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全元論ーまえがき

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まえがき

 不用になった物の処理は、自分がやらなくてもゴミ置き場に出せば行政がやってくれる。しかし自分の内なる煩悩の残滓の処理は、いくら無視しようとしても自身で自我意識を脱落しなければいつまでも残る。道元の師の如浄(にょじょう)は「身塵脱落(しんじんだつらく)」といい、道元は「身心脱落(しんじんだつらく)」といった。慧可(えか)が達磨(だるま)に、「修行しても修行しても、心が揺れて証(さとり)の世界に入れません」と聞くと、達磨は「その心をここに持って来なさい」と答えた。

いくら、自分にとって価値ある物や人や事であっても、関係が切れれば、ゴミや、タダの人や、そんな事もあったなぁ、ということになってしまう。諸行無常、すべての物はゴミになる。関係は切れているのに、いつまでも過去の世界に執着していると、ノスタルジーの感傷に悩まされる。時間空間の、周りの世界が相転移したのならば、私も当然相転移しなければならない。相転移できなければ、私自身が世界のゴミになってしまうだろう。

2010年(64歳)に、東伊豆の片瀬白田に借家を借り、イーゼル絵画(直接描画、裸眼のリアリズム)を始め、その後、富士を描くために御殿場、山中湖村と借家を移って、今年(2018年、72歳)は生まれ故郷の(岡山県玉野市玉)で大仙山山頂の岩塊の絵を描こう予定しているのだが、イーゼル画を始めて、私のそれまでの世界観は根本的に変わった。世界観が変われば、自我意識も生き方も絵も変わる。そして、その世界観が正しく、私の日々描いている絵が「美」の方向にピッタリと一致していることを身心全体が感じる。世界存在は軌持(きじ)の上に乗っている。その軌持の中に私も対象も含まれていて、絵を描いている。修証一等、梵我一如であって、その修も証も梵も我も無い。磁石のN極とS極は分けられないのであって、世界存在は、全体と部分、極大と極小が、どこまでいっても相似形な形態(かたち)で存在しているのだ。

西洋近代の世界観と根本的に違う、昔から変わらない日本人の世界観の正しさと、国の形体(かたち)とその歴史の正しさを、日本人はもっと誇ってもいいと思う。物理、数学、倫理、宗教、哲学、政治、経済の理論と、芸術畑の私の世界観が、歩んできた道は違ってもほとんど同じところに行き着くのは何故だろうか。その理由は簡単なこと、世界はそうなっているから、世界はそのように存在しているから、私はそう確信している。

この本は、過去に出版した二冊の本(『芸術の杣径』、『芸術の哲学』)の、文字起こしと校正をして貰った原田三佳子さんを相手に、2016年7月4日、アトリエで話したことを録音し、文字起こしをして貰い、私がそれをリライトしたものです。私の絵と同じく、この本のコンテンツが正しければ、この、ささやかでひそやかな本も、世界存在のゴミにはならないだろうことを信じて、この本を造りました。(2018年4月16日、アトリエにて)

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