■仰臥し、左の掌を上にして額に当て、右手は私の裸の右腕にかけ、「いいかい」と云った。つめたい手であった。よく理解できなくて黙っていると、重ねて、「おまえはいいかい」と訊かれた。「はい、よろしゅうございます」と答えた。あの時から私に父の一部分は移され、整えられてあったように思う。うそでなく、よしというこころはすでにもっていた。手の平と一緒にうなずいて、「じゃあおれはもう死んじゃうよ」と何の表情もない、穏やかな目であった。私にも特別な感動も涙も無かった。別れだと知った。「はい」とひと言。別れすらが終ったのであった。『終焉』
■その私があるとき、ひょっと「本を読んでものがわかるというのはどういうこと?」と訊いて、ただ一ツだけ父の読書について拾っておいたことばがある。――「氷の張るようなものだ」である。一ツの知識がつっと水の上へ直線の手を伸ばす、その直線の手からは又も一ツの知識の直線が派生する、派生は派生をふやす、そして近い直線の先端と先端とはあるとき急にひきあい伸びあって結合する。すると直線の環に囲まれた内側の水面には薄氷が行きわたる。それが「わかる」ということだと云う。だから私は一ツおぼえに、知識は伸びる手であり、「わかる」というのは結ぶことだとおもってい、そして又、これが父の「本の読みかた」のある一部だとおもっているのである。『結ぶこと』
『ちぎれ雲』幸田文より 2006年3月4日
■「花がしぼむのも鳥が落ちるのも、ひっそりしたもんなんだよ。きっと象のようなものだってそうだろうよ。」
■妻と子といずれに哀しみが深かろうと訊いたら、「それはおまえ、縁の丈だろうじゃないか」と答え・・・
■父は絶壁の古木だと人が云ったが、まったくその通り、宿り木にだって蘖(ひこばえ)にだって、親木に吹く風はお裾分け、ひやりとした静かさは骨身に浸みて馴れている。
『父』幸田文より 2006年6月22日