岡野岬石の資料蔵

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『仏陀』増谷文雄 著 角川選書ー18

『ウィトゲンシュタイン』藤本隆志著 講談社学術文庫

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■姉ヘルミーネはL・ヘンゼルに向かって次のようにいわざるをえない、「不幸な聖人よりも幸福な俗人を弟に持ちたい!と何遍思ったことか。聖人の場合にはこの先どうなるか、全くわからないからです。わたしも家族も単なる人間にすぎず、ものごとを人間的にしか把えられません。他の者が明るく幸せなのを知ることは、まさに人間的な喜びなのに、残念ながらそのような願望さえ、ルートウィヒのことを考えると、放棄せざるをえません」(1920年12月13日付書翰)と。

さらに、彼女は、父の遺産をすべて他人に譲与して修道僧のように生きようとしている弟の「気が変わったら、財産を取り戻せるようにしておいてやれ」という亡き伯父パウルの意見を容れて、遺産をすべて自分たち(妹ヘレーネ、弟パウルと三人)で分有し、第二次世界大戦が近づいてナチによる財産没収が危惧されると、他の親族(主としてウィトゲンシュタインの甥や姪)に分配してしまう。兄弟縁者といえども他人に仕送りや経済上の援助をしてもらうことをいさぎよしとしなかったウィトゲンシュタインが、その後しばしば最低水準の生活水準に甘んじていたのは、それがかれの生活信条であった以上に、事実お金をもっていなかったためなのである。(84㌻)

■カルナップの「自伝」によると、「哲学的な問題に対する態度は、科学者が自分たちの問題に対する態度とあまり違わなかった」のに対し、「人々や諸処の問題に対するかれの視点や態度は、科学者よりも創造芸術家のそれのほうに遥かに類似していて、宗教的予言者の態度といえるほどだった」。(111㌻)

■かれは戦争が常に無条件に悪いなどと杓子定規には考えていない。だから、海軍に入りながら戦闘に参加した経験のないマルコムが「戦争は退屈だ」と述べると、ウィトゲンシュタインが「もし少年が学校はひどくつまらないといったら、まわりのひとはそれに答えて、もしお前が学校で本当に学べることを学ぶようになれさえしたら、学校をそれほど退屈だとは感じなくなるだろう、というでしょう。だから、わたしが、この戦争でも――眼を見ひらいていさえすれば――人間存在について実に多くのことが学べると信じざるをえない、といっても赦していただきたい……」(1945年6月、マルコム宛て書翰)と返事しているのも、同じ精神の境位を示していることになろう。(133㌻)

■ふつうなら教授として働き盛りのウィトゲンシュタインが、五十八歳で世界に冠たるケンブリッジ大学を辞職するのは、哲学すること、おるいは哲学の仕事を、大学教師としての生活と混同していなかったからである。しばらくあとになって、余りの孤独に仕事がうまくいかず、多少いらだって、「自分は大学を離れてしまうべきだったろうか、結局は教職を続けているべきではなかったろうか、と自問してみました。わたしは直ちに、自分にはあのまま教えていくことなどできなかったと感じて、もっと早く辞職すべきだったかもしれないと自分にいいきかせさえしました。……わたしの哲学的才能がいま涸渇したとすれば、それは不運というべきでしょうが、それも止むをえません」(1948年7月、マルコム宛て書翰)と述べてはいるけれども。(142㌻)

■夫人ジョーンは、はじめてウィトゲンシュタインが家にやって来たときの模様を、次のように日記にしたためている。

「わたしはかれに対して大変な畏敬の念を抱いていたから、何もいわずにパンと

バターだけを出し、あとからお茶を差し上げた。しばらくすると、ウィトゲンシ

ュタインがアメリカについて話しをしたので、わたしは〈アメリカへいらしたな

んて、何て幸福なことでしたでしょう〉と合いの手をさしはさんだ。すると、か

れは、かれだけにできる目付きでわたしをじっと見つめ、〈幸福とはどういうこ

とですか〉と訊ねたのである。わたしはこのときはじめて、ことばの正しい使い

かたがいかに大切であるかを理解しはじめた。」(150㌻)

■「およそ言い得ることは明瞭に言い得、語り得ざることについては沈黙しなくてはならない」(162㌻)

■「……わたしの著作は二つの部分から成る、一つはここに提示されているもの、もう一つはわたしの書かなかったことのすべて、である。そして重要なのは、まさにこの第二の部分なのです。わたしの本は倫理的なものごとの領域をいわば内側から限界づけているのであり、それこそかような限界づけの唯一の正しい方法であると確信しています……」(163㌻)

■……わたしに考えられるどのような記述も、わたしのいう絶対的な価値の記述に役立たないのみならず、かりに誰かが有意味な記述と称するものを提案できたとしても、わたしはそのような記述のいずれをも、その有意味性を根拠としてはじめから拒否するでしょう。すなわち、このような無意味な表現〔あるいは絶対に神秘的なことについて語ることの無意味さ〕は、わたしがいまだ正しい表現を発見していないから無意味なのではなく、そうした無意味さこそがほかならぬそれらの表現の本質だからなのです。なぜなら、そうした表現を使ってわたしのしたいことは、世界を超えていくこと、有意味な言語を超えていくことにほかならないからです。……倫理学が人生の究極の意味、絶対的な善、絶対に価値あるものごとについて何ごとかを語ろうとする欲求から生まれるものであるかぎり、それは科学ではありえません。その語るところは、いかなる意味においてもわれわれの知識を増やすものではありえません。その語るところは、いかなる意味においてもわれわれの知識を増やすものではありません。しかし、それは人間の精神に潜む傾向を記した文書であって、わたしは個人的にこの傾向に対し深い敬意を払わざるをえないし、それを生涯あざけったりしないでしょう。(166㌻)

■四・一一六 およそ考えうるものごとは、すべて明晰に考えうる。いい表しうるものごとは、すべて明晰にいい表わしうる。(218㌻)

■五・六 わたしの言語の限界はわたくしの世界の限界を意味する。

五・六一 論理は世界に充満する。世界の限界は論理のげんかいでもある。

それゆえ、われわれは論理の内部で、かくかくのものは世界の中に存在するが、あれは存在しない、などということができない。……なぜなら、論理が世界の限界を跳び越えていたはずだからである。思考できないことを思考することはできない。それゆえ、思考できないことを言うこともできない。

五・六二 ……世界がわたくしの世界であるということは、この言語(わたくしの理解している唯一の言語)がわたくしの世界の限界を意味するということのうちに示されている。

五・六二一 世界と生は一つである。

五・六三 わたくしとは、わたくしの世界のことである。(小宇宙)(223㌻)

■六・三七三 世界はわたくしの意志から独立している。(228㌻)

■六・四二一 倫理をいい表わすことができないのは明白である。

倫理は超越的である。(倫理と美学は一つである。)(229㌻)

■六・四四 世界がいかにあるかではなく、世界があるということが神秘的なことなのである。(230㌻)

■六・五 いい表わすことのできない答えに対しては、問いをいい表わすこともできない。

謎といったものは存在しない。

そもそも問いが立てられるなら、それに答えることもできる

六・五二二 いい表わせぬものごとがたしかに存在する。それはみずからを示す。それは神秘的なものごとである。

六・五三 哲学の正しい方法とは、本来次のようなものであろう。いいうること以外、それゆえ自然科学の命題以外――それゆえ哲学に関係のないこと以外――、何ごともいわないこと。そして、誰かが何か形而上学的なことをいおうとしたときには、いつも、その人が自分の命題の中のある種の符号に全く意味(ベドイトウング)を与えていないことを指摘してやること。このような方法は余人を満足させないだろうし――その人はわれわれから哲学を学んだという感じをもたないであろう――けれども、しかし、これこそ厳正な唯一の方法であろう。(231㌻)

■わたしの書く命題は、どれも常に全体を意味しており、それゆえいつも同じことを意味しているが、それはいわば異なった角度から観察される一つの対象の〔異なった〕見えかたなのである。(253㌻)

■ひとは明証の可能性〔の限界〕を言語によって踏み越えることができない。(2

57㌻)

■言語はそれ自身で語るのではなくてはならない。(262㌻)

■三七一 本質は文法の中に表明されている。

三八四 〈痛み〉という概念を、きみは言語とともに学んだのである。(310㌻)

■ひとは、ある動物が怒り、恐れ、悲しみ、喜び、驚いているのを想像することができる。だが、望んでいるのは?では、なぜできないのか。

イヌは、自分の主人が戸口にいると信じている。だが、イヌは、自分の主人が明後日やってくると信ずることもできるのか。――では、イヌは何をすることができないのか。――わたしはそれをどのようにしているか。――わたしはこれにどう答えるべきか。(312㌻)

■「いいうること、すなわち自然科学の諸命題――それゆえまた哲学に関わりのないものごと――以外には何ごともいわぬこと」(六・五三)といった警句や、「真なる命題の総体が全自然科学(あるいは自然諸科学の全体)である」(四・一一)といった断定に接して、我が意を得た感じがしたことであろう。有意味な命題はすべて要素命題の真理関数であり、その要素命題はすべて世界内の諸事実によって真とされなくてはならない(検証理論)、はずであった。(333㌻)

■ウィトゲンシュタインもまた、「世界は事実の総体であって、物の総体ではない」(一・一)と述べて「物的世界像」に反対しているけれども、他方要素命題に対応すべき事実の基本単位「事態」が「対象(物)」の結合したものだという考えかたも温存していて(二・〇一)、一種中途半端な二元説をとっている。そして、その中途半端さかげんが、論理学的ものの考えかたにとってはきわめて好都合なのである。なぜなら、「対象」ないし「もの」とは述語論理学における「個体定項」ないし「個体変項」によって表記されるもの、、「事態」ないし「こと」とは命題論理学における「命題常項」ないし「命題変項』によって表記されるものごと、とそれぞれ解釈しておけば、現在すでに一体となって無矛盾的に併立している述語論理学と命題論理学の双方を意味論的に救うことができるからである。(335、336㌻)

『ウィトゲンシュタイン』藤本隆志著、講談社学術文庫 2007年2月14日

-『仏陀』増谷文雄 著 角川選書ー18

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