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『仏陀』増谷文雄 著 角川選書ー18

『私の日本地図 12』 宮本常一著 同友館

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『私の日本地図 12』 宮本常一著 同友館

■島の旧家西村弥次兵衛ももとを正せば伊豆八丈島の出身であった。元文3年(1738)の冬直島の源次郎は大阪土佐堀の柏屋勘兵衛持舟の沖船頭として江戸へ向う途中時化にあって八丈島へ漂着した。幸船員一同の命に別状なく、その翌年乗組の者一同は便船を得て江戸へ帰り、さらに郷里へ帰った。源次郎だけは積荷を処分しなければならないので島に残った。船がいたんでいて、そのまま江戸まで廻送できないからである。処分するといっても八丈島は小さくて、住んでいる者は貧しく、荷はなかなかさばけず、処分してしまうまでに3年かかってしまった。

源次郎は菊池弥惣右衛門という者の家を宿にしていたが、弥惣右衛門の末子庄之助は、源次郎をしたってつきあるいていた。そこで源次郎もかわゆくてたまらず、島を去るとき養子にもらいうけて来た。

源次郎は元文5年(1740)3月1日に島をたち、江戸へかえって破船の後始末をして大阪へ帰り、柏屋との話もつけて郷里へかえった。庄之助は利発な子であったから極楽寺の恵道法師のところへやって手習させた。ところが間もなく源次郎は病気にかかって死に、源次郎にはまた身内の者もなかったので庄之助は天涯孤独の身になった。そこで恵道は手もとに引きとって養った。恵道の弟西村茂兵次には娘が2人あって男の子がない。そこで恵道は庄之助を茂兵次の長女の婿にした。そして西村弥次兵衛と名乗った。よくできた人で島の庄屋を勤めたこともある。茂兵次の2女は神主の三宅外記に嫁いだ。西村家はその後栄えて今日に至っている。私はこの話を八丈島へいってしたことがあり、多少の手がかりになるものは残っていないかと思ったが僅かの滞在では何にも得られなかった。(46~47頁)

■島民の移り気のためではない。島外の人の移り気のためであった。初めは皆美しい花を求め、美しい花を喜んだ。そしてそれらは切花として主として大阪・神戸の市場にも送られていた。ところが前衛派生花が流行するようになると、美しい花の需要がずっと減ってしまった。そしてキビの穂のようなものが盛んに売れはじめたのである。

キビはさきにも書いたように畑作の風害を防ぐために風垣として多く植えられたものである。島を丸裸同様に開いて畑にしているこの島では風あたりもつよかった。そこで畑のまわりにキビを植えて風を防いだばかりでなく、その茎は風呂の薪にもしたのであった。そのキビの穂が生花の材料として、美しい草花より値が高く売れるようになっては、人はもう本気で草花を栽培する者はない。

一時は花の島として世間からもさわがれ、島民もそれを誇にしていたものが、新しい前衛生花なるものが無雑作に島民の夢や勤勉をたたきつぶしてしまったのである。(201~202頁)

(2011年10月16日)

-『仏陀』増谷文雄 著 角川選書ー18

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