■ケンブリッジの若い急進派は分析による哲学の改革に着手していたのに対して、ウィーンの実証主義者は科学理論においてその価値を既に立証しつつあった方法を一般化することによって、哲学を改革する決心をしていたのである。哲学は、「科学の確実な道筋」にすえられねばならない――本当に、物理学や生物学と一緒に、ただ一つの「統一科学」に統合されなければならない、というのである。実際問題としてはこれは、フレーゲの例が暗に示すように、哲学と科学の双方を公理論的、数学的学問の形式で再構成することを必然的に伴っていた。すなわち、経験的・帰納的学問を、そのすべての一般化と抽象的概念が、直接的に経験に訴えることによって正当化されるように再構成すること、あるいは理想的には(そして、ここで彼らは、ヘルツやウィトゲンシュタインが出会ったのと同じ問題に出会うのであるが)、経験的・帰納的科学を、その内的分節化が同時に、純粋数学の公理論的体系に基づく形式化となるように、再構成することである。(347㌻)
■「語りえぬものについては沈黙しなければならない」という形で表現されているのだが、ウィーンの仲間はこれを「形而上学者よ、汝の口を閉じよ」というような、実正主義的なスローガンに解釈したのである。こうして、論理実証主義という、あいの子の体系が生まれた。この体系は、すべての形而上学に終止符を打つと公言したが、むしろヒュームとマッハの形而上学をラッセルとホワイトヘッドの記号体系で書きなおすことになったのである。(338㌻)
■倫理と価値の問題に対するウィトゲンシュタインのアプローチは、『論考』においては、同じように超歴史的であった。彼自身が見いだした事実の領域(これは描写的な記述にかなう)と価値の領域(これについてはせいぜい詩的に語れるだけである)の間の対立は、キリスト教界やモラルコードの道徳性に関するキルケゴールの非難と同様に、限定的なものでも条件付きのものでもなく、歴史的に再考してみる余地などなにもない。それどころか、キルケゴールにとってと同じくウィトゲンシュタインにとっては、倫理の「超越的」な性格に無時間的(timeless)な基礎を与えることが大事だったのである。そうすれば倫理にはなんの疑いもなく、それ以上後退することもありえない。(398㌻)
■晩年ウィトゲンシュタインが与えていたといわれている、数少ない本物の道徳的アドヴァイスの一つは、「旅は軽装でしなければならない」という格言である。(399㌻)
■クラウス主義者は、事実の領域と価値の領域を混同すると両者はともに損なわれる、と繰り返し主張するが、この主張には、哲学的な広がりだけでなく、社会的な広がりもある。(434㌻)
■実際に存在した共同社会的な状況においては、本物の道徳的原理や美的価値は、理想的な抽象化によってわずかに達せられるにすぎない。そして、それらが現実に実現できるとしても、それは、このような抽象化を行うことができる小数の、二心のない、ピュ-リタン的な個人の生活においてのみであろう。…中略
このようにして確立された社会的、政治的な状況にとっては、原則やモラルの問題は、端的に無縁なものであった。したがって、原則やモラルに関する考察に対して圧倒的な忠誠心を抱く人々は、このようにして確立された社会と政治から、事実上「うとんじられ」たのである。(435㌻)
■すべてのヨーロッパ列強の中で、なぜオ-ストリア=ハンガリーは、第一次世界大戦によって課せられた緊張に、あれほど他に例を見ないような仕方で、打ち負かされたのであろうか。(同じ時にオスマン帝国を見舞った類似の運命を考えると、ここでは、「ヨーロッパ」列強という言葉をつかわねばならない。)そして、いったん力を失うや、ハプスブルグ家がその復興に必要な、勤王家のまじめな支持母体をなんら持たなかったのは、どうしてであろうか。(437㌻)
『ウィトゲンシュタインのウィーン』S.トゥールミン+A.ジャニクより
2006年7月7日