(きょうく)するのみであった。

このような入室のやり方は、かの地の諸方にも見ぬところで、ただ先師なる天童如浄古仏だけがこのようなやり方をなさっていた。みんなに法を説かれる時には、人々は椅子や屏風のぐるりにみんな立っているのである。そして、それが終ると、そのまま、立ったままで、然るべき僧から入室の儀をいとなみ、それが終ったものは、いつものように方丈の門を出てゆく。その際、まだ残っていつ人たちは、なおもとのように立っているのであるから、入室の儀をいとなむ人のする作法、ならびに住持なる和尚の御様子、さらには入室の問答にいたるまで、すべてみな見聞することができる。そんなことは他所の禅院にはない。ほかの長老にはそんな真似もできないのであろう。思うに、他所の入室の時には、人はたいてい他人よりさきに入室しようとする。ところが、ここの入室では、人はたいてい他人よりのちに入室しようとするのである。この人の心のありようのちがいに気をつけて、忘れないようにするがよろしい。

それよりこのかた、わが国の寛元元年(1243)にいたるまでを指折りかぞえてみると、すでに十八年、風光はすみやかに過ぎ去っていった。その間に、天童山よりこの山にいたるまでには、すでに幾山河を越えてきたことかと思うのであるが、あの時の実相説法の奇句美言は、身心(じん)骨髄に銘じて忘れがたい。あの時のことは、他の人々もみな忘れがたいと申していた。その夜は、細い月がわずかに楼閣の彼方からのぞき、杜鵑(とけん)がしきりに鳴きわたっていたが、とても静かな静かな夜であった。(161~163頁)

〈注解〉四更;午前一時から三時までの頃で、丑の刻にあたる。

入室;また開堂ともいう。久参の弟子が師の室に入って、新しく得たるその所得を呈して問うことをいう。今日は入室の儀がいとなまれるという時には、牌がかけられる。それが入室牌である。

  寂光堂・大光明蔵・妙高台;すべて天童山景徳寺の建物の名称である。寂光堂は西方丈、大光明蔵は東方丈、そして、妙高台は大方丈である。方丈とは長老・住持の居所である。

維那;「いな」または「いのう」と読む。寺中の事務をつかさどる役名である。

  大梅の法常禅師;大梅法常(839寂、寿78)は馬祖道一の法嗣(ほっす)。その「衣荷食松」の山居の生活については、さきの「行持」(上)の巻にくわしく記されている。(164頁)

■玄沙山の宗一(いち)大師は、法堂(はっとう)にに出ようとするおりから、ふと燕(つばくろ)の声をきいていった。

「おおこれこそ、まさに実相を談じており、よく法の要(かなめ)を説いているわい」

そういって座をくだった。

それからすこし後のこと、一人の僧があって、問うていった。

「このまえのお話は、わたしにはどうも判りません」

師はいった。

「そんなことをいっても、誰もほんとうだとは思わないよ」

そこには、「深く実相を談ず」とある。それは燕が、ひとりよく実相を談じていると、玄沙はそういっているように思われる。だが、そうではないのである。ただ、法堂に出ようとする途中で、燕の声を聞いただけである。つまり、燕が実相を談ずるわけでもなく、また、玄沙が実相を説くわけでもない。そのいずれでもないけれども、なおまさしくそのときは、うたがいもなく実相が語られているのである。

では、しばらくこの一段の終始を考えてみるがよろしい。そこには、法堂に上ろうとする大師があり、その大師が燕の声を聞いた。その大師は法堂にでて、「深く実相を談じ、善く法の要(かなめ)を説く」と語り、それでその座をくだった。それからすこし後のこと、一人の僧が大師に質問して、「その話はどうも、わたしには判りません」といった。すると大師は、「そんなことをいっても、誰もほんとうだとは思わないよ」といった。その一人の僧がそう問うたのも、かならずしも実相について問うたとはかぎらないけれども、その大師のことばには、仏祖のいのちがながれており、もしくは、それが正法眼蔵の骨髄というものである。

考えてみるがよい。たといこの僧が問うて、「わたしは理解できました」といおうと、あるいは、「わたしは説明できました」といおうと、玄沙はそこでは、かならず、「そんなことをいっても、誰もほんとうだとは思わないよ」というところである。判っているのを判らないといって問うたから、「去れ、誰も汝を信じないぞ」というのではない。思うに、それがこの僧でない誰であろうとも、また、それが諸法の実相であろうなかろうと、ともかく、仏祖のいのちがまっすぐに通じている時と処においては、かくのごとくにして実相にまなびいたることができるのである。青原の流れをくむところにおいては、すでにその道ができているのである。

かくて知るがよい。実相とは正しい嗣(つ)ぎ手によって相承(じょう)せられてきた仏祖のいのちである。諸法とはただ仏と仏とのみがまなびいたり究め尽くすところである。かくて仏と仏たちはみらるるごとき素晴らしい相好(ごう)をしておられるのである。(166~167頁)

〈注解〉玄沙院宗一大師;玄沙師備(908寂、寿74)。雪峰義存の法嗣(ほっす)。賜号して宗一大師と称す。ここに引用の一節は『聯燈会要(れんとうえよう)』巻23にみえる。

  青原の会下;六祖慧能の門下に青原・南嶽の二人があり、その門流がそれぞれにさかえて、青原下・南嶽下というならいである。玄沙師備は雪峰義存の法嗣であるから、青原下の門流に属する。(168頁)

密 語 (みつご)

■開 題

この一巻は、寛元元年(1243)九月二十日、越前山中の古精舎吉峰(よしみね)寺において衆(しゅ)に示したものである。奥書にいうところである。ごく短篇の一巻であるが、なんとなく心暖まる感じのする一巻であるというのが、わたしのいつわらざる読後感である。それもそのはず、この巻の主題である「蜜語」ということばが、すでに心暖まる文字であるからである。しかるに、世の人々はたいてい、そのことばの意味を誤って解しているのである。

道元は、この短篇の一巻の冒頭に、まず雲居道膺(うんごどうよう)が一人の官人とかわした問答を挙げている。その問答の主題は、古くからいい伝えられる。

「世尊に密語あり、迦葉は覆蔵せず」

という一句であって、この一巻において道元が論じているのも、終始してその一句をいかに解釈するかであり、その解釈のわかれるところが、詮ずるところ、その密語の密をいかなる意味にとるかに帰するのである。

ご存じのように、密という語には、秘密とか内密とかいった意味がある。この一巻のなかで道元が、「愚人おもはく、密は他人のしらず、みづからはしり、しれる人あり、しらざる人ありと」などと語っているのは、世の人々がたいてい、「世尊に密語あり」というその密語をその意味にとっているというのである。

だが、世尊がそのような秘密な表現を愛したとするならば、それはまるで見当はずれであり、仏法のなんたるかを知らざるもののいうところである。では、「世尊に密語あり」という、その密語の密はいかなる意味であるかというなれば、ずばりと一句を挙げていうことができる。いわく、

「いはゆる密は、親密の道理なり」

である。

ご存じのように、密という語には、もう一つ、精密とか緻密とかいった意味がある。それが、ことばにおいて、行ないにおいて、あるいは心持ちにおいてなる場合には、親念切々としてきめの細かい配慮があってはじめて実現されるであろう。いわゆる密とは、親密の道理なりというのは、そのようなところをいったことばであると受領せられる。親身の思いからでている時に、はじめて隙間のないことばがあり、愛情のこもった行為であるというのである。いや、世尊のみではない。仏祖たちの言行においては、すべて然るのであるという。いわく、

「しるべし、仏祖なる時節、まさに密語・密行きほひ現成す」

仏祖たるものの言行は、いつでも、心暖まるような、そして隙間のない密語であり、密行であるというのである。あるいは、またいわく、

「およそ為人(いにん)の処所、弁肯の時節、かならず挙似(こじ)密なる、それ仏仏祖祖の正嫡(しょうちゃく)なり」

そのいうところは、師家が人のために法を説く場合、そして、学人がそれを会得して「ああそうであったかか」とうなずくとき、そういう時にはかならず、その説示は密なるものであるというのが、それが仏仏祖祖の正嫡のありようだというのである。

読みいたり読みさって、いつしか心暖まる思いのあるのも、またうべなりと申すところであろう。(170~172頁)

■いったい、仏法をまなぶにはいろいろの途がある。そのなかに、仏法が判るといい、仏法が判らぬという。そこがひとつの急処である。もし正しい師にまみえなかったならば、そんなことがあるということさえも知りえなかったであろう。たとえば、いまのことでいうなれば、ただいたずらに眼にものが見えない、耳に声が聞こえないというだけのことで、それが密語だと滅茶苦茶な解釈をしているものもある。もしそなたが判っても、それで迦葉も判ったというわけではない。覆われてはいないが判らないということもある。覆われていなければ、誰でも見ること聞くことができるものとは限らないのである。いや、万法はすでに覆うところなしという。とするならば、何処にも覆われないの、あらわすのといったことはありえないではないか。とするならば、その時にはどうなるというのか。こころみに研究してみるがとろしい。(176頁)

〈注解〉雲居山弘覚大師;雲居道膺(うんごどうよう、902寂、寿不詳)。洞山良价の法嗣(ほっす)。はじめ三峰庵にあったが、のち撫州の雲居山に住した。賜(おくりな)して弘覚大師と称する。(178頁)

■それなのに、正しい師の教えを聴いたことのない連中は、たとい法の座にのぼる者にいたるまで、こんな道理はまだ夢にも見たこともない。だから彼らは、まるでいい加減のことをいっている。つまり、世尊には蜜語があるというのは、霊鷲山(せん)上において世尊がおおいなる衆のまえにおいて、華を拈じて目を瞬(まばた)きしたもうたことをいうのだとする。なぜかというと、ことばをもってする仏の説法は浅薄である。物の名称や形相に関するものだからである。そうではなくて、ことばをもちいることなくしてただ華を拈じ目を瞬く、これが蜜語をもって語りたもう時なのである。その時、おおいなる衆はその故を知ることができなかった。だから、おおいなる衆にとっては、それは蜜語であったとするのである。また、迦葉にはそれがよく判ったというのは、世尊がそのように拈華瞬目したもうのを、迦葉はちゃんと前もって知っていたかのようににこっと微笑したのであるから、それは迦葉にとっては覆われてはいなかったのだというのである。これが真相であって、それからそれへと相伝してきたところであるとする。そんないい加減なことをいうのを聞いて、それを真実だとおもう連中もまた沢山いる。中国のいたるところに群をなしている。仏祖の道のおとろえは、こんなところから起こるものであると思うと、まことに嘆かわしいことである。明眼(げん)の人は、まさに、そのようないい加減な言説を批判して破らなくてはなるまい。

もしも世尊がことばをもって説きたもうたところは浅いというならば、拈華瞬目したもうたところも浅いであろう。世尊がことばをもって説きたもうところは、物の名称や形相ばかりであるというのは、仏法をまなんだことのある男ではあるまい。なるほどことばをもって語れば、物の名やすがたをもって語る。その連中はそのことは知っているけれども、世尊はそのような境界(がい)にはあられぬことをまだ知らないらしい。まだ凡夫の考え方を脱(ぬ)けていないのである。それに反して、仏祖はみなその身心(じん)に感受しきたったところを、いまはもうすっかり脱けきっていて、そこで法を説くのである。それには、ことばをもって説くのであり、いわゆる法輪を転ずるというのがそれである。人々はそれを聞いて利益を得るものが多い。利根のものも、鈍根のものも、いずれも、仏祖のある処において教化をこうむり、また、仏祖のなきところにおいても教化をこうむるのである。多くの衆たちが、結局するところ、拈華瞬目を拈華瞬目として見もしくは聞くのである。詮ずるところは、迦葉と同じなのである。世尊とともに生きるのである。百万の大衆が百万の大衆とともに到るのである。みな同時に発心するのである。そして、同じ道をゆくのであり、同じ国土に到るのである。そのあるものは、知らざるものの智慧をもって仏にまみえ法を聞くのである。はじめは一仏を見るのであるが、やがてはすすんで数かぎりない仏を見たてまつる。その一々の仏の集会には、すべて数知れぬほどの会衆が集まっているであろう。そして、その各々の仏たちがいずれもあの拈華瞬目の舞台を催してあられるのを、見ることができ、聞くことができるであろう。その見るところは暗からず、その聞くところはおぼろげではない。なんとなれば、人々みな、心の眼があり、身の眼があり、また、心の耳があり、身の耳があるからである。(181~183頁)

■では、そこで、迦葉の破顔微(み)笑のことを、なんじはどう理解するか、試みにいってみるがよろしい。もしなんじたちがいうようであるならば、それもまた蜜語であるというところであろう。だが、それをそうとはいわないで、それは覆われてなかった、ちゃんと判っていたからであるという。いよいよおかしなことではある。しかるに、やがて世尊は仰せたもうた。

「われに正法眼蔵・涅槃妙心がある。それをいま摩訶迦葉に付属する」

そのような表現は、いったいことばをもって語ったものか、ことばをもちいない表現であるか。もし世尊が、ことばをもって説くことをきらわれ、拈華がお好きであるのならば、こんどもまた華を拈じたまえばよかったであろう。さすれば、迦葉もきっと理解したであろうし、そこに集まった衆だってきっと判ったはずである。そういうことであるから、こんな連中のいうところなど、用いるべきではないのである。(184頁)

■そもそも、世尊には、蜜語もあり、密行もあり、また密証もあった。それなのに、世の愚かな人たちは、密というは、他人は知らずして、自分は知っていることであり、あるいは、知っている人があって、知らない人があることだと思っている。西も東も、古から今にいたるまで、そのように思い、そのようにいうのは、まだまだ仏教をまなびいたっていないもののいうことである。もしそのようにいうならば、この世間でも、また出世間においても、学のないものにおいては密が多く、学のひろいものにおいては密は少ないということになるであろう。そして、あまねくまなんだものには、密はありえないということにもなろうか。ましてや、天眼・天耳、あるいは仏眼・仏耳などを身に具える時には、すべて蜜語だの密意だのは、まったくありえないはずだとしなければならない。

だが、仏語でいうところの蜜語・密意・密行などは、そんな道理のものではない。人に遇う時にこそ、蜜語を聞き、蜜語を語るのである。よくおのれを知る時、密行を知るのである。ましてや、仏祖たちは、よくこれまでの先徳たちの密意や蜜語を究めて弁(わきま)えているのである。かくて仏祖においては蜜語・密行がつぎからつぎへと実現するのである。(184~185頁)

■いうところの密は、親密の意味である。隙間がないのである。そこでは、仏祖も、汝も、自己も、あるいは、行も、代も、功も、すっかり密で蓋うているのである。いや、その密さえも密をもって蓋うているのである。それは、いうなれば、蜜語が密人に逢うたのであって、そこは仏眼もまた窺い見ざるところといってもよかろう。けだし、密行は自他のよく知るところではない。その自も他も知らぬところを、密なる我(われ)のみがよく知っており、また、密なる他がそれぞれ、理解はしないがそれを感じている。つまり、密はぴたりと蜜のほとりにあるのであるから、すべてが密なのであり、どこをとってみてもすべて密ならざるはないのである。(185頁)

■このような道理は、よくよく思いめぐらして明らかに理解しておくがよろしい。いったい、師家が人のために説く場合、そして、学人がそれを理解して「ああ、そうか」とうなずく時、そういう時にはかならずその説示は密であるというのが、仏祖の正しい嗣ぎ手のありようというものである。では、いったい、今はいかなる時であるというのであるか。とするならば、自己にも密であろう、他人にも密であろう。仏祖にも密であろう、また、類を異にする人々にも密であろう。だから、蜜のうえにさらに密をかさねることとなるであろう。しかるに、そのように教・行・証をかさねてゆけば、それがすなわち仏祖であるから、ついには仏祖の密をも超えてゆくであろう。とするならば、それは密をも超えるというべきであろうか。(185~186頁)

〈注解〉この一段では、まず世の一般の人々が、たいてい、蜜語について誤った解釈をしていることを指摘する。その誤解の主たるものは、結局するところ、秘密のことば、つまり、人の知らないことが密であるとするのである。道元はそれをただして、蜜語の正しい考え方に導いてゆこうとするのである。では、そこでは、密とはいかなる意であるか。その説明は、「いはゆる密は、親密の道理なり」の一句に究竟するといって然るようである。

  親密;親念切々としてきめの細かであることを表現することばである。それは秘密とか内密とかに対して、むしろ緻密とか精密とかの意であり、それがすべて親身の思いから出ているのをいう。つづいて「無間断」すなわち隙間がないという句のあるのを味わうべきである。

  密我;密なる我とでも訳するほかはない。それはちょうど夢中になっている我といった趣の語であって、密になりきっている我であるから、もはや自の他のといった区別もしらないのである。(187頁)

■雪竇智鑑(せっちょうちかん)は衆に示していった。

「世尊は蜜語をかたりたまい

迦葉はそれがよくわかった

ある夜落花に雨ふりそそぎ

城内の流水ことごとく香(かんば)し」

いま雪竇がいうところの、「ある夜落花に雨ふりそそぎ、城内の流水ことごとく香(かんば)し」の句は、これこそ親密というべきである。それをとりあげて、仏祖のひとみ、鼻の孔をよくよく点検してみるがよろしい。それは臨済や徳山などのよく及ぶところではない。そのひとみのなかの鼻の孔はぱっと開いているのであろう。その耳の嗅覚もすっかり鋭くなっているにちがいない。ましてや、その耳・鼻・眼睛(がんぜい)は、古きにあらず、新たなるにあらざれども、そこに全身心がこぞって集中している。それは落花に雨ふりて世界起こるとでもいうべきであろうか。

また雪竇(せっちょう)はいう、「城内の流水ことごとく香(かんば)し」と。それは身を蔵(かく)して影いよいよ露(あら)わるというところであろう。だからして、仏祖の家のつねとしては、みな「世尊に密語があり、迦葉にはそれがよく判った」とまなびいたり、またそれを越えてゆくのである。七仏も世尊も、仏という仏はことごとく、みな今のようにまなびいたるのであり、迦葉も、釈迦もまた、同じく今のように究めいたったのである。(189頁)

〈注解〉雪竇師翁示衆曰……;この偈は『嘉泰普燈録』巻十七、雪竇智鑑章にみえる。雪竇智鑑(生没年不詳)は天童宗珏(そうかく)の法嗣。天童如浄の師にあたるがゆえに、道元は師翁と称しているのである。(189頁)

仏 経 (ぶっきょう)

■開 題

この一巻は、寛元元年(1243)秋九月、越州吉田県吉峰(よしみね)寺において衆(しゅ)に示したとある。奥書のいうところである。それによって知られることは、まず、この年の九月には、これですでに四本の制作もしくは示衆(じしゅ)が行なわれたということである。

指折りかぞえてみると、道元の一行がこの山中の古精舎についたのは、たぶん、七月の下旬か、その翌月、閏(うるう)七月のはじめであったはずであるから、それからまだ三月目である。それなのに、この九月の制作・示衆がすでに四本におよぶということは、わたしには、なにか道元の必死な気持が惻々として感ぜられてならない。そして、その気持ちは、それらの巻々の内容にも、まったく無関係ではないように思われてならない。

たとえば、さきに現代語訳した「仏道」の巻も、この「仏教」の巻とすぐ前後して、同じ年の九月十六日、同じ吉峰寺において衆に示されたものであるが、そこで道元が声をはげまして語っていることは、詮ずるところ、「仏仏正伝の大道を、ことさら禅宗と称するともがら」などは、ちっとも仏教などは判ってはいないということであった。したがって、またそのなかにおいて、さらに臨済宗だの、雲門宗など、いわゆる五宗の家風を云々するなどということは、それこそ仏祖の道のすたれる証(あかし)であるという。その語気には、なにかただならぬものさえ感ぜられることであった。

そして、いま、この「仏教」の巻においても、同じように、そのただならぬ気配が感ぜられるのである。たとえば、それをわたしは、まず、この巻にみえる道元の臨済批判のことばのなかに感ぜざるを得ない。わたしは、まだよく憶(おぼ)えているのだが、前年の四月のはじめに書かれた「行持」の巻においては、道元は臨済を評して、

「まことに臨済のごときは、群(ぐん)に群せざるなり。そのときの群は、近代の抜群なり。行業(ごう)純一にして行持抜群せりといふ」

と讃えている。抜群の評価なのである。しかるに、いまこの「仏経」の巻における道元の臨済評価は、まことに目を見張るような変化を示している。そこでは臨済は、

「しるべし、上上の機にあらざることを」

と語られ、また、

「臨済かって勝師(しょうし)の志(しい)気あらず、過師の言句きこえず」

と評せられている。わたしは、はじめ、ただ目を見張るよりほかはなかった。だが、繰り返し繰り返ししてこの一巻を読んでいるうちに、ほのかに、この目を見張るような変化の理由がみえてきたように思う。それは道元の経典観をよくよく味わうことによって判るのである。

道元は、この巻においてもまた、ずばりと冒頭に圧巻のことばを打ち出している。

「このなかに教菩薩法あり、教諸仏法あり。おなじくこれ大道の調度なり。……これによりて、西天東地の仏祖、かならず或従(わくじゅう)知識、或従経(きょう)巻の正当恁麼時、おのおの発(ほつ)意・修行・証果かって間隙あらざるものなり。発意も経巻・知識により、修行も経巻・知識による、証果も経巻・知識に一親なり」

朗々と読み来り読み去れば、その難解の文字にもかかわらず、そのいわんとするところは朗然として明らかである。詮ずるところ、仏教は経典なしには成立しないといっておるのである。諸仏も、菩薩も、あるいは、その発意も、修行も、証果も、経巻と善知識なくしてはありえない。それが仏教の建前なのである。道元がこの巻においていわんとすることはそれである。したがって、それに呼応するがごとく、この巻の結びの一句もまた、ずばり、

「しかあればすなはち、仏道にさだめて仏経あることをしり、広文深義を山海に参学して、弁道の標準とすべきなり」

と結ばれている。

しかるに、近年の大宋国においては、例の杜撰のやからどもが、しきりと仏経を軽んずる言辞を弄している。それはよく知られている事実であるが、道元にはその風潮が嘆かわしく思われてならないのである。この一巻にみなぎるただならぬ気配もそれと無関係ではありえまい。

「このともがら、みだりに仏経をさみす。人これにしたがはざれ。もし仏経なげすつべくば、臨済・雲門をもなげすつべし。仏経もしもちゐるべからずば、のむべき水もなし、くむべき杓(しゃく)もなし」

その辺に、この一巻のなれる消息があるのであろうと察せられる。(192~194頁)

■しかるに、かならずこの経を得んとする、そのことのなる時は古であるか今であるかと、そのように考うべきものではない。けだし、古今はともにこの経を得べき時だからである。いま十方の世界のいたるところ、われらの目前にそのすがたを現じているもの、それを見ることがそのままこの経を得ることにほかならないのである。さて、この経を得て、それを読みいたりかつ通じいたるには、仏智をもってし、自然智をもってし、無師の智をもってするのであるが、その時には、理解は心よりもさきに成り、会得は身よりもさきに実現する。したがって、その時、なにもあっというような新しいことがあるわけでもない。けだし、この経がわれらによって受持せられ読誦(どくじゅ)せられるということは、つまり、この経がわれらを迎えいれることにほかならない。したがって、この経の文言のそと、行文のかなたなる消息は、まことはわれとわが心の綾にほかならないのである。(200頁)

■そればかりではない。さらにいうなれば、「こんなものが、いったい、どうして来たのだ」という。それも、諸仏を教える経であり、あるいは菩薩を教える経である。あるいは、「一つだけを挙げていったのでは中(あた)らない」という。それも八万四千の説法群をとき、あるいは十二部経を語っている。ましていわんや、握り拳(こぶし)だって、脚の踵(かかと)だって、あるいは老師の杖だって、払子だって、みんな古いもしくは新しい経であり、あるいは、有(う)をとき空をとく経である。さらにいえば、衆のなかにありながらも仏法をまなび、坐禅功夫をかさねるのも、もとより、どこまでも仏教にほかならない、菩提の葉にしるすのも経であるし、また虚空の面にえがくのも経なのである。(201頁)

■いったい、仏祖の一挙一動は、その迎えるにも放つにも、すべておのずから仏教を披(ひら)きまた閉じるにひとしい。それには究極するところがないが、究極するところがないのが、まことの経のありようというものなのである。したがって、彼らはよく鼻孔をもって経を受け経を出だす。脚の爪先からも経を受けまた経を出す。もしくは、父母のいまだ生まれぬ以前にも経をくりひろげ、威音王仏の以前にも経をくりひろげる。あるいはまた、山(せん)河大地によって経を受け経を説き、日月星辰によって経を受けまた経を語る。またあるいは、この世界の成る以前の自己をもって経を持し経を授け、あるいは、この面目のなる以前の身心をもって経を受持しまた経を授与するのである。そのような経というものは、小にしては最小の物的単位をつき破り、大にしてはこの全存在の世界を超えて出現するものと知らねばならない。(202頁)

〈注解〉知識;ここに、つづいて知識論が展開される。それで、すこし知識ということばについて語っておきたい。それはもと“kalyana-mitra”を訳して善知識となしそれを略して知識となすのである。その原語のうち“mitra”とは「友」の意であって、ともに仏道を行ずる人々をすべて「善き友」とするのである。だが、のちには、自分のために教えを与えてくれるものを善知識というようになった。しかし、その時にもなお、「善き友」というもとの意味は生きているようである。

     恁麼仏恁麼来;南嶽懐譲(なんがくえじょう)がはじめて六祖慧能にまみえた時、六祖が吐いたことばである。それに答えて南嶽が申していったことばが、つづいて記されている「説似一物即不中」の句である。『景徳伝燈録』巻五、懐譲伝のしるすところである。いずれも道元の好んで引用するところである。一応それぞれに現代語訳しておいたが、それをまた解説せよといわれるならば、わたしもまた、「そんな句がどうして出たのか」、「一つだけをいっても当たりっこないわい」というほかはないのである。(203~204頁)

■先師なる如淨禅師は、日頃からつねに仰せられていた。

「わしのところでは、焼香だ、礼拝だ、念仏だ、看経(かんきん)だといったものは用いない。ただひたすらに打ち坐って、道をまなび行を修して、身心を脱落するのである」

このようなことばは、意外にもこれをはっきりと理解しているものが稀である。なにゆえであろうか。たとえば、そのなかの一句、看経ということを取りあげてみるならば、それを文字どおりに看経とすれば矛盾を生ずる。かといって、それを文字どおりの看経ではないとすれば反対になってしまう。つまり、物いうも当たらず、物いわざるも当たらずというところなんだが、さてどういったらよいものか。

そこの道理をよくよくまなびいたらねばならない。その意味の存するところを、かって古人は、

「看経には、すべからく看経の眼(まなこ)を具(そな)えねばならない」

といったこともある。まさしく知らねばならない。古(いにしえ)より今にいたるまで、もし経というものがなかったならば、このようなことばもまたあるはずはない。ただ、そこには、脱落の看経というものがあり、また、不用の看経ということがある。それをよくよくまなぶがよいのである。

ということであるから、仏道をまなぼうとするものは誰でも、かならず仏の経を伝受し受持してこそ、はじめて仏の御弟子となるのである。むやみに、外道のものどもの邪(よこしま)な考え方をまなんではならない。いまの世に成就し現存する正法の眼目といえば、それはとりもなおさず仏教である。したがって、あらゆる仏教は正法の眼目なのであって、あれはどう、これはどうというべきものではなく、あるいは、あれは他人のもの、これはわれらのものともいうべきではない。よく知るがよい、正法の眼目はいろいろとあるのだが、そなたがたでは、到底そのすべてを知ることはできない。つねに説いているのである。それは信ぜざるをえないではないか。(208~209頁)

■仏の経もまた、それと同じである。それにもまた、あれこれとたくさんある。だが、そのなかから、そなたたちが信じとり、それを行じようとするものは、またほんの一偈であり、あるいは一句にすぎまい。とても、あの厖大(ぼうだい)なる経をすべて理解することはできまい。しかるを、経典の学者にもあらずして、みだりに、仏経と仏法とはちがうのだなどということ、夢にもあってはならない。いったい、そなたたちが、このごろ、これが仏祖の骨髄などといっているものは、正しい眼をもったものからみれば、それもまた末師が経文によって教えられたものにすぎない。さすれば、それもまた、われらが一句一偈を受持するにひとしいであろう。あるいは、その一句一偈の受持にもおよばぬこともあろう。そのような浅薄な理解をよりどころとして、仏の正法を謗(そし)るようなことがあってはならない。それでは、紙に書いた経、口に誦する経よりも、功徳があるなどとはとんでもないことである。声や物の誘惑は、なんじらのなお貪るところであろうが、仏の経にはなんの惑乱するところもないことを、なんじらなお信ぜずして謗(そし)ろうというのであるか。あるべからざることではある。(209~210頁)

〈注解〉仏経は仏法にあらず;いわゆる教外別伝というがごとき考え方を指しているのである。

声色の仏経;口に誦する仏経は、声(しょう)の経典であり、紙に書かれ、目にみえる仏経は色(しき)の経典なのである。(210頁)

■臨済は、まことは、黄檗の門下のなかにあっては後進であった。彼は六十本にわたって黄檗の棒を頂戴(ちょうだい)し、去って高安大愚(こうあんだいぐ)のもとに参じたが、そこで黄檗の彼にたいする仕打ちを老婆の孫にたいする態度のようではないかといわれ、そこでこれまでのことを顧(かえり)みおもい、また黄檗のもとに帰ってきた。そのことがよく知られているために、人は、黄檗の仏法はひとり臨済にのみ伝えられたものと思っている。いや、そのうえ、彼は黄檗にさえまされる人物であると思っているものもある。だが、けっしてそうではないのである。

臨済はまだ黄檗の門下にあって、大衆(だいしゅ)の一人であったころ、陳尊宿(ちんそんしゅく)がなにか問うてみるがよいと勧めてくれたことがあった。だが彼は、なにを問うてよいか、それが判らなかったという。いまだ大事を悟りえない時、仏道をまなぶ修行者として、法堂(はっとう)にあって法を聴こうというのに、そんなぼんやりしたことでよいはずはない。それによっても判るように、彼はけっして上々の器ではなかった。

なおいえば、臨済にはまったく師に勝(まさ)ろうとするような覇気もなかったし、師を超えるようなことばも見ることはできない。黄檗という方には、師に勝ることばもあったし、師を超える大智もあった。ちゃんと、仏のいまだ道(い)わざるところを語り、祖のいまだ解せざる法を理解していた。黄檗こそは、まさに古今をこえた古仏であって、百丈にもまさり、馬祖よりも俊秀であった。だが、臨済にはそのような秀(ひい)でた気配はなかった。なぜかとなれば、古来いまだ道(い)われざる句は、まだ夢にも語ったことがなく、ただ、いうならば、多を理解すれば一(いつ)を忘れ、一に達すれば他が気にかかって仕様がないというところである。四料簡(しりょうけん)などということには、いささか法味がありというものの、それを仏法をまなぶ指標とするなどとは、とんでもないことである。(216~217頁)

〈注解〉大愚;高安大愚(こうあんだいぐ、生没年不詳)。帰宗智常(きすちじょう)の法嗣(ほっす)。なかなかの逸物であったらしいが、まったく迹をくらまして、この臨済のことのほかは、まったく知られるところがない。(218頁)

■また、雲門は、雪峰の弟子であった。世の人々の師たるに堪える器であったが、なお、もはやまなぶべき余地のないところにまで到ったというわけではなかった。それらの人師(にんし)のことばをもって根本としたならば、それはただ末を愁えなければならぬこととなろう。いったい、臨済がまだ世に現れず、雲門もなおいなかった時には、仏祖たちはなにをもって仏法をまなぶ基準としたのであろう。それを考えてみただけでも判るではないか。彼らの家には、仏家のことばもわざも伝わってはいないのである。つまり、依ってもって根拠とすべきところがないからして、このようないい加減なことばを説くのである。そのようなやからだから、むやみに経典をくさすのである。人はそれに従うべきではない。もしも経典をなげ捨つべきであるならば、また臨済・雲門をもなげ捨てるがよろしい。もしも経典をもちうべからざるものとするならば、仏教者は、いったい、いかなる水をのめばよいか、なにをもって水を汲めばよいか。

■しかるに、いま杜撰にして頭のおかしいやからどもが、むやみに仏道を軽んずるのは、つまりは仏道とはこれかと思いさだめることができないからである。かりそめにも、かの道教や儒教をもって仏教に比すなどとは、その愚かさに歎かれるばかりではない。それはまた罪をつくる因縁ともなり、国の衰えを招くことともなるであろう。けだし、かくては仏・法・僧もしだいに衰えてゆくばかりだからである。(222~223頁)

■そこで、黄梅山(おうばいざん)にかって神秀がいたことを思い出してみるがよい。神秀は帝師であって、皇帝の御前において法を講じ、法を説いた人物である。それのみではなく、また、盧という行者(あんじゃ)がいたことを思い出さねばならない。彼はもと樵夫(きこり)であったが、五祖に投じて行者となったのである。柴をかつぐ仕事はのがれたけれども、なお米を推(つ)くことを仕事としてあった。身の卑賤なことは恨めしかったであろうが、彼には、俗をも出て、僧をも超えたところがあったのであろう、ついに法を得て、衣を伝えられた。このようなことは、昔からいまだかって聞かざるところであり、西の方天竺にもその例はない。ひとり中国においてみる世にも稀なるすばらしい前例である。七百人の五祖の門下のなかにも、この人に肩をならべるものはなく、天下の俊才のなかにもその跡をうかがう力のあるものはなかったにちがいない。かくて、まさしく第三十三代の仏祖の位をついで五祖の法嗣となった。もしも五祖がよく人を知ることのできる善知識でなかったならば、どうしてこのようなことが実現できたであろうか。

このような道理を、しずかに考えてみるがよろしい。軽々にしてはならない。人を知る力を得るように心がけるがよろしい。人を知らないということは、自分にとっても他人にとっても、大きなわざわいである。いや、天下の大きなわざわいである。学問のひろい秀才であることは必要ではない。ただ、人を知るまなこ、人を知る力、これをいそぎ身につけるがよろしい。もし人を知るの力がなかったならば、いつまでたっても浮かぶ瀬はないであろう。

かくて、詮ずるところは、仏道にはかならず仏経がなくてはならぬことを知り、広くまた深く山海にいたりまなんで、それをもって道をわきまえる基準とすべきなのである。(230~231頁)

〈注解〉神秀;(じんしゅう、706寂、寿不詳)。大満弘忍の門下の俊秀であったが、その衣鉢は慧能に伝えられ、彼は旁出の法嗣となった。。諡号(しごう)を大通禅師いう。彼が帝師というのは、則天武后の帰依を得て、内道場で法を説いたことをいう。(178頁)

盧行者;大鑑慧能(だいかんえのう、713寂、寿76)のことである。彼はもと姓を廬氏といい、五祖のもとに投じても、なお、しばらく行者(あんじゃ)すなわち雑役者としてあった。その彼が、神秀を措いて五祖弘忍の衣鉢をつぐものとなった消息がここでもまた語られているのである。(231~232頁)

無 情 説 法 (むじょうせっぽう)

■開 題

この一巻は、寛元元年(1243)十月二日に、衆(しゅ)に示されたとある。この年の七月下旬に越前山中に入り、閏七月初一日に最初の示衆があってから、すでに三ヵ月の歳月がすぎた。その間における道元の山中の日々は、どうやらこの『正法眼蔵』の巻々の、制作と示衆とに明け暮れるというところであったにちがいない。そしてこの「無情説法」の一巻は、その七本目にあたるようである。

ところで、この一巻において、道元が、「無情説法」の題目のもとに語ろうとしておるところはなにか。いま、この一巻を現代語訳し終わって、静かに思いを凝(こ)らしてみると、それは、どうやら、説法そのものについて語ろうとしているようである。あるいは、もっと現代風のいい方をもっていうなれば、これは「脱法論」であって、説法の本質はなんであるかを、この主題のもとに説こうとしているのだと思われるのである。

すでにたびたび指摘したように、この『正法眼蔵』の巻々において、道元がしばしば用うるところの手法は、いきなり冒頭において、そのいわんとするところを、ずばりと語りいでるという行き方である。そのために、この『正法眼蔵』の巻々においては、しばしば、その冒頭においてもっとも難解な行文にぶっつかるのである。それもそのはずである。そこに道元は、思索に思索をかさねて、そのいわんとするところの精髄を凝縮した表現のなかにずばりと打ち出しているからである。そして、そのことは、この一巻もまたその例外ではないのである。

その冒頭の一節は、ご覧のとおり、つぎのように述べられている。

「説法於説法するは、仏祖付属於仏祖の見成公案なり。この説法は法説なり」

わたしはその一節をまえにして、しばしがほどは、ただじっと凝視して佇立するのみであった。いったいなんと読めばよいのか、なにをいわんとするのであろうか。だが、読みすすんでみて、やっと、わたしも気づくことができた。道元はここに説法そのものについて語ろうとしているのだなあということを。だから「説法を説法する」などといっておるのだなあと、やっと気づくことができたのである。では、いったい、この巻の主題はなぜ「説法」ではなくて、「無情説法」なのであろうか。それはどうやら、道元その人が、説法の本質を無情説法において見ているからなのであろうと推測される。

いったい、仏教でいうところの「無情」とは「有情」と相対することばであって、有情が感情や意識を有するもの、すなわち生きとし生けるもの(衆生)をいうに対して、感情・意識を有せざるもの、すなわち草木瓦礫(がりゃく)の無生物のたぐいを無情というのである。しかるに、仏教においては、そのような無情なるものもまた法を説くという考え方がある。これを無情説法という。そして、そのような無情説法はいかにすれば聞こえるかが、しばしば禅者の問答にもみえている。

道元もこの巻において、そのような問答を三つまで取り上げている。その第一には、南陽慧忠と、一人の僧の問答、その第二には雲巌曇晟(うんがんどんじょう)と洞山(とうざん)良价の師弟の問答、そして、その第三には、投子(す)大同と一人の僧の問答である。しかるに、その第一の問答の南陽慧忠も、その第二の問答の雲巌・洞山の師弟も、いずれも無情説法を「聞かず」といっておる。そして、その第三の問答においては、「いかなるか無情説法」と問う僧にたいして、投子はずばり「莫悪口(まくあっく)」といっておる。つまらぬことを考えないでもよろしいという意味らしいのである。とすると、無情説法とはどういうもので、どうすれば聞くことをうるかと、それのみを期待するものの期待はことごとくうらぎられるのである。

つまり、道元がこの巻において語ろうとしていることは、いわゆる無情説法なるものの解説ではないのである。道元の真に語ろうとしていることは、さきにもいうがごとく、説法とはなにかということ、もしくは説法の本質はなにかということなのである。そして、それに対する道元の回答は、これもまたさきにあげた「説法は法説なり」ということではないか。あるいは、これもまた冒頭にちかいあたりに見える一節であるが、それは、

「説法は仏祖の理(り)しきたるとのみ参学することなかれ、仏祖は説法に理せられきたるなり」

ということではないか。つまり、万法の説示するところが説法であり、山水が語りいでるのが説法の本質であるとすると、そこではじめて、無情説法、すなわち有情の感情や意識をまじえないところに説法の本質があるということとなり、さらに、それを聴問するには、無情得聞、すなわち、衆生の感情・意識をまじえないところに、その説法のよき聴き手があるとするのである。かくて、終わりにのぞんで、「無情説法、無情得聞を体達すべし、脱落すべし」とある一節の重さを、つくづくと思い知らされるのである。(234~237頁)

■だからして、釈迦牟尼仏は仰せられた。

「三世もろもろの仏たちの説法の儀式のように、わたしもまたそのようにして、いま無分別の法を説く」

ということであって、三世の諸仏が説法をなさるように、もろもろの仏もまた説法されるのであり、三世の諸仏が説法を正伝なさるように、もろもろの仏もまた説法を正伝なさるのである。それによって、古仏より七仏へと正伝したように、七仏より今にいたるまで正伝して、ここに無情説法がるのであり、この無情説法によって、諸仏があり、また諸祖があるのである。したがって、いま釈迦牟尼仏が、「わたしもまたそのようにして、いま無分別の法を説く」というのは、正伝にはあらぬ新しいこととまなんではならない。古来から正伝というものは、ふるい窟にとじこもることだと思ってはならない。(238頁)

■大唐国の西京光宅寺にあった大証国師に、ある時のこと、一人の僧が問うていった。

「無情なるものもまた説法を解するでありましょうか」

国師はいった。

「いつもさかんに説いていて、やむときもないわい」

僧はいった。

「わたくしには、どうしてか、一向に聞こえません」

国師はいった。

「そなたじしんには聞こえなくても、他人(ひと)の聞くことを妨げることはできないよ」

僧はいった。

「いったい、どんな人が聞くことができるのでありましょう」

国師はいった。

「もろもろの聖者がたは、聞くことができるのじゃ」

僧はいった。

「では、和尚もまた聞こえますか」

国師はいった。

「わしには聞こえない」

僧はいった。

「和尚には聞こえないのならば、どうして無情なるものが説法を解することが判りましょうか」

国師はいった。

「さいわい、わしには聞こえない。わしにもし聞こえたら、わしはもろもろの聖者がたと等しいこととなろう。そうすると、そなたは、わしの説法が聞こえないこととなろうわ」

僧はいった。

「もしそうならば、無情なるものの説法は、衆生には縁がないことになります」

国師はいった。

「わしは衆生のために説く。わしはもろもろの聖者がたのためには説かない」

僧がいった。

「では、衆生はそれを聞いて、どうなるのでしょう」

国師はいった。

「その時は、もはや衆生ではないわ」

無情説法のことをまなぼうとする初心のものは、すべからくこの国師の物語を素直に勉強するがよろしい。(244~246頁)

■いったい、法を聞くということは、耳という感覚のはたらきのみではない。父母もなおうまれぬ昔、威音王仏(いおんおうぶつ)よりもっと以前から、乃至は、尽未来の時、いや無尽未来の時節にいたるまで、わが力をこぞり、心をこぞり、身をこぞり、言をこぞって聞法するのである。そして、それらの聞法がすべて利益するところがあるのである。心にふれ意識にふれなければ、聞法の利益はないと思ってはならない。心を滅し身も没したものにも、聞法は利益をもたらすのであり、心もなく身もないものにも、法を聞くことの利益はゆたかなのである。もろもろの仏もろもろの祖たちは、みんなそのような時期を経て、仏となり祖となったのである。法の力がわれらの身心にたいするいとなみは、凡人の思わくではとても知りつくすことはできない。身心ノのはてしは、自分ではとても知りつくすことはできないのである。そして、いま聞法の力が、身心という田畑に種蒔(たねま)かれる時、その朽ちる時はない。やがて時とともに生長して、かならずその果を結ぶのである。(260頁)

〈注解〉尽未来際;未来のつきる時まで、というほどの意。だが、未来のつきる時はないであろうから、さらに無尽未来際の句を連ねているのである。(264頁)

法 性 (ほっしょう)

■開 題

この一巻が、古吉峰精舎において衆(しゅ)に示されたのは、「寛元元年癸卯孟冬」とある。孟ははじめである。冬のはじめは十月である。そして、いまから迎えようとしている冬は、道元にとっては、はじめての北国山中の冬であった。

この一巻はごく短い巻であって、今日の四百字詰の原稿用紙に換算すれば、わずか六枚にみたぬ小篇である。そのなかにおいて、いま道元が語ろうとしている主題は、まことに把握しがたい概念であった。

わたしもまた、道元がこの巻でいっておることばで申すなれば、一箇の「文字の法師」として語るなれば、「法性(ほっしょう)」とは、もと“dharmata”という仏教の述語である。そのことばは、一見してすぐ判るように、“dharma”の語尾に“ta”なる接尾語を付して、それで抽象形をつくったものである。

しかるに、その“dharma”という語は、ご存じのように、法と訳される語であって、仏教のなかにあっては、もっとも重要であり、したがってまた、もっともしばしば用いられることばである。しかるに、たいへん厄介なことには、仏教経典におけるこのことばの用法は、はなはだ多義的である。ある時には、存在をいうことばとして用いられる。ある時には、存在のありようをいうことばとして用いられる。そして、またある時には、存在のありように即して説かれた仏の教えをいう。古来の学者は、そのさまざまの用法をあげて、十数種に分類したこともあった。

いま、この「法性」すなわち“dharmata”ということばは、その“dharma”のもつ多義のうち、その第一の存在そのものに、さらに接尾語“ta”を付して抽象形としたのである。しかるに、ご存じのように、存在そのものとしての、“dharma”は、諸法あるいは万法ということばで訳されている。そして、たとえば『法華経』方便品に、

「唯仏与仏、乃能究尽(ないのうぐうじん)、諸法実相」

というがごとく、あるいはまた、道元じしんが、かの「現成公案」の巻に、

「万法すすみて自己を修証するはさとりなり」

というがごとく、諸法または万法ということばは、つねに「さとり」そのものと直結しておる。かくて、仏教的世界観の究極するところにおいては、その抽象された形での「法性」ということばが、あるいは仏正覚(がく)の内容をなすものとして、あるいは真如にひとしいものとして、たえず登場してくるのである。

この一巻における道元の書き出しの一句はこうである。

「あるいは経巻にしたがひ、あるいは知識にしたがうて参学するに、無師独悟するなり。無師独悟は、法性の施為(せい)なり」

それもまた、まさしく、「さとり」の究極のところは「法性の施為だ」といっておるのである。そして道元は、その法性とはいかなるものか、いかに考えればよいか。それを、第一には、その抽象性の考え方として語り、第二には、その「如是性(にょぜしょう)」の理解の仕方として説いているのである。いずれも、もっとも説明しがたいところで、かならずしも明快だとはいいがたいが、それも詮ないところであろう。(272~274頁)

■それなのに、すでにこの道をまなぶこと、二十年、三十年と称するものが、法性の話となると、いつも茫然として一生を過ごすというやからがある。あるいは、すでに禅林にあること久しゅうして、曲碌(ろく、石ヘンがない字)にも坐する身であるものが、現に法性の声を聞き、法性のすがたを見ながら、その身心はいつまでも、世のつねの騒がしい窟(あな)のなかで右往左往するのみの徒輩もいる。彼らはいったいどう思っているのかというと、どうやら、いまこの目で見この耳で聞いているこの三界(がい)、もしくは十方世界がぱたりと無くなって、そこであらためて法性というものが現われてくるのだと、そんな具合に思っているらしい。つまり、かの法性とは、いまのこの森羅万象とはちがうのだと思っているらしい。だが、法性の道理はそんなものではありえない。この森羅万象と法性とは、同じか異なるかといったいったものではない。あるいは、別か同じかといったことでもない。それは、過去・現在・未来のことでもない。断とみるか常とみるかということでもない。あるいはまた、人間の認識の問題でもないからして法性なのである。(277頁)

〈注解〉ここに道元は、まず「法性」という概念について開明しようとしている。法性とは、もともと“dharamata”ということばの訳語である。それを見ただけでも知られるように、それは“dharama”(法)に加うるに“ta”をもってして、その抽象形をつくれるものである。それによって、諸法あるいは万法ということばで具体的に存在のありようを表現するのに対して、このことばは、それを抽象的に、存在であること、存在のありよう、乃至は、存在そのものとして表現しているのである。だが、抽象的な思惟や表現がなお未熟であった時代には、それはかなり把握しがたい概念であったにちがいない。それをいま道元は、嚙んで含めるように説明しているのである。

曲木の牀;曲碌(石ヘンのない字、ろく)のこと。僧家の大椅子である。

色受想行識;色受想行識は、たびたびいうように五蘊である。人間をその認識能力によって分析した考え方である。いま法性の道理は、そんな能力に関係したものでもないとするのである。(278頁)

■江西の馬祖こと大(だい)寂禅師はいった。

「一切の衆生は、数かぎりない昔よりこのかた、法性三昧を出たこともない。ながいながい間、法性三昧のなかにひたりきっている。衣服を着、飯を喫するも、人に会って話をするも、あるいは、眼・耳・鼻・舌・身・意をばはたらかせるなど、一切の所為はすべて、ことごとく法性ならざるはない」

馬祖が語る法性は、法性が語る法性である。法性は馬祖と一体であり、馬祖は法性と一体である。だが、そうと聞くからには、わたしもまたいわねばならない。それは法性が馬祖に乗っているのだ。あるいは、人が飯をくらえば、飯が人をくらうというところでもあろうか。ともかく、ひとたび法性に入ってよりここかた、ずっと法性三昧にひたりきっているのである。法性あってよりのち、いまだかって法性をいでず、また、法性ありてより以前にも、かって法性をいでないのである。とするならば、法性はまた無量劫(こう)にして、はじめて法性三昧がありうる。かくて、法性はまた無量劫であるという。

だからして、いまの此処は法性である。法性とはいまの此処のことである。着物を着、飯をくらうことは、法性三昧の着衣であり、喫飯である。衣(え)の法性はここに実現し、飯(はん)の法性はここに実現し、喫飯の法性はここに現われ、着衣の法性はここに成るのである。もしも、着物も着ず、飯もくらわず、人に会っても話もせず、六根をはたらかせることもなく、一切の所為がなかったならば、そこには法性三昧はなく、その人は法性に入らないのである。

しかるに、いまのようなことばが馬祖道一によって語られた。それはもろもろの仏が相伝えて釈迦牟尼仏にいたり、さらにもろもろの祖が正伝して馬祖にいたったのである。仏より仏、祖より祖へと、まさしく伝え、受けわたしてこの法性三昧にいたったのである。諸仏や初祖はなんの立入るところなくても、法性はおのずからにして活潑々地(かっぱつぱつち)として自由にはたらいているのである。(280~281頁)

■また、無量劫などというながいながい歳月も、法性の経めぐりきたれるところ。そして、現在もまた然るのである。しかるに、この身心のことを振り返って、わが身心はこんな小さな果(はか)ないものであるから、とても法性などからは程遠いものであろうと、そんな具合に考えるのも、また法性というものである。つまり、そう考えるも考えぬも、ともに法性である。それを、性というからには、水も流れないはずであり、樹も茂ったり枯れたりするはずはないと、そんな具合にまなぶのは外道というものである。(282頁)

〈注解〉不入にして……;さきに「不出」の句があって、ここに「不入」といったのであろう。その一段は、仏祖が立ち入らずとも、法性がおのずから自由にはたらいているさまをいったものらしい。

水も流通すべからず;古来、性を注釈して「性は不易なり」となす。不易とは変化しないということである。かくて、性というからには、水も流れず、樹に栄枯があってもならない、となるのである。それは無論、仏教の考えではない、外道であるという。(282~283頁)

■釈迦牟尼仏は仰せられたことがある。

「如是相、如是性」

とするならば、花開き、葉落つるは、とりもなおさず如是性である。それなのに、愚かなるものは、「法性の世界には開花も落葉(らくよう)もあるはずはない」と考える。だが、いまのところ、それを他の人に問うてみてはいけない。ここは、なんじの疑問をそのまま肯定文にしてみるがよい。そして、他の人がそういうように真似して、二度も三度も思いめぐらしてみるがよい。そうすれば、ちゃんと向こうから解けてくるだろう。

思うに、これまで考えたことが間違っていたわけではなかった。それはただ判然としなかった時の考えであった。そして、いま判然としたからとて、これまでの考えがもはや駄目だというわけではない。開花落葉は、いまもまさしく開花であり落葉である。それを、法性には花がひらくとか葉が落ちるとか、そんなことはあり得ないと考えたのも、それもまた法性であった。真似をしてみたり、いつの間にか解けてしまった考えであった。だからして、法性らしき思量であった。いったい、法性を思量する思量というものは、ことごとくこのような趣きのものなのである。(284~285頁)

■ところで、馬祖のいうところの「ことごとく法性ならざるはない」とのことばは、なるほどおおむねいい得たことばであるが、なお馬祖としてはまだいわざるところも少なくない。たとえば、「一切の法性は法性を出でず」とはいわなかった。「一切の法性はことごとくこれ法性である」とはいわなかった。あるいは、「一切の衆生は衆生を出でず」とはいわなかった。「一切の衆生は法性の小分である」とはいわなかった。「一切の法性はこれ衆生の半分」ともいわなかった。「半箇の衆生、半箇の法性」ともいわなかった。「無衆生これ法性」ともいわなかった。「法性これ衆生ならず」ともいわなかった。「法性、法性を脱出す」ともいわなかった。「衆生、衆生を脱落す」ともいわなかった。ただ、「衆生は法性三昧を出でず」とのみいった。そして、「法性は衆生三昧を出ることはできない」とはいわなかった。また、法性三昧が衆生三昧に出入するといったことばもない。ましてや、法性が仏となるといったもなく、衆生が法性を悟るといったことばもなく、法性が法性を悟るといったことばもなく、また、無情なるものは法性出でずといったことばもない。

では、ちょっと、馬祖に問うてみよう。――あなたは、いったい、なにをよんで衆生とされるのであるか。もし法性をよんで衆生とするのであったなら、いったい、こんなものがどこから来たのでありましょうか。もしまた、衆生をよんで衆生とするならば、それでは「一つの物をもって説示すれば、すなわち中(あた)らず」というところではないか。さあ、どうでござる。どうでござる。(285~286頁)

陀 羅 尼 (だらに)

■開 題

この巻の奥書もまた、「爾時寛元癸卯、在越州吉峰精舎示衆」とのみ記されてある。寛元癸卯は、いうもでもなく、寛元元年(1243)であるが、その月日はしるされていないのである。だが、そのようなことは、この前後にはなお数例ある。この山中の古精舎に到着してなお日も浅く、道元の身辺はなお多忙であったのでもあろうかと思われる。

ー(中略)ー

いったい、陀羅尼ということばは、一見してすぐ判るであろうように、凡音を音写したものである。その原語は“dharani”であって、保つとか、ささえるとか、あるいはたすけるなどといった意味のことばである。よって、古来また「持」もしくは「能持」あるいは「総持」といった訳語ももちいられている。それによって仏教では、「これを保持することによって、善法を散佚(さんいつ)せしめず、悪法を遮止(しゃし)することを得るもの」、そのようなものをこのことばによって表現するのである。

では、なにを陀羅尼とするか。なにがあればよく善法を散でしめず、悪法を遮することができるか。それは、必ずしも一つにして止まらないのであって、古来、あるいは「三陀羅尼」がかたられ、あるいは「四陀羅尼」が数えられてきた。いま、その一例として四種陀羅尼をあげていえば、

1 聞陀羅尼 教法を聞持して忘れざるをいう。

2 義陀羅尼 法の義において忘失せざるをいう。

3 咒陀羅尼 咒文(じゅもん)において憶持して忘失せざるをいう。

4 忍陀羅尼 教法において忍可決定(けつじょう)してもはや動ぜざるをいう。

教法を聞いて忘れないとか、その義理をよく理解するとか、あるいは、教法を受けて安住するとか、そのようなことが陀羅尼すなわち仏教者を支持するものであることは、誰でもすぐ理解しうるところである。また、咒(じゅ)すなわち聖句を秘密語として記憶することも、また、密教などにおいて陀羅尼とされていることは、ひろく一般にも知られているところであろう。

しかるに、いま、道元がこの巻において説くところは、それらのいずれでもないのである。道元がここに「陀羅尼」として語っているものは、なんと焼香礼拝である。道元はいう。

「いはゆる大陀羅尼は、人事これなり。……その人事は、焼香礼拝なり」

さまざまの陀羅尼があるなかにおいて、もっとも大いなる陀羅尼はなんであるか。それは人事であるという。人事とは、一般に世におこなわれている人間の関係をいうことばであるが、それは仏教においては、師と弟子との間の関係であり、それをさらにクローズ・アップすれば、それは弟子がその師にまみえて焼香し礼拝するその瞬間にきわまるとする。

かくて道元は、この巻において、ただ焼香を語り、礼拝を語って、詳細をきわめる。そのなかにおいても、わたしにとっては、まことに平凡ではあるけれども、

「おほよそ礼拝の住世せるとき、仏法住世す。礼拝もしかくれぬれば、仏法滅するなり」

という道元のことばが、はなはだ印象的で、忘れられない。(290~292頁)

■参学の眼のあきらかなるものは、正法をみる眼もあきらかである。また、正法をみる眼があきらかであるから、誰についてまなぶべきかをみる眼もあきらかなることを得るのである。この急処の鍵を正伝することは、どうしても大善知識にまみえなければ能わぬところである。それが大事なところであり、大いなる陀羅尼というものである。そのいうところの大善知識とは、仏祖にほかならない。かならずその身辺にかしずいて恪(つつ)しみ勤めるがよい。(295~296頁)

■そのほか、師の教えを頂くたびにもまた礼拝する。なにかのいわれをお訊ねしようとするにもまた礼拝する。そのむかし二祖慧可がその所見を初祖達磨に申しのべた時に三たび礼拝したのもそれである。仏法のぎりぎりの消息について語るのであるから三拝したのである。それによっても判るように、礼拝はすなはち正法の眼目の存するところであり、正法の眼目はすなわち大いなる陀羅尼である。(298~299頁)

■いったい、礼拝が世に行なわれるとき、仏法が世に行なわれる。もし礼拝がなくなったら、そのとき仏法はほろびるのである。(299頁)

洗 面 (せんめん)

■開 題

この一巻の奥書にしるすところによれば、この巻は、すくなくとも、三たびにわたって衆に示されたことが知られる。つぎのようである。

1 延応(えんおう)元年(1239)十月二十三日、観音導利興聖宝林寺において衆に示された。

2 寛元(かんげん)元年(1243)十月二十日、越前山中の吉峰(よしみね)寺において衆に示された。

3 建長(けんちょう)二年(1250)正月十一日、吉祥山(きちじょうざん)永平寺において衆に示された。

そのようなことは、他にその例をみないことであるが、それはいったい、どうしたということであろうか。それについては、かって、わたし自身が、この「洗面」の巻や、あるいは、「洗浄」の巻についてもった素朴な疑問のことを、そのまま率直に打ち明けて申し上げてみたいと思う。

きっと、同感の意を表してくださる方もあるにちがいないが、いまからほぼ五十年もまえのころ、初めてこの『正法眼蔵』の巻々に親しみはじめたころ、わたしにとっては、そのなかに「洗面」の巻とか、「洗浄」の巻とかいったものが介在していることが、はなはだ異様に感ぜられたのである。つまり、「現成公案」の巻とか、「仏性」の巻とかいった、いわゆる高度の哲学的もしくは宗教的ね主題を扱った巻々のあいだに、あるいは顔を洗うこととか、あるいは大小便の仕方といった主題を扱った巻々が介在するのが、どういうことであるのか、容易に理解することができなかったのである。

いまから考えてみると、まことに迂闊なことであった。そんなことは、すでにそれぞれの巻々にちゃんと説明してあったのである。「洗浄」の巻の冒頭には、ずばりと一句、

「仏祖の護持しきたれる修証あり。いはゆる不染汗(ふぜんま)なり」

とあって、南嶽と六祖のよく知られた問答が挙げられている。また、「洗面」の巻では、これもまた冒頭に、『法華経(ほけきょう)』安楽行品(ぎょうほん)の、

「以油塗身(いゆずしん)、澡浴塵穢(そうよくじんえ)、著新浄衣(じゃくしんじょうえ)、内外倶淨(ないげぐじょう)」

との一句が打ち出され、そして、

「内外倶淨なるとき、依(え)報正報清淨なり」

と説明されている。その時、その住む世界も、わが身心も、ことごとく清浄なのであるというのである。

そのいうところは、詮ずるところ、これが仏教だというのである。「洗浄」の巻のことばをもっていえば、「いはゆる不染汗」である。「洗面」の引用する句によるなれば、いうところの「内外倶淨」である。それを措(お)いて、他に仏教などというものはありえないとするのである。「不染汗」とは清浄ということである。「内外倶淨」とは、内も外もともに清浄だということである。そのことの実現をほかにして、どこに仏教などというものがあろうかとするのである。

そして、道元は、興聖寺において『正法眼蔵』の巻々を衆に示しはじめてからまもなくのころ、延応元年(1239)の十月二十三日に、はじめてこの「洗面」の巻を衆に示している。その時には、いまもいう「洗浄」の巻もまた、同じ日に示されたことが知られる。

そして、その第二回目の示衆は、越前の山中に入られてからまもなく、寛元元年(1243)の十月二十日に行なわれた。その時には、さきの草稿に手を入れ、かつ、巻末に加筆するところがあった。ここに訳出したのは、その草稿の写本と考えられるものである。

さらに、第三回目の示衆は、吉祥山(きちじょうざん)永平寺において行なわれたとある。永平寺の成立は寛元四年(1246)六月十五日のことで、それより以前に成立していた大仏寺を改称したのであるが、よく気をつけてみると、永平寺になってからの示衆はあまり多からず、建長二年(1250)正月十一日の、この「洗面」の巻の示衆は、今日わたしどもが知りうるかぎりの最後のそれであったように思われる。そこには、道元がこの一巻にかけた執念のようなものが感ぜられてならない。(312~314頁)

■『梵網菩薩戒経』にいう。

「なんじ仏子たるものは、まさに二時において頭陀を行じ、冬と夏に坐禅し、また雨期に安居するがよい。また、つねに、楊枝・洗い粉・三衣・瓶鉢・坐具・錫杖(しゃくじょう)・香炉・漉水嚢(ろくすいのう)・手巾(しゅきん)・火燧石・毛抜き・縄床・経律・仏像・菩薩形像を用うるがよい。そして、頭陀を行ずる時、および諸方に遊行(ゆぎょう)する時、たとい百里千里を行き来しようとも、この十八種のものは、つねにその身に携えるがよい。頭陀は、正月十五日より三月十五日にいたり、また八月十五日より十月十五日にいたる。この二時中においても、この十八種のものは、つねにその身に随(したが)えること、鳥の両翼のごとくするがよい」

この十八種の物は、一つも欠くことができない。もし一つでも欠ければ、鳥の一翼のおちたようなものである。他の一翼がのこっていても、飛ぶことはできまい。鳥道をゆく縁にあうことはできまい。そして、菩薩もまた同じことである。この十八種の羽翼がそなわらなければ、菩薩の道を行ずることはできない。そして、その十八種のなかで、楊枝はすでにその第一におかれている。まず最初に具えるべきである。だから、この楊枝の用い方をよく知っているものこそ、すなわち仏法をよく知れる仏道の修行者であろう。そんなことはまるで知らんなどというものは、仏法はまだ夢にも見たことがないというやからであろう。だからして、楊枝にまみえることにほかならない。と申さば、あるいは人あって、その意味はどういうことだというかも知れない。その時には、「さいわいにして、永平老師の楊枝を噛むにお値(あ)いしたよ」と答えるがよい。(342~343頁)

面 授 ( めんじゅ)

■開 題

この一巻が制作され、そして衆に示されたのは、寛元元年(1243)の十月二十日のこと、場所はなお越前山中の古精舎、吉峰寺においてのことと知られる。だが、巻末の数紙は、あきらかに、その示衆(じしゅ)のことが終わってのちに、さらに付加されたものである。奥書があって、さらにその数紙が描き加えられていることがあきらかにそのことを物語っている。その付加がなされたのは、その示衆があってから程遠からぬころのことと推察される。それは、写本の一本に、その翌年六月のころ、懐奘がそれを書写した旨がしるされており、それには、その付加の部分もふくまれているからである。

それはともあれ、この一巻において、道元が語らんとするちころはなんであるか。思うに、面授ということばは、これまでにもすでに、道元がしばしば語りかつ記してきたところである。しかるに、このことばは、ご覧のとおり、その字づらが判りやすい。おお、それは、面(かお)と面とを向けあって授けまた受けることだなあと、誰にもすぐ理解することができる。だが、よくよく考えてみると、それは、いったい、誰が誰になにを面授するのか、あるいは、その面授によっていかなる功徳が生ずるのであるか。それらの細かなことになると、一向に判ってはいないのである。そして、いま、道元がこの一巻において語ろうとするところは、面授についてのそうした奥ふかいところのことであると知られるのである。

かくて、道元は、まず経のことばを引いて、かの霊鷲山(りょうじゅせん)上の集会において、釈迦牟尼仏が、拈華微(み)笑のなかに正法眼蔵・涅槃妙心を摩訶迦葉に面授した消息を語りいでる。それが面授の原型であるとするのである。そして、いう。そこは現代語訳をもっていえばこうである。

「けだし、迦葉尊者はしたしく世尊の面授をうけたのである。その心をもって受け、その身をもって受け、その眼をもってその面授を頂戴(ちょうだい)したのである。つまり、釈迦牟尼仏を供養し、敬をいたし、礼拝して目(ま)みえたてまつったのである。それによって迦葉尊者は、身もくだけ、骨もくだけて、もはやまったく新しくなった。自己のこれまでの面目は、もはやわが面目ではない。彼は如来の面目をじきじきに頂戴したのである」

つまり、それは、人が誰からかなにものかをじきじきに授ける受けるといったこととは、まったくその類を異にするのである。そこで授受せられるものは仏祖の面目である。それが仏の面前、祖の面前にあって、じきじきに授けられるのである。授けるものは仏祖、受けるものは仏祖たるべき人、そして、授受せられるものは仏祖の面目である。それによって、その人は身心まったくあらたまって、如来の面目を有するものとなるのである。

したがって、当然、面授のもつ意味ははなはだ大きく、また、その功徳はきわめて大きい。道元は、なおそれらのことに説きいたったのち、さらに、さきにもいった付加の部分においては、薦福寺(せんぷくじ)の承古(じょうこ)禅師なるもののことばを取り上げて批判しておる。承古は雲門大師の法を嗣ぐものと自称しているのであるが、彼は雲門大師がなくなってからおよそ百年のころの人物である。つまり、彼は面授によらずして嗣法を称している。それに対する道元の批判は、例によって手きびしいが、そのなかでも、つぎの一句がはなはだ印象的である。いわく、

「七仏諸仏の過去・現在・未来に、いづれの仏祖か師資(しし)相見(しょうけん)せざるに嗣(し)法せる」

それによっても、面授のおもき意味がうかがえるというものであろう。(356~358頁)

■わたくし道元は、大宋の宝慶(きょう)元年(1225)乙酉(きのととり)五月一日、はじめて先師なる天童如浄古仏を妙高台において焼香し礼拝した。先師古仏はその時はじめて道元を見たのである。その時、先師古仏は手ずからじきじきに授けたもうて、これで仏々祖々の面授のことは成ったのだよと仰せられた。それはとりもなおさず、霊山(りょうぜん)の拈華(ねんげ)にほかならず、嵩山(すうざん)の得髄にほかならず、また黄梅山(おうばいざん)の伝衣(え)にほかならず、洞山(とうざん)の面授にほかならぬものである。つまり、仏祖が正法の眼目をじきじきに授けたもうたのである。このことは、ただわが家門のうちにのみあって、余人はまったく夢にもいまだ見聞せざるところである。(361頁)

■そのようにして、代々の祖師がたは、いつも、弟子は師にまみえ、師は弟子をみそなわして、じきじき授受してきたのである。一祖としても、一師一弟としても、もしたがいに相まみえて授受しなかったならば、それは仏でもなく祖でもない。水はことごとく大海にそそぐ、そのようにこの教えを栄えしめる、あるいは、燈を伝えつたえるがごとく、この法に永遠の光明をあらしめる。それにはいろいろさまざまの法があろうけれども、つまるところは、本(もと)と枝とが一本でなくてはならない。また、鶏の卵のまさに孵化せんとするにあたっては、殻のなかで啼く声と、母鶏の殻を啄(つつ)くのがぴたりと相応じなくてはならない。そのような好機をのがさず捉えねばならないのである。(362頁)

〈注解〉啐啄;啐は呼ぶである。まさに孵化せんとする卵のなかの雛の啼く声である。啄はつつくである。母鶏が外から殻をつついて破るのである。その啐と啄とが相応じて、はじめて孵化のことがなる。その機を逸せぬことを迅機の語をもって表現しているのである。(364頁)

■釈迦牟尼仏はかたじけなくも、迦葉尊者に面授し付属するにあたっては、「われに正法眼蔵あり、これを摩訶迦葉に付属する」と仰せられた。また、嵩山(すうざん)の集会にあっては、菩提達磨尊者は、まさしく二祖慧可にしめして、「汝はわが髄を得たり」との仰せであった。それでもよく判るではないか。正法の眼目を授け、わが髄を得しめるのは、ただこの面授によるのである。まさにその時におよんで、なんじがこれまでの骨髄を抜けきったとき、仏祖がなんじに面授したもうのである。それは大悟を面授するのであり、心印を面授するのであるが、それは一部の特別のことである。すべてを尽くしたというわけではない。まだ悟らないことについては、かならずしもかかわらないのである。

おおよそ仏祖の大道においては、ただ面授と面授のみである。面(おもて)に受け、面に授けるのみである。そのほかには、なんの余計なものもなく、それで欠くるところもない。そのような面授をいただくことができた自己の面目というものも、また大いに歓び、また大事にしなければならない。(374~375頁)

■承古よ、いまなんじは雲門大師を知り、また雲門大師を見るという。たとい、そのことは許すとしても、いったい、雲門大師はまのあたりになんじを見たのであろうかどうか。もし雲門大師がなんじを見なかったならば、なんじは雲門大師を嗣ぐとはいうことを得ないであろう。それは、雲門大師がまだなんじを許していないことであるから、なんじもまた、雲門大師がわたしを見させたもうたとはいわなかった。それでも判るではないか。なんじはいまだ雲門大師と相見(あいまみ)えたことはないということが。(380~381頁)

坐 禅 儀 (ざぜんぎ)

■そのようにぴたりと坐って、かの不思量のところを思量するのである。では、不思量のところを、どのように思量すべきか。それはもはや思量ではない。それがとりもなおさず坐禅のこつである。

坐禅とは、禅定(じょう)を修することではない。それは大安楽の法門であり、絶対の修行なのである。(392頁)

渓声余韻5(岡野注;増谷文雄のあとがき)

■わたしは、いぜんから考えているのだが、宗教者の動機というものは、どういう具合に追求したならばよいものであろうか。たとえば、親鸞は、関東二十年の念仏教化のことをやめて、久々に京都に帰ってきた。おおよそ嘉禎元年(1235)のころのことであるが、いったい、親鸞はどうしてここで念仏教化のことををやめて、京都に帰ってきたのであろうか。それについては、まだ研究者たちのあいだに定説というものはない。

なかには、あたかもそのころ、念仏弾圧のうごきが顕著になってきたからであると、そんなことをいう研究者もあるようであるが、わたしには、とてもそんなことは考えられないのである。もしそうであったとするならば、親鸞という人は、自分がすすめて念仏申させた人々が、いざ弾圧されるという段になると、さっさと京都に帰ってしまったということになるではないか。そんなことがあってたまるものかとわたしは思う。どうも、宗教者の行動の動機というものは、一般人の寸法では捉えがたいらしい。そこは、もうすこし内なる深きところの動きを訪ねてみなければならないようである。

いま、道元は、おおよそ十年にわたって築いてきた興聖宝林寺を、弊履のように捨てさって、越前山中の古寺に入った。その間の消息については、簡単ながら、『建撕記』の筆者のいうところをもって記しておいた。事の次第はそうであったにちがいあるまい。またそこには、「我が望むところは安閑無事なり」とて、その心の一端をも開示されている。だが、それにもかかわらず、この越前行の動機は、なお大きな疑問として、はやくから、いろいろとろんぜられている。

わたしもまた、はやいころから、そのことを疑問として、道元の内なる心のふかきところに注目していたのであるが、まず、気がついたことは、その前後、ちまり、越前行の前後に、道元の内なる思想にいちじるしい展開が観取せられるということである。それをいま、この『正法眼蔵』の巻々について指摘するならば、さきに現代語訳した「仏教」の巻、そして、いまここに現代語訳した「仏道」の巻と「仏経」の巻をご覧になっていただきたいと思う。(396~398頁)

■それらの三巻が、それぞれ制作され、かつ衆に示された時日を列記すれば、つぎのようである。

1「仏教」仁治二年(1241)十一月十四日、興聖宝林寺において衆に示された。

2「仏道」寛元元年(1243)九月十六日、越前の吉峰寺において衆に示された。

3「仏経」寛元元年(1243)九月(日付なし)、越前の吉峰寺において衆に示された。

つまり、道元の越前行は寛元元年七月のことだからであるから、それらの三巻はそれぞれその前後三年ばかりの間における制作・示衆であると知られる。

しかるところ、それらの三巻は、すでにそれぞれの巻題が示唆しておるように、いずれも真正面から道元の仏教論を吐露したものであるが、その内容はまことに注目すべきものをもって充たされている。そのことは、すでにそれぞれの巻の開題において触れたところであるが、いま、もう一度、それらの要点を並べ記してみると、つぎのようである。

まず、最初の「仏教」の巻の内容は、ずばりといえば、いわゆる「教外別伝」の主張を「謬説(びゅうせつ)」なりとして却(しりぞ)けるものである。誰もよく知るように、「教外別伝」とは、禅門のよってなる根本の主張であるように考えられている。そして、道元その人は、その門にまなんだ仏祖の眼睛(ぜい)を正(しょう)伝せられた人として立っている。その人がいまここに、

「しかあれども、教外別伝を道取する漢、いまだこの意旨をしらず。かるがゆゑに、教外別伝の謬説を信じて仏教をあやまることなかれ」

といい、また、

「おほよそしるべし、三乗十二分経等は仏祖の眼睛なり。これを開眼せざらんもの、いかでか仏祖の児孫ならん」

という。いったい、どうしたことかといわざるをえないではないか。

しかるに、道元は、さらに「仏道」の巻においては、「禅宗」の称を否定する。いや、「禅宗」の称のみならず、雲門宗・法眼宗・潙仰宗・臨済宗・曹洞宗など、いわゆる五家の別などを立てることをも、きっぱりと否定しているのである。なかでも、わたしは、

「仏仏正伝の大道を、ことさら禅宗と称するともがら、仏道は未夢見在なり、未夢聞在なり、未夢伝在なり。……しるべし、禅宗の称は、魔波旬の称するなり」

という一節を忘れることができない。

また、「仏経」の巻は、その巻頭からも容易に想像できるように、仏教者にとっては、経巻が不可欠の「大道の調度」であることを力説したものである。しかるに、世の禅家を名告(なの)る人々には、ともすれば「みだりに仏経をさみす」るものがおおい。道元はそれらを断乎として却けていう。

「もし仏経なげすつべくば、臨済・雲門をもなげすつべし。仏経もしもちゐるべからずば、のむべき水もなし、くむべき杓(しゃく)もなし」

「しかあればすなはち、仏道にさだめて仏経あることをしり、広文深義を山海に参学して、弁道の標準とすべきなり」

そこにもまた、禅門にあっては容易に聞きがたいものが打ち出されている。だからといって、それで、さきにいう越前行の秘密が解けるわけではない。わたしのいまいわんとするところは、ただ、ここにもまた道元の内なる思想にいちじるしい展開があったというだけのことである。そして、その越前行の秘密については、さらに重ねて申さねばならないことがあるのである。(398~400頁)

(2016年5月14日)

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