(15)母の反応(50頁)
高二の時に美術クラブに入って、その年の夏休みに油絵の道具を買って、夏休みが終わった時には、芸大を受験しようと考えていた。このスピードでうまくなっていけば芸大に入れると思った。
ところが、自分一人で生きているのではないので、現実はそう単純ではない。父は、僕がもっと普通のマトモなコースに進むものと思っていた。そのために千葉に転勤して来たのだから、父にしたら「いまさら何を言ってるんだ…」というわけだ。その当時、芸大受験は難関だったけれども、かりに大学に入っても卒業すれば、画家という職業はほとんど経済的には恵まれないから、貧乏覚悟での志望になる。僕が志望大学を芸大と書いたら、担任の先生が、「もう一度よく考えろ」と言う。母が、進路相談で担任の先生に、リスクが大きい選択だと言われた。結局、美術の先生に一度相談してから決めなさいということで、母と一緒に山口先生の自宅に伺った。「芸大に行くと息子が言っているのですが」と母が言う。「芸大に入れば、卒業すれば教師になったり、生活することは昔と違って何とかなるだろうけれど、岡野君は始めたのが遅かったから、二年は浪人を覚悟しなくては」。二年生で始めて、すでに夏休みは終わっているのだから山口先生の言う事も当然だろう。
二年は浪人を覚悟しなさいと言われた。うちは経済的には豊かではないから、国立大学しか受験できない。芸大は国立だからいいけれど、二年も浪人してなんて、親にとってはとんでもない話だ。
そう言われても、母には「大丈夫。僕は入れるヨ」と話した。僕は子供の時に銀ヤンマを捕る方法を自分で見付けたんだ。千葉高に転校するときもそうだったし、落ちるはずはない。僕には、そういう確信があるんだ。通常の経験論的には二年くらい浪人しなければならない。全部経験だけで行くとしたらの話だ。しかし、僕には経験以外に、子どもの時から培った構造主義がある。他の受験生と同じく経験的な方法でやっていったら、入れるはずがないと思う。しかしながら、僕の子どものときから培った、事象に対して常に、そういう風にアプローチしていくという方法をつかえば、違ってくる。また、そのような手応えが充分にあった。このスピードで行けば、あっという間に上手くなるなという確信。これは「形の記憶」というようなもので、自分は物事が成就する方向にきっちりはまっている、つぼは外していないという独断的な根拠なのだ。
それで実際、見る見る内にうまくなった。演繹と帰納の両方向から仮説を立てて実際のデッサン(実験)でそれを検証する。それをくり返すと、なるほどうまくいく。
たとえば、石膏像の着ている衣服の細かいシワは、どうやって描いたらいいのだろう。たとえば、直方体の石膏の箱があって、これを描写しろと言われたら、そんなに難しいことではないだろう。少し石膏デッサンの経験があれば描ける。そして、その直方体の上に細かいシワがあるとすると、その凹凸の下部構造に直方体の明暗を透かし見れば、細部が描ける。ところが、シワそのものを見てしまうと、部分部分をどう描いていいか分らなくなってしまう。凹凸の下部構造としての直方体を意識することを、形を見てその下部構造の上に上部のしわがあると理解しないと、単に羅列する影になってしまう。それをもう一段階拡げれば空間の中の石膏像全体を意識すると、当然バックも描かなくてはならない(当時の石膏デッサンはバックに調子を付ける人は小数派だったが、僕はバックなしには描けなかった)。
そういう風に、仮説演繹法を加えてどんどん進めていくわけだ。経験だけでやっていたのでは駄目だ。
デッサンはあるステップだから、これがすべてのゴールならばずっとやっていればいいけれど、一番初歩のところで、おなじ事を何年やってもあまり意味がない。なるべく速いスピードで、すっと抜けて行った方がいい。この段階で何年もとどまっていると、たぶん絵にはマイナスになるだろう。
そういうわけで、母は説得した。「山口先生は、ああいったけれども、僕は入る自信があるから心配しないでいいヨ」と。