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 (6)お釈迦さまも現成した、誰もが現成した

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お釈迦さまも現成した、誰もが現成した

ちなみに美とは決して「人それぞれ、百人百通り」ではない。美は、真や善と同じく実存の内在ではない。これは描写絵画における大前定である。人それぞれだとしたら、「自分、自分!」と主張する表現主義になる。そんな表現主義は、真とか美という超越的なものでないから、もう、話にならない。

僕は、東洋の仏教的全元論という世界観から、西洋哲学の世界観を見ると、西洋の「分けて、また分けて」と対立的に考える考え方には無理があるのだ、と考える。神と人間を分け、人間と動物を分け、生物と無生物を分け、人間も、心と身体を分け、心も主観と客観と分ける。分けて考えるのは、いや、世界はそうでない、世界はそうなってはいない、ということだ。世界とはこうである。自己はない。人間中心主義でもない、全元論で世界存在の時間のラインを考えたら、自己なんていう、世界存在の別の時空から差し込まれた物は一個もないでしょう。このラインで考えたら「自己が出現した。では存在は?」などとはならない。どこかから自己がいきなり飛んできたわけでない。自我の存在と同じように、人格神の存在にも矛盾がある。人格神の周りの時間と空間は、誰が創造したのかという疑問だ。世界を人格神が創造したのなら、その神の存在する時空は誰が創造したのか。

この世界のなかの出会いは、平等である。なにも「お前は天からの啓示のもとに…」とのお告げがあるとか、その種の話でなく、お釈迦さまも道元も現成したし、それ以外の人も誰もが現成し、過去から現成し、今現成し、未来へ現成し続けるのである。すると、当然ながら霊魂という存在もない。全元論では、今(′)、こ(′)こ(′)という世界存在の全体から別の存在を、認めないのだから(神も自己も世界の内に在る)、霊魂というものは、身体から離れ、分かれて、特別にあるのではない。ただし死で、自分の存在はすべて終わるというわけではない。

このラインは僕が死んだ後も続いていく。ピタゴラスの定理はピタゴラスの前から世界にあったのだ。それを、ピタゴラスが発見し、ピタゴラスの死後も存続している。だから、実存主義のように、死んだら全部終わりだ等の説はとんでもない。僕の世界に存在した因は、未来永劫に、ずっと続いていく。しかし、人はまた生まれ変わって…というのを信じる人もいるが、僕の考えはこうだ。岡野岬石は過去にも未来にも一人かというと、まず、僕という存在は分けられないのだ。たまたま今両手を叩いたら、パンという音がして音に現成したり、因と縁で現成したりであって、生まれ変わる等の話はそもそも世界観が違う。過去の誰かが僕に生まれ変わった、などということは絶対にない。

死後の霊魂不滅論には矛盾があるのだ。誰かが誰かの生まれ代わりだとか、死後の霊魂があるとしたら、幾つの僕だというの? 仮に5歳で死んだらその霊魂は5歳になるのか。さらに、一瞬一瞬に現成するとしたら、5年前の僕と今の僕とではまるで違う存在なのだ。また、僕がアメリカに行ってアメリカで死んだらその霊魂は英語を話すのか。そして何度も離婚していたら、家族もいつの時点での家族なのか。あるいは人との間も、喧嘩する前の自分なのか、喧嘩後の自分なのか。霊魂という存在を考えると、時間という軸を入れるとおかしくなるのだ。

その霊魂は何を着て何語を話すのか、親父がもし40歳で亡くなって、自分が60歳で死に、子どもが80歳まで生きたとしたら、3人はどうやってどの空間で会うのか。それは論理的に矛盾してくる。そもそも死ぬ直前は、ふつうは病気などで弱っていたり、老人ならばボケたりする。ならば弱っている霊魂のまま行くのか。もし全盛機の霊魂が行くとしたら、それこそ元気な人が突然の落石に遭って死亡というような死に方しかなくなる。そもそもストーカーの天国は、ストーカーされる方の地獄なのだから、霊魂の世界でつきまとわれてはかなわない。そういう存在の仕方であるということが分かると、時間軸の問題があるからそういった考え方は僕から見ると話にならない。

神も人間も僕も、万物全部がこの世界の内にある。そして「今」「ここ」しかない。過去は運命的に変えられないけれど、これから先は今日の決断によって、違う世界が分岐現成してくる。だから僕は引越しが大好きだ。子どもの時に世界は「不思議だな、電話帳みたいだな」と思った。別のページを開くと別の世界がある。自分が子どもの時に漠然と感じていたことが、今になって「世界はそうなっている」と僕は実感している。

お釈迦さまの前はバラモン教があり、さらに以前にも似たような宗教はあるけれど、禅宗ではお釈迦さま以前の仏を「過去七仏」という。お釈迦さまが最初なのでなく、お釈迦さまの前から存在し、それをお釈迦さまに引き継ぎ、道元等、次々と伝承しているということだ。お釈迦さまの以前の教えは、大まかにいうとこういうことである。世界のダルマ(法)をブラーフマン(梵天)といい、世界は曼荼羅のようになっていて、世界のカルマと自己のダルマのアートマンを整え一致させることが悟りである。

ヨーガもそういった考え。自分の体(小宇宙)を自由自在に制御できれば、外側(大宇宙)に対しても自動的に制御できると考える。お釈迦さまの世界観とどう違うかというと、自己と世界を分けて考えるからそうであって、本当は自己と世界がみな含まれるのだ。ブラーフマンとアートマンは全体の内に在っても、分けられないのだ。ここのところが、道元と親鸞の「一切衆生 悉有(しつう)仏性」の解釈の違いでもあるのだ。

 

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