岡野岬石の資料蔵

岡野岬石の作品とテキスト等の情報ボックスとしてブログ形式で随時発信します。

テキストデータ

画歴

投稿日:

画暦

 1946年

3月1日、岡山県玉野市玉にて岡野国輝、マサ子の二男(兄、姉、本人、弟)として生まれる。戌年、魚座、AB型。

1951年

幼稚園のお絵かきの時間で、太陽を黄色く描いた所、先生から「太陽は赤でしょう」と言われ腑に落ちない感じがした。また、汽車を描くのに、横向きの汽車の車輪が2本のレールの上に乗らず、1本余ってしまう事に困った。

1952年

小1の図画の時間で、教壇の上のランドセルを描けという指示に、僕は見た通りに描いてやろうと思い描写すると、先生に驚かれる。ただし、ランドセルが小さ過ぎるので家で大きく描き直してきなさいといわれ、描き直した所平凡な絵になってしまった。

1960年

倉敷にある大原美術館は玉に近かったので、学校や子供会で何度か訪館した。美術館にある絵は、学校の先生やプロの絵描きといわれる人達の絵と全然違い、だからその人達のいう事は信用できないなぁと思う。『落ち穂拾い』と『晩鐘』で最も偉い画家だと思っていたミレ-の絵(崖の上で牧夫が寝そべっている絵)がゴーギャンやセガンチーニの絵に見劣りするのに驚かされた。

1961年

3月、岡山県立玉野高校に入学。9月、千葉県立千葉高校に転入。

1962年

4月、高2になって美術クラブに入部。夏休みに入って油絵の道具を買う。9月、東京芸大受験を決める。2学期から学校をサボり始め、芸大受験のため絵に没頭する。

1963年

高3の担任の教師に芸大受験のため、授業のサボタージュを認めてほしいと頼み、黙認するという事で了承される。学校の行事はすべて不参加、各学科の出席日数はギリギリだった。学校をサボってよく絵を描きに行った出洲(デズ)の海岸の季節外れの海の家で演劇部の同級生の高橋君と秋晴れの午後ビールを飲みながら過ごした時間は、青春だった。芸術を志した選択に間違いないという確信を持った。

1964年

3月、県立千葉高校を卒業。4月、東京芸術大学油絵科に入学。8月、同級生で同じ寺田教室だった小田君と、四万十川の上流の村の彼の親戚の医者の家で一夏を過ごす。

1965年

8月、同級生で寺田教室だった田島君の熊本の家で一夏を過ごす。彼の親戚の家がある天草に行ったり、阿蘇にも帰るまぎわにあわただしく一人で行ってきた。

1966年

2年生から3年生への進級時に小磯教室を選ぶ。3年生のコンクールで芸大の学内賞である安宅賞を受賞。

1968年

3月、東京芸術大学卒業。卒業制作の作品がサロン・ド・プランタン賞を受賞。卒業後、何とかなると思っていたが、どうにもならず新聞広告の求人広告で出版関係の会社に応募して就職したが3日でやめる。ガックリきて自分は絵以外の仕事は無理だと思い知らされた。改めて、美術教育の関係で生活を立て直そうと思い芸大の大学院に入り直そうと思う。美術研究所の講師のバイトで食いつなぐ。

1969年

4月、東京芸術大学大学院基礎デザイン研究室に入学。油絵科の大学院を受験しなかった理由は、大学にしがみつかずに飛び出した手前、おめおめと引き返す事が恥ずかしかったから。

1970年

11月、生活費を稼ぐために実家のある市原市の辰巳団地の集会所を3日間借りて個展を開く。その時作ったすべて自作のモノクロのDMを東京のめぼしい画廊に送った。そのDMを見て日本橋画廊の児島徹郎氏(故人)より絵を見たいとの葉書が届き、展覧会が終って、弟から借りたネクタイとスーツを着て日本橋画廊を訪ねた。12月、新作の風景画を持っての2度目の訪廊のときに児島さんから契約の話が出る。映画『モンパルナスの灯』などで、画商との契約は恐ろしかったが、「うなぎ」(自著『芸術の杣径』の中のエッセイの題名)を思い浮かべてサインする。

1971年

4月日本橋画廊にて個展。前年の暮れあたりから予兆のあった第一次絵画ブームの波にシンクロして在庫も含め完売だった。ちなみに、第一次絵画ブームは新人ブームだった。

1972年

3月、東京芸術大学大学院修了。前年から絵で生活できるめどが立ってきたので、アッサリと大学を離れる。5月、日本橋画廊にて個展。完売。個展の後に北海道札幌市西区手稲西野に転居。日本橋画廊とは独占契約なので断わるのだが、絵画ブームの本格的な到来で、南浦和のアパートにも画商が押し掛けてくる。以前の生活に比べて、あまりにも異常な状況に画家としての本能的な防御だったのかも知れない。北海道は前年の9月に取材に訪れ、風景と光が気に入っていた。

1973年

5月、日本橋画廊にて個展。完売。

1974年

オイルショックの影響で第一次絵画ブームはいっきに終焉する。日本橋画廊から買い取り契約の解除を言い渡される。僕の契約点数では3年間は予約で埋まっていると聞いていたのだが、今はすべて消え去ったという。フリーになる。

1975年

千葉県市原市能満に転居。茅葺きの農家を借りて手を入れ住み始める。6月、飯田画廊(銀座)にて個展。

1976年

田島英昭氏、三栖右嗣氏と「赫陽展」を企画。名前の由来は、僕がまず各人各様で「各様展」はどうだと提案して、三栖さんがそれに赫陽と漢字を変えて決まった。12月、第一回展を資生堂ギャラリー(銀座)にて開催。赫陽展は資生堂ギャラリーで、1978年5月第二回展、1980年10月第三回展を開催し、1984年3月第四回展を最後に解散する。

1981年

4月、国立近代美術館にてマチス展を観る。自分の絵のベクトルとモネやマチスの絵のベクトルの違いに気付く。千葉県柏市に転居。

1982年

4月、月刊美術画廊(銀座)で個展。それに合わせて最初の作品集『岡野浩二作品集1964~1981』を刊行。月刊美術画廊は以前画材屋の月光荘があったビルの一階から三階まで各フロアーを貸していて、それを全階借りて100号の風景画20数点を展示した。今までのベクトルの仕事の総括のつもりだった。マチス展から一年、画集作りと大作の制作に掛かりっきりだった。そうやって今までの暖めていたアイデアを出し尽くして、その後、心置きなく新たな方向で挑戦をしようという計画だ。

1983年

8月、杏美画廊(新宿)にて個展。開廊記念展。以後1988年まで毎年個展。このころの絵は、フォービックで偶然性が強く、悩み多き時期だった。柏市塚崎にアトリエを建てる。

1984年

3月、第四回赫陽展に『横たわる女』(100F)を出品。ピカソとマチスの絵の研究により、やっと行き先に光明を見い出す。2冊目の作品集『岡野浩二WORKS DOCUMENT(1)1974~1984』を刊行。

1990年

10月、オンワードギャラリー日本橋にて個展。線の使い方にいいアイデアを思い付いて、ピカソ、マチスの影響から抜け出せる自信が湧く。

1991年

10月、ギャラリー銀座汲美(銀座)にて個展。出品作の『瓶と影』(30F)は自信作だった。

1993年

6月、資生堂ギャラリー(銀座)にて個展。『Horizon』シリーズの100号13点を展示。画面は抽象的だが作者としてはまだ具象を描いているつもり。7月から読売新聞の夕刊紙上で毎月一回日野啓三氏(1929-2002)のエッセイ『流砂の遠近法』のカットを描く。1999年11月まで続いたこの仕事は、楽しくまた重要な仕事だった。研究と発表を同時にできる事で、つまり、発表をひかえた研究なのでモチベーションが増し、いっきに探究が進んだ。12月から翌年1月まで、たけうち画廊で個展。作品の題名は『Dimension』で紙にアクリル絵具。

1994年

このころより2006年まで、作品が完全に抽象になる。題名も例外を除いてすべて『無題』。

1996年

5月、西武池袋アート・フォーラムにて個展。個展のサブタイトルは「脱現実化的実在化」。目(視覚)の超越的な美への志向と、人生上の実存主義が齟齬をおこしてこんな難解な言葉を使わざるをえなかった。

1998年

10月、アートギャラリーオオハシにて個展。この個展より、自分の絵画上のコンセプトとして「抽象印象主義(Abstract Impressionism)」を標榜する。10代後半からの人生上のイズムだった実存主義から超越的実在論者に変わる。このころより、会話に「美」、「超越」、という言葉が頻繁に出るようになった。

2002年

8月、フォーラム・アート・ショップにて個展。サブタイトルは「光と空間∞抽象印象主義」。抽象のリトグラフを星野工房で6点作りタブローと共に展示。リトグラフを作る過程で、光と絵具の関係を再認識した。

2004年

7月、3冊目の作品集『岡野浩二作品集1993~2004』を刊行。画集出版記念展パート1を8月にアートギャラリー樹(銀座)にて、パート2を11月に藤屋画廊(銀座)にて開催。作品集のために数扁の文章を書く。この文章をきっかけに文章だけの本の刊行を勧められる。

2005年

6月、前年に観たピカソ展とマチス展の彫刻からインスパイヤーされて、彫刻を作ろうという思いを実行に移す(ブロンズと真鍮の作品を10点、黒みかげ石1点、大理石1点制作)。並行して、『芸術の杣径』の執筆にかかる。10月、イサム・ノグチ展(9月16日~11月27日、東京都現代美術館)を観て、ますます彫刻への刺激を受ける。

2006年

『芸術の杣径』を出版。4月彫刻と絵画展をギャラリー仁家(横浜)にて開催。10月「視惟展」と個展を藤屋画廊(銀座)にて開催。「視惟展」は藤屋画廊の濱田さんからもちかけられた話で、僕が日頃注目していた画家に声をかけ実現したグループ展で以後毎年開催される予定。

2007年

昨年の暮れ頃より、人間の外界の認識と認識の内部構造を考える糸口をつかむ。そのヒントになったのは画家坂本繁二郎が晩年よく使っていた「物感」という言葉で、この言葉の解釈を考えることが推論の役に立った。もちろん今後の絵画作品にそのことは反映されるが、まず絵の題名が「無題」から「光景」に変わり、画面にサインが入るようになった。そして、色使いに中間色が多くなり、明度差がせまくなり、色面の塗り方も〔ゆらぎ〕を意識的に使うようになった。

2008年

2006年に出版した『芸術の杣径』に続き、2冊目の芸術論の本『芸術の哲学』の執筆にとりかかり12月に脱稿。文章を書く過程で、絵画における「記号」と「描写」の違い、及び存在の時間性の問題が明確になる。

2009年

1月横浜美術館の『セザンヌ主義』を観展する。「丘の上の仲間」の九州の画家の友人に展覧会の図録を送り、連日長電話をしてセザンヌ論で盛り上がる。『芸術の哲学』を脱稿したばかりなのに、セザンヌを観て新たな問題に気付き、芸術に終わりのないことを知らされ、しみじみ画家になってよかったと思う。何年か後に、三冊めの芸術の本を書こうと決める。とりあえずのタームは「自分への発注芸術の禁止」と「人間の相転移」。4月『芸術の哲学』を出版。8月千葉日報の「郷土の人の本」の紙面に『芸術の哲学』がとりあげられる。その事がキッカケで2009年9月5日から2010年1月9日まで隔週土曜日の紙面に『芸術書簡』という見出しで、私と匿名の読者との芸術に関する論争が連載される。今年のはじめより試していた作画の上で、コンパスや定規やマスキングテープの使用を止めることに決める。

2010年

1月ワシオ氏との詩画展のギャラリートークに想定外の7~80人のひとが話を聞きにきてくれ、うれしくて舞い上がる。『芸術書簡』の千葉日報の紙面上の掲載は1月9日に5回で終わったのだけれど、ギャラリートークの後、ビヤホールで〈読者〉と私的にメールの交換で続けることにする。しかし結局、私はもっと続けたかったのだが7回で相手がギブアップして、残念ながら終わる。

5月東伊豆の片瀬白田に借家を借りて、イーゼル絵画への取り組みを始める。前年のセザンヌ展、相次いで開催されたモネ、ルノワール、それに以前から好きなモランディーや坂本繁二郎等々、芸術の薫り立つ絵、物感のある絵の作者はすべてイーゼル絵画であることに、セザンヌ展の会場で気付いたことが決断の理由だ。アトリエ絵画からイーゼル絵画への、転換の決断と分岐は、私の画家人生の大きなエポックになるだろう。

2011年

1月イーゼル絵画の正しさを確信する。イーゼル絵画のタームは「目ん玉芸術」「対象を裸眼で(他人のソフトや自分自身のオファーを排して)見る」「事件は現場(目)で起こっている」。3月11日、東北地方大地震。11日は午前、毎週書いている【片瀬白田だより】をHPにアップした後、去年お亡くなりになった三栖右嗣さんの遺品の多量の巻きキャンバスと木枠と新品の絵具を川口額装の川口君に前日とりにいってもらい、当日アトリエに届けてもらった。午後3時前に「東北地方太平洋地震」があった。今まで生きて来た65年間、地震で外に出ることはなかったが、今回はあまりに揺れるので2度外に出た。さいわい、アトリエでは食器が2、3個割れた程度で被害はなにもない。テレビもラジオもつけていなかったので、こんな大災害になっていると思っていなかったので、郵便局にいったり、『かめやま』で宅急便をだしたり、『伊勢角』に買い物にいったりと日常と変わらぬ行動をしていると、なんだか周りの空気と自分の態度がズレている感じがして、帰ってからブラウン管のアナログテレビでやっと事態の重大さを知った。

2012年

7月東伊豆から御殿場に借家を転居。遠景が肉眼より小さく写る写真(逆に近景は、写真の方が肉眼より大きく写る)に比べて、肉眼で見る富士山は圧倒的で、その大きさと存在感は宗教的で崇高だ。さて、これをキャンバス上に変換、定着するにはどうするのか……冨士という、普遍や超越に近い存在に対する挑戦にワクワクする。

2013年

『芸術の哲学』の文章が日大の入試の問題に使用される。嬉しく、誇らしい。絵画作品と同じように、いい作品、コンテンツのしっかりした文章さえ書いておけば、いつかどこかで誰かの目とシンクロして目にとまるだろうという期待は持っていたが、大学入試の問題に使用されるということは想像もしていなかった。こういうことがあると、漠然と、死ぬ前にもう1冊書きたいと思っていた本の出版への気力が湧きあがってくる。11月御殿場から山中湖村に借家を転居。

2014年

「道元」関係の本を読みまくる。ブッダ及び道元の世界観は、西洋哲学、宗教の一元論的世界観と根底が違うことに気付き、「全元論」という言葉がポッカリ浮かび上がってきた。この言葉をキーワードにして、イーゼル絵画も道元も、解釈が明確になる。

2015年

10年前、藤屋画廊からの要請で偶然立ち上げたグループ、『視惟展』が11月に10回展で終了。

2016年

9月、第1回『イーゼル画会』展を開催。このグループ展は毎年開催で10年間続ける予定。11月島根県今井美術館において、岡野岬石(浩二)T・Sコレクション展を開催。

2017年

11月、山中湖村の借家を引き払う。御殿場から山中湖まで、イーゼルを立てて描(えが)いた富士山の画はトータルで241点。

2018年

4月、2016年に録音し文字起こしをしたまま、途中で頓挫して眠っていた『全元論』(副題ー画家の畢竟地(ルビ、ひっきょうち))の出版が、偶然のめぐり合わせで息を吹き返す。

6月、体力のあるうちに、故郷の岡山県玉野市の海と山の前で、イーゼルを立てたいと、以前から周りの友人知人に口をかけていたところ、大阪にいる小中の同級生の井上正康氏より、玉にある実家の2階を6月から1年間貸してもらえることになる。ひと月ごとに玉野と柏を行き来する。

11月、『全言論』ー画家の畢竟地ーを静人舎より出版。

2019年

6月、『瀬戸内百景』展ー岡野岬石玉野の海と山を描くーを、アトリエの階下の『ギャラリーカフェ マザーズ』で展覧する。あわせて、同展覧会を電子画廊『ギャラリー仁家』でネットでも展覧する。

12月、画文集『瀬戸内百景』を静人舎から出版。

2020年

7月22日~8月8日、藤屋画廊で個展。この時の個展は18日と期間も長く、武漢ウィルス禍で来廊者も疎らだったが、私自身は手応えを感じた個展だった。

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世界は大きく変わろうとしている。この変化の方向は、世界存在の法(ダルマ)の流れに沿って進んでいるのだから、人間の実存の欲望では止められない。世界の中の日本の役割は、今後ますます大きくなっていくだろう。このような、時代の分岐点で、私の個展が重なるのは、これぞ〔天の配剤〕だと、自分勝手に考えます。(『画中日記』2020.07.20より)

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10月1日~10月11日、玉野に行く。小島地(こしまじ)の風景と、小島地から滝(たき、地名)にかけての、田園の彼岸花を描くのが目的だった。滞在途中の7、8、9日と島根県の断魚渓にも描きに行く。

2021年

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