■初期仏教における「…であるありかた」としての法が、有部によって「…であるありかたが有る」と書き換えられたのである。「である」から「がある」へ、essentiaからexistentiaへと論理的に移っていったのが、法有の立場の成立する理論的根拠である。(90㌻)
■「まず、すでに去ったものは、去らない。また未だ去らないものも去らない。さらに〈すでに去ったもの〉と〈未だ去らないもの〉とを離れた〈現在去りつつあるもの〉も去らない」(118㌻)
■『中論』はけっして従来の仏教のダルマの体系を否定し破壊したのではなくて、法を<実有>とみなす思想を攻撃したのである。概念を否定したのではなくて、概念を<超越的実在>と解する傾向を排斥したのである。「であること」essentiaを、より高き領域における「があること」exisistenntiaとなして実体化することを防いだのである。西洋中世哲学史における類例を引いてくるならば、実念論(realism,Begriffs realismus)的な思惟を排斥しているのである。(143㌻)
【私の考えは、真、善、美を超越的実在と考える】
■実念論―プラトーンー説一切有部
実念論に対する反対者―プラトーンに対する反対者―ナーガールジュナ学派(154㌻)
■「不滅・不生・不断・不常・不一義・不異義・不来・不出であり、戯論(けろん)が寂滅(じゃくめつ)して吉祥(きちじょう)である縁起を説いた正覚者(しょうがくしゃ)を、諸(もろもろ)の説法者の中で最も勝れた人として稽首(けいしゅ)する」
とあり、この冒頭の立言「帰敬序(ききょうじょ)」が『中論』全体の要旨である。
右の詩の趣旨を解説しつつ翻訳すると、次のようになる。
[宇宙においては]何ものも消滅することなく、何ものもあらたに生ずることなく、何ものも終末あることなく、何ものも常恒(じょうごう)であることなく、何ものもそれ自身と同一であることなく、何ものもそれ自身において分たれた別のものであることはなく、何ものも[われわれに向かって]来ることもなく、[われらから]去ることもない、というめでたい縁起のことわりを、仏は説きたもうた」(160㌻)
■故に有部は、縁起という特別な実体を考えることはなかったけれども、「法」という実体を考え、その実体が因果関係をなして生起することを縁起と名づけていたのである。(175㌻)
■中国の華厳宗は一切法が相即円融(そうそくえんゆう)の関係にあることを主張するが、中観派の書のうちにもその思想が現れている。すなわちチャンドラキールティの註解においては、「一によって一切を知り、一によって一切を見る」(『プラサンナパダー』28ページ)といい、また一つの法の空は一切法の空を意味するとも論じている。(195㌻)
■「我(アートマン)が無いときに、どうして〈わがもの〉(アートマンに属するもの)があるだろうか。我(アートマン)と〈わがもの〉(アートマンに属するもの)とが静まる故に、〈わがもの〉という観念を離れ、自我意識を離れることになる」(225㌻)
■ピンガラの註釈には、「いま聖人には我(が)と我所(わがもの)と無きが故に、諸の煩悩もまた滅す。諸の煩悩が滅するが故に、能く、諸法実相(事物の真相)を見る」(大正蔵、三十巻、24ページ下)という説明がみえている。(226㌻)
■「もし法(事物)にして衆の縁に因って生ぜば、すなわち我有ること無し。五〔本の〕指に因って拳(こぶし)有れども、この拳は〔それ〕自体有ること無きがごとし」(大正蔵、三十巻、30ページ上。この文から見ると、「我「と「自体」よは同義であると考えられていたことがわかる)(227㌻)
■仏教では古来「三法印」ということを説いた。「三法印」とは「諸行無常」「諸法無我」「涅槃寂情」をいうのであり、「一切皆苦」をいれると四法印となる。(228㌻)
■自性(それ自体)とは法の「本質」「ありかた」を実体視したものであるから、有部によれば独立に実在するものであらねばならない。しかるにそれがつくられたものであり他に依存するということは全く矛盾している。また一般に自性は絶対に変化しないものであるから、もし自性を承認するならば、現象界の変化が成立しえないこととなる。(237㌻)
■『中論』は空あるいは無自性を説くと一般に認められているが、それも実は積極的な表現をもってするならば、少なくとも中観派以後においては「縁起」(とくに「相互限定」「相互依存」)の意味にほかならないということがわかる。(238㌻)
■「この空性の成立する人にとっては、一切のものが成立する。空性の成立しない人にとっては、何ものも成立しない」(漢訳では「もし人が空を信ぜば、かの人は一切を信ず。もし人が空を信ぜられば、かれは一切を信ぜず」と訳しているが、けだし適切であろう)。(239㌻)
■『中論』は歴史的には、『般若経』の各層を通じてみられたとうな空観を基礎づける運動の終わりであるとともに、思想的には『般若経』理解のための始めである。(249㌻)
■「どんな縁起でも、それをわれわれは空と説く。それは仮に設けられたものであって、それはすなわち中道である」(第十八詩)
「因縁所生の法、我即ち是れ空なりと説く。亦た是れ仮名(けみょう)と為す。亦た是れ中道の義なり」という文句にして一般に伝えられている。天台宗も三論宗もこれを採用しているし、原文の意味をよく伝えている。この詩句は中国の天台宗の祖とされる慧文(えもん)禅師によって注意されるに至った。
そうして天台宗によってこの詩句は空・仮(け)・中の三諦を示すものとされ、「三諦偈(さんたいげ)」とよばれるようになった。すなわちその趣旨は、因縁によって生ぜられたもの(因縁所生法)は空である。これは確かに真理であるが、しかしわれわれは空という特殊な原理を考えてはならない。空というのも仮名であり、空を実体視してはならない。故に空をさらに空じたところの境地に中道が現れる。因縁によって生ぜられた事物を空ずるから非有であり、その空をも空ずるから非空であり、このようにして「非有非空の中道」が成立する。すなわち中道は二重の否定を意味する。(251㌻)
■空見とは、空が縁起の意味であり、有と無との対立を絶しているにもかかわらず、これを対立の立場に引下ろして考えることである。「空亦復空(くうやくぶくう)」とはこの空見を排斥しているのであるから、通常いわれる否定、たとえばスピノーザのnegatio negationis あるいはヘーゲルのNegationn der Negationn とはかなり相違しているというべきであろう。(279㌻)
■諸法実相は「他のものによって知られるのではなく」(第十八章・第九詩)であり、すなわち、言語によっては表現されえないものだということになる。(283㌻)
■相依説(そうえせつ)の立場に立つから一方が否定されるならば他方も否定されねばならないのである。さらにまた有と無とは相関関係にあるから、もしもニルヴァーナが無であるというならば、有によって存することとなるから、「不受」すなわち依らないものであるということがいえなくなる。このようにニルヴァーナを無と解する説も相依説の立場から排斥されている。
以上を要約して次のように説く―
「師(ブッダ)は生存と非生存とを捨て去ることを説いた。それ故に『ニルヴァーナは有に非ず、無に非ず』というのが正しい」(第二五章・第一〇詩)(291㌻)
■「ニルヴァーナの究極なるものはすなわち輪廻の究極である。両者のあいだには最も微細なるいかなる区別も存在しない」(第二五章・第二〇詩)
この思想は独り中観派のみならず、大乗仏教一般の実践思想の根底となっているものである。
人間の現実と理想との関係はこのような性質のものであるから、ニルヴァーナという独立な境地が実体としてあると考えてはならない。ニルヴァーナというものが真に実在すると考えるのは凡夫の迷妄である。故に『般若経』においてはニルヴァーナは「夢のごとく」「幻のごとし」と譬えている。それと同時に輪廻というものもまた実在するものではない。(295㌻)
■われわれ人間は迷いながらも生きている。そこでニルヴァーナの境地に達したらよいな、と思って、憧れる。しかしニルヴァーナという境地はどこにも存在しないのである。ニルヴァーナの境地に憧れるということが迷いなのである。
したがって繋縛(けばく)も解脱も真に有るものではない。一切は無縛無解(むばくむげ)である。(298㌻)
■「束縛と解脱とがある」と思うときは束縛であり、「束縛もなく、解脱もない」と思うときに解脱がある。譬えていうならば、われわれが夜眠れないときに、「眠ろう」「眠ろう」と努めると、なかなか眠れない。眠れなくてもよいのだ、と覚悟を決めると、あっさり眠れるようなものである。(299㌻)
■〔宇宙においては〕何ものも消滅することなく(不滅)、何ものもあらたに生ずることなく(不生)、何ものも終末あることなく(不断)、何ものも常恒であることなく(不常)、何ものもそれ自身と同一であることなく(不一義)、何ものもそれ自身において分たれた別のものであることはなく(不異義)、何ものも〔われわれに向かって〕来ることもなく(不来)、〔われわれから〕去ることもない(不出)、戯論(けろん・形而上学的論議)の消滅というめでたい縁起のことわりを説きたもうた仏を、もろもろの説法者のうちでの最も勝れた人として敬礼(きょうらい)する。
*この冒頭の立言(帰敬序)が『中論』全体の要旨である。(320㌻)
■またかの国(極楽浄土)に生まれたる者は〈われ〉という観念をもたず(無我になり)、また〈わがもの〉という執着をもっていない。
〔その国に生まれたる人は〕三界(欲界・色界・無色界)という牢獄をのり超えて脱出して、その目は蓮華の葉のごとくである。(417㌻)
■ナーガルジュナの思想の流れは中国にも伝えられた。それは、クマラジーヴァ(鳩摩羅什)の翻訳によるナーガルジュナの著作『中論』『十二門論』およびアーリヤデーヴァの『百論』にもとづく宗派として成立した。それは三論宗とよばれる。この派の大成者は嘉祥大師吉蔵(かじょうだいしきちぞう・549―623年)である。かれは安息(パルチア)出身の人であったが、『華厳経』と『法華経』の思想をふまえつつ、中国思想の地盤の上にユニークな思想を展開した。しかし唐の中葉ころまでにはその力は衰えた。(434㌻)
■また『中論』や『大智度論』などをもととして、空・仮・中の三諦円融、一心三観にはじまる教理を持つ天台宗もナーガルジュナの思想にもとづくといえよう。
またナーガルジュナの著した『十住毘婆紗論』の浄土教関係の部分は、後世の浄土教の重要なささえとなり、またさらに密教も『華厳経』などの影響を受けてはいるが、ナーガルジュナの思想の延長の上に位置づけることもできよう。(435㌻)
■〈空〉―実体の否定
大乗仏教、ことにナーガルジュナは、もろもろの事象が相互依存において成立しているという理論によって〈空〉の観念を理論的に基礎づけた。(438㌻)
■「心の境地が滅したときには、言語の対象もなくなる。真理は不生不滅であり、実にニルヴァーナのごとくである」(第十八章・第七詩)(438㌻)
■ナーガルジュナはさらに進んで主張する。―〈空〉という原理さえもまた否定されねばならない。すなはち否定そのものが否定されねばならないのである。否定の否定が要求されるのである。一般に大乗仏教では否定の否定を説く(「空亦復空・くうやくぶくう」)。ナーガルジュナは『中論』でいう。
「もしも何か或る〈不空〉なるものが存在するならば、〈空〉という或るものが存在するであろう。しかるに〈不空〉なるののは何も存在しない。どうして〈空〉なるものが存在するであろうか」(第十三章・第七詩)
ところでもしも〈空〉というものが存在しないのであるならば、〈空〉はもはや〈空〉ではありえないことになる。この観念を継承して、中国の天台宗は、三重の真理(三諦)が融和するものであるという原理をその基本的教義として述べた。このげんりによると、(1)一切の事物は有論的な実在性をもっていない、すなわち空である(空諦)。(2)それらは一時的な仮の存在にほかならないたんなる現象である(仮諦)。(3)それらが非実在であってしかも一時的なものとして存在しているという事実は中道としての真理である(中諦)。存在するいかなる事実もこの三つの視点から観察されねばならない、と説く。(444㌻)
■〈空〉の教義は虚無論を説くのではない。そうではなくて「空」はあらゆるものを成立せしめる原理であると考えられた。それは究極の境地であるとともに実践を基礎づけるものであるということを、大乗仏教は主張した。空の中には何ものも存在しない。しかも、あらゆるものがその中から出て来るのである。それは鏡のようなものである。鏡の中には何ものも存在しない。だからこそあらゆるものを映し出すことが可能なのである(そこで「大円鏡智」という表現が成立する)。
宗教的な直観智による認識は、鏡が対象を映すことにたとえられる。神聖さを映すための道具として鏡を譬喩に用いることは、中国、インド、仏教、ギリシアおよびキリスト教においてなされていることである。大乗仏教、とくに唯識説では、われわれの存在の究極原理であるアーラヤ識が転ぜられて得られる智を大円鏡智と呼んでいる。(445、446㌻)
■『パガヴァッド・ギーター』では無執著の行為ということを強調する。これこれの行為をすれば、これこれの良い報いがある、というようなことを考えないで、執著を離れて行動せよというのである。これに類する思想は西洋ではパウロによって説かれている。すなわち、内面的に世界から自由であることを外面的に表示する必要はない、ということをパウロは次のように記している。
「妻のある者はないもののように、泣く者は泣かないもののように、喜ぶ者は喜ばないもののように、買う者は持たないもののように、世と交渉のある者はそれに深入りしないようにすべきである。なぜなら、この世の有様は過ぎ去るからである」(「コリント人への第一の手紙」七・二九―三〇)(448㌻)
『龍樹』中村元より 2006年6月22日