岡野岬石の資料蔵

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『仏陀』増谷文雄 著 角川選書ー18

(2021年)

投稿日:

読書ノート(2021年)

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『悪魔との対話(サンユッタ•ニカーヤⅡ)』中村 元 訳 岩波文庫

第1集 詩句をともなった集

第Ⅳ篇 悪魔についての集成

第1章

第1節 苦行と祭祀の実行

■わたしはこのように聞いた。或るとき尊師は、ネーランジャラー河の岸辺で、ウルヴェーラ〔村〕において、アジャパーラというニグローダ樹(=バニヤンの樹)のもとにとどまっておられた。さとりを開かれたばかりのときであった。

□さて尊師が独り静かに坐して瞑想しておられたときに、次のように思われた、――「わたしは、もはや苦行から解放された。わたしが、あの〈ためにならぬ苦行〉から解放されたのは、善いことだ。わたしが安住し、心を落ち着けて、さとりを達成したのは、善いことだ」と。

□そのとき悪魔(注1)・悪しき者(注2)は、尊師が心で思われたことを知って、尊師のところにおもむいた。近づいてから、尊師に詩を以て語りかけた。――-

□「人々は苦行によって浄められるのに、

その苦行から離れて、

清浄に達する道を逸脱して、

浄くない人が、みずから浄しと考えている」と。

□そこで尊師は、「この者は悪魔・悪しき者なのだ」と知って、悪魔・悪しき者に次の詩を以て答えた。――

「不死に達するための苦行なるものは、

すべてためにならぬものであると知って、――

乾いた陸地にのり上げた船の舵や艪のように、

全く役に立たぬものである。

さとりに至る道――戒めと、精神統一と、智慧と――を修めて、

わたしは最高の清浄に達した。破滅をもたらす者よ。お前は打ち負かされれたのだ。」

□そこで悪魔・悪しき者は、「尊師はわたしのことを知っておられるのだ。幸せな方はわたしのことを知っておられるのだ」と気づいて、打ち萎れ、憂いに沈み、その場で消え失せた。(13~14頁)

(注1)悪魔;Mara. その語句は、「自分の領域を超えようと実行した人々を殺す」。(中略)悪魔は単数で、唯だ一人と見なされている。多数の悪魔が現われて誘惑したという仏伝の伝説は、後代になって成立したものであり、最初期のものではない。

(注2)悪しき者;その語義は、「他人を悪になずませる、あるいはみずから悪になずむ」という意味である。(303~304頁)

第2節 象

■わたしはこのように聞いた。或るとき尊師は、ネーランジャラー河の岸辺で、ウルヴェーラ〔村〕において、アジャパーラというニグローダ(バニヤン)樹のもとにとどまっておられた。さとりを開かれたばかりのときであった。そのとき尊師は、夜のくら闇の中で戸外で露地に坐しておられた。雨がしとしとと降っていた。

□さて悪魔・悪しき者は、尊師に、髪の毛がよだつような恐怖を起こさせようとして、大きな象王のすがたを現わし出して、尊師に近づいた。

□譬(たと)えば、かれの頭は、黒い岩塊のようであった。かれの牙は、純なる銀のようであった。かれの鼻は大きな鋤のへらのようであった。

□そのとき、尊師は「これは悪魔・悪しき者である」と知って、悪魔・悪しき者に詩で語りかけた。――

「長いあいだの輪廻にわたって、きよらかな、また嫌らしいすがたをしてきたが――そなたはそれだけで充分なはずだ。悪しき者よ。お前は打ち負かされたのだ。破滅をもたらす者よ。」

□そこで悪魔・悪しき者は、「尊師はわたしのことを知っておられるのだ。幸せな方はわたしのことを知っておられるのだ」と気づいて、打ち萎れ、憂いに沈み、その場で消え失せた。(15頁)

第8節 歓 喜

■わたしはこのように聞いた。或るとき尊師は、サーヴァッティー市で、ジュータ林・〈孤独な人々に食を給する人〉の園にとどまっておられた。

□そのとき悪魔・悪しき者は、尊師に近づいた。近づいてから、尊師のもとで、この詩句をとなえた。

「子ある者は子について喜び、また牛のある者は牛について喜ぶ。

人間の喜びは、執著するよりどころによって起こる。

執著するよりどころのない人は、実に、喜ぶことがない。」

□〔尊師いわく、――〕

「子ある者は子について憂い、また牛のある者は牛について憂う。

人間の憂いは執著するよりどころによって起こる。

実に、執著するよりどころのない人は、憂うることがない。」

□そこで悪魔・悪しき者は、「尊師はわたしのことを知っておられるのだ。幸せな方はわたしのことを知っておられるのだ」と気づいて、打ち萎れ、憂いに沈み、その場で消え失せた。(22~23頁)

第10節 寿 命⑵

■〔或るとき尊師は〕王舎城に〔とどまっておられた。〕

そこで尊師は次のように言われた。――

 「修行僧たちよ。この人間の寿命は短い。来世には行かねばならぬ。善をなさねばならぬ。清浄行を行わねばならぬ。生まれた者が死なないということはあり得ない。たとい永く生きたとしても、百歳か、あるいはそれよりも少し長いだけである」と。

□そこで悪魔・悪しき者は、尊師に近づいた。近づいてから詩を以て尊師に語りかけた。――

「昼夜は過ぎ去らぬ。生命はそこなわれない。

人の寿命はめぐり廻天する。――車輪の幅がこしきのまわりをめぐり廻天するように」と。

□〔尊師いわく、――〕

「昼夜は過ぎ行き、生命はそこなわれ、人間の寿命は尽きる。――小川の水のように。」

□そこで悪魔・悪しき者は、「尊師はわたしのことを知っておられるのだ。幸せな方はわたしのことを知っておられるのだ」と気づいて、打ち萎れ、憂いに沈み、その場で消え失せた。(24~25頁)

第2章

第1節 岩 石

■或るとき尊師は、王舎城の〈鷲の峰〉という山にとどまっておられた。

□そのとき尊師は、夜のくら闇に中で戸外で露地に坐しておられた。雨がしとしとと降っていた。

□さて悪魔・悪しき者は、尊師に、髪の毛がよだつような恐怖を起こさせようとして、尊師に近づいた。近づいてから、尊師から遠からぬところで、次々と大きな岩石を〔山頂から突き落として〕砕いた。

□そのとき、尊師は「これは悪魔・悪しき者である」と知って、悪魔・悪しき者に向かって、詩詩を以て語りかけた。――

「たとい〈鷲の峰〉全体が震え動くことがあろうとも、

完全に解脱したブッダたちは、動揺することがない。」

□そこで悪魔・悪しき者は、「尊師はわたしのことを知っておられるのだ。幸せな方はわたしのことを知っておられるのだ」と気づいて、打ち萎れ、憂いに沈み、その場で消え失せた。(26頁)

第2節 獅 子

■或るとき尊師は、サーヴァッティー市で、ジュータ林・〈孤独な人々に食を給する人〉の園にとどまっておられた。そのとき尊師は、多数の会衆に囲まれて、法を説いておられた。

□そのとき悪魔・悪しき者は、次のように思った、――「ここで、修行者ゴータマは、多数の会衆に囲まれて、法を説いている。わたしは修行者ゴータマに近づいて、眩惑させてやったら、どうだろう。」

□そこで悪魔・悪しき者は、尊師に近づいた。近づいて、尊師に向かって、詩を以て語りかけた。――

「あなたは、会衆のうちにあっても畏れることなく、獅子が吼えるように(注1)、声をひびかせるのは、なぜですか。

あなたにとって好敵手としての力士がここにいるのです。あなたはは、すでに勝利を博したと思いますか?」

□〔尊師いわく、――〕

「偉大な健き人たち(注2)は、諸々の会衆のうちにあっても畏れることなく、歓んでいます。諸々の修行完成者は、〔智慧の〕力を得て、世間にありながら執著をのり超えている。」

□そこで悪魔・悪しき者は、「尊師はわたしのことを知っておられるのだ。幸せな方はわたしのことを知っておられるのだ」と気づいて、打ち萎れ、憂いに沈み、その場で消え失せた。(27~28頁)

(注1)獅子が吼えるように;ここから「獅子吼」という表現が成立したのである。

(注2)偉大な健き人たち;mahavira. 諸々もブッダのことで、次に出てくる tathagata と同義である。漢訳仏典ではしばしば「大雄(だいおう)」と訳す。

第3節 岩 の 破 片

■わたしはこのように聞いた。或るとき尊師は、王舎城のうちのマッダクッチという〈鹿の園〉にとどまっておられた。

□そのとき尊師の足が岩の破片で傷つけられた。実に尊師の苦痛は、身に答え、激しく、苦しく、烈しく、ひどく、鋭く、不快で、不愉快であった。それらの苦痛のうちにあっても、尊師は、よく気を落ち着けて、はっきりと自覚して、心の害われることなく、堪え忍んでおられた。

□そこで悪魔・悪しき者は、尊師に近づいた。近づいてから、尊師に向かって、詩を以て語りかけた。――

「あなたは、ものぐさで臥(ね)ているのですか?あるいは詩作に耽って臥ているのですか?

あなたのなすべき事柄は、数多くあるのではありませんか。

人里はなれた休息所に、眠そうな顔をして、独りで、このように眠りに耽っているのはどうしてですか?」と。

□〔尊師いわく、――〕

「わたしは、ものぐさで臥ているのではない。また詩作に耽って臥ているのではない。

わたしは目的を達成し、憂いを離れている。

わたしは、一切の生きとし生けるものを憐んで、人里はなれた休息所に、ひとり臥すのである。

矢が胸を貫いて、心臓が激しくどきどきと動悸している人々でも、

矢がささっているのに、眠ることができる。

〔煩悩の〕矢を離れたわたしがどうして眠らないということがあろうか。

めざめているが気がかりもなく、また眠るのを恐れることもない。

夜も昼も、わたしを後悔させて苦しめることがない。

世の中のどこにも、わたしは害(そこな)いを見ない。

それ故に、一切の生きとし生けるものどもを憐みながら、われは眠る。」

□そこで悪魔・悪しき者は、「尊師はわたしのことを知っておられるのだ。幸せな方はわたしのことを知っておられるのだ」と気づいて、打ち萎れ、憂いに沈み、その場で消え失せた。(28~29頁)

第5節 こ こ ろ

■わたしはこのように聞いた。或るとき尊師は、ジュータ林・〈孤独な人々に食を給する人〉の園にとどまっておられた。

□そのとき悪魔・悪しき者は、尊師に近づいた。近づいてから、尊師のもとに向かって、詩を以て語りかけた。――

「かけ廻るこのこころは、虚空のうちにかけられたわなである。

そのわなによって、そなたを縛ってやろう。修行者よ。そなたはわたしから脱れることはできないであろう。」

□〔尊師いわく、――〕

「快く感ぜられる色かたち、音声、味、香り、触れられるもの(注)、――

これらに対するわたしの欲望は去ってしまった。そなたは打ち負かされたのだ破滅をもたらす者よ。」

□そこで悪魔・悪しき者は、「尊師はわたしのことを知っておられるのだ。幸せな方はわたしのことを知っておられるのだ」と気づいて、打ち萎れ、憂いに沈み、その場で消え失せた。(31頁)

(注)快く……触れられるもの;ここでは五官の対象になずむこと、五欲を去ることを教えている。六入(六境)の説の成立する以前の段階のものであることを示している。(316頁)

第6節 鉢

■〔尊師は〕サーヴァッティー市にとどまっておられた。そのとき尊師は個体を構成する5要素(5取蘊)に関して、諸々の修行僧たちに、法に関する講和によって説き示し、勧め、励まし、喜ばせた。またそれらの修行僧たちは、意義を理解し、注意し、心の全体を傾倒し、耳を傾けて、教えを聞いた。

□そのとき悪魔・悪しき者は、このように思った。――「ここで修行僧ゴータマは、個体を構成する5要素に関して、諸々の修行僧たちに、法に関する講和によって説き示し、勧め、励まし、喜ばせた。またそれらの修行僧たちは、意義を理解し、注意し、心の全体を傾倒し、耳を傾けて、教えを聞いた。では、わたしは修行僧ゴータマに近づいて、眩惑してやったらどうだろう。」

□そのときに、多くの鉢が、〔乾かすために〕屋外に置かれていた。

そのとき一人の修行僧が他の修行僧にこのように言った、――「修行僧よ、修行僧よ。この牡牛はこれらの鉢を破壊するであろう」と。

□このように言われたときに、尊師はその修行僧にこのように言われた。――「修行僧よ。これは牡牛ではない。これは悪魔・悪しき者が、そなたらを眩惑するためにやってきたのだ。」

□さて尊師は、「これは悪魔・悪しき者なんのだ」と知って、悪魔・悪しき者に向かって詩を以て語りかけられた。――

「色かたちと、感受作用と、表象作用と、識別作用と、形成されたもの(注)と、――

わたしはこれではない。またこれは、わたしに属するものではない。このように観じて、わたしはそれらについての執著を離れる。

このように執著を離れて、安穏に達し、一切の束縛を超えている者を、

魔軍がいかなる場所に探し求めても、見出すことができなかった。」

□そこで悪魔・悪しき者は、「尊師はわたしのことを知っておられるのだ。幸せな方はわたしのことを知っておられるのだ」と気づいて、打ち萎れ、憂いに沈み、その場で消え失せた。(32~33頁)

(注)形成されたもの;ここに挙げられている5種の構成要素を、仏教の教義学では五蘊(五陰)という。この5つによって個人存在が構成されているのであるが、凡夫はその一つ一つについて執著を起こす。(316頁)

第8節 施 し の 食 物

■或るとき尊師は、マガダ国のうちのパンチャサーラー(5本の沙羅樹)という名のバラモン村に住しておられた。

□そのときパンチャサーラーというバラモン村では、若い男女が互いに贈物をする習俗があった。

□さて尊師は朝早く衣を着て、鉢と重衣とを身に受けて、パンチャサーラーというバラモン村に、托鉢のために入って行かれた。

□そのときパンチャサーラー村に住むバラモンや資産者たちは、悪魔・悪しき者にとりつかれていた。――「修行者ゴータマが托鉢の食物を得ることができないように、――」と。

□さて尊師は、洗った鉢をもってパンチャサーラーというバラモン村に托鉢のために入って行ったが、やはり鉢を洗ったままで帰ってきた。

□そのとき悪魔・悪しき者は、尊師に近づいた。近づいてから、尊師に次のように言った。――「修行僧よ。施しの食物を得たかね?」

□「悪しき者よ、わたしが施しの食物を得ないように、お前がそうさせたのではないか。」

□「では、尊いお方! パンチャサーラーというバラモン村に再び入って行きなさい。尊師が施しの食物を得られるように、わたしははからいましょう。」

「悪魔は、如来を襲うという禍いをかもし出した(注1)。悪しき者よ。そなたは何を考えているのだ? わたしには、悪の報いは起こらない。

われらは、何物をももっていないが、さあ、大いに楽しく生きて行こう。

光り輝く神々のように、喜びを食(は)む者となるだろう。」

□そこで悪魔・悪しき者は、「尊師はわたしのことを知っておられるのだ。幸せな方はわたしのことを知っておられるのだ」と気づいて、打ち萎れ、憂いに沈み、その場で消え失せた。(35~36頁)

(注1)如来を襲うという禍いをかもし出した;その趣意は、パンチャサーラー村のバラモンたちは、ゴータマブッダという修行僧に施しをすれば、それによって功徳を積むことができたはずであるのに、悪魔がバラモンたちをそそのかして、ブッダに施しをさせないようにさせたから、功徳を生ずる機会を奪ったことになり、したがって禍をかもしだしたということになるからである。ちなみにこの箇所からも見られるように、バラモンたちがゴータマ・ブッダに施与をすることは当り前のことであり、ただ悪魔が邪魔をしたというだけにすぎないのであるから、バラモン教と仏教とは二者択一的な矛盾関係にあったのではないという事情が知られる。キリスト教対イスラム教というような関係ではないのである。

(注2)大いに楽しく生きて行こう;相当漢訳には「正史(たとい)所有がなくても、安楽に自活せむ。常に欣悦を食とせむ」という。これが仏教徒の生活理想だったのである。(319頁)

第9節 耕 作 者

■サーヴァッティー市がゆかりの場所である。そのとき尊師は、諸々の修行僧たちに、ニルヴァーナに合致する法に関する講話によって、説き示し、勧め、励まし、喜ばせた。またそれらの修行僧たちは、意義を理解し、注意し、心の全体を傾倒し、耳を傾けて、教えを聞いた。

□そのとき悪魔・悪しき者は、このように思った。――「ここで修行僧ゴータマは、諸々の修行僧たちに、ニルヴァーナに合致する法に関する講和によって、説き示し、勧め、励まし、喜ばせた。またそれらの修行僧たちは、意義を理解し、注意し、心の全体を傾倒し、耳を傾けて、教えを聞いた。では、わたしは修行僧ゴータマに近づいて、眩惑してやったらどうだろう。」

□さて悪魔・悪しき者は、農夫のすがたを現わし、大きな鋤を肩にかけて、長い(牛追いの棒)を手にして、髪をふり乱し、大麻の衣を着て、足は泥にまみれたままで、尊師に近づいた。近づいてから尊師に次のように言った、――

□「修行僧よ。牡牛を見ましたか?」

□「悪しき者よ。どうしてお前は牡牛に用があるのか?」

□「修行者よ。眼はわたしのものです。色かたちはわたしのものです。眼が〔対象に〕触れて起こる識別領域はわたしのものだ。そなたは、どこに行ったら、わたしから脱れられるのだろうか?

嗅覚作用はわたしのものだ。香りはわたしのものだ。嗅覚作用が〔対象に〕触れて起こる識別領域はわたしのものだ。そなたは、どこに行ったら、わたしから脱れられるのだろうか?

舌はわたしのものだ。味はわたしのものだ。舌が〔対象に〕触れて起こる識別領域はわたしのものだ。そなたは、どこに行ったら、わたしから脱れられるのだろうか?

身体はわたしのものだ。触れられるものは、わたしのものだ。触れられるものは、わたしのものだ。そなたは、どこに行ったら、わたしから脱れられるのだろうか?

心はわたしのものだ。心で考えられるものも、わたしのものだ。心の接触から起こる識別領域は、わたしのものだ。そなたは、どこに行ったら、わたしから脱れられるのだろうか。」

□「悪しき者よ。眼はそなたのものである。色かたちはそなたのものである。眼の接触から生じた識別領域はそなたのものである。しかし眼が存在せず、色かたちが存在せず、眼の接触から生ずる識別領域が存在しないところには、そなたの行くべき通路は存在しない。

□悪しき者よ。聴覚作用はそなたのものである。音声はそなたのものである。聴覚作用の接触から生じた識別領域はそなたのものである。しかし聴覚作用が存在せず、音声が存在せず、聴覚作用の接触から生ずる識別領域が存在しないところには、そなたの行くべき通路は存在しない。

□悪しき者よ。嗅覚作用はそなたのものである。香りはそなたのものである。嗅覚作用の接触から生じた識別領域はそなたのものである。しかし嗅覚作用が存在せず、香りが存在せず、嗅覚の接触から生ずる識別領域が存在しないところには、そなたの行くべき通路は存在しない。

□悪しき者よ。舌はそなたのものである。諸々の味はそなたのものである。舌の接触から生じた識別領域はそなたのものである。しかし舌が存在せず、諸々の味が存在せず、舌から生ずる識別領域が存在しないところには、そなたの行くべき通路は存在しない。身体はそなたのものである。触れられるものは、そなたのものである。身体の接触から生じる識別領域はそなたのものである。しかし身体が存在せず、触れられるものが存在せず、身体から生ずる識別領域が存在しないところには、そなたの行くべき通路は存在しない。

□悪しき者よ。心はそなたのものである。考えられるものはそなたのものである。しかし心が存在せず、考えられるものが存在せず、心の接触から生ずる識別領域が存在しないところには、そなたの行くべき通路は存在しない。」

□〔悪魔いわく、――〕

「人々が『これがわがものである』と語るところの物、

『〔これは〕わがものである』と語る人々、――

そなたのここおがそこにとどまるならば、修行者よ、そなたは、わたしから脱れることはできないであろう。」

□〔尊師いわく、――〕

「人々が〔わがものであると執著して〕語るところの物、それは、わたしに属するものではない。

〔執著して〕語る人々がいるが、わたしはかれらのうちの一人ではない。

このように知れ。悪しき者よ。そなたは、わたしの行く道をも見ないであろう。」

□そこで悪魔・悪しき者は、「尊師はわたしのことを知っておられるのだ。幸せな方はわたしのことを知っておられるのだ」と気づいて、打ち萎れ、憂いに沈み、その場で消え失せた。(39~40頁)

第3章(さらに5つの経)

第5節 娘 たち

■傍らに立った悪魔の娘・〈愛執〉は、尊師に詩を以て話しかけた。――

「あなたは悲しみに沈んで、森の中で瞑想しているのですか? それとも、なくした財を取り戻そうとしているのですか?

あなたは村のなかで、なにか罪を犯したのですか?

何故に人々とつき合わないのですか?

あなたは、だれとも友にならないのですか?」と。

□〔尊師いわく、――〕

「愛しく快いすがたの軍勢に打ち勝って、

目的の達成と心の安らぎ、楽しいさとりを、わたしは独りで思っているのです。

それ故にわたしは人々とつき合わないのです。

わたしは、だれとも友にならない。」

□そのとき悪魔の娘・〈不快〉は、尊師に詩を以て話しかけた。――

「修行僧はこの世で、どのように身を処すること多くして、5つの激流を渡り、ここに第6の激流をも渡ったのですか?

どのように多く瞑想するならば、外界の欲望の想いがその人をとりこにしないのですか?」と。

□〔尊師いわく、――〕

「身は軽やかで、心がよく解脱し、

迷いの生存をつくり出すことなく、しっかりと気を落ち着けていて、執着することなく、

真理を熟知して、思考することなく瞑想し、

怒りもせず、〔悪を〕憶い出すこともなく瞑想し、

このように身を処することの多い修行僧は、この世で5つの激流を渡り、

ここに第6の激流までも渡った。

このように多く瞑想するならば、外界の欲望の想いがその人をとりこにすることがない。」(60~61頁)

■〈愛執〉と〈不快〉と〈快楽〉とは、光り輝いてやってきたが、風神が柔毛と落場とを吹き払うように、師はそこで彼女らを追い払われた。(62頁)

第Ⅴ篇 尼僧に関する集成

第3節 ゴータミー尼

■サーヴァッティー市がゆかりの場所である。

ときにキサー・ゴータミー尼は、早朝に衣をつけ、鉢と衣とを手に執って、托鉢のためにサーヴァッティー市に入って行った。

□サーヴァッティー市で托鉢したのち、食後に、食事から還ってきて、昼間の休息のために、うす暗い密林におもむいた。うす暗い密林をかき分けて入って、昼間の休息のために、ある樹木の根もとに坐した。

□そのとき悪魔・悪しき者は、キサー・ゴータミー尼に、身の毛もよだつほどの恐怖を起こさせようとして、瞑想から離れ去らせようとして、キサー・ゴータミー尼に近づいた。近づいてから、キサー・ゴータミー尼に向かって、詩を以て語りかけた。――

「あなたは子を失った母のように、顔に涙を流しながら独りで坐しているのは、なぜなのか?

そなたが独りで森をかき分けて入り、〔独りで樹の根もとに坐しているのは、〕男を求めているからなのか?」

□そこで、キサー・ゴータミー尼は、このように思った。――「これは、悪魔・悪しき者が、わたしに、身の毛もよだつほどの恐怖心を起こさせようとして、瞑想をやめさせようとして、詩をとなえているのだ」と。

□さてキサー・ゴータミー尼は、「これは悪魔・悪しき者である」と知って、詩を以て語りかけた。――

「わたしは、もうすっかり子を亡くしてしまいました。男たちも、それと同じく過ぎ去ってしまいました。

わたしは悲しみもせず、泣きもしません。友よ。わたしはあなたを恐れません。

快楽の喜びは、いたるところで壊滅され、〔無明の〕闇黒(あんこく)の塊りは、破り砕かれました。

死の軍勢に打ち勝って、わたしは汚れなく暮らしています」と。

□そこで悪魔・悪しき者は、「キサー・ゴータミー尼はわたしのことを知っているのだ」と気づいて、打ち萎れ、憂いに沈み、その場で消え失せた。(69~70頁)

第5節 蓮 華 色 尼 (れんげしきに)

■サーヴァッティー市がゆかりの場所である。

そのとき蓮華色(ウッパラヴァンナー)尼は、早朝に衣をつけ、鉢と衣とを手に執って、托鉢のためにサーヴァッティー市に入って行った。

サーヴァッティー市で托鉢したのち、食後に、食事から還ってきて、昼間の休息のために、うす暗い密林に入った。うす暗い密林をかき分けて入って、昼間の休息のために、美しく花の咲いた或るサーラ(沙羅)樹の根もとに坐していた。

□そのとき悪魔・悪しき者は、蓮華色尼に、身の毛もよだつほどの恐怖を起こさせようとして、瞑想から離れ去らせようとして、蓮華色尼に近づいた。

□近づいてから、蓮華色尼に向かって、詩を以て語りかけた。――

「修行する尼よ。頂きに花が咲き誇っている樹に近づいて、あなたは独りで、サーラ樹の根もとに立っておられる。そうして、あなたの美しい容色には並ぶ者がいない。

愚かな女よ。そなたは悪人どもをおそれないのですか。」

□そこで、蓮華色尼は、このように考えた、――「詩をとなえているこの者は、誰なのだろう? 人間なのであろうか? あるいは人間ならざる者なのであろうか?」と

□そこで蓮華色尼は、「これは、悪魔・悪しき者である」と知って、詩を以て語りかけた。――

「汝のように悪だくみののある者どもが、ここに千人の百倍来ようとも、わたしは一本の毛筋も動かしません。驚きはしません。悪魔よ。わたしはそなたを恐れはしません。――たとい独りでいても。」と。

□〔悪魔いわく、――〕

「わたしは、ここで姿を消して、そなたの腹に入ろう。そなたの眉間のあいだに立ったとしても、そなたはわたしを見ることはできないだろう。」

□〔尼いわく、――〕

「心を制して自在となっているから、わたしは神通をよく修めている。

わたしは一切の束縛から解脱している。友よ、わたしは、そなたを恐れはしない。」

□そこで悪魔・悪しき者は、「蓮華色尼はわたしのことを知っているのだ」と気づいて、打ち萎れ、憂いに沈み、その場で消え失せた。(72~74頁)

第7節 ウバチャーラ尼

■〔或る時尊師は〕サーヴァッティー市に〔とどまっておられた。〕

□そのときウバチャーラ尼は、早朝に衣をつけ、鉢と衣とを手に執って、托鉢のためにサーヴァッティー市に入って行った。サーヴァッティー市で托鉢したのち、食後に、食事から還ってきて、昼間の休息のために、うす暗い密林に入った。

うす暗い密林をかき分けて入って、昼間の休息のために、或る樹木の根もとに坐していた。

そのとき悪魔・悪しき者は、ウパチャーラ尼に近づいた。近づいてから、ウパチャーラ尼に向かって、次のように言った。――「尼さま。あなたは、どこに生まれようと望まれるのですか?」と。

□〔尼いわく、――〕「友よ。わたしはどこにも生まれようとは望みません。」

□〔悪魔いわく、――〕

「三十三神と、ヤーマ天の神々と、トゥシタ(兜率)天の神々と、化楽(けらく)天の神々と、〔他化(たけ)〕自在天の神々、――〔かって以前のあなたが住んだ〕そのところに、〔生まれようと願って〕心を専念なさい。〔そこへ生まれたならば〕あなたは快楽の喜びを享受するでしょう。」

□〔尼いわく、――〕

「三十三神(忉利天)と、ヤーマ天の神々と、トゥシタ(兜率)天の神々と、化楽天の神々と、〔他化(たけ)〕自在天の神々。

かれらは愛慾の絆に縛られて、もとどおり悪魔に支配されます。

この世はすべて燃えています。この世はすべて煙っています。この世はすべて炎を吐いています。この世はすべて震えています。

しかし震えず、動揺せず、凡俗の人々の親しみなじむことなく、悪魔の至り得ないところ、――-

そこでわたしの心は楽しんでいるのです。」

□そこで悪魔・悪しき者は、「ウパチャーラ尼はわたしのことを知っているのだ」と気づいて、打ち萎れ、憂いに沈み、その場で消え失せた。(75~77頁)

第9節 セーラー尼

■〔或る時尊師は〕サーヴァッティー市に〔とどまっておられた。〕

□そのときセーラー尼は、早朝に衣をつけ、鉢と衣とを手に執って、托鉢のためにサーヴァッティー市に入って行った。サーヴァッティー市で托鉢したのち、食後に、食事から還ってきて、昼間の休息のために、うす暗い密林に入った。

うす暗い密林をかき分けて入って、昼間の休息のために、或る樹の根もとに坐していた。

□そのとき悪魔・悪しき者は、セーラー尼に、身の毛もよだつほどの恐怖を起こさせようとして、瞑想から離れ去らせようとして、セーラー尼に近づいた。近づいてから、セーラー尼に向かって、詩を以て語りかけた。――

「だれがこの個体を作ったのですか? 個体の作者(つくりて)はどこにいるのですか?

この個体はどこから生じ、この個体はどこで滅びるのですか?」と。

□そこでセーラー尼は、このように考えた。――「詩をとなえているこの者は、誰なのだろう? 人間なのであろうか? あるいは人間ならざる者であろうか?」と。

□つづいてセーラー尼は、このように思った。――「これは、悪魔・悪しき者が、わたしに、身の毛もよだつほどの恐怖を起こさせようとして、瞑想から離れ去らせようとして、詩をとなえているのだ」と。

□そこでセーラー尼は、「これは悪魔・悪しき者である」と知って、悪魔・悪しき者に詩を以て語りかけた。――

「この個体は自分の作ったものではない。この個体は他人の作ったものではない。

原因に依って生じ、原因が滅びたならば〔個体も〕滅びる。

譬えば、或る種子が、田に播かれて、地味と湿潤との両者とに依って生えて成長するように、そのように〔六つの〕認識領域は、

原因に依って生じ、原因が滅びたならば滅びるのである。」

□そこで悪魔・悪しき者は、「セーラー尼はわたしのことを知っているのだ」と気づいて、打ち萎れ、憂いに沈み、その場で消え失せた。(79~80頁)

第10節 ヴァジラー尼

■〔或る時尊師は〕サーヴァッティー市に〔とどまっておられた。〕

□そのときヴァジラー尼は、早朝に衣をつけ、鉢と衣とを手に執って、托鉢のためにサーヴァッティー市に入って行った。サーヴァッティー市で托鉢したのち、食後に、食事から還ってきて、昼間の休息のために、うす暗い密林におもむいた。

うす暗い密林をかき分けて入って、昼間の休息のために、或る樹の根もとで、休息のために坐していた。

□そのとき悪魔・悪しき者は、ヴァジラー尼に、身の毛もよだつほどの恐怖を起こさせようとして、瞑想に耽るのをやめさせようとして、ヴァジラー尼に近づいた。近づいてから、ヴァジラー尼に詩を以て語りかけた。――

□「この生ける者は、誰が作ったのか? 生ける者の作者(つくりて)はどこにいるのか? 生ける者はどこから生じるのか。生ける者はどこに滅びるのか?」と。

□ところでヴァジラー尼は、このように思った。――「詩をとなえているこの者は、誰なのだろう? 人間であるのか? あるいは人間ならざる者であろうか?」と。

□ついでヴァジラー尼は「これは、悪魔・悪しき者が、わたしに、身の毛もよだつほどの恐怖を起こさせようとして、瞑想に耽るのをやめさせようとして、詩をとなえたのだ」と。

□ついでヴァジラー尼は、「これは悪魔・悪しき者である」と知って、悪魔・悪しき者に向かって詩を以て答えた。――

「そなたは何故に〈生ける者〉というものを認めるのか? 悪魔よ。汝は悪しき見解をいただいている。

この〈生ける者〉はただ諸々の形成されたものの集合である。ここに〈生ける者〉は認められない。

譬えば実に諸々の部分が集まったならば「車」という名称が起こるように、それと同じく、5つの構成要素(五蘊)が存在するのに対して〈生ける者〉という仮りの想いが起こるのである(注)。

実に苦しみがおこり、苦しみがとどまりかつ滅びてゆく。

苦しみのほかには、なにものも生起しない。苦しみのほかには、なにものも滅びない」と。

□そこで悪魔・悪しき者は、「ヴァジラー尼はわたしのことを知っているのだ」と気づいて、打ち萎れ、憂いに沈み、その場で消え失せた。(80~82頁)

(注)仮の想いが起こるのである;この詩句は、無我説の論拠を示すものとして、後世に有名になった。『ミリンダ王の問い』などにも引用されている。(333頁)

第Ⅵ篇 梵天に関する集成

第1章

第1節 懇 請

■わたしはこのように聞いた。或るとき尊師は、ウルヴェーラで、ネーランジャラー河の岸辺で、アジャパーラという名のバニヤンの樹の根もとにとどまっておられた。初めてさとりを開かれたばかりのときであった。

□そのとき尊師は、ひとり隠れて、静かに瞑想に耽っておられたが、心のうちにこのような考えが起こった。――

□「わたしのさとったこの真理は深遠で、見がたく、難解であり、しずまり、絶妙であり、思考の域を超え、微妙であり、賢者のみよく知るところである。ところがこの世の人々は執著のこだわりを楽しみ、執著のこだわりに耽り、執著のこだわりを嬉しがっている。さて執著のこだわりを楽しみ、執著のこだわりに耽り、執著のこだわりを嬉しがっている人々には、〈これを条件としてかれがあるということ〉すなわち縁起という道理は見がたい。またすべての形成作用のしずまること、すべての執著を捨て去ること、妄執の消滅、貪欲を離れること、止滅、やわらぎ(ニルヴァーナ)というこの道理もまた見がたい。だからわたしが理法(教え)を説いたとしても、もしも他の人々がわたしのいうことを理解してくれなければ、わたしには疲労が残るだけだ。わたしには憂慮があるだけだ」と。

□実に次の、未だかつて聞かれたことのない、すばらしい詩句が尊師の心に思い浮んだ。

「苦労してわたしがさとり得たことを、

今説く必要があろうか。

貪りと憎しみにとりつかれた人々が、

この真理をさとることは容易ではない。

これは世の流れに逆らい、微妙であり、

深遠で見がたく、微細であるから、

欲を貪り闇黒に覆われた人々は見ることができないのだ」と。

□尊師がこのように省察しておられるときに、何もしたくないという気持ちに心が傾いて、説法しようとは思われなかった。

□そのとき〈世界の主・梵天〉は尊師の心の中の思いを心によって知って、次のように考えた、――「ああ、この世は滅びる。ああ、この世は消滅する。実に修行を完成した人・尊敬さるべき人・正しくさとった人の心が、何もしたくないという気持に傾いて、説法しようとは思われないのだ!」

□ときに〈世界の主・梵天〉は、譬えば力ある男が曲げた臂(ひじ)をのばし、のばした臂を曲げるように梵天界から姿を消して、世尊の前に現れた。

□そのとき〈世界の主・梵天〉は上衣を1つの肩にかけて、右の膝を地に着け、尊師に向かって合掌・敬礼して、世尊にこのように言った、――「尊い方! 尊師は(真理)をお説きください。幸ある人は教えをお説きください。この世には生まれつき汚れの少ない人々がおります。かれらは教えを聞かなければ退歩しますが、〔聞けば〕真理をさとる者となりましょう」と。

□〈世界の主・梵天〉はこのように述べ、このように言いおわってから、次のことを説いた。

「汚れある者どもの考えた不浄な教えがかってマガダ国に出現しました。

願わくはこの不死の門を開け。

無垢なる者の覚(さと)った法を聞け。

譬えば、山の頂にある岩の上に立っている人があまねく四方の人々を見下すように、あらゆる方向を見る眼ある方は、真理の高閣(たかどの)に登って、〔自らは〕憂いを超えていながら〈生まれと老いとに襲われ、憂いに悩まされている人々〉を見そなわせたまえ。

〔起て、健き人よ、戦勝者よ、

隊商の主よ、負債なき人よ、世間を歩みたまえ。

世尊を、真理を説きたまえ。

〔真理を〕さとる者もいるでしょう。〕」

□そのとき尊師は梵天の懇請を知り、生けとし生ける者への哀れみによって、さとった人の眼によって世の中を観察された。

□尊師はさとった人の眼によって世の中を見そなわなして、世の中には、汚れの少ない者ども、汚れの多い者ども、精神的素質の鋭利な者ども、精神的素質の弱くて鈍い者ども、美しいすがたの者ども(注1)、醜いすがたの者ども(注2)、教え易い者ども、教えにくい者どもがいて、ある人々は来世と罪過への怖れを知って暮らしていることを見られた。

□譬えば、青蓮の池・赤蓮の池・白蓮の池のおいて、若干の青蓮・赤蓮・白蓮は水中に生じ、水中に成長し、水面に出ず、水中に沈んで繁茂するし、また若干の青蓮・赤蓮・白蓮は水中に生じ、水中に成長し、水面に達するし、また若干の青蓮・赤蓮・白蓮は水中に生じ、水面に成長し、水面から上に出て立ち、水に汚されない。

まさにそのように、尊師はさとった人の眼をもって世の中を見そなわして、世の中には、汚れの少ない者ども、汚れの多い者ども、精神的素質の鋭利な者ども、精神的素質の弱くて鈍い者ども、美しいすがたの者ども、醜いすがたの者ども、教え易い者ども、教えにくい者どもがいて、ある人々は来世と罪過への怖れを知って暮らしていることを見られた。

□見終わってから、〈世界の主・梵天〉に詩句をもって呼びかけられた。

「耳ある者どもに甘露(不死)の門は開かれた。

〔おのが〕信仰を捨てよ。

梵天よ。人々を害するであろうかと想って、

わたくしはいみじくも絶妙なる真理を人々には説かなかったのだ。」

□そこで〈世界の主・梵天〉は、「わたしは世尊が教えを説かれるための機会をつくることができた」と考えて、世尊に敬礼して、右廻りして、その場で姿を消した。(83~87頁)

(注1)美しいすがたの者ども;精神的なすがたの美しいことをいう。性質(たち)、人品の善い者をいう。

(注2)醜いすがたの者ども;性質(たち)の悪い人、人品の善くない人をいう。(336頁)

第2節 恭しく敬う

■わたしは、このように聞いた。或るとき尊師はネーランジャラー河の岸辺に、アジャパーラという名のバニヤンの樹の根もとにおられた。さとりを開かれたばかりであったのである。

□そのとき尊師は、ひとり隠れて、静かに瞑想に耽っておられたが、心のうちにこのような考えが起こった。――

「他人を尊敬することなく、長上に柔軟でなく暮らすことは、やり切れないことである。わたしは、いかなる〈道の人〉またはバラモンを尊び、重んじ、たよって生活したらよいのだろうか?」と。

□そのとき尊師は次のように思った、――「まだ完全に実践していない戒めの体系を完全に実践するために、わたしは他の〈道の人〉あるいはバラモンを尊び、重んじ、たよって生活したいものである。しかしわたしは、神々や悪魔や梵天を含めての全世界のうちで、〈道の人〉やバラモンや神々や人間を含めての生きもののうちで、わたしよりも以上に戒めを達成し実践している人なるものを見ない。――わたしは、その人をこそ尊び敬(うやま)いたよって生活したいものであるが。

□未だ完全に実践していない禅定の体系を完全に実践するために、わたしは他のバラモンまたは〈道の人〉を尊び、重んじ、たよって生活したいものである。

□まだ完全に実践していない智慧の体系を完全に実践するために、わたしは他のバラモンまたは〈道の人〉を尊び、重んじ、たよって生活したいものである。

□まだ完全に実践していない解脱の体系を完全に実践するために、わたしは他のバラモンまたは〈道の人〉を尊び、重んじ、たよって生活したいものである。

□まだ完全に体得していない〈われは解脱したと確かめる自覚(智慧と直感)〉の体系を完全に体得するために、わたしは他の〈道の人〉あるいはバラモンを尊び、重んじ、たよって生活したいものである。しかしわたしは、神々や悪魔や梵天を含めての全世界のうちで、〈道の人〉やバラモンや神々や人間を含めての生きもののうちで、わたしよりも以上に〈われは解脱したと確かめる自覚〉を達成している人なるものを見ない。――わたしは、その人をこそ尊び敬いたよって生活したいのであるが。

□むしろ、わたしは、わたしがさとったこの理法を尊び、敬い、たよってくらしたらどうだろう。」

□そのとき世界の主・梵天は、尊師が心の中で考えておられることを知って、譬えば力ある男が曲げた腕を伸ばし、あるいは伸ばした腕を屈するように、梵天界のうちから姿を隠し、尊師の前に現われ出た。

□さて世界の主・梵天は、一方の肩に上衣をかけて、尊師に向かって合掌し、尊師に向かって次のように言った、――

□「尊いお方さま! そのとおりでございます。そのとおりでございます。過去にさとりを開き、敬わるべき人々であった尊師らも、真理を尊び、重んじ、たよっておられました。未来にさとりを開き、敬わるべき人々であった尊師らも、真理を尊び、重んじ、たよられることでしょう。また現在さとりを開き、敬わるべき人(単数)でる尊師も、真理を尊び、重んじ、たよるようにしてくださいませ。」

□〈世界の主・梵天〉は、このように言った。このように説いたあとで、次いで次のように説いた。――

「過去にさとりを開いた仏たち、また未来にさとりを開く仏たち、また多くの人々の憂いを除く現在の世の仏、――正しい教えを重んずるこれらすべての人々は、過去に住したし、現在住し、また未来に住するであろう。これが諸仏にとっての決まりである。

それ故に、この世においてためになることを達成しようと欲し、偉大な境地を望む人は、仏の教えを憶念して、正しい教えを尊重しなければならない。」(88~90頁)

第2章

第2節 デーヴァダッタ

■或るとき、デーヴァダッタが立ち去ってからまもなく、尊師は王舎城のうちの〈鷲の峰〉なる山に住しておられた。

□そのときサハー世界の主たる梵天は、夜が更けてから、容色うるわしく、〈鷲の峰〉なる山を遍く照らして、尊師のもとにおもむいた。尊師に挨拶をして、傍らに立った。

□傍らに立ったサハー世界の主たる梵天は、デーヴァダッタについて、尊師のもとで、この詩をとなえた。――

「芭蕉は実が生(な)ると滅びてしまう。竹や蘆(あし)は実が生じると滅びてしまう。牝の驢馬は自分の胎児のために滅びてしまう。そのように、悪人は尊敬を受けると滅びてしまう。」(114頁)

第4節 アルナヴァッティー

■〔「尊いお方さま。われらは、修行僧アビブーが梵天界にうちに立ってこのように詩をとなえているのを聞きました。」〕

「さあ、奮い立て。外に出て行け。仏の御教えにつとめよ。死王(悪魔)の軍勢を追い払え。――象が葦の生えている住居(=池)を出て行くように。

この教説と戒律とにつとめはげむ人は、生まれをくり返す迷いの生存(輪廻)を捨てて、苦しみを終滅するであろう。」

□「尊いお方さま。われらは、修行僧アビブーが梵天界にうちに立ってこのように詩をとなえているのを聞きました。」

□「みごと! みごと! 修行僧たちよ。そなたらが、修行僧アビブーが梵天界のうちに立って詩をとなえているのを聞いたのは、みごとだ!」

□ 尊師はこのように言われた。かれら修行者たちは嬉しくなって、師の説かれた事柄を喜んだ。(120頁)

第5節 全 き 安 ら ぎ

■ 或るとき尊師はクシナーラにおいて、ウバヴァッタナにあるマッラ族の紗羅林の中でサーラ樹(沙羅双樹)の間で全き安らぎに入るときにとどまっておられた。

□ そのとき尊師は修行僧たちに告げられた。――「怠けることなく修行を完成なさい。もろもろの事象は過ぎ去るものである」と。これが修行をつづけてきた者の最後のことばであった。

□ ここで尊師は初禅(第一段階の瞑想)に入られた。初禅から起って、第二禅に入られた。第二禅から起って、第三禅に入られた。第三禅から起って、第四禅に入られた。第四禅から起って、空無辺処定に入られた。空無辺処定から起って、識無辺処定に入られた。識無辺処定から起って、無所有処定に入られた。無所有処定から起って、非想非非想定に入られた。

□ 次いで〔尊師は〕非想非非想定から起って、無所有処定に入られた。無所有処定から起って、識無辺処定に入られた。識無辺処定から起って、空無辺処定に入られた。空無辺処定から起って、第四禅に入られた。第四禅から起って、第三禅に入られた。第三禅から起って、第二禅に入られた。第二禅から起って、初禅に入られた。

初禅から起って、第二禅に入られた。第二禅から起って、第三禅に入られた。第三禅から起って、第四禅に入られた。第四禅から起って、尊師はただちに全きニルヴァーナに入られた。

□ 尊師が亡くなられたときに、亡くなられるとともに、サハー世界の主である梵天が次の詩を詠じた。――

「この世における一切の生あるものどもは、ついには個体を捨てるであろう。

あたかも世間において比すべき人なき、かくのごとき師〔智慧の〕力を具えた修行実践者、正しい覚りを開かれた人が亡くなられたように。」

□ 尊師が亡くなられたときに、亡くなられるとともに、神々の主であるサッカ(=帝釈天)が次の詩を詠じた。――

「つくられたものは実に無常であり、生じては滅びるきまりのものである。

それは生じては滅びる。これら(つくられたもの)の静まったやすらいが安楽である。」

□ 尊師が亡くなられたときに、亡くなられるとともに、若き人アーナンダはこの詩をとなえた。――

「そのときこの怖ろしいことがあった。そのとき髪の毛のよだつことがあった。――あらゆる点ですぐれた全き覚りを開いた人がお亡くなりになったとき。」

□ 尊師が亡くなられたときに、亡くなられるとともに、アルヌッダ尊者はこの詩を詠じた。

「心の安住せるかくのごとき人にはすでに呼吸がなかった。

欲の汚れなく、眼ある方はやすらいに達して亡くなられたのである。

ひるまぬ心をもって苦痛を耐え忍ばれた。

あたかも灯火の消え失せるように、心が解脱したのであった。」(121~123頁)

第Ⅶ篇 バラモンに関する集成

第1章 敬わるべき人

第2節 罵 り

■或るとき尊師は、王舎城の竹林における栗鼠飼養所にとどまっておられた。□さて「罵(ののし)る者バーラドヴァージャ」というバラモンは、バーラドヴァージャ姓のバラモンが〈道の人〉ゴータマのもとで出家して、家なき状態に入ったそうだ、ということを聞いた。

□かれは、心に喜ばず怒って、尊師のもとにおもむいた。尊師に近づいてから、野卑な荒々しいことばで、罵り、非難した。

□このように言われたときに、尊師は、罵る者なるバーラドヴァージャ・バラモンに次のように言われた。――「バラモンよ。そなたはどう思うか? 友人・朋輩・親戚・血縁者・客人たちがそなたのところにやってくるだろうか?」

□「ゴータマさん! 友人・朋輩・親戚・血縁者・客人たちが時々やってきます。」

□「バラモンよ。そなたはどう思うか? そなたはかれらに噛む食物・吸う食物・美食をさし出しますか?」

□「ゴータマさん! わたしはかれらに噛む食物・吸う食物・美食をさし出します。」

□「バラモンよ。もしもかれらがそれらを受けなかったならば、それは誰のものとなるのでしょうか?」

□「ゴータマさん! もしもかれらがそれらを受けなかったならば、それはわれわれのものになります。」

□「そのとおりなのです。バラモンよ。罵ることのないわれわれをそなたは罵った怒らないわれわれを怒った。争論することのないわれわれに争論をしかけた。しかしわれわれはそれを受けとらない。バラモンよ。これはそなたのものとなるのだ。ところが罵らないわたしに罵り返し、怒らないわたしに怒り返し、争論しないわたしに争論し返すならば、この人は共に会食し、共につき合うと言われる。だからわたしたちは、そなたと会食しないし、共に交換することもない、バラモンよ。これはそなたのものとなる。これはそなたのものとなる。」

□「王と共にいる従者たちは、ゴータマさまをこのようなものだと知っている。――『道の人、ゴータマは敬わるべき人である』と。それなのにゴータマさまは怒る、と。」

□〔尊師いわく、――〕

「怒ることなく、身がととのえられ、正しく生活し、正しく知って解脱している人、

心が静まったそのような立派な人に、どうして怒りがあろうか。

怒った人に対して怒りを返す人は、それによって悪をなすことになるのである。怒った人に対して怒らないならば、勝ちがたき戦にも勝つことになるのである。

他人が怒ったのをしって、心に気をつけて他人が怒っているのを知っても、自ら気を落ちつけて静かにしているならば、その人は、自分と他人との両者のためになることを実行しているのである。

真理に通達していない人々は、自分と他人と両者の治療を行っている人のことを、『かれは愚人だ』と考える。」

□ このように言われて、罵る者であるバーラドヴァージャ・バラモンは尊師にように言った、――「すばらしいことです。ゴータマさん!すばらしいことです。譬えば、倒れたものを起こすように、覆われたものを開くように、方角に迷った者に道を示すように、あるいは『眼ある人々は色やかたちを見るであろう』といって暗闇の中で灯火をかかげるように、ゴータマさんは種々のしかたで真理を明らかにされました。だから、わたしは尊師ゴータマに帰依いたします。また真理の教えと修行僧のつどいに帰依いたします。わたしはゴータマさんのもとで出家し、正式の戒律を受けたいのです。」

□罵る者であるバーラドヴァージャ・バラモンは、尊師のもとで出家し、正式の戒律を受けることができた。

□正式の戒律を受けてからまもなく、罵る者であったバーラドヴァージャ・バラモンさんは、独りで隠棲し、怠ることなく努め励んでいたので、まもなく、立派な人々がそのために正しく家から出て家をもたぬ状態におもむくところのその無上なる清浄行の完成を、まさにこの世において自ら知り体得し具現して住していた。――「生存は消滅した。清らかな行いを実践しおえた。なすべきことは、なしとげた。もはやさらにこのような状態におもむくことはない」ということを理解した。

□さてバーラドヴァージャさんは、尊敬さるべき人々の一人となった。(128~130頁)

第5節 傷害しない人

■ サーヴァッティー市がゆかりの場所である。

□ときに「傷害しない人」バーラドヴァージャ・バラモンは尊師のもとにおもむいた。近づいてから尊師に挨拶し、喜ばしく、追憶に関することばを交して、傍らに坐した。

□傍らに坐した「傷害しない人」バーラドヴァージャ・バラモンは尊師に向かって次のように言った、――「ゴータマさん! わたしは障害しない人なのだよ。ゴータマさん! わたしは障害しない人なのだよ。」

□〔尊師いわく、――〕

「〔実際が〕名の示すとおりであるならば、そなたは〈傷害しない人〉であるかもしれない。

しかし身体によっても、ことばによっても、心の中でも、障害しない人、他の者を傷ついた人、――かれこそ〈障害しない人〉なのである。」

□このように言われて、「傷害しない人」バーラドヴァージャ・バラモンは尊師に向かって次のように言った、――「すばらしいことです。ゴータマさん! すばらしいことです。譬えば、倒れたものを起こすように、覆われたものを開くように、方角に迷った者に道を示すように、あるいは『眼ある人々は色やかたちを見るであろう』といって暗闇の中で灯火をかかげるように、ゴータマさんは、種々のしかたで真理を明らかにされました。だから、わたしは尊師ゴータマに帰依いたします。また真理の教えと修行僧のつどいに帰依いたします。わtっしはゴータマさんのもとで出家し、正式の戒律を受けたいのです。」

□正式の戒律を受けてからまもなく、傷害しない人バーラドヴァージャ・バラモンは、尊師のもとで出家し、

□傷害しない人バーラドヴァージャ・バラモンさんは、独りで隠棲し、怠ることなく努め励んでいたので、まもなく、立派な人々がそのために正しく家から出て家をもたぬ状態におもむくところのその無上なる清浄行の完成を、まさにこの世において自ら知り体得し具現して住していた。――「生存は消滅した。清らかな行いを実践しおえた。なすべきことは、なしとげた。もはやさらにこのような状態におもむくことはない」ということを理解した。

□さてバーラドヴァージャさんは、敬わるべき人々の一人となった。(135~136頁)

第6節 結 髪

■ サーヴァッティー市がゆかりの場所である。

□ときに結髪のバーラドヴァージャ・バラモンは尊師のもとにおもむいた。近づいてから尊師に挨拶し、喜ばしく、追憶に関することばを交して、傍らに坐した。

□ 傍らに坐した結髪のバーラドヴァージャ・バラモンは、尊師に詩を以て語りかけた。

「内に結髪のしがらみあり、外に結髪のしがらみあり、――-

人々は結髪のしがらみにまといつかれている。

それ故に、ゴータマよ、あなたにお尋ねします、――

この結髪を解きほごすのは、誰ですか?」

□〔尊師は答えた、――〕

「人として、堅く戒めをたもち、明らかな智慧をそなえ、心の念(おも)いと明らかな智慧とを修養し、つねに熱心で、つつしみ深くつとめる修行僧は、この結髪を解きほごすであろう。

欲情と憎悪と無知(迷い)とが脱落し、煩悩の汚れを滅ぼしつくした〈敬わるべき人々〉――かれらは、結髪をすでに解きほごしたのである。名称と形態とがすっかり滅び、障礙(しょうがい)も、形態についての想いもすっかり滅びてしまったところでは、〔内的と外的との〕結髪は断ち切られるのである。」

□ このように言われて、結髪のバーラドヴァージャ・バラモンは、尊師に向かって次のように言った、―― 「すばらしいことです。ゴータマさん! すばらしいことです。譬えば、倒れたものを起こすように、覆われたものを開くように、方角に迷った者に道を示すように、あるいは『眼ある人々は色やかたちを見るであろう』といって暗闇の中で灯火をかかげるように、ゴータマさんは、種々のしかたで真理をあきらかにされました。だから、わたしは尊師ゴータマに帰依いたします。また真理の教えと修行僧のつどいに帰依いたします。わたしはゴータマさんのもとで出家し、正式の戒律を受けたいのです。」

結髪のバーラドヴァージャ・バラモンは、尊師のもとで出家し、正式の戒律を受けることができた。

正式の戒律を受けてからまもなく、結髪のバーラドヴァージャ・バラモンは、独りで隠棲し、怠ることなく努め励んでいたので、まもなく、立派な人々がそのために正しく家から出て家をもたぬ状態におもむくところのその無上なる清浄行の完成を、まさにこの世において自ら知り体得し具現して住していた。――「生存は消滅した。清らかな行いを実践しおえた。なすべきことは、なしとげた。もはやさらにこのような状態におもむくことはない」ということを理解した。

□さてバーラドヴァージャさんは、敬わるべき人々の一人となった。(136~138頁)

第7節 浄らかさを求める者

■ 〔尊師いわく、――〕

「多くの呪文をやたらにつぶやいていていても、人は生まれによってバラモンとなるのでない。内心は汚物に汚れ、欺瞞にたよっている。

王族でも、バラモンでも、庶民でも、シュードラでも、チャンダーラや下水掃除人でも、精励してつとめ、熱心であり、つねにしっかりと勇しく行動する人は、最高の清らかに達する。このような人々をバラモンであると知れ。」(139頁)

第8節 火を拝む者

■或るとき尊師は王舎城の竹林のうちにある栗鼠飼養所にとどまっておられた。

□そのとき火を拝むバーラドヴァージャ・バラモンは乳酪を以て煮た米飯を用意しつつあった。――「わたしは火神に祈りましょう。わたしは火の供養を行いましょう」と思って。

□さて尊師は朝早く衣をつけて、鉢と衣を手に執って、托鉢のために王舎城に入って行かれた。王舎城のうちで戸ごとに托鉢に廻って、火を拝む者なるバーラドヴァージャ・バラモンの住居におもむいた。近づいてから傍らに立っておられた。

□ 火を拝む者なるバーラドヴァージャ・バラモンは、尊師が托鉢して廻っておられるのを見た。見てから尊師に向かって次の詩で語りかけた。

「3つの明知を具え、生まれもよく、大いに学識があり、明知と実践とが完全にそなわっている人こそ、わが乳粥を享受するがよい。」

□〔尊師いわく、――〕

「多くの呪文をやたらにつぶやいていていても、人は生まれによってバラモンとなるのでない。

内心は汚物に汚れ、欺瞞に覆われている。

〔ⅰ〕前世の生涯を知り、また〔ⅱ〕天上と地獄とを見、〔ⅲ〕生存を滅ぼしつくすに至って、直観智を確立した聖者、――

この3つの明知があることによって、〈3つの明知をそなえたバラモン〉となるのである。

明知と実践とを具えている人こそ、わが乳粥を受けて食べるがよい。」

□「ゴータマさまはこれを受けて召し上がってください。あなたはバラモンです。」

□〔尊師いわく、――〕

「詩を唱えて得た物を、わたしは食べてはならない。バラモンよ。これは真理を見通す者どもの道理ではない。

諸々のブッダ(聖者)は、詩を唱えて得た物を拒まれる。

バラモンよ。真の道理があるところに、この生活が成立する。

完全な聖者・大仙人・煩悩の消滅した者・悪行による後悔をすることのない人――

この人に他の飲食物を以て奉仕せよ。

それは、功徳を求める人の田となるからである。」

□ このように言われて、火を拝む者なるバーラドヴァージャ・バラモン尊師に次のようにいった。――「すばらしいことです。ゴータマさん! すばらしいことです。譬えば、倒れたものを起こすように、覆われたものを開くように、方角に迷った者に道をしめすように、あるいは「眼ある人々は色やかたちを見るであろう』といって暗闇の中で灯火をかかげるように、ゴータマさんは、種々のしかたで真理を明らかにされました。だから、わたしは尊師ゴータマさんに帰依いたします。また真理の教えと修行僧のつどいに帰依いたします。わたしはゴータマさんのもとで出家し、正式の戒律を受けたいのです。」

□ 火を拝む者なるバーラドヴァージャ・バラモンは、尊師のもとで出家し、正式の戒律を受けることができた。

□ 正式の戒律を受けてからまもなく、火を拝む者なるバーラドヴァージャ・バラモンは、独りで隠棲し、怠ることなく努め励んでいたので、まもなく、立派な人々がそのために正しく家から出て家をもとぬ状態におもむくところのその無上なる清浄行の完成を、まさにこの世において自ら知り体得し具現して住していた。――「生存は消滅した。清らかな行いを実践いおえた。なすべきことは、ましとげた。もはやさらにこのような状態におもむくことはない」ということを理解した。

□さてバーラドヴァージャさんは、敬わるべき人々の一人となった。(140~143頁)

第9節 スンダリカ

■ 或るとき尊師はコーサラ国のうちでスンダリカー湾の岸辺にとどまっておられた。

□ そのときスンダリカ・バーラドヴァージャというバラモンは、スンダリカー河の岸辺で火を供養し、火の供犠を行っていた。

□ さてスンダリカ・バーラドヴァージャというバラモンは、火を供養し、火の供犠を行ってのち、座から立ち上がって、遍く四方を眺めた。――「そもそも誰がこの供物のおさがりを受けて食べたらよいのであろうか?」と考えて。

□ スンダリカ・バーラドヴァージャというバラモンは、尊師が或る樹木の根もとで、頭を包み、坐しているのを見た。見たあとで、左手で供物のおさがりをつかんで、右手で水瓶を持って、尊師のところにおもむいた。

□ ときに尊師は、スンダリカ・バーラドヴァージャというバラモンの足音を聞いたので、頭の覆いを開いた。

□ そこでスンダリカ・バーラドヴァージャというバラモンは、「この方は頭を剃髪している! この方は頭を剃髪している!」といって、そこから退こうと欲した。

□ そこでスンダリカ・バーラドヴァージャというバラモンは、次のように思った、――「この世で或るバラモンたちは、頭を剃っていることもある。では、わたしは近づいて行って、かれの生まれを尋ねることにしよう」と。

□ そこでスンダリカ・バーラドヴァージャというバラモンは、尊師のもとにおもむいた。近づいてから、尊師に向かって次のように言った、――「あなたの生れは何ですか?」

□〔尊師いわく、――〕

「生まれを尋ねるな。行いを尋ねよ。

火は実に微細な木材からも生じる。

たとい賤しい家からの出身であろうとも。

毅然として、慚愧の念で身を防いでいる。

聖者は、高貴の人となる。

真実によって制御され、〔諸感官の〕制御を身に具え、

智慧の奥義に達し、清浄行を実践した人、祭儀を準備した人は、かれにこそ呼びかけよ。

供養され敬わるべき人は、適当な時に供養を〔火の中に〕ささげる。」

□〔スンダリカ・バラモンいわく、――〕

「実に、わたしのこの供物はよくささげられた。

そのような立派な、知識に到達した人をわたしは見たのだから。

けだし、以前にはあなたのような人を見なかったので、他の人が供養のおさがりを受けて食べた。

 〔今となっては〕ゴータマさまが受けて召し上がれ。あなたさまはバラモンです。」

□〔尊師いわく、――〕

「詩を唱えて得たものを、わたしは受けて食べてはならない。

バラモンよ。これは、真理を見通す者どもの道理ではない。

緒々のブッダ(賢者)は、詩を唱えて得た物を拒まれる。

バラモンよ。真の道理があるところに、この生活法が成立する。

そうではなくて――完全な聖者・大仙人・煩悩の消滅した者・悪行による後悔をすることのない人、――この人に飲食物を以て奉仕せよ。

それは、功徳を求める人の田となるからである。」

□「ゴータマさん! では、わたしはこの供物のおさがりを誰に与えたらよいのでしょうか?」

□「バラモンよ。神々と梵天とを含む世界において、修行者・バラモン・神々・人間を含む生ける者どものうちで、如来および如来の弟子よりも以外には、供物のおさがりを受けて食べて完全に消化させ得る人を見出しません。バラモンよ。だから、そなたは、その供物のおさがりを、草のないところに捨てよ。あるいは生き物の棲んでいない水の中に沈めよ。」

□ そこでスンダリカ・バーラドヴァージャというバラモンは、その供物のおさがりを、生き物の棲んでいない水の中に沈めた。

□ さて、その供物のおさがりが水の中に投げすてられたときに、チッチティ、チティ、チティと音を立てて、煙を生じ、湯気を出した。譬えば、日中の太陽に熱せられた鉄板を水の中に投げ込むと、チッチティ、チティ、チティという音を立てて、煙を生じ、湯気を出すように、同様に水の中に投げ込まれた供物のおさがりは、チッチティ、チティ、チティという音をたてて、煙を生じ、湯気を出す。

□ そこでスンダリカ・バーラドヴァージャというバラモンは、ぞっとして、髪の毛もよだち、尊師のもとにおもむいた。近づいてから、傍らに立っていた。

□ 傍らに立っていたスンダリカ・バーラドヴァージャというバラモンに向かって、尊師は詩を以て呼びかけた。

「バラモンよ。木片を焼いたから浄らかさが得られると考えるな。

それは単に外側に関することであるからである。

外的なことによって清浄が得られると考える人は、

実はそれによって浄らかさを得られることができない

と真理に熟達した人々は語る。

バラモンよ。わたしは〔外部に〕木片を焼くことをやめて、

内面的にのみ光輝を燃焼させる。

永遠の火をともし、常に心を静かに統一していて、

敬わるべき人として、わたくしは清浄行を実践する。

バラモンよ。そなたの慢心は重荷である。

怒りは煙であり、虚言は灰である。

舌は木杓であり、心臓は〔供養のための〕光炎の場所である。

よく自己をととのえた人が人間の光輝である。

バラモンよ。戒めに安住している人は法の湖である。

濁りなく、常に立派な人々から立派な人々に向かって称賛されている。

そこで水浴すた、知識に精通している人々、

肢体がまつわれることのない人々は、彼岸にわたる。

真実と法と自制と清浄行、――-

これは中〔道〕に依るものであり、ブラフマンを体得することである。バラモンよ。

善にして真直ぐな人々を敬え。

その人を、わたしは〈法に従っている人〉であると説く。」

□ このように言われて、スンダリカ・バーラドヴァージャというバラモンは尊師に向かって次のように言った。――「すばらしいことです。ゴータマさん!すばらしいことです。譬えば、倒れたものを起こすように、覆われたものを聞くように、方角に迷った者に道を示すように、あるいは『眼ある人々は色やかたちを見るであろう』といって暗闇の中で灯火をかかげるように、ゴータマさんは、種々のしかたで真理を明らかにされました。だから、わたしは尊師ゴータマに帰依いたします。また真理の教えと修行僧のつどいに帰依いたします。わたしはゴータマさんのもとで出家し、正式の戒律を受けたいのです。」

□ スンダリカ・バーラドヴァージャというバラモンは、尊師のもとで出家し、正式の戒律を受けることができた。

□ 正式の戒律を受けてからまもなく、スンダリカ・バーラドヴァージャというバラモンは、独りで隠棲し、怠ることなく努め励んでいたので、まもなく、立派な人々がそのために正しく家を出て家をもたぬ状態におもむくところのその無上なる清浄行の完成を、まさにこの世において自ら知り体得し具現していた。――「生存は消滅した。清らかな行いを実践しおえた。なすべきことは、なしとげた。もはやさらに、このような状態におもむくことはない」ということを理解した。

□ さてバーラドヴァージャさんは、敬わるべき人々のうちの一人となった。(143~149頁)

第2章 在 俗 信 者

第1節 田を耕す人

■ わたしが聞いたところによると、――或るとき尊師(ブッダ)は、マガダ国の南山にある「一つの茅(かや)」というバラモン村にとどまっておられた。

□ そのとき「田を耕す人」というバーラドヴァージャ姓のバラモンは、種を負時に五百挺の鋤(すき)を牛に結びつけた。

□ さて尊師(ブッダ)は朝早く内衣を着け、鉢と上衣とをたずさえて、田を耕すバーラドヴァージャ姓のバラモンが仕事をしているところにおもむかれた。

□ ところでそのときに田を耕すバーラドヴァージャ姓のバラモンは食物を配給していた。

□ そこで尊師は、食物を配給しているところに近づいて、傍らに立たれた。

□ 田を耕すバーラドヴァージャ姓のバラモンは、尊師が食を受けるために立っているのを見た。そこで尊師に告げて言った、「道の人よ。わたしは耕して種を播く。耕して種を播いたあとで食う。あなたもまた耕せ、また種を播け。耕して種を播いたあとで食え」と。

□〔尊師は答えた、――〕「バラモンよ。わたしもまた耕して種を播く。耕して種を播いてから食う」と。

□ そこで田を耕すバーラドヴァージャ姓のバラモンは詩を以て尊師に語りかけた。

「あなたは農夫であるとみずから称しておられますが、われらはあなたが耕作するのを見たことがない。耕作者であるというあなたに、おたずねしますが、答えてください、――

あなたが耕作するということを、われらはどのように了解したらよいのでしょうか?」

□〔尊師は答えた、――〕

「わたしにとっては、信仰が種子(たね)である。苦行が雨である。智慧がわが軛(くびき)と鋤(すき)である。慚(はじること)が鋤棒である。心が縛る縄である。気を落ち着けることがわが鋤先と突棒とである。身をつつしみ、ことばをつつしみ、食物を節して過食しない。わたくしは真実をまもることを草刈りとしている。柔和がわたくしにとって〔牛の〕軛を離すことである。

努力がわが〈軛をかけた牛〉であり、安穏の境地に運んでくれる。退くことなく進み、そこに至ったならば、憂えることがない。

この耕作はこのようになされ、甘露の果実(みのり)をもたらす。この耕作を行ったならば、あらゆる苦しみから脱(のが)れる。」

□〔そこで田を耕すバーラドヴァージャ姓のバラモンは言った、――〕「ゴータマさまは〔供養の食物を〕召し上がれ。あなたは耕作者です。ゴータマさまは甘露の果実をもたらす耕作をなさるのですから。」

□〔尊師いわく、――〕

「詩を唱えて〔報酬として〕得たものを、わたくしは食うてはならない。バラモンよ、このことは正しく見る人々(目ざめた人々)のならわしではない。詩を唱えて得たものを、目ざめた人々(諸々のブッダ)は斥(しりぞ)ける。バラモンよ、定めが存するのであるから、これが〔目ざめた人々の〕生活法なのである。

全き人である大仙人、煩悩の汚れをほろぼし尽し悪い行いを消滅した人に対しては、他の飲食をささげよ。けだしそれは功徳を積もうと望む者のための(福)田であるからである。」

このように説かれたときに、田を耕すバーラドヴァージャ姓のバラモンは、尊師に次のように言った、――「すばらしいことです。ゴータマさま! すばらしいことです。譬えば、倒れた者を起こすように、覆われたものを開くように、方角に迷った者に道を示すように、あるいは『眼ある人々は色やかたちを見るであろう』と言って暗闇の中で灯火をかかげるように、ゴータマさまは、種々のしかたで真理を明らかにされました。故にわたしはここにゴータマ尊師に帰依いたします。また真理と修行僧のつどいに帰依いたします。ゴータマさまは、わたしを在俗信者として受け入れてください。今日以後命の続く限り帰依いたします。」(154~157頁)

第2節 ウ ダ ヤ

■ サーヴァッティー市がゆかりの場所である。

□ときに尊師は早朝に衣をつけ、鉢と衣を身に受けて、ウダヤというバラモンの住居に〔托鉢に〕におもむいた。

□ そのときウダヤというバラモンは、尊師の鉢に米飯を盛って、それを満たした。

□ 再び、尊師は早朝に衣をつけ、鉢と衣を身に受けて、ウダヤというバラモンの住居におもむいた。そのときウダヤというバラモンは、尊師の鉢に米飯を盛って、それを満たした。

□ 三たび、ウダヤというバラモンは、尊師の鉢に米飯を盛って、それを満たしたあとで、尊師に、次のように言った。――「道の人・ゴータマがくりかえしやって来るとは、しつこい奴だな!」

□〔尊師いわく、――〕

「いつもくりかえし種子を播き、

いつもくりかえし神々の王が雨を降らし、

いつもくりかえし農夫は田畑を耕し、

いつもくりかえし〔雨を降らす神々の王が〕他の国土にまでも及び、

いつもくりかえし托鉢行者が食物を乞い、

いつもくりかえし施主が施与をなす。

いつもくりかえし施主が施与をなしたあとで、

いつもくりかえし天界なる場所におもむく。

いつもくりかえし乳牛業者は乳を絞り、

いつもくりかえし仔牛は母に近づく。

いつもくりかえし人は疲れ、また苦しみ労する。

いつもくりかえし愚者は母胎に入り、〔迷いの生存をつづける〕。

いつもくりかえし生まれ、また死に、

いつもくりかえし墓場にはこぶ。

しかし智慧豊かな人は、再び迷いの生存に至ることのない道を得て、再びくりかえし生まれることはない」と。

□ このように説かれたときに、ウダヤというバラモンは尊師に向って次のように言った。――「すばらしいことです。ゴータマさま! すばらしいことです。譬えば、倒れた者を起こすように、覆われたものを開くように、方角に迷った者に道を示すように、あるいは『眼ある人々は色やかたちを見るであろう』と言って暗闇の中で灯火をかかげるように、ゴータマさまは、種々のしかたで真理を明らかにされました。故にわたしはここにゴータマ尊師に帰依いたします。また真理と修行僧のつどいに帰依いたします。ゴータマさまは、わたしを在俗信者として受け入れてください。今日以後命の続く限り帰依いたします。」(154~159頁)

第6節 つ む じ 曲 が り

■ サーヴァッティー市がゆかりの場所である。

□ そのとき、「つむじ曲がり」という名のバラモンが、サーヴァッティー市に住んでいた。

□ ときに「つむじ曲がり」という名のバラモンは次のように思った。――-わたしは〈道の人〉ゴータマのところへ行こう。道の人ゴータマが語ることには、何でもたてついてやろう。

□ そのとき、尊師は戸外の露地でそぞろ歩きをしておられた。

□ さて「つむじ曲がり」という名のバラモンは尊師のもとにおもむいた。さぞろ歩きをしておられる尊師に近づいて、自分も追随してそぞろ歩きをして、尊師に次のように言った、――「道の人よ。法を説いてください。」

□〔尊師いわく、――-〕

「よく説かれたことでも、心が汚れ、争いがちのつむじ曲りには理解されがたい。争闘を捨てて、争いがちを除き、また心の不信を除くならば、その人は、よく説かれたことを理解するであろう。」

□ このように言われたので、「つむじ曲がり」という名のバラモンは、尊師に向って次のように言った。――「すばらしいことです。ゴータマさま! すばらしいことです。譬えば、倒れた者を起こすように、覆われたものを開くように、方角に迷った者に道を示すように、あるいは『眼ある人々は色やかたちを見るであろう』と言って暗闇の中で灯火をかかげるように、ゴータマさまは、種々のしかたで真理を明らかにされました。故にわたしはここにゴータマ尊師に帰依いたします。また真理と修行僧のつどいに帰依いたします。ゴータマさまは、わたしを在俗信者として受け入れてください。今日以後命の続く限り帰依いたします。」(168~169頁)

第8節 薪 を 採 る 人

■ 或るとき尊師はコーサラ国の或る林の荒地に住しておられた。

□ そのときに、「バーラドヴァージャ姓のバラモンの或る一人」に属する多くの弟子たち・若者たちが、薪を採る人として、その荒地におもむいた。

□ かれらは近づいて、尊師がその林の荒地のなかで足を組んで、身体を真っ直ぐに立てて、まのあたりに気を落ちつけて坐しているのを見た。見てから、バーラドヴァージャ姓のバラモンのところにおもむいた。

□ 近づいてから、バーラドヴァージャ姓のバラモンに向って次のように言った、――

「さあ、これこれの林の荒地に、或る〈道の人〉が足を組んで、身体を真っ直ぐに立てて、まのあたりに気を落ちつけて坐しているのを、あなたさまはお知りくださいませ。」

□ そこでバーラドヴァージャ姓のバラモンは、それらの若者たちと共に、その林の荒地におもむいた。すると、尊師が、その林の荒地のなかで、足を組んで、身体を真っ直ぐに立てて、まのあたりに気を落ちつけて坐しているのを見た。見てから、尊師のもとにおもむいた。すると、尊師が、その林の荒地の中で、足を組んで、身体を真っ直ぐに立てて、まのあたりに気を落ちつけて坐しているのを見た。見てから、尊師のもとにおもむいた。近づいてから、尊師に向って詩で語りかけた。――

「奥深いすがたの、いとも恐ろしい林の中で、

人を離れた、空虚な森に入って、

あなたは、動揺せず、安立せる妙なるすがたで、いともみごとに瞑想する。托鉢修行者よ。

歌詠もなく、音楽もない森の中で、

聖者はただ一人で林に住んでおられる。

ただ独りで心喜び林の中に住むことは、すばらしいことだと、わたくしには思われます。

この方は、無上の三天、世界の王(梵天)と共住することを望んでおられるのだ、とわたくしはおもいます。

〔そうでなければ〕どうして、あなたは、梵天に達するために、人のいない森に住みついて、ここで苦行なさるのでしょう。」

□〔尊師いわく、――-〕

「人々がいろいろと種々の対象に依拠しているところのいかなる希望、喜びでも、無知を根として現われ出たものであり、希求されているが、わたしはそれらをすべて根こそぎに断ってしまった。

だから、わたしは、望むことなく、求めることなく、近づくことがない。あらゆる事柄について清らかに見とおしている。

無上の、めでたいさとりに達して、わたしは、独り隠れて、恐れることなく、瞑想する。」

□ このように言われたので、バーラドヴァージャ姓のバラモンは、尊師に向って次のように言った。――「すばらしいことです。ゴータマさま! すばらしいことです。譬えば、倒れた者を起こすように、覆われたものを開くように、方角に迷った者に道を示すように、あるいは『眼ある人々は色やかたちを見るであろう』と言って暗闇の中で灯火をかかげるように、ゴータマさまは、種々のしかたで真理を明らかにされました。故にわたしはここにゴータマ尊師に帰依いたします。また真理と修行僧のつどいに帰依いたします。ゴータマさまは、わたしを在俗信者として受け入れてください。今日以後命の続く限り帰依いたします。」(171~174頁)

第10節 乞 食 す る 者

■ サーヴァッティー市がゆかりの場所である。

□ ときに、乞食している或るバラモンが、尊師のもとにおもむいた。近づいてから尊師に挨拶して、喜びのことば、思い出の話を交わして、傍らに坐した。

□ 傍らに坐したその乞食するバラモンは、尊師に向って次のように言った。――「ゴータマさま! わたしもまた乞食する者であり、あなたもまた乞食する者です。そこには少しも差別はありません。」

□〔尊師いわく、――-〕

「他人に食を乞うからとて、それだけではビク(托鉢僧)なのではない。

毒となるきまりを身に受けている限りは、その人はビクではない。

この世の福楽も罪悪も捨て去って、清らかな行いを修め、よく思慮して

世に処しているならば、かれこそビクとよばれる。」

□ このように言われたので、その乞食するバラモンは尊師に次のように言った。――「すばらしいことです。ゴータマさま! すばらしいことです。譬えば、倒れた者を起こすように、覆われたものを開くように、方角に迷った者に道を示すように、あるいは『眼ある人々は色やかたちを見るであろう』と言って暗闇の中で灯火をかかげるように、ゴータマさまは、種々のしかたで真理を明らかにされました。故にわたしはここにゴータマ尊師に帰依いたします。また真理と修行僧のつどいに帰依いたします。ゴータマさまは、わたしを在俗信者として受け入れてください。今日以後命の続く限り帰依いたします。」(175~176頁)

第11節 サ ン ガ ー ラ ヴ ァ

■ サーヴァッティー市がゆかりの場所である。

□ そのとき、サンガーラヴァという名のバラモンがサーヴァッティー市に住んでいたが、水によって身を浄める行者であり、水によって清浄を達成しようとしていた。かれは朝夕に水中に下りて水に浴することを実行していた。

□ そのときアーナンダさんは、早朝に衣をつけ、鉢と衣とを身に受けて、托鉢のためにサーヴァッティー市に入って行った。サーヴァッティー市で托鉢をなし終えて、食事をすませて、食器を片づけてから、尊師のもとにおもむいた。近づいてから、尊師に挨拶をして、傍らに坐した。

□ 傍らに坐したアーナンダさんは、尊師に次のように言った。――「尊いお方さま。ここにサンガーラヴァという名のバラモンがサーヴァッティー市に住んでいますが、水によって身を浄める行者であり、水によって清浄を達成しようとしています。かれは朝夕に水中に下りて水に浴することを実行しています。尊いお方さま。どうか尊師は、特別の思し召しで、サンガーラヴァという名のバラモンの住居にお出かけくださいませ。」

□ 尊師は沈黙によってそれを承認された。

□ さて尊師は朝早く衣をつけて、鉢と衣とを身に受けて、サンガーラヴァというバラモンの住居におもむいた。近づいてから、予め設けられた座席に座した。

□ そこでサンガーラヴァというバラモンは、尊師のもとにおもむいた。近づいてから、尊師に挨拶し、喜ばしい話を交して傍らに坐した。

□ 傍らに坐したサンガーラヴァというバラモンに対して尊師は次のように言った、――「バラモンよ。あなたは水によって身を浄める行者であり、水によって清浄を達成しようとしていて、朝夕に水中に下りて水に浴することを実行していると伝えられているのは、本当ですか?」

□「ゴータマさま。そのとおりです。」

□「バラモンよ。ではあなたは、いかなる利益を認めて、水によって身を浄める行者となり、水によって清浄を達成しようとして朝夕に水中に下りて水に浴することを実行しているのですか?」

□「ゴータマさま。ここに、わたくしは昼間につくった悪業を夕に沐浴して洗い落とし、夜につくった悪業を朝早くに沐浴して洗い落とすのです。この利益を見るが故に、わたくしは、水によって身を浄める行者となり、水によって清浄を達成しようとして、朝夕に水中に下りて水に浴することを実行しているのです。」

□「バラモンよ。戒めを渡し場としている道理なる湖は、濁りなく澄み、

諸々の善人が善人のために讃めたたえるものである。

そこでは、真の知識を得た聖者たちが沐浴し、五体を浄めて彼岸に渡る。」

□ このように説かれたときに、サンガーラヴァというバラモンは尊師に向って次のように言った。――「すばらしいことです。ゴータマさま! すばらしいことです。譬えば、倒れた者を起こすように、覆われたものを開くように、方角に迷った者に道を示すように、あるいは『眼ある人々は色やかたちを見るであろう』と言って暗闇の中で灯火をかかげるように、ゴータマさまは、種々のしかたで真理を明らかにされました。故にわたしはここにゴータマ尊師に帰依いたします。また真理と修行僧のつどいに帰依いたします。ゴータマさまは、わたしを在俗信者として受け入れてください。今日以後命の続く限り帰依いたします。」(176~179頁)

第Ⅷ篇 ヴァンギーサ長老についての集成

第5節 みごとに説かれたこと

■〔或るとき尊師は〕サーヴァッティー市のジュータ林・〔〈孤独の人々に食を給する人〉の園に住しておられた。〕

□ そこで尊師は修行僧たちに呼びかけられた、――「修行僧たちよ」と。

□ 修行僧たちは尊師に向って「尊いお方さま!」と答えた。

□ 尊師は次のように言われた、――

 「修行僧たちよ。4つの特徴を具えたことばは、みごとに説かれたのである。悪しく説かれたのではない。諸々の智者が見ても欠点なく、非難されないものである。その4つとは何であるか?

□ ここで修行僧が、⑴みごとに説かれたことばのみを語り、悪しく説かれたことばを語らず、⑵理法のみを語って、理にかなわぬことを語らず、⑶好ましいことのみを語って、好もしからぬことを語らず、⑷真実のみを語って、虚妄を語らないならば、この4つの特徴を具えていることばは、みごとに説かれたのであって、悪しく説かれたのではない。諸々の智者が見ても欠点なく、非難されないものである。」

□ 尊き師はこのことを告げた。このことを説いたあとでまた、〈幸せな人〉である師は、次いで次のように説いた。――

「立派な人々は説いた―― ⑴最上の善いことばを語れ。(これが第一である。)⑵正しい理(ことわり)を語れ、道理に反することを語るな。これが第二である。⑶好ましいことばを語れ。好もしからぬことばを語るな。これが第三である。⑷真実を語れ。偽りを語るな。これが第四である。」(190~191頁)

第6節 サーリプッタ

■ 或るときサーリプッタ尊者は、サーヴァッティー市のジュータ林・〈孤独の人々に食を給する人〉の園にとどまっておられた。

□ そのときサーリプッタ尊者は、修行僧たちに、法に関する談話をして、示し、勧め、はげまし、喜ばせた。その談話は、丁寧で、障害なく、濁りなく、事柄の意義を知らせるものであった。そうしてその修行僧たちはその意義を理解し、注意して、心をすっかり集中し、耳を傾けて、ことわりを聞いた。

□ そこでヴァンギーサさんは、次のように思った、――「このサーリプッタ尊者は、法に関する談話をして、示し、勧め、はげまし、喜ばせた。その談話は、丁寧で、障害なく、濁りなく、事柄の意義を知らせるものであった。そうして、その修行僧たちは、その意義を理解し、注意して、心をすっかり集中し、耳を傾けて、ことわりを聞いた。さあ、わたしは、ふさわしい詩をとなえて、サーリプッタ尊者を、面と向って称讃しよう」と。

□ そこでヴァンギーサさんは、座席から起き上がって、上衣を1つの肩にかけて、サーリプッタ尊者に向って合掌して、サーリプッタ尊者に次のように言った、――「サーリプッタさん。わたしは、ふと思い出すことがあります。ふと思い出すことがあります。」

□〔師いわく、――〕

「ヴァンギーサさん。では思い出せ。」

□ さてヴァンギーサさんは、ふさわしい詩をとなえて、サーリプッタ尊者を、面と向って称讃した。――

「智慧が深く、聡明な英智に富み、種々の道に通達し、大いなる智慧あるサーリプッタは、もろもろの修行僧に、ことわりを説く。

かれは簡略に説くこともあり、また、詳しく語ることもある。九官鳥の鳴き声のように、〔自由自在な〕弁舌の才を発揮する。

かれが、魅惑的な、聞くに快い、甘美な声で教えを説いているとき、その甘く快い声を聞いて、修行僧たちは、心喜び、なごんで、耳を傾けた。」(192~193頁)

第12節 ヴァンギーサ

■ 或るときヴァンギーサ尊者は、サーヴァッティー市のジュータ林・〈孤独の人々に食を給する人〉の園にとどまっておられた。

□ そのときヴァンギーサ尊者は、〈敬わるべき人〉の境地を体得してからまもなく、解脱のたのしみを感じながら、そのとき次の詩句をとなえた。――

「かって、わたしは、詩文の芸に陶酔して、村から村へ、町から町へと流浪した。

たまたま、われらは、〈さとれる人〉にお目にかかった。

われらに信仰心が起こった。

あのかたは、わたしに、〔個人存在の5つの〕構成要素・〔6つの感官と6つの認識対象とを合わせた18の〕要素ということわりを説かれた。

わたしはそのかたの教えを聞いて、家を捨てて出家した。

実に聖者(ブッダ)は、必ず〔究極の境地に至ると〕定まっているのを見たそれらの多くの修行僧や修行尼を益するために、さとりを得たのである。

実にそれは、わがブッダのもとにあっては、わたしにとって、歓迎されることであった。

わたしは3種の明智を体得し、ブッダの教えを実践しました。

わたしは前世の生涯に通じて知っています。天の眼を浄めました。3種の明智あり、超人的な神通力を具え、他人の心の中を見抜くことに巧みであります。」(203~204頁)

第Ⅸ篇 林に関する集成

第6節 アルヌッダ

■ 或るときアルヌッダ尊者は、コーサラ国のうちの或る林の荒地にとどまっていた。

□ときに、昔はアルヌッダ尊者の妻であって今は三十三天の神々のうちの一人となっているジャーリニーという神が、アルヌッダ尊者に近づいた。

□ 近づいてから、アルヌッダ尊者に詩を以て語りかけた。――

「むかしあなたがすんでおられましたところ、――一切の欲楽をかなえた三十三天――に生まれようとの願いを起こしなさいませ。

そこであなたは天女たちに恭しく敬われとりまかれて輝いておられました。」

□〔アルヌッダいわく、――〕

「わが身の思いにとらわれている天女たちは禍いである。

天女たちを求める人々も、禍いである。」

□〔ジャーリニーいわく、――〕

「世にほまれある三十三天の人々および神々の住居であるナンダナ園を見ない人々は、

楽しみなるものを知っていない。」

□〔アルヌッダいわく、――〕

「愚かな女よ。そなたは敬わるべき人々(=ブッダたち)のことばがどんなものであるかを理解していない。――

『つくられたものはすべて無常である。生じてはまた滅びる性質のものである。それらは生起して滅びる。それらの静まった安らぎこそ安楽である』と。

ジャーリニー(罠にかける女)は、もはや神々の群のうちに再び住むということはない。生れを繰り返す迷いの生存はもはや滅ぼし尽された。いまや再び迷いの生存は存在しない。」(212~214頁)

第7節 ナーガダッタ

■ 或るときナーガダッタ尊者は、コーサラ国のうちで、或る林の荒地にとどまっておられた。

□ ときに、林の荒地に住みついている或る神がナーガダッタ尊者を憐み、そのためをはかってやろうとして、ナーガダッタ尊者に近づいた。

□ 近づいてから、ナーガダッタ尊者に次の詩をとなえて語りかけた。――

「ナーガダッタよ。そなたは、てきとうなときに村に入れ。そなたは昼に帰って、あまりにも長く在家の人々と交わり、苦楽を共にしている。

わたしは恐れます――ナーガダッタがあまりにもずうずうしく家々にくぎづけになっているのを。

死滅をもたらす力恐ろしき死王に支配されないようになさい。」

□ そこでナーガダッタ尊者は、その神に警告されて、はっと気がついた。(214~215頁)

第8節 家の主婦(入り浸っている人)

■ 或るとき或る修行僧は、コーサラ国のうちの或る林の荒地に住んでいた。

□ そのときその修行僧は或る家庭にあまりにも入り浸りになっていた。

□ ときにその林の荒地に住みついている神が、その修行僧を憐んで、そのためをはかってやろうとして、その修行僧に警告しようとして、その家で主婦のすがたを化現(けげん)して、その修行僧に近づいた。

□ その修行僧に近づいて次の詩をとなえて、語りかけた。――

「河の岸、都市の門の広場、公会堂、車の走る街路で、人々が集まってはあなたとわたしのことを陰口しています。なぜでしょう。」

□〔修行僧いわく――〕

「世には気に障ることばが多いです。修行僧はそれを耐え忍ばねばなりません。

そのためにおずおずしてはなりません。それによって苦しめられることはないのです。

森の中で恐れる塵のように、〔人々の〕声におびえる人は、軽薄な人であると言われます。

かれは修行を完成することがありません。」(215~216頁)

第9節 ヴァッジ族の人(ヴェーサーリー市)

■ 或るときヴァッジ族の人である或る修行僧がヴェーサーリー市のうちの或る林の荒地に住んでいた。

□ そのとき、ヴェーサーリー市では夜通しの祭りが行われていた。

□ ときにその修行僧は、ヴェーサーリー市のうちで太鼓・銅羅・楽器の鳴りひびく音を聞いて、嘆きながら、そのとき、次の詩をとなえた。――

「われらは唯だ一人森の中にすんでいます。――森に捨てられた木片(きぎれ)のように。このような夜に、われらよりもみじめな人がいるでしょうか。」

□ そこでその林の荒地に住みついている神が、その修行僧を憐れんで、そのためをはかろうとして、その修行僧に警告しようとして、その修行僧に近づいた。

□ 近づいてから、その修行僧に詩を以て語りかけた。――

「そなたは森の中に住む。――

森に捨てられた木片のように。

だが、多くの人々がそなたを羨む。

――地獄の者どもが天上に赴く人々を羨むように。」

□ そこでその修行僧は、その神に警告されて、はっと気づいたのであった。(216~217頁)

第10節 聖典の暗誦(または法)

■ 或るとき或る修行僧が、コーサラ国のうちの或る林の荒地に住んでいた。

□ そのときその修行僧は、以前には非常に長いあいだ聖典の暗誦に大いにつとめていたが、後になっては、つとめること少なく、沈黙して、控えていた。

□ さてその林の荒地に住みついている神は、その修行僧が聖典の教えをとなえるのをきかなくなったので、その修行僧のところに近づいた。

□ 近づいてから、その修行僧に次の詩で語りかけた。――

「修行僧よ。そなたは修行僧たちとともに住んでいるのに、なぜ真理のことばをとなえないのか?

真理のことばがとなえられるのを聞いたならば、心が清らかな喜びにみち、

現世で人々の賞讃を博する。

□〔修行僧いわく、――〕

「昔は、わたしは離欲を達成するまでは真理のことばを学びたいという願望がありました。

いまやわたしは、離欲を達成したからには、

見たことでも、聞いたことでも、考えたことでも、すべて知った上では捨てさらねばならぬ、ということを、

立派な人々は説かれました。」(217~218頁)

第11節 根本からではないこと(または思索したこと)

■ 或るとき或る一人の修行僧が、コーサラ国のうちの或る林の荒地に住んでいた。

□ そのときその修行僧は昼間の休息をしていたが、よからぬ悪い思索を行った。――すなわち欲にもとづく思索と、憎悪にもとづく思索と、害心にもとづく思索とであった。

□ さて、その林の荒地に住みついていた神は、その修行僧を憐んで、そのためになることを望んで、その修行僧にそっと警告して気をつけさそうとして、その修行僧に近づいた。

□ 近づいてから、次の詩を以てその修行僧に話しかけた。――

「そなたは、根源から正しく注意しないために、思索に酔っているのです。

根源によるのではない、正しからざる思索を捨てよ。

戒律を捨てて退くことなく、師(ブッダ)と理法と集い(サンガ)とに関して、根源からしっかりと憶いつづけよ。

そうすれば、そなたは、喜びに達し、喜びを楽しみ、歓喜に富む者となり、苦しみを終滅するであろうことは、疑いない。」

□ そこでその修行僧は、その神に警告されて、はっと気がついた。(218~219頁)

第13節 だらけた人々(または多くの修行者たち)

■ 或るとき多くの修行僧たちがコーサラ国のうちの或る林の荒地に住んでいたが、かれらは、うわついていて、心騒がしく、ざわざわしていて、おしゃべりで、べちゃべちゃしゃべくり、心の落ち着きがなく、しっかりと気をつけていないで、心の統一もなく、心が散乱し、だらけていた。

□ そのとき林の荒地に住みついていた神が、それらの修行僧たちを憐んで、そのためになることを望んで、それらの修行僧に近づいた。

□ 近づいてから、それらの修行僧たちに、次の詩を以て話しかけた。――

「ゴータマの弟子であった昔の修行僧たちは、楽しく暮らしていた。

求める心なく食を乞い、求める心なく臥具や座具を乞い、

世間においては何ものも無常であることを知って、かれらは苦しみを滅した。

〔ところが今の修行僧たちは〕村の中で村長(むらおさ)が〔税を取り立てる〕ように、みずからを悪人となして、食べては、食べては、横になり、他人の家の富に心奪われている。

サンガ(修行僧の集い)に合掌をなし、

わたしはここに或る人々を敬礼する。

しかし、怠けて暮らしている人々は、捨てられ、導く主もなく、まさに死人のごとくである。

わたしはまさに、かれらのことを意味して、語ったのである。

怠らないで努めて暮らしている人々に対しては、わたしは敬礼をなす。」

□ そこでそれらの修行僧たちは、その神に警告されて、はっと気がついた。(220~221頁)

第14節 紅蓮華(または白蓮華)

■ 或るとき或る一人の修行僧がコーサラ国のうちの或る林の荒地に住んでいた。

□ そのときその修行僧は托鉢から帰って食事をすませてから、蓮池の中に浴して、紅蓮華の香りを嗅いだ。

□ ときにその林の荒地に住みついていた或る神は、その修行僧を憐んで、かれのためを思って、その修行僧にそっと警告して気づかせようとして、その修行僧のいるところに近づいた。

□ 近づいてから、その修行僧に次の詩を以て語りかけた。――

「水中に生ずるこの蓮の花は、与えられたものでもないのに、そなたはその香りを嗅いだ。

この香りは、盗まれるものの一つだ。君よ。そなたは、香りの盗人だ。」

□〔修行僧いわく、――〕

「わたしは、この花を取り去ったのではありません。折ったのでもありません。離れて、蓮華の香りを嗅いだのです。

それなのに、どういう理由で、わたしを〈香りの盗人〉と呼ぶのですか? 蓮の茎を掘り、蓮根を喰う人、このように汚れた行動をなす人を、どうして盗人と呼ばないのですか?」

□〔神いわく、――〕

「下女の汚れた衣のように、汚れて荒々しい男に向かって、わたしは説いているのではない。

わたしは、そなたに向かってこそ言うべきである。

罪汚れなくして、常に浄らかさを求めている人には、

毛先ほどの悪でも、雲ほどに大きく見えるのである。」

□〔修行僧いわく、――〕

「ヤッカよ。ああ、あなたは、わたしのことを知っておられます。またわたしを憐れんでくださいます。

ヤッカよ。もしもあなたが、このようなことを〔わたしのうちに〕見るならば、さらに告げてください。」

□〔神いわく、――〕

「わたしは、そなたに依存して生きているのではない。またそなたのために仕事をしてくれる人々がいるのではない。

修行僧よ。ひとは何によって〈よきところ〉に行き得るのかということを、そなた自身が知るべきである。」

□ そこでその修行僧は、その神に警告されて、はっと気がついた。(221~223頁)

第Ⅹ篇 ヤッカについての集成

第12節 アーラヴァ

□〔ヤッカいわく、――〕「わたしは、そなたに質問しよう。道の人よ。もしもそなたが説明することができなければ、わたしは、そなたの心を散乱させ、そなたの心臓を破り裂き、両足を捉えてガンジス河の彼岸に投げ捨ててしまうであろう。」

□〔尊師いわく、――〕

「いな、友よ。わたしは、神々、悪魔、梵天を含む世界のうちで、道の人やばらもんたち、神々や人間を含む生きとし生ける者どものうちで、わたしの心を乱し、心臓を破り裂き、両足を捉えてガンジス河の彼岸に投げ得るような者を見出さない。しかし、友よ、そなたは、なんでも欲することを質問なさい。」

□〔ヤッカいわく、――〕

「この世で、人にとって最上の富は何であるか?

何をよく修めたならば、幸せをもたらすのか?

諸々の味のうちですぐれて良いものは何であるか?

どのように生きることを、最上の生活と言うのか?」

□〔尊師いわく、――〕

「信(まこと)は、この世において人の最高の財である。徳を良く実行したならば、幸せをもたらす。

真実は、実に諸々の飲料のうちでも、すぐれ甘美なるものである。

明らかな智慧によって生きることが、最上の生活である、と人々は言う。」

□〔ヤッカいわく、――〕

「どのようにして激流を渡るのであるか?

どのようにして大海を渡るのであるか?どのようにして苦しみを超えるのであるか? どのようにして全く清らかになるのであるか?」

□〔尊師いわく、――〕

「ひとは、信仰によって激流を渡り、つとめはげむことによって海を渡る。勤勉によって苦しみを超え、明らかな智慧によって全く清らかとなる。」

□〔ヤッカいわく、――〕

「どのようにして智慧を得るのであるか? どのようにして財を得るのであるか? どのようにして名誉を得るのであるか? どのようにして友交を結ぶのであるか?

この世からかの世へと移って、死んだあとで悲しまないようにするには、どうしたらよいのであるか?」

□〔尊師いわく、――〕

「尊敬さるべき真人たちを信仰する人が、安らぎに至るための教えを聞こうと願って、怠りなまけることのない聡明な人は、明らかな智慧を得る。

身に適したふさわしいことを為し、重い荷に堪え、努力する人は、財を得る。

真実をまもることによって、良い評判を得、ものを与えるならば友交を結ぶ。

〔このようにするならば〕この世からかの世へと移って、死んだあとでも悲しむことがない。

家を求めながらも信仰あり、

真実と自制と、堅実と、捨離と、この四つの徳を具えている人は、

死んだあとでも悲しむことがない。この世からかの世に移って、死んだあとでも、このように悲しむことがない。

真実・自制・捨離・忍耐よりもさらにすぐれたものがこの世にあるかどうか、

ひろく世の〈道も人〉・バラモンたち、他の人々に尋ねよかし。」(242~245頁)

第Ⅺ篇 サッカ(帝釈天)に関する集成

第1章

第2節 スシーマ

□尊師は、次のように言われた。――

□「修行僧たちよ。むかし神々と阿修羅との戦闘が起こった。

□ そこで神々の主であるサッカ(帝釈天)は三十三天の神々に呼びかけた。――『友よ。もしも戦闘におもむいた神々に恐怖が起こり、戦慄が起こり、身の毛のよだつことが起こったならば、その時にはわが旗の先を見上げよ。そなたらがわが旗の先を見上げたならば、恐怖が起こっても、戦慄が起こっても。身の毛のよだつことがあっても、それは除かれるであろう。

□ もしもそなたらがわが旗の先を見上げることができなければ、神々の王であるパジャーパティの旗の先を見上げよ。そなたらがパジャーパティの旗の先を見上げたならば、恐怖が起こっても、戦慄が起こっても、身の毛のよだつことがあっても、それは除かれるであろう。

□ もしもそなたらがパジャーパティの旗の先を見上げることができなければ、神々の王であるヴァルナの旗の先を見上げよ。そなたらがヴァルナの旗の先を見上げたならば、恐怖が起こっても、戦慄が起こっても、身の毛のよだつことがあっても、それは除かれるであろう。

□ もしもそなたらがヴァルナの旗の先を見上げることができなければ、神々の王であるイシャーナの旗の先を見上げよ。そなたらが神々の王であるイシャーナの旗の先を見上げたならば、恐怖が起こっても、戦慄が起こっても、身の毛のよだつことがあっても、それは除かれるであろう。』

□ 修行僧たちよ。では、神々の主であるサッカの旗の先を見上げるときに、あるいは神々の王であるパジャーパティの旗の先を見上げるときに、あるいは神々の王であるヴァルナの旗の先を見上げるときに、あるいは神々の王であるイシャーナの旗の先を見上げるときに、恐怖が起こっても、戦慄が起こっても、身の毛のよだつことがあっても、それは除かれることもあろうし、あるいはまた除かれないこともあるであろう。

□ それは何故であろうか? 神々の主であるサッカ(帝釈天)は、欲情を離れず、憎悪を離れず、迷いを離れていないから、臆病であって、戦慄し、驚いて、逃げてしまうからである。

□ またわたしは、このように語る。――『修行僧たちよ。もしもそなたらが森の中にいとうとも、樹木の根もとにいようとも、空家(あきや)にいようとも、恐怖が起こったならば、戦慄が起こったならば、身の毛のよだつことがあったならば、その時にはわれを憶念せよ。かの尊師すなわち、敬わるべき人、全きさとりを開いた人、明知と行いとを具えた人、幸せな人、世間を知った人、人間を調練する無上の人、神々と人間との師、ブッダ、尊師はこのような人である』と。

□ 修行僧たちよ。そなたらがわたしを憶念するならば、恐怖が起こっても、戦慄が起こっても、身の毛のよだつことがあっても、それは除かれるであろう。

□ もしもわたしを憶念することができないならば、〈法〉を憶念せよ。法は尊師によって善く説かれたものである。現に効験の認められるもの、時を隔てぬもの、『来り見よ』と言われるもの、目的に導くもの、識者が各自それぞれ知るものである。

□ もしそなたらが法を憶念するならば、恐怖が起こっても、戦慄が起こっても、身の毛のよだつことがあっても、それは除かれるであろう。

□ もし法を憶念することができないならば、〈集い〉を憶念せよ。――『尊師の弟子の集いは、善く実践している。尊師の弟子の集いは真直ぐに実践している。尊師の弟子の集いは道理にもとづいて実践している。尊師の弟子の集いは方正なる実践をしているその集いとは、すなわち、四対の人々と八種の人々(四双八輩)である。尊師の弟子のこの集いは、供養さるべく、尊敬さるべく、施与を受けるべきであり、合掌さるべきであり、世人にとって無上の福田(功徳を生ずる田)である。』

□ もしそなたらが集いを憶念するならば、恐怖が起こっても、戦慄が起こっても、身の毛のよだつことがあっても、それは除かれるであろう。

□ それは、なぜであるか? 如来、敬わるべき人、全きさとりを開いた人は、欲情を離れ、憎悪を離れ、迷いを離れ、怯むことなく、戦慄せず、驚かず、逃げ去らないからである」と。(253~255頁)

第4節 ヴェーパチッティ(堪え忍ぶこと)

■ 〔或るとき尊師は〕サーヴァッティー市のジュータ林・〈孤独な人々に食を給する人〉の園にとどまっておられた。そこで尊師は、修行僧たちに告げて言われた。――「修行僧たちよ。」その修行僧たちは、「尊いお方さま!」と、尊師に答えた。

□ 尊師は次のように言われた。――

□「修行僧たちよ。むかし神々と阿修羅との戦闘が起こった。

□ そのとき阿修羅の主であるヴェーパチッティは阿修羅たちに呼びかけた。――『友よ、神々と阿修羅との戦闘がたけなわになったときに、もしも阿修羅が勝ち、神々が敗れるということになったならば、神々の主であるサッカの頸を第五の紐で縛って、阿修羅の城に、わたしのもとに連れてこい』と。

□ 神々の主であるサッカもまた、三十三天の神々に呼びかけた。――『友よ、神々と阿修羅との戦闘がたけなわになったときに、もしも神々が勝ち、阿修羅が敗れるということになったならば、阿修羅の主であるヴェーパチッティの頸を第五の紐で縛って、善法堂に、わたしのもとに連れてこい』と。

□ 修行僧たちよ。その戦闘において、神々が勝ち、阿修羅たちは敗れた。

□ そこで、三十三天の神々は、阿修羅の主であるヴェーパチッティの頸を第五の紐で縛り、神々の主であるサッカのもとに、善法堂に連れてきた。

□ さて阿修羅の主であるヴェーパチッティは頸を第五の紐で縛られていたが、神々の主であるサッカが善法堂に入ったり出たりするのを見て、口汚い粗暴なことばで罵り、誹謗した。

□ そのとき綱をもつ御者であるマータリは、神々の主であるサッカに、次の詩を以て語りかけた。――

『恵み深きサッカさま。ヴェーパチッティが面と向かって粗暴な言葉を発するのを、だまって聞いて忍んでおられるのは、こわいからですか? 無力だからですか?』

□〔サッカいわく、――〕

『わたしがヴェーパチッティの暴言を忍ぶのは、こわいからではない。また無力だからでもない。

わたしのような聞き分けある者がどうして愚か者と競い合うであろうか。』

□〔マータリいわく、――〕

『もしも制止する人がいないならば、愚人はますます猛り怒るでしょう。だから、厳しい罰を加えて、思慮ある人は愚者を制止すべきです。』

□〔サッカいわく、――〕

『わたしは、こう思う。他人が怒っているのを知ったときに、気を落ち着けて、静かにしているならば、それが愚人を制止することである。』 

□〔マータリいわく、――〕

『ヴァーサヴァよ。耐え忍ぶことのうちにはこの過失があるのを、わたしは見ます。

《かれは、わたしを恐れて忍んでいるのだ》と、愚人が思うときに、愚者は増長する。――逃げて行く人を見ると、牛がますます増長するように。』

□〔サッカいわく、――〕

『かれは《わたしを恐れて忍んでいるのだ》と思いたければ、そう思わせておけ。そう思いたくなければ、それでもよい。

善き利のうちでも最上の利である〈耐え忍ぶこと〉よりもすぐれたものは、存在しない。

或る人が力の有る者でるのに、無力な人を耐え忍ぶならば、それを〈最上の忍耐〉と呼ぶ。力のない人はつねに耐え忍ぶ。

或る人が愚者の力を力としているならば、その力を〈無力〉と呼ぶ。徳にまもられている力には、〈言い逆らう人〉がない。

怒った人に対して怒り返す人は、それによってさらに悪をなすことになるのである。怒った人に対して怒りを返さないならば、勝ちがたき戦にも勝つことになるのである。

他人が怒ったのを知っても、みずから気をつけて静かにしているならば、その人は、自分と他人と、両者のためになることを行っているのである。

自分と他人と両者のために癒そうとつとめている人を〈愚者〉だと、人々は考える。――ことわりにも通じていないのに。』

□ 修行僧たちよ。神々の主であるサッカは、みずからの功徳の果報によって生きながら、三十三天の神々の支配・統理をなしつつ、忍耐と柔和とを称讃するものとなるであろう。

□ そなたらは、このように善く説かれた教えと戒律において出家したのであるから、耐え忍ぶことと柔和とを身につけて修めたならば、輝くであろう。」(256~260頁)

第5節 善いことばによる勝利

■ サーヴァッティー市がゆかりの場所である。

□ 「修行僧たちよ。むかし神々と阿修羅との戦闘がたけなわであった。

□ そこで阿修羅の主であるヴェーパチッティは、神々の主であるサッカに次のように言った、――『神々の主よ。善いことばによって勝利せよ』と。

□ ときに、神々と阿修羅とは、仲間の者どもを並べて立たせて言った、――『これらの者どもが、われらの善いことばと悪いことばとを区別して判定するであろう』と。

□ そこで阿修羅の主であるヴェーパチッティは、神々の主であるサッカに向かって次のように言った、――『神々の主よ。詩を詠ぜよ。』

□ このように言われたので、神々の主であるサッカは、阿修羅の主であるヴェーパチッティに次のように言った、――『ヴェーパチッティよ。そなたらは、ここでは昔からの神々である。詩を詠ぜよ。』

□ このように言われたので、阿修羅の主であるヴェーパチッティは、次の詩をとなえた、――

『もしも制止する人がいないならば、愚人どもはますますて猛り怒るでしょう。

だから、厳しい罰を加えて、賢者は愚者を制止すべきです』と。

□ 阿修羅の主であるヴェーパチッティがこの詩をとなえたときに、阿修羅たちは随喜したが、神々は沈黙していた。

□ そこで阿修羅の主であるヴェーパチッティは、神々の主であるサッカに、次のように言った、――『神々の主よ。詩を詠ぜよ』と。

□ このように言われたので、神々の主であるサッカは、次の詩をとなえた、――

『わたしは、こう思う。他人が怒っているのを知ったときに、気を落ち着けて、静かにしているならば、それが愚人を制止することである。』

□ 神々の主であるサッカがこの詩をとなえたときに、神々は随喜したが、阿修羅たちは沈黙していた。

□ そこで神々の主であるサッカは、阿修羅の主であるヴェーパチッティに次のように言った、――『ヴェーパチッティよ。詩を詠ぜよ』と。

〔ヴェーパチッティはとなえた、――〕

『ヴァーサヴァよ。〈耐え忍ぶこと〉のうちにはこの過失があるのを、わたしは見ます。《かれは、わたしを恐れて忍んでいるのだ》と愚人が思うときに、愚者は増長する。――逃げて行く人を見ると、牛がますます増長するように。』

□ 阿修羅の主であるヴェーパチッティがこの詩をとなえたときに、阿修羅たちは随喜したが、神々は沈黙していた。

□ そこで阿修羅の主であるヴェーパチッティは、神々の主であるサッカに、次のように言った、――『神々の主よ。詩を詠ぜよ。』

□ このように言われたので、神々の主であるサッカは、次のもろもろの詩をとなえた、――

『《かれはわたしを恐れて忍んでいるのだ》と思いたければ、そう思わせておけ。そう思いたくなければ、それでもよい。

善き利のうちでも最上の利である〈耐え忍ぶこと〉よりもすぐれたものは、存在しない。

或る人が力の有る人であるのに、無力な人を堪え忍ぶならば、それを〈最上の忍耐〉と呼ぶ。

力のない人はつねに堪え忍ぶ。

或る人が愚者の力を力としているならば、その力を〈無力〉と呼ぶ。徳にまもられている力には、〈言い逆らう人〉は存在しない。

怒った人に対して怒り返す人は、それによってさらに悪をなすことになるのである。

他人が怒ったのを知っても、みずから気をつけて静かにしているならば、その人は、

自分と他人と、両者のためになることを行っているのである。

自分と他人と両者のために癒そうとつとめている人を〈愚者〉だと、人々は考える。――ことわりにも通じていないのに。』

□ 神々の主であるサッカがこの詩をとなえたときに、神々は随喜したが、阿修羅たちは沈黙していた。

□ そこで神々の集いと阿修羅の集いとは、次のように言った、――

□『阿修羅の主であるヴェーパチッティが詩をとなえたが、それらの詩は、暴力に関することに属し、刀剣に関することに属し、口論であり、不和であり、争いである。

□ 神々の主であるサッカが詩をとなえたが、それらの詩は、暴力に関することに属せず、刀剣に関することに属せず、口論しないことであり、不和ならざることであり、争わないことである。

神々の主であるサッカの善きことばによって勝利あれ。』

□ 修行僧たちよ。こういうわけで、神々の主であるサッカの善く説いたことばによって勝利を博した。」(260~264頁)

第6節 鳥の巣

■ サーヴァッティー市がゆかりの場所である。

□ 「修行僧たちよ。むかし神々と阿修羅との戦闘がたけなわであった。

□ その戦いにおいて阿修羅たちが勝ち、神々が敗れた。

□ 敗れた神々は、北に向かって逃れ、阿修羅たちはそれを追撃した。

□ そのとき、神々の主であるサッカは、御者のマータリに向かって詩で語りかけた、――

『マータリよ。綿の樹の林にある鳥の巣に車の轅(ながえ)を向けることを避けよ。

これらの鳥どもが巣を失ったりするよりは、むしろ阿修羅の手にかかって生命を捨てたいものだ。』

□『かしこまりました。尊いお方さま!』と御者マータリは、神々の主サッカに答えて、千頭の駿馬(しゅんめ)をつけた車を返した。

□ そこで阿修羅たちはこのように思った。――『いまや神々の主であるサッカの、千頭の駿馬のひく車が返された。神々は再び阿修羅たちと戦うのであろう』と。かれらは恐れおののいて、阿修羅の都に入って行った。

□ 修行僧たちよ。神々の主であるサッカが法によって勝ったのは、こういうふうにしてであった。」(264~265頁)

第7節 害心なし

■ サーヴァッティー市が〔ゆかりの場所である。〕

□「修行僧たちよ。むかし神々の主であるサッカが独り隠棲して静坐していたときにこのような考えが起こった。――『わたしは、わたしの敵対者に対しても害心をもたないことにしよう』と。

□ そのとき阿修羅の主であるヴェーパチッティは、神々の主であるサッカが心の中で考えていることを知って、神々の主であるサッカのもとにおもむいた。

□ ところで神々の主であるサッカは、阿修羅の主であるヴェーパチッティが遠くからやってくるのを見た。見てから、阿修羅の主であるヴェーパチッティに向かって言った。――『とまれ。ヴェーパチッティよ。そなたは〔わたしに〕捕えられたのだ。』

□『友よ。そなたは、以前に心で考えたことを捨てるな。』

□『ヴェーパチッティよ。そなたは、わたしに対していかなる害心をもいだかないことをわたしに誓え。』

□〔ヴェーパチッティいわく、――〕

『虚言を語る者の罪障、聖者を誹謗する者の罪障、

友を裏切る者の罪障、恩を知らない者の罪障、――

そなたに害心をいだく者は、まさにその罪障に触れる。スジャー妃の夫(注)よ。』」(265~266頁)

(注)スジャー妃の夫;Sujampati. 帝釈天のこと。帝釈天の妃がスジャー(Suja)なのである。(411頁)

第8節 阿修羅の主であるヴィローチャナ(または目的)

■ サーヴァッティー市がゆかりの場所である。

□ そのとき尊師は昼間はくつろいで、静坐瞑想しておられた。

□ さて神々の主であるサッカと阿修羅の主(注)であるヴィローチャナとは、尊師のもとにおもむいた。近づいてからそれぞれ門の脇によりかかって立っていた。

□ そこで阿修羅の主であるヴィローチャナは、尊師のもとでこの詩をとなえた。――

「目的が達成されるまで、人は努めなければならぬ。

その目的は、達成されたならば、みごとに輝く。

これがヴィローチャナのことばである。」

□〔サッカいわく、――〕

「目的が達成されるまで、人は努めなければならぬ。

その目的は、達成されたならば、みごとに輝く。堪え忍ぶことよりもさらにすぐれたものは存在しない。」

□〔ヴェーロチャナいわく、――〕

「一切の生きとし生けるものは、目的をめざして生まれたものである。――

あちらでも、こちらでも、それぞれ分に応じて。

ところで一切の生きものの享楽は、その目的と結合することが最高である。

これがヴェーロチャナのことばである。」

□〔サッカいわく、――〕

「一切の生きとし生けるものは、目的をめざして生まれたものである。――

あちらでも、こちらでも、それぞれ分に応じて。

ところで一切の生きものの享楽は、その目的と結合することが最高である。

その目的は、達成されたならば、みごとに輝く。耐え忍ぶことよりも、

さらにすぐれたものは存在しない。」(266~268頁)

(注)神々の主であるサッカと阿修羅の主;神々と阿修羅たちとが武器をもって互いに争うという神話は、ヴェーダ聖典、ことにブラーフマナ文献にしばしば現れるが、前者の主であるサッカ(インドラ神、帝釈天)と、後者の主であるヴィローチャナ(毘盧遮那)とが揃ってブッダのもとに赴いたことになっているから、ここでは、ブッダの権威が両者の上に位置しているのである。そうして耐え忍ぶことが最上のものであるということを力説して、結局は神々の主であるサッカの方に軍牌を挙げている。つまりその趣意は、精神的な美徳のほうが暴力、武力に打ち勝つということを説いているのである。(411~412頁)

第10節 海辺の仙人たち(あるいはサンバラ)

■ サーヴァッティー市が〔ゆかりの場所である。〕

□〔尊師は言われた、――〕「修行僧たちよ。むかし、戒律ををたもち美徳を具えている多くの仙人たちが、海岸の、木の葉で葺いた庵に静かに住んでいた。

□ そのとき神々と阿修羅との戦闘がたけなわであった。

□ さて戒律をたもち美徳を具えているそれらの仙人は、次のように思った。――『神々は正しいが、阿修羅たちは不正である。われらに阿修羅からの危険が起こるかもしれない。さあ、われらは、阿修羅の主であるサンバラのところへ行って安全をまもってくれるように懇願しよう』と。

□ そこで、戒律をたもち美徳を具えているそれらの仙人たちは、譬えば力のある男が屈した腕を伸ばし、伸ばした腕を屈するように、海岸にある木の葉で葺いた庵から姿を消し、阿修羅の主であるサンバラの面前に現われた。

□ そのとき、戒律をたもち美徳を具えているそれらの仙人たちは、阿修羅の主であるサンバラに、詩をとなえて語りかけた、――

□ 『仙人たちはサンバラのところに来て、

安全をまもってくださいと懇願しています。

危険を授けようと、安全を授けようと、

あなたの好きなようになさい。』

□〔サンバラいわく、――〕

『サッカ(帝釈天)に仕える汚れた仙人どもには、安全はあり得ない。

お前たちは安全を懇願するけれども、おれはお前たちに危険をあたえよう。』

□〔仙人たちいわく、――〕

『われらは安全を求めるけれども、あなたは危険を与える。

われらはこの危険をあなたにお返しする。

あなたには尽きることのない危険がおこるぞよ。

播いた種に応じて果実を収穫する。

善い行いをした人は、良い報いを得、

悪い行いをした人は、悪い報いを得る。

父さん! あなたは種を播いたが、その報いを受けるであろうぞよ!』

□ 次いで、戒律をたもち美徳を具えているそれらの仙人たちは、阿修羅の主であるサンバラを呪詛して、譬えば力の有る男が屈した腕を伸ばし、伸ばした腕を屈するように、阿修羅の主であるサンバラの面前で姿を消し、海岸にある木の葉で葺いた庵のうちに現われた。

□ さて阿修羅の主であるサンバラは、戒律をたもち美徳を具えているそれらの仙人たちに呪われて、その夜のうちに3回、びくっとして目が覚めた。修行僧たちよ』

第1章おわる(269~271頁)

第2章

第1節 神々(1)または誓い

■ サーヴァッティー市が〔ゆかりの場所である。〕

□〔尊師はいわく、――〕「修行僧たちよ。神々の主であるサッカがむかし人間であったときに、7つの誓戒を受けて守っていた。それらを受けて守っていたので、サッカはサッカの地位を得ることができた。

□ その7つの誓戒とは何であるか?

□〔1〕自分が生きている限り、わたしは母と父とを養おう。〔2〕生きている限り、わたしは家の中の年長者を敬おう。〔3〕生きている限り、わたしは柔和なことばを語ろう。〔4〕生きている限り、わたしはそしることばを語らないことにしよう。〔5〕生きている限り、わたしは、垢やもの惜しみ心のくっついていない心で、寛仁で、手を洗ってきよめて、施し捨て去ることを喜び、他人の懇願に応じ、施して分配することを楽しむ者として、わが家に住みたい。〔6〕生きている限りは、真実を語る者でありたい。〔7〕生きている限りは、怒ることのない者でありたい。もしもわたしに怒りが起こったならば、速やかにそれを除くことにしよう。

□ 神々の主であるサッカはむかし人間であったときに、これらの7つの誓いを立て、身に受けていた。それらを身に受けていたからこそ、サッカはサッカたる地位を受けることができたのだ。」

□〔尊師はこのように言われた。そうしてさらに次の詩をとなえられた、――〕

「母と父とを養う人、家においては年長者を敬う人、やさしい心の通う会話をなす人、そしることばを捨てた人、もの惜しみを除くのに努めている人、真実なる人、怒りに打ち克った人、――かれら三十三の神々は〈立派な人〉と呼ぶ。」(273~274頁)

第4節 貧しい人

■ 或るとき尊師は、王舎城のうちの竹林にある栗鼠飼養所にとどまっておられた。

□ そこで尊師は修行僧たちに告げて言われた、「修行僧たちよ」と。

□「尊いお方さま」と、それらの修行僧たちは、尊師に答えた。

□ 尊師は次のように言われた、――

□「修行僧たちよ、むかしこの王舎城に或る一人の男がいたが、かれは人として貧しく、哀れで、みじめであった。

□ かれは、如来の説かれた教えと戒律とに対して信仰をもち、戒めを受けたもち、学んだことを受けたもち、捨て去る心がまえを受けたもち、智慧を受けたもっていた。

□ かれは、如来の説かれた教えと戒律とに対して信仰をもっていたので、戒めを受けたもっていたので、学んだことを受けたもっていたので、捨て去る心がまえを受けたもっていたので、智慧を受けたもっていたので、身体が壊れてのちに、死後に、善いところ、天の世界に生まれて、三十三天の神々と共住するに至った。かれは、容貌と名声とでは他の神々を超えていた。

□ そこで、三十三天の神々は、呟(つぶや)き、不平を言い、憤った。――『実に不思議なことだ。実に奇妙なことだ。――この〈神の子〉が、むかし人間であったときには、貧しい人、哀れな人、みじめな人であったのに、身体が壊れて、死んだのちには、よいところ、天の世界に生まれて、三十三天の神々と共住し、容貌と名声とでは他の神々を超えるに至ったとは!』

□ そのとき、神々の主であるサッカは、三十三天の神々に告げて言った、――『友らよ。あなたがたはこの神の子について、つぶやきなさるな。この神の子は、むかし人間であったけれども、如来の説かれた教えと戒律とに対して信仰をたもち、戒めを受けたもち、学んだことを受けたもち、捨て去る心がまえを受けたもち、智慧を受けたもっていた。かれは、如来の説かれた教えと戒律とに対して信仰をもっていたので、戒めを受けたもっていたので、学んだことを受けたもっていたので、捨て去る心がまえを受けたもっていたので、智慧を受けたもっていたので、身体が壊れて、死んだのちには、よいところ、天の世界に生まれて、三十三天の神々と共住し、容貌と名声とでは、神々を超えるに至った。』

□ そこで神々の主であるサッカは、三十三天の神々を宥(なだ)めて、そのとき、次の諸々の詩句をとなえた。

 『如来に対する信仰が不動で確立し

その人の戒行がみごとで、聖者の嘉(よし)とするものであるならば、それは称讃される。

集い(サンガ)に対する浄らかな信仰があり、その人の見識が真直ぐであるならば、その人を〈貧しからず〉と呼ぶ。

その人の生活は空虚ではない。

それ故に、聡明な人は、信仰と、戒めと、澄んだきよらかな心と、真理を見ることに、努めよ。――諸々のブッダの教えを想い起こしながら。』」(279~281頁)

第5節 楽しいところ

■〔或るとき尊師は〕サーヴァッティー市のうちのジュータ林に〔とどまっておられた。〕

□ そのとき、神々の主であるサッカは、尊師のもとにおもむいた。近づいてから、尊師に敬礼して、傍らに立った。

□ 傍らに立った神々の主であるサッカは、尊師に向かって次のように言った、――「尊いお方さま。そもそも楽しい土地とは、どんなものなのですか?」

 「園のなかの霊域、林のなかの霊域、美しくつくられた浴地も、

人間の楽しいところの十六分の一にも及ばない。

村にせよ、森にせよ、低地にせよ、平地にせよ、敬わるべき人々の住む土地、――それこそ楽しい土地である。」(281~282頁)

第3章(またはサッカの関する5つの経)

第1節 斬り殺して

■〔或るとき尊師は〕サーヴァッティー市のうちのジュータ林に〔とどまっておられた。〕

□ そのとき神々の主であるサッカは尊師のもとにおもむいた。近づいてから、尊師に敬礼して、傍らに立った。

□ 傍らに立った神々の主サッカは、尊師に詩を以て語りかけた。――

 「何ものを斬り殺して安らかに臥すのですか? 何ものを斬り殺して、悲しまないのですか?

いかなる一つのものを殺害することを、あなたは嘉(よし)とするのですか?

ゴータマよ。」

□〔尊師いわく、――〕

 「怒りを斬り殺して安らかに臥す。怒りを斬り殺して、悲しまない。毒の根である最上の蜜である怒りを殺することを、聖者は称讃する。それを斬り殺したならば、悲しむことはないからである。」(291頁)

第5節 怒らぬこと(不傷害)

■ わたしはこのように聞いた。或るとき尊師は、サーヴァッティー市のうちのジュータ林・〈孤独な人々に食を給する人〉の園にとどまっておられた。

□ そこで尊師は、修行僧たちに告げて言われた。――「修行僧たちよ。」その修行僧たちは、「尊いお方さま!」と尊師に答えた。尊師は次のように言われた。

□「修行僧たちよ。むかし神々の主サッカは善法堂という公会堂において三十三天の神々を宥(なだ)めていたが、そのとき次の様な詩をとなえた。――

 『怒り打ち克たれるな。怒った人々に怒り返すな。

怒らぬことと不傷害とは、つねに気高い人々のうちに住んでいる。怒りは悪人を押しつぶす。――譬えば、山岳が〔人々を〕押しつぶすように。』」

(296~297頁)

(2021年1月28日、了)

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『仏弟子の告白(テーラーガーター)』中村 元訳 岩波文庫

一つずつの詩句の集成

第1章

■わたしの庵(いおり)はよく葺(ふ)かれ、風も入らず、快適である。天の神よ、思うがままに、雨を降らせ。わたしの心はよく安定し、解脱している。わたしは努力をつづけている。天の神よ、雨を降らせ。

尊き人・スプーティ長老(注)はこのように詩句を唱えた。(8頁)

(注)スプーティ;〔須菩提(しゅぼだい)と音写し、善吉・善現と訳す〕はシュラーヴァスティー市の長老の子として生まれた。祇園精舎を寄進した給孤独長者の子として生まれた。祇園精舎で釈尊の弟子となった。ブッダから無諍第一の弟子とたたえられた。かれは後代には空を理解すること第一といわれ、解空(げくう)、空生(くうしょう)ともいわれた。般若経典のなかでもブッダの説法の相手として常に登場している。

 かれの詩句が唯だ一つしか伝えられていないということは、上座部のほうからみると、かれは異端者であったが、後代の大乗仏教はかれを前面に押し出したということも考えられる。(234頁)

■善人で賢者であり道理を見る人々とだけ交われ。怠らずに努め、洞察をなすもろもろの賢者は、〈深遠にして、見難く、精妙にして微細である大いなる道理〉を体得する。

尊き人・マンターニの子プンナ長老(注)はこのように詩句を唱(とな)えた。

(注)プンナ;詳しくはプンナ・マンターニプッタ多数の音写名があるが、普通は富楼那(ふるな)と書く場合が多い。かれはカピラヴァウストゥから遠からぬところにあったバラモン村に生まれ、バラモン階級に属した。母はコンダンニャ長老の妹の子であった。かれは説法に巧みであった。かれはもろもろの仏弟子のうちでも「説法第一」の名声を得ていた。(234~235頁)

■かっては制御し難かったが、いまや自制によって制御されているダッバ(注1)は、満足し、疑惑を超え、勝利者となって、恐怖をいだくことがない。なぜならば、このダッバ(注2)、善良であって、完全に安らぎを得て、みずから安立しているからである。

尊き人・ダッパ長老はこのように詩句を唱(とな)えた。(9頁)

(注1)ダッパ;Dabba なる人はマッラ族の王家の生まれであったが、釈尊に会って、7歳で出家し、のち、教団の臥坐具や食事などの分配の係りとなった。またダッパマーラなる人は、教団の施設をつかさどっていたというが、恐らく同一人であろう。

(注2)dabbaとは、普通名詞としては「善良な」「有能な」という意味であり、ここに一種の語呂合わせがあるのである。(235頁)

第2章

■わが師はわたくしに言われた、――「シーヴァカと。ここから去ろう」と。わたくしの体は村に住んでいるが、わたくしの心は森に行ってしまった。わたくしは疲れて臥しているいるけれども、そこへ行こう。(事物の真相を)識っている人々に執著は存在しない。

ヴァナヴァッチャ長老の新参の若い弟子(注)(シーヴァカ)(12頁)

(注)新参の若い弟子;samanera「沙弥(しゃみ)」と訳される。(236頁)

■5つ(の下位の束縛)を断て。5つ(の上位の束縛)を捨てよ。さらに5つ(のすぐれたはたらき)を修めよ。5つの執著を超えた修行僧は、〈激流を渡った者〉と呼ばれる。

タンダダーナ長老(12頁)

■生れ(血統)の良い駿馬が、たてがみをなびかせ、尾を振りながら、難渋しないで駆けるように、汚れなき安楽が得られたときには、わが昼夜は苦難なく過ぎゆく。

ベーラッタ長老(12頁)

■大食(おおぐら)いをして、眠りをこのみ、ころげまわって寝て、まどろんでいる愚鈍な人は、糧(かて)を食べて肥る大きな豚のようである。くりかえし母胎に入って(迷いの生存をつづける)。

ダーサカ長老(12頁)

■水道をつくる人は水をみちびき、矢をつくる人は力をこめて矢を矯(た)め、大工は木材を矯め、慎しみ深い人々は自己をととのえる。

タラ長老(14頁)

第3章

■矢作りが矢を矯(た)めるように、自己を直立さしめて、心を真っ直ぐにして、無明(むみょう、根源的な無知)を断ち切れ。

ハーリタ長老(16頁)

第4章

■あたかも〔母が〕愛しきひとり児に対して善き婦人であるように、いたるところで一切の生きとし生けるものに対して、善き人であれかし。

ソーバーカ長老(17頁)

■刀が体に刺さっている場合に〔刀を抜き去る〕ように、〔ターバンを捲いた〕頭〔髪〕に火がついている場合に〔急いで火を消そうと努める(注)〕ように、生存の貪りを捨て去るために、修行僧は、気をつけながら遍歴すべきである。

ヴァッダマーナ長老(19頁)

(注)「頭燃を払う」というのは仏典にはありふれた表現で、日本の禅宗に至るまでよく口にするが、西洋の翻訳者は気がつかない。(239頁)

第7章

■(真理を)見る者は、(真理を)見る(他)人を見、また(真理を)見ない人をも見る。しかし、(真理を)見ない者は、(真理を)見る(他)人をも見ないし、また(真理を)見ない人をも見ない。

ヴァッパ長老(26頁)

(注)ヴァッパ;Vappaは、ブッダが出家して苦行していたとき、ともに修行していた5人の修行者の一人であり、鹿野苑でブッダの最初の説法を聞き、のち、さとりを得た。(241頁)

■ウッケパカタ(蓄財をなした)ヴァッチャが多念にわたって集積したものを、かれは、安坐して、高貴な歓喜にみちて、在家社たちに説く。

ウッケーパカタ・ヴァッチャ長老(27頁)

■偉大なる健(たけ)き人は、あらゆる事象の彼岸におもむいて、(わたくしを)教えみちびいてくださった。わたくしは、あの方の教えを聞いて、その御許(みもと)に楽しんで住んでいた。3つの明知を達成し、仏の教えをなしとげた。

メーギヤ長老(27頁)

■わたしの煩悩は焼きつくされた。あらゆる迷いの生存は根こそぎにされた。生まれることを繰り返す迷いの生存は滅びてしまった。いまや再び迷いの生存は存在しない。

エーカダンマ・サヴァーニーヤ長老(28頁)

■心の中で怠ることなく、絶えず聖者の道を実践している聖者、休らいに帰し、つねに気をつけている修行完成者には、もはや悲しみは存在しない。

エークッダーニヤ長老(28頁)

■全知である最上の智ある人(ブッダ)によって説かれた、大いなる味わいのある、偉大な人の教えを聞いて、不死(の境地)を得るために、道を実践した。あの方は安穏の道を究めておられる。

チャンナ長老(28頁)

■この世では、戒しめこそ最上である。また知慧ある人は、最上の人である。――人々と神神とのあいだで、戒しめと知慧の故に勝利を博する。

ブンナ長老(28頁)

第8章

■きわめて微細、微妙な道理を見、思慮に巧みで、謙虚であり、仏につかえるのを習いとした者には、安らぎ(ニルヴァーナ)は決して得難いものではない。

ヴァッチャパーラ長老(29頁)

■老いぼれた人を見て、苦しんだ人を見て、病んだ人を見て、また寿命が尽きて死んだ人を見て、そこで、わたしは、心を楽しますもろもろの欲望の対象を捨てて、家を出て、遍歴の身となった。

マーナヴァ長老(29~30頁)

■善く身を修めている人に会うのは、善い。疑いは断たれ、知慧は増大する。愚者をも賢者となす。それ故に、立派な人々とつき合うには、善い。

スサーダラ長老(30頁)

■この心は、以前には、望むところに、欲するところに、快きがままに、さすらっていた。今やわたくしはその心を適切に抑制しよう、――象使いが鉤(かぎ)をもって、発情期に狂う象を全くおさえつけるように。

ハッターローハプッタ長老(=アーローハプッタ)(31頁)

第9章

■愛しき児よ。托鉢し易く、安らかで、危険のないところへ行きなさい。悲しみに打ちひしがれるな(注)。

カッサパ長老(32頁)

(注)修行僧カッサパが幼いときに、父がなくなり、母が育てた。やがてカッサパは出家し、師釈尊とともに遠くでかけようとして、母のもとに来たとき、母はこの詩を以て教えさとしたという。「托鉢し易く、食物の得易いところへ行け」というのは、母の情である。(242~243頁)

■シーハ(注)よ。昼夜に怠ることなく、倦(う)むことなく、つとめていなさい。善いことがらを修養なさい。いろいろのものの集まりであるこの身を速やかに捨てなさい。

シーハ長老(32頁)

(注)シーハ;Sihaとは「獅子」という意味である。ブッダがこの詩を以てシーハ修行僧を教えさとした。(243頁)

■個体の〔5つの〕構成要素はありのままに見られた。迷いの生存はすべて打ち破られた。生まれることを繰り返す迷いの生存は滅びている。今や迷いの生存を再び繰り返すことはない。

バヴィッタ長老(33頁)

■わたしは実に水中から陸上に、自分を引き上げることができた。大きな水流に流されていたかのごときわたしは、〔4つの〕真理(注)を体得することができた。

アッジェナ長老(34頁)

(岡野注)〔4つの〕真理;四諦(したい)。

第10章

■(神々の召し上る)百味ある甘露の食物も、今日わたくしが頂いた食物には及ばない。――(その食物とは、)無限の見とおす力のあるゴータマ・ブッダによって説かれた真理のことである。

パリプンナカ長老(35頁)

■その人の汚れは消え失せ、食物をむさぼらず、その人の解脱の境地は空(くう)にして無相であるならば、かれの足跡は見出し難い。――空飛ぶ鳥の跡の知りがたいように。

ヴィジャヤ長老(35頁)

■かつ尊き師・釈尊族の子にしてめでたき方に敬礼したてまつる。最上の境地に達したこの方は、最上の真理を良く説き示してくださいました。

メッタジ長老(36頁)

■正しい努力をそなえ、(4つの)専念(四念処)をその境地とし、解脱の花に覆われている人は、汚れの無いものとなり、完全に安らぎに達するであろう。

デーヴァサバ長老(37頁)

第11章

■在家の生活を捨てて〔出家しても〕、堅固な決心が無くて、口先を鋤(すき)として大食(ぐら)いをして、なまけている愚鈍な人は、大きな豚のように糧(かて)を食べて肥り、くりかえし母胎に入って(迷いの生存をつづける)。

ベーラッタカーニ長老(38頁)

■たかぶりのために欺かれ、もろもろの形成された事物に汚され、いろいろの所得によって心の乱れている人々は、心の統一安定を得ることができない。

セートゥッチャ長老(38頁)

■或る目標となるものが百の特相あり、百の特徴をもっているときに、唯だ1つの部分(特相ないし特徴)のみを見る人は、愚者であり、百を見る人は賢者である。

スヘーマンタ長老(39頁)

第12章

■命は消耗してゆくのに、身体はでっぷりと肥って重く、身体の快楽のみ貪る修行者に、〈道の人〉たる善き徳性がどうしてあり得ようか。

アディムッタ長老(42頁)

■薮と樹木の多い山岳、(木や草に)覆われている名高いネーサーダカ山によって、そなたは見下されているのである。

マハーナーマ長老(注)(42頁)

(注)マハーナーマ;Mahanamaは5人の修行者の一群のうちの一人である。かれはネーサダカ山に住んでいたが、煩悩を断ずることができないで、「こんな汚れた心では、生きていても何の要があろうか。」と思って、自分が嫌になって、山頂に登って、身を投げて死のうと思って、自分自身に向かって、この詩をよんだのである。そこで思案するのは無用であると覚って、アラハット(阿羅漢)の境地に達した。(244頁)

二つずつの詩句の集成

第1章

■ところで、この世で食物や飲料を(多く)所有している人は、たとい悪いことを行なっていても、かれは愚かな人々から尊敬される。

アジナ長老(47頁)

■師が教えを説いておられるのを聞いたときに、全知者、不敗の人、隊商の主、偉大なる建(たけ)き人、最もすぐれた御者に対して、わたくしは疑いをいだく気はなかった。道に関しても、実践に関しても、わたくしに疑いは存在しなかった。

メーラジナ長老(47頁)

■屋根を粗雑に葺(ふ)いてある家には雨が洩れ入るように、心を修行していないならば、情欲が心に侵入する。

■屋根をよく葺いてある家には雨が洩れ入ることがないように、心をよく修行してあるならば、情欲が心に侵入することが無い。

ラーダ長老(47頁)

■婦女たちに束縛されない聖者たちは、安らかに眠る。実につねに警戒してまもらねばならぬ人々(婦女たち)のあいだにあっては、真実を得ることは、きわめて難しい。

□愛欲よ。われらは、お前を殺してしまった。われらは、いまやお前に負い目は無い。われらは、いまや安らぎ(ニッバーナ)におもむく。そこに至れば、悩むことがない。

ゴータマ長老(48頁)

第2章

■大海の上では、人は、小さな木片に乗っているならば、沈むように、怠け者と交わっているならば、立派に生きている人でも沈む。それ故に、努力しない怠け者を避けよ。

□離れて住む尊い人たち、熱心に瞑想に努める人たち、つねに精を出して努める聡明な人たち、と共に住むべきである。

ソーマミッタ長老(53頁)

第3章

■4つの専注すべきことがら(注1)、7つの〔さとりを得るための事柄〕、8つの〔部分より成る正しい道〕を修養して、わたしは五百劫(という過去の長い年月を)一夜のうちに回想した。

ソービタ長老(54頁)

■安穏(の境地)に達するために、わたくしは、5つの覆い(注2)を捨てて、(自分を反省して見るための)真理の鏡――自分を知りかつ見ること――を手に執って、この身体を内外にわたってすべて観察した。そうして、身体は内にも外にも空虚なものであるということを見た。

ブンナマーサ長老(55頁)

(注1)漢訳では「四念処」。

(注2)5つの覆い;欲望、嫌悪、心のざわざわすること・後悔、疑いをいう。(247頁)

第4章

■(人間の個体生存という)小さな家は無常である。わたくしは〔幾多の生涯にわたって〕あちこちに繰り返し家屋の作者(つくりて)(注)をさがしもとめて来たが、生涯をくりかえすのは、苦しいことである。

□家屋の作者(つくりて)よ! 汝の正体は見られてしまった。汝はもはや家屋を作ることはないであろう。汝の梁(はり)はすべて折れ、家の屋根は壊れてしまった。心の方向を転ぜられ、まさにこの世において消滅するであろう。

シヴァカ長老(58頁)

(注)家屋の作者;「家屋の作者」とは人間の妄執(渇愛)である。(248頁)

■(注)愛すべく喜ばしい五欲の対象をすてて、信の心によって家から出て、苦しみを終滅せしめる者であれ。

□われは死を喜ばず。われは生を喜ばず。よく気をつけて、心がけながら、死の時の至るのを待つ。

ニサバ長老(60頁)

(注)『スッタニパータ』第337詩に同じ。そこでは釈尊が自分の愛児ラーフラに対して説いた教えということになっている。(248頁)

■(注)この人はボロ切れなのである、とカッパタクラがいった。澄んだ、溢れるばかりの甘露の瓶に、(ブッダの)教えのけじめがつくられた。もろもろの瞑想を積み重ねるための境地がつくられた。

□カッパタよ。わたしがそなたの耳朶(じだ)を打つことのないように、そなたはうとうと眠りなさるな。カッパタよ。そなたは集い(サンガ)の人々のなかでうとうと眠っていたので、けじめを知らなかった。

カッパタクラ長老(61頁)

(注)この2つの詩句は、釈尊が修行僧カッパタクラを叱って言ったのである。(248頁)

第5章

■みごとな冠あり、尾が美しく、青い頸(くび)もうるわしく、面(おもて)もきれいで、美声の孔雀どもは鳴いている。この大地は緑草ゆたかに、水がみちている。空は雲が美しい。

□心喜べる人には、温良なるすがたがある。それを思え。善き人が、よきブッダの教えにおいて進み行くのは、やさしい。いとも清浄純白であり、微妙で、見難いところの、かの不死なる最上の境地に触れよ。

チューラカ長老(64頁)

■愚妹なる凡夫は、長い時期にわたって輪廻しつつ、もろもろの生存領域(注)をへめぐって来た。――(4つの)尊い真理を見ることなしに。

□そのわたしが、怠らずに修養に努めたときに輪廻は断たれ、すべての生存領域は根絶された。いまやわたしはさらに迷いの生存を繰り返すことはない。

ヴァッジタ長老(65頁)

(注)生存領域 gati(複数)。地獄、餓鬼、畜生、〔修羅〕、人間、天上の五道または六道をいう。transitionsという訳は不可。(249頁)

三つずつの詩句の集成

■以前になすべきことを後でしようと欲する人は、幸せな境地から没落して、あとで後悔する。

□実に人が(実際に)為そうとすることを語れ。為さないようなことがらを語るなかれ。(実際には)なさないのに(口先で)語っているだけの人を、賢者は知り抜いている。

□完全にさとりを開いた人の説かれた安らぎ(ニルヴァーナ)は、実にいとも楽しいものである。悲しみなく、塵埃(じんあい)なく、安穏(あんのん)であり、そこでは苦しみが滅びている。

バークラ長老(68頁)

■「これはあまりに寒すぎる」「あまりに暑すぎる」「これはあまりに夕方で遅すぎる」と、このように言って、青年が業務を放棄するならば、機会は(むなしく)過ぎ去ってしまう。

□寒さをも暑さをも、草よりも以上のものとは考えないで、人間として為すべきことを実行しているならば、その人は幸せから離れることはない。

□わたしは、遠ざかり離れる思いに専念して、ダッパ草、クサ草、ポータキラ草、ウシーラ草、ムンジャ草、パッパジャ草を、(わが)胸もて、かき分けて行こう。

マータンガプッタ長老(69頁)

□よく説かれたこと(注)を実行せよ。――(道の人)にうやまい仕えること、人々からかくれて独りで坐すこと、心を静めることを――。

(注)よく説かれたこと;仏典では仏の説法の内容がよく説かれたもの(善説)であることをいう。よいことばを語る、という意味ではない。(250頁)

ヴァーラナ長老(70頁)

■信仰によって世俗から離れ、新たに出家した新参の(修行僧)は、怠らずに清らかな生活を送っている良き友たちと交わるべきである。

□信仰によって世俗から離れ、新たに出家した新参の修行僧は、サンガ(教団)のうちに住みながら、聡明に戒律を学ぶべきである。

□信仰によって世俗から離れ、新たに出家した新参の(修行僧)は、為すべきことと為してはならぬことを心得て、心が乱されることなく行なうべきである。

ウパーリ長老(注)(72頁)

(注)ウパーリ;(優波離と音写する)は、もとカビラヴァストゥで釈迦族の宮廷の理髪師であったが、たまたまアルヌッダなど5人の貴公子に従って、釈尊がアヌピヤーに滞在していたときに、釈尊のもとに至って諸王子とともに出家した。戒律を守り、精通していたことは仏弟子たちのうちで第一であったので、「戒律第一」といわれる。第一結集のときに、律を誦出(しょうしゅつ)したとう。これらのかれの回想の詩句には、いかにも戒律を守る覚悟が示されている。(250頁)

■以前に為すべきことを後でしようと欲する人は、幸せな境地から没落して、あとで後悔する。

□実に人が(実際に)為すであろうことを語れ。為さないようなことがらを語るなかれ。(実際には)為さないのに(口先で)語っているだけの人を、賢者は知り抜いている。

□完全にさとりを開いた人の説かれた安らぎ(ニルヴァーナ)は、実にいとも楽しいものである。悲しみなく、塵埃(じんあい)なく、安穏であり、そこでは苦しみが滅びている。

ハーリタ長老(74頁)

四つずつの詩句の集成

■「われらは、この世において死ぬはずのものである」という、このことわりを他の人々は知っていない。しかし人々がこのことわりを知れば、争いはしずまる。

□人々が(ことわりを)はっきりと知らないときには、自分たちが不死であるかのごとくに振る舞う。しかし、ことわりをはっきりと知っている人々は、病人たちのあいだにおける無病者である。

□なにをしようとも、その行ないがだらしがなく、どんな誓いを立てても、汚れていて、〈清らかな行い〉もよごれているならば、大いなる果報をもたらすことはできない。

□ともに清らかな行ないを修行している人々に対して尊敬していることが認められない人は、真実の教えから遠く離れている。――虚空が大地から遠く離れているように。

サビヤ長老(78頁)

■ああ、わたしはガヤーの春祭りに来て良かった。――正しいさとりを開いたブッダが最上の教えを説いておられるのを見たのであるから。

□(ブッダは)大いなる輝きのある(徒衆の師)、最高の境地に達した、〈神々と世人との〉指導者、比類なき見通す力のある勝利者である。

□(ブッダは)偉大な象、偉大な建(たけ)き人、汚れの無い大いなる輝き、あらゆる汚れが消滅し、恐れることの無い師である。

□かの尊き師は、永いあいだ煩悩に汚れていた、邪(よこし)まな見解の絆(きずな)に縛られていたわたし、セーナカを、あらゆる束縛から開放してくださいました。

セーナカ長老(注)(79頁)

(注)セーナカ;Senakaは、もともとバラモン教の火の行者であったウルヴェーラ・カッサパの妹の子である。ガヤーの近くに住み、毎年、ガヤーで催される春の祭りに参加し霊場で沐浴していたが、たまたま、ブッダに会って、出家した。かれの回想によると、ゴータマ・ブッダに会ったことが直接の機縁となっている。(252頁)

■ゆっくりしてよい時に急ぎ、急がねばならぬときにゆっくりする愚人は、正しい道理によって処置することができないので、苦しみを受ける。

□かれのものごとは欠けて行く、――黒分(月の欠けて行く半ヶ月)における月のように。かれは恥辱を受け、友人たちと仲違いする。

□ゆっくりしてよい時にゆっくりし、急がねばならぬときに急ぐ賢者は、正しい道理によって処置することによって、幸せを獲得する。

□かれのものごとは満ちて行く、――白分(月の満ちて行く半ヶ月)における月のように。かれは名声と名誉とを獲得し、友人たちとも仲違いしない。

サンプータ長老(79~80頁)

■人々はわたしを「幸運なラーフラ」と呼んでいる。わたしは2つの幸運を受けている。1つは、わたしがブッダの子であるということであり、他の1つは、わたしがもろもろの道理を見通す眼をもっていることである。

□わたしの汚れは消滅し、わたしはもはや迷いの生存を受けることがない。わたしは、尊敬さるべき人(アラハット)、布施を受けるべき人、3種の明知のある人、不死を見る人である。

□かれらは、もろもろの欲望のため盲目となって、(よこしまな)網に覆われ、妄執の覆いをまとい、怠惰の親族に縛られている。――魚網の入口にいる魚のように。

□わたしは、その愛欲を捨てて、悪魔の束縛を断ち切り、愛執を根こそぎにし、清涼となり、安らぎに帰した。

ラーフラ長老(注)(80~81頁)

(注)ラーフラ;Rahula.羅睺羅(らごら)と音写する。釈迦とヤソーダラー妃との間に生まれた子である。釈尊がさとりを開いてのちカピラヴァストゥへ帰郷したとき、釈尊によって出家させられた。ゴータマ・ブッダは9歳のラーフラをサーリプッタ長老に託して出家させたという。20歳で具足戒を受けた。「密行第一」(戒律のこまかなところまで守ること第一)の称をうけた。ただし、かれはただし、かれは釈尊の子であるために、他の人々を軽蔑する風があり、釈尊はそれを戒めた。(『スッタニバータ』第335–342詩)

■理法(ダンマ)は、実に、理法を実践する人を護(まも)る。理法をよく実践するならば、幸せをもたらす。理法を良く実践したならば、このすぐれた功徳がある。理法を良く実践する人は、悪い境界におもむくことが無い。

□正しいことと正しくないこととの両者は、等しい果報をもたらすものではない。正しくないことは、人を地獄にみちびき、正しいことは善い境界(天上)に達せしめる。

□それ故に、もろもろの善いことがらをなす意欲を起すべきである、といった喜んでいる人は、幸せな人・(ブッダ)によって〔みちびかれている。〕道理に安住している、最上の幸せな人(ブッダ)の弟子たちは、しっかりとしていて、導かれて、最上の帰依をなすに至る。

□悪瘡の根(無明)は切除された。愛執の網は根こそぎにされた。かれは輪廻を消滅した者である。もはや〔汚れは〕少しも存在しない。――清らかな満月の夜の月のように。

ダンミカ長老(81~82頁)

■わたしは、生活のために出家した(注)。完全な戒律(具足戒)を受けて、それから信仰を得た。そうしてしっかりとした意志力をもって努力した。

ムディタ長老(83頁)

(注)教団の収入が増大して出家僧侶の生活が楽になると、信仰心からでなくて、生活のために出家する人々が現れた。ある者は不運のために出家し、或る者は生活のために出家した。そうして、生活のために出家して信仰はその後で得たのである。また世間で役に立たぬ者、生活能力のない者も、教団に入るようになった。(253頁)

五つずつの詩句の集成

■不当なることに自己を専念させて、仕事を追求している人は、もしも実行して目的を達成できないならば、「それは、わたしの運が悪いしるしだと」という。

□もしも人が、1つの不運を引き抜き、征服して、投げすてるのであれば、それは、〔負の〕骰の目のようなものであろう。またもしも人がすべてを投げ捨てるのであれば、譬えば、盲人が、なだらかな処と凹凸があって難渋する処との見分けのできないようなものであろう。

□実に人が(実際に)為そうとすることを語れ。為さないようなことがらを語るなかれ。(実際には)なさないのに(口先で)語っているだけの人を、賢者は知り抜いている。

□うるわしく、あでやかに咲く花でも、香りの無いものがあるように、善く説かれたことばでも、それを実行しない人には、実りがない。

□うるわしく、あでやかに咲く花で、しかも香りのあるものがあるように、善く説かれたことばも、それを実行する人には、実りが有る。

スプータ長老(84~85頁)

■わたしのために、ブッダはネーランジャラー河に来られた。わたしは、かれの教えを聞いて、誤まった見解を除き去った。

□(以前には)わたしは種々の祭祀(さいし)を行なっていた。わたしは、火の献供をも実行していた。――「これは清浄なことである」と考えながら。わたしは盲目の凡夫であった。

□誤った見解の密林に踏み迷い、誤まった偏執に昧(くら)まされて、盲目であり無知であったわたしは、不浄を清浄である、と考え込んでいた。

□わたしの誤まった見解は捨てられた。迷いの生存はすべて壊滅された。わたしは、いま(真に)布施に値する火(注1)の祭りを行なう。われは、修行完成者に敬礼する。

□わたしは、迷妄をすべて捨て去った。生存に対する妄執をうち破り、生れを繰り返す迷いの生存は滅びてしまった。今や迷いの生存を再び繰り返すことはない。

ナディー・カッサパ長老(注2)(88頁)

(注1)布施に値する火;ヴェーダの宗教ではdaksinaganiとは、祭壇に南方に置かれる祭火であり、anvaharya-pacanaともいい、3つの祭火の1つであるが、語が似ているので、それとの連想をもっていたのかもしれない。

(注2)ナディー・カッサパ;Nadi Kassapaは、カッサパ3兄弟のうちの2番目であり、3百人の〈火の行者たち〉とともに、ネーランジャラー河畔に住んでいたが、兄弟とともにブッダに帰依した。(254頁)

■早朝と、日中と、夕方と、日に3度、わたしは、ガヤーの春の祭りに、ガヤーで、水の流れに入って、水浴した。

□「わたしが以前に他の諸生涯においてつくった罪悪を、いまや、ここで、洗い流してしまおう」と、わたしは以前には、そのような見解をもっていた。

□(ブッダの)よく説かれたことば、真理と利(岡野?)をともなう語句を聞いて、あるがままの、真実に即した道理を、正しく観察し反省した。

□わたしは、いまや、あらゆる罪悪を洗い去り、汚れなく、身心をととのえ、清らかであり、清浄なる人の清浄なる後嗣(あとつぎ)であり、ブッダの実子である。

□8つの部分より成る流れ(八正道)のうちに跳び込んで、わたしはあらゆる罪悪を流し去った。わたしは3つの明知を体得した。ブッダの教えはなしとげられた。

ガヤー・カッサパ長老(注)(89頁)

(注)ゴータマ・ブッダがヒンドゥー教の霊場ガヤーへ来て、カッサパ3兄弟(ウルヴェーラ・カッサパ、ナディー・カッサパ、ガヤー・カッサパ)を帰依させたことは、仏教教団発展のための大きなはずみになった。ガヤー・カッサパ(伽耶迦葉)は、カッサパ3兄弟の末弟であり、ガヤーに住み、2百人の(火の行者たち)をひきいていたが、二人の兄とともにブッダに帰依した。(254頁)

■〔ブッダいわく――〕「そなたは風病(注)に悩まされているのに、人の住まない荒地である林や叢(くさむら)に住みながら、修行者としてどのようにやって行こうとするのであるか?」

□〔ヴァッカリ長老いわく――〕「この身を大いなる喜び・楽しみで遍満しながら、荒々しいことにも堪え忍んで、わたしは叢の中に住みましょう。

□〔4つの〕専注(四念処)と〔5つの〕すぐれたはたらき(五根)と〔5つの〕力とを修養しながら、またさとりを得るための〔7つの〕ことがら(七覚支)を修養しながら、わたしは叢の中に住みましょう。

□精励して努め、熱心であり、つねにしっかりと行動しながらも、一致和合している(仲間の修行者たち)を見て、わたしは叢の中に住みましょう。

□自らを制した最上の人、心の安定した人である〈正しく覚りを開いた人〉(ブッダ)を追憶しながら、昼夜に怠ることなく、わたしは叢の中に住みましょう。」

ヴァッカリ長老(89~90頁)

(注)ヴァッカリ長老が風病で悩んでいたのを知って、ブッダが見舞いに来たのである。(254~255頁)

■悪人は、咎め立てする心で、勝利者(ブッダ)の教えを聞く。そのようなことをすると、正しい真理から遥かに遠ざかる。――地が天から遥かに遠ざかっているように。

□悪人は、咎め立てする心で、勝利者(ブッダ)の教えを聞く。そのようなことをすると、正しい真理から遥かに遠ざかる。――黒分(月の欠けて行く半ヶ月)における月のように。

□悪人は、咎め立てする心で、勝利者(ブッダ)の教えを聞く。そのようなことをすると、正しい真理において乾からびる。――水の乾からびたところにいる魚のように。

□悪人は、咎め立てする心で、勝利者(ブッダ)の教えを聞く。そのようなことをすると、正しい真理において栄えない。――田に腐った種子(たね)を播いたように。

□喜びに満ちた心で、勝利者(ブッダ)の教えを聞く人は、あらゆる汚れを捨てて、心の乱されない境地を体得して、最上の静けさに到達して、汚れ無く、マ円かな安らぎを得るであろう。

ヤサダッタ長老(91頁)

六つずつの詩句の集成

■名声あるゴータマの驚異的なはたらきを見て、わたしは嫉妬と傲慢に欺かれて、最初のうちは、かれにひれ伏すことをしなかった。

□わたしの意向を知って、人間たちの御者(ブッダ)は、わたしを促した。そこで、わたしには、不思議な、身の毛もよだつ感激が起こった。

□以前にはわたしは結髪行者であったが、そのときのわたしの神通力(注1)は僅かのものであった。(釈尊に会った)そのときに、わたしはそれを捨て去って、勝利者(ブッダ)の教えにおいて出家した。

□以前には、祭祀(さいし)を行うことに満足し、欲望の領域に心が乱されていたが、のちには、欲情と嫌悪と迷妄とを根こそぎにした。

□わたしは前世の状態を知っている。わたしのすぐれた眼(まなこ)(天限、てんげん)は浄められた。神通力をそなえ、他人の心を知るものであり、すぐれた聴力(天耳、てんに)を獲得した。

□わたしが在家の生活から脱して出家したその目的である(あらゆる束縛の消滅)を、ついにわたしは達成した。

ウルヴェーラー・カッサパ長老(注2)(94~95頁)

(注1)神通力;この場合には行者として受けていた利益、人々から受ける尊敬をいう。

(注2)ウルヴェーラ・カッサパはカッサパ3兄弟のうちの長兄であり、火の献供を行なう5百人の行者の長であったが、ブッダの教化により出家した。かれの回想は迫真力をもっている。(255頁)

■ともに清らかな行ないを修行している人々に対して尊敬していることが認められない人は、真実の教えから退いている。――乾からびた水溜りの中にいる魚のように。

□ともに清らかな行ないを修行している人々に対して尊敬していることが認められない人は、真実の教えにおいて栄えない。――田に腐った種子(たね)を播いたようなものである。

□ともに清らかな行ないを修行している人々に対して尊敬していることが認められない人は、法王(ブッダ)の教えのうちにありながら、安らぎから遠く離れている。

□ともに清らかな行ないを修行している人々に対して尊敬していることが認められる人は、真実の教えから退くことがない。――水の多いところにいる魚のように。

□ともに清らかな行ないを修行している人々に対して尊敬していることが認められる人は、真実の教えにおいて栄える。――田に良い種子を播いたように。

□ともに清らかな行ないを修行している人々に対して尊敬していることが認められる人は、法王(ブッダ)の教えのうちにあって、安らぎはかれの近くにある。

マハーナーガ長老

■恣(ほしいまま)にふるまう人には、愛執(あいしゅう)が蔓草のようにはびこる。林のなかで猿が果実(このみ)を探し求めるように、かれは(この世からかの世へと)あちこちにさまよう。

□この邪悪なる妄執、世間に対する執著(しゅうじゃく)のなすままである人は、もろもろの憂いが増大する。――雨が降ったあとにはビーラナ草がはびころように。

□この世において如何ともし難いこの邪悪なる妄執に打ち克ったならば、憂いはその人から消え失せる。――水の滴(しずく)が蓮華から落ちるように。

□さあ、みなさんに告げます。――ここに集まったみなさんに幸あれ。欲望の根を掘れ。――(香しい)ウシーラ根を求める人がピーラナ草を堀るように。葦が激流に砕かれるように、悪魔にしばしば砕かれてはならない。

□ブッダのことばを実行せよ。瞬時も空しく過すな。時機を空しく過した人々は、地獄に堕ちて、苦しみ悩む。

□怠りは塵垢(ちりあか)である。塵垢は怠りに従って生ずる。つとめはげむことによって、また明知によって、自分にささった矢(とらわれ)を抜け。

マールンキヤ・プッタ長老(岡野注)

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(岡野注);この本の途中ですが、マールンキヤ・プッタ長老を描いた本の章を明日からアップしていきます。

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『ブッダ・ゴータマの弟子たち』増谷 文雄著 現代教養文庫

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15 マールンクヤ(摩羅迦)

(1)

■ここにもまた、あまりに有名ならぬ一人の仏弟子をとりあげる。その名をマールンクヤ(摩羅迦)もしくはマールンクヤー・プッタ(摩羅迦子)という。彼の名は、あまり経典のなかには現れてこないが、ただ、彼を対告衆(たいごうしゅう)すなわちブッダ・ゴータマのおしえをいただく対手とする一つの経が、いろいろの意味において、後代の仏教者もしくは仏教研究者の注目をあつめるところとなっておる。わたしもまた、そのような意味から、この仏弟子にふかい関心をよせざるをえないのである。

この経に登場するマールンクヤが、なお若者であったかどうか、どこにも確証はないけれども、わたしは、いつとはなしに、彼のうえに青年のイメージを描いているのであるが、そのうえ、かれは、うたがいもなく、哲学的思惟にふかい興味をもっていた人物であったから、今日のことばでいうならば、「哲学青年」ということばが、もっとも彼にぴったりするように思われる。

彼の出身は、コーサラ(拘薩羅、くさら)の都サーヴァッティー(舎衛城)であって、その種姓ヴァイシャ(吠舎、べいしゃ)すなわち庶民であったが、彼の父は、コーサラの国王パセーナディ(波斯匿、はしのく)に仕えて、その財務官をつとめていたというのであるから、その家はかなり富者であったにちがいない。

出家してからの彼は、その哲学好きの性向をつのらせて、しばしばブッダを訪れてた、そのころ流行の哲学的問題について問いを呈していたようである。だが、ブッダは、それらの問いにたいして、一向にはっきりした解答を与えてくれない。それが、この哲学青年には不平でならなかった。彼の思いを、いささか分析してみるならば、彼は、そのころすでに盛名たかいブッダ・ゴータマを慕って出家してきた。この人ならば、なにを問うてもずばりと素晴らしい解答を与えてくれるにちがいないと思っていた。しかるに、案に相違して、その人は、彼の呈する問いには、いつも言を左右にして、一向に素晴らしい解答を与えてはくれない。彼はいささか幻滅の悲哀を感ぜずにはいられない。そして、この経の叙述は、そのような心境の彼が、今度こそはと、腹をきめて、その師を訪れるところから始まるのである。

それもまた、彼らが例の祇園精舎にあった時のことだと記されているが、経のことばはまず、これまで彼がブッダに呈して解答を与えられなかった問いが、どのような問題であったかを、ずばり並べあげている。

第一には、「世界は常住なりや、無常なりや」ということ。この世界の存在がすべて無常である、変化するものであるということは、ブッダ・ゴータマの思想の根底をなすものである。それはもう、ブッダが解答を保留する必要など、まったく存しないところである。ここでマールンクヤが問うているのは、そのことではなく、もっと次元を異にして、この世界は時間的に無限なものであるか、それとも有限なものであるかと、そのことを問うているのである。

その第二には、「世界は有辺(うへん)なりや、無辺なりや」ということ。それは第一の問いと対をなしているのであって、ここでは、この世界は空間的に無限なものであるか、それとも有限なものであるかと問うているのである。

その第三には、「霊即身なりや、霊と身とは各別なりや」とある。今度は、世界の問題ではなくて、人間の問題である。人間の肉体と霊魂とは、どういう関係にあるか、それは、別々のものであるか、それとも同一のものなのかと問うているのである。

そして、その第四には、「タターガタは死してものちもなお存するか、それとも存せざるものか」という問いであった。それは、ずばりといえば、人間の死後の存在の問題である。

今日のわたしどもでいえば、人間は死後もなお存するものであるか、それとも存せざるものかという問いなのである。それを、なぜここでは「タターガタ」といわねばならなかったかというと、その時代においては、なお輪廻の思想が一般的に信ぜられていたからである。その思想のかんする限り、人間は死後もなお存在してさまざまの生を繰り返すというのが建前である。そのような輪廻転生のわずらわしさから解放せられた人間がすなわち「タターガタ」なのである。「タターガタ」とは、「如来」とたくされていることばであり、それは他ならぬ仏をいうことばであるが、ここでは、もっと一般的に、輪廻転生のわずらわしさを解脱した人間の意と解すべきであり、かの時代には、そのような人間について、はじめて死後の存在が問題となりえたのある。

それらの問題は、どうやら、そのころの思想家のあいだでの、いわば流行の論題であったらしく、他の経にも、ときどきそれが見えている。

マールンクヤは哲学好きの青年であったから、自分たちの師匠がそれらの論題にたいして素晴らしい解答を与えてくれることを熱望している。

それなのに、ブッダ・ゴータマは、何度つついても一向に答えてくれない。

経のことばは、彼の不満を「これらの論題は、世尊によりて説かれず、捨ておき、拒まれたり。われは、世尊がこれらをわれに説かざるを悦(よろこ)ばず、忍ばず」としるしておる。

そこで、今日もまた、説かれなかったならば、自分はもう、この師のもとでの修行をやめて世俗に還(かえ)ろう。彼は、そのような決心でブッダを訪れたのである。いや、彼は、ブッダを訪れて、その通りに申しあげたのである。それはもう、たいへんな剣幕で、「知らなければ知らないと、はっきり申していただきたい」とまでいっておる。

(2)

それに対してブッダ・ゴータマはこう仰せられた。

「マールンクヤよ、わたしは汝に、それらの問題について解答を与えてやるから、来ってわたしの許で修行するがよいといったであろうか」

そういわれると、彼もまた、「そうではございません」と答えるよりほかはない。彼が出鼻をくじかれて、悄然とした態度にかわったとき、ブッダは、一つの喩(たと)えを説いて、懇々として彼をさとした。その喩えは、古来「箭喩(せんゆ)」と称して、ひろく仏教者のあいだに語りつたえられている。漢訳の同本が、この経に題するに「箭喩経」、訳していえば「箭(や)の喩(たと)えを説いた経」という経題をもってしているのは、その喩えに重きを置いてのことと思われる。それは、おおよそ、つぎのように語られてある。

「マールンクヤよ、ここに一人のひとがあって、毒箭(どくや)をもって射られたとする。すると、彼の親友や同僚たちは、いそいで彼のために医者を迎えるであろう。だが、彼は、医者の手をおしのけて、わたしを射た人はどんな人であるか、わたしを射た弓はいかなる弓であるか、あるいは、わたしを傷つけた矢はどんな矢なのか、それらのことがことごとく知られないうちは、この矢を抜いてはならぬといったら、いったい、どういうことになるであろうか。マールンクヤよ、そうしたら、彼は、それらのことをことごとく知りえないうちに、死んでしまわねばならぬではないか。

マールンクヤよ、それとおなじことであって、もし人が、これらの問題についてわたしがことごとく語るまでは、わたしの許で清浄(しょうじょう)の行を修するわけにはゆかないといっていたのでは、彼はついに清浄の行を修する機会なくして、命を終わらねばならないであろう」

その道理に合った説得によって、マールンクヤの顔にようやく納得の色が浮かんできたとき、ブッダ・ゴータマは声をはげまして、命ずるがごとくにいった。

「その故に、マールンクヤよ、わたしの説かないないことは、説かれぬままに受持するがよろしい。また、わたしの説いたことは、説いたままに受持するがよろしい。

マールンクヤよ、では、わたしの説かなかったこととは何であろうか。わたしは、世界の常住・無常、あるいは有辺・無辺については何事も説かない。また、霊魂と肉体のこと、あるいは、死後の存在についても何事も説かない。それらのことは、道理の把握に役立たず、聖道(しょうどう)の実践に役立たたず、究極の目的の実現に役立たないからである。

では、マールンクヤよ、わたしの説いたこととは何であろうか。〈こは苦なり〉とわたしは説いた。〈こは苦の生起なり〉とわたしは説いた。〈こは苦の滅尽なり〉とわたしは説いた。また、〈こは苦の滅尽にいたる道なり〉とわたしは説いた。それらのことは、道理の把握に役立ち、聖道の実践に基礎をあたえ、究極の目的の実現に導くからなのである。

されば、マールンクヤよ、わたしの説かないことは説かれぬままに受持するがよく、また、わたしの説いたことは、説いたままに受持するがよいのである」

そこに、わたしどもは、ブッダ・ゴータマの自信にみちたことばを見ることができる。そのことばを聞いて、マールンクヤは、経のことばをもっていえば、「歓喜して、その教えを信受した」という。

(3)

では、いったい、ブッダ・ゴータマは、その哲学青年マールンクヤの呈するそれらの問題にたいして、何故に答えることを拒否したのであろうか。あるいは、ブッダのことばをもっていうならば、何故にそれらの論題を説かざれ流ままに捨ておいたのであろうか。その理由を、今日の学者たちは、なお、色々と問題にしているのである。

その理由は、さきにブッダがマールンクヤに与えたことばのなかにも、一応語られている。それは、古来の訳語のままにいえば、「利義をもたらさず」ということであり、「梵行の基礎とならず」ということであり、また「正覚(しょうがく)、涅槃に資せず」ということであった。それをわたしは、道理の把握にも役立たず、聖道の実践にも役立たず、また究極の目的の実現にも役立たないからであると意訳しておいた。だが、いったい、それらの論題を論ずることは、何故にそのように役立たないことなのであろうか。いまの学者たちは、そこまで立ち入って、なおいろいろと問題にしているのである。

なるほど、それらの論題は、もう一度要約していえば、まず、この世界が時間的に、また空間的に、有限であるか無限であるかということであり、ついで、肉体と霊魂とが一つであるか、別のものであるかということであり、さらに、人間の死後の存在が考えられるか否かということである。わたしどもは、そんなことはどうでもよいと捨ておいてよいものであるかどうか。特に、あとの二つの論題、すなわち、霊魂と肉体の問題、ならびに、死後の存在の問題はけっして関心なき能(あた)わざるところではあるまいか。もしも、それらの問題について、明快な解答が与えられるものならば、それらは、けっして、道理の把握に役立たぬものでもなく、聖道の実践に資せぬものでもあるまい。それなのに、いったい、ブッダ・ゴータマはどうしてそれらの論題に解答を与えることを拒んだのであろうか。わたしも、ながい間、この経の語るところにたいして、なお割り切れない思いを存していたのである。

しかるに、今になって気がついてみると、それらの論題は、もともと、右か左かと、明快な解答を与えることのできない問題であった。ブッダ・ゴータマがそれらの論題に解答を与えることを拒んだのは、そのことをちゃんと知っておられたと考えざるをえない。それを、西洋哲学の術後をもっていうならば、それらの論題は「アンティノミー」すなはち二律背反に属する論題であったのである。二律背反とは、たがいに相反する矛盾する命題が、同等の権利をもって主張されうることをいう言葉であって、いまマールンクヤがその師に呈した論題は、どうやら、そのようなものであったと考えられる。

その問題については、その後の仏教のなかにだって、あるいは否定的に、あるいは肯定的に語られていることを、わたしどもはよく知っている。ある者は、死を語って「四大空に帰す」といい、ある者は、「一大事とは今日ただ今のことなり」となすかと思えば、他方、「菩提をとぶらう」ことに専念し、あるいは、「来世往生」を説くものもある。いやブッダ・ゴータマその人のことばのなかにだって、その両者の言表がみられる。たとえば、ある時には、「ただ今日まさに作(な)すべきことを熱心になせ」と仰せられたかと思うと、他方においては、「かかることをなす人々は後生に善道をうるであろう」と説いて憚(はばか)らなかった。

詮ずるところ、大事なことは、これらの論題については、同等の権利をもって主張することのできる二つの答えが成立するということである。その二つの答えは、疑いもなく相反するものであり、相矛盾するするものである。それにも拘らず、二つの答えが同等の権利をもって成立するというところに、これらの論題がもつ特別の性格が存する。それを、この師はちゃんとご承知であったにちがいないのである。

しかるに、そのような問題について、いずれか一つの答えに固執する。それが却(かえ)って誤ちのもとである。そのことを、この経の漢訳同本は、「一向説」と表現している。これは真、これは虚と、一方的に裁断をくだす、そういう態度を、わたしはとらない。それをまた「われは一向にそれを説かず」とも語っておられる。だが、それを理解することは容易なことではない。だから、この師は、わたしが説かなかったことは、説かないままに受持するがよいと語られたものと思われるのである。

哲学青年マールンクヤの質問にかかわって、わたしもまた、面倒な議論を並べてしまったのであるが、ブッダ・ゴータマの弟子たちのなかには、このような哲学づいた若者もあったということ、それをこのように導きたもうたということを知っていただければ幸いである。(201~213頁)

〔岡野注;20世紀に、数学者ゲーデルは不完全性定理で、真でも偽でもない命題が存在することを証明した〕

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■カーティヤーナよ。立ち上がれ。(足を組んで)静坐せよ。眠ってばかりいるな。目ざめておれ。怠け者の親族である死王が、奸計をもって、怠惰なるそなたに打ち克つことのないように。

□譬えば大海の波のように、生と老いとが、そなたを圧倒する。だから、そなたは自己のよき島(注)(よりどころ)をつくれ。けだしそなたには、他のよりどころが無いからである。

□実に師は、もろもろの執著を超え生と老いとの恐れを超えているこの道を支配した。夜の初めから終りまで、つねに怠ることなく専念従事せよ。しっかりと修養をなせ。

□以前からの、もろもろの束縛を解放せよ。そなたは大衣をまとい、剃刀を用いて頭を剃っていて、托鉢で得た食物を食する。遊戯や快楽に耽るな。睡眠に耽るな。瞑想をなせ。カーティヤーナよ。

□カーティヤーナよ。瞑想せよ。勝利を得よ。そなたは安穏に至る道に熟達している者である。そなたは、無上の清浄を得て、円かな安らぎに達するであろう。――炎が水によって消されるように。

□光炎のか細い燈火は、風にたわめられる。――蔓草が風にたわめられるように。そのように、そなたも、執著することなく、悪魔を払い落せ。インドラと同姓の者〔カーティヤーナ〕よ。感受される事物に対する貪りを離れて、まさにこの世で清涼なるものとなって、〔死の〕時を待て。

カーティヤーナ長老(99~100頁)

(注)良き島;sudipa.「激流によって流されない洲をつくれ」と注解されている。インドでは、こうずいになると、沃野も村落もすっかり水浸しになり、平原では山は見えないから、一面に大海のようになる。その場合には、幾らか小高いところの洲がよりどころとなるのである。日本人には想像もできない光景である。(257頁)

■(智慧の)眼あり、太陽の裔(すえ)であるブッダは、あらゆる束縛を超越し、あらゆる流転を滅ぼす〔教え〕を、みごとに説かれた。

□〔その教えは〕安らぎにみちびくものであり、毒の根、刑場、を断ち切って、〔人をして〕安らぎの境地を得させる。

□それは、無智の根を断ち切ることによって、業のからくり装置を破壊し、もろもろの識別作用を固執することに対して叡智の金剛杵(という武器)を下す。

□尊い八支よりなる道(八正道)は、大いなるあじわいあり、いとも深遠にして、生と死を堰(せ)き止め、苦しみを静止させる、めでたいものである。

□それは、業を業であると知り、報いを報いであると知り、縁によって起こった諸事象をあるがままに照らして見るものであり、大いなる安穏にみちびき、静まっていて、最後には幸せとなるものである。

ミガジャーラ長老(100~101頁)

■怒りなく、みずから制し、平静に生活し、正しい知慧によって解脱して、やすらいに帰したそのような人は、どうして怒ることがあろうか。

□怒った人に対して怒り返す人は、それによって、いっそう悪をなすことになる。怒った人に対して怒らないならば、勝ち難き戦に勝つのである。

□他人が怒ったのを知って、気をつけて、自ら静かにしているならば、その人は、自分と他人と両者のためになることを行なっているのである。

□自分と他人との両者のために治療を行なっている人のことを、「愚かな奴だ!」と人々は考える。――ことわりに通達することもなく。

□もしもそなたに怒りが起ったならば、鋸(のこぎり)の譬喩に心を向けよ。もしも味に対する執著が起ったならば、子の肉の譬喩を思い起せ。

□もしもそなたの心がもろもろの欲望と迷いの生存のうちに駈けめぐるならば、正しく念(おも)いをたもつことによって速やかに抑制せよ。――穀物を食(くら)う悪しき家畜を抑制するように。

ブラフマダッダ長老(104頁)

■覆われたものに、雨が降り注ぐ。開きあらわされたものには、雨は降らない。それ故に、覆われたものを開けよ。しからば、それに雨は降り注がない。

□世の人は死によって圧迫され、老いに囲まれ、愛欲の矢に刺され、常に欲望により燻(くす)べられる。

□世人は死のために圧迫され、また老に取り巻かれ、救い手もなく、常に害される。刑罰を受けることになった盗賊のごとくである。

□死と病と老との三者は、あたかも火むらのごとくに迫って来る。これに抗うには力がない。これを逃れるには敏速さがない。

□多かろうと少なかろうと、一日(のうちの時間)を、空しく過してはならない。一夜を(無益に)捨てるならば、それだけそなたの生命は減ずるのである。

□歩んでいようと、立っていようと、臥床に横臥していても、最後の夜は迫って来る。そなたは、いまは怠けていてよい時ではない。

シリマンダ長老(104~105頁)

■人間のこの身体は、不浄で、悪臭を放ち、(花や香を以て)まもられている。種々の汚物が充満し、ここかしこから流れ出ている。

□ひそんでいる鹿を罠によって捕え、魚を釣針によって捕え、猿をねばねばしたもちで捕えるように、〔五欲の対象が〕凡夫をとらえる。

□美麗なる、色かたち、音声、味、香り、触れられるもの――これらの5つの欲望の対象は、婦女の容姿のうちに見られる。

□執著に染まった心でこれらのものを京楽する凡夫どもは、恐ろしい墓場をみたし、くりかえし迷いの生存を重ねる。

□足で蛇の頭を踏まないようにするのと同様に、よく気をつけて、もろもろの欲望を回避する人は、この世でこの執著をのり超える。

□もろもろの欲望のうちに患(わずら)いを認め、出家して世俗から離れることを(安穏)であると見なして、あらゆる欲望から離れている。わたしは、もろもろの汚れの消滅に達した。

サッカカーマ長老(105~106頁)

七つずつの詩句の集成

■高い台地の上の木陰で、最上の人(ブッダ)がそぞろ歩き(経行(きんひん))をしておられるのを見て、そこでわたしは近づいて、最上の人に敬礼した。

□衣を一つの肩にかけて、両手を合わせて、わたしは、生ける者どものうちの最上の者、汚れ無き人人につき従って、そぞろ歩きをした。

□それから、問い訊すのに巧みな知者(ブッダ)は、わたしに種々の質問を発した。わたしは、恐れることもなく、臆することもなく、師にはっきりと答えた。

□いろいろの質問をなし終えたときに、完全な人格者は、ともに喜んで、修行僧の集いを見わたして、次のことを語った、――

□「アンガ国とマガダ国の人々は幸せだなあ! かれのつくった衣服、托鉢の食物、生活必需品、臥具、かれらのなす起(た)ち上っての歓迎、ふさわしい接待を、この(ソーパーカ)が受けてくれるのだから。」また「かれらは幸せだなあ!」といって、次のように語った。――

□「ソーパーカよ。今日から以後、(会いたいと思うときには)わたしに会いに来なさい。ソーパーカよ。これが、そなたの受戒であれかし」と。

□生まれて7歳で、わたしは受戒することができて、いま最後の身体をたもっている。ああ、教えがみごとに真理に即応していることよ!

ソーパーカ長老(110~111頁)

■わたしは、手で葦を折って、庵をつくって住んだ。それ故に、わたしの名を、世間の通称でサラバンガ(葦を折る者)と呼ぶ。

□いま、わたしは手で折ってはならない。ほまれ高きゴータマは、われらのために〈学ぶべきことがら〉を制定された。

□わたし、サラバンガ、は、以前には全般にわたる総括的な〈病〉というものを見なかった。(ところが今では)神々を超えた(ブッダ)のことばを実行することによって、(わたしは)この〈病〉を見た。

□その道によって〔過去の仏である〕ヴィパッシーが行き、その道によって〔同じく過去の仏であった〕シキーとヴェッサブーとカクサンダとカッサパとが行ったところのその直き道によって、〔あなた〕ゴータマは行かれました。

□七人の目ざめた人々(七仏)は、妄執を離れ、執著することなく、消滅のうちに没入しておられる。真理そのものとなった、これらの立派な人々が、この真理を説かれたのである。

□すなはち、〔1〕苦しみと、〔2〕苦しみの成り立ちと、〔3〕(実践すべき)道と、〔4〕苦しみの壊滅である止滅という四つの尊い真理が、生きとし生けるものを慈しむために、説かれたのである。

□その境地が得られたならば、輪廻における無限の苦しみは息(や)む。この身体が壊滅するが故に、また生命の消滅するが故に、もはや他の迷いの生存はあり得ない。わたしは、あらゆることがらについて、みごとに解脱している。

サラバンガ長老(111~112頁)

八つずつの詩句の集成

■多くの〔世俗の〕仕事をしてはならない。人々を避けよ。〔雑な縁をつくり出すために〕努め励んではならない。がつがつして味に耽溺する者は、幸せをもたらす目的を見失う。

□実に、かれら(修行者)は、良家の人々からつねに受ける礼拝と供養とは、汚泥のようなものであると知っている。細かな(鋭い)矢は抜き難い。凡人は(他人から受ける)尊敬を捨てることは難しい。

□他人の行ないに依存して人の業(行ない)が悪業であるのではない。(それだから)みずからその悪い行ないを行なってはならない。なんとなれば、人々は(自分自身の)業の親族なのであるからである。

□ひとは、他人のことばによって(他人が「お前は盗んだ!」と言ったからとて)盗人であるのではない。ひとは、他人のことばによって聖人であるのではない。自分がその人のことを知っているように、神々もまたかれのことを知っている。

□「われらは、この世において死ぬはずのものである」と覚悟をしよう。――このことわりを他の人々は知っていない。しかし人々がこのことわりを知れば、争いはしずまる。

□知慧のある人は、たとい財産を失っても、生きて行ける。しかし知慧をもっていなければ、たとい財産を失っても、生きて行ける。しかし知慧をもっていなければ、たとい財産のある人でも、〔実は〕生きてはいけないのである。

□略 □略

大カッチャーヤナ長老(113~114頁)

十ずつの詩句の集成

■略 □略 □略

□知慧のある人は、たとい財産を失っても、生きて行ける。しかし知慧をもっていなければ、たとい財産のある人でも、〔実は〕生きてはいないのである。

□知慧は、聞いたことを考えて見分ける。知慧は、名誉と名声とを増大する。知慧のある人は、この世でもろもろの苦しみのなかにいても、楽しみを見出す。

□これは今日だけの定めではない。奇妙でもないし、不思議でもない。――生まれたならば、死ぬのである。そこに何の不思議があろうか。

□生まれたものには、生の次に必ず死がある。生まれ、生まれて、ここに死す。実にいのちあるものどもは、このような定めがある。

□略 □略 □略

大カッピナ長老(123~124頁)

■わたしの進歩は遅かった。わたしは以前には軽蔑されていた。兄はわたしを追い出した。――「さあ、お前は家へ帰れ!」といって。

□こうして、追い出されて、わたしは僧園の通路の小屋に、がっかりして、静かに立っていた。――なお教えのあることを期待して。

□そこへ尊き師が来られて、わたしの頭を撫でて、わたしの手を執って、僧園のなかに連れて行かれた。

□慈しみの念をもって師はわたしに足拭きの布を与えられた。――「この浄らかな物をひたすらに専念して、気をつけていなさい」といって。

□わたしは師のことばを聞いて、教えを楽しみながら、最上の道理に到達するために、精神統一を実践した。

□わたしは過去世の状態を知った。見通す眼(まなこ)(天眼)は浄められた。3つの明知は体得された。ブッダの教えはなしとげられた。

□パンタカは、千度も(神通力によって)千度も自分のすがたをつくり出し、楽しいマンゴーの林のなかで坐していた。――〔供養するための〕時が告げられるまで。

□次いで、師は、時を告げる使者をわたしのところへ派遣された。時が告げられたときに、わたしは〔跳び上って〕空中を通って〔師のもとに〕近づいた。

□師の御足に敬礼して、わたしは一方の側(かたわら)に坐した。わたしが坐したのを知って、そこで師は〔わたしの帰依を〕受けた。

□全世界の布施(尊敬)を受ける人、もろもろの献供を受ける人、人間どもの福田(福を生ずる田)は、供物を受けたもうた。

チューラパンタカ長老(岡野注;周梨槃特)(124~125頁)

■略 □略 □略 □略

□聖者は、望むところ少なく、満足して、在家者とも、出家者とも、両者とともに交じらわず、人々から離れて住むべきである。

□略 □略 □略 □略 □略

ヴァンガンタの子であるウパセーナ長老(127~128頁)

■略 □略 □略 □略 □略 □略 □略

□「(あらゆるものは)無常である」と観じて、「いかなるものも我ではない」という〔非我の〕思いと、「不浄である」という想いと、「世の中の事物について楽しまない」という〔想い〕を修養すべきである。――これが〈道の人〉にふさわしいことである。

□さとりを得るための〔7つの〕手段と、〔4つの〕神通力と、〔5つの〕すぐれたはたらきと、〔5つの〕力と、8つの部分より成る尊い道とを修養すべきである。――これが〈道の人〉にふさわしいことである。

□聖者は妄執を捨てよ。もろもろの汚れを根こそぎに壊滅せよ。解脱して住せよ。――これが〈道の人〉にふさわしいことである。

ゴータマ長老(128~129頁)

十一の詩句の集成

■略 □略 □略

□他人が護ってくれることもなく、また他人を護ることもしない修行者は、快楽を顧みることなく、安楽に臥す。

□略 □略 □略

□わたしは、師(ブッダ)に仕え、ブッダの教え(の実行)を成しとげた。重い荷をおろし、迷いの生存にみちびくものを、根こそぎにした。

□略 □略

□われは死を喜ばず。われは生を喜ばず。よく気をつけて、心がけながら、死の時が来るのを待つ。

サンキッチャ長老(131~132頁)

十二ずつの詩句の集成

■わたくしは賤しい家に生まれ、貧しくて食物が乏しかったのです。わたくしは稼業が卑しくて萎んだ花を掃除する者(注1)でした。

□人々には忌み嫌われ、軽蔑せられ、罵られました。わたくしは心を低くして多くの人々を敬礼しました。

□そのとき、全き覚りを開いた人(ブッダ)、大いなる健き人が、修行僧の群にとりまかれて、マガダ国の首都に入って来られるのを、わたくしは見ました。

□わたくしは、天秤棒を投げ捨てて、〔師に〕敬礼するために、近づきました。わたくしを憐れむが故に、最上の人(ブッダ)はそこに立ち止まっておられました。

□そのとき、わたくしは、師の御足(みあし)に敬礼して、一方の側にたって、あらゆる生きもののうちの最上者(ブッダ)に、「出家させてください」と請いました。

□そのとき、慈悲深き師、全世界をいつくしむ人は、「来なさい。修行者よ」とわたくしに告げられました。これがわたくしの授戒でありました。

□そこでわたくしは、独りで森に住んで、怠ることなく、勝者(ブッダ)が教え諭されたとおりに、師のことばを実行しました。

□略 □略 □略 □略 □略

スニータ長老(注2)(134~136頁)

(注1)萎んだ花を掃除する者;実際は、不浄物を掃除する者のことをいう。

(注2)スニータ;Snitaは王舎城における掃除人夫であったが、ブッダに会って出家した。sunita

とは、「行ないの良い」という意味である。(265頁)

十三の詩句の集成

■略 □略 □略 □略 □略 □略

□わたくしが過度の精励努力を行ったとき、世の中における無上の師、眼(まなこ)あるかたは、箜篌(くご)の譬え、〔――弦を強く張り過ぎることもなく、緩めすぎることもないようにとの教え――〕を用いて、わたしに理法を説いてくださった。

□わたしはかれの教えを聞いて、その教えを楽しんで過ごした。最高の目的を達するために、わたしは心の平静を実践した。3つの明知は体得された。ブッダの教えはなしとげられた。

□出離すること、心が遠ざかり離れることに専念し、瞋恚(しんい、しんに)をいだかないことに専念し、執著の壊滅に専念し、

□妄執の壊滅、心の迷わぬことに専念している人は、個体を構成している種々なる局面の生じ〔滅びる〕すがたを見て、心は完全に解脱する。

□完全に解脱し、心の静まった修行僧には、すでに為しおえたことに付け加えて積み重ねることは、なにも存在しない。なすべきことは、もはや存在しない。

□一つの岩塊より成る岩山が風に吹かれても微動だにしないように、すべての色かたち、味、音声、香り、触れられるもの、

□欲求されるものも、欲求されないものも、そのような立派な人を動揺させることはない。かれの心は安住し、束縛されていない。その消滅するさまを、かれは静観する。

ソーナ・コーリヴィサ長老(注)

(注)ソーナ・コーリヴィサ;漢訳では「二十億耳」「億耳」と訳される。チャンバーの長者の子であり、かってアンガ国の領土における身分の高い侍従であったが、出家した。しかしひたすら修行に精励したけれどもさとることができず、還俗(げんぞく)を決心したところ、ブッダが箜篌の喩え(=絃を強くも弱くも張たないとき、音色よく弾くことができるという)を説いたので、ついに、さとりを開いた。最後に付加された要約の文句のなかで、かれは『大神通力ある『ソーナ・コーリヴィサ長老』と呼ばれているから、大神通力でも知られた人であると考えられる。(265~266頁)

十四ずつの詩句の集成

■略 □略 □略

□楽しいことがらに浮き浮きして高ぶり、苦しいことがらにがっかりして沈み、愚人どもは、その両者に悩まされる。――-ことがらを、あるがままに見ないので。

□苦楽のうちにありながらも妄執を超えている人々は、入口の石のごとくに安定している。かれらは、浮き浮きして高ぶることもなく、がっかりして沈むこともない。

□実に、利益にも、損失にも、名声にも、名誉にも、非難にも、称讃にも、苦しみにも、楽しみにも、

□かれらは、いかなることにも汚されない。――蓮華の上の水滴のように。健き人たちは、あらゆることがらについて楽しく、あらゆることがらについて敗れることがない。

□略 □略 □略 □略

□快楽も怒りも捨て去って、種々なる生存のうちにあっても心静まり、執著することなく世の中を歩む人々、――かれらには快も不快も存在しない。

□かれらは、さとりを得るための〔7つの〕ことがら、〔5つの〕すぐれたはたらき、〔5つの〕力を修めて、最上の静けさに到達し、汚れなくして、円(まど)かな安らぎに入るであろう。

ゴーダッタ長老(142~143頁)

十六ずつの詩句の集成

■略 □略 □略 □略 □略 □略 □略 □略 □略 □略 □略 □略

□わたしは、死を喜ばず。われは生を喜ばず。あたかも雇われた人が賃金をもらうのを待つように、わたしは死の時が来るのを待つ。

□わたしは、死を喜ばず。われは生を喜ばず。よく気をつけて、心がけながら、死の時が来るのを待つ。

□略 □略

アンニャーコンダンニャ長老(注)(145~147頁)

(注)アンニャー・コンダンニャ;彼は最初の説法を聞いて弟子となった五人のうちの一人として最初に挙げられる。かれの名は漢訳では「阿苦(多)憍陳如」「了本際」などと訳されている。ブッダが鹿野苑で五人の修行者にたいして、最初の説法をしたとき、最初に阿羅漢のさとりを開いた人である。ブッダが「ああ、実にコンダンニャは悟った」とたたえたので、アンニャーシ(=悟った)が名に付けられた。(のちに、アンニャーとかアンニャータと呼ばれるようになった。)(268頁)

二十ずつの詩句の集成

■〔盗賊は言う(注)――〕「われらは過去に祭祀のために、あるいは財貨を得るために、人々を殺した。かれらは、いかんともし難く、恐怖をいだき、おびえ慄え、悲泣した。

□ところが、お前はおびえていない。顔色はますます澄んで明るくなっている。こんな大きな危険が迫っているのに、お前はどうして泣き悲しまないのか?」

□〔アディムッタ長老は答えていう、――〕「頭目(かしら)よ。望み欲することの無い者には、心の苦しみは存在しない。実に束縛が消滅してしまった人は、すべての恐怖を超越している。

□迷いの生存にみちびく妄執が消滅して、事象をありのままに見たときには、死にたいする恐怖は存在しない。――譬えば、荷をおろしたときには〔ほっとして〕もはや恐怖が存在しないようなものである。

□わたしは、清らかな行ないをよき実践して来た。道もまたよく修めた。わたしには死にたいする恐怖は存在しない。――譬えば病気が癒えたときには死にたいする恐怖が存在しないように。

□わたしは、清らかな行ないをよく実践して来た。道をもまたよく修めた。迷いの生存は味わいの無いものであるということを経験した。――毒を飲んで捨てたようなものである。

□彼岸に達し、執著することなく、つとめを果し、汚れのなくなった人は、寿命の尽きることに満足している。――譬えば、刑場から釈放された人のように。

□最上の真理の境地に到達し、全世界に対して求めることなく、かれは死を悲しむことがない。――火のついた家から脱出した人のように。

□集合してできたいかなるものでも、どのような生存が得られるのであろうとも、これらはすべて〔常住なる〕主宰者をもたないものである。――偉大なる仙人(ブッダ)はこのように説かれた。

□ブッダによって説かれたようにそのことを理解する人は、いかなる迷いの生存をも受けない。――ひとが灼熱した鉄丸をつかまないようなものである。

□われには『われが、かって存在した』という思いもないし、またわれには『われが未来に存在するであろう』という思いもない。潜在的形成力は消滅するであろう。ここに何の悲しみがあるのであろうか。

□諸事象の生起を純粋にありのままに見、(個体を構成する)諸形成力の連続を純粋にありのままに見る人には、もはや恐怖は存在しない。頭目(かしら)よ。

□世間を、草や薪に等しい、と明らかな智慧をもって観するとき、かれは、〈わがもの〉という観念を見出し得ないが故に、『われに(このものが)存しない』といって悲しむことがない。

□わたしは身体を嫌悪する。わたしは生存を求めない。この身体はやがて裂かれるであろう。そうして他の身体はもはや存在しないであろう。

□もしもそなたが欲するならば、身体についてなすべきことを為せ。そこでは、それに由来する嫌悪も愛情も、わたしには存在しないであろう。」

□かれの、身の毛もよだつ不思議なそのことばを聞いて、若者どもは刀を捨てて、次のように言った、――

□「尊い方よ。何をしたので、またあなたの師が誰であるので、また誰の教えに依って、〈悲しみのない境地〉が得られるのですか?」

□「わが師は、すべてを知る人、すべてを見る人、勝利者、大いなる慈悲ある師、全世界の人々を癒す医師である。

□そのかたが、消滅にみちびくこの無上の真理を説き示された。その教えによって、そこで〈悲しみのない境地〉が得られるのである。」

□盗賊どもは、仙人のみごとに語ったことばを聞いて、刀と武器とを捨てて、或る者どもはその仕事から離れた。また或る者どもは出家することを喜んだ。

□かれらは、出家して、幸せな人(ブッダ)の教えにおいて、覚りを得るための〔7つの〕ことがらと〔5つの〕すぐれた力とを修めて、賢者となり、心に歓喜し、嬉しくなって、感官を制して、つくり出されたものではない〈安らぎの境地〉を体得した。

アディムッタ長老(152~153頁)

(注)アディムッタ長老が母に会いに行こうとするときに、途中で、盗賊たちが、かれを捕えた。盗賊たちは、かれの肉を女神に献供としてささげようとしたのである。そのときに、盗賊たちの発した語である。(269頁)

■略 □略 □略 □略 □略 □略 □略 □略

□ (わがもの)という観念は、わたしの内部に起って、速やかに熟する。6つの接触の場(六入)を有する身体はつねにそこを流れて行く。

□その矢、すなわち疑惑を除き去るために、さぐり針を使って、他のメスを使わない医師を、わたしは見たことがない。

□わたしの内部に刺さっている矢を、誰が、刀を使わずに、傷を残さないで、抜き去ることができるであろうか?――四肢を害なうことなしに。

□毒の患いを除去するかの最上の法主(ほっす)は、わたしが深淵に堕ちたときに、陸地を、あるいは(救いの)手を示してくださるであろう。

□塵や泥を除き難い沼のうちに、わたしは沈み込んでいる。その沼は、詐欺と嫉妬と傲慢とものうさと睡眠におおわれている。

□貪欲にもとづく欲望の思いという車は、雷鳴のようなうわつき、雲のような束縛、悪しき見解を運んで行く、

□ (愛欲の)流れは至るところに流れる。(欲情の)蔓草は芽を生じつつある。その流れを誰が堰き止め得るであろうか? その蔓草を実に誰が断ち切るであろうか?

□尊い方よ。流れを堰き止める堤をつくれ。――意より成る流れが、圧力で樹をたち切ってしまうように、あなたを暴力でたち切ることがないように。

□こういうわけで、恐怖におののき、こちらの岸から彼方の岸を求めていたわたしにとって、知慧を武器として仙人の集いに侍(かしず)かれていた師(ブッダ)は救いであった。

□〔煩悩の流れに〕はこばれていたわたしに、みごとに造られた浄らかな教えの精要より成る堅固な梯子(はしご)を授け、「恐るな!」とわたしに言われた。

□〔4つの〕念いの専住という宮殿に登って、わたしが以前には尊重して考えていた人々が個人存在になずんでいるのを観察した。

□そうしてわたしが船に乗る道を見たときに、自分自身に固執することなく、最上の渡し場を見た。

□自分自身に由来し、迷いの生存にみちびく素因によって顕示された矢。――これらを休止させるために、最上の道を説き示された。

□毒の患いを除去するひとであるブッダは、永いあいだわたしのうちに潜在し永いあいだ住みついていたわたしの結び目を、断ち切ってしまった。

テーラカーニ長老(157~158頁)

■略 □略 □略 □略 □略 □略 □略

□世の中で財産のある人々を見るに、かれらは財を得ても、迷妄の故に、与えることをしない。かれらは貪欲であって、財産を蓄積して、ますます快楽を追求する。

□国王は武力をもって大地を征服し、海辺に至るまでの地域を占有し、海のこなたでは満足せず、海の彼方までも求めるであろう。

□王者も、他の多くの人々も、愛欲を離れないのに死に会い、何か不満なことがあるかのごとくに、身を捨てる。けだしこの世においてはもろもろの欲望を満たすということはありえないからである。

□略 □略 □略

□財産によっても長寿を得ず、富によって老いを除き去ることはできない。ひとの命は短くて、無常であり、変じ壊(やぶ)れるものである、と賢者は説く。

□富者も貧者もともに(死に)触れられる。愚者も賢者もまた同じく(死に)触れられる。愚者は、愚かさの故に殺されたかのごとくに臥す。しかし賢者は(死に)触れられてもおののかない。

□それ故に、知慧は財よりもすぐれている。知慧によってこそ人はこの世で究極に到達するのである。実に究極に到達しない人々は、迷妄の故に、種々の生存において、もろもろの悪い行ないをなす。

□略 □略 □略 □略 □略 □略 □略 □略 □略

ラッタパーラ長老(158~161頁)

■愛らしく好ましいすがたに心をとどめる人は、いろ・かたちを見ては、心の落ち着きが失なわれる。欲情に染まった心をもって、それを感受し、それに執著したままでいる。

□いろ・かたちから生ずるかれの多数の感受は増大する。かれの貪欲と悩害心もまた増大する。そこでかれの心は害なわれる。このように苦しみを積みかさねる人は、安らぎから遠く隔たっている、と言われる。

□愛らしく好ましいすがたに心をとどめる人は、音声を聞いては、心の落ち着きが失なわれる。欲情に染まった心をもって、それを感受し、それに執著したままでいる。

□音声から生ずるかれの多数の感受は増大する。かれの貪欲と悩害心もまた増大する。そこでかれの心は害なわれる。このように苦しみを積みかさねる人は、安らぎから遠く隔たっている、と言われる。

□愛らしく好ましいすがたに心をとどめる人は、香りを嗅いでは、心の落ち着きが失なわれる。欲情に染まった心をもって、それを感受し、それに執著したままでいる。

□香りから生ずるかれの多数の感受は増大する。かれの貪欲と悩害心もまた増大する。そこでかれの心は害なわれる。このように苦しみを積みかさねる人は、安らぎから遠く隔たっている、と言われる。

□愛らしく好ましいすがたに心をとどめる人は、味を味わっては、心の落ち着きが失なわれる。欲情に染まった心をもって、それを感受し、それに執著したままでいる。

□味から生ずるかれの多数の感受は増大する。かれの貪欲と悩害心もまた増大する。そこでかれの心は害なわれる。このように苦しみを積みかさねる人は、安らぎから遠く隔たっている、と言われる。

□愛らしく好ましいすがたに心をとどめる人は、触れられるものに触れては、心の落ち着きが失なわれる。欲情に染まった心をもって、それを感受し、それに執著したままでいる。

□触れられるものから生ずるかれの多数の感受は増大する。かれの貪欲と悩害心もまた増大する。そこでかれの心は害なわれる。このように苦しみを積みかさねる人は、安らぎから遠く隔たっている、と言われる。

□愛らしく好ましいすがたに心をとどめる人は、思考の対象を知っては、心の落ち着きが失なわれる。愛情に染まった心をもって、それを感受し、それに執著したままでいる。

□思考の対象から生ずるかれの多様の感受は増大する。かれの貪欲と悩害心もまた増大する。そこでかれの心は害なわれる。このように苦しみを積みかさねる人は、安らぎから遠く隔たっている、と言われる。

□かれは、もろもろのいろ・かたちになずまない。いろ・かたちを見ては、よく気をつけている。心に愛執を離れて感知し、しかもそれに執著していない。

□かれはいろ・かたちを見て、感受作用を感じていても、(業が)尽きて、もはや積まれることがないように、気をつけてくらしている。かれはこのようにして苦しみを除いて行くので、安らぎはかれの近くにある、と言われる。

□かれは、もろもろの音声になずまない。音声を聞いては、よく気をつけている。心に愛執を離れて感知し、しかもそれに執著していない。

□かれは音声を聞いて、感受作用を感じていても、(業が)尽きて、もはや積まれることがないように、気をつけてくらしている。かれはこのようにして苦しみを除いて行くので、安らぎはかれの近くにあると言われる。

□かれは、もろもろの香りになずまない。香りを嗅いでは、よく気をつけている。心に愛執を離れて感知し、しかもそれに執著していない。

□かれは香りを嗅いで、感受作用を感じていても、(業が)尽きて、もはや積まれることがないように、気をつけてくらしている。かれはこのようにして苦しみを除いて行くので、安らぎはかれの近くにあると言われる。

□かれは、もろもろの味になずまない。味を味わっては、よく気をつけている。心に愛執を離れて感知し、しかもそれに執著していない。

□かれは味を味わって、感受作用を感じていても、(業が)尽きて、もはや積まれることがないように、気をつけてくらしている。かれはこのようにして苦しみを除いて行くので、安らぎはかれの近くにあると言われる。

□かれは、もろもろの触れられるものになずまない。触れられるものに触れては、よく気をつけている。心に愛執を離れて感知し、しかもそれに執著していない。

□かれは触れられるものに触れて、感受作用を感じていても、(業が)尽きて、もはや積まれることがないように、気をつけてくらしている。かれはこのようにして苦しみを除いて行くので、安らぎはかれの近くにあると言われる。

□かれは、もろもろの思考の対象になずまない。思考の対象を識別しては、よく気をつけている。心に愛執を離れて感知し、しかもそれに執著していない。

□かれは思考の対象を識別して、感受作用を感じていても、(業が)尽きて、もはや積まれることがないように、気をつけてくらしている。かれはこのようにして苦しみを除いて行くので、安らぎはかれの近くにあると言われる。

マールンキャプッタ長老(注)(161~165頁)

(注)パーリ聖典ではMalunkyaputtaまたはMalukyaputta(Malukya女の子息)として出て来る。或る日かれが釈尊を訪ねて、教えを簡潔に述べてくださいと頼んだので、このように教えたのだという。また、右に対応するマールンキャプッタの記事は、他の文献にも出て来るが、それによると、マールンキャプッタは老齢であったが、この教を聞いて出家し、アラハット(阿羅漢)となったという。(273~274頁)

■わたしが乗るためには、柔らかい布が象の頸に敷かれていたし、またわたしは、サーリ米の御飯に浄肉のスープをふりかけて食べてきたが、〔幸福ではなかった。〕

□しかるに、今日、幸運にも、忍耐強い者となり、残飯が鉢に盛られたのを楽しみながら、ゴーダーの子・バッディヤは、執著することなく、瞑想にふける。

□(注1)ボロ布でつづった布を着て、忍耐強い者となり、残飯が鉢に盛られたのを楽しみながら、ゴーダーの子・バッディヤは、執著することなく、瞑想にふける。

□托鉢によって得た食物だけを食べて、忍耐強い者となり、残飯が鉢に盛られたのを楽しみながら、ゴーダーの子・バッディヤは、執著することなく、瞑想にふける。

□三種の衣だけを着て、忍耐強い者となり、残飯が鉢に盛られたのを楽しみながら、ゴーダーの子・バッディヤは、執著することなく、瞑想にふける。

□家の貧富をえらばずに托鉢して、忍耐強い者となり、残飯が鉢に盛られたのを楽しみながら、ゴーダーの子・バッディヤは、執著することなく、瞑想にふける。

□独りで坐して、忍耐強い者となり、残飯が鉢に盛られたのを楽しみながら、ゴーダーの子・バッディヤは、執著することなく、瞑想にふける。

□一つの鉢に盛られる食物だけを食べて、忍耐強い者となり、残飯が鉢に盛られたのを楽しみながら、ゴーダーの子・バッディヤは、執著することなく、瞑想にふける。

□食事の時を過ぎては食事しないで、忍耐強い者となり、残飯が鉢に盛られたのを楽しみながら、ゴーダーの子・バッディヤは、執著することなく、瞑想にふける。

□森に住んで、忍耐強い者となり、残飯が鉢に盛られたのを楽しみながら、ゴーダーの子・バッディヤは、執著することなく、瞑想にふける。

□樹の下に住んで、忍耐強い者となり、残飯が鉢に盛られたのを楽しみながら、ゴーダーの子・バッディヤは、執著することなく、瞑想にふける。

□屋外に住んで、忍耐強い者となり、残飯が鉢に盛られたのを楽しみながら、ゴーダーの子・バッディヤは、執著することなく、瞑想にふける。

□死骸の棄て場所に住んで、忍耐強い者となり、残飯が鉢に盛られたのを楽しみながら、ゴーダーの子・バッディヤは、執著することなく、瞑想にふける。

□指定された場所に住んで、忍耐強い者となり、残飯が鉢に盛られたのを楽しみながら、ゴーダーの子・バッディヤは、執著することなく、瞑想にふける。

□(注2)坐ったままで横臥しないで、忍耐強い者となり、残飯が鉢に盛られたのを楽しみながら、ゴーダーの子・バッディヤは、執著することなく、瞑想にふける。

□略 □略 □略 □略 □略 □略

□かつて、わたしは、高く円い城壁をめぐらされ、堅固な見張り塔や門のある城の中で、剣を手にした人々に護られながら、しかもおののいて住んでいた。

□今日、幸運にも、恐れおののくことなく、恐怖・戦慄を断ち切って、ゴーダーの子・バッディヤは、森に潜んで、瞑想にふける。

□幾多の戒しめに安住して、心の落ち着きと知慧とを修めて、わたしは、順次に、あらゆる束縛の消滅を体得した。

カーリゴーダの子であるバッディヤ長老(168~171頁)

(注1)から(注2)までに説かれていることが、いわゆる十三頭陀行である。しかし十三頭陀行としては言及してはいないから、十三頭陀行という項目(法数)は『テーラガーター』がつくられた頃にはまだ成立していなかったのであろう。〔しかしまた成立してはいたが、詩句のうちには明示しなかったのであるとも考えられる。〕そしてこのような修行法は、精舎の建物の中に住んだ後代の修行僧の生活とは著しく異なるものであった。(274頁)

■〔アングリマーラが問うて言った、――〕「(道の人)よ。あなたは歩いているのに『わたしは立っている』といい、また、わたしが立っているのに、あなたは『わたしは立っていない』と言います。(道の人)よ。あなたは何故に、『あなたは立っているのに、わたしは立っていない』というのですか? わたしはあなたにこの意義を質問します。」

□〔ブッダは答えた、――〕「アングリマーラよ。わたしは、一切の生きとし生けるものどもに対する暴力を抑制して、つねに立っています。しかるに、そなたは生きるものどもに対して〔害する心を〕抑制していない。それ故に、わたしは(静かに)たっているが、そなたは(静かに)立ってはいないのです。」

□〔アングリマーラは言った、――〕「ああ、わたしの尊崇する大仙人、道の人、が大きな林に入られてから、永い時が過ぎた。では、真理にかなった、あなたの詩句を聞いて、わたしは千にも達する数多くの悪業(あくごう)を捨てましょう」と。

□盗賊は、このように言って、刀と武器とを穴や断崖や深い溝のなかに投げ落とした。盗賊は幸せな人(ブッダ)の両足に敬礼して、その場で出家することをブッダに懇請した。

□神々と世間との師である大仙人、慈しみ深いブッダは、かれに向かって、「修行者よ。さあ、来なさい」と言った。まさにこのことで、かれは、修行僧立つ資格を得たのである。

□以前には怠りなまけていた人でも、のちに怠りなまけることが無いなら、その人はこの世の中を照らす。――雲を離れた月のように。

□以前には悪い行いをした人でも、のちに善によってつぐなうならば、その人はこの世の中を照らす。――雲を離れた月のように。

□たとい年の若い修行僧でも、仏の道にいそしむならば、その人はこの世を照らす。――雲を離れた月のように。

□すべての方角の者どもは、わたしについて、真理に関する談話を聞け。すべての方角の者どもは、わたしについてブッダの教えにいそしめ。すべての方角の者どもは、わたしについて、真理を体得した心静かなる人々と交われ。

□すべての方角の者どもは、わたしについて、忍耐を説く人々、不抗争を称讃する人々の説く教えを、適当な時に聞け。そうして、それにしたがって実行せよ。

□かれは実にわたしをも害することなく、また他のいかなる人をも害することがないであろう。最高の静けさに到達し、動く者でも動かないものでも(すべての生きものを)守るであろう。

□水道をつくる人は水をみちびき、矢をつくる人は矢を矯(た)め、大工は木材を矯め、賢者は事故をととのえる。

□或る人々は、杖とか、鉤とか、鞭とかで調練する。わたしは、杖にもよらず、刀にもよらずに、立派な人に超練された。

□以前には、わたしは加害者であったが、わたしの名は「傷害せざる者」である。いま、わたしは、真に名前のとおりの者である。わたしは、いかなる人をも害することがない。

□わたしは、以前には「アングリマーラ」(切った指でつくった輪をかけている者)という悪名で知られていた。大きな激流に流されていたが、すでにブッダに帰依するに至った。

□わたしは以前には手が血で染められ、「アングリマーラ」という悪名で知られていた。わたしが帰依するのを見よ。迷いの生存にみちびく素因は、根だやしにされた。

□略 □略 □略 □略 □略

□森の中で、あるいは樹木の根もとで、山の中で、あるいは洞窟の中で、至るところで、そのとき、わたしはおびえていた。

□(しかし今では)わたしはしあわせに臥し、幸せに立ち、幸せに生活を送っている。悪魔の縄にかかることもない。ああ、わたしは師の慈しみを蒙っているのである。

□略 □略

□わたしは、師(ブッダ)に仕え、ブッダの教え(の実行)をなしとげた。重い荷をおろし、迷いの生存にみちびくものを、根こそぎにした。

アングリマーラ長老(注)(171~175頁)

(注)アングリマーラは、盗賊であったが、釈尊の教化を受けて、きっぱりと人殺しを止めた。(276頁)

■略 □略 □略 □略

□聖者は托鉢から帰って来て、供(とも)もなく、独りでいる。汚れなきアルヌッダはボロの布切れを探し求める。

□思慮あり汚れなき聖者アルヌッダは、ボロの布切れを選び、取り、洗い、染めて、(綴じて)着た。

□略 □略 □略

□世間における無上の師は、わたしの意向を知って、神通力によって、心のはたらきだけで現わし出した身体を以て、近づいて来られた。

□わたしが、横臥しないで坐っている行(常坐不臥)を始めてから55年が経過した。無気力なものうさを根だやしにしてから25年が経過した。

□心の安住せるかくのごとき人には、すでに呼吸がなかった。欲を離れた聖者はやすらいに達して亡くなられたのである。

□ひるまぬ心をもって苦しみを耐え忍ばれた。あたかも聖火の消え失せるように、心が解脱したのである。(岡野注;ブッダの臨終の場でのアヌルッダの言葉だろう)

□略 □略 □略 □略 □略 □略 □略 □略 □略 □略 □略 □略□略

アルヌッダ長老(注)

(注)アルヌッダ;阿那律(あなりつ)。仏弟子のうちでは天眼第一といわれた。アルヌッダに関する伝説は、種々さまざまで必らずしも一致しない。若干の所伝よると、アルヌッダはシャカ族に生まれたが、かっては貧しい食物運搬人であった。しかしかれは出家して、55年間常坐不臥の行を修して、ものうさをほろぼし、ヴァッジ族のヴェールヴァ村の竹林でなくなった。他の所伝によると、かれは、仏教信者マハーナーマの弟で、釈尊の従弟に当る。釈尊の教えを聞いている最中に居眠りをして、釈尊の叱責を受け、それ以後、不眠の誓いを立てて、精励したから、ついに失明した。だが、天眼(=智慧の眼)を得たという。釈尊の死の直後に、慟哭し悲嘆する弟子たちを慰めて激励した。(277頁)

■略 □略 □略 □略 □略 □略 □略 □略 □略 □略

□もろもろの悪しき特質と煩悩とのはびこる時期である。遠ざかり離れることを実践している人々は、まだ正しい教えをいくらか残している人々であって、……。

□それらの煩悩は、増大しつつ、多くの人々に侵入する。悪鬼が狂人と戯れるように、それらは愚人と戯れるのだと、わたしは思う。

□それらの人々は、もろもろの煩悩に制圧されて、煩悩のもととなるものを追って、それぞれ走って行く。――みずから物を捉えたときの大声で叫ぶように。

□かれらは、正しい教えを捨てて、互いに争う。かれらは(誤まった)見解に従って、「これこそ勝(すぐ)れている」と考える。

□かれらは財と妻子とを捨てて家を出て行ったのに、一椀の食を乞うためにさえも、なしてはならないことを為すのを習いとしている。

□かれらは、腹がふくれるほどに食べて、背を下にして臥している(注)。目がさめると雑談をしている。――雑談をするのは、師の禁ぜられたことであるのに。

□あらゆる職人の技術を重んじて、それらを習得するが、内心は安らかではない。これが「修行者としての生活の目標」なのである。

□かれらは、塗料、油、粉抹、水、座具、食物を、世俗の在家者たちに贈って、(返礼として)ますます多くを得ようと望んでいる。

□楊枝、カピッタの果実、花、噛む食物、鉢にみちた豊かな托鉢食、マンゴーの実、アーマラカの実を(も贈って、ますます多くを得ようと望んでいる。)

□医薬に関しては医師のように、為すべきことと為すべからざることに関しては在家者のように、粧い飾ることに関しては遊女のように、権威に関しては王族のように〔ふるまう。〕

□かれらは、奸詐(かんさ)なる人、欺瞞する者、放埒なる者どもであって、多くの術策を弄して、財を受用する。

□かれらは会議を開催するが、それは(わざわざ)業務をつくり出すためであり、真理を実現するためではない。かれらは他人に法を説くが、それは(自分たちの)利得のためであり、(実践の)目的を達成するためではない。

□かれらは、教団(の修行生活)の外にありながら、教団の利得に関して争う。慚愧の心の無いかれらは、他人からの利得に依って生活していながら、恥じることがない。

□或る人々は、そのように、剃髪し、重衣をまとっているが、修行に勤めないで、利得や供養を得ることにうつつをぬかし、尊敬されることだけを求めている。

□このように、種々のことがらが過ぎ去ると、今や、あのように、未だ体得しないことを体得し、またすでに体得したことを護りつづけるということは、容易ではない。

□あたかも、履物をはかないで、棘のある道を、しっかりと心を落ち着けて、歩むように、聖者は村の中を歩めよ。

□昔のヨーガ行者を追憶し、かれらの行いを想いつづけて、たとい今が最後の時となろうとも、不死の境地を体得せよ。

□道の人・〔5つの〕すぐれたはたらきを修養した人・バラモン・仙人である〔パーラーパリヤ〕は、再び迷いの生存を繰り返すことを滅ぼし、以上のことを語って、サーラ樹の林の中で、まどかな安らぎに入った。

パーラーパリヤ長老(178~180頁)

(注)背を下にして仰臥するのは、教養の無い人々の寝かたである。「稚児の寝かた」(立花注)。修行僧(ビク)や教養のある人々は、右脇を下にして、〔頭を北に向けて〕臥すのがきまりである。仏の涅槃像にみられるあの臥し方が理想なのである。(278頁)

三十ずつの詩句の集成

■みずからを修め、よく制御している多くの信者たちを見て、パンダラサ姓の仙人は、プッサという名の〔修行僧〕に、尋ねた。――

□「未来の世の中には、人々はどのような欲望をもっているのでしょうか? どのような意向をもっているのでしょうか? どのようなふるまいをするのでしょうか? あなたにお尋ねしますが、どうか、わたくしに説明してください。」

□〔プッサは答えた、――〕「パンダラサという仙人よ。わが説くところを聞け。よくこれを思念せよ。わたしは(そなたのために)未来を語ろう。

□未来においては、怒り、また恨み、(己れの悪を)覆い、強情で、偽り、嫉妬し、異なった言説を語る者が多いだろう。

□21偈略(岡野)

□心汚れ、尊敬の念のない僧尼は、未来において、慈悲心ある立派な人々を罵るであろう。

□智慧劣り、俗悪で、恣(し、ほしいまま)に欲にふけっている愚者は、〔法〕衣をたもつことを長老から教えられても、これを聴かないだろう。

□このように教えを受けても、これらの愚者は互いに相敬うことなく、あたかも荒れ馬が馭者に対するがごとく、師の言に注意することがないだろう。

□(注)最後の時が来たならば、未来における僧尼らの行跡はこういう風であろう。

□未来にこの大きな恐怖が迫って来る前に、そなたらは、ことばやさしく、心が和らいで、互いに尊敬する者であれ。

□慈しみの心あり、憐れみ深く、戒めをよく守り、精励努力し、果敢で、つねに剛勇であれ。

□なおざりは恐ろしいことだと見なし、精励は安穏の境地であると見なし、不死の境地を体得して、8つの支分よりなる道(八正道)を実践せよ。」

プッサ長老(183~186頁)

(注)ここでは未来についての予言のかたちをかりて、当時の教団の堕落した有様を記しているのである。〔現在のような悪い世の中になることは、すでに昔の偉人によって予言されていたと考えて、予言のかたちで過去世または現在世の堕落を説くことは、ヒンズー教のブラーナ聖典と共通である。〕(279頁)

■6偈略

□悪い欲望をいだき、怠惰で、元気が無く、学ぶこと少なく、他人を尊敬しないような人が決してわたくしにはかかずらいませんように。――その人はこの世において、そもそも、何にかかずらうでしょうか?

□ひろい学識があり、聡明であり、もろもろの戒行によく専心し、そして、心の平静をうることに専念する者――〔かれこそ、わが〕頭上に立て。

□ひろがる妄想にふけり、妄想を喜びとする獣〔のごとき者〕、――かれは、無上の安らぎ、安穏を獲得するにいたらない。

□妄想を捨てて、妄想のない道を楽しむ者、――かれは、無上の安らぎ・安穏を体得するに至る。

□村でも、林でも、低地でも、平地でも、聖者たちの住む土地は、楽しい。

□2偈略

□(他人を)訓戒せよ。教えをさとせ。宜しくないことから(他人を)遠ざけよ。そうすれば、その人は善人に愛され、悪人から疎まれる。

□〔真理を見る〕眼ある尊き師・ブッダは、他の一人のひとのために、真理の教えを説かれた。教えが説かれているとき、〔道を〕求めるわたしは、耳をそば立てた。

□かれは、こころ静かに、やすまり、思慮して語り、心が浮わつくことなく、もろもろの悪しき性質を吹き払う。――風が樹の葉を吹き払うように。

□こころ静かに、やすまり、思慮して語り、心が浮わつくことなく、もろもろの悪しき性質を吹き捨てよ。――風が樹の葉を吹き捨てるように。

□こころ静かに、煩労(はんろう)なく、心が清く澄んで、けがれなく、性行が良く、聡明であり、苦しみを滅ぼす者であれ。

□こういうわけで、或る在家の人々をも、さらに出家者さえも、信頼してはならない。もとは善良であっても、のちに不良となる者どもがいる。また、もとは不良であっても、のちに善良となる人々がいる。

□官能的欲望と、害心と、ものうさと、ざわつきと、疑惑――、これらの5つは、修行者にとって、心の汚れである。

□尊敬をうけていても、また尊敬されていなくても、どちらであろうとも、つとめはげんで生活する者は、精神の安定がゆらぐことがない――

□瞑想し、堅忍不抜で、もろもろの見解を微細なところまで洞察し、執著を滅すのを楽しんでいる人、――かれを(立派な人)と呼ぶ。

□5偈略

サーリープッタ(岡野注;舎利弗)長老(186~191頁)

■(注1)聡明な人は、――二枚舌を使う人、怒り易い人、けちな人、そして(他人の)破滅を喜ぶ人と、つき合ってはならない。悪人と交わるには、わざわいである。

□(注1)略

□見よ、粉飾された形体をを!(それは)傷だらけの身体であって、いろいろのものが集まっただけである。

□(注2)学識あり、みごとに談論し、ブッダの侍者であるゴータマ(アーナンダ)(注3)は、〔重き〕荷をおろし、束縛を離れ、執著を離れ、執著を超え、よく心の安らぎをえ、生死の彼岸に達し、最後の身体をたもっている。

□(注4)太陽の裔(すえ)であるブッダの〔説いた〕もろもろの教えの基礎となっている、かの安らぎに至る道の上に、このゴータマ(アーナンダ)は立っている。

□(注5)わたしは、ブッダから八万二千〔の教え〕を受けました。また修行者たちから二千〔の教え〕を受けました。――こういうわけで八万四千の教えが行われているのです。

□学ぶことの少ないこの人は、牛のように老いる。かれの肉は増えるが、かれの智慧は増えない。

□2偈略

□一を聞いて百を知り、意義を知り、ことばや語句に精通する者は、よく会得し、そして意義を探求する。

□忍受することによって〔なそうという〕欲求が生じる。努力してこれを測定する。内によく心の安定した人は、時に応じて、奮励する。

□学識あり、真理の教えをたもち、智慧あり、真理を理解しようと願うブッダの弟子、――このような人に親しみ仕えよ。

□学識あり、真理の教えをたもつ人は、大いなる仙人の〔宝の〕蔵を守護する人、全世界の人々の眼(まなこ)である、――〔この〕学識ある者は、尊敬さるべきである。

□真理を喜び、真理を楽しみ、真理をよく知り分けて、真理にしたがっている修行者は、正しいことわりから堕落することがない。

□身体を〔動かすのを〕惜しんで、もの倦き思い、ただ肉体の快楽を貪るものには、どこから〈道の人の〉快さが起こるであろうか?――〔身体が刻々に〕衰えて行くのに奮起もしないで。

□(注6)四方、さだかに見えず、教えもまた、わたしにとって明らかでない。善き友がこの世を去って、暗黒〔に覆われたよう〕におもわれる。

□(注7)友が世を去り、師も逝去されてしまった者にとっては、〔もはや〕(身体に関して心がけること)ほどの〔良き〕友は存在しない。

□むかしの人々は、すでに去り、新しい人々は、わたしとなじまない。今日、わたしは、ただ独り思いに耽る。――雨のために巣ごもりする鳥のように。

□(注8)〔わたしに〕会おうと、諸国から来た多くの人々、教えを聞こうとする〔それらの〕人々をさえぎってはならない。かれらを、わたしに会わせるがよい。まさに、その時である。

□〔師ブッダを〕見ようと、ひろく諸国から来た人々に、師はそれ(謁見)を許し、眼あるかた(ブッダ)はそれをさえぎらなかった。

□ (注9)二十五年(注10)の間、わたしは、学ぶ者であったが、官能的欲望の想いは起らなかった。見よ、――教えが真理にみごとに即応していることを!

□二十五年の間、わたしは、学ぶ者であったが、いかりの想いは起らなかった。見よ、――教えが真理にみごとに即応していることを!

□二十五年の間、わたしは慈愛にあふれた身体の行いによって尊き師のおそばに仕えた。――影が身体から離れないように。

□二十五年の間、わたしは慈愛にあふれたことばの行いによって尊き師のおそばに仕えた。――影が身体から離れないように。

□二十五年の間、わたしは慈愛にあふれたこころの行いによって尊き師のおそばに仕えた。――影が身体から離れないように。

□ブッダが経行(きんひん)されているとき、わたしは、その後からつき従って経行した。また、ブッダが教えを説かれているとき、わたしに智慧が生じた。

□わたしは、まだなすべきことのある身であり、学習する者であり、まだ心の完成に達しない者であった。それなのに、わたくしを慈しみたもうた師は、円(まど)かな安らぎに入られた〔亡くなられた〕。

□あらゆるすぐれた徳性を具えた覚者が、円かな安らぎに入られたとき、〔世の人々に、〕そのとき、恐怖があった。そのとき、身の毛のよだつことがあった。

□(注11)「学識あり、真理の教えをたもち、大いなる仙人の〔宝の〕蔵を守護し、あらゆる世の人人の眼(まなこ)であるアーナンダは、円かな安らぎに入った。

□学識あり、真理の教えをたもち、大いなる仙人の〔宝の〕蔵を守護し、あらゆる世の人々の眼(まなこ)、闇の中で暗黒をのぞく者、

□機敏な才智あり、つねに気をつけていて、しっかりとしている仙人であって、正しい真理の教えをたもち、宝石の鉱脈である長老アーナンダは、……。」

□(注12)わたしは、師〔ブッダ〕に仕えました。ブッダの教えを実行しました。重い荷をおろしました。迷いの生存にみちびくものを根だやしにしました。

アーナンダ長老(191~195頁)

(注1)両詩は、六群ビクがデーヴァダッタにくみするビクたちと交際しようとするのを、アーナンダがいましめて説いたのだという。

(注2)この詩と次の詩は、アーナンダが夜、臥床で阿羅漢のさとりを得た光景を告げているのである。

(注3)アーナンダはここで「ゴータマ」と呼ばれているから、釈尊と同じゴータマ姓を名乗っていたことが解る。

(注4)この詩と次の詩は、かれが梵天に答えたもの。

(注5)この詩の作者は、聖典編集の結集(けつじゅう)のことを知っていたらしい。

(注6)サーリープッタ長老の死を聞いてアーナンダが詠んだもの。

(注7)これ以下1046までの詩句は、ブッダの入滅後におけるもの。

(注8) ブッダの遺誡の一つ。ブッダがアーナンダを戒めて述べたものである。

(注9) これ以下の九つの詩句は、アーナンダがブッダの侍者であったときの心境をよんだもの。

(注10) アーナンダは、ゴータマ・ブッダに25年間常侍していたことになる。つまりゴータマ・ブッダが55歳のころ(あるいはそれ以前)に侍者となったわけである。出家したのは、それよりも早いかもしれない。

(注11)これ以下3つの詩句は、アーナンダ長老の死後、かれを慕う修行者たちがよんだもの。かれらは第一結集(けつじゅう)のとき集まっていた。

(注12)これはアーナンダが亡くなるときに自から唱えたものである。(282~283頁)

四十の詩句の集成

■(注1) 群衆に尊敬されて遍歴すべきでない。〔もしそうするならば〕心が乱れ、心の安定は得難いであろう。さまざまな人々から受け容れられるのは苦しみである、と見なして、群衆〔と交わること〕を喜んではならない。

□ 聖者は良い家庭には近づいてはならぬ。〔もしそうするならば〕心が乱れ、心の安定は得難いであろう。がつがつして味に耽溺する者は、幸せをもたらす目的を見失う。

□ けだし、かれら(修行者)は、良家の人々からつねに受ける礼拝と供養とは、汚泥のようなものであると知っているからである。細かな(鋭い)矢は抜き難い。凡人は(他人から受ける)尊敬を捨てることは難しい。

□ わたしは坐臥所から下(くだ)って、托鉢のために都市に入って行った。食事をしている一人の癩病人に近づいて、かれの側(かたわら)に恭(うやうや)しく立った。

□ かれは、腐った手で、一握りの飯を捧げてくれた。かれが一握りの飯を鉢に投げ入れてくれるときに、かれの指もまたち切れて、そこに落ちた。

□ 壁の下のところで、わたしはその一握りの飯を食べた。それを食べているときにも、食べおわったときにも、わたしには嫌悪の念は存在しなかった。

□ 以下15詩句略

□ 多くの〔世俗の〕仕事をしてはならない。人々を避けよ。〔雑な縁をつくり出すために〕努め励んではならない。がつがつして味に耽溺する者は、幸せをもたらす目的を見失う。

□ 多くの〔世俗の〕仕事をしてはならない。この、目的にみちびかぬことがらを遠ざけるがよい。〔もしも、そうしなければ〕、身体は悩み、疲労する。かれは、苦しんで心の平静を得ることはできない。

□ 以下9詩句略

□ 賢明にして偉大な瞑想者であり心の安定している〈真理の将軍(注2)〉サーリプッタにたいして、かれらは、礼拝・合掌して、立っていた。〔――つぎのように、たたえながら――。〕

□「生まれ良き人よ。あなたに敬礼します。最上の人よ。あなたに敬礼します。あなたがなにに基づいて瞑想しておられるのか、――わたくしたちは、それを知りません。

□ ああ、すばらしいことです。深遠なことです。――真理をさとった人々(ブッダ、複数)の自身の境地は! わたくしたちの思い知るところではありません。たとい、わたくしたちが、毛髪の先を射る者のように極めて微細なことを突きとめ得る人々の集まりであったとしても。」

□ 尊敬を受けるにふさわしいそのサーリプッタが、そのとき、そのように神々の群れから尊敬されているのを見て、カッピナはほほえんだ。

□ 〔福徳を生ずる〕ブッダの田に関する限り、偉大な聖者(ブッダ)を除いて、わたしは〈悪を払いのける〉という徳において傑出している。わたしに等しい者は存在しない。

□ わたしは師(ブッダ)に仕え、ブッダの教え(の実行)をなしとげた。重い荷をおろし、迷いの生存にみちびくものを、根こそぎにした。

□ 測り知れないゴータマ〔・ブッダ〕は、衣服にも、臥床にも、食物にも執著していない。――-蓮華の花が水に汚されないように。かれは、出離に心を傾注し、三界から離れている。

□ かの偉大な聖者・偉大な聖社は、〔4種の〕心の専注を頸とし、信仰を手とし、智慧を頭とし、つねに安らぎを得て生活している。(196~201頁)

大カッサパ長老

(注1)以下3つの詩句は、ビクたちが衆人と交るのをマハーカッサパが戒めて、自分の道を明らかにしたものである。  

(注2)真理の将軍;サーリプッタの称号である。

五十の詩句の集成

■ わたくしが、山の洞窟に、伴(つれ)もなく、唯だ一人住んで、一切の生存は無常であると観ずるのは、いつのことであろうか? わたくしのこの思いは、そもそも、いつの日に起こるであろうか?

□ 以下7詩句略

□ わたくしが、心の安定を具現して、無量のいろ・かたち、音声、香り、味、触れられるもの、考える対象を、燃え立っているものであると知慧もて見るのは、そもそも、いつの日のことであろうか? そのことは、いつ起こるであろうか?

□ わたしが、〔他人から〕悪口を言われても、それだからとてくよくよすることなく、また褒めたたえられても、それだからとて悦ぶことがないようになるのは、そもそも、いつの日のことであろうか? このことは、いつ起るであろうか?

□ わたしが、内的にも、外的にも、これらの〔5つの〕構成要素(五蘊)や無量に多くの事象を、木片(きぎれ)や雑草に等しいものだと思いなすようになるのは、そもそも、いつの日のことであろうか? このことは、いつ起るであろうか?

□ 以下7詩句略(202~205頁)

□ 家庭では友人と愛する人々と親族とを捨て、世間では遊戯と歓楽と愛欲の対象とを捨て、すべてを捨ててこれに近づいた。それなのに、心よ、汝はわたしに満足していない。

□ これは、わたしだけのことがらである。それは他人のことがらではないからである。鎧を着ける時が来たのに、どうして嘆き悲しむのだ。「このすべては動転するものである」と観察して、わたしは出家して、不死の境地をもとめた。

□ 善きことばを語る人、人間のうちの最上の人、大力ある人、人々を調練する御者(ブッダ)は、〔このように語られた。――〕「心は動転するもので、猿のごとくである。それ故に、欲情を離れていなければ、心を制することは困難である」と。

□ けだし、欲情は種々さまざまで、甘美で、楽しく、無知なる凡夫の執著するところである。かれらは、再びう生まれることを求めて、苦しみを得ることを欲している。かれらは、心に導かれ、地獄に堕とされる。

□「孔雀や鷺の鳴く林に、豹や虎に囲まれて住み、身体に対する顧みを捨てよ。空しく時を過すな」といって、心よ、あなたは以前にはわたしを促した。

□「(四つの)瞑想(四禅)と、〔五つの〕すぐれたはたらきと、〔五つの〕力と、さとりを得るための七つのてだてと心の安定を得るための修養を修めよ」と、そなたは以前にはわたしを促した。心よ。

□「不死の境地を得るために、出離にみちびき、一切の苦しみの消滅に没入し、一切の煩悩から浄める、八つの実践法よりなる道を修めよ」と、そなたは以前にはわたしを促した。心よ。

□「個体を構成する〔五つの〕要素は、苦しみである」と正しく反省せよ。苦しみの生ずるもとを捨てよ。この世において苦しみを終滅せよ」と、そなたは以前にはわたしを促した。心よ。

□「〈無常なるものは苦しみである〉。〈空なるものは非我である〉。〈罪は殺害するものである〉と正しく観察せよ」「心の思考をとどめよ」と、そなたは以前にはわたしを促した。心よ。

□「剃髪し、異様なすがたをして、罵詈(ばり)に遭いながら、鉢に手にするのみで、家々に托鉢せよ。偉大な仙人である師のことばを尊守せよ」と、そなたは以前にはわたしを促した。心よ。

□「家々のあいだでは、よく自己を制し護って、街路の内を歩み、もろもろの欲望に心の執著することなく、明らかに照らす満月の夜の月のごとくあれ」と、そなたは以前にはわたしを促した。心よ。

□「森に住む者であれ。托鉢して食物をうる者であれ。死骸の棄て場所に住む者であれ。ボロ布でつづった衣を着る者であれ。坐ったままで横臥しない者であれ。つねに、汚れを払い落す(頭陀)〔の行ない〕を楽しむ者であれ」と、そなたは以前にはわたしを促した。心よ。

□ そなたが、無常にして動転するものに向かってわたしの心を向けさせるのは、樹木を植えて果実を求めようとする人が、その樹を根もとから断ち切ろうとするその譬喩のようなことを、そなたは為すのである。心よ。

□ かたち無きものよ。遠くに行く者よ。独り歩む者よ。いまや、わたしはそなた(心)のことばに従いますまい。もろもろの欲望は苦いもので、辛苦であり、大きな恐怖をもたらすからである。わたしは、安らぎに心を向けてのみ日を送ろう。

□ わたしが出家したのは不運のためでもない。恥知らずのためでもない、気まぐれのためでもない、追放されたためでもない、また生活のためでもない。心よ。わたしは、そなたのすすめに従ったのである。

□ 「〈小欲であること〉、〈かくし立てを捨てること〉、〈苦しみを静めること〉は、立派な人々、以前になずんだならわしに帰る。

□ 愛執、無知、いろいろの快いことがら、快適ないろ・かたち、楽しい感受、心にかなう欲望の対象――これらを、すべて捨て去った。わたしは、すでに捨て去ったもののところに、帰るわけにはいかない。

□ 心よ。あらゆる場合に、わたしはそなたのことばに従って来た。多くの生涯にわたって、わたしはそなたを怒らせたことはなかった。内心に由来することは、そなたのおかげでおかげである。そなたのつくり出した苦しみのうちに、わたしは永いあいだ輪廻した。

□ 心よ。そなたこそ、われわれをバラモンとなす。そなたは、われわれを武士族、王族の仙人ともなす。われわれは、いつかは庶民、隷民となる。神々の状態もまた、そなたの故に現れる。

□ ひとえにそなたの故に、われらは阿修羅となる。そなたの故に、われらは地獄の衆生となる。またいつかは、畜生となる。餓鬼の身を受けることもまた、ひとえにそなたの故である。

□ 以下2詩句略

□ 師はわれに、この世界を、無常で、堅固ならず、実質のないものであると示したまうた。心よ。われをして勝利者(ブッダ)の教えに入らしめよ。いとも渡り難き大きな激流から〔われを〕救いたまえ。

□ 以下14詩句略

テーラプタ長老(202~211頁)

六十の詩句の集成

■ 4詩句略

□(注1)肉と筋とで縫い合わされた骸骨の小舎(こや)、悪臭を放つ身体は、厭わしいかな。他のものである肢体を、そなたはわがものであると思いなしている。

□ 皮膚でつなぎ合わせた糞袋よ。胸に潰瘍をもつ魔女よ。そなたの身体には、九つの(孔から流出する)流れがあり、常に(液汁が)流れ出ている。

□ 糞尿に礙(さ)えられているものよ。そなたの身体には、九つの(孔から流出する)流れがあり、悪臭を放っている。清らかならむことを求める修行僧は、それを避ける。――排泄物を避けるように。

□ わたしが、そなたを知るように、そのように、もしも人がそなたを知るならば、あたかも両手に肥溜めを避けるように、人は遠く離れて、そなたを避けるであろう。

□〔遊女は答える、――〕「このことは、あなたのおっしゃるとおりです。偉大な健き人よ。道の人よ。或る人々は、老いた牛がぬかるみの泥の中にはまりこむように、この〔不浄な身体〕に落ちこむのです。」

□〔大モッガラーナが説いて言う、――〕(鬱金香)または他の染料で、空中に絵を画こうと思う者があれば、それは身の破滅を生ずるもとにほかならない。

□ 内によく安定したこの心は、虚空のごとくである。悪心ある女よ。蛾が火むらに近づくように、われを奪い去ることなかれ。

□ 見よ、粉飾された形体を! (それは)傷だらけの身体であって、いろいろのものが集まっただけである。病いに悩み、意欲ばかり多くて、堅固でなく、安住していない。

□(注2) 数多くの徳性をそなえたサーリプッタが〔死の〕安らぎに入ったとき、そのとき恐ろしいことが起った。――そのとき身の毛のよだつことが起った。

□ もろもろのつくられた事物は、実に無常である。生じ滅びる性質のものである。それらは生じては滅びるからである。それらの静まるのが安楽である。

□ 五種の構成要素(五蘊)を、(アートマンとは異なった)他のものであると見て、アートマンであるとは見ない人々は、微妙なる真理に通達する。――毛の尖端を矢で射るように。

□ またもろもろの形成されたもの(諸行)を(アートマンとは異なった)他のものとして見て、アートマンであるとは見ない人々は、微妙なる真理に通達した。――毛の尖端を矢で射るように。

□ 以下6詩句略

□(注3) 静かな安らいの境地に達し、辺鄙なところを臥坐所とする聖者(大カッサパ)は、最上のブッダの相続者であって、梵天に敬礼される人である。

□ バラモン(注4)よ。静かな安らいの境地に達し、辺鄙なところを臥坐所とする聖者にして、最上のブッダの相続者であるカッサパに敬礼せよ。

□ およそ人が、くりかえし人間に生まれて、しかもみなバラモンとして生まれ、ヴェーダ聖典に通暁した学者であって、

□ 三種のヴェーダ聖典を読誦し、その奥義に達したものであったとしても、この人を敬礼するのは、〔大カッサパを敬礼する場合の〕十六分の一にも値しない。

□ 朝食前に、八つの解脱を順と逆とのしかたで体得して、それから托鉢に出かけるところの、

□ そのような修行者を襲撃してはならない。バラモンよ。自己を破滅させてはならない。そのような尊敬されるべき人(アラハット)にたいして、心に信をおこせ。すみやかに合掌して敬礼せよ。――なんじの頭が〔七つに〕裂けることのないように。

□ 輪廻にみちびかれ、正しい真理の教えを見ない者は、曲りくねった路(みち)・邪道をかけめぐり、下に堕(お)ちる。

□ 糞にまみれた蛆虫のように、もろもろの事象(ごみくず)に心を迷わされ、利益や尊敬を受けることに沈潜し、ポッティラは、空しく〔この世を去る。〕

□(注5) 両方において解脱を得、内によく心の安定した、この容姿端麗なサーリプッタがやって来るのを見よ。

□ かれは、〔愛執の〕矢を抜き、束縛を滅ぼし、三種の明知があり、死(悪魔)を捨て去り、供養を受けるにふさわしく、人々のための無上の福田(功徳を生ずるもと)である。

□(注6) これらの多数の神々、一万の神々は、神通力をもち、名声あり、すべてみな梵天を主導者としているが、モッガラーナに敬礼しつつ、合掌して立って、〔こう言った。〕――

□ 生まれ良き人よ。あなたに敬礼します。最上の人よ。あなたに敬礼します。――もろもろの汚れを滅しておられるあなたに。師よ。あなたは、供養を受けるにふさわしい方です。

□ あなたは、人間や神々に供養され、死に打ち克つ人として現れて来ました。白蓮華が〔泥〕水に汚されないように、もろもろの事象に汚されません。

□ かれは一瞬のうちに千回も世界を見通した。かの修行者は、大梵天のごとくであり、神通力という徳に関しても、生死を知ることに関しても自在であり、適当な時に神々を見る。

□(注7) サーリープッタは実に、智慧と戒行と平静にとによって彼岸に達した修行者であり、そのように最高の人である。

□ わたしは、幾百億の数の自己のすがたを、一瞬のうちに化作(けさ)しよう。わたしは種々に身を変化(へんげ)することに巧みで、神通に熟達している。

□ モッガラーナ姓の者であるわたしは、禅定と明知との達人であり、完成に達し、無執著なる人(ブッダ)の教えにおいてしっかりと確立し、もろもろの感官の安定を得ていて、束縛を断ち切った。――象が腐った蔓草を断ち切るように。

□ わたしは師(ブッダ)に仕え、ブッダの教え(の実行)をなしとげた。重い荷をおろし、迷いの生存にみちびくものを、根こそぎにした。

□ わたしが出家して家無き状態に入ったその目的を、わたしは達成した。それは、すべての束縛を滅ぼしつくすことであった。

大モッガラーナ長老(岡野注;目犍連、目連)(212~220頁)

(注1)以下の4つの詩句は、モッガラーナを誘惑しようとして近づいて来た遊女を教えさとして言ったのである。主として不浄観を説く。

(注2)以下の4つの詩句は、サーリプッタ長老が入滅したときに説いたものである。

(注3)以下の6つの詩句は大カッサパについて述べたものである。

(注4)バラモンであるサーリプッタの甥が、王舎城に托鉢に入って来た大カッサパを見て、禍をもたらす女神を見たかのごとくに嫌悪感に襲われていたので、モッガラーナがサーリプッタの甥をいましめ、教えさとしたのである。

(注5)以下の2つの詩句は、サーリプッタ長老を称讃して述べたものである。

(注6)以下の諸詩句は、サーリプッタが大モッガラーナを称讃して述べたものである。

(注7)以下の諸詩句は大モッガラーナが自分の徳を明らかにしようとして述べたものである。(288頁)

詩句の大いなる集成

■(注1) ああ、わたしは家から離れて出家して、家無き状態に入ったのに、黒い〔悪魔〕から来たこれらの思いが頑強にわたしに襲いかかる。

□ 偉大な射手(いて)である貴公子たち、よく熟練し、剛弓をてにし、怯(ひる)むことのない人々が千人もいて、わたしを取り囲むかもしれない。

□ もしも、それ以上の数の女人たちが来ようとも、わたしを悩まし害なうことはないであろう。わたしは真理のうちに安住しているのである。

□ わたしは、太陽の裔(すえ)であるブッダから、ひとたび、安らぎにおもむくこの道を聞いたからである。わたしの心は、それに安住したのしんでいる。

□ 悪魔よ。わたしがこのように生活しているのに、そなたは近づいて来る。わたしも〔そなたと〕おなじようにしよう。〔そなたは〕わたしの歩む道を見ることはないであろう。

□(注2) 快楽と不楽と家の生活に執著する思慮とを、すべて捨てて、なにものにも欲を起すな。かれこそ、欲を離れているから、無欲の修行者である。

□ この世における大地と天界、世界のうちに没入しているいろ・かたちあるいかなる事物も、すべて、無常にして、老い朽ちる。叡智ある人たちは、このように知って日を送る。

□ 人々は、もろもろのこだわりのうちにあって、見られ、聞かれ、触られ、考えられたものについて、縛られている。人は動揺することなく、この世に対する欲望を除け。この世に汚されない者を、人々は〈聖者〉と呼ぶからである。

□ かれらは、凡夫であるが故に、六十八〔の邪(よこしま)な見解〕を固執し、考察をめぐらし、正しくないことがらに執著している。しかし、かの修行者は、なにごとに関しても党派に執著するな。まして、煩悩に悩まされた重苦しさにとらわれるな。

□ 天稟(てんぴん)の素質あり、長い年月にわたって精神を安定し、偽ることなく、聡敏にして、羨むことのない聖者は、安らかな境地に到達した。かれは、縁によって安らぎに達した者として、〔死の〕時の至るのを待つ。

□(注3)「ゴータマ〔・ブッダの弟子、ヴァンギーサ〕よ。慢心を投げ捨てよ。高慢への道をすっかり捨てよ。なんじは、高慢への道に迷って、永いあいだ後悔しつづけた。

□ 隠し立てのための蔽われ、慢心のためにうちのめされて、人々は地獄に堕ちる。慢心のためにうちのめされ、地獄に生まれて、人々は、長い時期にわたって悲しむ。

□ けだし、道によるが故の勝利者である修行僧は、正しく実践して、いかなるときにも悲しまず、名誉と幸せを享受する。人々がかれを〈真理を見る者〉と呼ぶのは、正しい。

□ それ故に、この世において、荒れることなく、高ぶらず、心の覆い礙(さまた)げをすてて、清らかとなり、また高慢をすっかりすて去って、心の静まった人となり、明知によって〔苦しみを〕終滅せよ。」

□(注4) 知慧が深く、聡明な英智に富み、種々の道に通達し、大いなる智慧あるサーリプッタは、もろもろの修行僧に、ことわりを説く。

□ かれは簡略に説くこともあり、また詳しく説くこともある。九官鳥の鳴き声のように、〔自由自在な〕弁舌の才を発揮する。

□ かれが、魅惑的な、聞くに快い、甘美な声で教えを説いているとき、その甘く快い声を聞いて、修行者たちは、心喜び、なごんで、耳を傾けた。

□(注5) 今日、〔満月の〕十五日に、五百人の修行者たちは、清らかになるために、集まって来た。〔これらの〕仙人たちは、束縛を断ち切り、苦悩なく、くりかえし迷いの生存を受けることを滅ぼした。

□ あたかも、輪転王が、大臣たちにとりまかれ、海に囲まれているこの大地を、あまねく巡行するように、

□ そのように、三種の明知あり、悪魔を避けた弟子たちは、戦いの勝利者・隊商の王・無上なる人(ブッダ)に仕える。

□〔われわれは〕すべて、尊き師(ブッダ)の子であり、ここにはむだなものはなにも存在しない。わたしは、〈太陽の裔にして、妄執の矢を打ち砕く人〉(ブッダ)を礼拝する。

□(注6) 一千人を超える修行者たちは、汚れを離れなにものをも恐れることのない道理、安らぎ、を説いた〈幸せな人〉(ブッダ)に仕える。

□ かれらは、正しくさとった人の説かれた雄大な教えを聞く。実に、さとった人は、修行者たちの集まりに崇められて、きらめいている。

□ 尊き師よ、あなたは「象」と名づけられ、仙人たちのうちでも最上の仙人である。あなたは、大きな雲のようになって、弟子たちに雨をそそぐ。

□ 午後の休息から立ち上って、師(ブッダ)を見たてまつろうと願って、弟子ヴァンギーサは、あなたの両足に〔頭をつけて〕敬礼する。偉大な雄々しき人よ。

□ かれ(ブッダ)は、悪魔の邪(よこし)まな路にうち克ち、心の荒みを破って、日を送る。かれが、束縛をときほぐし、こだわり無く、(教えを)区別して説き明かしているのを、見よ。

□ 実に、かれは、激流を渡るために、種々の道を説かれた。そうしてその不死の境地が説かれたとき、真理を見る人々は、動揺することなく、安立(あんりゅう)していた。

□ 世を照らす人は、徹見して、あらゆる見地を超えたものを見た。かれは、最高のものを知り、さとって、それを五人に(注7)説き示した。

□ このように真理がみごとに説かれたときに、真理を知った人々のうちで誰が、怠けるであろうか。それ故に、この尊き師の教えにおいて、人は怠ることなく、つねに〔尊き師を〕礼拝して、従い学ぶべきである。

□(注8) 長老コンダンニャは、ブッダに従ってさとった人である。かれは、出離の念鋭く、しばしば〈安楽に住むこと〉と〈遠ざかり離れる生活〉を身に体得していた。

□ およそ、師の教えを行なう仏弟子の体得できるものは、すべて、かれ〔コンダンニャ〕が怠ることなく、従い学んだ結果到達したところのものである。

□ 大威力をもち、三種の明知をそなえ、他人の心を究め知っている、ブッダの後嗣(あとつぎ)コンダンニャは、師の両足に〔頭をつけて〕敬礼する。

□(注9) 三種の明知あり、師を捨て去った〔仏〕弟子たちは、かの山腹に坐り、苦しみの彼岸に達した聖者(ブッダ)に仕えている。

□(注10) 大神通力のあるモッガラーナは、〔みずからの〕心をもってかれらの心を精査し、かれらの心がすっかり解脱し、こだわりのなくなっているのをたずね求める。

□ こういうわけで、かれらは、〈あらゆる属性を具え、苦しみの彼岸に達し、幾多の美徳を具えた聖者〉ゴータマに仕える。

□ 偉大な聖者アンギーラサ(注11)(ブッダ)よ。あたかも、雲のない空に、月が、汚れの無い太陽のように輝くのと同様に、あなたは、栄光によって全世界を超えて輝く。

□(注12) かって、わたしは、詩文の芸に陶酔して、村から村へ、町から町へと流浪した。たまたま、わたしは、あらゆる事象の彼岸に達した〈覚れる人〉にお目にかかった。

□ 苦しみの彼岸に達したかの聖者は、わたしのために、真理の教えを説いた。教えを聞いて、わたしたちは喜び信じた。わたしたちに信仰心が起った。

□ わたしは、かれのことばを聞いて、(個人存在の)〔五つの〕構成要素・〔六つの感官と六つの認識対象とを合わせた十二の〕領域・〔十二の領域に六つの認識作用を合わせた十八の〕要素を知って、家を捨てて出家した。

□ 実に、人格完成者(ブッダ)たちは、〔かれらの〕教えを実践する多くの男女を益するために、〔この世に〕出現される。

□ 実に聖者(ブッダ)は、必らず〔究極の境地に至ると〕定まっているのを見たそれらの修行僧や修行尼を益するために、さとりを得たのである。

□ 眼ある人・太陽の裔であるブッダは、生ける者どもを慈しむがゆえに、四つの尊い真理を、みごとに説かれた。

□ すなわち⑴苦しみと、⑵苦しみの成り立ちと、⑶苦しみの超克と、⑷苦しみの終滅(おわり)(静止)におもむく八つの部分よりなる尊い道(八正道)とである。

□ これらのことがらは、このように、ありのままに説かれた。わたしは、それらを、真実にあるがままにさとった。わたしは、自己の目的を達し、ブッダの教え〔の実行〕をなしとげた。

□ わたしは、超人的な神通力を完成し、聴力を浄め、三種の明知があり自在力を具え、他人の心の中を見抜くことに巧みである。

□(注13)現世において、もろもろの疑惑を断たれた完き智慧ある師に〔ヴァンギーサが〕お尋ねします。――「世に知られ、名声あり、心が安らぎに帰した〔ひとりの〕修行者がアッガーラヴァ〔霊樹のもと〕で亡くなりました。

□ 先生! あなたは、そのバラモンに『ニグローダ・カッパ』という名をつけられました。ひたすらに真理を見られた方よ。かれは、あなたを礼拝し、解脱をもとめ、つとめ励んでおりました。

□ サッカ(釈迦族の人、釈尊)よ。あまねく見る人よ。わたくしたちはみな、〔あなたの〕かの弟子のことを知ろうと望んでいます。わたくしたちの耳は、聞こうと待ちかまえています。あなたは〔わたくしたちの〕師です。あなたは、この上ない方です。

□ わたくしたちの疑惑を断ってください。これをわたくしに説いてください。知慧ゆたかな方よ。かれが円(まど)かな安らぎに入ったということを知らせてください。千の眼のある帝釈天が神々のために説くように、わたくしたちの間で説いてください。あまねく見る人よ。

□ この世で、およそ束縛なるものは、迷妄の道であり、無知を朋(とも)とし、疑惑に依って存するが、完(まった)き人に会うと、それらはすべてなくなってしまう。この〔完き人〕は、人間どもの最上の眼であります。

□ 風が密雲を払いのけるように、〔この〕人(ブッダ)が煩悩の汚れを払いのけるのでなければ、全世界は覆われて、暗黒となるでありましょう。光輝ある人々も、輝かないでありましょう。

□ 聡明な人々は、世を照らします。聡明なかたよ。わたくしは、あなたをそのような方だと思います。わたくしたちは、あなたを〈如実に見る人〉であると知って、御許(みもと)に近づきました。衆人のなかで、わたくしたちのために、〔ニグローダ・〕カッパのことを明らかにしてください。

□ すみやかに、いとも妙なる声を発してください。白鳥がその頸をもたげておもむろに鳴くように、よくととのった、円やかな声で。わたくしたちは、すべて、すなおに聞きましょう。

□ 生と死を残りなく捨て、悪を払い除いた〔ブッダ〕に請うて、真理を説いていただきましょう。けだし、もろもろの凡夫は、〔知ろうと欲し、言おうと〕欲することをなしとげることはできないが、完き人(如来)たちは、慎重に思慮してなされるからです。

□ この完全な確定的な説明が、正しい知者であるあなたによって、よく持(たも)たれているのです。わたくしは、この最後の合掌をささげます。〔みずからは〕知りながら〔語らないで、わたくしたちを〕迷わしたまうな。知慧すぐれた方よ。

□ 上から下までさまざまなこの尊い理法を知っておられるのですから、〔みずからは〕知りながら〔語らないで、わたくしたちを〕迷わしなさいますな。励むことすぐれた方よ。夏に暑熱に苦しめられた人が水を求めるように、わたくしは〔あなたの〕ことばを望むのです。聞く者に〔ことばの雨を〕降らせてください。

□ カッパ師が清らかな行ないを行なって、達成しようとした目的は、かれにとって空しくはなかったのでしょうか。かれは安らぎに帰したのでしょうか。それとも、生存の根元を残して、安らぎに帰したのでしょうか。かれがどのように解脱したのであるか、――わたくしたちは、それを聞きたいのです。」

□「かれは、この世において、名称と形態に関する妄執を断ち切ったのである」と、尊き師は答えた。「かれは、長い年月のあいだ陥っていた妄執の流れを断ち切り、生死(迷いの生存)を残りなく超え渡った」と、五人の修行者の最上者であった尊き師は、そのように語った。

□〔ヴァンギーサいわく、――〕「第七の仙人(ブッダ)よ。あなたのおことばを聞いて、わたくしは信じます(注14)。わたくしの問いは、決してむだではありませんでした。バラモンであるあなたは、わたしくしをだましません。

□ ブッダの弟子〔ニグローダ・カッパ〕は、ことばで語ったとおりに実行した人でした。そして、かれは、人を欺く死魔のひろげた堅固な網を破りました。

□ 先生! カッパ師は、妄執の根元を見たのです。ああ、カッパ師は、いとも渡り難い死魔の領域を超えたのです。

□ 人間どものうちの最上の人よ。わたくしは、神々のなかの神〔ブッダ〕に敬礼します。〔そして〕あなたに従い行なっているあなたの子――偉大なる建(たけ)き人、竜の実子である竜〔ニグローダ・カッパ〕――に敬礼します。」(229~230頁)

尊き人・ヴァンギーサ長老は、このように詩句を唱えた。

(注1)以下の5つの詩句は、ヴァンギーサ長老がまだ出家したばかりのよきに、美しく粧い飾った多数の女人が精舎に近づいて来たのを見て、愛欲の念を起したので、それを除こうとして述べたものである。

(注2)以下の5つの詩句は、自分の身のうちに起った快楽、不快などを除こうとして述べたものである。自分の心がまえを述べている。

(注3)以下4つの詩句はヴァンギーサが、弁舌の際を得て慢心を起こしたことをみずから反省して、自分を戒めて述べたものである。

(注4)これ以下3つの詩句は、サーリプッタ長老をたたえている。サーリプッタを形容する前半の句は、『ダンマパダ』第403詩の前半と『スッタニバータ』の第627詩句の前半と同じ。

(注5)以下4つの詩句は、釈尊が「自恣経」を説くために、大勢のビクに囲まれて坐っているのを見て、ヴァンギーサがその光景を称讃して述べたものである。

(注6)以下の4つの詩句は、釈尊がニルヴァーナに関する法話を説いたのを、ヴァンギーサが称讃して述べたものである。

(注7)釈尊の説法を最初に聞いた五人の修行者(ビク)をいう。

(注8)以下の3つの詩句は、ヴァンギーサがコンダンニャ長老を称讃して述べたものである。

(注9)釈尊が Isigili 山の中腹 Kalasila 岩という岩にビクたちとともにとどまっていたときに、ヴァンギーサが釈尊と大モッガラーナなどの修行僧たちをたたえて、以下の3つの詩句を述べた。

(注10)次の詩句とともにモッガラーナ長老をたたえている。

(注11)アンギーラサはこの場合ブッダの呼び名である。

(注12)以下の10の詩句は、ヴァンギーサがアラハットの境地に達して、自分の行ないを反省して、師と自分との徳を顕示して述べたものである。

(注13)ヴァンギーサの師であったニグローダ・カッパ長老が亡くなったときに、かれはその場所に居合せなかった。そこで、以下の12の詩句は、ヴァンギーサの死にについて釈尊に問うて述べているのである。

(注14)わたくしは信じます;教えを信じて、心が澄んで、明るく、喜ばしくなることをいう。(293頁)

(2021年6月10日了)

-『仏陀』増谷文雄 著 角川選書ー18

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