(27)キュビスム(88頁)
その問題が、キュビスムにもあるのだ。セザンヌからピカソのキュビスムに行くのだけれど、キュビスムでは色が自由には使えない。全体が、茶褐色とかビリジャンとかになって、具体的な固有色が使えない。模様のあるコスチュームを着た女性や、壁や絨毯の模様などは、描くのが難しい。
キュビスムは、どうも誤解されて解釈されているようで、フォルムを直線で分割して、つまり、フォルムの問題として理解されているけれど、そうではない。パスキンや国吉の絵のように、調子(明暗)の付け方がキュビスムなのだ。国吉康雄とパスキンは若くして知り合い、国吉はセザンヌ、パスキンはキュビスムを勉強している。きっと、互いの技法について、話し合ったり、教え合ったりしたに違いない。二人の絵は、やはり色がネックで、国吉は晩年色彩にチャレンジするが時間切れで終わってしまった。
キュビスムは、片ボカシを使った斜めの面を組み合わせて、今はもう見かけないが昔よく見かけたダイヤモンドガラスのような空間に組み直していくのがその技法だ。全体は平面的なので、一度斜めになった面の折り目を、次の折り目でそのつど前に出さないとグルッと廻って3次元になってしまう。曲面やフォルムのない空間などの対象に、直線で折り目や切り目を付けるとキューブな形になるのだ。石膏像に面取りの像があるが、その面のひとつひとつの調子を片ボカシにして、平面に組み直す、つまり明暗の付け方がキュビスムの核心なのだ。
しかし、この技法を何にでも使えない。セザンヌも、人物に明度の暗い洋服を着せると、洋服全体を暗い色に塗ってしまうと、空間との輪郭を開けようと思っても、閉じてしまう。明度差があるのだから。
片ボカシの技法を使うと自由に色を使えないから、ピカソはキュビスム時代の後半にパピエコレを使って具体物を取り入れて、それを乗り越えようとするのだけれど、革新的な技法だけれど自由度の少ない点に嫌気が差したのか、新古典に戻ってしまう。
それで、再度立て直して一九二〇年頃から、もう一度キュビスムと色の両方を止揚した技法に挑戦する。つまり、視点の移動と、片ボカシをやめて平塗りで色を塗ることを共存させて絵作りをしていった。このあたりは、マチスの存在がチラチラしていたのかもしれない。
ピカソの凄いところは、彼の一生の絵の変革には、すべてきちんと理由があることだ。決して場当たり的な思いつきや、心情的な人生上の変化ではない。確かに、絵の意味内容は私小説的だが、絵の表面つまり絵作りは一貫して常に造形的だ。
セザンヌが何故近代絵画の父なのかというと、ピカソもマチスも、両者ともセザンヌが源流なんだ。
エクスというフランスの田舎に、凄い絵描きがいるらしいという事くらいは、ピカソやマチスたち一部の画家たちに伝わっていただろうけれども、一八九五年一二月ヴォラールの画廊で最初の個展を開催したのはセザンヌがなんと五六歳の時だ。そして、一九〇六年(六七歳)に亡くなるまでの一二年間の間に、一九〇四年(六五歳)サロン・ドートンヌで一室を与えられ三三点出品、一九〇五年(六六歳)サロン・ドートンヌに「大水浴」など一〇点出品、が若い画家達のセザンヌの絵をじかに見られた数少ない機会だろう。僕の想像だが、特に一九〇五年の「大水浴」の絵は、一部の若い画家達の間にセンセーションを巻き起こしたことだろう。きっと、画家が会えばかならずセザンヌの絵の話でもちきりだったに違いない。ピカソとマチスの、一九〇五年前後の作品を対照して調べてみると、興味深いはずだ。ピカソもマチスも、それまでうわさとか、画廊でちょっと見かける時もあったはずだが、ピカソやマチスはセザンヌのどこに驚き、何を引き継いでいったのか。それは、魚類学者の解釈ではなくて、僕の…漁師の解釈だから間違っているかもしれないけれど。