(42)淀川長治のような美術評論家(129頁)
美術評論家の場合も、魚に関係する仕事のアナロジーで考えるといろいろな人がいるが、多くは魚類学者だ。魚類学者的な評論は、それはそれで充分必要なんだけれど、画家の側から求める美術評論はそれではない。だって、同じ魚に関係していても、漁師の必要とする知識と、魚類学者の持っている知識は質が違うじゃないの。魚の研究は出来ても、漁師そのものの評論は魚類学者にはどだい無理な話だ。
僕が求める美術評論家は、魚類学者ではなくて淀川長治のような評論家が一番いい。
イチローに向かってバッティングの評論をできる人はいない。羽生善治(1970~)に向かって将棋の評論をできる人はいない。解説はともかく、評論を画家に向かってする必要はまったくない。絵描きの方が、実際に打つんだから。
それよりも評論家は、淀川長治のように観客の方を向いて情報を発信して欲しい。監督に向かって映画の事をどうこう言う事はできないし、その必要もありません。淀川長治とか池波正太郎の映画評論などを読むと、自分の好みでなくてもその映画を観たくなる。観終って、期待外れの事も多いのだが、何故か観たくなる。「こんなに面白いですよ。ここが、面白いところだ」と言われるとつい観たくなる。
観客に向かって場を盛らせるというか、呼び込むというか「絵というのは、芸術というのはこんなに面白いですよ」と、観客に向かって言って欲しいんだ。絵描きに向かって、何かを言う必要はないよ。絵描きに向かって言うのは越権行為だし、僭越だよ。イチローに向かって「君、もっとこうしたほうがいいよ」なんて、何故言えるんだ。
現状の美術評論家では「観客」に向かっている人はあまりいない。絵が好きで好きで「絵っていうのは、こんなに面白いんだよ。何でみんな分らないのかなぁ…」なんていうような、そういう評論家がよい評論家だと思う。
評論家を例えれば、魚を料理してものすごくうまいものをつくって「魚というなはこんなに美味しいものだよ!」というような、そういう評論家。そういうアナロジーの評論家がいいね。「この魚はこんなに美味しいんだぞ。みんな知らないだろうけれど、こんなに価値があるんだぞ…」と言う人。
こうやって場を盛り上げない事には、場そのものが、なくなってしまう。
僕がやっていると「こんなに面白いのに、みんなどうして関心がないの?」と思う。この歳になって、毎日描いていても飽きたことがない。これが本当に面白い。
美味しいものを食べて「ああ、生きていて良かった!」と思う事はめったにないだろうが、絵というのは精神の食べ物なんだ。今まで何度、過去の画家の作品に生きることを励まされた事か。
音楽も、自分の内部空間にシンクロ(同調)するとジュっと染み入るではないか。それは絵も同じ。たまにいい絵に出会うと「わぁ!」と思う。「いいなぁ!」と思う。人生肯定というか「すべて、良き哉!」と思う。