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⑸奇跡の国、日本

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奇跡の国、日本

 日本ではその「全体で動いている」という思考が、ずっと底流に流れてきた。さらにそうやって、全体が(′)一、全体で(′)一として国も文化も奇跡的に生き続けている。道元も文庫本にもなっているくらいだから誰もが知っている。いつの時代にも、さまざまな分野で、自分の仕事にベストを尽くし、お国の為に頑張っているし、時代が必要とすれば、その必要性に応(こた)える人物が必ず出てきている。

 裏で大きく邪悪な陰謀(お金)が動いているのだろうが、世界の難民の問題などは、僕は、情けないと思うし、自分の祖国がそんな国に生まれた国民は、自分の祖国に誇りを持てない国民は、可哀想だともおもう。自分の祖国を捨て、他国の国民になることに疚(やま)しさを感じないのだろうか。祖国がそんな状態の時に逃げないで、身を捨てても自分達の国を良くしようという人物は出ないのだろうか。難民になってよその国に行って「差別されている…」などと不満を言うなんて、情けなく、可哀想なことだ。日本人なら困難な事態に遭遇したら逃げるだろうか。逃げないと僕は思う。また、かっての日本人は、外国と戦っても、仮に内乱があったとしても武士同士の戦いだけなので、虐殺などなく、日本人は逃げる必要も気もなかったのだろう。パナマ文書のように他の国で税金を逃れたりするなんて、よその国に行ってこっそりと自国のお金を外貨に換えて財産を隠すなんて、そんな思考で自分の国が良くなるはずがない。自分の命や、自分の権力や、自分のお金のために、平気で他者や他国や自然を、蹂躙し虐殺し汚すような人達が跋扈(ばっこ)する国が、良くならないのは当たり前のことだ。

 驚くべきことに、僕の場合はこれまで子どもの頃に経験してきた事項が、ここに来てみんな納得されるのだ。海で溺れた時の体験(注1)とか、水晶の山(注2)とか、電話帳(注3)とか、かつての経験(時間)の縦のラインから横(空間)のラインを少し外すと、他のことが現成する。その日の予定も、たまたまの要素によって計画が中止になったり病気になったり、何ごともたった今の決断によって、変わっていくのだ。

 運命的なのではなく、今、今、今と、未来に向かって開かれているのだ。過去はどうにもならないけれど、どうにもならない事項もまた、そういうことで成り立ってきたのだ。全体としてはそんな形で回っており、昨日も今日も明日も明後日も、たとえば津波があっても戦争があっても、ある程度のところできちんと終わっているし、終わらせたし、みんなでいつのまにか再興させた。日本がそうであるように、シジフォスの神話の人生観ではない、日本人の世界観(全元論)が世界に広まれば、いずれ世界もそうなるだろう。

 それは存在の法則、存在の、全元論でいえば現成を公按しているということであるが、「真・善・美」は外に超越としてあるのでなく、こんなにも今(′)こ(′)こ(′)に「在る」ではないか。太陽は使用料を取らない。自然はモデル代も取らない。万人に対してそうである。「お前は絵を描かないのだから見せない」なんて決して言わない。善人にも悪人にも、勝者にも敗者にも、金持ちにも貧乏人にも、生物にも無生物にも、気前よくジャブジャブと恩恵を振りまいてくれている。するとブチブチと不満を言ったり、世の中に不満をぶつけたりなどは、とても考えられないのだ。

 日本は奇跡のような国だ。今年(2017)は皇紀で言えば2677年で、世界でこんなに存続している国はない(ギネスブックに世界最古の国として登録されている)。一元論の国どうしによる戦いというのは、日本における戦争観とまったく違うのだ。日本以外では、文化も含めて相手を叩きつぶすという考えである。当時の先進国であり文化を誇っていた唐も宋も、今では中国にその姿が少しも残っていない。道元の先師であった如浄(にょじょう)や画家の牧谿(もっけい)などの先人を、今の中国人は知っているのだろうか(牧谿の作品は日本にしか残っていない)。ギリシャの哲学は、ギリシャでその後どうなっただろうか。ドイツの音楽もフランスの絵画も、もうその時々限りでせっかくあれだけのものが存在したのに、一時限りであった。

 一方で日本は、良いものを残し続けてきた奇跡のような国家である。伊勢神宮は、あれは過去のものでなく、遷宮しながら今生きているのだ。パルテノンの遺跡とは違い、あんなにも美しくずっと生きて維持している。

 だからギリシャで哲学好きの人がいたら、もしそれが日本人のようなら切歯扼腕しなければ。ギリシャ人が頑張らなくちゃいけない。「ギリシャでは景気が悪いから、どこかへ行こう」なんて日本人なら決して思わない。現実はたいていアメリカに行くわけだが。

 ギリシャの数学者で面白い人物がいた。パパと呼ばれていたクリストス・パパ・モリアコフプーロスという人で、数式を解くのだけど、ポアンカレ予想に取り付かれたような数学者で、結局は解けなかった。最後はついにおかしくなった。まあしかし、ギリシャという国も哲学の発祥の地だし、あの時代にお釈迦さまも道元も、今より過酷な、戦争も内乱もある時代に生きていた。

 日本人のこの資質はじつに素晴らしい。我々は、日本に生まれた幸せを感じるべきだ。存在すること自体も奇跡のような幸せだけど、さらによくぞ日本に生まれてきたものだ。だから、いろいろあっても大丈夫なのだ。そういう期は満ちていて、下に隠れていたように見えても国がおかしくなると、自分の身を捨てて国の為に尽くす逸材の人物たちが、明治維新の時のようにしっかりと出てくるのだ。

 一昔前は、マスコミがそういう人物がいないかのように見せていた。しかし今は進歩的文化人と呼ばれたような人たちがむしろ危機を迎えている。朝日新聞の誤報問題もそうだが、およそ進歩的文化人というのは進歩史観を持っていた。戦後の丸山眞男とか朝日新聞、岩波書店などがそうだ。戦後のテレビや出版社には、戦後のあの時代特有の利得があった。美術の世界も、戦争画の問題で、良質の画家が、いわれのない追求を受けた。

 しかし、最近ではネットで真相が叩かれたり、出版業界がおかしくなったりしている。とはいえ従来の一部の出版社がおかしくなっただけで、むしろ出版は売れているとも言えるのだ。いずれ志(こころざし)は、「真・善・美」は、しっかりと残っていくのだ。大本(おおもと)の原則、というか最上位概念というか、全元論でいえば世界存在そのもの、に添わないものは、どんなに金をつぎ込んでも、それが間違っていたら、つまり偽と分かっていることにいくら労力と金をつぎ込んでもうまく行かない。偽である限りはうまく行かない。あくまでも真でないといけない。あくまでも真・善・美でなくては存続できない。裸の王様は裸が真なので、どんなに、金と権力を使っても、偽は真にはならない。嘘は何度ついても、大声で脅したりデモをやっても、本当にはならない。竜安寺の石庭は今もちゃんと在るし、『正法眼蔵』は文庫本で書店に並んでいるし、モナリザは、デュシャンの作品で髭をかかれても、今も変わらず微笑んでいる。

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