(71)エスキースとタブロー(248頁)
光についてもそうで、画面が光るという理由をきちんと理解すれば、最初から描けるけれど、分らないまま意味もなくやっても、現実の画面が光るわけがない。光は加算混合で絵具は減算混合なのだから、絵具を使ってナチュラルに絵を描けば、描けば描くほど濡れ雑巾のようになって、画面の光度は落ちるのだ。つまり、光る理由を解明して意識的に絵具を塗らないかぎり画面は決して光らないのだ。
だから、「何だか知らないけれど、やっていたら出来ました」というような描き方をする人や、およそ表現主義的な画家は、異色の画家にはなっても大成していかない。一時期(多くは若い時)だけよくても、感覚や肉体が老いる晩年は衰えてしまう。それに比べて、晩年の絵ほどすばらしくなるのが超一流のマエストロ(巨匠)の共通する所である。
僕の場合、普通エスキースでタブローの完成図の決定をするまでに、何枚も試行錯誤をする。たとえば、横じまのストライプ。実際に紙の白と墨の縦じまを横にすると横じまになる。これを、紙の白いところを光と見立てて、墨の部分に色をつけるとどうなるだろう。そう見立てると、グラデーションは滲みではなくて、フォーカスのずれという事になる。そして、白い部分を光と見立てると、画面で地と図が拮抗して区別がなくなる。全部が、そのように関連して続いているのだ。その後もさらに、決定すべき点が山ほどあるのだ。
色はどうする?色だけではない。色の明度はどうするのか、ストライプの幅はどうするか。描くキャンバスの大きさによって、ストライプの幅も微妙に異なる。ストライプを何本にするのか、左右のズレをどこにもってくるのか。それらを、いちいち全部決定しなくてはならない。エスキースで全部決定してから油絵にしなければ、タブローにおいて「これ、もうちょっと太くしよう…」などという事態になってはいけない。絵を直した場合、絵具が重なったところは減算混合するために光の量が落ちるので、制作途中の大幅な変更はできるだけ控えるべきである。
滲みを表すには実際に描かないと駄目だけれども、ここをもっと太くしようなどという事は、僕の場合油絵の段階ではありえない。もろもろの事は、すべてエスキースで決定する。だからエスキースが役に立つ。それらが決定すれば、あと油絵では、最短距離で完成にまでもっていく。
アイデアをメモして、エスキースで決めていく。色々と発想しても、それから決めるまでが大変だ。一つひとつ決めて行くのだから。最初から決まっているのではない。測って決めているのではなく、実際にやってみて、これがいいなという上手く出来たものを測る。
このように、タブローの前段階で苦労しても、タブローではその苦労の痕跡を見せてはいけない。その代わり、エスキースでは苦労するしボツも多い。エスキースの方が油絵より苦労して、油絵で何枚も描いた方が早い場合すらあるのだ。エスキースでボツにしたものは、山ほどある。それらは、サイズごとに箱に入れて整理して保存している
新しい発想はこれからも延々と続くわけで、発想があっても現実にはうまくいかなかったりするので、いっそのこと油絵で描いてしまおうと思わないか、と聞かれるけれど、そうは思わない。具象画にしても、現実に視覚的に見ないと決定できないのだ。
その代わり油絵では、画面上で試行錯誤して塗り直したり削ったりはしない。そうしないと美しくならないのだが、油絵の段階でそれをやっている人が、意外と多い。ピカソは例外でそれについては、次の話でふれます。