岡野岬石の資料蔵

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読書ノート

『増谷文雄著作集 6 』仏陀の伝記 (仏伝のこころみ) 角川書店

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『増谷文雄著作集 6 』仏陀の伝記 (仏伝のこころみ) 角川書店

仏陀 その生涯と思想

開題(仏陀)

それは、終戦からなお遠からざる頃のことでありました。そのころ、私は、かのルナンの『イエス伝』を再読して、なにか心に湧き立つものを感じていました。私もまた、人間としての仏陀の伝記を書いてみたいと思ったのであります。その頃の私には、そのようなものを書いてみる用意も、少々はできていました。さきに刊行した『著作集』の第5巻に収録いたしました『アーガマ資料による仏伝の研究』も、いくらか形をなしはじめていたのであります。

やがて、私は、ようやく戦後に再生した仏教雑誌『大宝輪』に、〝仏陀〟を連載する機会をあたえられました。物に憑(つ)かれたような勢いで、私はそれをほぼ二年ほどつづけました。そして、その〝仏陀〟は、まもなく角川新書として取りあげられました。幸いなことでありました。ただし、その原稿枚数が、新書の分量をはるかに超えていたため、ほぼその三分の一にあたる枚数を割愛しねければなりませんでした。ともあれ、この〝仏陀〟は角川新書にとりあげられまして、ハッダの仏頭の写真を表紙にした新書として店頭にならびました。その初版本をいま取り出してしらべてみますと、昭和三十一年一月二十日とありました。刊行まもなくして、ベスト・セラーとなり、今度は筆者の私がびっくりいたしました。

しかるに、それから十年あまりののち、角川書店では、新書をやめて角川選書をはじめました。そして、この〝仏陀〟もまた、その角川選書に加えられました。その機会に、さきに割愛されて、ひさしく筐底(きょうてい)にねむっていた原稿もまた、その角川選書に加えられました。その機会に、さきに割愛されて、ひさしく筐底にねむっていた原稿もまた、久々ぶりに陽の目を見ることができることとなりました。第十四章より第二十章にいたる七章がその部分にあたります。それもまた、にとって幸いなことでありました。

さらに言わでものことでありますが、さきの新書としての〝仏陀〟も、あれおよそ十年余のあいだに十数版を重ねました。また、のちに選書となりましてからも、およそ十余年のあいだに、十六版を重ねて今日にいたっております。これで、私の「できるかぎり修飾されざる人間釈尊の姿を再現したい」という願いは、なにほどか現代人の知性の受け入れるところとなったように思われます。それが、私のもっとも喜びとするところであります。(10頁)

第一章 この人を見よ

人間としての釈尊 この人を見よとわたしはいう。なんとなれば、ここにわたしどもが考えうるかぎりの、最高の人間像があるからである。

人間ははたして、どこまで高まることができるのか。そのような問いは、現在(いま)のわたしどもにとっては、おこがましく、また愚かしいものと思われる。貧苦の悪徳と、放逸と独善とのなかに、いまわたしどもはしずみきっている。薄幸と汚穢(おえ)と非情とが、いまわたしどもを幾重にもおおいつつんでいる。このような「悪しき代(よ)」のただ中におかれては、高まるどころか、いかにすればより深くしずみゆくことを止めうるかが、せいいっぱいのわたしどもの課題でありうるのではないか。かくて、転落が、あるいは絶望が、わたしどもの魂をさいなむ課題として、わたしどもをとらえる。だが、そのような時にも、なおわたしどもを絶望の暗闇から救い出して、人間向上の一路に指向せしめる一個の人間像がある。その人を、わたしどもは釈尊――サキャ(釈迦)族より出たる聖者――と呼びならしている。

かつて、功利主義(ユーテイリタニズム)の哲学者ジョン=ステュアート=ミルは、「ソクラテスと称する人が、以前この世にいたということを、人類は、いくら想いおこしても足りない」と言ったことがあるが、彼のこのことばは、またわたしどもにとって、何の虚飾もなく、釈尊その人に対してあてかまる。釈尊と称せられた人が、以前この世に住んでいて、仏陀といわれる人間のあり方にまで到達したということほど、わたしどもにとって感銘ふかいことはない。わたしどもは、そのことをいくたび想いおこしてもなお足りない。なんとなれば、わたしどもは、この人の存在を想いおこしては勇気づけられ、この人の行履(あんり)を思い浮かべては道を教えられ、また、この人の到達した人間のあり方の高さを仰いだとき、はじめて、「人間ははたしてどこまで向上することができるのか」との問いに答えうる根拠をあたえられるのである。

かかるがゆえに、「この人を見よ」と、わたしどもは、たえずわたしども自身を促励し、鞭撻(べんたつ)しなければならぬ。なんとなれば、この人を見ることが、すなわち勇気づけられることであり、道を教えられることであり、それはやがて、貧しい精進ながらも、わたしどものいささかの向上を意味するであろうからである。この人を見、この人の救うるところを理解し、この人の指す方向にむかって、一途(いちず)に精進する。そのことがなった時、わたしどもははじめて、わが一歩を仏道の大海(だいかい)にふみ入れたということができるのである。

これまでの仏伝 では、わたしどもは、いかにしてこの人に対面し、この人を見ることができるであろうか。そのことは、残念ながら、けっして容易なことではないのである。なんとなれば、この人にいたる道は、はなはだしく歪(ゆが)められ、この人の真の姿は、いちじるしくわたしどもから遠ざけられているからである。アドルフ=フォン=ハルナックは、その著名なる講演『キリスト教の本質』において、イエスについておなじ嘆きを述べ、「残念なことには、現代の公教育はわれわれには、イエス=キリストの姿を印象ぶかく、かつ自己固有の所有としてとどめるのに適しているとは言えない」と言っているが、わたしどもの釈尊にたいする状態は、明らかに、彼らのイエスにたいする状態よりも、はるかに、より悪しき状態におかれているのである。

古き経のことばは直接に釈尊によって教化せられた人々の帰依の心境を、「この師の教えを措(お)きて、他に依(よ)るべきところなきを思い」と、伝えている。この師の面を仰ぎ、この師の声を耳にし、この師の教えるところを胸に抱きしめて、この道を措いてわたしのゆくべき道はないと、帰依の表白をすることのできた原始仏教徒を、わたしどもはうらやましく思わないではおられない。だが、この師の入滅せられてからすでに二千有余年の今日においては、なんとしても、その面を仰ぎ、その声を耳にすることはできない。ただ、せめて、その行履(あんり)を明らかにえがきだし、その教えを正しく理解して、心の中においてこの人を見、この人に対面するよりほかはない。しかるに、このわたしどもの願いをみたすために、この師の行履を記しつたえる文献は、その数において少なしとしないが、それらの多くは、この師の真の姿を印象ぶかく伝え、かつ、わたしどもに親しみぶかい感じをもって対面せしめることに適しているとは言えないのである。

前世紀のころ、ヨーロッパの学者たちが、はじめて仏教についての知識をもちはじめた時、彼らの中には、その教祖たつ釈尊なる人はこの地上に実在した人物ではあるまいとの結論に到達したもののあった。たとえば、セナールがその昔『仏陀の伝説に就て』において、かかる人物の実在を否定し、それに関する伝説は太陽神話に出ずるものであると述べているがごときは、その代表的なものである。幸いにして、かかる訴えは、まもなく学問の法廷において、物証をもって明白に却下せられた。一八九八年、プッぺが、ネパールの南境ピプラーバーにおいて舎利瓶(しゃりへい)を発掘した。その瓶(つぼ)の側にはインド古代文字をもって、「この世尊なる仏陀の舎利瓶は、サキャ族が兄弟姉妹妻子とともに、信の心をもって安置したてまつる所である」と刻みつけられてあった。『遊行経』そのほかに記し伝えるところの仏骨八分の記においては、サキャ族の人々もまたその一分をえて、これをカピラヴァッツ(迦毘羅衛)に安置したてまつったとある。その古き経典の記し伝えるところは、いま物証をもって実証せられた。されば、今後もはや、この人がかってわたしどもと同じくこの地上に生をいとなんだことを疑うものはないであろう。

だが、わたしどもが深い関心をもって考えなければならぬ問題は、なおそこに残り存している。すでに言うがごとく、釈尊の生涯を記し伝える文献はすくなくない。なかんずく、馬鳴(めみょう)の『仏所行讃』は、古来、仏伝文学中の白眉であると言われている。また『仏本行集経(ぶつほんぎょうじつきょう)』六十巻は、仏伝中にあって、もっとも詳しい。だがわたしはあえて言わなければならぬ。それらはけっして、わたしどもにとって、すぐれた仏伝ではない。なんとなれば、それらは、わたしどものために、釈尊の真の姿を伝えてはいない。また、わたしどもが親しみぶかい感じをもってこの師に対面することを許さないのである。それたの伝記作者の関心は、明らかに、この人を荘厳によそおい、幽玄なるかなたに高めることにあった。むろん、それは善意からであって、彼らの敬虔(けいけん)なる善意を、わたしどもは疑わない。そうすることが、釈尊に対する敬意の表現であると彼らには思えたし、また彼らの時代においては、それに違いなかったのである。神話的な手法が今日よりもはるかに有効な手段であり、神秘化することが今日の人々には考えられぬほど敬虔な感情をつよくゆさぶり動かすことを得たのである。

だが、わたしどもにとっては、事情は異なってきた。それは、わたしごもにとっては「善意をもって、詩想と空想の背後に、この人格の真相を押しやった」ことでしかないのである。この地上に生をいとなんだ師の生ける姿は、それによって稀薄にされ、かの天上における師の空想的な姿が、それにとってかわった。

経典の成立 ルナンが、その『イエス伝』の中で、「福音書」におけるイエス伝の言行の描写を攻撃していることばは、わたしどもにとっても、他山の石として味わう値打ちがある。

「そもそもわれわれにイエスの姿を伝えた福音書記者たち自身は、その語る人物よりもずっと以下であるので、彼の高さにまでおよびえないで、終始、彼を描き損うている。彼らの書いたものは、欠陥と誤解に満ちている。一行ごとに、崇高な美の原作が、編者たちの手で偽られているのが瞥見(べっけん)せられる。彼らはこの原作を解しえないのである。そうして、思想を半ばしかとらえないので、これに彼ら自身の思想を代用しているのである。要するに、イエスの性格は、伝記作者の手で美しくせられたどころか、小さくせられたのである。批評は、イエスの真の姿を見ようとするならば、弟子たちの凡庸な精神から生じた一連の誤解を遠ざけることが必要である。弟子たちは、イエスを自分たちの考えるとおりに描いた。そうして、往々、彼を偉大にするつもりで、実は、小さくしてしまったのである」

いうまでもなく、「福音書」は彼らにとって、最高の信仰のよりどころである。それをも超えて、イエスその人の真相に、彼は迫ろうとしているのである。この決意なくしては、この実証主義のすぐれた宗教史家は、けっしてイエス=キリストを近代人の身近にもたらすことを得なかったであろうことを、わたしどもは思わなければならない。

『仏所行讃』も、『仏本行集経』も、わたしどものいわゆる「大蔵経」の中にその位置をしめている。経はわたしどもにとってもまた、最高の信のよりどころでなければならぬ。釈尊は、その死に際して、比丘たちのために説いて、「われによりて説かれ教えられたる教法と戒律とは、わが亡き後になんじの師である」と、教えられたという。それは、この師の最後の教えとしてまことにふさわしく、この教えのもつ意味はまことに重い。したがって、その教法と戒律とを記しつたえる経は、滅後の弟子たらんとするわたしどもにとっては、師その人として仰ぎ尊ばれなければならぬ。だが、それにもかかわらず、いずれの経が、かの教法もしくわ戒律をより正しく記し伝えるものであるかについては、わたしどもの批判的精神は、するどくはたらくことを許されなければならないであろう。

経とは、サンスクリット Sutra の訳であって、音訳して修多羅(しゅたら)とも記されておる。その本来の意味は「たていと」――それゆえに経と訳する――であって、あたかも花をつむ子らが「たていと」をもって花をつらぬいて環(わ)をつくるがごとく、釈迦の説かれ教えられた言葉を、ここに貫きとどめて散佚(さんいつ)せしめざらんとするもの、それが経にほかならぬのである。したがって、釈尊の言行もしくは精神を、正しく記し伝えることをもって、経典の第一義とすべきことは申すまでもない。だが、この第一義をみたすことは、けっして容易なことではないのである。わたしどもは、釈尊滅後の弟子たちが、そのことのために、いかに努力したかを知っている。

釈尊の10大弟子の一人に、カッサパ(迦葉、かしょう)という人があった。師の釈尊とは別に、多くの比丘たちとともに遊行(ゆぎょう)していたが、途中で遭った一人の波羅門によって師の入滅せられたことを知った。その時、なげき悲しむ比丘たちの中にあって、ただ一人「友よ、悲しむなかれ。われらは今や自由になったのである」と暴言を吐くものがあった。それを耳にして、正しい教法と戒律とがやがて乱れ汚されるであろうことを憂えたカッサパは、主なる長老たちを集めて、いわゆる「結集(けつじゅう)」の仕事にとりかかった。結集とは、簡単に言えば、経典編集の事業であるが、まだ文字の常用せられていなかった当時においては、これを各人の記憶の中において、確立するよりほかはなかった。その結集の方法は、つぎのようであったと記されている。

アーナンダ(阿難)は、師の侍者であったので、師がどこでいかなる教えを説かれたかを、もっともよく知っていた。したがって、教法については彼が中心になった。ウパーリ(優波離、うばり)は、戒を持することをもっとも厳であって、持戒において弟子中の第一とされていた。戒律については彼が誦出者(じゅしゅっしゃ)となった。そして、誦出者を中心として、師がどこで、何びとにたいして、いかなる教えを説かれたか、また師は、いずこにおいて、いかなる因縁によっていかなる戒律をさだめられたかを検討した。検討の結果、それが正しいとされると、列座の比丘たちは、それを同声に誦(じゅ)した。

それゆえに、結集はまた「等誦(とうじゅ)」と称せられる。この等誦によって、比丘たちはみな、確認せられたる教法または戒律を、おなじ文言によって、おのれの記憶の中に確立した。そこに、教法と戒律とは、整理と統一とを与えられ、異端邪義の侵入に対してみずからを守る用意をととのえることを得た。その精神を、経典は、カッサパの結集提唱のことばとして、「友よ、われらは、よろしく法と律とを結集し、非法おこりて法おとろえ、非法を説く者つよく正法(しょうぼう)を説く者よわく、非律を説く者つよく正律(しょうりつ)を説く者よわくならんことに先んぜん」と伝えている。

だが、それでもって、非法非律の侵入が完全に防(ふせ)がれたわけではなかった。結果の歴史そのものが(17頁)、明らかにそのことを語っている。第二回の結集は、その後百年にして行われた。その因縁を、経典は「十事非法」にあったと語っている。非法非律の主張もしくは行為にたいして、正法と正律との自己防衛が、また新たに講ぜられねばならなかったのである。第三回の結集は、さらに百年を降(くだ)って行われた。「聖教(しょうぎょう)に種々の濁(じょく)と垢(く)と障と」を生ずるにいたったがゆえに、それを「洗い落とす」ことが必要となってきたのであると、その因縁を経典は説明している。

わたしどもは、それらの人々の努力をたっといものに思う。それとともに、教法もしくは戒律を正しく伝えることが、いかに困難にして不断の努力を要するものであるかを、思わざるを得ない。また、かかる努力がしばらくも欠けたならば、いかなることになるか。あるいはまた、それらの努力をもってしても、なおかつ非法非律の侵入を完全に阻止し得ないこともありうるのではないか。そこに、わたしどもが、いずれの経がかの教法もしくは戒律をより正しく伝えるものであるかと、するどい批判的精神のはたらきをうながさざるを得ない所以(ゆえん)が存するのである。

阿含部経典の価値 仏教の経典は、これを総称して「三蔵」と称する。蔵とは、一切の文義(もんぎ)をおさめ蔵するの意であって、それを大別すれば、法蔵(または経蔵)と律蔵と論蔵との三となるがゆえに、三蔵というのである。なかんずく、法蔵とは、釈尊一代の教法を載録した経典の総括の称とせられる。釈尊の教えはすべて、法にもとづき、法にかない、正しき法の表現であるがゆえに、これを教法とよび、また単に法ともいう。そして、かかる教法をすべて集めたものを法蔵となし、また経蔵となすのである。この蔵に属するものを、他の二蔵より識別するには、むろんその内容によるとはいえ、また、その形式においてはその冒頭に「如是我聞」もしくは「聞如是」の句の存することによって知られる。(18頁)

「如是我聞」――「かようにわたしは聞いた」とすべての経がその冒頭にいうゆえんはほかでもない。それらはすべて、釈尊が、比丘たちのために、あるいは在俗の信者たちのために、あるいはまた外道たちにたいして語られたものであるゆえにこそ、如来の教法でありうるのであった。したがって、経であるかぎりは何びとかが「かようにわたしは聞いた」と言いうるものでなければならぬ。だが、今日の学者たちの研究の結果によれば、「如是我聞」のこの一句は、多くの経においては単なる形式にすぎないのである。いわゆる「後人の仮託」によるものである。釈尊の説法の形式はとっているが、その実は、後の人の作ったものであって、それらは真に「かようにわたしは聞いた」ものではなくして、単に経の形式をととのえるためにすぎぬのである。いわゆる大衆経典は、すべてかくのごときものである。

むろん、わたしどもは、その場合にも、作者たちの善意を疑わない。さらに、作者たちの高邁(こうまい)なる精神が、時代に即して仏教原理の新しき展開を遂行していることをも認めることができる。だからこそ、それらの経典もまた多くの人々の尊崇するところとなったのである。

だが素朴なる生ける釈尊のすがたは、そこには求めがたい。修飾されざる釈尊のなまなましいことばは、そこには見いだされがたい。なんとなれば、それらの作者は、みずから生ける釈尊のすがたに直接し、生ける釈尊のことばに耳朶(じだ)をふれた人々ではないからである。

では、いかなる経典が、真に「かようにわたしは聞いた」と言いうる経であろうか。それは、いわゆる「阿含経」の経典のほかにはない。阿含とは、サンスクリットの Agama を音訳したものであって、その意は「来(らい)」であるとせられる。伝来または伝承しきたれるものの意である。すなわち、さきにも述べたように、初期の仏教教団の長老たちは、師はこれこれの所において、これこれの教えを説かせ給うた、その因縁はこれこれであったと、じぶんたちの眼で見、耳で聞いたところのものを、互いに思いうかべ、互いに誤りをただし、互いに誦(とな)え合って、おのおのの記憶の中に確立しようとしたかの努力の結果が、やがて文字のうえにもたらされたとき、それが阿含経の諸経であったのである。したがって、それらは、歴史的にみて、仏教教典のなかでもっとも古いものであるばかりでなく、また、釈尊の思想言行をもっともその真相にちかく伝えているものということができるのである。

むろん、阿含経の諸経もまた、すこしの誤謬(ごびゅう)も夾雑物(きょうざつぶつ)もふくんでいないわけではない。すでに師に先立って死んだはずのサーリプッタ(舎利弗)が、入滅前後のことを期した『遊行経』の中に現れてくるといった矛盾もおかしている。また明らかに、弟子たちの「凡庸なる精神」から生じたと思える誤解もあるし、あるいは、「彼を偉大にするつもりで、実は小さくしてしまった」と言える描写もある。わたしどもの批判的精神は、そこでもまた眠っているわけにはゆかない。だが、わたしどもがこの師を見、この人に対面するためには、もっとも信頼すべき資料がそこにあることは疑う余地がない。

清沢満之は、『阿含経』を自己の「三部経」の一つに数えて、「別けて『阿含経』は、釈尊が諄々(じゅんじゅん)としてお弟子を教訓したもう様子が、眼に見えるようでありがたい」と語ったことがあるが、この経の価値の最大なるものは、まさにそこに存するのである。なにほど表現を巧んでみようとも、いかほど荘厳なことばをつみ重ねようとも、とうていおよぶことのできない素朴なる真実のもつ強さというものが、つくづくと、そこに感じられる。「かようにわたしは聞いた」という冒頭のことばが、そのままなんの掛け値もなくうけとれる経文がそこにあるのである。したがって、そこにある釈尊のすがたは、わたしどもに身近に感ぜられ、そこに語られる釈尊の言葉は、人間的な親しみにあふれている。それはもはや、天界の神話などとはまったく関係なく、わたしどもとおなじようにこの地上に生をいとなみ、しかも人間としてきわめうる最高のあり方を実現した人の言行思想そのものである。その人はもはや、わたしどもにとっては、壇上の礼拝の対象ではなくして、わたしどもを励ましみちびく文字どおりの導師であられる。

私は、かかる資料によって、かかる師の真の姿を描きだしたい。かつ、この人の真の姿を見ることによって、人間向上の一路にむかって、勇気をあたえられんことを念ずるのである。(11~21頁)

第二章 比類(たぐい)なき人うまる――降誕

聖者の誕生 釈尊の生年については、今日もなお明確な学問的決定をもって語ることを得ない。今日わたしどもが学問的良心をもっていいうることは、この人はおおよそ西暦五世紀のはじめのころ、ヒマーラヤの南麓(なんろく)に住するサキャ(釈迦)族の子として生まれたということのみである。

その生地は、現在のネパールの、タライと呼ばれる地方にあたり、そのあたりは、ヒマーラヤの山裾(やますそ)につづく高原性の盆地をなしていて、ローヒニーと呼ばれた小さなガンジスの支流が、その高原の盆地から北から南につらぬいて流れていた。その流れの西岸の地域に住んでいたのがサキャ族であって、その東岸の地域には、サキャ族の胞族コーリヤ(拘利)族の人々が居住していた。

胞族とは、婚姻関係をもった近親氏族の関係をいうことばである。つまり、サキャ族とコーリヤ族とは、嫁をもらったり、やったりする間柄であって、現に、この人の母なるマーヤー(摩耶)夫人(ぶにん)もまたコーリヤ族の女であって、ローヒニーのうつくしい流れをわたって、この人の父なるスッドーダナ(浄飯-じょうばん)のところに嫁いできたのであった。

その父と母が住み、かつ、この人がその少年時代をすごしたところは、カピラヴァッツ(迦毘羅衛)としてよく知られている。その場所はいまのどこに当たるか。それもまた、なお的確に指摘することを得ないことを、はなはだ遺憾とする。二千幾百年のながい年月のながれが、いつの間にかそれを霧のなかにつつみ込んでしまったのである。西暦五世紀のはじめのころ、シナからインドを訪れた最初の求法僧(ぐほうそう)、法顕(ほっけん)はその地を訪れたことがあった。彼はその旅行記『仏国記』のなかに、その地のさまをつぎのように語っている。

「これより東行すること一コジャーナ(およそ九マイル)たらずにして迦毘羅城(かびらじょう)にいたる。城中はまったく王民なく、荒れはてて、ただ、衆僧、民戸、数十家をとどむうあるのみである」

さらに、第七世紀のころ、かの玄奘(げんじょう)がそこに訪れた時には、さらに荒廃して人影もなく、どこに城があったものやら、確かめる術(すべ)もなかったという。かの『西域記』に記するところである。それから、さらにながい年月がながれて、前世紀のおわりちかく、イギリスの探検家カニンガムが、ひろく文献を渉猟し、それを自分の足でたしかめ、かの『古代インド地理』1、「仏教の時代」を著述したときには、彼は、その地についてはただ「カピラの名をもった遺跡はまだ見つけられていない」と述べるほかはなかった。

思うに、シナの訳経者たちは、このカピラヴァッツを訳するに、しばしば〈迦毘羅城〉なる語をもってしたが、それによってこの人の故郷を、いかめしい城廓(じょうかく)をもってめぐらされた堂々たる古代都市のイメージをもって描き出すならば、それはいささか見当ちがいというものである。そもそも、〈カピラ〉とは、そのあたりに住んだとされる仙人の名にちなんだものであり、また〈ヴァッツ〉とは、「地方」もしくは「地区」というほどのことばなのである。

「だが、その出生の場所については、さいわい、はっきりということができる。ルンビニー(藍毘尼)もしくはルンミニ(論民)とよばれる美しい村がそれである。そこでは、前世紀のおわりにちかいころ、かつてアショーカ(阿育、あいく)王によって建立された石柱が発見された。それは、その時、中ほどから折れて地にたおれ草に埋もっていたが、それに記された文字はつぎのように解読された。

「天愛喜美王は、即位二十年を経たる年、みずから親しくここに到って供養をなした。ここにブッダ=サーキャムニー(仏陀=釈迦牟尼)は生まれたもうたからである。しかして、馬像を有する石をつくらしめ、石柱をたてしめたのは、世尊がここで誕生したことを記念しようがためである」

天愛喜見王とはアショーカのことで、かの王がこの地を訪れたには、仏教者としてその教祖誕生の地を訪れたものと知られる。

その記念すべき誕生を、ふるき経の一つは語っていう。

「一人あり、その世にあらわれることはまことに難(かた)い。その一人とは誰ぞ。そは如来、応供(おうぐ)、正覚者(しょうがくしゃ)である」

と。その一人なる誕生は、いかにして行われたのであろうか。

「生まれによりて聖者となるのではない」 わたしはさきに、この比類(たぐい)なき人の生ける姿を仰ぎ、生けるその人の声に耳を傾けんがためには、阿含部(あごんぶ)の諸経の中に尋ね入るのほかなきことを説いた。そこには釈尊みずから、自身のたどってきた越し方をふりかえって、弟子たちのためにその体験を述懐したいくつかの経典も存している。ある時には、出家前の自分の生活がどのようなものであったかを、かなり具体的にのべているし、また、出家の動機がいかなるものであったかについても、はっきりみずからのことばをもって語っている。ある経典では、青春がなお豊かにして、出家して行乞沙門の生活に入ったいきさつを、淡々として語ったこともあるし、あるいはまた、かの菩提樹のもとに坐して、ついに最後の解決に到達した前後のことについても、いくたびか詳細に説かれている。だが、わたしどもは、それらの述懐のいずれにおいても、この人の誕生について語られた信憑すべき章句を見ることはできない。それは理由のないことではあるまい。

それのついて、わたしは、『経集』の一節にあるつぎのような一句を思いうかべることができる。

「生まれによりて聖者となるのではない。生まれによりて非聖者となるのではない。人はその行為によりて聖者となるなるのであり、その行為によりて非聖者となるのである」

それは、この師によって人類の中にもたらされた教え、すなわち仏教の根本原理の一つに直結する考え方の表現である。その一つとは、業(ごう)すなわち広き意味における行為に関する考え方である。身・口(く)・意一切の人間の所作は、結局するところ、その業報(ごうほう)を、その人のうえに結ぶ。自業自得果である。「自ら悪を作(な)して自ら汚(けが)れ、自ら悪を作(な)さずして自ら浄(きよ)い。おのおの自ら浄(じょう)となり、自ら不浄となるのである。人は他を浄(きよ)めることはできぬ」と、かの『法句経(ほっくぎょう)』の一句が語っているのも、そのことのほかではない。

このことを裏がえして言うと、いかなる人の生涯も、その生まれによって決定されるのではないということであらねばならぬ、その生まれによって、聖者として運命づけられるのでもなければ、その生まれによって、賤(いや)しき人としての生涯を決定せられるのでもない。素質や環境やが、各人の人生行路を、左右する要因でないわけでもないけれども、もっと重要な条件は、彼が自己の所作として何をえらぶかということであらねばならぬ。何を意志し、何を語り、何をなすか。そのことが結局、彼の人間としてのあり方を決定するのである。釈尊のよりてたつ立場は、予定説でも、また宿命論でもなかった。それはあくまでも業(ごう)の立場であった。みずから悪をなさずしてみずから浄(きよ)き人となり、みずから善き行為をつんで聖者となるのであって、人はその生まれによって聖者となるのでもなく、またその生まれによって非聖者となるのでもなかった。

しかるとすれば、釈尊がその弟子たちに語って、彼らの人生向上の一路に資すべきものは、自己の出生や自分の家柄のことではなかったはずである。語るべきことは、生まれに関してではなくして、行為に関してでなくてはならなかった。わたしはかく思い、かく行じ、かのごとくわが人生を建立(こんりゅう)したということであらねばならなかった。

「智慧ふかく、賢慮ありて、道(どう)と非道とをわきまえ、最上の義に到達せる人。わたしはかかる人を聖者とよぶ」

「蓮の葉にやどる水のごとく、錐(きり)の尖端におけるケシ粒のごとく、もろもろの欲に染著(せんじゃく)せざる人。わたしはかかる人を聖者とよぶ」

「粗暴なることばをもちいず、つねに教訓にみてる真実のことばを語り、ことばにおいて何者をも怒らしむことなき人。わたしはかかる人を聖者とよぶ」

「悪意ある人々の中にありて悪意なく、刀杖(とうじょう)を手にする人々の中にありて温柔(おんじゅう)に、執著(しゅうじゃく)おおき人々の中にありて執著なき人、わたしはかかる人を聖者とよぶ」

「人はその風姿と姓名とによって聖者たるのではない。真実と正法(しょうぼう)とを具(そな)え有するもの、彼は幸福なるかな、彼こそはまことの聖者である」

釈尊はかくのごとく考え、かくのごとく行じ、みずからかくのごとき聖者となって、「なんじらもまた、この道をきたれ」と、その弟子たちにおしえ、またわたしどもをさし招いているのである。そして、かの阿含部の諸経の記すところは、かかる聖者たりし釈尊が、その道によって彼にしたがわんとする人々のために、その奉ずべき教えを説き、その践(ふ)むべき道を示し、その仰ぐべき範を垂れたもうた、その思い出をかりそめにも違(たが)えじと結集(けつじゅう)して伝え来たったものであった。とするならば、わたしどもがいま、それらの経典のいずこにも、この聖なる人の誕生について記された信憑すべき章句を見いだすことができなかったとしても、それは少しもいわれなきことではないのである。

空想的伝説の類型について したがって、釈尊の四大事(誕生、成道(じょうどう)、最初の説法、入滅)のなかにあって、とりわけその誕生はふかく伝説と空想の中に閉じこめられている。

それらの空想的伝説は、大体ひとつの意図をもって貫かれている。その意図とは、その人を聖別せんとすることであった。かくもすぐれてあらわれたわれらの師が、汚(けが)れ多きわれらと同じたぐいの人間であったとは思われない。なにか高きところより不思議な力がはたらくのでなくしては、かかる比類なき人がこの世に生まれいでようとは思われない。あるいは、幾劫(いくごう)の過去世からつらなる特別の業(ごう)のきずなが、この無等、無比なる世尊をあらしめたと考えるよりほかにはないではないか。そのように、かの時代の人々が考えたとしても、すこしも不思議ではなかった。なんとなれば、かの時代にはそのような考え方の類型が、ひろく行なわれていたからである。

ある思想家が古代のインド人の考え方を検討して、「彼らはいつも後ろむきに立っている」と評したことがあった。その意味は、なにか彼らが現実の生の不可解なる優劣や不思議なできごとに解決を与えようとする場合、彼らはきまって過去にむかってその理由を求めるというのであった。たとえば、そこに一人の富みかつ幸福なる者があったとする。それは人々の羨望に値し、何すれば彼はかくも富み、かつ幸福であるのであろうかと問わざるを得ない。そのとき、彼らはいつも「後ろむきに」過去世にむかって、その理由をたずねるのであった。

そして、いまこの師についても、かくも比類を絶した聖者がいかにして出世いたかと訊(たず)ねるとき、彼らはただちにその因縁を遠き過去世に向かって求めたのである。――「仏、世尊、如来、応供(おうぐ)、正覚者(しょうがくしゃ)は、無量百千劫(こう)に於(おい)て、諸行を勤修(ごんじゅ)したまえり」――そして、この聖者の前生因縁の物語たる『本生(ほんじょう)物語』の厖大(ぼうだい)なる量がまもなく経典の中にその地位をしめるにいたった。それは、かの「マタイ伝福音書」が、その第一章において「アブラハムの子、ダビデの子、イエス=キリストの系図」をながながと記しているのと、その揆(き)を一にする。そこに、古代人一般に通ずる考え方の「踏み固められた路(みち)」があるのであって、「後ろむきに立って」いたのは古代インドの人々のみではなかったことを、わたしどもは知らねばならない。

ふるき仏伝が記しつたえているこの師の、聖なる受胎や、華麗なる降誕についても、古代の人々の愛した類型的な伝説と空想とによる聖別の操作が、また顕著におこなわれていることが知られる。「菩薩、正念もて兜率(とそつ)より下り、浄飯(じょうばん)王第一の大妃、摩耶夫人(ぶにん)の右脇(うきょう)に託し、住(とど)まり已(おわ)る。この時、大妃、睡眠中に於て、夢に一の六牙(ろくが)の白象あるを見る。その頭は朱色にして、七支もて地を挂(ささ)え、金装の牙をもって、空に乗じて下り、右脇に入る」。それは疑いもなく、ひろく古代の人々が愛し用いた聖別のための空想の一つの類型にすぎない。かくも聖なる存在が、常人と同じように、単なる夫婦の交わりの結実するところであったとは、彼らにはとうてい考えることができなかった。

では、いかに考えることができるか。その考え方の型はすでに、彼らの周囲に用意されてあって、彼はただそれに当てはめればよかったのである。鋭敏なる観察者は、それらの考え型のすでに存したことを、ふるき仏伝そのものの中にすら読みとることができるであろう。たとえば、仏伝の一つは、占夢波羅門(せんむばらもん)をしてかく語らしめているではないか。「夢みる所の瑞相(ずいそう)は、われ当(まさ)に、具(つぶさ)に説くべし。われ見る所のごとくんば、往昔の神仙諸天が経書典籍に載する所なり。……もし母人夢に、日天右脇に入ると見ば、彼(か)の母の生む所の子は、必ず転輪王とならん。もし母人夢に、月天(がつてん)右脇に入ると見ば、彼(か)の母の生む所の子は、諸王中の最勝とならん。もし母人夢に、日天右脇に入ると見ば、彼(か)の母の生む所の子は、三界(さんがい)にきわみなく尊く、能(よ)く諸(もろもろ)の衆生を利し、怨敵(おんてき)ことごとく平等にして、千万の衆を深き煩悩の海より度脱せん」と。また、よく広く観察することを得るものは、これらの空想的伝説が、古代のあらゆる聖者たちを荘厳にする月並みの手法であったことを知りうるはずである。

そのもっともよく知られたる一つの例は、イエス=キリストの母マリアが処女にして懐胎したとのかの伝説である。だが、それらの伝説について、いまはこれ以上検討を重ねることは控えておきたい。ただ、キリスト教徒中の良識ある人々が、それらの古代的伝説をこえて、イエスに対する信仰をよりよく近代に生かさんがために、多くの努力を重ねてきたあとは、わたしども仏教徒にとっても、他山の石として学ばなければならぬであろう。

誕生偈のこと 釈尊の誕生について、わたしどもにもっとも親しみぶかく、かつもっとも荘厳なる伝説は、かの「誕生偈(たんじょうげ)」を中心とするものであろう。それは、――かの仏の誕生したもうや、四方に周行すること各々七歩、右手をもって天を指し、左手をもって地を指し、獅子吼(ししく)して「天上天下唯我独尊」と宣したもうた。――というのである。わたしどもが、なお幼くしてはじめてこの師の伝説にふれた最初のものはこれであった。美しい春の野の花でかざられた花御堂のなかに、天と地とを指して立った誕生仏、それに甘茶をそそいだ思い出は、わが生涯における最初の、この師にまつわる思い出である。その思い出もまた、単なる空想の産物であったのだろうか。

それにたいする答えもまた、一応は「然(しか)り」でなければならない。なんとなれば、わたしどもの知りうるかぎりの文献的資料によれば、かかる伝説の最初のあらわれは、明らかに過去仏の物語の一部として物語られたものであったからである。そこでは、まず毘婆戸(ヴィバッシー)仏に関する物語がのべられて、かの過去仏の降誕が、かかるものであったと語られている。それについで、その他の過去の諸仏の誕生がまた、諸仏の常法としてかかるものであったとする。

すなわち、そこでもまた、類型がまず産出せられ、類型としての常法にしたがって、やがて仏陀となるにいたったこの師の誕生の事蹟が演繹せられているのである。かかる論理は、これまた、古代の人々の常套(じょうとう)のものであって、彼らにとってははなはだ魅力あるものであったであろうけれども、より厳密なる合理性と実証性とを要求する近代の人々の批判の前には、もはや堪え得ざるものであろうことを、わたしどもは虚心坦懐に認めなければならない。

だが、わたしどもはまた、この荘厳なる「誕生偈」の表現するものが、この師にとって、けっして無関係のものではなかったことも知っておかねばならない。近代人であるわたしどもは、生まれたばかりの嬰児(えいじ)がかかる偈(げ)を獅子吼(ししく)したという仏伝の所説を、単なる伝説として以上にはうけとることができない。しかし釈尊はその大悟(だいご)の後ほどなくして、かかることばを語られたことを、わたしどもは思い出さねばならない。それは、彼が菩提樹のもとを辞してバーラーナシーの鹿野苑(ろくやおん)にむかう途中のことであった。ふと道で出会った外道のウパカ(優波迦)なる者が「なんじは誰の弟子であるか、誰の教法を信奉する者であるか」とたずねたとき、それに答えて釈尊は、毅然として偈をもってかように言った。

「われは一切勝者である。一切知者である。

一切諸方のために縛されることなく

一切を捨離し、渇愛つきて解脱した。

みずから証知したのであるがゆえに、誰をかわが師といおうか。

われには師もなく、われに等しき者もない。

人天(にんてん)の世間にわれにたぐうものはない。

われは世間の応供であり、無上の師である。

われひとり正覚者(しょうがくしゃ)にして、清涼寂静である。

いま法輪を転ぜんとてカーシー(迦尸)の都にゆく。

盲闇(もうあん)の世間に甘露の法鼓(ほうこ)をうたんとするのである」

それは、初転法輪(最初の説法)に先立ってなされたる仏陀の自覚の宣言であった。その自覚の内容をなすところのものは、一切知者、一切勝者にして、人天の世間に比類(たぐい)もなき正覚者であるということに外ならなかった。言いかえると、「天井天下、唯我独尊」とは人間としての最高のあり方たる仏陀の自覚の表白に外ならない。したがって、その後、この師を仰ぎたたえた人々は、つねに語ってこの人を、「無等、無比」であるとたたえ、また「人中(にんちゅう)の最勝」であると称した。ふるき経の一句は、かようにも語っている。

「一人あり。その世に生まるるや、無等、無比にして、人中の最勝者としていきる。その一人とは、誰であるか。そは如来、応供、正覚者である」

それをわたしどもは、この人が生まれながらにして仏陀であり、人中の最勝者であったと解する必要はない。彼がかかる最高の存在となりえたのは、ながき求道の精進のすえ、ついにかの菩提樹下に大悟せられてからのことであった。それが信憑すべき資料のわたしどもに語るところである。とまれ、この人は、無等、無比にして、天井天下、唯我独尊なる存在となったのであり、人天の世間に比類(たぐい)なき人間のあり方にまで高まることを得た。その比類なき人は、今をさる二千有余年のむかし、わたしどもとおなじく、人間として、この地上に生をうけられた。そのことこそが、一切の伝説と空想とを超えて、「いくたび思いおこしても、なお足らぬ」ほどの意義を、わたしどものうえにもつのである。(32頁)(第2章 比類なき人うまる おわり)

第三章 大いなる放棄――出家

出家の動機 「中阿含経」第二十九も『柔軟経』と名づけられる一経は、わたしどもにとって、阿含経の数おおい経の中においても、もっとも感銘のふかいものの一つである。そこでは釈尊が、比丘たちにむかって、みずからその出家前の生活につき、またその出家の動機について、語っておられるのであるが、その経のことばは、まことに素朴にして、なんらの荘厳も粉飾もなく、わたしどもをして、奕々(えきえき)として生ける釈尊のことばに直接するの思いをあらしめる。

それは、例によって、この師が祇園精舎、すなわちサーヴァティー(舎衛城)の郊外なるジェータ(祗陀、ぎだ)林にアナータピンディカ(給孤独、ざっこどく)長者の寄進した僧園にとどまっていた時のことであった。かれはふと、比丘たちにむかって、このように語りいでた。

「比丘たちよ、わたしが父の家にあったころには、わたしはたいへん幸福であって、まったく苦というものを知らなかった。わたしの父の邸(やしき)の庭には浴地が設けられてあった。一処(ひとところ)には青蓮(しょうれん)が植えられ、一処には紅蓮がうえられ、また一処には白蓮(びょくれん)があった。わたしの部屋にはいつもカーシー(迦尸)産の栴檀香(せんだんこう)が焚かれていたし、わたしの被服(きもの)は下衣(したぎ)も上衣(うわぎ)もみなカーシー産のものであった。わたしが外に出るときは、雨つゆや暑さ寒さを防ぐためにいつも白い傘蓋(かさ)がかざされていた。わたしには三つの別邸があって、一つは冬に適し、一つは夏に適し、一つは春に適していた。夏の期(雨期)の四月の間、わたしは夏の別邸にいて、たえず伎楽(ぎがく)をもって承事せられ、邸より出たことがなかった。他の人々の家では下僕、傭人、寄食者には、糠食(ぬかじき)に塩粥(しおがゆ)をそえて与えるであろうのに、わたしの父の家では、それらの人たちにも米と肉の食事が与えられた」

このように、釈尊はまず、その出家まえの生活が、世の通念にしたがって言えば、きわめて幸福であったことを、淡々と、しかも具体的に語ったのち、さてしかし、ふと翻って考えてみると、それはけっしてほんとうの幸福、「究竟(くきょう)して苦無き」ものでないことを知ったと語りついでゆくのであった。

「比丘たちよ、わたしは、かように幸福であって、まったく苦を知らなかったにもかかわらず、わたしは考えたのである。――愚かな凡夫(無聞の異生)は、みずから老いをまぬがれることを知らないのに、他人の老い衰えたるを見ると、おのれのことは打ちわすれて恥じ嫌う。わたしもまた、老ゆべきものである。いまだ老いを免れることを知らぬ。わたしもまた老ゆべきものにして、いまだ老いを免れることを知らないのに、他人の衰えたるをみて、厭(いと)い嫌ってよいものであろうか。これはわたしにふさわしいことではない。――比丘たちよ、わたしは、かように考えたとき、わたしの青春の憍逸(たかぶり)はことごとく断たれてしまった」

つづいて釈尊は、病について、また死について、おなじような思惟をいとなんだことを語る。病(や)まねばならなぬ身でありながら、また、死なねばならぬ身でありながら、そのおのれのことを忘れ果てて、他人の病めるを見ては眉をひそめ、他人の死をみては眼をそらせる。それはけっしてふさわしいことではないのだと気づいた時、釈尊は、「わたしの健康の憍逸(たかぶり)はことごとく断たれ、わたしの生の憍逸はみじんに砕けちった」と述懐しているのである。

ここにわたしどもは、釈尊の出家への動機の、もっとも信憑すべき、またもっとも味わいふかい表現を見いだすことができる。後世の仏伝において、このことはさらに形式化されて、いわゆる「四門出遊(しもんしゅつゆう)」の物語として粉飾せられている。それによって、釈尊の出家への心境一転のいきさつは、より劇的な表現をあたえられた。その反面、形式化することがつねにしかるがごとく、真実性を希薄にし、かつその深い味わいを喪失していることも、また否定することを得ない。なんとなれば、この師がついに出家を決意するにいたったのは、けっして、四たび出遊して生老病死のすがたを瞥見(べっけん)したことにより、忽然として造成せられたごとき動機によったものではなかったであろうからである。

出家の動機 オルデンベルグの名著『仏陀』は、近代的な仏伝研究として、おそらく最高のものであると思われるが、彼はその著において、「異境をもって故郷に代えしめ、宮殿の栄華を乞食僧の貧困とかえるに至らしめた思想の最初の萌芽が、どんな方面から、またどんな形をとって仏陀の精神に植えつけられたか、これを探り問うことは断念しなければならぬ」と述べていることが思い出される。そのことはまさにそのとおりであると言わねばならぬ。

この人の思惟と言行とを、わたしどもは能(あた)うかぎりにただしく知りたいと思う。ことに、この人が家郷をすて、栄華をすて、なお豊かなるし青春をすてて、乞食沙門の道に躍入した動機については、隈(くま)もなく知りたいと思う。だが、わたしどもは、そのことについて知るべき資料においてははなはだとぼしい。資料なくして推測することは、当然これをつつしまねばならない。かくて、わたしどももまた、一個の学人としては、オルデンベルグとともに、「これを探り問うことは断念しなければならぬ」と結語することが、今もなおもっともふさわしいであろう。なんとなれば、もう一度くりかえして言うならば、四門出遊の物語は、形式化することによって、人間性を捨象し、真実味を稀薄にしているし、他方『柔軟経』の述懐は、「その時わたしは、かく考えた」と思惟の過程は印象ふかく物語られているけれども、さらに一歩すすめて、何がこの人をしてかく考えしめたかについては、なんら語り明かされていない。それも、この経の構成からして当然のことであって、そこでは、釈尊が語り教えんとする主題は、「三つの憍逸(たかぶり)」を戒めることにあった。

若くして青春の憍逸(たかぶり)に酔いしれ、老苦の刻々として近づきつつあることを忘れ果てているがごときは、人間としてふさわしいことではない。いま無病健康なるがゆえをもって、いつ訪れ来るやも知れぬ病苦の存することを忘じ憍(おご)っているがごときも、また人間としてふさわしいことではない。そして最後に、虚空(そら)にあるも海中にあるも山のはざまの洞窟にひそんでいても、かならず彼をつかむであろう死苦の手のあることを打ち忘れて、生の憍逸に酔いほうけていることもまた、人間のあり方としてふさわしいものではない。それらのことを、「比丘たちよ、それらは三つの憍逸(たかぶり)である。三つとは何か。壮年憍、無病憍、活命(かつみょう)憍がそれである。比丘たちよ、あるいは壮年憍におごる者は、あるいは無病憍におごる者は、また、あるいは活命憍におごる者は、学を棄捨し、下劣に生きるであろう」と、戒め教えることが、この経の主題であったのであって、ここに釈尊がその出家前の生活を語り、また出家の動機について語りいでたのは、かかる憍逸の克服のための一つの思惟の過程として、おのが体験を例示したのであった。したがって、わたしどもはこの経において、釈尊がどのように考えられたがゆえに、かの出家を決行せられたかを、生けるこの師の声に接するがごとく聞くことを得るのではあるが、では、「何がこの人をしてかく考えしめたのであろうか」と問い深めてゆく時、この経もまた黙して語るところがないのである。

しかるがゆえに、わたしどもはそのことについて、これ以上さぐり問うことは断念しなければならぬとすることが、学人としてもっともふさわしいであろう。だが、わたしどもは依然として、何がこの人をしてかく考えしめたのであろうか、と問いつづけるわたしのうちなる声の求めをしりぞけることはできない。理性は空想を厳戒し、感情は問いつづける。その間にたって、わたしはなおつぎのごときことを言いうる余地の存することを思うのである。

サキャ族について 釈尊の出家まえの生涯は、けっして、さいわい少ない生活ではなかった。しかし、それは後の仏伝のはなはだ強調するがごときものとは、いささかおもむきを異にするするものであったと言わねばならぬ。

仏伝以外の文献によってうかがい知るところによれば、サキャ(釈迦)族の政治的存在は、当時のインドにおいては、まことに微々たるものであった。仏教の文献においても、当時のインドの政治的状態に言及して、いわゆる「十六大国」を語っているが、その「十六大国」のうちには、むろんサキャ族はふくまれていない。つまり、サキャ族の名は釈尊の出家によって知られ、サキャ族の存在はこの比類なき人を出したことによってはじめて意義を与えられているのであって、これを当時の政治的な勢力より見るならば、わずかに比隣の間に微々たる地位をしめていたにすぎなかった。その政治的地位もけっして完全なものではなくして、釈尊出家の前後には、西隣の強国コーサラ(拘薩羅)の保護のもとにおかれていた。そして釈尊の在世中、かのコーサラ国王パセーナディ(波斯匿)子ウィドゥーダバ(鼻溜茶迦、びるだか)のために悲惨な滅亡を喫したことは、仏典の中にも明らかに記されている。

したがって、もしわたしどもが、後世の仏伝の表現に眩惑せられて、平和と繁栄をむさぼる大国の王子としての印象を、この師の出家前の生涯にあてて描き出すならば、それはけっして、正しくこの人を見ることではないと言わねばならぬ。

さらに、この機会において付言するならば、そのころのサキャ族の政体は、当時の多くの部族がそうであったように、一種の共和制であった。ある経によると、そのころの商人たちが南方デカン地方におもむき、なんじらの国の王は何びとであるかと問われた時、彼らは「ある国々は王の治下にあり、おる国々はガナ(伽那)によって治められている」と、答えたという。このガナということばは、かのサンガ(僧伽、そうぎゃ)ということばと同義語であって、かの当時の共和政治の会議組織、すなわち衆議にしたがって国事を決定するのがガナであった。このことは、のちに釈尊がその教団すなわちサンガを、和合平等の修行者の団体としてみごとに運用せられたことと考え合わせると、まことに興味多い事柄であると思われる。

したがって、また釈尊の父スッドーダナ(浄飯、じょうばん)を「大王」と言いならす後世の仏伝の表現もまた、おなじ眩惑を生ぜしめるものであったと言わねばならぬ。サキャ族がその一つであった当時の共和政体の諸族においては、おのおの選挙によって選ばれる一人もしくは数人の最高執政官があって、集会(ガナ)のある時は集会を統(す)べ、集会なき時は直接に国政をつかさどる習わしであった。サキャ族においては、かかる最高の執政官はただ一人であって、ラージャ(王)と呼ばれていた。それはここでは、いわゆる「王」ではなく、ローマのかのコンスル consul のごとく、ギリシャのかのアルコーン archon のごときものであったと解される。仏典によれば、釈尊の従弟として、アヌルッダ(阿那律)の朋友なるバッディヤ(跋提)がラージャであったこともあり、釈尊の父スッドーダナもまたこの地位を得たことがあったと言われている。したがってこの人を「大王」と言いならす仏伝の表現は、事実に即したものではない。事実に即して言わば、この師の父は、ラージャに選ばれる資格を有する刹帝利(クシャトリヤ)種(武士階級)であったのである。

これを要するに、釈尊がその中において人となったサキャ族は、強大なるコーサラ国を西隣にして、中インドの北辺、雪山(ヒマーラヤ)にほど遠からぬあたりに存する弱小なる一部族であって、彼の父の家は、その部族の中の名家であった。したがって、その長子として生まれた彼もまた、普通のコースをとるとすれば、この部族を統べて、ラージャの地位につくべき可能性をもった人であった。だが、その部族はきわめて弱小であって、その運命は容易ならぬものであった。そこに、彼の胸中ふかくオリのごとく沈澱して、結局、彼を家なき沙門の生活へと駆った不安が存していたのではなかったであろうか。

それについて、わたしは、当時のインドの良家に生まれたる青年たちをとらえていた二つの最高の理想が存していたことを思いうかべざるを得ない。すなわち、その一つは、いわゆる転輪聖王(てんりんじょうおう)(理想的王者)となって四天下を統べるということであり、他の一つは、出家行者となって精神の世界に君臨する聖者(しょうじゃ)の境地にいたることであった。そして、釈尊もまた若くしてこれら二つの大いなる理想のまえに立ったであろうことは、仏典の中にすらしばしばその痕跡をとどめている。だが、この弱小なるサキャ族をひきいて転輪聖王たるの理想を成就せんことは、よく現実を観察するにつれて、しだいに希(のぞ)むべからざることであることが知られてくる。『経典』の中の『敗亡経』とよばれる経の一節において、釈尊はこのように説いたこともあった。

「刹帝利(クシャトリヤ)種ん家に生まれたる者が、

資力小にして、欲望のみ大きく、

この世において王位を希求する。

それは破滅(敗亡)にいたる門である」

しかるとすれば、高き理想にむかって邁進する青年であった釈尊の心ひとすじに向かうかたは、おのずから決定せられるのではなかったであろうか。

母の死について 『仏本行集経(ぶつほんぎょうじつきょう)』は、釈尊の母がその誕生まもなくして歿したことについて、つぎのように記している。

「その時、太子すでに誕生して適(まさ)に七日に満ちたるを以(もつ)て、その太子の母摩耶婦人はさらに諸天の威力をうる能(あた)わず。また太子の在胎に受けたるところの快楽をうる能わず。力薄きを以てのゆえにその形羸痩(るいそう)し、遂に便(すなわ)ち命終す。然(しか)りといえども、ただ徃昔来つねにこの法あり。この菩薩生まれて、七日に満ち已(おわ)り、菩薩の母みないのち終しぬ。何を以てのゆえに、諸菩薩幼年にして出家するや、母はこのことを見て、その心砕裂して、即ち命終するを以てなり。薩婆多(説一切有部)師またこの言を作(な)す。この菩薩の母は、生みたるところの子を見るに、身体は洪満(こうまん)、端正にしてよろこぶべく、世にならび少なし。すでにかくのごとき稀有の事、未曾有の法をみ、歓喜踊躍(かんぎゆやく)して、身中に遍満し、勝(た)えざるを以てのゆえに、すなわち命終すと」

このような説き方は、釈尊の母のあまりにも早き死について、ふるき仏伝がつねに採るとことの説き方であるが、いまわたしどもは、ここでもまた、かかる説き方を無用の曲説としてしりぞけなければならぬ。

思うに、この嬰孩(えいがい)にして母を失うということは、人生最大の悲しむべき事実であらねばならない。人間の常情をもってすれば、この事実が後年、多感の青年であったに相違ないこの人の胸中に何を種まいたであろうかを、容易に推しはかることができるであろう。父の慈愛の深きにつけ、富貴栄華の足るにつけ、また五欲快楽の充つるにつけて、なにかしら物足らなさを感ずるというのが、幼にして母を失った人々のつねであろう。しかるに、従来の仏伝がこの人間の常情をおおうて、前記のごとき曲説をあえてしたゆえんは何であるか。それはあまりにも釈尊を聖別せんことに急であったからにほかならない。しかも、かかる聖別をあえて企てたる結果は、かえって、仏教本来の精神の存するところろに反して、一種の予定説をうち立てているのみならず、また、後世の仏教徒のまえに、この人の真のすがたをおおい、私どもによって印象ふかく、かつ親しみぶかかるべき釈尊をうばい去っているのである。

だが、わたしはけっして、嬰孩(えいがい)にして母を失ったことや、弱小なるサキャ族の運命などが、直接そのままに釈尊の出家の動機となったであろうとするものではない。出家の当時、彼はすでに、齢(よわい)二十九に達していた。資質鋭敏であったであろうこの人は、そのときすでに、豊富な教養をつみ、すでに深い思索のいとなみを体得していたに相違ない。そして、それらの教養と思索とを通じて、当時の思想一般の影響をもつよく受けていたにちがいなかった。それは、生・老・病・死を根本方式となすところの厭世思想であり、なかんずく、一切の世界をつらぬいて支配する死の前に戦慄する人々の思想であった。だが、その死とは、わたしどもの現実の生が直面している素朴なる死ではなくして、かえってながき抽象的思索にによって蒸溜せられたものであったことを、わたしどもは見わすれてはならない。

彼らの語るところによると、この生死は今生(こんじょう)のみのものではなくして、三世永劫の苦悩として彼らも前にあり、長夜不尽(ちょうやぶじん)の憂愁として彼らをおびやかしているのであった。かような苦環をオルデンベルグは注釈して、「お前の運命は一度ぎりの決定で永久に定まってしまうと言われても、人はそれに堪えうるかもしれないが、くりかえしくりかえし戻ってくる滅亡の力、この薄気味わるい力にたいして、不断にたたかわねばならぬと考えたときには、勇者の心も、際限のない努力のことごとく無益に帰することにたいして、戦慄を感じないではいられないであろう」と語っている。その注釈は正しいとはいえ、そのような苦悩は、今日のわたしどもには縁の遠いものである、と言わねばならない。「死より死におもむく際限のない人生」を思索し戦慄するまえに、わたしどもには、端的にこの「今生」がわたしどもの問題であり、そしてくるしみである。輪廻の思想によって、この「いまの生:の無限のかなたにまで延長せられた苦観は、いわば思索の贅沢でしかないのである。

そして、釈尊がそれを抱いて家をいでたところの課題もまた、その時代の影響をふかく受けて、かかる思索せられたる苦観であったに相違ない。ふるき経の一つは、語って言う。

「なんじら比丘たちよ、もしこの三つの事にして世間になかりせば、如来は世間に出でざりしなるべく、如来の説きたまいし法と律とは世間にあらわれなかったであろう。その三つの事とは、何であろうか。いわく、生と老と死とがそれである」

そこでは、釈尊が現実の体験において味わわれたであろうところのものは、すでにはるかなる思索のかなたに抽象せられていて、何がこの師を家なき沙門の生涯にまで駆ったかをさぐり問わんとする者をして、とほうにくれしめるのである。

大いなる放棄 とまれ、釈尊は、生・老・病・死において人間苦を見ることによって、家をいでて行乞沙門の生活に入った。その新しい生活は、これを物質の面から見れば、まさに「諸(もろもろ)の活命(生活)のうちの下端」であった。律蔵大品(だいほん)によれば、出家のために、いわゆる「四依(しえ)」が説かれている。

「出家は乞食(こつじき)にる。これにおいて、これより命終わるまで勤めねばならぬ。出家は糞掃衣(ふんぞうえ)による。これによって、これより命終わるまで勤めねばなるぬ。出家は樹下坐(じゅげざ)による。これによって、これより命終わるまで勤めねばならぬ。出家は陳棄薬(ちんきやく)による。これによって、これより命終わるまで勤ねばならぬ」

それは、第一には、食についてはつねに乞食によることのさだめであり、第二には、衣については糞掃衣(ふんぞうえ)すなわち捨てられたる布によってしのぐことの定めであり、第三には、住については、樹下石上の雲水の生活のさだめであり、もし病める時には、陳棄薬(ちんきやく)(大小便をもって薬となすもの)をもってすることのさだめであった。これを、釈尊の出家まえの生活が、住において春夏冬の三殿があり、衣において常に迦戸(カーシー)産の最上の布をまとい、食においては僕婢(ぼくひ)すらも米と肉とを食していたというに比するならば、その一変のあまりにななはだしきに瞠目せざるを得ないものがある。それについて、わたしは、ヨーロッパの仏教学者たちが、釈尊の出家を訳して「大いなる放棄」“the Great Renouncement”と呼んでいることを、はなはだ興味ふかく思うものである。では釈尊は何のゆえをもって、かくも大なる放棄をあえてしなければならなかったのであるか。

釈尊はある時。出家してなお日浅き比丘たちのために、かように説いて教えられたことがあった。

「比丘たちよ、出家行乞の生活は、もろもろの生活の中の下端の生活である。だが、比丘たちよ、善き人々があえてこの生活にいたるのは、勝(すぐ)れたる義(わけ)があるからである。それは、王に強いられたからでなく、賊に強いられたからでなく、負債のゆえからでもなく、怖畏(おそ)れのゆえからでもなく、生計(なりわい)の苦しみからでもない。われらは、生・老・病・死・愁・悲・憂・悩の中に沈んでいる。苦に沈淪(ちんりん)し、苦に包囲せられている。その苦の積集を滅しつくさんがためにこそ、われらはここにいたったのである」

そして釈尊は、出家しながらもなお俗世の欲望に心ひかれがちな若き比丘たちに、決然たる放棄を要求しているのであるが、わたしどももまた、大いなる放棄なくしては大いなる獲得のないであろうことを知らなければならない。右顧左眄(うこさべん)する者は、とうてい真の宗教的生活を味わうことはできない。放棄においてやぶさかなるものは、畢竟するに、釈尊の道をゆくことは許されぬであろう。かつてイエスもその弟子たちに言ったことがあった。「なんじら神と富とに兼ね事(つか)うること能わず。このゆえに、われなんじらに告ぐ。何を食い、何を飲まんと生命(いのち)のことを思いわずらい、何を着んと体のことを思いわずろうな」と。その道は異なるといえども、その教うるところの心組は異ならない。最高のものを求めんとするものは、つねに一切をすててそれに向かわねばならぬ。それが真に宗教と呼ばれうる道の歩み方である。そのことを釈尊はまず、この「大いなる放棄」において、身をもって垂範している。

では、この師がその「大いなる放棄」にかえて獲得したものは何であったか。(第3章 大いなる放棄―出家 おわり)(33~45頁)

第四章 大いなる道生ず――成道

マガダの王と彼 釈尊は「大いなる放棄」を敢行した。それから、幾とせ―七年と計出せられる―もの精進修行ののち、ついに大いなる道を打通するにいたるまで、いかなる生活をいとなみ、いかなる師の門をたたき、いかなる内心の戦いをたたかったのであろうか。私どもはさいわいにして、それらのことについて信憑すべきいくつかの文献を有する。『経集』の中に収められる『出家経』とよばれる一経もまた、かかるものの一つである。

「ブッダはいかにして出家したもうたか。

かれはいかに観察したまいしがゆえに、

出家を大いに喜びたもうたのであるか。

仏陀の出家についてわたし(阿難)は語ろう。

「家居は狭隘(きょうあい)にして煩(わずら)わしく、

塵垢(じんく)の発(おこ)り生まるるところ。

しかるに、出家は広寛(こうかん)にして煩(わずら)いなし』

かく観察して、仏陀は出家したもうた。

仏陀は出家したまいてより、

身による悪しき業(ごう)を避けたまい、

あまねく生活を浄(きよ)めたもうた」

かように語りいでた阿難は、そこで、出家後の釈尊の生活の一齣を語りはじめる。それは、大いなる放棄を敢行した彼が、行乞沙門のすがたとなって、カピラヴァッツ(迦毘羅衛)を去って南行し、マガダ(摩掲陀)の国の都として繁栄をきわめるラージャガハ(王舎城)に入って托鉢している時のことであった。

「マガダの国の山にかこまれたる都、

ラージャガハにブッダはおもむきたもうた。

優れたる相(すがた)にて、かの仏陀は、

行乞のため、かの都に現われたもうた。

高殿(たかどの)に立てるマガダの国の王者、

ビンビサーラ(頻毘沙羅、びんびしゃら)は彼を見た。

風姿すぐれたる仏陀に眼をとめて、

王は近侍の臣に語って言った。

なんじらよ、かの者を注視せよ。

彼はすがた麗しく顔色きよく、

その歩くや悠容せまるところなく、

その眼は前方一尋(ひとひろ)の処(ところ)に注がれている。

思念して眼を地にそそぐ彼は、

賤しき家の出ではあるまい。

いそぎ王使をつかわして、

いずこにゆかんとするかを聞かしめよ」

つかわされた使者は、釈尊のあとに随(つ)いて行った。釈尊は托鉢をおえると、ラージャガハの郊外なる、パンダヴァ(般茶婆)山の洞窟へと帰りゆいた。「大王よ、かの比丘は、パンダヴァの前面なる山窟の中に、虎のごとく、牛のごとく、獅子のごとく坐している」。帰り報じた使者の言をきいて、ビンビサーラ王は、かの山窟に釈尊を訪ねた。対座して、喜ばしき挨拶のことばをかわしたのち、王は釈尊に言った。

「なんじはいまだ若く、年すくなく、

人生の第一歩に達したばかりである。

なお豊かなる青春を保持して、

しかも由緒ただしき刹帝利(クシャトリヤ)なるがごとし。

われはなんじになんじの欲する禄を与えよう。

光輝あるなんじは、わが精鋭なる軍に加わり、

戦士の栄誉を享受するがよい。

われは問う。なんじの生まれを語れ」

それに対する釈尊の答えもまた、偈文(げもん)をもって、かように記されている。

「王よ、かの雪山(ヒマーラヤ)の山のふもとに、

いにしえよりコーサラ(拘薩羅)国に属し、

財宝と勇気とを兼ね備えたる、

端正なる一つの部族がある。

その部族を「太陽の裔(すえ)」(日種)といい、

わが生族をサキャ(釈迦)となす。

王よ、その家よりわれは出家した。

もろもろの欲を希求せんがためではない。

もろもろの欲の災いを見おわって、

迷いをいで欲を離るるこそ安穏なりとするがゆえに、

その道に精勤(しょうごん)せんと、われは思う。

諸欲にあらず、精勤をこそ、わが心は喜ぶ」

そこには、出家ののちの釈尊が、いかなる心ばえをもって、いかなる生活をいとなんでいたかが、マガダ国王との会見という事件を通して、あざやかにかつ具体的に描き出されている。

沙門の生活  その生活のいとなみ方は、いわゆる沙門のそれであった。それは、当時において新たに興れる非波羅門的なる思想の負荷者たちが、新たにえらびとった修行生活の型として、すでに存していたものであった。その型は、おそらく、かの波羅門たちのいわゆる「四期」の一つにして最後のものたる「遊行期(ゆぎょうき)」において、その原型を見いだすことをうるであろう。

かの波羅門たちのいわゆる「四期」というのは、梵行(ぼんぎょう)期、家住期、林棲期、ならびに遊行期とよばれる四つの生活の時期と型式からなっていた。第一の梵行期(または学生期『は『吠陀(ヴェーダ)』学修の時期であり第二の家住期は、家にあって世俗の生活をいとなみ、祭祀(さいし)を行なう時期であり、第三の林棲期は、家住の生活をすてて、苦行もしくは思索に専念する時期であり、そして、それらの三つの時期において、人生の必要なる修行と義務とが果たされたとき、彼らは、髪を剃り、弊衣(へいい)を着け、手に杖と水漉(みずこし)をたずさえ、首に頭陀袋(ずだぶくろ)をかけ、身を雲水にまかせて、悠々自適の生活に入った。それが第四の遊行期であった。ふるき波羅門の法典にも、

「かくして、第三の森に住まう時期をすぐる時、一切の世俗の事物への愛着(あいじゃく)をすて去り、第四の時期を遊行者として送ることを得る」

と記されてあり、また、その生活の理想としては、

「眼によりて浄められたる足を履(ふ)みおろすべし。水漉(みずこし)によりて浄められたる水を飲むべし。真実によりて浄められたることばを語るべし。浄き心を保つべし」

とも記されてある。それによっても、彼らのいわゆる遊行期の生活の様式とその理想の片鱗を知ることができるのであるが、そこには、やがて釈尊がその身を投じ入れた沙門の生活およびその理想に、相通ずるもののすくなからず存することを見ることができるのである。さらに言えば、彼らは、この第四期の生活をいとなむものを、遊行者または行者と称したほかに、また、比丘ともよび、沙門とも称したもののごとくである。

だが、釈尊の当時におけるいわゆる沙門とは、いささか波羅門の遊行期にあるものとは相異なれるものであったのみならず、かえって波羅門たちと相対立する思想的立場にある人々の呼称とされていた。わたしどもは、ふるい経典をひもとくとき、しばしば「沙門・波羅門」と記されていることを見いだす。それは、当時の思想の世界における二つの流れ、すなわち、ふるき波羅門的思想を負荷する人々が波羅門であったのに対して、あたらしい非波羅門的思想をになえる人々が、沙門と呼ばれていたことを意味する。もともと、波羅門なるものは、吠陀(ヴェーダ、智慧)に通じ、祭祀をつかさどり、精神の世界に君臨するのゆえをもって、四姓(ししょう)すなわち四つの階級の最上位におかれていたのであるが、この時代にいたって、その態勢ははなはだしく動揺しはじめていた。わたしどもは、そのことを今日『ウパニシャッド』(奥義書)の中においてすら跡づけることができる。それは、刹帝利(クシャトリヤ)族の人々もまた精神の世界に進出して、波羅門の君臨をおびやかし始めたことを意味している。新しい清涼の風が、思想の世界に吹きはじめていたのである。そして、かかる新しい空気のなかの人々が、ふるき波羅門たちにたいして、新たに沙門として呼ばれたのであった。

したがって、かかる沙門の生活は、波羅門の伝統的な規定の拘束から、まったく自由であった。彼らは自由に出家し、自由に主張し、自由に生活して、若々しい時代の清新な空気の中に住んだ。ある者はみずから「鎖を断てる者」(尼乾陀、にけんだ)と称し、ある者はみずから「裸の者」(阿支羅、あしら)と名のり、その他さまざまに称して、幾多の新しい学派を形づくっていた。仏典では、それらをあるいは六十二見といい、あるいは十沙門団とかぞえ、あるいは六師外道(ろくしげどう)と称しているが、釈尊もまた、かかる沙門の一人として世にでたのであった。したがって、彼もまた、時の人々から「沙門ゴータマ」と呼ばれ、またその弟子たちは「サキャ族の子にしたがう沙門」(釈子沙門)と称された。

さらにまた、それらの新しい時代の空気を呼吸する沙門たちは、自然、その活動の舞台を新興の諸国に求めたことも、注意せらるべきであろう。そのころ、インドの文化的・政治的中心は、ガンジス河という大動脈を流れ下って、いわゆるクル地方(ヤムナー河の上流の流域)から、その南東なるガンジスの中流へと移りつつあった。その新しき文化と政治の中心では、かのマガダ(摩掲陀)国が、新興の勢いをもって、その地歩をかためつつあった。そして、この国はまた当然、この新しい思想を荷(にな)える沙門たちの活動の舞台の中心ともなった。

たとえば、六師外道はそのころの沙門たちの学派の六つの代表的なものであったが、彼らが主として論陣を張ったのも、このマガダにおいてであった。また、釈尊がその出家後師事したことがあったというアーラーラ=カーラーマおよびウッダカ=ラーマプッタの二人も、マガダにあった沙門団の統率者であった。されば、さきに述べたように、出家して沙門となった釈尊が、まず南行してラージャガハ(王舎城、マガダの都)の方面にその姿をあらわしたこともまた、かかる時代の雰囲気を知るとき、その当然しかるべかりし所以(ゆえん)のあったことが理解せられるのである。

聖なる求道  さらに、わたしどもは、中部経典のうちの『聖求経(しょうぐきょう)』とよばれる一経をひもとく時、そこに出家後の釈尊が、どのような、考え方をもって、求道の一途を邁進せられたかを、釈尊自身の述懐の形式において見いだすことができる。

「かようにわたしは聞いた」と語りいずるこの経は、例によって、この求法の語られた因縁を、このように伝えている。その時、釈尊は、サーヴァッティー(舎衛城、しゃえいじょう)の郊外なる祇園精舎にあった。比丘たちは、ここしばらくの間、釈尊の説法に接しなかったので、アーナンダ(阿難)に請うて、「われらは、釈尊の説法をききてよりすでに久しい。願わくば、世尊の法談を聴くをば得ば幸いである」と言った。その願いは早速に容れられて、その夕頃(ゆうけい)、彼らが、波羅門ランカマ(羅摩)の庵(いおり)にいると、釈尊はそこを訪れて、彼らのために説法した。

「比丘たちよ、人の求むるものに、二種の求めがある。すなわち、聖なるもとめがあり、聖ならざるもとめがある」

かく説きいでて、釈尊は、まず、何が聖ならざる求めであり、何が聖なるもとめであるかを語った。――人は生老病死の法の中にあり、また愁(なげ)きの法、穢(けが)れの法の中にある。かかる者が、依然としてかかるあり方、かかる生き方をのみ追い求めていたならば、いずれの時にか解脱、向上の時があろうか。それが聖ならざる求めというものである。それに対して、もし人が、生老病死の法の中にありながらも、その患(わざわ)いなることを知り、愁(なげ)きの法、穢(けが)れの法の中にありながらも、その然るべからざるゆえんを知って、より高きあり方、より優れた生き方、無上安穏の涅槃の境地をあこがれ求むるならば、それが聖なる求めというものである。――そして釈尊は、そのことを、みずからたどって来た道をふり返り、しみじみと身の体験するところに当てて、説きすすめる。その中に、わたしどもは、釈尊のあるいた求道のあとを、かなり詳細に知ることができるのである。

前章に述べたように、出家以前の彼は、俗世の幸福に酔いしれて生老病死の法の中に沈み、愁(なげ)き穢(けが)れの法の中に盲(めし)いていたのであったが、ふと自己を省察するに及んで、その然るべからざることを思い、出家沙門の境涯に入った。そのことが、ここでもまた、求め方の聖・非聖にあてて、まず物語られている。

かくて、出家の修行者となった釈尊は、いかなる困難をもおかして、すべて善なるものを求めよう、無上の寂静を求めよう、最上の道を追求しようと決意して、まずアーラーラ=カーラーマなる沙門を訪(おとの)うて、彼に師事した。そして、精進刻苦の結果、久しからずして、その師の説く境地を到りきわめることを得た。経典はその境地を、「無所有処(むしょうしょ)」と語っている。だが釈尊は、かかる境地にきわめ到った結果、その教えがなんら「智にみちびかず、覚にみちびかず、寂静涅槃にみちびかざるもの」であることを知って、この師のもとを去って行った。

ついで釈尊はウッダカ=ラーマプッタなる沙門を訪(おとの)うて、彼に師事したが、そこでも結局、おなじような結果をくりかえしたにすぎなかった。この師の語る最高の境地は「非想非々想処(ひそうひひそうじょ)」と呼ばれている。その境地を釈尊は、非常なる精進努力をもって、久しからずして、きわめ到ることを得た。だが、きわめ到ってみると、その道もまた「智にみちびかず、覚にみちびかず、寂静涅槃にみちびき到るものではない」ことを知って、またこの師のもとを去って行った。

聖なる求めの道を、ただ一途(いちず)に追求する。それが出家後の釈尊の、絶えて変わらぬ精進のねらいであった。そのことが充(み)たされざるかぎり、たとい師事する沙門の最高の境地をきわめ得たからとて、またたとい、師とともに同列に坐して、その弟子たちを領せよと誘われても、彼は断じて最高の善をもとめねばならぬ。究極の自由を把握しなければならぬ。最上の道をきわめ求めねばならぬ。かくて彼は、マガダの国の諸方を転々遊行して、ウルヴェーラー(優楼頻螺)のセーナーという村にいたった。そこに彼は、愛すべき土地、清適なる林と流れとを見いだし、「実にこの土地は愛すべく、林叢(りんそう)は清適である。川の流れは清く澄み、川の堤はうつくしく、しかして、付近のいたるところに豊かなる村落がある。まさにこれは精勤(しょうごん)を欲するに適する地である」とて、とある菩提樹の下に座をえらんで坐した。それがすなわち大覚成就の菩提樹下の坐であった。

悪魔のこころみ  菩提樹の下に坐した釈尊は「われよく煩悩を滅し尽くすことをうるまでは、要(かな)らずこの坐を解かじ」と念じて、懸命の思索精進をつづけた。その間、釈尊の心裏に去来したものが何であったかを、わたしどもはつぶさに知ることはできないが、なお、いささかその心のうごきをうかがうべき手がかりを、ふるき経典は記しとどめている。

相応部経典の第四に『悪魔相応』と名づけられる一群の短い経が存する。そこには、釈尊がさまざまの悪魔の試みにあい、しかもそれらによく打ち克(か)ったことが語られてある。それは、かのイエスが荒野にみちびかれ、悪魔の試みにあったという、かの「福音書」の記事を思いおこさしめる。だが、ここ釈尊の場合は、イエスのそれに比して、悪魔なるものの考え方が、きわめて高い意識の中に受けとられていることを知られねばならない。それは悪魔とよばれ、悪魔波旬(はじゅん)と語られている。だが、わたしどもはまた、ある経において、「悪魔、悪魔と語られるが、それは心のあしき動きに外ならない、煩悩のわざの外ではない」と語られていることをも思いだすことができる。しかるとすれば、いま菩提樹下の金剛不動の坐にあって、悪魔にこころみられ、かつこれに打ちかったという、ふるき経典のしるすところは、とりもなおさず、そのとき、釈尊が、煩悩との戦いをいかに戦ったか、聖なる求めを推進したかを、いささかうかがい知るべき手がかりをあたえるものなのである。

その一つの場合は、このように記されている。――そのとき、釈尊は独坐静観のうちに、このような思いをした。「ああ、わたしはかの苦行より離れた。なんらの利をもたらすことなき、苦行を離れたことは善いことであった」。すると、その時、悪魔波旬は、世尊の心に思うところを知って、世尊の前にあらわれ、偈(げ)をもって語って言った。

「苦行を修しつづければこそ、

若き人々は清められるのである。

浄(きよ)き道をさまよい離れて、

浄からずして、なんじは清しと思う」

だが釈尊は、それを悪魔のわざであると知って、偈をもって答えて言った。

「陸にあげられし舟の艫舵(ろだ)は、

何の利ももたらすことがない。

不死を願うに苦行をもってするも、

また何らの利あることなしと知る。

われは、戒と定(じょう)と慧(え)とをもて、

この菩提(自覚)の道をおさめ、

上なき清浄(しょうじょう)にいたりついた。

破壊者よ、なんじは敗れたのである」

かくて、悪魔は、「世尊はすでにわれを知りたもう」とて、苦しみしおれて、その姿を没したという。

多くの仏伝のしるすところによると、菩提樹の成道(じょうどう)にさきだって、釈尊は、六年の間にわたって苦行を修したという。その苦行はすこぶる厳粛なものであって、そのゆえをもって人々の尊敬を招来した。だが、釈尊の明哲は、ついに、かかる苦行がけっして聖なる求めの道にあらざることを洞見することを得たのである。元来、かの国の人々は、その古(いにしえ)と今日とを問わず、苦行に対して一種の信仰をもっているもののごとくだる。苦行をもって聖なる道であるもののごとく信じきった一般的錯覚が存しつづけている。釈尊もまた、その当初は、苦行をもって聖なる求道の方法であると考えた。そして、熱心に、精進もて、その道を行じた。

経によれば、彼は「一麻一米」の苦行を修したこともあったという。一麻といは一粒の胡麻のことであり、一米というは一粒の米のことである。一粒の胡麻と一粒の米のほかは、一切の食物を断つ。それが「一麻一米」の苦行であった。その苦行のために、釈尊は、髪はよもぎのようになり、眼はくぼみ落ち、骨はあらわれて、腹の皮と背の皮とがくっつきそうになった。だが、それにもかかわらず、真のさとりは一向に彼を訪れなかった。その時、附近のネーランジャラー(尼連禅那)河の堤のうえを、民謡をうたって通る農夫の声がきこえてくる。耳をかたむけるともなく聴けば、

「絃(いと)がつよすぎると切れる。

弱いと弱いでまた鳴らぬ。

程ほどの調子にしめて、

上手にかきならすがよい」

という意味のことであった。その時、釈尊の心の中に霊感がひらめき、そこで彼はすっぱりと苦行をやめた、というのである。この挿話をわたしどもは、どこまで信じてといかは、いまは深くふれないこととして、ともあれ、釈尊はついに苦行をすてた。そのことは、はなはだ重要なる意味を有することであった。それは、第一には、インドの人々の一般的錯覚から超出したことであるとともに、第二には、釈尊の道すなわち、仏教の基本的な特色を形成するものであった。だが、そのことを敢行することは、容易なことではなかったに違いない。また、そのことを敢行したのちも、ともすれば、疑念のその心にしのび入ったであろうことも、想像にかたからぬところである。その疑念、その動揺が、悪魔の声として、この『悪魔相応』の一経に表現されているのである。だが、釈尊はよくそれに勝った。勝って、「破壊者よ、なんじは敗れたのである」と言うことを得た。

そのほかにも、彼がたたかわなければならぬ悪魔は、けっしてすくなくなかった。愛欲もそれであった。樹下のねむりを、高牀(こうしょう)のやすきねむりにかえたいと思うこともあった。だが彼はそれらのことごとくに、よく打ち勝つことを得た。聖なる求道を妨害せんとする破壊者は、ことごとく敗れしりぞいた。そのさまを経の一偈は、「膏石(あぶらいし)を襲いし鳥のごとく、気くじけてゴータマより去れり」とて、かく述べ記している。

「あぶらにも似たる石をみて、

ここに軟かき、甘きを得むと、

鳥は空より舞い来たりしが、

そこに甘き、軟かきを得ずして、

空のかなたにとび去れり」

そして、ついに大覚は成就した。かの菩提樹の蔭(かげ)涼やかなるところ、サキャ族より出家した聖者(しょうじゃ)によって、「いまだ起こされざりし道は起こされ、いまだ生ぜられし道は生じ、いまだしられざりし道は知られた」のである。

(第4章 大いなる道生ず―成道 おわり)(46~60頁)

第五章 汝らも見よ――正法

自覚の内容 釈尊は、かの菩提樹のもとに坐して、ついに大いなる覚(さと)りを得た。その時の釈尊を、律蔵大品(りつぞうだいほん)はその冒頭に記しとどめて、

「その時、仏世尊は、初めて現等覚を成(じょう)じたまいて、ウルヴェーラー(優楼頻螺)村、ネーランジャーラー(尼連禅那)河のほとりなる菩提樹の下にいませり。時に、世尊は菩提樹の下においてひとたび結跏趺坐(けっかふざ)したるまま、七日の間、解脱の楽しみを受けつつ坐したまえり」

と述べている。では、その時、釈尊が新たに把握したものは何であったか。大いなる覚悟(さとり)の内容をなすものは、いかなるものであったか。それをわたしどもは、ここでまず問わねばならぬ。

それについて、人々は従来ともすれば、それはとうてい知り得ざるもの、しょせん近づきうかがうべからざるものであって、仏陀の悟境の内容は、ただ仏陀のみの知るところである、と考えがちであった。だが、それは果たして、そのようなものであったであろうか。わたしはそうは思わない。なんとなれば、ふるき経典は、けっしてそのようには語っていないからである。

たとえば、かのよく知られた梵天勧請(ぼんてんかんじょう)の説話を、熟考検討してみるがよい。それは、梵天の勧請に仮託して、釈尊がその内証を世間の人々にむかって伝達すべきやいなや、その可能性をみずから検討して、ついに伝道の決意をした心境のいきさつを語れるものであるが、そのとき、釈尊のまず考えたことは、「欲望のむさぼりや瞋(いか)りの心にまどわされた人々にとっては、この法は悟ることはやすからぬものである」ということであった。「それは世の流れに逆らい、はなはだ微妙であって、甚深(じんじん)・難見であるがゆえに、欲に著(じゃく)し、暗黒におおわれた者は、とうてい見ることを得ぬであろう。いまわが刻苦して証得せるところを説くといえども、結局むだであろう」。かく考えた時に、釈尊の心は黙止すべき方(かた)に傾いていた。その釈尊の心がやがて伝道に傾き、この法を説かんとことを決意するにいたった理由は、詮(せん)ずるところ、この法は聞いて悟りうる者の存することを、観察しかつ確信し得たからにほかならなかった。その観察したところを、経典のことばは、紅白の蓮(はす)の咲ききそえる蓮池に引例して、美しい譬喩(ひゆ)をもって語っている。「たとえば、蓮池において、青き紅(あか)きまた白き蓮の生い繁れるさまを見るに、あるものは水中に生じ、水中に長じ、水中に沈みてある。また、あるものは水中に生じ、水中に長じ、水面にいたってある。またあるものは水中に生じ、水中に長じながらも、水面を抜いて、水に染まらずしてあるものもある」。それとおなじように、世間の人々のあり方もまた、さまざまであって、一方においては、欲に著(じゃく)し、暗黒におおわれて、とうていこの法を理解しうるとは思われぬ人々もあるが、その他面においては、かかる塵垢(じんく)のすくなくして、よくこの法を理解しうるとは思われる人々も存する。そのことを釈尊は、観察しかつ確信することを得たのであり、かくて、「甘露の門は開かれたり、耳ある者は聞け」と、この法を説かんことを決意したのであった。それが、梵天勧請の説話がわたしどもに語り示すところの釈尊の心境の展開であった。

しかるとすれば、仏陀の自覚の内容は、ただ仏陀のみの知るところであって、他の人々のしょせん知ることを得ざるところとするは、かえって、釈尊の真意を解せざるものと言うもまた不可ではあるまい。それは、知り得ざるものではない。見えざるものではあらぬ。わたしどもは、ふるき経典をひもといてかく信ずる。なんとなれば、釈尊はまた、この法を指して、

「如来はこれをさとり、これを知りて、教え示し、宣(の)べ弘(ひろ)め、詳説し、開顕し、分別し、明らかにして、しかして『汝らも見よ』と言うのである」

と語られることもあった。ではわたしどもは、釈尊の教え示されるところについて、釈尊の言うところの「この法」とは何であるかを、まず問入り、尋ね入ってみなければならぬ。けだし、菩提樹下の大覚成就以後の四十五年にわたる釈尊の生涯は、ただこの自内証の法の宣説と、その実践とであったと信ぜられるがゆえに、まずこの法の真相に近づきうかがうことなくしては、わたしどもは、一歩といえども大覚成就以後の釈尊の生涯に、立ち入ることはできないのである。

古道としての法 相応部経典の一経に『城邑(じょうゆう)』という経がある。それもまた、例によって、サーヴァッティー(舎衛城)の郊外なるジェータヴァナ(祗陀林、ぎだりん)の精舎(しょうじゃ)、すなわち、祇園精舎においてのことであったが、釈尊は弟子の比丘たちのために、このような説法をしたことがあった。

「比丘たちよ、わたしはまだ正覚(さとり)を得なかったころのこと、かように考えた。――まことに、この世間は苦の中にある。生まれ、老い、衰え、死し、また生まれ、しかも、この苦を出離することを知らず、この老死を出離することを知らぬ。いったい、いかにしたならば、この苦なる老死からの出離を知ることができようか」

ここでもまた、釈尊は、その出家前の心境から説きはじめている。だが、ここでは、前回にのべた経のごとく、経て来た道を具体的に述べるのではなくて、むしろ抽象的にその考え方を述べている。すなわち、

「比丘たちよ、その時、わたしはかように考えた。――何があるがゆえに、老死があるのであろうか。何に縁(よ)って、老死があるのであろうか」

また、

「比丘たちよ、その時、またわたしはかように考えた。――何がなければ、老死がないのであろうか。何を滅すれば、、老死を滅することをうるのであろうか」

そのように考えることによって、釈尊はついに、「いまだかつて聞きしこともなき法において、眼(まなこ)生じ、智を生じ、明(さとり)をうることを得た」と語っているのであるが、しかし、この法なるものは、いまだかつて、なかりしものを、いまここに新たに生み出したものではなくして、いわば、古くから存していたものを、いま見いだしたにすぎないのであるとて、このような譬喩を、そこに語りいでているのである。

「比丘たちよ、たとえば、ここに人ありて、林の中をさまよい、ふと古人のたどった古い道を発見したとするがよい。またその人は、その道にしたがい、すすみ行いて、古人の住んだ古い城、園林があり、岸もうるわしい蓮池のある古城を発見したとするがよい。

比丘たちよ、その時、その人は、王または王の大臣に報じて言うであろう。――わたしは、林の中をさまよって、ふと古人のたどった古道を発見した。その道によって進みゆいてみると、古人の住んだ古城がある。園林があり、岸もうるわしい蓮池もある古城である。願わくは、かしこに城邑(じょうゆう)を築かしめたまえ。

比丘たちよ、そこで王または王の大臣は、そこに城邑を築かせたところ、その城邑はさかえ、人あまた集まり来たって、殷盛(いんせい)をきわめるにいたった。比丘たちよ、それと同じく、わたしは過去の正覚(しょうがく)者たちのたどった古道、古径(こけい)を発見したのである」

釈尊がしばしばこのような説き方を、この法について試みられていることは、何を意味するものであろうか。わたしどもは、まずその意味するところを、とくと考えてみなければならない。そして、その意味をよく掬(きく)することを得たならば、その時、わたしどもは、この法なるものの性格の一片を、まずうかがうことができたと称することをうるであろう。

では、釈尊はいかなる意味をもって、この法を古道、古径にたとえて語ったであろうか。それは古今と東西とを問うことなく、時間と空間とを貫いて、この法は常恒(じょうごう)に存しているものであることを言わんとするのほかではなかった。それは、釈尊がこの世にいでて、釈尊が考え出したというがごときものではなかった。あるいはまた、わたしどもが釈尊の教え示すところによって、新たに体系づけるとき、その時はじめて生まれ来るがごときものでもなかった。さらにまた、それは仏教の世界に存し、他の思想の世界には存しないというがごときものでもない。そのことを、釈尊はまたある時、

「如来のこの世にいずるも、もしくは如来のこの世にいでざるも、このことは定まり、法として定まり、法としても確立している。すなをち相依性(そういせい)である。如来はこれを証(さと)り、これを知る」

と語ったこともあった。それは、釈尊がこの世に出ようと出まいと、元来厳として確立しているものである。ただ、釈尊のいでて、これを証得し、これを教示するまでは、わたしどもにはそれが知られていなかった。この法はそのようなものであるがゆえに、それを釈尊は、譬喩をもって、「わたしは古道を発見した」と説いているのである。そのことを、わたしどもは、まずはっきりと証知しておきたいのである。

形式としての法 かく言えば、当然そこに一つの疑問を生ずるであろう。なんとなれば、わたしどもは、釈尊が、「すべて物のあり方は、常恒ではあらぬ」すなわち、諸行は無常であると教えられたことを思い出さざるを得ないからである。一切の物のあり方は無常であるというのに、いかなればこの法のみが常恒でありうるのであるか。わたしどもは、ここでさらにそのことを問わざるを得ない。

それにたいする答えは、さきにあげた釈尊の言葉「このことは定まり、法として定まり、法としても確立している。すなをち相依性(そういせい)である」との言い方の中にも、すでに用意せられてある。だが、そのことはきわめて微妙であるがゆえに、すこしく立ち入って説いてみなければならない。それについて、わたしどもは、のちの釈尊に、いくつかのすぐれたる法の解釈を見いだすことができるのである。

その一つは、『唯識論述記』に、「法というは軌持(きじ)である。軌というは規範であって、物の解(げ)を生ずべく、持というは任持(にんじ)であって、自相(じそう)を捨てざることである」と語られてあるのがそれである。またおなじ趣旨のことを、『倶舎論光記』には、「法を解するに名づけて二あり。一つは能(よ)く自性(じしょう)を持すること、二つの軌として勝れたる解を生ずること」とも説かれてある。

すなわち、この二つの釈論は、この法を解釈するに、いずれも二つの命題を語っている。その一つは、「自相を捨てざること」もしくは、「能く自性を持すること」であり、その二つは、「軌として勝れたる解(げ)を生ずること」もしくは、「物の解を生ずべきこと」である。その言うところの意味は、第一には、この法なるものは、自己の本質を変ずることなく、よく持(たも)ちつづけるものであるということであって、そこから、この法は古今と東西とを貫いて、常常に厳として存するという表現も生まれてくるのであるが、かかる法には、また第二に、それによって「能く物の解を生ずる」という解釈があたえられている。それは、今日の哲学的用語をもって言わば「形式」であるということに外ならない。

ついては、カントの認識論を御承知のかたは思いうかべていただきたい。彼は、認識が成立するに欠くべからざるアプリオリ(先天的)なる条件をしらべあげることを、その認識論の主要なる題目としたのであるが、いったい、わたしども人間の認識なるいとなみは、対象を予想せずしては考えることができない。すなわち、外界がわたしどもの認識能力を触発することなしには、認識の成立は考えることができない。そのことを、カントは、認識は経験とともに始まると言った。だが、彼はまた、わたしどものあらゆる認識は、必ずしもすべて経験から発現するわけではないとした。そして彼は、わたしどもの認識のいとなみにおいて経験から来るものではない(すなわちアプリオリ)ものを認め、そのアプリオリなる条件をしらべあげうことを、彼の主要なる仕事としたのである。では、すべての認識は対象を予想せずしては考えられないとするのに、いかにしてアプリオリなるもの、経験によらざるもの、さらに言えば、対象そのものに先行するものが考えられるか。それにたいする答えは、「わたしの主観においてあらゆる現実的印象に先行するところの形式以外の何ものをもふくまぬ、というただ一つの仕方においてのみ」そのことが可能となって来るのである。

たとえば、ここに五本の指がある。それをわたしは見る。そのとき、それを指、指、指、指、指ではなくして、五本の指としてわたしは認識する。では、わたしはそれをいかにして五本の指と認識するのであろうか。指という認識は、むろん対象によって生ずる。だが、五という認識はどこから来たものであろうか。それは、いずれの対象の中にもない。それらは単に指である。指、指、指、指、指でしかない。それを五つとするのは対象からは来ない。そして、それはわたしどもの認識能力にそなわる直観形式によって成るものであるというのが、それに対するカントの精緻なる研究の結果であった。

そして、わたしがいま、かの釈尊の証得したもうた法なるものは、今日の哲学をもっていえば「形式」として存するというのは、このような意味において言うのである。すなわち。それは、「実質」ではなくして「形式」である。経験そのものではなくして、一切の経験がそれを通すことによって、認識として成立するところのものである。そのことを、ふるい経は「軌として物の解(げ)を生ずる」と語っているのである。

相依性としての法 では、そのような「形式」としての法は、いかなるものであろうか。ここでわたしどもは、さらに一歩をこの法に近づけて、その形式のあり方について問わねばならない。

それについて、まず、ふるき経がしるしとどめる一つの譬喩について語ってみたい。それは、釈尊の第一の高弟にして、この法の相続者なりと言われたかのサーリプッタ(舎利弗、しゃりほつ)が、一人の比丘の問いに答えて語ったものであるが、彼はまず人間の老死のあり方について、問いに答えたのち、このような短い譬喩をこころみているのである。

「友よ、しからば譬(たとえ)を説こう。識者はここに譬をもって説くところの義を知るがよい。友よ、たとえば二つの蘆束(あしたば)は、たがいに相依(よ)りて立つであろう。友よ、それとおなじく、名色(もの)に縁(よ)りて識(しき)あり、識によりて名色(もの)あり。……」

そして彼は、いわゆる縁起の法に語りすすんでいるのであるが、わたしどもは、まずここに立ち停(どま)って、彼が「二つの蘆の束は、たがいに相依りて立つであろう」と語っていることについて考えてみなければならぬ。

一つの蘆の束は、それだけでは立つことを得ない。二つの蘆の束が、相依り相支えるとき、それらは、はじめて立ってあることができる。そのような譬喩をもって、サーリプッタが指し教えているものは何であるかというに、この法に外ならぬのであった。さきにあげた釈尊の言葉にも、「このことは定まり、法として定まり、法として確立しているのである。すなわち相依性のものである」と語られてあったことをわたしどもは、ここでもう一度思い出してみなければならぬ。すなわち、そこでは、この法とは相依性のものであると語られているが、それをサーリプッタは、二つの蘆束の相依りて立つことに事寄せて説いているのである。

釈尊の証得せられた法なるものは、いうまでもなく、一切のもののあり方に関するものであった。わたしどもの一切のものの見方は、とかく狭くかつ浅い。花のうるわしく花咲けるをみては、ただ、その美(うる)わしさに酔うて、その依りて存する存し方は問わない。人の富み、かつ栄えているのを見ては、ただその富貴を羨(うらや)んで、その依りて存するゆえんはふかく省みることをしない。そのような狭くかつ浅い見方の前には、物も人も、とかく、独立個々のものとしてその相を現わす。したがって、うるわしき花の散るを見てはかなしみ、富貴の人の没落するをみては嘆じ、老死のおのれに迫り来るにきづいては驚駭(きょうがい)する。

それに反して、釈尊は一切のもののあり方を徹見し、洞察して、すべての物のあり方は相依性のものであると把握し、これこそ、古今と東西とを貫いて存する法であると教え示され、なんじらもまた、この法を見よ、一切のもののあり方を把握せよと語っておられる。

すこしく心して考えてみるならば、わたしどももまた、この法の片鱗をうかがい見ることができるはずである。ここわたしの机辺(きへん)に、一輪の花として、独立にかつ常恒に存するものではない。またここにわたしは、机を前にして、坐してこの法について思索をめぐらしているが、このわたしの思索なるものも一切の文化と無関係にして成りうるものではなく、またわたしの体質や環境と切りはなして考えうるものでもない。

種がなければ、樹はないであろうし、樹がなければ、花は咲かないであろうし、さらにまた、花が咲かなければ、実も結ばず、したがって種もまたないであろう。そのような、物や人のあり方を、すこし深く広くまた遠く考えてゆくと、「それは相依性のものである」と語られたこの法、一切の物のあり方の形式なるものが、わたしどもにもまた、すこしくほの見えてくる。

それをサーリプッタは、譬喩をもって、二つの蘆の束が相依って立つがごときものであると説いたのであるが、釈尊はまた、他のところにおいて、しばしば、この形式をつぎのように言い表したことがあった。

「これあるに縁(よ)りてこれあり。これ生ずるに縁りてこれ生ず。これなきに縁りてこれなし。これ滅するに縁りてこれ滅す」

それは、わたしどもがふるき経の中において見いだしうるところの、この法の形式に関するもっとも基本的ななる言い表わしであると思われる。もしも哲学者たちの語法にしたがって、釈尊の教えの第一命題は何であるかといわば、この言い表しこそ、釈尊の第一命題であったと称することができるであろうと思われる。

苦は縁生なり もう一度サーリープッタのことであるが、中部経典の『象積喩大経(ぞうせきゆだいきょう)』となづけられる一経によれば、彼は釈尊の弟子たちの中の上首(じょうしゅ)として、かのジェータヴァナ(祗陀林)の精舎、すなわち祇園精舎において、比丘たちのために釈尊の教えを解説して、法を説いたことがあった。その一句を、経典はつぎのごとく記し伝えている。

「実に釈尊によりて、また――縁生(えんしょう)を見る者は、その人は法を見る。法を見る者は、その人は縁生を見る――と説かれた」

この一句によった、わたしどもはまた、釈尊が悟得せられたかの法なるものは、いわゆる縁生または縁起の法に外ならなかったことを、明らかに知ることができる。だが、縁起の法といっても、それによって、わたしどもはいわゆる十二縁起なるものに、早急に想到すべきではない。なんとなれば、縁生または縁起というのは、本来「これあるに縁(よ)りてこれあり、これ生ずるに縁りてこれ生ず」ということ、そのことに外ならない。縁生とは「よりて生ずる」ということであり、縁起とは「よりて起こる」ということである。さらに、かの第一命題の下半「これなきに縁(よ)りてこれなし。これ滅するに縁りてこれ滅す」を、つづめて言わば、それはまた縁滅、「よりて滅する」ということであって、縁起の法は、それをもっと詳しく言えば、縁生縁滅のほうであり、さらに完全にいえば、かの第一命題となるのである。では、いわゆる十二因縁または十二縁起と称せられるところのものは、それにたいして、いかなる関係にたつものであろうか。

それについて、ここでわたしどものもう一度思い出してみなければならぬことは、釈尊がかの「大いなる放棄」――出家を敢行せられたるゆえんは何であったかということである。彼は何を課題となしたがゆえに、在家の生活を放棄して家なき行乞の沙門となったのであるか。それは、いうまでもなく、生老病死の四苦によって代表せられるところの苦なる人生を、いかにして脱するかということであった。あるいは、この苦なる人生を脱する方法はないであろうかということであった。したがって、釈尊が苦修(くしゅ)いくとせを重ねて探ね求めたところのものは、単なる理法としての法ではなかった。一切の物のあり方を法として把握することによってのみ、釈尊の目的は果たされるのではなかった。

この法はまた、人間のあり方をも含めての、一切のもののあり方の形式でなければならなかった。しからずんば、それは、釈尊にとって、なんらの価値もなきものであったに相違ない。ある経によれば、釈尊は、「苦は縁生なり」と説いているのであるが、この苦なる人生もまた縁生の法によるものであったればこそ、この法の認得が釈尊に大いなる喜びであり得たのである。釈尊が、かの菩提樹の下において、一たび結跏趺坐(けっかふざ)したるまま、七日の間、この新たに認得したる法の楽しみを受けておられたというのは、実にこのことであったのである。そして、その間、釈尊は、この形式としての法に、人間生活の実質をあてはめて、いろいろと考え試みられた。そのことを、律蔵大品は、このように記している。

「時に世尊は、その夜の初夜において、縁起を順逆に作意(さい)したまえり。謂(いわ)く、無明(むみょう)に縁(よ)りて行(ぎょう)生ず。行に縁りて識(しき)生ず。識によりて名(みょう)生ず。名色に縁りて六処生ず。六処によりて触(そく)生ず。触によりて受生ず。受によりて愛生ず。愛によりて取生ず。取によりて有(う)生ず。有によりて生(しょう)生ず。生によりて老死の苦しみ生ず。かくのごとくにしてすべての苦蘊(くうん)は集起(じっき)する。また、無明あますところなく滅レバ行滅す。行滅すれば識滅す。……かくのごときにしてすべての苦蘊は滅尽する」

それは、かの縁生にして縁滅なる理法に、人間の生活を実質として当てはめたものであって、それによって釈尊は、この苦なる人生のよって生ずるゆえんを知り、および、この苦なる人生をよって克服すべきゆえんを知ったのである。それによって、彼の出家の課題は一応ここに果たされたのであるが、では彼に、その認識したるところのものを、いかに実践の上に具現したのであろうか。また、それを、いかに体系づけて人々に教えしめしたであろうか。(61~73頁)

第六章 真理の王国なる――伝道の決意

微妙なる心の記録 釈尊が、菩提樹の下において大悟(だいご)せられてより、やがてかの鹿野苑(ろくやおん)において、その悟得せしところを、大いなる教えとして人々の前に展開するまでの数十日間、その間、釈尊の胸中に去来したであろう思いのかずかずについては、幸にして、わたしどもは、それらをうかがい知るべき幾多の資料を、ふるき経典の中において見いだすことができる。しかし、それらの資料のあるものは、波羅門教の神々にちなんだ説話として説かれており、またあるものは悪魔の誘惑のかたちをもって語られており、またあるものは、その深き意味を従来の仏伝作者によって見逃されてきたものもあった。

かってソクラテスは、ヘラクレイトスの著作について言ったことがある。「わたしが理解し得たところのものは、すべて優れたものであった。わたしが理解し得なかったところのものも、また同様であろうと思われる。さればこの著作にむかうものは、熟練した潜水者であることが必要である」と。そのことばをしばしばわたしは経典を前にして思い出す。思い出しては、みずからをうつ鞭(むち)とする。

文字の表面を摩(ま)して、もってみずから理解し得たりとすることほど、経典に対して恐るべきことはない。わたしどもはそこまでは、けっして水面にとどまってはならない。水におどり込み、水を潜(くぐ)ってその深きところをたずねねばならない。熟練せる潜水者であることが、そこでもまた何よりも希(のぞ)ましいことであるが、いまわたしどもは樹下の成道より最初の説法にいたる間の、釈尊の胸中に去来したであろうところのものをうかがいたずねんとする時、そのことの必要をもっとも強く痛感せしめられる。なんとなれば、ここでたずね求められるものは、釈尊胸中の微妙なる心の動きであり、それの手がかりとして存するものは、神々の説話として、また悪魔の誘惑として語り伝えられた資料であるがゆえに、当然、わたしどもは、水をけって深みに潜りゆくよき潜水者となるにあらざれば、とうてい微妙なる釈尊胸中のうごきの片鱗にだにふれることを得ないであろう。

法によりて立つ 相応部経典、六の二の、「恭敬(くぎょう)」と題される一経は、大悟せられてまもなき釈尊の胸中に去来したる思念の一つを、つぎのように記しとどめている。

そのころ、釈尊はなおネーランジャラー(尼連禅那)河のほとりにあり、一樹のもとにとどまり住して、その得たる智慧のよろこびを味わっていた。しかるに、その時、彼の胸中にふと、他の思いが去来したのである

「その時、世尊は、ひとり坐し、静かに観じて、かくのごとく考えたもうた。『尊敬するところのものなく、恭敬するところのものなき生活は苦しい。われはいかなる沙門もしくは波羅門を敬い、尊び、近づきて住すべきであろうか』と」

この経の、この一句が語るところの意味は、ふかく潜り、ふかく味わい得るものにとっては、まことに興味ぶかく思われるであろう。釈尊はいま最高の智慧を獲得せられた。しかもなお彼は、何ものにか依るべきところを求めている。尊敬し恭敬(くぎょう)すべき対象を他の人格に見いだして、その人に近侍し、依憑(えびょう)してゆきたいとの心を動かしている。かかる依るべき対象を持たない生活は苦しいと述べているのである。ひとり内心に智慧を抱きしめていることに、何かしら不安を感じているのである。それは何故であったか。だが、その理由にたずね入ることは後廻しにして、いまは、まず経典の記すところにしたがって述べすすめよう。

さて、かかる思念をいだいた釈尊は、さらに考えてみた。――もしわたしが、いまだ戒について満たされぬものがあり、定(じょう)について満たされぬものがあり、また、智慧について満たされざるものがあり、それらについて。依ってもって学ぶに足るほどの沙門もしくは波羅門がありとするならば、その人を敬い尊び、近侍して学ぶという理由はある。だが、わたしはいま、戒についても、定についても、解脱のための智慧についても、尊敬し近侍して、依て学ぶべき人物をどこにも見いだすことはできない。それについて、わたしよりも優ったものを、遺憾ながら、わたしはどこにも求め得ない。――かように考えて、結局、釈尊が到達したところのものは、「われはむしろ、わが悟りし法、この法をこそ、尊び敬い、近づきて住すべきである」との結論であった。

この結論は、わたしども釈尊の道をゆかんとするものにとっては、はなはだ重き意味をもって受けとられつべきものである。仏教の述語に、「依法不依人(えほうふえにん)」ということばがあることを思いおこして見られるがよい。世の多くの宗教においては、「依人」すなわち人に依ってその信仰を樹立することが説かれている。わたしどももまた、ともすれば、人によってその信を樹(た)つることに心やすきをおぼゆる。だが、釈尊の道は、明々白々に「応(まさ)に法によるべく、人に依らざるべき」ことを教える道であった。そのことのもっとも堅確なる表現は、この師が入滅を前にして弟子たちのために垂れたもうた訓戒の中にある。

「ここにみずからを燈明とし、みずからを依所(よりどころ)として、他人を依りどころとせず、法を燈明とし、法を依所として、他を依りどころとせずして住せよ」

それは、わたしどもが「自帰依(じきえ)、法帰依(ほうきえ)」の教えとして、もっとも感銘ふかく記憶するところのものであって、そこに正法(しょうぼう)中心の宗教である仏教の立場がもっとも明白に、かつ厳粛に宣言せられているのであるが、かかる仏教の基本的な立場は、そのはじめ、いかにして自覚され、確率されたものであるかといわば、わたしどもはこの樹下(じゅげ)の瞑想の間に去来せし釈尊胸中の思念を指して、ここに正法中心の立場は確立したものであるとすることができる。

なお、この経はさらにつづいて、釈尊が、かかる結論に到達したとき、梵天王がその姿を現わし、衣を一肩にかけて釈尊を拝し、彼がいま得たる結論を称讃して、偈を説いて、つぎのごとく語ったと記している。

「いにしえの正覚者(しょうがくしゃ)も、未来の諸仏も、

また現在の正覚者にして、衆生のもろもろの憂い悩みを除くであろう人も、

すべて正法を尊び敬いて、かつて住したまい、

いまも住したもうであろう。

このことは、もろもろの仏にとりて、法として然るのである。

このゆえに、おのれの利益(りやく)をねがい、勝(すぐ)れたる人たらんと望むものは、

仏の教えを憶念しつつ、正法を尊び敬わねばならぬ」

この一節は、わたしどもからすれば、むしろ、経典編纂者の無用の粉飾であるが、その一面、かかる粉飾をもって、この釈尊の結論の重要性を強調せんとするふるき手法のこころは、これを、これを汲まなければならない。しかるに、律蔵大品(りつぞうだいほん)や中部経典『聖求経(しょうぐきょう)』の編纂者たちが、成道(じょうどう)より説法までの経緯をしるすにあたって、この経のもつ重要なる意味を汲みえなかったものか、これを逸しているのは、もっとも遺憾とするところである。

説法の決意 もう一つの重要なる経典資料は、いわゆる梵天勧請のそれである。

それも、釈尊が大いなる悟りを得られてまもなきころ、まおネーランジャラー河のほとりにあって、一樹の下にとどまり住し、その得たる智慧のよろこびを味わっていた時のことであった。その時、釈尊はいまだ、この智慧を人々に説き、人々とともにこの智慧のよろこびをともにせんとする心を決するに至ってはいなかった。むしろ彼は、この智慧の内容ははなはだ微妙なるがゆえに、人々には見がたく解しがたいであろうと思っていた。人々は欲の貪(むさぼ)りを楽しみ、貪りの生活の中にふかく沈淪(ちんりん)しているがゆえに、彼らに対してこの難見難解の微妙の法を説いても、とうてい悟らしめることはできまいと思っていた。彼らのためにこの法を説くといえども、結局は無駄であって、ただいたずらにわが疲労困憊(こんぱい)をまねくのみであろうと思っていた。かく思う釈尊の心もちは、説法よりも黙止に傾いていたと、この経典のことばは判じている。そして、つぎのごとき偈をもって、この釈尊の思念をくりかえしている。

「困苦してわが証得せるところを、

何ぞ迷いの中の人々に説こうぞ。

貪りと嗔(いか)りと痴(おろか)さの中にある者に、

この法を悟らんことは容易にあらず。

これは世の常の流れに逆らい、

微妙にして難解なれば、

欲貧に汚れ、闇におおわれし者は、

見ることを得ないであろう」

そのように沈黙独占に傾いていた釈尊の心が、やがてその反対に動き傾いて、正法の宣布伝道を決意するにいたるまでの心境の変転が、いわゆる梵天勧請の説話によって語られているのである。

そこでも、また、婆羅門教の最高神である梵天が、突如として登場してくる。釈尊の心が、沈黙に傾き、説法に傾いていないことを知った梵天は、「如来は説法を欲せず、沈黙を思っている。それでは、世間は壊滅のほかはない」と思ったので、いそぎ梵天界より降り来たって、釈尊の前にその姿を現わし、釈尊を拝し、合掌をささげて、白(もう)して言う。

「世尊、願わくは法を説きたまえ。善逝(ぜんぜい)、願わくは法を説かせられたまえ。有情(うじょう)にして塵垢(じんく)すくなき者もあるが、もし法を聞かずば退堕するであろう。もし法を聞くを得ば悟りうるであろう」

その勧請は三たびくりかえされた。かくて釈尊は、清浄なる法眼(ほうげん)をもって世間を観察した。そこに釈尊が観察しえたところのものは、人々の中には、塵垢すくなきものもあるということであり、鈍根(どんこん)の者ももあるが、また利根の者もあるということであり、悪行相の者もあるが、また善行相の者もあるということであり、教えみちびきがたい者もあるけれども、また教えみちびきやすい者もあるということであった。かように観察された世間の種々相を、経典は、うつくしい描写をもって、青き、紅(あか)き、白き蓮の、池のおもてにきそい生(お)いているさまにたとえている。その池の蓮に比せられる人々の中には、暗いよどみの中に根を置きながらも、水の中に生じ、水の中に長じ、やがて水面を高く抜きんでて、汚れなき紅きまた白き花を咲かせうるものもある。釈尊は、世間の人々の種々相を観察して、かかる人々を見た。かかる人々もまたありとすれば、この微妙(みみょう)の法もまた説くべき甲斐ありと思えた。かくして、黙止に傾いていた彼の心は、その反対に傾き動いていった。やがて、説法の決意はついに成った。その決意を、この経典は、次のような偈をもって表白している。

「かれらのために、甘露の門は開かれた。

耳ある者は聞くがよい。先入の見をすてるがよい。

梵天よ、わたしは嬈惑(じょうわく)の懸念あって、

人々に微妙(みみょう)の法を説かなかった」

これを聞いて、梵天は、釈尊の説法を許したまえりとして、敬礼し、右遶(うにょう)して去った。それが、梵天勧請の大要である。

大悟と伝道  ひるがえって考えてみると、釈尊は、そのはじめ出家して行乞の沙門となった時には、ただ自己の苦悩の解決を得んがためであった。したがって、その苦悩の解決を求めて、ついに最高の智慧に到達しえた時、彼の目的は一応達せられたのである。静かにこの最高の智慧を味わい、それに随(したが)い順じて、不死安穏の生涯をうることを得ば、そのほかに何の求むるところもないはずであるとも言うこともできる。

かく言うのは、けっして、単なる推測でもなく、また単なる理屈でもない。相応部経典の『七年』と題せられる一経は、これまでの仏伝研究者によってまったく看過せられているが、そこには釈尊もまた、かく思われたことがあったであろうことを、うかがい知るべき手がかりが存している。そのとき、釈尊はなおネーランジャラー河のほとりの一樹のもとに止(とど)まっていた。すると、出家以来七年の間、たえず彼につきまとっていた悪魔が、彼の前に姿を現わして、偈文(げもん)をもって語りかけた。その一節はかようであった。

「もしなんじの言うがごとく、

安穏不死にいたる道を知らば、

行けよ、なんじ独りゆけよ。

何のために他に教えんとするか」

ここに悪魔の呼びかけとして記されているものは、既に言うがごとく、釈尊の心中に去来せし疑念であったにちがいない。そのとき釈尊もまた、最高の智慧を得、安穏の生涯を成じたるうえは、また何の他に求むるところがあろうかと考えたに相違ない。さらにまた、何のために自分は、他の人々にこの法を説かんとするのであるか、と自問したに違いあるまい。

では、自己の苦悩の解決をもとめて出家した釈尊が、最高の智慧を成就してその目的を達したということと、最高の智慧を成就せられた釈尊が、その智慧を人々のために説くにいたったということと、この二つのことを必然的に結びつけるものは何であろうか。ふるい経典の編集者たちは、梵天勧請の説話をもって、一応その結びつきを神話的手法をもって説明している。その説明ははなはだ巧妙にしてかつ美しい。だが、それはあくまでも、神話的手法による説明である。わたしどもは、さらにその背後に潜り入って、もっと納得できるものをつかむことはできないであろうか。

なるほど梵天勧請の説話のなかにも、釈尊が説法を決意せらるろ理由を説いて、「有情(うじょう)を哀愍(あいみん)するによりて」と記されている。また、後に弟子たちを伝道につかわすに当たっての教示にも、「衆生の利益、衆生の哀愍のために」と語られたことがあった。そしてこの解釈は、慈悲の宗教としての仏教の立場に、まことにふさわしい。

だが、今ここにおいて、自己の苦悩の解決を目的とした釈尊と、衆生を哀愍するがゆえにという釈尊とを、ただちに結びつけることは、やはり論理の飛躍であって、問題はむしろ、何故に黙止に傾いていた釈尊の心が、ついに説法することに傾いて行ったのであるか。その説法の真に意味するところのものは何であるか。それを問うことはできないか。それはいつまでも知ることを得ない仏陀の心中の秘密であろうか。

主観と客観  この釈尊の心中の機微の一端をうかがうべき手がかりは、最初にあげた経典資料の中にある。すなわち、樹下に独坐静観して、「尊敬するところのものなく、恭敬(くぎょう)するところのものなき生活は苦しい」と述懐せられたことばのなかに、その手がかりは存しているのである。

そもそも、思想なるものは、客観の中に投射せられて、はじめて一つの思想として確立するのであって、それがなお主観の中にのみとどまっている間は、いまだ完全なる思想ではない。信仰告白がなされたとき、信仰ははじめて確立すると説かれるゆえんもそれである。したがって、思想はつねに表現を伴わねばならぬのであって、表現のない思想というものは考えられない。主観の中にあるものは流動的であり、それが表現され、客観化されたとき、それは固定する。そして表現を得て、固定されたとき、思想ははじめて思想として確立する。人間存在の構造が、必然的に、かかるあり方を決定するのである。

さて釈尊は、自己の苦悩の解決をもとめて出家し、修行いくとせの後、ついに最高の智慧に到達した。だが、その自内証の智慧は、客観の中に投射せられて、一つの固定したる思想とならねばならなかった。それが、いまだ主観の中にとどまってあるかぎり、それは安定することを得ない。つねに流動し、つねに不安である。「尊敬するところのものなく、恭敬(くぎょう)するところのものなき生活は苦しい」と独坐静観の中にもらした釈尊の述懐は、その間の消息を語っているのである。

流動する主観は、不安である。依るべきもののないことは苦しい。だが、何ものに依るべき処を求むべきかということは、釈尊の場合には、はなはだむずかしい問題であった。すでに何びとかによって確立せられた思想の体系において、わが内証の表現を見いだしうるものであったならば、その人を尊び敬い、そこに依処(よりどころ)を見いだして、心安きをうるであろう。だが、無師独悟の釈尊の内証は、何びとともこれに等しきものをもっていなかった。依るべきものは、いかなる沙門にも波羅門にも見いだされなかった。しかるとすれば、「われはむしろ、わが悟りし法をこそ尊び敬い、近づき住して」わが依処とするほかはないのであった。

しかし、人々は果たしてわが悟りし法をよく理解しうるのであろうか。そのことを思ったとき、釈尊はしばし黙止か説法かの十字路にたたずまねばならなかった。そして、彼の決意はむしろ黙止のはたに傾いた。何のために自分は説かねばならぬのであるか。説いたとしても、ただ疲労困憊をまねくのみではなかろうか。むしろ、ひとりこの智慧のよろこびにひたり、ひとりこの道をゆくべきではなかろうか。だがそこには、ひとり内証をにのうて行くことの不安があり、依るべきもののなき苦しさがあった。そこで、さらにつぶさに世間を観察すれば、なおわが悟りし法を理解しうべしと思われる人人もないではなかった。また、この法を説くことはたしかに人々の利益でもあり幸福でもあると思われた。そして、彼はついに説法の決意を選びとった。

真理の王国  釈尊は説法を決意した。説法せざるを得ぬゆえんがあった。そして、ネーランジャラー河のほとりの静観の坐を立った。そのとき、彼は、まず思った。「誰にたいして、まずわたしはこの法を説くべきであろうか。すみやかにこの法を理解しうるものは誰であろうか」彼はまず、かつて、その下に学んだことのあったアーラーラ=カーラーマ(阿羅邏迦羅摩)およびウッダカ=ラーマプッタ(優陀迦羅摩子)を思いうかべた。だが、彼らはともに、すでにこの世にいなかった。

ついで釈尊は、かの五人の修行者のことを思い出した。彼らはかつて、彼の修行中にさまざまの援助を与えてくれた人々であって、いまはバーラーナシーのイシパタナ(仙人住処)なるミガターヤ(鹿野苑)にあるという。では、「われはよろしくまず五比丘のために法を説くべし」とて、彼は、ネーランジャラー河のほとりを出発して、かの鹿野苑に向かった。

その途中で、釈尊はウパカとなのる一人の外道の沙門に会った。彼は釈尊のすがたを見て、「何時の師は誰であるか。いかなる思想に依るものであるか」と問うた。法を説くべき最初の機会が、はからずもおとずれた。釈尊は、答えて言った。「わたしは一切知者であり、一切勝者である。一切を捨離し、渇愛を滅尽して、解脱したのである。この道は、みずから証得したものである。がゆえに、誰をも師というべき者はわたしにはない」だが、その沙門は、「あるいは、然らん」と、皮肉なことばをのこして、頭をふりふりして去っていった。釈尊の最初の説法の機会は、空しくついえ去った。

鹿野苑に到着した釈尊は、そこでもまた抵抗を見いださねばならなかった。五人の修行者たちは、必ずしも快く彼の説法には耳を傾けようとはしなかった。彼らは、釈尊の来るのをはるかに見て、互いに約して、「彼に礼をなすなからん、起(た)ちて迎うることなからん、彼の衣鉢(えはつ)をとるなからん」と言い合わせた。釈尊が彼らのもとに到り彼らとともに坐した時、彼らは釈尊を呼ぶにその名をもってし、また同輩をよぶ呼称をもってした、と経典はしるしている。彼らのかかる態度の理由は、さきに釈尊が苦行をすてたことをもって、努力をすて快楽に堕したものと解したからであり、かの「精勤(しょうごん)を捨て、奢侈(しゃし)に堕し」た沙門が、大いなる悟りを獲得しえようとは思えなかったからであった。

「比丘たちよ、善く聴け、われはすでに不死を証得せり。われ救うべし。法を説くべし」

かように、釈尊は彼らに語りかけたが、彼らは聞こうとはしなかった。三たび重ねて呼びかけたが、彼らは三たび聴くことを拒んだ。そこで釈尊は、あらためて彼らにいった。「比丘たちよ、わたしはこれまで、なんじらに対してこのような言い方をしたことがあったであろうか」そういわれてみると、今日のこの沙門は、かの時の沙門とはちがっていると、彼らも思わずにはいられなかった。そして、では、そのいうところを聴いてみようとの心が、やっと彼らにきざしてきた。

かくして、釈尊がこの五人の修行者を前にして説きいでたものは、中道の宣言であり、四つの真理であり、八つの実践の項目であった。ふるき経典は、そのとき諸天は声を発して、この初転法輪(最初の説法)を讃嘆し、大千世界ははために動きふるい、無量の光明は世間に充満したと記している。その荘厳の描写は古典的であるが、その意味するところは何であったかを、わたしどもはふかく潜り入って理解しなければならぬ。

法を説くということは、容易ならざることであった。内証が表現を獲得するということは、軽々しいことではなかった。そのことをわたしどもは、いかに重視してもなお足りぬのである。仏教の内容たるべかりし釈尊の内証が、真に仏教そのものとなったのは、この初転法輪によってであった。法輪はじめて大いに転ぜられしとき、その時より仏教は、真に仏教としてこの客観的世界に存在しはじめたのである。欧州の仏教学者は、この「初転法輪」の語を訳するにあたって、「真理の王国の建設」“the Foundation of the Kingdom of Rigtheosness”ということばを用いているが、まさしく、われらの正法の王国は、それによって成ったのである。それは、ふるき経のしるすごとく、大千世界を震い動かすに足り、無量の光明が世界に充満したと形容するに足る事件であったということができるのである。(74~87頁)

第七章 鹿のすむ園にて――最初の説法

中道の立場 イシパタナ(仙人住処)のミガダーヤ(鹿野苑)――そこはかつて神仙の住処(すみか)であったと伝えられ、また、ある王はそこに遊猟して群鹿を得たが、彼らを放ってここに棲息せしめたという。そのゆえをもって仙人住処なる鹿野苑という。

この林園において、ようやく耳をかたむけ聴かんとする5人の修行者を前にして、いまや仏陀の自覚を成就した釈尊の口から、静かに語りいでられた「最初の説法」の内容は、みごとにととのえられた一つの実践哲学の体系であった。

その根本的立場は何であったか。「比丘たちよ、世に二つの辺(極端)があるが、出家の者はそれらに親近すべきではない。その二つとは何であるか」そして釈尊は、一つの極端として快楽主義をあげ、他の極端として禁欲主義を指し、そのおのおのを批判して、それらは無義相応である。道理にふそうものにあらず、聖賢の道にあらずとしてしりぞけ、「比丘たちよ、如来はこれら二辺を捨てて中道を現等覚せり」と宣言する。これが最初の説法の冒頭におかれる「中道の宣言」であった。

では、この中道とは何であるか。それを、人々の生活実践のうえに当てて言わば、いかに考え、いかに語り、いかに行為することが中道にかなうものであろうか。

「比丘たちよ。では何をか中道となすか。それは、すなわち八つの正道である。いわく、正見(しょうけん)・正思(しょうし)・正語(しょうご)・正業(しょうごう)・正命(しょうみょう)、ならびに正精進(しょうしょうじん)・正念(しょうねん)・正定(しょうじょう)である。比丘たちよ、これらが如来の悟得せるところの中道であって、これは眼を開き、智を発し、寂静を得しめ、涅槃におもむかしめるであろう」

これが「最初の説法」における第二段の教示であった。中とは屈曲の道、極端の道に執せざることである。快楽の極端にはしらず、禁欲の極端にも執せず、人間中正の道をゆくことにほかならない。正しく観察し、ただしく思惟し、正しく物言い、正しく行為し、ただしき人間生活をいとなみ、かつ、それをよく成就するために、正しき努力をいとなみ、正しき心の向けかたをなし、また正しき心のおきかたをなす。それによって、眼は正しく開かれ、正しき智慧は成り、寂静涅槃の境地におもむくことを得るであろうとするのである。はたして然るであろうか。何故に、かかることがなるのであろうか。その説得として、この「最初の説法」の第三段において釈尊の述ぶるところが、いかなる「四諦説法」と称せられるものであった。

すなわち、ひるがえっていま、この人間生活のあるがままを観察するに、それは満足すべきものであるかどうか。幸福に満ちあふれたものであるかどうか。それに対して釈尊の答えは、明らかに否定的であった。

「比丘たちよ、苦の聖諦(しょうたい)とはかくのごときである。いわく、生は苦である。老は苦である。病は苦である。死は苦である。怨(うら)み憎む者に会うは苦である。愛する者に別れるは苦である。求めて得ること能(あた)わざるは苦である。略説すればこの五蘊(ごうん)(身心)はすべて苦である」

すでに言ったように、釈尊もかつては、自分はこの上もなく幸福である、わが人生は満ち足りてあると思ったことがあった。だが、それは、気がついて見ると、浅はかな考え方であった。とんでもないうかつであった。その認得こそが、彼を駆って出家せる沙門の道におもむかしめたのであったが、いま、ようやくその立場を中道において確立しうるにいたっても、その認得はいよいよ明確にこそなれ、すこしもゆらぐ理由はなかった。むろん、この人間生活の中にも、楽しいこともあれば、うれしいこともある。そのことにも釈尊は、眼をおおうわけではない。なんとなれば、すべてを直視する、諦観(たいかん)することこそが彼のゆき方であったからである。もしも、人生の楽しみのみを観て、苦しみに眼をおおうならば、それは彼が断乎としてしりぞけんとする一つの極端、快楽主義につくことにほかならぬ。またもし、その反対に、苦しみのみを観て、楽しみに眼をおおうならば、それもまた、他の一つの極端に堕することにほかならぬ。かかる観察が釈尊のそれであろうはずはないのである。人生には苦もあり、楽もある。喜びもあり、悲しみもある。だが、さらに眼を遠くにはせて観察すれば、やがて苦によって引きつがれる楽とは何か。喜びがやがて悲しみによって取って代わられるならば、それは果たして真の喜びであろうか。そこに、苦楽の中道に立ちながらも、総じて人生は苦である、おもうにまかせぬものがあるとする結論が生まれて来なければならぬ理由が存するのである。

それとともに、釈尊はまた、この人生観察の結論「一切皆苦」も前に心くじけて、厭世の因虜(とりこ)となりおわった人ではなかった。中道の立場は、そのこともまた許さない。むしろ彼は、毅然として、この人生苦の解決の道をたずねた。すなわち、その原因をたずね得て、これを第二諦において宣明し、さらにその対治(たいち)の処方をもとめて、これを第三諦において説き、またその対治の実践の体系をたてて、これを第四諦に述べているのである。

四つの真相 「これあるに縁(よ)りてこれあり。これ生ずるに縁りてこれ生ず」と、かつて釈尊は、その弟子たちに縁生(えんしょう)の法を説いたことがあった。いま、人生を観察して、それはすべて苦に帰するとの結論を得たのであるが、人生がいまかかるものとしてあるについては、当然、その縁て生ずる理由があるに相違ない。「何があるによりて、かかる人生があるのであろうか」釈尊がかように尋ね入って得たるものは、渇愛(tanha 欲望のいとなみ)であった。

「比丘たちよ、苦の集(samudaya 生起の因)に関する聖諦はこれである。いわく、後有(ごう)をもたらし、喜貧倶(きとんとも)におこり、随処に歓喜する渇愛である。それに欲愛と有愛(うあい)と無有愛とがある」

では、渇愛とは何であろうか。

仏教において語られる愛ということばは、必ずしも常に美しい印象をまとえるものではない。それは、もっと厳粛に「一切」をあらしめる根源的な力を指している。ある時、釈尊は、このように説いたこともあった。

「比丘たちよ、わたしはいまなんじらのために〈一切〉なるものを説こう。よく聞くがよい。比丘たちよ、何をか〈一切〉というのであろうか。眼と色、耳と声、鼻と香、舌と味、身体と感触、心と法、比丘たちよ、これを〈一切〉というのである」

そして、それ以外の「一切」なるものはただ言説(ことば)のみであって、われらの世界にあらざるものである、と語っている。それは、哲学者たちが好んでいう言い方によれば、認識する主観と対象となる客観とが相交渉することによって、一切の認識は成立するということであり、また、この世界はわれらがそれに関与することによって、はじめて「われらの世界」die Welf-fur-uns となるのだということに他ならない。では、その認識する主観と対象となる客観とを相交渉せしめるものは何であるか。また、このわれらを駆ってこの世界に関与せしめるものは何であろうか。それが仏教でいうところの愛である。

したがって、仏教でいうところの愛というのは、今日わたくしどもが美しく言いあらわしている愛とはよほど異なって、もっと根源的な生への意志――ショーペンハウエルのかの「盲目なる生への意志」blinder Wille zum Leven を連想せよ。――とも言うべきものを指すことばである。そこに何があってかくなるかは、誰も、明白に語ることはできない。ただ、わが衷(うち)の知られざる深みからこみ上げてくるものがある。私を衝(つ)きうごかして力がある。その現れたものが、わたしども人間のさまざまの欲望であって、それに欲愛(自己延長の欲求として性欲を代表とする欲望)と友愛(自己保存の欲求として食欲を代表とする欲望)と無友愛(名誉権勢の欲求にあらわれる欲望)とがあると、釈尊は分析を試みている。

かかる愛、もしくは欲望そのものは、本来は無記である。善とも悪ともいまだ言いさだめがたきもの、すなわち、善悪以前のものである。そのことを、かつて釈尊は、――「諸欲の中に過失なし」というのも「一つの極端」であり、また「禁欲こそよき生活なり」というのも「一つの極端」である。――と語ったこともあった。だが、この愛のいとなみをさらに検討しいたると、「渇愛の満たしがたきこと、海の流れを呑むがごとく」であって、それを放逸にまかせれば、とどまる処(ところ)をしらぬ。過患(わざわい)はそこに生まれる。苦なる人生はそれに縁(よ)りて生ずる。

かく知ることを得れば、「一切皆苦」の人生にたいする対話の処方は、縁生縁滅の法則によって、おのずからにしてうまれる。すなわち、「これなきに縁(よ)りてこれなし。これ滅するに縁りてこれ滅す」この公式に当てて、「何がなかったならば、かかる人生はないのであろうか」と問えば、そこに、第三の聖語が生まれてくるのである。いわく、

「比丘たちよ、苦の滅に関する聖諦はこれである。いわく、この渇愛をあますところなく離れ滅すれば、解脱して執着(しゅうじゃく)なきにいたる」

そしてさらに、そのことは、如何にして生活実践の中に実現せられるべきかとなれば、そこに第四の聖諦、苦の滅にいたる道(実践)に関する聖諦が、さきに述べた八つの正道をその内容としえ語られるのであった。

「比丘たちよ、苦の滅にいたる道に関する聖諦はこれである。八つの正道がそれである。いわく、正見・正思・正語・正業・正命ならびに正精進・正念・正定である」

斉々たる体系 かの「最初の説法」が、かくのごとく斉々(せいせい)としてととのった体系をもって述べられていることについて、学者のなかにはこれを疑問とするものも存する。それはやがてととのえられたであろう体系を、「最初の説法」の内容として語り伝えられたものではないかとするのである。最初の説法の時すでに、かくも斉々たる体系がととのっていたものとは考えられぬとするのである。それも、一応もっともな疑問であると思われる。

だが、さらに考えてみると、この「最初の説法」こそ、かかる組織ある体系を展開すべき好機であったとすることは、より理由のあることであったと思われる。なんとなれば、第一には、この「最初の説法」の対象であった五人の修行者は、かかる組織ある体系をもって語りかけるに、もっともふさわしい人々であった。経典の伝えるところによると、彼らは釈尊にとって旧友であり、また同行(どうぎょう)の修行者であった。かつて釈尊が、マガダ(摩掲陀)の地方にあって、

苦修練行いくとせの修行をかさねていたころには、彼らもまた釈尊とともに、その苦酸をおなじくした。そして、釈尊が期するところあってその苦行を捨てた時には、彼らは釈尊を蔑視して、「奢侈(しゃし)に退堕せるもの」とさげすんだ。それらのことは、彼らの機根がすでに相当のたかさにあって、かかる斉々(せいせい)の体系を理解しうるに足るものであったことを思わせる。

さればこそ、釈尊が、説法の決意ようやくなって、さて何びとにこの法をまず説くべきかと思いめぐらした時、彼が最初に思いうかべたのは、かつて彼が師事した二人の学者であった。だが、その二人がすでにこの世にあらぬことを知ったとき、ついで思い浮かべたのが、この五人の修行者たちのことであった。そのことは、彼らが、釈尊の知るかぎりにおいて、この法を理解するに足る最上の対機であったことを意味するものでなくてはならなかった。とすれば、今このミガダーヤ(鹿野苑)において、この五人の修行者にむかってなされた「最初の説法」が、練りに練った「本真の説法」であったと推測することは、けっして不当なことではあるまい。

イエス=キリストはその弟子たちに教えて、「いかに、なにを言わんと思い煩(わずら)うな。言うべき事は、その時さずけられるであろう。なんとなれば、これを言うものはなんじらにあらず、その中にありて言いたもうなんじらの父の霊であるからである」と言ったことがあった。だが、釈尊の教えは、そのような霊感のままに物言うことを最上とするものではなかった。釈尊がその弟子たちに説いた説法の理想は「義理と文句とを具足せる法を説く」ということであった。論理がみごとにつらぬいており、表現がうるわしく具備していなければならないということであった。わたしの理性がなんじの理性にむかって、静かに、かつ整然として語りかける。それが釈尊の道にかなえる説法の理想であったのである。しかるとすれば、いま、この五人のすぐれたる対機を前にして、はじめて人類の世界にくり拡げられる正法(しょうぼう)の表現が、まったき論理と表現とを具足せるこの素晴らしい体系であったとすることは、まことに当然のことではないか。

しかも、この体系において、中道・四諦・八正道と、中道の立場をまず開口一番の冒頭に宣明していることは、またこの五人の修行者に対する説法としては、まことにふさわしい構成であることをも思わなければならない。なんとなれば、すでに答えるごとく、彼らは釈尊が苦行をすてたことをもって「奢侈(しゃし)に退堕せるもの」と解釈し、かつ軽蔑しているのであった。彼らに対して、いまこの正法の道を理解せしめんがためには、どうしてもまず、このことから解いてゆかなければならない。そのことを解いてゆくためには、苦行をすてたことは一つの極端を去って中道の立場をとったことを意味すると納得せしめねばならぬ。「世には二つの極端があり、それらは道理にかなわぬ道である。わたしはそれらの二つの極端をすてて中道をとった」その冒頭のことばは、釈尊にとって自己の道の根本的立場の宣明であるとともに、この五人の修行者に対する自己弁明でもあった。

ともあれ、ここに、仏教の基本構造は語り明かされた。五人の修行者はその所説と熱心に取り組んで、それを理解しようとした。ふるき経典によると、「三人の比丘乞食(こつじき)にゆき、その得たる所によりて六人住せり」とも記されておる。その披瀝した体系を中心として、釈尊はつぶさに教導したであろう。彼らは必死にそれを理解しようと努めたであろう。その間にも、人間であるかぎりは食べなければならぬ。三人が行乞して職を得てくると、六人がそれによって飢えをみたして精進する。そのような熱心な討議研究が重ねられて、五人の心境が、しだいに熱してくる。そして、ついにまず、五人のうちの一人、コンダンニャ(憍陳如)が悟ることを得た。「コンダンニャは悟った。コンダンニャは悟った」と釈尊は歓喜した。そのアンナータ=コンダンニャ(阿若憍陳如=悟れる憍陳如)と彼は呼ばれることとなった。それから、他の二人のもの、そしてやがては残る二人のものも、ついにその眼から塵垢(じんく)をはらい去って、正法を観ることを得た。「その時、この世間に阿羅漢は六人となれり」とふるき経典は記している。

次第説法 第七人目の阿羅漢――それは、大乗仏教でいうところのそれとは異なって、応供(おうぐ)すなわち尊敬すべき聖者を意味する。――となったのは、バーラーナシーの都の長者の子なるヤサ(耶舎)というものであった。彼が、釈尊に会い、法を聴いて、阿羅漢となった以前の生活は(類型的な表現をこのむふるき経典によれば)釈尊の出家以前のそれに似たるものであった。すなわち、彼にも三つの別殿があって、四月の間にわたり、女人にとりまかれて、五欲豊満の生活をいとなんでいるうちに、彼もまたその生活の必ずしも満足すべきものにあらざることを思うにいたった。ある夜ふと、夜半に眼をさました彼は、おのれの侍女たちがいぎたなく眠っているさまを見た。そこの彼は、死せる人々の丘塚(きゅうちょう)を幻想した。そして、彼のこの世間的生活に対する厭離(おんり)の心は決定的となった。

黄金の履物(はきもの)をつけ、家を出た彼は、さまよい歩いて釈尊のいます鹿野苑にたどり到った。夜はほのぼのとあけ初めていた。早朝に起き出でて林間を歩いていた釈尊が、彼のすがたを見つけ、彼のつぶやきを聞いた。「ああ、災いなるかな。ああ禍(わざわい)なるかな」その時、釈尊は彼に呼びかけて言った。「若者よ、ここには災いはない。若者よ、来たってここに坐るがよい。わたしがなんじのために教法(いしえ)を説こう」ここには災いがないということばが、ふとヤサの関心をつよくつかんだ。心やさしい彼は、素直に釈尊のいます処にいたって、黄金の履物をぬぎ、釈尊を拝して坐した。その時、彼の説いた釈尊の説法の内容を、ふるき経典は記して、

「かれ一面に坐せる時、世尊はために次第して説きたまえり。いわく、施論・戒論・生天論・諸欲のわざわい、出離の功徳を説きたまえり。而(しこう)して、族姓の子ヤサに堪忍の心、柔軟(にゅうなん)の心、離障のこころ、歓喜(かんぎ)の心、明浄の心の生じたるを知りたまいて、世尊は諸仏の本真の説法を説きたまえり。いわく、苦・集(じゅう)・滅・道なり」

と語っている。

この経典のことばのいうがごとくに、そこで語り出でられた釈尊の説法は、いわゆる次第説法であった。多くの人々にとっては、中道・四諦・八正道の体系を、ただちに理解することははなはだ難い。その体系が受け容(い)れられるためには、まずその機がととのえられねばならぬ。機とは人間のあり方であり、特にその心のあり方である。縁にしたがって触発せられる可能性である。教法がその前に転じ説かれたならば、それをすっと受け入れることのできるような心のあり方が、まず準備せられねばならぬ。機をととのえるとは、そのような準備がなされることに外ならぬ。さきに述べた五人の修行者は、すでに出家して、練行いくとせを経た人々であったがゆえに、その機はすでにととのっていた。されば、釈尊は、ただちに彼らのまえに「本真の説法」を転じた。

だが、いま釈尊のまえに坐せる長者の子はそうではなかった。そこで釈尊は、彼の前には本質の説法を転ずる前に、まず彼の準備が行われた。そして、彼の心がようやく熟して来たと知ったとき、はじめて釈尊は、彼のために四諦の説法を転じたのである。その準備のなれる心を、経典のことばは「堪忍の心、柔軟の心、離障の心、歓喜の心、明浄の心と記している。

その叙述を、わたしどもは、心して味わわねばならぬであろう。堪忍(もしくは勘任)の心とは、よく苦難にたえうる心である。柔軟の心とは、よこしまの見解や、欲貧や瞋恚(しんに)のために偏執することなき心である。脆弱なる心機の持ち主は、とうてい釈尊の道をゆくことできない。それとともに、主義や貪瞋(とんじん)にこわばった心には、正法の教法(おしえ)は流れ入ることはできない。そこにわたしどもは、仏法の理解と実践とにふさわしい機が、いかなる人間のあり方であるかを思わなければならない。

「眼のあるものは見よ」 さてそのように次第説法して、ヤサの心機がようやく熟して来たことを知ったとき、釈尊ははじめて自己の教えの体系を、彼のために説き明かした。それは四諦すなわち苦・集・滅・道の四つの真理であった。すると、すでにととのえられたヤサの心機は、「たとえば、清浄にして黒点なき白布が、正しく染色を受くるがごとく」その座において、釈尊の教え説かせたもうところを受容して「遠塵離垢(おんじんりく)の法眼を得た」と、ふるき経典は記している。

そのころ、ヤサの父は、ヤサの家を出たことを知って、四方に人を派して探(たず)ねしめ、みずからもまた彼を求めて、はからずもミガダーヤの園にいたった。そこで彼は、釈尊に会い、彼もまた釈尊の次第して説くところに服した。すなわち、彼もまた、正しき法を見る眼を与えられ、「この師の教えを措(お)きて、また他に依(よ)るところ無し」と思い定めて、釈尊に乞うて、その在家の信者となった。その時のことばを、ふるい経典は、

「妙(たえ)なるかな、世尊、妙なる哉(かな)、世尊、たとえば、倒れたるを起こすがごとく、おおわれたるを現わすがごとく、迷える者に道を教うるがごとく、闇黒(あんこく)の中に燈火をかかげて、眼ある者は見よと言うがごとく、かくのごとく世尊は、さまざまの方便をもって、法を顕示したもうた。わたしはここに、世尊と法と比丘衆(びくしゅ)とに帰依したてまつる。世尊よ、願わくば、わたしを在家の信者として容(ゆる)したまえ。今日よりはじめて命終わるまで帰依したてまつるであろう」

と記している。このことばの前半は、釈尊の説法によって眼を開くことを得た人々が、釈尊の説法に対する感慨をのべることばの、一つの典型的なものであって、経典のいたるところにくりかえされているが、同時にそれは、釈尊の説法の性格をもっともよく言いあらわしていることばである。

福音書の記者のしるすところによれば、イエス=キリストの説法の仕方は「学者らのごとくならず、権威ある者のごとく教えたもうた」ので、人々はみな驚きあやしんだという。それに対して、釈尊の説法は、どこまでも理路をただし、次第をふみ、むしろ学者のごとく教え給うた。なかんずく「闇黒の中に燈火をかかげて、眼ある者は見よというがごとく」語られたという一句は、釈尊の説法の性格をよく言いあらわしたものと思われる。

ともあれ、かくしてサヤの父は、釈尊の在俗の信者の最初の人となった。そのことを経典は「彼は世間に初めて三帰依を唱えたる優婆塞(うばそく)なりき」と記している。そして、ヤサもまた、出家して釈尊の弟子となることを許された。そのことは、バーラーナシーの町の人々に大きな影響をもたらした。「長者の子ヤサは、鬚髪(しゅはつ)を剃り、袈裟衣(けさえ)をつけ、家を捨てて出家した。それはきっと優れた教法にちがいあるまい」そのように聞き、そのように考えた良家の若者たちが、はじめは四人、のちには五十人、ミガダーヤの園に釈尊を訪れ、その教えを聞いて、相ついで出家して沙門となった。かくて「その時、この世間に阿羅漢は六十一人となった」と経典はしるしている。

だが、ミガダーヤにおける釈尊の教化の活動はやがて終わり、彼はまた、新興の国の都ラージャガハ(王舎城)を指さして、伝道教化のさすらいの旅にのぼるのである。(88~100頁)

第八章 世の幸福のために――伝道の宣言

三帰依三唱

われは仏陀に帰依したてまつる

われは正法に帰依したてまつる

われは聖衆(しょうじゅ)に帰依したてまつる

二千五百余年のいにしえから、遠く今日にいたるまで、幾百億とも知れぬ仏教者によって、絶えず口誦せられて来たであろう三帰依が、仏教者であるしるしとして、また信仰告白として、受戒の作法として釈尊によって定められたのは、最初の説法からさほど遠からぬころのことであった。

そのころ釈尊はなお、バーラーナシーのミガダーヤ(鹿野苑)にとどまっていた。釈尊の教えにしたがい、出家を希望する者はだんだんふえてきた。出家をのぞむ者があると、弟子の比丘たちが、彼をつれて釈尊のもとにいたり、釈尊から直接に許しを受けた。この仕方は、考えてみると、不便なことでもあり、また道理にかなったことでもないと、釈尊には思われた。

「いま比丘たちは、諸方から出家の希望の者をともない来たって、わたしに請うて、出家の許しをうけ、出家の戒をうけているが、そのために、比丘たちも、出家の希望の者も、無駄のつかれをしなければならない。わたしは、当然、比丘たちがみずから、人々に出家をゆるし戒を授けることを許可すべきである」

かく考えた釈尊は、やがて比丘たちを集めて、彼らにそのことを語った。出家の許可を与える資格が、彼らにもあたえられた。そのことは、仏教の僧伽(さんが)というものが、いかなる人々の集まりであるか、いかなる機構の集団であるかを、はっきりと物語っている。さきに、釈尊の教えによって、五人の比丘たちが悟りの眼を開くことを得たとき、経典のことばは、「その時この世に六人の阿羅漢があることとなった」と記されてある。そして、その六人の一人は釈尊その人であった。また、ヤサ(耶舎)とその友だちが、相ついで釈尊の教えを得、法を見る眼を開いたときには、そこでもまた、「そのときにこの世に六十一人の阿羅漢があることとなった」と記されていた。そして、釈尊もまた、そのことは、仏教僧伽とよばれるこの集団においては、誰もただ一人、統率者としてこの集団に君臨するするものはないことを意味している。釈尊といえども「天なる父によりてこの世につかわされし者」として、特別の地位を人々にたいして主張するがごとき存在ではなかった。特別といえば、この人々の中にあって、彼こそ最初に法にたいする眼を開いた人ではあったが、彼の教えによって、人々もまた法にたいする眼を開くことを得たうえは、彼もまた「正しく眼ざめたる者」の中の一人であった。しかるとすれば、彼とおなじく、彼らもまた、人々に教え、人々をみちびいてこの道に入らしめることをうる資格をもっているはずであった。

「比丘たちよ、わたしは今、静かにひとり坐しているとき、心に思った。なんじらは諸方から出家を希望する者をつれ来たって、わたしに戒を授けさせる。そのために、なんじらも疲れ、出家の希望者もつかれる。わたしはむしろ、なんじらに戒を授けることを許し、なんじらを諸方につかわしたい。

比丘たちよ、出家せしめ、戒を授けるには、かようにするがよい。はじめにひげや髪をそり、袈裟衣(けさえ)をつけ、上衣(うわぎ)を一方の肩にかけ、なんじらの足を礼し、うずくまって合掌し、かように唱えしめるがよい。――われは仏陀に帰依したてまつる。われは正法に帰依したてまつる。われは聖衆に帰依したてまつる。――と、二たび、三たび、かように唱えしめるがよい。比丘たちよ、わたしはこの三帰依によって、出家せしめ、受戒せしめることを許したい」

このことは、やがて、釈尊によって蒙(もう)を啓(ひら)かれた人々が、こぞって、正法宣布の道におもむく義務を負うものであることを意味していた。すべての人々がこの正法を知るものとなることは、すべての人々の幸福であり、利益であらねばならぬ。しかるとすれば、この正法は釈尊一人の私すべきものでもなく、また、この人々のみの間にとどめておくべきものでもない。一人でも多くの者がこの法を知り、一人でも多くの者が正しく幸福なる道に入ることがのぞましい。かくていま六十一人の聖者たちは、こぞって正法宣布の任務をになうものとなって、人々の間に送り出されようとするのである。その門出(かどで)にあたって、釈尊が彼らにはなむけにしたことばは次のごとくであった。

伝道の宣言

「比丘たちよ、わたしは人間の一切のきずなを脱し、なんじらもまた人間の一切のきずなを脱した。比丘たちよ、いまや、多くの人々の利益(りやく)と幸福のために、世間をあわれみ、その利益と幸福のために、諸国をめぐりあるくがよい。一つの道を二人してゆかぬがよい。

比丘たちよ、初めも善く、中ごろも善く、終わりも善く、義(ただ)しき道理と表現とを兼ねそなえた法を説くがよい。すべてにゆき渡れる、浄(きよ)らかな修行を教えるがよい。汚れのすくない生をうけていても、正しき法を聞かざるがゆえに滅びゆく人々もある。彼らは、法を聞かば信じ受けるであろう。

比丘たちよ、わたしもまた、法を宣(の)べ伝えんがために、これよりウルヴェーラーのセナーニ(将軍村)に行こう」

ここにわたしどもは、釈尊による伝道の宣言を見ることができる。その宣言は、これを分析すれば、次のごときもろもろの要素のふくまれていることが知られる。

その最初には、釈尊およびその弟子たちの自覚の宣言が語られてある。聖者(しょうじゃ)の道を説くものは聖者でなくてはならぬ。人間自覚の道を語るものは自覚者であらねばならぬ。釈尊はかつて、いまだ聖者にはあらぬ者が、聖者のごとくふるまうことほど賤(いや)しいことはないと語ったこともあった。五人の比丘にたいして最初の説法を試みたときにも、彼が最初に語ったことは、かかる覚者(かくしゃ)としての自覚であった。そしていまや、この人間自覚の道をひっさげて、ひろく人々の間に宣べ伝えんとするにあたっても、われら(釈尊ならびに弟子たち)はすべてすでにふさわしきものである、阿羅漢(arahati=deserving 応供)であることを宣明することが必要であったのである。

ついで、この伝道の目的が語られてある。伝道はいうまでもなく、自己の自覚の内容をひっさげて、ひろく人々の間に宣べ伝えんとすることであるが、そのことは、同時にまた人々を利益し、人々に幸福をもたらすであろうことについて、確信を持っていなければならぬ。盲目なる手引きであってはならぬ。「盲人が盲人を手引きして、ともに堕獄に陥る」がごときことをしてはならぬ。しからざらんがためには、自己について言えば、その自覚が明らかに意識されていなければならぬとともに、対機(たいき)について言えば、あくまでも彼らの利益と幸福とがその目的として意識されていなければならぬ。「世間をあわれむがゆえに、彼らの幸福と利益とを念ずるがゆえに、わたしどもは人々の間にこの自覚の道をもたらさんとするのである」そのことを釈尊はついで語っている。そして、「一つの道を二人してゆかぬがよい」と語り加える。そのことばは、わたしどもにとって、はなはだ感銘のふかいものであった。

わたしどもはイエス=キリストが、その十二人の弟子をはじめて福音伝道に送り出すとき、彼らにあたえたことばを知っている。そこでは、「二人づつ遣わされ」「人々に心すべき」ことが、ことばをきわめて語られてある。「視(み)よ、我なんじらを遣わすは、羊を豺狼(さいろう)の中に入るるがごとし」とも語られ、「このゆえに、蛇のごとく慧(さと)くあれ」とも教えられてある。それらのことばに比すとき、わたしどもは、釈尊の伝道の宣言が、いかに平和と良識とに充(み)いたか、いかに人々にたいする純粋の愛情にあふれていたかについて、ふかい感銘をもたざるを得ないのであるが、かかる平和と良識と愛情とは、さらにこの「一つの道を二人して行かぬがよい」という一句の中に結晶しているのである。

さらにわたしは、「世間われとあらそう。されどわれは世間とあらそわず」といった釈尊のことばを思い出す。釈尊の理解するところによれば、この世界の存在の仕方は、対立性のものではなくして、むしろ、相依(そうえ)性のものであった。相依性こそが縁起(えんぎ)の本質であった。とするならば、怨恨・恐怖・瞋恚(しんに)をもって、世間の人々と相対すべきではあるまい。「われ世間とあらそわず」というは、かかる世界観に由来する人生の態度であり、徹底する平和主義であった。そして、かかる人生の態度に徹せるがゆえに、仏者にとっては、「人々に心する」用もなく、「蛇のごとく慧(さと)く」ある用もなかった。とすれば、豺狼(さいろう)の中におもむく者は二人して行かねばならぬであろうが、仏者は「仏者は「一つの道を二人して行かぬがよい」と教えられねばならぬ。なんとなれば、恐怖をもって警戒すべき何者もなく、ただ念ずるところは、一人でも多くのものが、法を聞き、法に眼を開かんことであったからである。

説法の理想  さらに、この伝道の宣言は、釈尊のいだける説法の理想を簡明に言いあらわしている。「比丘たちよ、初めも善く、中ごろも善く、終わりも善く、義(ただ)しき道理と表現を兼ねそなえた法を説くがよい」かく言いあらわされた説法の理想は、ギリシャ人の雄弁の型と平行するものであり、イエス=キリストの説教の態度と相対するものであった。

ギリシャ人は、こよなく雄弁を愛したことがよく知られておる。また、その雄弁は、合理的精神と芸術的精神との所産であった語られている。さらにまた、その聴衆はすぐれた素質ある人々であったがゆえに、弁者は充分の敬意を彼らにたいしてはらわねばならなかったのであって、そのことは特に、アテナイの雄弁家たちの演説が、その結語を興奮なき静けさもて述べられたことにおいて示されているという。聴く者にたいして権威ある者のごとくふるまうものは、単にその結論を力強きことばをもって押しつけるであろう。また、聴衆の感情に訴えをなさんとする者は、高まりゆく興奮の中においてその結論を述べんとするであろう。しかるに、その結論を興奮なき静けさの中において述べたアテナイの雄弁は、弁者が聴く者の理性にたいして敬意を表しつつ、もう一度最後の説得をなすものであった。

そして、かかる説法の理想はイエスのそれとはまったく対照的であったことも、また、興味ふかく思われる。イエスがその弟子たちに教え、彼らに伝道に送り出したとき、彼らはただ「往(ゆき)て宣(の)べつたえ、〈天国は近づけり〉と言え」と、その語るべきことの内容を指示されたのみであった。また、もしも、司たち王たちの前に曳(ひ)かれるようなことがあっても、「如何になにを言わんと思いわずらうな。言うべきことは、その時さずかれるべし、これ言うものはなんじらにあらず、その中にありて言うものはなんじらの父の霊なり」と教えられた。そこには、理性が理性にかたりかけるがごとき説教は、まったく求められてはいない。語るものはただ霊にみたされて「舌語りに」語ればよかったのであり、人々はただその福音をうけ容れるべきか否か、いきなりその選択の前におかれるのであった。したがって、福音書の記者たちも、イエスの説法に接した人々の感想を書きとどめて、「それは学者のごとくならず、権威あるもののごとく説きたもうた」としるし、また人々はその説法におどろき合って、「こは如何なる人ぞ」「こは如何なる言(ことば)ぞ」と語ったという。それは、釈尊が理想としたものとまったく別の世界のものであった。

最後に、この伝道の宣言は、説法の対機についても語っている。「汚れのすくない生を受けていても、正しき法を聞かざるがゆえに滅びゆく人々もある。彼らは、法を聞かば信じ受けるであろう」そのことは説法の対機として、いかなる人々が先(ま)ず撰(えら)ばれるべきであるかを語っているのである。言うまでもなく、釈尊の道はすべての人々にたいして、あまねく開かれた道であって、門地や貧富や賢愚によって差別さるべきものではなかった。だが、これを受ける人々の側において、容易に理解しうる者と、しからざる者との別の損することは致し方のないことであった。

あるとき、釈尊は、そのことを三つの田の譬喩(ひゆ)をもって、このように語ったこともあった。それは、ある部落の長が、「世尊は、すべての人にたいして慈悲の心をもち、すべての人を利益せんとの心であられるのに、ある人々のためには詳しく法を説き、ある人々のためには、さほど詳しく説かれないのは、何故であろうか」と問うたことに答えであった。

「部落の長よ、なんじは、かかる場合にはいかに思うか。ここに一人の農夫があって、彼に三つの田があるとするがよい。その一つの田はすぐれた美田であり、他の一つは中等の田であり、いま一つの田は、悪質の砂地であって、塩分をふくんでいるとする。それらの田にたいして、彼が種子を蒔(ま)かんとするには、まずいずれの田からはじめるであろうか」

かく言われて、部落の長はむろん、「その農夫はまずもっともすぐれた美田に種子を下すであろう」と答えるのほかはなかった。

いま釈尊は、その弟子たちを伝道に派するにあたっても、この法の種子のまず播(ま)かるべき美田は、いかなる人々であるかを、ここに語り教えている。それは「汚れすくなき生を受けた人々」であった。若くして、いまだ世間の汚れになじむこと少なく、教養にも知性にもすぐれた人々。やがて釈尊の教団に相ついで来り投じた人々は、かかる人々であったのである。

ある森の中で  「比丘たちよ、わたしもまた、法を宣(の)べ伝えんがために、これよりウルヴェーラーのセナーニ村に行こう」

この伝道の宣言の最後のことばは、釈尊みずからの、これからの行く先を語っていた。ウルヴェーラーは、いうまでもなく、かつて彼が金剛不壊(こんごうふえ)の座をかためて、大覚を成就したところである。そのあたりは、かのネーランジャラー河のながれ清く、菩提樹の木蔭には涼やかな風がうごき、さらにまた、マガダの国の山にかこまれしラージャガハ(王舎城)にもほど遠くない。彼はさきに、そこから、五人の比丘をたずねて、このバーラーナシーのミガダーヤ(鹿野苑)にまでやって来たのであったが、いまやまた、その道をあと帰って、新興の国マガダを中心に正法の種子をまこうとするのであった。

ミガダーヤからウルヴェーラーまでは、道程がおよそ百マイルであろう。その途中でのこと、釈尊は、道をはなれた森に立ちより、一本の樹の下に坐して、憩いをとっていた。そこで彼は、はからずしも、三十人の若者たちにあい、彼らを教化して正法にしたがって行ずる者とならしめた。

その日、この若者たちは、相つれだち、おのおの妻を伴って、この森に遊びに来ていたのであった。その中の一人だけは、まだ結婚していなかったので、遊び女(め)をつれて来た。しかるに、彼らがわれを忘れて遊んでいる間に、――経典のことばはそのさまを「放逸に遊びたるに」と記している。――その遊び女が、彼らの大事な持ち物を盗(と)って逃げた。まもなく、それと知った彼らは、おどろいて、かの遊び女を探して、森の中を歩いていたが、ふと、一樹のもとに釈尊が坐している姿を見て、近づいてたずねて言った。

「尊者よ、あなたは、一人の女を見かけなかったであろうか」

「若者よ、なんじらは、女をさがしてなんとしようとするのであるか」

そこで彼らは、いそぎその一部始終を語って、彼らの物をとって逃げた女を探しているのだと言った。そのとき、釈尊が彼らに問うて言ったことばは、まったく彼らの意表に出たものであった。

「なんじらは、いかに考えるであろうか。女をさがすことと、自分自身をさがすことと、いずれが大事であろうか」

彼らはそのとき、まったく虚を突かれた思いをしたにちがいなかった。なんとなれば、彼らはさきにはわれをわすれて遊びに夢中になっていた。そのために、隙をうかがって、かの女が大事な物を盗って逃げた。それと気づいたとき、彼らはまた仰天して、無我夢中の有様で森の中を走りまわって女をさがした。経典の記すところによると、彼らはみな良家の子弟であって、無教養な若者ではなかったはずである。彼らもまた、ふと気づいて省みてみれば、われとわが有り様が恥ずかしかったはずである。そして彼らは、

「それはいうまでもない。自己を探すことがより大事である」

と答えざるを得なかった。そこで釈尊は、「それでは、そこに坐するがよい。わたしはいま、なんじらのために、教法(おしえ)を説くであろう」とて、彼らをそこに坐しめ、例によって、次第を追うて法を説いた。

施(ほどこ)しについて語られ、戒について語られ、生天のことについて語られ、また、人間の欲望のさまざまの災いについても語られた。そして、彼らの心の中に、奮起してよき人生を建立せねばならなぬことが考えられ、汚れた人生をいとい、清らかな人生を喜ぶ心がわいて来たとき、釈尊はさらに、彼の説法の根幹をなすところの四つの聖諦(四諦、したい)を彼らのために説いた。しかるところ、彼らもまた、その心は白き布のごとくであったので、たちまち正しき法の色をうけて、汚れなき法をみる眼を得ることができたという。

三人の迦葉  ウルヴェーラーに到着した釈尊は、そこでカッサパ(迦葉、かしょう)という三人の兄弟の修行者にあい、彼らを教化して、その弟子たち千人とともに彼らを出家せしめた。その兄弟のうち、長兄のウルヴェーラー=カッサパなるものは、そのときすでに事火外道の統率者として、五百人の弟子を有していた。その点において、彼はこれまでの帰依者たちと異なっていた。

釈尊はカッサパを訪れて、その火堂に宿を得んことを乞うた。彼はただちにその乞いを容れたが、「かの堂には青竜がいて、汝を害するかも知れぬ」といった。修行者としての競争意識が彼にあった。この沙門なにするものぞといった傲慢(ごうまん)な邪意が彼にあった。ふるい経典は、この外道の邪意がくじかれてゆく経過を、客観的に「神通(じんずう)くらべ」として描き出している。たとえばその夜、火堂に焔(ほのお)があふれた様子があったので、「かの沙門もついに竜のために殺害されたか」と言っていると、翌朝、釈尊は「これが汝の竜である」と、あるいは、釈尊の神通によって、カッサパたちは火をもやして祭儀をいとなむことができなかったとか。あるいはまた、釈尊は、カッサパのひそかに思念するところを指摘して、彼をおどろかせたとか。思うに、釈尊は、むしろ神通奇跡を否定する人であるがゆえに、好んで「神通くらべ」をしたであろうはずはあるまい。古代の人々は、すぐれたる人格の威力を、ともすれば神通として解釈する。とくにインドの古代人たちは、神通をもって聖者の資格の一つであると信じていた。かかる傾向が、ここに一連の神通物語を生み出しているのであろう。それをわたしどもがそのままに解するならば、かえって正しい事情をうけ取りそこねるであろう。それはむしろ、釈尊の高き人格的威力が、カッサパを圧倒しさったことのほかではあるまい。

だが、かのカッサパは、ふかく釈尊の人格の威力を感じながらも、なおかたくなに、「かの沙門はなおわたしにはおよばぬ」と思っていた。絶望的に自己の優越を妄執していたのである。彼の心は、ヤサや、ヤサの若き友人や、森の若者たちのように素直ではなかった。素直でない心は、信じなければならぬことも信じまいとし、納得しなければならぬ道理をも拒否しつづける。そのようなものにたいしては、衝撃が必要である。喝(かつ)をもってかたくなな心をくじくことが必要である。

「カッサパよ、汝はいまだ聖者にあらず。なんじは聖者の道の何たるかを知らないのである」

釈尊が声をはげまして叱咤(しった)したとき、カッサパンのかたく閉ざされた心はにわかに開かれた。傲然(ごうぜん)としていた彼の態度が、へたへたと崩れた。彼は、釈尊の前にひれふして、その足を頂いて拝し、かつ申して言った。「願わくはわれ、世尊の御許(みもと)において修行することを許したまえ」と。

釈尊にとっては、多くの弟子を有する者を教化したのは、はじめてであった。このような場合には、その弟子たちをどうすればよいか。むろん、かれらもまたその所信にしたがって去就を決すべきである。そこで彼はカッサパに言った。「カッサパよ、なんじは五百人の上首である。彼らに告げて、彼らをその思うところのままになさしめるがよい」そこでサッサパは彼らのところにいたり、その由をちげると、彼らもともに釈尊のもとにおいて修行したいとのべた。かくて釈尊は、ここにさらに五百人の随徒をもつこととなった。

二人の弟のカッサパは、もっと下流の方に住んでいたが、火をまつる祭具が、水にただよいながれて来るのを見た。それは、兄のカッサパたちが、釈尊にしたがうにあたって、水に投じた祭具であった。弟のカッサパたちは、それを見て、「なんぞ兄の上に異常がなければよいが」と、急ぎ兄のもとにいたってみると、彼らはすでに釈尊の随徒となっていた。

「兄よ、なんじはこれを勝(すぐ)れたる道となすか」

「しかり、弟たちよ、これこそ勝れたる道である」

そして彼らもまた、事火の祭具を水に投じて、その弟子たちとともに、乞うて釈尊にしたがう者となった。二人のカッサパの弟子は、合してまた五百人であった。

一挙に、千人の修行者たちが、釈尊の教えによって改宗したことは、世人の耳目をそばだてしめるとともに、仏教僧伽(サンガ)の発展においても一つのエポックを画するものであった。だが、この大量の改宗者たちが一団をなして、いまだその基礎の充分にかたくない仏教僧伽に投じたことは、なんらかの影響をもたらしたに相違ない。その影響はよいものであったかどうか。経典はそのことについては、なんら明らかな言及をなしていない。

(113~114頁)

第九章 すべては燃ゆる――山上の説法

ガヤ山にて  カッサパ(迦葉)兄弟、その弟子、あわせて千人を教化した釈尊は、それらの新しき比丘たちをしたがえて、またウルヴェーラー村からラージャガハ(王舎城)の都へと向かって、遊行の旅をつづける。その出発の前にあたって、釈尊は彼らとともに、ガヤーシーサ(伽耶山)にのぼった。このあたりは釈尊にとって、まことに去りがたい、思い出のかずかずを託する土地であった。この山の東北麓(ろく)には、ガヤー(伽耶)の町があり、その東辺をかの水清きネーランジャラーはゆるやかに流れている。その東南の麓(ふもと)には、かつて六年苦行をいとなんだ処(ところ)、そして今またカッサパらを教化したウルヴェーラーの村々。さらに南方はるかにはわが大覚成就の思い出の地がある。

山上に立った釈尊は、この新しい弟子たちを前にして、ふるき経典が、「燃焼」“aditta”と名づける一場の説法を語り出でた。それはしばしばヨーロッパの仏教学者たちによって、イエスの「山上の垂訓」に比して、釈尊の「山上の説法」と呼ばれている。それは、なによりも、その情景がまことに相似たるものであった。「イエス群衆を見て、山にのぼり、坐し給えば、弟子たち御許(みもと)にきたる。イエス口をひらき、教えたもうた」そして、イエスが説きいでた一場の説法は、かの「幸福なるかな、心の貧しき者。天国はその人のものなり」という一句にはじまる、もっとも感銘ふかいものであった。そして、いま釈尊が、おなじく山上に立って、この新しき弟子たちのために説き出でた教えもまた、まことに感銘すかきものであって、その思想とその表現とは、ながき仏教の歴史の中に、たえず大きな影響をもたらしたものであった。

「比丘たちよ、すべては燃えている。熾燃(しねん)として燃えさかっている。なんじらは先(ま)ずこのことを知らねばならぬ」

それは、これまでの釈尊の説法と、その構造をはなはだ異にしていた。理路整然として、人生のあるがままの観察より出発して、その原因の追求、その処理の原理、そしてその実践の方法――それの典型的な説き方が四諦説法であった――へと説きおよんで行った釈尊の説法は、いまや焔(ほのお)という一つの譬喩(ひゆ)をもって装われ、かつ簡明にされようとしているのである。

「比丘たちよ、すべては燃えているというのは、いかなることであろうか。比丘たちよ、人々の眼は燃え、また眼の対象は燃えている。人々の耳は燃え、また耳の対象は燃えている。人々の鼻は燃え、鼻の対象は燃えている。人々の舌は燃え、舌の対象も燃えている。身体は燃え、また身体の対象も燃えている。さらに、人々の意(こころ)もまた燃えており、その対象もまた燃えているのである。

比丘たちよ、それらは何によって燃えているのであろうか。それは、貪欲(むさぼり)の焔によって燃えており、瞋恚(いかり)の焔によって燃えており、愚痴(おろかさ)の焔によって燃えているのであり、また、生・老・病・死のほのおとなって燃え、愁(うれい)・苦(くるしみ)・悩(なやみ)・悶(もだえ)のほのおとなって燃えているのである」

いま釈尊の前にあって、この新しき師のことばに耳をかたむけている人々は、思えば数日の前までは事火外道(じかげどう)として事火法 aggihutta を修する人々であった。火は一切のものを清浄にするものとして、火を尊び、これを供養して福を求めんとする人々であった。しかるに今や彼らにとって、世界は一変した。この世のすべては、火によりてさいなまれていると、この新しき師は説く。なんじの眼も、鼻も、舌も、耳も、身も意(こころ)も燃えていると語られる。煩悩のほのおがい一切をもやしているのが、すべての人々と世界とのあり方であると指摘せられる。この一変した世界と人生の観方は、彼らにとって、際だってつよい印象をもって迫ってきたに相違あるまい。そこで、釈尊は、さらに語りつづける。

「比丘たちよ、そのように観察する者は、よろしく一切をおいて、厭(いと)いの心を生ぜねばならぬ。眼において厭い、耳において厭い、鼻において厭い、舌において厭い、身において厭い、また意(こころ)において厭わねばならぬ。しかして、一切において厭いの心を生ずれば、すなわち、貪(むさ)ぼりの心を離れることができる。貪ぼりの心を離れることを得れば、すなわち、解脱することを得るのである」

釈尊がそのように説き給うたとき、かの千人の新しき比丘たちは、その心たちまちに執着を離れて、煩悩を解脱することを得た、と経典は説き結んでいる。

煩悩のほのお  経典のことばは、この説法の内容と、そしてこの新しき弟子たちがたちまちに煩悩を解脱しえたことを、まことにさらりと記しとどめている。だが、「一切は燃えているのだ。煩悩のほのおによって、なんじら自身も、またなんじらの世界も、燃えさかっているのだ」という釈尊のこの説き方は、いかに強烈なショックを彼らにあたえたことであろうか。そのことを想像しうるものにのみ、この説法の高き価値は開示せられるであろう。

すでに指摘したように、彼らは釈尊に従うものとなった日まで、火をたっとび、火につかえる人々出会った。それはまだ、ほんのさくじ湯の彼らのすがたであった。ふるき衣はまだ脱ぎすてられたばかりであった。そして、新たに着たる衣は、その色合いをあまりにも異にするものであった。昨日までたっとびつかえた火が、今日は「煩悩のほのお」として語られ、それを消すことが、なんじらの今日からの道であると教えられる。この逆転の中に大いなるショックは生まれ、この大いなるショックは彼らの回心に大いなる拍車を加えたに相違ない。しかし、それのみがこの説法の大いなる力ではなかった。

わたしどもはここで当然、釈尊の教える道の目標たる究極の境地が「涅槃(ねはん)」nibbanaとよばれていることを思いおこさねばならない。いまわたしどもは、この「涅槃」ということばを、釈尊が、その究極の境地を指すことばとして、いつのころから用いはじめたかを知ることはできない。また、この宗教的述語は、釈尊が他から借り来たったものであるか、それとも、みずから新たに造ったものであるかをも、的確に言い切ることはできない。だが、いずれにしても、この「涅槃」なることばは「煩悩のほのお」という譬喩に関連するものであったことは、確信してさしつかえない。すなわち、このことばは「吹き消される」という動詞を語根としてつくられた「火の(吹き)消されたる状態」という意味のものであったことは疑いを容(い)れない。

ある経によると、「では世尊よ、かくのごとくにして心解脱せるものは、一体、いずこにおもむきて生ずるのであるか」とヴァッチャ(婆蹉)なる外道が、釈尊に対して、その教えの道の究極の境地について問うたことがあった。その質問の仕方は、釈尊の教える究極の境地に対して見当はずれのものであった。その外道は、釈尊もまたなんぞ生天(しょうてん)の功徳(くどく)をでも説くものであるかと思ったのである。それに対して釈尊は、「燃える火」「消えたる火」の例をもって、解脱せる者の状態が、「おもむきて生ずる」というがごときものではなくして、むしろ、薪つきて「火の消えたる状態」に比すべきものであると説いた。そこでは、釈尊みずから、文字どうり「火の消えたる状態」をもって、涅槃の境地を語っている。

かくのごとく、彼岸(ひがん)の境地が「涅槃」すなわち「煩悩の火の消えたる状態」をもって示すべきものであったとするならば、それに対して此岸(しがん)の状態が「煩悩の火の燃えさかる状態」として考えられることは、むしろ単なる譬喩以上のものと言わなければならぬ。思うに、煩悩にたいする仏教の洋画はさまざまに存する。それは、われらを縛して甲斐(かい)なき生死をくりかえさしめるがゆえに「縛」――縛するものとも呼ばれる。それはまた、われらの善根を毒するものであるがゆえに「毒」――毒するものとも称せられる。またそれは、われらの智明を蓋(おお)うものであるがゆえに「蓋」――おおうものとも名づけられる。そのほか、さまざまの語法があるが、なかんずくこれを「煩悩の焔」として考える考え方は、何よりも、人々の体験に即して、訴える力をもっている。

この「燃焼」と称される説法は、かかる力をもって、この新しい比丘たちの心をゆり動かしたのであろう。そしてその譬喩は、かかる力をもって、ながき仏教の歴史の中にたえず大きな影響をもたらしたのであろう。中でも、かの『法華経(ほけきょう)』の作者がこの譬喩をかりて、かの「三界家宅(さんがいかたく)の譬(たとえ)」を説いたことがよく知られており、また、かの念仏門の祖師たちが、この譬喩に乗じて「煩悩熾盛(しじょう)の衆生(しじょう)」といったことばは、今日わたしどもにも絶えずくりかえして口にせられ、時におよんでわが心魂をゆりうごかす。

竹林精舎  やがて釈尊は、目ざすラージャガハ(王舎城)にいたって、その郊外のスパティッタ(善住)なる廟(びょう)に足をとどめた。人々はそのことを伝え聞いて、釈尊のうわさはたちまちラージャガハの町々にひろまった。「沙門ゴータマ(Gotama 瞿曇 くどん)の釈迦(サキヤ)族の子、出家していまこの都の郊外にあり。名声すこぶる高くして、世間の供養に応(あたい)する者(応供 おうぐ)、最高の自覚を得たる者(等正覚者 とうしょうがくしゃ)、智慧と実践とを兼ね備えたる者(明行具足 みょうぎょうぐそく)、人および天の師たるべき者(人天師 にんでんし)、世に尊重すべき者(世尊)等と称せられる。その説くところの教法は、初めも善く、中も善く、終りも善く、道理と表現とを兼ねそなえているという。かかる聖者を見る者は幸いなり」ふるき経は、その都の人々の声をこのように記しとどめている。

その記述は、むしろはなはだしく類型化されていて、ただちに真相をうかがうことはできない。だが、カッサパ(迦葉 かしょう)以下多くの弟子たちが、一挙にして釈尊にしたがう者となったことは、何としても、世間の耳目をそばだたしめることであったに違いなかった。そして、そのできごとはマガダ(摩掲陀)の国内、この都を去ることほど遠からぬガヤー(伽耶)の郊外でのことであったがゆえに、この都の人々が、釈尊の到来に関心をいだいたことは、当然であったと思われる。

マガダの国の王ビンビサーラ(頻毘婆羅)は、その噂を聞いて、ふかい関心をもった。なんとなれば、この王はかつて、大覚成就以前の釈尊がこの都の郊外の山窟にいたころ、みずからおもむいて会見したことがあったし、また、すぐれたる哲人・覚者のこの国に来たらんことは、この王の日頃の念願であった。そこで彼は、さっそく釈尊のいます処にいたり、釈尊の教法を聴いて釈尊に帰依する者となった。その説法ならびに帰依については、ふるき経典の記すところは、類型化された表現をくりかえしているにすぎない。わたしはそれをもう一度くりかえして述べる必要を認めない。また、王の帰依ということは、ふるい仏伝作者たちが力をいれて強調するほどのことではないと思われる。だが、ただ一つ、この王の帰依に関して述べておかなければならぬことがある。それはいわゆる竹林精舎の寄進のことであって、仏教精舎の歴史はここにはじまる。

釈尊の教えによって、汚れなき法への眼をえたビンビサーラ王は、「この教えを措(お)いてまた依(よ)るところなし」と信じ、釈尊の前に申して言った。

「世尊よ、わたしは太子であったころ、五つの所願があったが、いまわたしはそれを成就することができた。第一には、願わくは灌頂(かんじょう)をうけて王たることを得んと願ったが、わたしはいまそれを成就した。第二には、願わくはわが領国に最高の覚者の来たらんことをと願ったが、わたしは今それを成就することを得た。第三には、われ願わくは、世の尊重する者(世尊)に承事せんことを願ったが、わたしはいまそれを成就することをえた。第四には、願わくは世の尊重する者のわがために法を説き給わんことをと願ったが、わたしはいまわたしはこの所願をも成就することを得た。さらに第五には、われ願わくは世の尊重する法を悟ることを得んと願っていたが、ここことをもまたいま成就することを得た。

わたしの五つの所願はことごとく、いま世尊によりて成ることを得たのである。かくて、わたしは今ここに、世尊と世尊の法と世尊の比丘衆に帰依したてまつる。世尊よ願わくは、このわたしを在俗の信者として容れたまえ。なお願わくは、世尊よ、わが請待(しょうたい)をうけて、明日、比丘衆とともに来たって供養をうけたまえ」

釈尊は例のごとく黙然として、王の言うところを諾した。その翌日、釈尊は多くの比丘たちを従えて、久闊(きゅうかつ)のラージャガハの都に入った。王は、釈尊および比丘たちを設けの席にみちびき、手ずから給仕をなして供養をたてまつった。さて食事をおえたとき王は心の中で考えた。「世尊の住したもう処はいずこがよいであろうか。それは、町から遠からず、また近からず、往来に便であって、すべて法を求める人々がおもむきやすいところでなければならぬ。しかも、昼は雑沓なく、夜は噪音なく、静居して禅思するにふさわしい処であることを要する」かく考えたとき、王は、かのヴェールヴァナ(竹林の園)こそがその条件を充すものであることに思いいたった。そこで王は、水瓶(みずがめ)をとって釈尊の手に水をそそぎながら申していった。

「世尊よ、わたしはいま、世尊を上首とする比丘衆に、かのヴェールヴァナを寄進申したい。願わくは受納したまえ」

これが仏教における最初の精舎の寄進となった。

サーリープッタ  それからまもないころ、釈尊は、二人の秀抜なる弟子をえた。その一人はサーリープッタ(舎利弗)と呼ばれ、のちに釈尊によって、「如来によりて転ぜられし法輪をまさに正しく随(したが)って転じてゆく者はこの人を措(お)いてなし」と称せられた人であった。いま一人はモッガラーナ(目健連)と称し、彼もまた後年、仏十大弟子の一人にあげられ、釈尊の比丘衆のなかにありて、神通第一と呼ばれた高足であった。したがって、この二人の帰仏の経緯は、経によれば、大様つぎのごとくであった。

古代インド思想史をひもとくものは、釈尊の時代に、多くの新しい思想のながれが存したことを知っているであろう。それらの主たるものは仏教教典の中にあっては「六師外道(ろくしげどう)」と記されてある。外道とは、仏教において、仏教以外の思想家、修行者たちをいうことばであるが、そのころ外道の主たるものに六人があって、これを「六師外道」と呼んだのであった。彼らはたいていマガダ国を中心として活動していたが、いま釈尊がラージャガハの都に入ったころ、その六師の一人なるサンジャヤという者もまた、この都あたりに止住していた。

その主張するところは、真理なるものには一定のうごかすべからざる常規はないのであって、自己にとって善と思われるものが善であり、自己にとって真と思われるものが真であるとするのであった。その所説は、あたかも古代ギリシャのソフィストたち、特にゴルギアス gorgias の虚無的な言説を彷彿たらしめる。経典はこれを呼んで「鰻論(まんろん)」と称する。かの二人もまたこの徒の中にあって、その高足として学修につとめていた。そして、この二人は親交を結んで、「もしいずれかさきに不死の道をえたならば、かならず教えるであろう」と相約していた。

ある朝、釈尊の若き弟子のアッサジなるものが、下衣(かい)をつけ、鉢衣(はちう)を持して、ラージャガハの街に入って、行乞していた。その態度のうるわしく、その威儀にかなった挙止を、サーリプッタは見た。「もしこの世に、まことの聖者なるものがあらば、この人はその弟子の一人に相違ないであろう。わたしはこの人に、その師は誰であるかを聞いてみよう」彼はこの若き比丘の態度にうごかされて、そう思った。そして、この若き比丘の托鉢をおわるまで、静かにうしろに従っていった。

アッサジが托鉢をおわって帰途についたとき、サーリープッタは彼を呼びとめ、会釈して問うていった。「なんじは顔貌まことに浄(きよ)らかに、顔色かがやいている。なんじは誰によりて出家したのであるか。誰を師となすのであるか。誰の教えを信ずるのであるか」アッサジは、彼が釈尊によって出家し、釈尊を師とし、釈尊の教えを信ずるものなることを答えた。「では、なんじの師はいかなる説を有し、何を説きたもうか」とサーリープッタは重ねて問うた。だが、アッサジは、出家して日なお浅く、その師の教えを深く説くことも、またその要領を略説することもできぬ由を答えた。サーリープッタはそれでもあきらめなかった。「では、たとい深からずとも、また要領をつくさずとも、多少なりとも、片鱗なりとも、その師の教えについて語らんことを」と、彼に請うた。そのとき、アッサジが彼のために、その師の教えについて語ったことばは、ふるき経典につぎのごとく記しとどめられてある。

「諸々(もろもろ)の法は因によりて生ずる。

如来はその因を説きたもう。

諸々の法の滅についても、

如来はまたかくのごとく説きたもう」

それはなるほど釈尊の教えの片鱗にすぎなかった。だが、サーリプッタは、それによって釈尊の教えるところがいかなるものであるかを洞見し得た。「生ずるものはみな必ず滅する。もしそれだけであるにしても、これは正しい教えである。この弟子たちは、すでに、愁(うれい)なき境地をさとっているにちがいない」それは、サンジャの徒にとっては、大きな驚きであったに相違ない。彼らは、その師によって、真理の客観的規準はあることなしと教えられた。だが、いま「生ずるものはみな滅する」というこの客観的事実は、いかにするとも論じ破ることはできまい。道はそこに存するに相違ない。サーリープッタはかく思った。かく思い知ることによって、彼の世界および人生を見る眼は、いまだ釈尊の直説(じきせつ)をまたずして一転した。彼はすでに、ほのかに法を観(み)るものとなることを得たのである。

そこで彼は、いそぎ友のモッガラーナのもとにいたって、その由をつげた。モッガラーナは、彼の喜色あふれる顔貌をを見ておどろき、さらに彼の語る釈尊の教えを聞いて歓喜した。この友もまた、いまだ釈尊に直接さずして、すでに、ほのかにその道を見ることを得た。そこで二人は、釈尊を師とすることを決意して、他の弟子たちにその由をつげた。すると彼らもまた、この二人とともに行かんことを乞うた。なんとなれば、彼らがここにあるのは、この二人をこそ信頼していたからであった。

この二人と、そしてその他のサンジャヤの弟子たち――経典はその数を二百五十人としるしている――は、やがて竹林の園へと向かった。釈尊は彼らの来るのを望見して、比丘やyいに言った。「見よ、かしこに二人の友がくる。彼らはやがて、わが教えによって清浄なる修行をなす者の中にありて、一双の上座となるであろう」それは、この二人に対する釈尊の記別(予言)であった、と教典のふるきことばはしるしている。

法をもって誘う  そのころ、ラージャガハの都においては、一種の動揺がおこっていた。良家の子弟が相ついで釈尊を訪れ、その教えを聴き、その教えによって出家の行者となった。そのことが人人の間に不安の種をふりまいたのである。その子が出家した母は、その子を釈尊にうばわれたと思った。その夫が比丘となった妻は、その夫を奪われたと感じた。子をうばわれた夫をうばわれた家は、その後嗣(あとつぎ)を失わねばならなかった。不安はつぶやきとなり、つぶやきは憤りにまで高まった。比丘たちが都の街々に托鉢すると、人々から難詰(なんきつ)のことばをなげつけられた。そのことばを、経典は偈文(げもん)のかたちをもって記しとどめている。

「如来は法をもって誘いたまえり。

法に来たるを嫉(ねた)むものは誰ぞ」

そこに法によりて立つものの自信があり、法によりて生くるものの無妥協があった。比丘たちは、街に行乞して難ずるものがあれば、この偈のことばをもって静かに答えた。人々はやがて、釈尊が法をもって誘引し、非法をもって誘引するものにあらざることを理解した。そして、この都の動揺は、そのことばのごとく、七日の後には静謐(せいひつ)に帰した。(115~127頁)(第九章おわり)

第十章 祇園精舎

ながい伝道の生涯  これまでわたしは、釈尊の生誕から、出家、成道(じょうどう)、伝道の決意、鹿野苑(ろくやおん)での最初の説法、それからさらに王舎城にむかい、王舎城に入って、多くの若くしてかつ秀抜なる随徒を得たことを、順序を追うて述べ記してきた。だがわたしは、このあたりで一応たちとどまらねばならぬ。なんとなれば、もはやわたしは、順序を追い、年序にしたがって、この師の大いなる人間教化(きょうけ)のあとをたどることをやめなければならぬところにいたったからである。

釈尊の伝道の生涯は四十五年のながきにわたるものであった。それはほとんど半世紀にわたるものであって、世の教祖と称される人々に、かくも長い伝道の生活を有したものを、わたしどもは知らない。しかも釈尊は、かくも長きにわたる教化説法の間においても、なんらの基本的な変化をその教説の中に示していない。のみならず、その説法の態度や語調についても、わたしどもは、伝道の時期によっての変化をほとんど指摘することができない。いつも静かに、彼は語った。その語るところは、つねに不動の道理と整然たる表現をたもっていた。

その点においても、釈尊の伝道の生涯はイエス=キリストのそれと際(きわ)だった対照をなすものだった。イエスの伝道の活動は、これを年月にしては、一年よりも短からず三年には達しなかったものと想定せられる。それは釈尊のそれに比して、はなはだしく短いものであった。にもかかわらず、その中には、その教説の内容についても、その説教の態度や語調についても、はげしい変化が存していた。それは、静かな緩(ゆる)やかな調子から、次第に高調して人々の心をかき立てる急調へと盛り上がってくる交響楽にも似たるものであった。それに比すると、釈尊のながい伝道の生涯は、言わばただの一日ごとくであった。短いイエスの活動に大きな変化があり、ながい釈尊の伝道にほとんど言うべき変化がなかった。したがって、イエスにおいては、去年のことばと今年のことばを弁別することを得ても、釈尊においては、十年前の説法と十年後のそれとを区別することを得ない場合がすくなくない。

ある経は、それが成道後なお久しからぬころの説法であることを語っている。またある経は、そこにすでに老いた釈尊のすがたを浮き彫りして出している。またある経においては、「わたしは背中がいたむ」と、その健康すでに傾ける釈尊のことばをもらして、読むものの心を痛ましめる。わたしどもは、それらによって何ほどか、そこに説かれた教法の年月をうかがうことはできる。あるいはまた、ある経においては、ビンビサーラ(頻毘婆羅)がなおマガダ(摩掲陀)の国に君臨していることが知られる。またある経においては、それがすでにアジャータサッタ(阿闍世)王が父王にかわってその国を統(す)べていた時代のものであることを知りうる。それらによっても、そこに語り出された説法が何時(いつ)ごろのものであるかを、何ほどか想定することはできる。さらにまた、多くの経は、それの説かれた場処、それの語られた対機(たいき)を明瞭にしるしており、かつまた、それの説かれるに至った因縁をも語っている。それらによっても、なにほどか、その説かれた時期をたぐり出す手がかりをうることもできないではない。それにもかかわらず、わたしは、多くの説法を編年史的に順序を追うて語ろうとする試みは、思いあきらめねばならぬことを感ずる。なんとなれば、その試みを敢(あ)えてなさんとすれば、あまりにも多くの間隙を空想と推察とをもって埋めなければならぬからであり、また、あまりにも多くの説法をその時期の不明のままに取り除かねばならぬからである。それは何のゆえによるかとならば、その伝道の期間がたぐいもなく長かったことと、しかも、不動の原理と整然たる表現を基底としてその説法は、その永い年月の間にもなんらの基本的な変化をしめさなかったことに帰するのほかはないのである。

かくて、できうるかぎり空想と伝説とを払拭して、確実なりと思わるるかぎりの資料によって、ありしままの釈尊のすがたとおしえとに近づかんとするならば、わたしどもが順序をおうて追求しうる釈尊の伝道教化のあとは、鹿野苑における伝道開始後の数か月の教化活動、ならびに、入滅直前の数か月の遊行(ゆぎょう)教化にかぎられるのであって、その他の四十五年の伝道の生涯の大部分は、これを編年史的に跡づけることを、いまは思いあきらめるのほかはない。

その点についても、わたしどもは、かの阿含部(あごんぶ)の編集者たちの仕事の良心的であったことを思わざるを得ない。阿含部の諸経が今日あるがごとき形式においてととのえられたのは、釈尊の滅後すでに数百年を経てからのことであったと想定せられる。漢訳と南伝とでは、おのおの異なる部派を経てきたことも想定せられるし、また漢訳では、訳出後シナにおいて原形が崩れた部分もあると考えられる。にもかかわらずそこでは、それらの経を年代順に配列しようとするがごとき試みは、一度だって企てられたことはなかった。ある部分においては(長阿含経もしくは長部経典)長い経のみが収録せられてある。またある部分においては(中阿含経もしくは中部経典)中ほどの長さの経のみが集められてある。またある部分においては(雑(ぞう)阿含経もしくは相応部経典)おびただしい短い経典がその内容にふさわしく分類されて収録されてある。またある部分においては(増一(ぞういつ)阿含経もしくは増支部経典)名数による分類が試みられてある。にもかかわらず、編年史体の編集の企ては、一度だって企てられたことはなかった。

その意味をわたしどもは汲みとることを忘れてはなるまい。わたしどもがいま比較的確実な資料として、それによって釈尊の真のおしえに近づこうとしているのは、すでに述べたように、これらの阿含部の諸経に外ならない。しかるに、そこでは一度だって企てられなかった編年史的な試みを、それを資料として企てたならば、わたしどもは当然、その所期に反して、ふたたび空想と伝説の中に迷い込まなければならぬこととなるであろう。

雑阿含経のこと  では、この師の伝道教化のあとを、順序を追い、年次にしたがって追求することを思いとどまねばならぬわたしどもには、この師の言行の真相を描き出すいかなる道がのこされているのであろうか。それには何よりもまず、かの雑阿含経(南伝では相応部経典)が教える道があるであろう。そこでは、すでに言うがごとく、おびただしい経典がその内容にふさわしく分類せられている。

たとえば、釈尊はしばしば人間存在のあり方を観察すべきことを教えた。ある時には、それを略して説き、あつ時には、詳しく説いた。またある時には、病める比丘のために説き、またある時には、辺境に旅立つ比丘のために説いてはなむけとした。あるいはまた、大河の流れのほとりに立って、流れにうかぶ泡沫をゆびさしてこのことを説き、あるいはまた、一片の土をつまんで指の爪の上におき、たとえを説いてそのことを語ったこともあった。そして、雑阿含経もしくは相応部経典は、それらのことごとくを一処に収録して、これをわたしどもにまで伝えてくれた。

たとえば、また釈尊は、一切の存在のあり方を縁起性のものとして把握し、これをさまざまの表現をもって説いた。あるときには、それを自己の正覚(しょうがく)成就の体験にそうて語った。ある時には、異学の人々との問答の中でそれを説いた。またある時には、弟子の比丘たちに向かって、すでに説かれた縁起の教説について、質問を試みたこともあった。またある時には、灯油や大樹や芦の束をたとえとして、そのことを説明したこともあった。それらのことごとくを、相応部経典もしくは雑阿含経は、また一処に収録してわれわれに示している。

それらの集録の主題としては、この師の教えるところの体系の主なる諸原理のほか、さらに実践の諸項目があり、教示の対象となった人々の種類があり、あるいはまた、場所が主題となっている場合もあり、主なる弟子の人名が主題となっている場合もあり、さらのまた天神・悪魔・譬喩等の項目が主題として選ばれている場合もある。そのようなさまざまの主題を用いて、雑阿含経もしくは相応部経典の編集者は、この師の言行を記しとどめたおびただしい経典を分類し、かつ収録している。そのゆえに、南伝にはこれを相応部と称し、漢訳にては雑阿含という。雑とは、雑集の意ではなく、むしろ雑砕すなわり小の義であって、その編集の形式は、あくまで等類相応をあつめ、次第編集したるものであって、これまた相応としも名づくべきものであった。

かくて、編年史的にこの師の伝道教化のあとを追求することを思いとどまらねばならぬわたしどもは、これ以後のこの師の活動を描き出すに、この雑阿含経ならびに相応部経典の撰(えら)べる道にならいたいと思う。それは、もはや年次的にこの言行を追うことが可能ではないからではあるが、さらにひるがえって考えれば、かの四十五年のながき伝道活動を、あたかも一日のごとく、変わることなき平静と整然と懇切とをもってつらぬきたもうたこの師の言行を描くには、むしろ、年次をもってするするよりも、この方法によってすることこそ、さらにふさわしいと言うことができるであろう。そして、そうした試みにたいして、もっとも信頼すべき資料を供するものとしては、また、雑阿含経および相応部経典の諸経が、南伝の増支部経典や小部経典の中の『経集』や『法句経』とともに、まず指を屈すべきものに属していつ。中につき相応部経典の諸経は、これを読むものをして奕々(えきえき)として生ける釈尊に直接するの感をあらしめるのであって、あたかもそれは、イエス=キリストにおける共観福音書、孔夫子(こうふうし)における論語にも比すべきものと言うことをうるであろう。

スダッタ  さて、それらの経典は、よく知られるように、「如是我聞(にょぜがもん)」「かようにわたしは聞いた」と冒頭し、ついで、「一時仏在(いちじぶっさい)……」「ある時、世尊はこれこれの処(ところ)にましました」と、その場所を明らかにしている。それら場所について、なかんずく、わたしどもの耳にもっとも親しみのあるのは、かの祇園精舎である。もっと正確に言うならば、「舎衛城祇樹給孤独園(しゃえじょうぎじゅざっこどくおん)精舎」「サーヴァッティー(舎衛城)の郊外のジェータヴァナ(祗陀林)なるアナータビンディカ(給孤独)の園の精舎」である。なんとなれば、それらの経典の大半は、この祇園精舎において説かれたものであったからである。では、その祇園精舎とはどのような処であったか。また、どのような因縁によってこの精舎は成ったのであろうか。わたしはいま、それらの経典によって能うるかぎりの釈尊の生けることばと行動とを描き出さんとするに先立って、まず、彼がもっともしばしばそこにとどまり、もっとも多くの教えを説いたであろうその祇園精舎につき、その因縁と情景とを語っておきたいと思う。それもまたこの師の言行をできるかぎり生けるすがたのままにとらえたいからにほかならない。

それは、釈尊がラージャガハ(王舎城)での伝道活動をはじめてから、ほど経たころのことであったと思われる。この都から遠く西北にへだたったコーサラの都サーヴァッティー(舎衛城)にすむスダッタ(須達多)という富める商人が、商用のためにこの都にやって来た。彼はこの都に来ると、いつも、妹の嫁いでいる長者の家を宿とするのがならいであった。今日もまた久々にかの妹婚の長者の家をおとのうてみると、今日はいつもとまるで様子がちがう。いつもは飛んで出てきて、手をとらんばかりに歓び迎えるかの長者が、今日はなんとしたことか、しきりと召使たちを指揮して大へん忙しげで、なかなか出ても来ない。スダッタはいささか不服であった。やがてして、長者と相向かって、久闊(きゅうかつ)を叙してからも、彼はまだ不機嫌であった。

「兄弟よ、あなたはこれまでいつも、わたしが訪れると、何はさておき歓び迎えてくださった。しかるに今日は、召使たちを指図(さしず)して、大へん忙しそうである。いったい、今日のあなたは、お嫁さんでも迎えようというのか、それとも王さまでも御招待なさろうというのか」

「いやいや。嫁を迎えるのでも、王さまを招待するのでもない。もっとうれしいことがある。わたしは明日、仏陀とその弟子衆を請じたてまつるのです」

するとスダッタは、面(おもて)をあらためて言った。

「兄弟よ、あなたはいま仏陀といわれましたな」

「そうです」

「兄弟よ、仏陀というは、その名を聞くことさえもはなはだ難いと言われております。いま現にそのような尊い聖者があらわれるならば、わたしも行って拝したい。その聖者はどこにあらわれるのですか」

そこで、その長者はかの仏陀がこの都の郊外なるヴェールヴァナ(竹林)という園林にとどまり住しておられること、そこはこの国の王によってこの仏陀に寄進せられた園林であることなどを語り、さらに、彼がその園林に多くの房舎(ぼうしゃ)をたてて寄進したことを物語った。この長者がその園林に房舎をたてた顚末は、律蔵小品(りつぞうしょうほん)の一節によって、つぎのように伝えられている。

ある朝のこと、この長者は竹林を訪れた。まだ房舎のなかった竹林では、比丘たちは樹下や洞窟や藁堆(わらづみ)のうえにいね、早朝におきて威儀をととのえていた。長者はその様をみて、心に清浄を感じ、歓喜を感じた。出家の比丘の生活は、行雲流水の生活を建前とする。樹下(じゅげ)に住み、石上に坐して、それをいささかも苦痛と思ってはならない。洞窟に住み、藁堆にいねて、なお厳然たる威儀を持せねばならぬ。いまこの師の比丘たちは、この出家の生活の建前を立派に実現している。そのことには自然に頭の下がる思いがする、だが頭がさがればさがるほど、尊敬すればするほど、比丘たちの樹下石上の生活が相すまないと思う。

「もしわたしが、あなた方のために房舎を造ったならば、住んでいただけるであろうか」

長者は、そっと一人の比丘にたずねてみた。その答えは、師はまださようなことをお許しになっていない、ということであった。

「では、お許しねがえないかどうか、ひとつ、世尊におたずね下さるまいか」

長者の熱心なことばにうごかされて、比丘はこのことを世尊に報じた。するとはからずも、一定の制限のもとに比丘のために房舎をたててもよいということであった。そこで、かの長者は、よろこびいさんで、その園林に六十の房舎をたてはじめた。それがすでに落成して、明日は、釈尊とその弟子衆を請じて、かの房舎を献ずるのだという。

「兄弟よ、そのような聖者があらわれるならば、わたしも行ってその方を拝したい」

「だが、釈尊とその弟子衆は、規則ただしい生活をしておられる。今日はもうかの仏陀を拝する時間ではない。明朝はやく行かれるがよい」

その夜、寝についたスダッタは、仏陀を拝したい思いにかられ、暁をまちかねて夜半三たびまで眼をさましたと、経典のことばはしるしとどめている。

舎衛城へ  翌朝はやく、スダッタは、ラージャガハ(王舎城)の都門をいでて、釈尊のいますと聞くヴェールヴァナ(竹林)にむかった。それから彼が釈尊に面悟(めんご)するまでの経典の描写は、いささか粉飾の色がこい。彼が都門をいでようとすると、人間ならぬものが門を開いて、彼を通したとも記されている。都門から園林までの中途においては、突如として天地晦冥(かいめい)となり、彼は心臆(おく)し足すくんで、引き返そうとしたとも記されている。あるいはまた、そのとき空のかなたにあって「居士(こじ)よ進め。退くことなかれ。進まば利益(りやく)あるべし」と励ます声があったとも記されている。だが、それらの描写も、はじめて仏陀ばる人にまみえんとする彼の異常に緊張した心境を、ふるき手法をもって客観化して描き出したものとすれば、さほど不思議ではないと言うこともできる。

ともあれ、歓喜と緊張に心はずませつつ、かの園林に近づいた彼は、思いもかけず、林間を遊歩するかなたの人から声をかけられた。それは、早朝のそぞろ歩きをしていた釈尊その人であった。それが仏陀なるかの人と知らされたとき、恐怖にも似た緊張は霧のごとく消え去って、ただ歓喜のみが彼の心をふくらませていた。「世尊よ、昨夜はやすらかに眠らせたもうたか」近づいて釈尊の足を拝したとき、彼の口からはそのような心やすいことばが自然にでた。そのとき、釈尊が彼に答えたことばを、経典は偈をもってかように伝えている。

「貪りを離れ、清らかにして、心にけがれなければ、

さとりに入れる者は、いずこにありても安らかに眠る。

すべての執着(しゅうじゃく)をたちきり、悩みを調伏(じょうぶく)したるがゆえに、

心は静寂(じゃくじょう)に入りて、しずけくもまたやすらかにねむるなり」

だが、その時の釈尊の実際のことばは、もっと打ちとけた、もっと親しみの深いものであったにちがいない。「おお、よく眠ったとも。しずかに眠りましたよ。心をきれいにし、心を静やかにしているといつでも安らかに眠られる」きっと、そのような打ちとけた調子のことばであったであろうとおもわれる。

一見旧知のごとき打ち解けた対坐。そこで釈尊は、この富める商人にふさわしく、次第を追うて法を説いた。布施・持戒・生天の法・欲楽のわざわい・出離の功徳など。そして、やがて苦・集(じゅ)・滅・道の四つの真理が語られたとき、白い布のように清らかであった彼の心は、たちまち正しき法の色をうけて、その座において彼は、汚れなき真理を見る眼をうることができ、請うて優婆塞(うばそく)となる許しを得た。経典の述べるところは、そこでも、型のごとき在家入信のプロセスである。だが、それからまもなく、この富める商人がなした申し入れは、釈尊とその弟子たちの教化の活動に、大いなる舞台の転換をもたらすものであった。

「世尊よ、願わくは、今年の雨期の安居(あんご)を、比丘衆とともに、わがサーヴァッティー(舎衛城)において過ごしたまわんことを」

その申し入れを、釈尊は、一つの条件を付して、心よく受け容(い)れた。

「スダッタよ、よろしい。だが、如来は空屋(くうおく)をたのしむということを証知せられたい」

この富める商人は、兄弟なるラージャガハ(王舎城)の長者にならって、かのサーヴァッティー(舎衛城)にも、この師と弟子たちのために精舎を営むであろう。精舎をいとなむことは許される。だが、それはどこまでも質素なものでなければならない。それは断じて豪華なものであってはならなかった。そのことを「如来は空屋をたのしむということを忘れないように」と釈尊は、彼に念をおしたのである。

とまれ、この申し入れを受け容れたことは、釈尊にとって、その伝道教化の活動にまた一つの大きな転機をもたらすものであった。これまでの教化の活動の舞台は、バーラーナシー(婆羅捺)の郊外なるミガダーヤ(鹿野苑)とラージャガハ(王舎城)の郊外なるヴェールヴァナ(竹林)を二つの中心として、その二つの点をむすぶ路線のうえに限られていた。ガンガー(恒河)の流れの北には、まだ伝道の一歩も印せられていない。そこには、ヴェーサーリ(毘舎離)の都を中心として繁栄を誇るヴァッジー(跋耆)連邦の諸部族があり、その西北にはサーヴァティー(舎衛城)を都としてマガダ(摩掲陀)とその繁栄を競うコーサラ(拘薩羅)王国が存する。それに隷属する故国の釈迦(サキャ)族の人々の間にも、仏陀となれる彼の教化はまだもたらされてはいない。だが、いまや、きたる雨期の安居をサーヴァティー(舎衛城)において行うこととなれば、ブッダの足跡は初めてガンガーの流れの北に印せられ、その獅子吼(ししく)は雪山(ヒマーラヤ)の南麓にまでとどく機縁をなすにいたるのである。

祗陀林の精舎  ラージャガハ(王舎城)からサーヴァッティー(舎衛城)にいたる道は、パータリプッタ(いまのパトナ)まで北進し、そこから西に転じて、サーヴァッティー(舎衛城)にいたる。スダッタは信用あつい商人として、その道中の町々村々に、おおくの友人知人を有していた。彼はラージャガハ(王舎城)での所用をおえると、歓喜に胸をふくらませて、サーヴァッティー(舎衛城)にいそぐ道すがら、人々に語っていった。「僧園をつくれ、精舎を建てよ。布施を用意せよ。仏陀はこの世に現われたまえり。いま、わが請いを容(い)れて、この道を来たりたもう」それを聞いて、この大なる師をむかえる準備をととのえる人々はすくなくなかった。法縁はかくして、いまだ釈尊の姿を見ずして、ガンガーの河北にむすばれていった。

サーヴァッティー(舎衛城)に帰りついたかの富める商人は、さっそく郊外を巡視して、精舎を建てるべき土地を物色した。静かで、かつ町から遠からぬところ。その条件を遺憾なくみたす土地として、彼が選ぶ出したのは、ジェータ(祗陀、ぎだ)とよぶ王子の所有にかかる林であった。だが、彼がその王子を訪(おとの)うて、かの土地を譲り受けたいと申し入れたとき、王子は頑として拒んだ。

「王子よ、他のことに用いるのではない。僧園を作りたいのである。ぜひとも売っていただきたい」

「長者よ、なんと申しても、売ることはできない。たとい、貴方が黄金をもってかの土地を布(し)きめぐらそうとも、譲ることはできぬ」

二人は、譲れ、譲らぬと、言い争い、言いつのったすえ、ついに事の裁きをこの国の大臣のところに持ち込んだ。二人の話を詳しく聞いた大臣は、裁断を下していった。

「すべて取引をなす者は、価を言ったうえは、売らなければならぬ。しかるに王子はすでに価を言われた。黄金をもってかの土地を布きめぐらすと言った。その価をもって、王子はかの土地を売らなければならぬ」

まもなくスダッタは、車に積んで黄金をはこばせ、それをもってジェータ(祗陀)王子の林に布かせはじめた。だが最初に運んだ黄金でしきつめた土地の広さでは、彼はまだ満足できなかった。

「もっと黄金を運んで来い。わたしは、この土地を全部しきめぐらさねばならぬ」

そして、黄金をつんだ車がまた、後から後からとつづいた。そのさまをみたジェータ(祗陀)王子は、さすがに心おどろき、胸をうたれた。

「長者よ、どうか一部分の土地を私のために残していただきたい。わたしもまた、あなたがかくまでも尊ばれる方に、布施したいと思う」

その申し出を、長者はこころよく受けた。この賢明な王子の胸にも、釈尊の教法への信の燈火がともりはじめたと思うと、彼はうれしくてたまらなかった。

やがて林の中に、精舎が建ち、講堂が建ち、厨屋(くりや)・浴室・厠屋(かわや)・阿屋(あずまや)がたち、経行堂がたった。王子のために残された土地には、王子によって門が建てられた。その規模と景観とは、今世紀になって発掘せられた遺跡によっても、そぞろしのぶことができる。時の人々は呼んで、この精舎を「祗陀林なる給孤独の園の精舎(祗樹給孤独園精舎)」と、この二人の名を冠して称した。給孤独とは、親なき子、子ねき老人など、憐(あわ)れな人々に施すの意であった。この富める商人は、以前から、心やさしく、数々の善行のあった人であって、かかる名をもって呼ばれていた。

程へて、釈尊は、サーヴァッティー(舎衛城)に到着し、スダッタの供養をうけ、かつ、この新たに成れる精舎を献ぜられた。そのとき釈尊が、彼のために、謝意をこめて説いた偈(げ)を、経典はこのように記しとどめている。

「林苑を施し、果樹を植え、

橋を架し、船もて人を渡し、

曠野(こうや)に泉水、井戸をひらき、

あるいは精舎を建立する。

かかる人々に於(おい)ては、

さいわい日夜に加わり、

戒をたもち、法を楽しみて、

後生(ごしょう)に善道を得るであろう」

そして釈尊は、当来四方の僧伽(さんが)の名において、この精舎を心よく受けさせ給うたという。これが、いうところの祇園精舎の成立の因縁であった。

第十一章 人は何を願うべきか――涅槃寂静

勝義のために  「かようにわたしは聞いた」と、阿含部に属する経典のいくつかは、このように釈尊のおしえのことばを記しとどめている(漢訳、雑阿含経、10、17。中阿含経、140、至辺経。南伝、相応部経典、22、80、乞食。如是語経。91)。それは、ある経によれば、かの祇園精舎においてのことと記されてあり、またある経には、カピラヴァッツのニグローダ園でのこととされているが、それはともsれ、釈尊は、出家していまだ久しからざる新参の比丘たちを集めて、かように説き教えられた。

「比丘たちよ。なんじら出家たる者は、髪を剃り、鉢を持して、家々に乞食(こつじき)して生を支える。乞食とは、世のもろもろの活命(生活の仕方)のなかの下端である。だが比丘たちよ、もろもろの秀抜なる人々が、かくのごとき生活に就くゆえんのものは、義(ただ)しき目的の存するによりてである。王に強いられたるにあらず、賊にしいられたつにあらず、負債のゆえにあらず、活命に窮したるにあらず。われらは苦に陥り、苦に沈み、苦に囲まれてある。されば、われらはこの苦の集積をのぞきつくさんとて此処(ここ)にいたれるのである」

釈尊の教えを説く語調は、いつも物静かであったと想像される。弟子の比丘たちにも、異学の人々にも、いわんや在俗の信者たちにも、もの静かにかつ懇切に語られたにちがいない。「和顔愛語(わがんあいご)」と、のちの仏教者がかたることばの理想は、釈尊その人のものであったに相違ない。叱咤する激情のほとばしりを、釈尊のことばのなかに見いだそうとしても、よういに見いだそうとしても、よういに見いだすことを得ないであろう。だが、そのゆえにわたしどもは釈尊のことばがいつも和(なご)やかな、力弱いものであったと思うならば、それは大きな見当ちがいである。物静かではあっても、力づよく説得し、和やかに語られたことばのなかにも、ぎりぎりの対決をせまるものが存する。そのような語り方の、代表的な説法の例が、この経において見られる。

他の経においても、釈尊はしばしば、「在家より出家したるものが、何すればなお欲楽のことに心ひかれるか」という言い方で、比丘たちを誡(いまし)め、かつ励ましたことがあった。それらの場合にも、釈尊のいわんとすることは、この経におけると別のことではない。だが、この経においては、そのことが、もっとも力強く、かつ懇切に語られている。若い、出家してまもない比丘たちには、托鉢(たくはつ)乞食(こつじき)の生活は堪えやすいものではなかったであろう。せっかく出家の志も、この生活のくるしさの前に、ともすればくじけるうれいがあった。「こし若牛がその母牛を見なかったらならば、どのようなことが起こるかも知れない。あるいはまた、もしまかれた種子が水を得なかったならば、いかなる変異を生ずるやも知れぬ」釈尊はひとり樹下に坐しているとき、そのように思念せられて、さて比丘たちを呼んでこの説法を説きたもうたと、経のことばはその因縁をしるしている。

この生活の仕方は、「世のもろもろの活命の中の下端である」と釈尊はいう。そのことばのなかに、わたしどもは、釈尊がこの比丘たちのうえにそそぐ、万斛(ばんこく)の思いやりを感じとることができる。彼らはたいてい良家の子弟であった。なに不自由のない生活のなかにいた人々であった。その彼らが、いきなりこの下端の生活にとびこんできたのであるから、慣れないうちはつらいにちがいない。そのことを、釈尊は、思いやることができる人であった。

だが、この生活がつらければつらいほど、何故にこのような生活にとび込まなければならなかったのかを、思い新たに思いおこしてみなければならぬと、釈尊は教えているのである。それは誰が強いたことでもなかった。「王に強いられたるにあらず。賊にしいられたるにあらず」また、それはみずから窮してここに到ったのでもなかった。「負債のゆえでもなかった。生活に窮したからでもなかった」そうではなくて、多くの良家の子弟、もろもろの秀抜なる人々が、みずから思いさだめ、みずからこの道を選んで、かくのごとき生活につくにいたったのは、むしろ然るべき理由があったからにほかならない。その理由を、もう一度、思い新たに思いおこしてみるがよいと、釈尊はいまこの若い比丘たちを誡(いまし)め教えているのである。

「あれか、これか」  その理由とは、何であろうか。その目的とは何であろうか。それをさきの引用句の中では、「義(ただ)しき目的の存するによりてである」と意訳しておいたが、それをある経においては「義趣(ぎしゅ)あるに縁(よ)る」としるしている。「義趣」(attha) とは、われらの認識ならびに判断の対象を指すことば、すなわち、人の願うところのものであり、人の求むるところのものであり、われらの善(よ)しとして追求するところのものである。したがって、「義趣あるに縁りて」この乞食沙門の生活に入ったというのは、然るべき目的が存して、みずからこの道を選んだというのである。さらに他の経は、その目的なるものを、もっと明白に「勝義(しょうぎ)を求むるためのゆえに」と言いあらわしている。「勝義」(paramattha) とは、人の願うところの最上のものであり、人間にして思念し能(あた)うかぎりの最高善であり、人間の生活の終極の標的である。そして出家の生活とは、この最高なる善の実現のために、他の一切を賭(と)するものに外ならなかった。

宗教とは、つねに、何らかの意味において賭する者の道である。人の願うところのものはさまざまである。飲食のゆたかならんことも人の願うところ。美衣を着んことも人の念(おも)うところ。戦っては勝たんことが願わしく、行のうては栄誉のあらんことが願わしく、死しては善趣に生ぜんことを念う。だが、人は所詮「あれも、これも」と願うことはできない。東におもむかんとする者は、西にゆくことを思いあきらねばならぬ。天を指向せんとする者は、地の喜びを思いすてねばならぬ。されば、イエスもまた、「何を食い、何を飲み、何を着んとて思いわずろう」ことをやめて、ただ「神の国と神の義とを求める」ことに専念すべきことを教えた。いまここに釈尊が、若き弟子たちに向かって、もう一度思い新たに出家の理由を思いおこせよと教えているのも外ではない。最高善を実現せんとするものは、他の一切を賭してこれに専念せねばならぬこと、この道はただ冷静にしかし決然として選択するものの前にのみ開かれるであろうこと、そのことをしゃくそんは、若い比丘たちの胸にきざみつけようとしているのである。

この時、この説法の対象となった若き比丘たちは、言わば「あれか、これか」“Entweder Oder” の前におかれていた。釈尊のことばはその時もなおけっして激情的には語られなかったであろう。だが、静かな語り方のなかで、彼は彼らに「二者択一」を促しているのである。宗教とはもともと、すべてかかるものであり、釈尊の宗教もまたその例外ではなかった。そのことに関連して、私は、ヨーロッパの仏教学者たちが釈尊の「出家」を訳するに「大いなる放棄」“the Great Renouncement” ということばをもってしていることを、はなはだ興味ふかく思う。「大いなる放棄」をなしうるものにして、はじめて「大いなる獲得」をなしうる。出家とは本来、かかる「二者択一」の決意としておこなわるべきものであった。釈尊の「出家」がそうであったように、比丘たちの「出家」もまたそうであったはずである。したがって、この若い比丘たちもまた、一つを選び棄(す)て、一つをえらびとって、ここに到った人々であった。では、この道において放棄せられるものは何であり、また選び願わるべきものは何であったか。

幸福を求める人  「かようにわたしは聞いた」と、また一つの経は、このようなできごとと釈尊のことばをしるしとどめている(漢訳、増一阿含経、31、5)。それもまた、釈尊がかの祇園精舎にあったときのことであった。釈尊は、多くの出家の比丘たちと在家の信者たちを前にしていつものようなもの静かな懇切な態度で教えを説いていた。その座において、何としたことか、一人の比丘がうとうとと居眠りする姿が見うけられた。それは、出家してからなお日の浅いアヌルッダ(阿那律)という比丘であった。説法の座がおわってから、釈尊が彼を呼んで誡(いさ)めて語ったことばも、また、出家の決意をもう一度思いおこせということであった。

「アヌルッダ(阿那律)よ、なんじは由緒ある家に生まれ、信心をもって出家してここに到った者ではなかったか。しかるに今日、説法の座中において坐睡したのは、心なおこの道に専らでないからであろう」

かく言われて、彼の恐縮のさまは、想察するに余るものであったと思われる。ふかくひれ伏して、やがて彼は決然として師の前に申していった。

「世尊よ、今日より以後、たといこの身体が融(と)けただれようとも、世尊の御前にあって眠るようなことはいたしませぬ」

彼は、この失態を肝に銘じて、睡魔との戦いをはじめた。それは恐るべき苦闘であった。「その時より尊者阿那律は、暁に達して眠らず、しかもよく睡眠を除去すること能わず。眼根ついに損ず」と経のことばはしるしている。それをわたしどもは苦行と受け取ってはならない。苦行は釈尊の斥(しりぞ)けるところであった。だが、決然たる戦いなしには、この道は成ることを得ない。「もし右の目なんじをつまずかせば、抉(えぐ)り出して棄(す)てよ。もし右の手なんじをつまずかせば、切りて棄てよ」とは、かの福音書にみえるイエスのことばであるが、その底の決意と戦いとは、釈尊の道をゆかんとするものにとっても、またつねに要せらるるところであった。いまアルヌッダ(阿那律)は、彼をつまずかせた睡魔とたたかって、ついにその眼根を失った。しかし、そのとき彼は、肉眼を失うとともに、心眼を開くことを得たという。

それからまもないころ、彼はひとり精舎のなかにあって、衣のほころびをつくろおうとしていた。だが、眼のつぶれた彼には、針の孔(あな)に糸を通すことができない。そこで彼は、念ずるがごとく、つぶやくがごとくいった。

「もろもろの世間の福(さいわ)いを求めんと欲する者は、わがためにこの針に糸をつらぬいて、功徳をつむがよい」

すると、誰やらん彼のそばに歩みよって、「さあ、その針と糸をよこしなさい。わたしが功徳をつませていただこう」というものがあった。その声は、釈尊その人の声であった。彼はおどろいて、「わたしは師にむかって、そのようなことを言ったのではない」由を語ったが、釈尊は驚懼(きょうく)する彼の手から針と糸とをとって、糸を孔に通しながらいった。

「わたしにも功徳をつませてくれるがよい。世間の人はみんなさいわいを求めている。だが、アヌルッダよ、世の中のさいわいを求める人々のなかで、わたしほど真剣にさいわいを求めているものはない」

その声は、どんなにか暖かく、かつしんみりと、アヌルッダの耳朶(じだ)をたたいたことであろうか。漢訳の経典は、この釈尊のことばを「世間福を求むるの人、またわれに過ぐるは莫(な)し」と記しているが、わたしどもにも、今日もこの一句を口誦(くちず)さむとき、心おのずからに暖まる思いがある。

一見して、釈尊の道は世の幸福なるものに面をそむけてゆく者のごとくである。だが、詮(せん)じつめてみると、この道おいてもまた、その追求するところのものは、幸福のほかの何ものでもない。いな、さらに突きつめていわば、もっとも真剣に、もっとも徹底して、まことの幸福を追求する者の道がここに存しているのである。「万人は幸福ならんことを求める。それには例外がない。人の意思は、この目的に対してでないと、最小の行動をさえ欲しない。これこそ、あらゆる人々のあらゆる行動の動機である」と語った哲人のことばがあるが、釈尊をしてこの道に至らしめたものも、またその例外ではなかった。そのことを釈尊は、もっとも判然と自覚し、もっとも真摯(しんし)に追求した人にほかならなかったことを、わたしどもははっきりと知らなければならない。この経はその結びにつぎのような四句の偈(げ)をしるしている。

「世間のあらゆる力のうち、

天にありても人中にあっても、

福(さいわ)いの力をもっとも勝(まさ)れりとなす。

福いによって仏の道をなすなり」

わたしどもは、これらの句の心をよくよく味わうことによって、この道の本質を見失わぬようにいたしたいと思うのである。

幸福とは一定の状態ではない  ここで、すでに言及した一つの経のことを、もう一度思い出していただきたい。それはほかでもない。釈尊が自己の出家の動機について、弟子の比丘たちのために語られたものである。(漢訳、中阿含経、29、117、柔軟経。南伝、増支部経典、3、38)

それもまた、かの祇園精舎でのことであった。釈尊はふと比丘たちのために、出家以前の自分の生活体験について語りいでた。それは、後世の仏伝にしるすような荘厳誇大な表現ではなく、むしろ素朴に、そして具体的に語られているが、それだけにかえって、真実にせまるものがある。さてしかし、ふと反省してみると、そのような生活の中にあっても、それはなおまったく不安のない、まったく苦しみのない生活だと思うのは、大へん迂闊(うかつ)であったと彼は省察する。その省察は、つまるところ、世の幸福なるものに対する彼の深き吟味にほかならなかった。

わたしはここで、「幸福とは一定の状態ではない」と説いたアリストテレースの思索のあとを思い出さずにいられない。彼はかの『ニコマコスの倫理学』“Ethica Nicomachea” の冒頭において「幸福」の吟味を試みていう。「われわれの達成せんとするあらゆる善きものの中の最上のものは何であろうか。その名目については、たいがいの人の答えはほぼ一致する。すなわち、一般の人々も、たしなみある人々も、それは幸福(eudaimonia)にほかならないという。……だが、ひとたび幸福とは何であるかという点になると、ひとびとは互いにその見解を異にしている」そして彼は、快楽の生活を吟味し、蓄財の生活を吟味し、また名誉ある生活を吟味し、結局それらが最上のものでも、究竟(きゅうきょう)のものでもないことを明らかにして、ついに「理性、または智慧とよばれる人間固有の徳に即しての活動こそ、究極的な幸福である」というよく知られた命題に到達しているのであるが、いま釈尊が、その生活体験に即して営まれた幸福の吟味もまた、その内容においては、かの哲人の吟味したところのものと、はなはだ相似たるものが存する。

後世この師の芳躅(あと)をたずねる人々は、彼がその高き地位をも、富裕にして快楽にみちた生活をも、弊履(へいり)のごとく捨て去って道を求めたことに、ふかい感銘を表白するのが常である。それも理由のないことではない。だがわたしどもがさらに心してこの師のこの「大いなる放棄」について学ばねばならぬことは、その行動をあらしめた原動力が、透徹せる人生の吟味、精細なる幸福の検討に存したことであらねばならぬ。軽躁なる感情と、矯激(きょうげき)なる行動とは、釈尊の道と相去ることもっとも遠い。精緻なる検討と周密なる吟味とを、おのが人生の目的と実践とに加うることのできるものこそが、よくこの師の行履(あんり)を追跡することをうるであろう。わたしどもは、この経において、そのことを学びとらねばならぬ。

人間最上の幸福  さらにわたしは、釈尊が人間の幸福について語られたもう一つの経のおしえを記しておきたい。(南伝、小部経典・経集、2、4、大吉祥経。同・小誦経、5、吉祥経)そこでは、釈尊は、人間のさまざまの機根に応じて、さまざまの幸福を説き来たって、ついに勝義の涅槃に説きいたっているのであって、まことに滋味の掬(きく)すべきものが多い。

それもまた、かの祇園精舎においてのことであった。

「世の人々はことごとく、

さまざまの福祉(さいわい)をねがい、

さまざまの吉祥を念ずる。

願わくは、わがために最上の吉祥を語りたまえ」

かように問える者のあったとき、釈尊はそれに答えて、つぎのように語り教えた。その全文を、この経典は、すべて偈文(げもん)をもって記しとどめている。

「愚かなる者に親しみ近づかぬがよい。

賢き人々に近づき親しむがよい。

また仕(つこ)うるに値する者に仕うるがよい。

これが人間最上の幸福である。

よき環境に住まうがよい。

つねに功徳をつまんことを思うがよい。

またみずから正しき誓願(ちかい)を立つるがよい。

これが人間最上の幸福である。

ひろく学び、技芸を身につけるはよく、

規律ある生活を習うはよく、

よきことばになじむはよい。

これが人間最上の幸福である。

よく父と母とに仕うるはよく、

妻や子を慈(いつく)しみ養うはよく、

ただしき生業(なりわい)にはげむはよい。

これが人間最上の幸福である。

布施をなし、戒律をたもち、

血縁の人々をめぐみたすけ、

恥ずべきことを行わざるはよい

これが人間最上の幸福である。

悪しき業を楽しみとしてはならぬ。

酒を飲まば程をすごしてはならぬ。

もろもろの事に於(おい)て放逸であってはならぬ。

これが人間最上の幸福である。

他人(ひと)を敬い、みずからへりくだるはよく、

足るを知って、恩をおもうはよく、

時ありて教法(おしえ)を聞くはよい。

これが人間最上の幸福である。

事忍び、柔和なるはよく、

しばしば沙門を訪れまみえて、

時ありて法を語り談ずるはよい。

これが人間最上の幸福である。

よく自己(おのれ)を制し、清浄なる行ないをおさめ、

四つのまことの道理を証(さと)りて、

ついに涅槃を実現することを得なば、

人間の幸福はこれに勝るものはない。

その時人は、毀誉(きよ)と褒貶(ほうへん)とによって心を擾(みだ)されることもなく、

得ると得ざるとによりて心を動かさるることもなく、

愁(うれい)もなく、瞋(いか)りもなく、ただこの上もなき安穏(やすらぎ)の中にある。

人間の幸福はこれに勝るものはない。

人よくかのごとき行ないおわらば、

いずこにあるも打ち勝たるることなく、

いずこにゆくも幸いゆたかならん。

かかる人々にこそ最上の幸福はあるであろう」

これが、この経における釈尊のおしえの全偈である。この経のことばによれば、この教法を請えるものは「うるわしき容色の一人の天神」であったという。それは、かの梵天勧請の説話とおなじく、古き経典がしばしば用いる得意の神話的な手法であるが、それはともあれ、そこに教え説かれてある釈尊の次第説法は、さまざまの生活者に対する教えとして、まことに掬(きく)すべき滋味があふれている。(156頁)(第11章おわり)

第十二章 常恒(つね)なるもの無し――諸行無常

爪の上の土ほども  「かようにわたしは聞いた」と、一つの経典(南伝、相応部経典、22、97、爪頂。漢訳、増一阿含経、14、4)は記しとどめている。それも、例によって、釈尊がかの祇園精舎にあった時のことであるが、そのとき、一人の比丘が、釈尊のいますところにきたり、釈尊を拝し、問うていった。

「大徳よ、この世の物象(もの)(色)にして、何ぞ常恒(じょうごう)永住にしていつまでもそのままに変わることのないものがありましょうか」

それは、仏教のよりて立つ世界観にもつらなる問題であった。釈尊にしたがう人々の中には、若くして教養に富める知性的な人々がすくなくなかったので、このような哲学的な問題が釈尊に問われることも稀(まれ)ではなかった。

「比丘よ、この世のものには、常恒(じょうごう)にして永住するもの、いつまでも変易しないというものはまったくない」

そう答えてから、釈尊は、そのあたりの土をすこしつまんで、爪のうえにのせて比丘のまえに示しながら、さらに語っていった。

「比丘よ、たったこれったけの物といえども、常恒永住にして、変易せざるものとては、この世に存しないのである。もし比丘よ、この爪のうえの土ほどのものでも、永住常恒にして変易せざるものが存するならば、わたしの教える清浄(しょうじょう)の行によって、よく苦を滅しつくすことはできないであろう。だが比丘よ、この世には、この土ほどのものといえども、常恒(つね)にして変わることのないものはないからして、わたしの教えるこの道によって、よく苦を滅しつくすことができるのである」

そして釈尊は、さらに受(感受)についても、想(表象)についても、行(意志)についても、識(意識)についても、おなじ趣旨のことをくりかえした。すなわち、この世界におけるあらゆる物質(色)もまた精神(受・想・行・識)も、すべて常恒ならぬものであり、移ろうものであるとの見解を、ここに釈尊は披瀝(ひれき)せられ、そうであるがゆえにこそ、わが説き教えるこの道が、はじめて可能となるのだと語っているのである。

この短い経は、なにげなく読み去りゆけば、なんの変哲もないように思われる。そこには、例によって、仏教の無常観が語られているにすぎないと思われるのみであろう。だが、心して再読すれば、そこには釈尊が、自己の教法のよってたつ根本的立場を、さらりと打ち出して語っていることが知られるであろう。「もしこの世に、この爪のうえの土ほどの物でも、永住常恒にして移ろわざるものがありとするならば、わたしの教えるこの道はなることを得ないであろう」と釈尊は語っている。そのことは、仏教というこの宗教が、まったく「常恒なるもの無し」とする世界解釈のうえに立っていることを語っている。もしも、一毫(いちごう)といえども常恒なるものがありとするならば、この宗教はそのよりて立つところを失うのだ、と言っているのである。

だが、常恒なるもの一もあることなしとする釈尊のこの見解は、けっして釈尊ただ一人の独特の見解ではない。もしも、この見解がただ一人の見解であって、世界の他のあらゆる思想に通ぜざるものであったならば、仏教はかえって世界の思想界の中にあって孤立し、ひとり奇矯(ききょう)の道をゆくものとならざるを得ないであろう。

だが、事実においては、けっしてそうではない。高く面をあげて、ひろく眼を東西古今の思想にはせてみると、わたしどもは、多くのすぐれたる思想家たちが、結局、釈尊とおなじ立場にたっていることを知るにいたるであろう。なかんずく、あたかも釈尊とほぼおなじ時代において、ギリシャの哲学者ヘラクレイトス(Herakuleitos)が、「万物は流転する」“Panta rhei.”と称して、すべてのものから恒常と不変とを放逐(ほうちく)したことは、哲学史をよむ人々のよく知るところである。

だが、わたしどものさらに知らねばならないことは、釈尊は、このような見解をインドの思想界においてもっともはやく打ち出した人であったというのみにとどまらず、さらにかかる世界観に立脚して、人間の現実相の解釈に徹し、また人間の当為についての精密な理論をととのえ、ついに仏教と称せられるこの道を人類の中にもたらした人であったということでなければならぬ。

では、彼は、この見解を人生の現実にあててどのように説きたもうたであろうか。また、この見解のうえに立っていかなる人生の当為を教えたもうたであろうか。それらの教説を、さらに古き経についてたずねてみなければならない。

一つのカテキズム  古い経典をひもといていると、わたしどもは、釈尊がしばしば弟子の比丘たちに向かって質問を試みていることを知ることができる。そのたずねたところは、たいてい、この道の教えの基本的な問題についてであって、弟子の比丘たちがそれらをよく記憶しているかどうか、あるいは正しく受持しているかどうか、あるいはまた、どのように解釈しているかであろうかをためしてみようとしたのであった。それらの質問の中には、たとえば、

「比丘たちよ、すべて正しく苦を滅するには、いかんが思量すべきや」

と、この道の教えの概要についての問いもあった。あるいはまた、

「比丘たちよ、なんじらはそれを如何に思惟するや。比丘はいかにせば、在家に入るにふさわしきや」

と、この道の実践の問題について、その基本的態度を問うたこともあった。またあるいは、無明におおわれ、渇愛に縛せらるる愚人について語ったのち、

「比丘たちよ、然(しか)らば賢き者と、愚かなる者とに、如何なる別があろうか。その差別、差異はいかん」

と、その教うるところについて、いわば応用問題を提出したこともあった。そのようにして、弟子たちに質問する釈尊の態度は、あたかもその教え子に対する教師を彷彿たらしめるものであって、わたしどもはそこに「偉大なる人類の教師」のすがたを仰ぐことができる。それらの質問に対して、弟子の比丘たちは、よく答えることを得るものもあり、また答えることを得ぬものもあった。答えることを得ないものは、師の釈尊を拝して、

「大徳よ、われらにとりては、法は世尊を本とし、世尊を導者とし、世尊を所依(しょえ)となす。善い哉(かな)、大徳よ、これらの意義を述べたまわんことを。比丘たちは世尊のことばを聞きて受持したてまつらん」と、釈尊のさらにそのことについて説き教えんことを乞うのがつねであった。

しかるに、かような釈尊の質問があったとき、いずれの比丘たちもいつも型のごとく、おそらくは言下にすらすらと答え得たであろうと思われる問答が、たびたび古き経に記されている。それは、物象(もの)(色)は常恒であるかどうかという質問にはじまる一連の問答であって、その一つの例をあげると、「かようにわたしは聞いた」と、南伝、相応部経典の一経は、祇園精舎にあった釈尊と、その侍者のアーナンダ(阿難)との問答を、このようにつたえて記している。

「善い哉、世尊よ、願わくばわがために、略して法を説きたまえ。わたしは世尊より法を聞きて、ひとり静かなる処(ところ)におもむき、放逸ならずして、精進し努力したいと思います」

「阿難よ、では、なんじは、如何に思うか。物象(もの)(色)は、常恒であると思うか。無常であると思うか」

「大徳よ、それは無常であります」

「では、無常であるならば、苦であろうか、楽であろうか」

「大徳よ、それは苦であります」

「ではさらに、無常にして苦なる、それらの変易するものは、これを観察して、これはわが物(mama 我所)である。これは われ(attan 我)である。これは わがわれ(me atta 我体)であるとなすことを得るであろうか」

「大徳よ、それはできませぬ」

さらに釈尊は、受(感受)についても、想(表象)についても、行(意志)についても、また識(意識)についてもおなじようにたずねる。それに対して、アーナンダの答えもまた、そのいずれについてもおなじであった。

そこで釈尊は、彼のために教えて言った。

「そのゆえに、阿難よ、われらは一切を厭(いと)い離れねばならぬ。一切を厭い離るれば、欲を離れることができる。欲を離るれば、解脱することができる。すでに解脱するに至れば、――われは解脱したのである。――との智が生ずる。かくて――わが迷妄の生涯はすでに終わった。わが清浄(しょうじょう)の行はすでになった。わが作(な)すべきことはすでになされた。このうえは、さらにかくのごとき生涯をくりかえすことはないであろう。――と証知することができるのである」 爪の上の土ほども  「かよ それでこの短い経は終わっているのであるが、この問答と教示とは、その中にほとんど仏教の基本的な構造の全体をふくんでいる。すなわち苦と無我と、そして厭離(えんり)と解脱とに言及しているのである。しこうして、その問答の部分すなわち無常感と苦観と無我観とについては、釈尊の弟子の比丘たちは、問わるればいつでも、この問答とおなじ型で、すらすらと答えることができた。したがって、ふるい経典の中には、いくたびとなく、型もことばもおなじ問答がくりかえし記されている。

キリスト教には今日なおカテキズム(catechism)と称される教義問答の型が存しているが、もし釈尊の教団において、かのカテキズムに相応するものを求むるならば、これらの問答はまさにかかるものの一つであったに相違あるまいと思われる。

無常なるものは苦なり  さて、この世に常恒(つね)なるもの一もあることなし、物質(色)も精神(受・想・行・識)もすべて転変するもの、無常なるものであるとして、では、いかにして、さきの問答における、

「では、無常であるならば、それは苦であろうか、楽であろうか」

「大徳よ、それは苦であります」

という公式は成立するのであろうか。さらに釈尊は、多くの説法の中において、そのことをもっと簡頸(かんけい)に、

「およそ無常なるもの、そは苦なり」

と説いているが、かかる命題はいかなる推理によって成立しているのであろうか。おそらく、そのことは、初期の教団の比丘たちにとっては、ほとんど自明の理にひとしいものであったであろう。したがって、「およそ無常なるもの、そは苦なり」と語らるれば、それだけですでに充分うなずくことができたであろう。あるいはまた、「すべて無常でであるならば、それは苦であろうか、楽であろうか」と問わるるならば、彼らは立ちどころに「それは苦である」と答えることを得たであろう。だが、今日わたしどもにとっては、事情はまったく異なっている。そのことは、わたしどもにとっては、けっして自明の理ではない。しかも、そのことは、仏教の世界観を人生生活にあてはめての、基本的な問題であるのであって、四諦説法の第一諦たる苦諦(くたい)すらも、そのことを基底として成っているのである。わたしどもは、したがって、そのことをもっと詳細にみたいと思う。そのことは如何なる道理によって成るのであるか。ふるい経典はそのことについて、どのように説いているのであろうか。

そのようにたずね入ってみるとき、わたしどもはなお、いくつかの興味ある釈尊の説法に接することができる。その一つは、この問題に関する疑問について問う一人の比丘の質問にはじまる。(南伝、相応部経典、三六、一一、独坐。漢訳、雑(ぞう)阿含経、一七、二二、禅思)

「ここに大徳よ、わたしは独り坐し静かに思索しているとき、心のなかにかような疑問が起こりました。それは、――-世尊は三つの種類の感受を説きたもうた。それは楽受(楽しとする感情を生ずること)と苦受(苦しとする感情を生ずること)と非苦非楽受とであって、世尊はこの三種の受を説きたもうた。しかるに、世尊はまた、およそいかなる感受も、それは結局苦であると、かく説きたもうた。いったいそれは、いかなる意味をふくんでいるのであろうか。――ということであります」

その比丘の名は知られていないが、この疑問の趣旨は、今日のわたしどもにも身近な親しみを感ずることができる。彼は「世尊は三種の受を説きたもうたのに」と語っている。今日のわたしどもには、「世の中には苦しいこともあれば、また楽しいこともあるのに、何すれば釈尊は『すべては苦である』と説きたもうのであるか」と疑われる。その疑いは、彼においても、またわたしどもにおいてても、詮(せん)ずるところ、おなじ筋のものということができよう。それに対して、釈尊はかように答えている。

「善い哉、比丘よ。善い哉、比丘よ。なるほど、わたしは三つの種類の受があると説いた。それは楽受と苦受と非苦非楽受とであって、わたしはその三種の感受ががあると説いた。しかるに、わたしはまた、およそいかなる感受も、所詮ことごとく苦であると説いた。それは何故であるかというに、比丘よ、わたしはこれを諸行の無常なることについて語ったのである。比丘よ、一切の諸行は変易するものであるがゆえに、わたしは、およそいかなる感受も、つまるところみなことがとく苦に帰すると説くのである」

そして、漢訳においては、さらに偈を説いて、

「諸行は無常にして、

皆これ変易の法なることを知る。

ゆえに受はことごとく苦なりと説く。

さとれるもの(正覚者)の知るところなり」

と教えたもうたという。

そこにわたしどもは、「一切皆苦」と説きたもうた釈尊のt立場が、いかなるものであったかを知ることができる。釈尊もまた、この世には苦しいこともあるし、楽しいこともあることを、見のがしたのではなかった。仏教でいうところの受(vedana)とは、今日の心理学においてはちょうどこれに該当する概念はない。それは、わたしどもの感官が対境にふれてそれを受納するはたらきに名づくるのである。したがって、それは何よりもまず快、不快等の受動的な感情としてはたらく。それを釈尊は、楽受(快の感情)苦受(不快の感情)ならびに非苦非楽受(快でも不快でもない感情)の三種をもって規定した。そのような感情は何人(なんびと)も感受せざるを得ない。いわゆる凡夫もそれらを感ずるとともに、聖者または阿羅漢と称せられる境涯に到達した人々もまたそれらを感ずる。そのことを釈尊もまた否定しはしなかった。

だが、釈尊の考え方はそこにとどまらず、常識の平板をはるかにこえて、深くかつ遠く検討しすすんでゆく。人は苦受をあたえるがごとき対境にむかっては、けっして愛執することはないであろう。不快の感情をもたらすものからは、彼は眼をそらし、耳をおおい、身をひるがえして厭(いと)い離れんとする。だが、楽受をあたえるがごとき対境に対した時にはどうであろうか。彼の眼はそれに結びつけられ、彼の耳はそれにむかってそばだてられ、彼の身体はそれに引きちけられる。それを釈尊は愛とよぶ。愛の生ずるとき、彼はそれを執取する。愛(いと)しき者とはいつまでもともに居らんことが願われ、美しき物はいつまでも移ろわざれと願われる。

だが、諸行は無常にして、常恒(つね)なるものは一つもありうることを得ない。愛する者とはいつか別離しなければならぬ。美しい物は美しいほど、移ろうこともまた速やかである。そのときには人はまた涙さんぜんと悲しまねばならぬ。では、楽受もまたやがて苦受となって、彼を裏切るのではないか。なんとなれば、諸行は無常であるからである。常恒なるものは一つもありえないからである。そのことを釈尊は、しばしば「愛のえんより愛生ず。これ苦の生起(せいき)なり」と、簡明率直に語っておられる。かくて諸行無常の理のうえに立ってみると、いかなる受もすべて、所詮は苦に帰するのだと言わねばならぬのである。

苦とは何か  そこでわたしは、かのサーリプッタ(舎利弗)を説者とする、まことに短い経のことばをここに引用して、釈尊の語りたもう「苦」とは何であるかを、少しく吟味しておきたいと思う。

それは、かれサーリプッタが、マガダ(摩掲陀)国のある村にいたときのことであった。そのとき、一人の外道の修行者のジャンプカーダカ(閻浮車)なるものが彼を訪れきたって、このような会話を交わしたことがあった。

「友サーリプッタよ、〈苦、苦〉というが、いったい苦というのは何であるか」

「友よ、これらの三つのものが苦である。それは苦々性(くくしょう)のもの、壊苦(えく)性のもの、行苦(ぎょうく)性のものである。友よ、この三つのものが苦であると称せられる」

苦(dukkha)ということばは一つであっても、人々がそれによって意味するものは必ずしも同一ではあるまい。ある人はその貧しくて苦しいことを苦とするであろう。それは貧苦を苦といっているのである。またある人はその罪ふかきことを自覚して思い悩んでいることもあろう。それは罪苦と呼ばれたこともあった。あるいは愛児をうしなった人は、そのことを悲しむであろう。事業に失敗した者は、そのことに苦しみ悩むであろう。さらに、病の床に呻吟(しんぎん)している人々は、それを苦しんでいるにちがいない。

ことばはおなじく苦であっても、それによりて意味し、そのために苦しみ悲しみ悩んでいるものは、人それぞれによってさまざまに異なっている。しかるとすれば、釈尊がそれによって意味せられた「苦」というのは、いったい何であったであろう。そのことを的確に知っておかなかったならば、わたしどもはあるいは、釈尊の真に与えんとするものを取りちがえ、期待すべからざるものを仏教に期待するのをおそれなしとなし得ない。

さていまサーリプッタは、外道の修行者の問いに答えて、いうところの苦なるものを、三つの性格に分類して語っている。それは苦々性と壊苦(えく)性と行苦性とであって、「この三つのものが苦であると称せられる」と言い切っている。苦々性(dukkadukkhata)とは、苦事の成るによって苦悩を生ずるもの、たとえば寒さ暑さのごとき、あるいは飢え渇きのごとき、これが生ずれば、これを受くるものは当然苦しまねばならぬ。かかるものを苦々性の苦というものであって、それはもっとも素朴にして直接的な苦と言ってよいであろう。つぎに、壊苦性(viparinamadukkhata)とは、おのれの愛楽するものの壊するによって苦悩を生ずるごときもの、たとえば、愛する妻や子が死んだという場合、あるいは美しいと思う花が散ってゆくとき、そこには当然悲しみが湧き、憂いが生ずる。かくて、「楽境の壊するとき壊苦を生ず」という命題がそこにある。さらに、行苦性(sankhataradukkhata)とは、「一切法の遷流(せんる)し無常なるによりて苦悩を生ずる」ものと注されることができるであろう。たとえば、いつまでも若くありたいとねがっているのに、わたしどもはいつの間にか老いゆかねばばらぬ。いつまでも生きていたいと思われるのに、わたしどもはやがて死んでゆかねばならぬ。それらは何よりもまず生老病死の四苦にとって代表せられる。

かように、サーリプッタによって分類せられた三種の苦性を吟味して、さて振りかえって、釈尊の説きたもうた苦とは、そのいずれであったかを考えてみると、わたしどもは当然、つぎのごとき結論にいたることができるはずである。すなわち、釈尊の関心の中心に存していた苦とは、明らかに行苦および壊苦(えく)とよばれる種類の苦であった。そして、それらはいずれも、この世には爪のうえの土はども常恒(つね)なるものは存しないという事実のうえに展開されるところのものに外ならなかった。いかなれば、楽境壊して苦を生ぜねばならぬのであろうか。いかなれば、愛する者は逝(ゆ)き、美しきものは移ろわねばならぬのであるか。また、何のゆえに、わたしは老いねばならぬのであるか、わたしもまた死んでゆかねばならないのであるか。

いうまでもなく、それらのことはすべて、万象ことごとく変易せざるはないという事実のうえになるものにほかならなかった。そこに、「およそ無常なるもの、そは苦なり」と簡明に説き給うた釈尊のことばが、寸毫(すんごう)のあますところなく、このことを言いつくしてしていることが知られるのであろう。

第二の矢を受けず  さらに、一つの経においては(南伝、相応部経典、36、6、箭(や)。漢訳、雑阿含経、17、15、箭)釈尊はこの問題について、つぎのような問いをもって比丘たちに質問を試みられたことがあった。

「比丘たちよ、いまだ正しき教えを聞くことなき凡夫は、楽受をも感じ、苦受をも感じ、また非苦非楽受をも感ずる。比丘たちよ、すでに正しき教えを聞ける聖弟子もまた、楽受を感じ、苦受をも感じ、また非苦非楽受をも感ずる。では比丘たちよ、有聞(うもん)の聖弟子と無聞のの凡夫とは、いかなる点において異なっているのであろうか」

それは、釈尊が得意の質問のしかたであった。彼はしばしばいろいろの問題について、それでは賢者と愚人とは、あるいは凡夫と聖弟子とは、そのことについていかなる差別があるのであろうかと質問した。そして此処では、三つの受について、賢者も愚人も、凡夫も聖弟子も、いずれもみな同じくこの三受を感じ受けねばならぬが、ではこれらの受について、凡夫と聖弟子の違いはどこに存すると思うかというのであった。それに対して、弟子たちは答えることができなかった。そして、

「大徳よ、われらにとりては、法は世尊を本とし、世尊を導者となし、世尊を所依(しょえ)となす。願わくば、そのことについて説きたまわんことを。われらは世尊の教えをききて受持したてまつらん」

と、師の教えを乞うた。そのとき釈尊は、二つの箭(や)のたとえをもって、その差別をこのように説き教えた。

「比丘たちよ、よく聞き、よく思ってみるがよい。未だ正法(しょうぼう)を聞かざる凡夫は二種の受を感ずる。それは身における受と心における受とである。それはたとうれば、第一の箭(や)をもって刺され、さらに第二の箭をもって刺されるに似ている。彼はいまだ正法を了知せざるがゆえに、もし五欲において楽受をうければ、それに愛執するがゆえに、さらにたちまち欲貧(よくとん)の煩悩の縛するところとなる。またもし苦受をうくることあれば、それに対して瞋恚(いかり)を生ずるがゆえに、また瞋恚のとらうるところとなる。

それに反して、すでに教法を聞くことを得たる聖弟子は、ただ一つの受を感ずるのみである。すなわち彼は、身における受は感ずるけれども、心における受を感ずることはないであろう。これをたとうれば、第一の箭をもって刺され、されど第二の箭を受くることなきに似ている。なんとなれば、彼はすでに正法を知るがゆえに、もし五欲において楽受をうけても、彼はこれに愛執することなきがゆえに、その心をさわがしその意を乱すにいたらず。またもし苦受を味わうことがあっても、彼はそれに対して瞋恚(いかり)を生ずることなきがゆえに、また煩悩の擾乱(じょうらん)するところがない。これを第二の箭を受くることなしというのである」

わたしどもは、ともすれば、仏陀もしくは阿羅漢といえば、苦楽ともに滅しつくして、寒厳枯木のごとき存在となりきっているかに考えがちである。だが、釈尊のこの説法は、明らかに、そのような考え方は間違いであることを語っている。聖者といえども、聖弟子といえども、凡俗の人々とおなじように、「楽受をも感じ、苦受をも感じ、非苦非楽受をも感ずる」のである。美しいものを見ては美しいと感じ、愛(いと)しいものを見ては愛しいと感ずる。また、醜いものをみれば醜いと感じ、憎いものを見ては憎いとかんずる。そのことは少しも異なるところがない。だが、彼らはけっして「第二の箭」をうけないのである。「第二の箭」を受けざるがゆえに、苦受もまた楽受も、さらに彼らの心の平和をかき乱すにいたらないと釈尊は説いている。

ではわたしどもは、いかにすればかの「第二の箭」をうけず、よく心の平和をたもつことができるのであろうか。それについては、釈尊は、この諸行無常の世界観のうえに立脚して、人間のあるがままの分析につき、人間のあるべきようの考えかたにつき、またそれが実現のためのもろもろの方法について、なお多くのことを説き教え、語りのこしておられる。ではさらに、その教え遺(のこ)されしとことを、ふるき経典についてたずね入ってみたいとおもう。

第十三章 自己について――諸法無我

われなしと知らば  「かようにわたしは聞いた」と、阿含部の一つの経は記しとどめている。(漢訳、雑阿含経、3、6、優陀那。南伝、相応部経典、22、55、優陀那)それもまた、釈尊が祇園精舎にあった時のことであった。その時、釈尊は、問うものもなきに、みずから説きいでて、このように口ずさんだ。

「われというものはない。

また、わがものというものもない。

すでにわれなしと知らば、

何によってか、わがものがあろうか。

もし、このように解することを得れば、

よく煩悩を断つことを得るであろう」

釈尊の説法を、その形式および内容について、さまざまに分類した古来の仏教学者たちは、それを九つもしくは十二に分かって、九部経または十二部経と称した。その一つに優陀那(うだな、Udana)と称する項目がある。訳して「無問自説」という。問うものなきにみずから説きいでた説法であるとの意である。この一経の所説もまた、この部分はかかる無問自説の説法であるがゆえに、これに題して「優陀那(うだな)」と名づけている。

いうまでもないが、釈尊の教法は、たんなる学問の所説でもなく、思想の体系でもなく、所詮はよき人生の建立のためのものであった。実践的要求こそが、疑いもなく、もっとも優越するものであった。とするならば、その教法のあらゆる経(たていと)よ緯(よこいと)とは、結局「我」の問題にむすびついてゆかねばならぬ。それゆえに、「我」の問題は、この宗教においてもまた、その教法の眼睛(がんせい)をなすものでなくてはならなかった。その「我」とは何であろうか。

その「我」について、今日もまた釈尊は、ひとり静かに坐して瞑想していられたのであろう。それは、このように把握するがよく、かく把握することによって、よく煩悩にかつことができるであろう。そうした瞑想の内容がおのずから口誦(くちず)さまれた時、この「無問自説」の説法となったのであろう。すると、その時、この釈尊のことばを、一人の比丘がきいていて、釈尊の前にまかり出て、

「大徳よ、ただいま誦(ず)せられたことばの意味は、どのようなことでありましょうか」

と問うた。それは、まだ若い、しかし求道に熱心な比丘であったにちがいない。その比丘のうえに、釈尊は静かな暖かい眼差しをそそぎながら、このように説き教えた。

「比丘よ、ここにひとりの人があるとするがよい。彼は、いまだ覚者(かくしゃ)(仏陀)を見ず、覚者の法(教法)を知らず、覚者の法に順(したが)わない。あるいはまた、彼はいまだ善知識(善き友)を見ず、善知識の法を知らず、善知識の法に随(したが)わない。したがって彼は、色(しき)(物象、もの)は我である、我は色を有す、我の中に色がある、色の中に我がある、と見るであろう。そこに迷いのもとが存するのである。

なんとなれば、彼は、かく見るがゆえに、無常なるものを無常なりと、あるがままに知ることを得ない。苦であるものを苦であると、あるがままに知ることを得ない。一切は因縁のむすぶがままに有り、また、一切は因縁の解けるがままに壊するものであるのに、そのことを彼は、ありのままに知ることができないのである。

比丘よ、またここに、ひとりの人があるとするがよい。彼は、すでに覚者の法を知り、覚者の法にしたがう。あるいはまた、すでに善知識を見、善知識の法を知り、善知識の法にしたがう。ゆえに彼は、色は我であるとも見ず、我は色を有すともみず、また、我の中に我ありとも見ることがない。

かく見るがゆえに、彼は、無常なるものを無常であると、あるがままに知ることができる。苦であるものを苦であると、ありのままに知ることができる。また、無我なるものを無我であると、如実に知ることができる。一切は因縁のむすぶがままにあり、また一切は因縁の解けるがままに壊するものであることを、彼は、ありのままに知ることができるのである。

そのようにして、彼は、色・受・想・行・識、ことごとく壊するものであることを知るがゆえに、また、

『われというものはない。

また、わがものというものもない。

すでにわれなしと知らば、

何によってか、わがものがあろうぞ』

と知ることができるのである。比丘がもし、かくのごとく解することを得たならば、彼はよく、われらを欲界に結びつける五種の煩悩(五下分結、ごげぶんけつ)を断つことができるであろう。わたしは、そのことを説いたのであった」

最愛の自己  ではいったい、「われというものはない」というのは、どのようなことであろうか。いうまでもなく、それが「諸法無我」ということにほかならないのであるが、それはいったい、どのように理解すればよいのであろうか。

それは、「われを忘れる」ことでもなく、「自己のことを捨ておく」ことでもないことを、わたしどもはまずはっきり知っておかねばならない。よく知られて『法句経(ほっくぎょう)』の一偈(いちげ)には、

「自己の依所は自己のみである。他にいかなる依所がろうか。自己のよく調御(ちょうぎょ)されたるとき、人は得難い依所を得るのである」

と説かれてあることが思いだされる。しかるとすれば、釈尊のおしえる道においては「われを忘れる」ことが教えられてあろうはずはあるまい。さらにまた、おなじく『法句経』の一偈には、

『たとい如何なる大事であろうとも、他のために尽くして、自己の義務をおろそかにしてはならぬ。自己の義務を知って、つねに自己の義務に専念しなければならぬ」

とも記されている。しかるとすれば、この道においては、自己のことは捨ておくなどということは、飛んでもない見当ちがいのことと知らねばならない。それらのことについて、一つの経(南伝、相応部経典、3、8、末利(まり))がしるしとどめるつぎの説法は、まことに感銘のふかい教えを含んでいる。

それもまた、釈尊が、かの祇園精舎にあった時のことであった。そのある日のこと、この国(コーサラ)の王パセーナディ(波斯匿、はしのく)は、その夫人のマッリカー(末利、まり)とともに、高楼にのぼって四方の風景をながめていた。そのとき王はふと夫人にたずねていった。

「末利よ、そなたは、自己よりも愛しいと思われるものがあるであろうか」

夫人はしばらく考えていたが、やがて答えていった。

「大王よ、わたしには、自分よりも愛しいと思うものは考えられません。大王には、何ぞ、ご自分よりも大切なもの、愛しいと思われるものがございましょうか」

そう問い返されてみると、王にもまた、自分よりもっと愛すべきもの、もっと大事であるとすべきものは、やはり考えることができなかった。

「自己よりも愛すべきものは何もない」王と夫人とは、この結論において一致せざるを得なかった。だが、そのような考え方が、はたして正しいものはどうか。二人だけでは何となく不安である。二人とも何か思いちがいをしているのではあるまいか。そう思った王は、いそいで高楼をくだり、馬車を駆って、釈尊を祇園精舎に訪うて、その教えを乞うた。それに対して、答え教えた釈尊のことばを、その経は、偈(偈文)をもってつぎのように記している。

「人の思惟(おもい)はいずくへおもむくこともできる。

されど、何処へおもむこうとも、

人は自己(おのれ)よりも愛(いと)しきものを見いだすことはできぬ。

それとおなじく、他の人々にも、

すべて自己(おのれ)はこのうえもなく愛しい。

されば、自己の愛しいことを知るものは、

他のものにも慈しみをかけねばならぬ」

この経のことばのいわんとするところは、おそらく、この偈の後半にあったのであろう。だが、それとともに、釈尊は、王と夫人とが高楼の問答において到達した結論を、けっして否定してはいない。否定するどころか、その結論にふかくうなずいて同意をしめしておられる。「自己よりも愛しいものは何ものもない」そのことは、何びとも否定することはできない。釈尊もまたこのことを否定して道を説いた人ではなかった。だが、自己こそもっとも愛すべきものであるならば、ほんとうに自己を愛しなくてはならない。ほんとうに自己を愛するためには、どうすることがほんとうに自己を愛する道であるかを、はっきりと知らねばならない。そして、もしわたしどもが、よく心して釈尊の教法を味わってみるならば、それは徹頭徹尾、ほんとうにおのれを愛する道を説いたものにほかならないことを知ることができるであろう。

まことの自己を愛する者

「もし自己を愛すべきことを知らば、

よく自己を護るがよいであろう。

賢き者は、夜の三分(さんぶん)のうち、

その一分は覚醒(かくせい)してあらねばならぬ」

そのように説かれてある『法句経』の一偈もまた、おそらくは釈尊のおしえを伝えたものにちがいあるまい。

「無知にして愚かなる者は、

おのれに対して仇敵のごとくふるまう。

なんとなれば、彼は悪しき業をおこない、

おのがうえに苦果をもたらすがゆえに」

かく語られる『法句経』も一偈もまた、必ずや、釈尊の説きたまえるものに相違あるまい。さらにまた、釈尊は、

「おのれを愛すべきものと知らば、

おのれを悪に結びつくるなかれ。

かだし、悪しき業をなす人々には、

安楽は得がたきものなればなり」

と教え説かれたことがあったと、一つの経典は記し伝えている。(南伝、相応部経典、3、5、愛者、漢訳、雑阿含経、46、8、護己)

それもまた、釈尊がかの祇園精舎にいた時のことであり、その内容もまた、かのパセーナディー(波斯匿)王と釈尊の応答である。今日もまた、釈尊を訪れ、釈尊を拝したかの王は、自己(おのれ)の静坐思索のあとを語って、釈尊の批判と教えを乞うた。

「世尊よ、わたしは独り静かに坐して考えているとき、ふと、このようなことを思った。真に自己を愛するというのは、どのような人のことを言うのであろうか。また、自己を愛せぬというのは、どのようなことであろうか。世尊よそれらのことについて、わたしはこのように考えてみたのであるが、この考えはいかがなものでありましょうか。

世尊よ、何びとにもあれ、その行為(おこない)において悪しきおこないをなし、そのことばにおいて悪しきことばを語り、その意(こころ)において悪しき思いをなすならば、その人は、真に自己を愛するものではないであろう、とわたしには思われる。たとい、その人々が――わたしは自分を愛する――と言ったとしても、彼らは真に自己を愛する者ではないであろう。なんとなれば、彼らは、愛せぬ者が愛せぬ者に対してなすところのことを、彼らみずからに対してなしているのではないか。それゆえ、わたしには、彼らは真に自己を愛する者とは思えないのである。

それに反して、世尊よ、何びとにもあれ、その行為において善きおこないをなし、そのことばにおいて善きことばを語り、その意においてよき思いをいだくならば、その人は、まことに自己を愛する者であろうと思われる。たとい、その人が、――わたしは自分を愛しない――と語ったとしても、彼らこそ、まことに自己を愛するものであろうと思われる。なんとなれば、彼らは、愛する者が愛する者に対してなすところのことを、彼らみずからに対してなしているからである。それゆえに、わたしには、彼らこそまことに自己を愛する者であると思われるのである。

世尊よ、わたしは独座静観のうちにあって、このように考えてみたのであるが、このことはいかがなものでありましょうか」

釈尊は、王の語るところを聞いて、ふかくうなずきたまい、さて説いていった。

「大王よ、その通りである。まったく、その通りである。何びとにあれ、身・口(く)・意の三業(さんごう)において悪しきことをなす者は、まことに自己を愛するものではない。

また、何びとにもあれ、身・口・意の三業において善きおこないをなすものは、彼らこそ、まことに自己を愛する者であるということができる」

そして釈尊は、さらに、偈をもって説いていった。

「おのれを愛すべきものと知らば、

おのれを悪に結びつけてはならぬ。

なんとなれば、悪しき業をなす人々には、

安楽は得がたきものであるからである」

諸法無我  では、わたしどもは、どうすればよいというのであるか。人はすべて、何ものにもまして自己(おのれ)を愛するであろう。したがって、誰もそれと知って自己に悪をむすびつけるものはあるまい。わざわざ自分を不幸にしようとするものは誰もあるまい。しかも、人々が誰よりも自己を愛しながらも、自己に悪を結びつけ、自己を不幸にしているのは、何のゆえによるもであろうか。

そのことに対する釈尊の解答は、すでに最初にあげた経のことばの中にも、明らかに説かれている。それは、つまるところ、正しい教えを知らないがゆえに、「われ」というものを考え誤っているからである、というのである。人々はたいてい、その肉体をゆびさして、そrが「われ」であると思っている。そのことをゆびさして、釈尊は、「彼らは、色(もの)がわれである、われは色を有す、われの中に色がある、と見ているであろう。それが迷いのもとである」と教えている。

だが、よく考えてみると、わたしどもにも、そのことが間違いであることがわからぬでもなかろう。わたしどもはけっして、わが手をゆびさして、われであるとはいわない。わが足がわれであるともいわない。わが胃がわれであるともいえない。釈尊はそういうときに、よく芭蕉(ばしょう)のたとえを説かれている。芭蕉というものは、そのどこにひそんでいるのであろうかと、いくら皮をむいてみても、何にも出て来はしないであろう。それとおなじように、肉体(色)のどこをさがしてみても、これが「われ」であるといえるものは、何処にもみつかりはしない。そのことを、釈尊は、「色はわれなり」とみるのは、正しい見方ではないと教えている。

そして、さらにおなじことは、わたしどもの感覚(受)についてもいえる。また、表象(想)についても、意志(行)についても、意識(識)についてもいうことができる。そのことを、釈尊はまた、「受はわれなり」「想はわれなり」「行はわれなり」あるいは「識はわれなり」と見るべきではないと説いている。そして、「諸法無我」とは、かかる考え方の総括にほかならない。

そのことについて、ふるい経典のしるすところによると、釈尊の弟子の比丘たちは、仏教のカテキズム(教義問答)とも言うべき二つの慣用句を有していた。その一つは、すでに言えるがごとく、

「色はわれなり、われは色を有す、わが中に色あり、色の中にわれあり、受

……想……行……識の中にわれありと、かく見るべきにあらず」

という形式であり、いま一つは、

「色は無常なり、無常なるものは苦なり、苦なるものは無我なり。無我なるものは、我所にあらず、われにあらず、我体(がたい)にあらず」

というのであって、もし比丘がよく正慧(しょうえ)をもって、このことを如実に観ずることをうれば、すなわち煩悩を断って、解脱することをうるのだと教えられている。最初の偈文の「無問自説」に、

「われというものはない。

また、わがものというものはない。

すでにわれなしと知らば、

何によってか、わがものがあろうか。

もし、このように解することを得れば、

よく煩悩を断つことを得るであろう」

とあるのも、そのことに外ならないのであった。

花の香のごとし  これまで挙げた説法によると、釈尊は、一方においては、自己の愛すべきことを説き、また一方においては、たえず無我の教えを力説している。では、いったい自己というものは、いかに把握すればよいのであろうか。なお疑問の一片を残り存することを感ずるならば、つぎの経によって、それを解することができようと思う。(南伝、相応部経典、22、89、差摩。漢訳、雑阿含経、5、1、差摩)

それは、コーンサンビー(憍賞弥)の園の精舎に、多くの長老の比丘たちが集まっていた時のことであった。そのとき、ケーマ(差摩)とダーサカ(陀婆)という二人の長老の間に、このような問答が交わされた。

「友ケーマよ、なんじはわれありと説くと聞く、なんじの説いてわれありとなすは、何を指してわれありというのであるか。肉体(色)がわれなりというのであるか。肉体をはなれてわれありとなすのであるか。あるいは、受を、想を、行を、もしくは識をゆびさして、それがわれであるというのであるか。それとも、それらを離れて、なおわれありと説くのであるか。友ケーマよ、なんじがわれありとなすのは、いったい、何をゆびさして、われありというのであるか」

そのように問うダーサラの語気には、なにか、ケーマの説くところを、詰問せんとする気配があった。だが、ケーマは静かな態度で、自己の諸説をかたって、このように述べた。

「友よ、わたしは、肉体がわれであるというのではない。また、受や、想や、行や、識やをゆびさして、それがわれであると言うのでもない。あるいはまた、それらを離れて、別にわれがあるというのでもないのである。

友よ、たとえば、それは分陀利華(ぶんだりけ)の花のかおりのようなものである。もし人あって、辨(べん)にかおりがあるといったならば、それは正しいであろうか。また、茎にかおりがあるといったならば、それは正しいであろうか。あるいはまた、花の蕋(しべ)にかおりがあるといったならば、それは正しいであろうか。あるいはまた、花の蕋にかおりはあるといったならば、それは正しい説きかたであろうか」

「友ケーマよ、それらの説き方は、正しくあるまい」

「では、友よ、その時どのように答えたならば、正しい答えかたであろうか」

「友よ、それはやはり、花にかおりがあると答えるのが、正しい答えかたであろう」

「友よ、それとおなじことである。わたしは、肉体(色)がわれというのでもなく、また、受や想や、行や識やをゆびさして、それらがわれであると説くのでもない。あるいはまた、それらを離れて、別にわれだあるというのでもない。友よ、わたしは、肉体と精神との仮和合(けわごう)の総体(五取薀、ごしゅん)においてわれを見るのであるが、またそれをわれの所有(もの)とみるのではないのである」

このケーマの諸説は、かの無我の教説をさらに積極的に、いわが時間的統一の中において自己を見いださんとするものであって、釈尊の所説に即しながらも、注目すべき所見を出しているといい得るであろう。さればこの経のことばも、その所見をきいて、もろもろの長老たちはみなことごとく納得し、歓喜したと記し結ばれてある。(184頁)(第13章おわり)

第十四章 わが衷(うち)なる悪しきもの――悪魔物語

悪魔とは  「かようにわたしは聞いた」と、一つのふるい経典(南伝、相応部経典、23、11、魔。漢訳、雑阿含経、6、14、魔)は記しとどめている。それも、例によって、釈尊がかの祇園精舎にあった時のことである。そのとき、ラーダ(羅陀)という比丘が、釈尊を拝して、このように問うて言った。

「大徳よ、よく〈魔、魔〉といわれるが、いったい、どのようなものが魔でありましょうか」

この問いは、わたしどもにとっても、また興味ある問題である。なんとなれば、わたしどもは、ふるい経典を披見するたびに、魔もしくは悪魔(mara)あるいは悪魔波荀(marapapimant)、魔法(maradhamma)などということばに遭遇するのであるが、そのたびに、わたしどもは、そこで悪魔とか魔とか呼ばれているものは、いったい何のことであろうかという疑問をいだく。

それは、キリスト教などでいう悪魔(Satan)とおなじように、何か悪しき存在者をゆびさすものであろうか。釈尊にしたがった人々もまた、そのような悪しき存在者の存することを信じていたのであろうか。そのような者の存在を信ずるということは、あの透徹した釈尊の教説を受持する人々にとって、果たしてふさわしいことであったであろうか。わたしどもは、ふるい経典の中でそれらの語に出会するたびに、いつもそのような疑問をいだかざるを得ないのであるが、いまこのラーダ(羅陀)なる比丘は、その疑問について、釈尊に問いを呈しているのである。では、それに対して釈尊がいかに答えたかは、またわたしどもにとっても、関心なき能(あた)わざるところであると言うことができる。その答えは、経典によれば、つぎのごとく述べられてある。

「ラーダ(羅陀)よ、色(物象)は魔である。受(感受)は魔である。想(表象)は魔である。行(意志)は魔である。また識(意識)は魔である。

ラーダよ、かくのごとく観察して、わたしの教法に聞く聖弟子たちは、色(物象)においてその患(わざわい)いを厭(いと)い、受(感受)においてその患いを厭い……ないし……さらにわが迷いの生涯をくり返すことあらじと証知することを得るにいたるのである」

そこでは、悪魔とは、わたしどもが懸念したように、何か実在する悪しき存在者をゆびさすものではないことが、まず知られる。それはむしろ、わつぃどもがわが衷(うち)にいだく悪しき者こそ指さしているのではないか。色と受・想・行・識とは、わたしどもの認識し思想し意志する精神作用を、その要素に分析したものである。それらの要素の結び合うことによって、一切ははじめてわたしどもの世界に入ってくる。しかるに、それらがわたしどもの世界にはいってくるとともに、わたしどもはそれらに対して、さらに欲愛を生じ、喜貧(きとん)を生じ、執著(しゅうじゃく)を生じ、纏綿(てんめん)を生じ、ひいては悲・愁・憂・苦を生ずるにいたる。そして、いま釈尊が、かのラーダ比丘に教えて、「色は魔である。受は魔である。想は魔である。行は魔である。また識は魔である」と言った理由は、そのことを指して言えるものに外ならない。

しかるとすれば、釈尊においては、悪魔とは、なにか客観世界に実在する悪しき存在者をゆびさして言えるものではなくして、かえってそれは、主観の中にはたらく悪しきはたらきを、譬喩(ひゆ)的にかかることばをもって語ったことと知られるのである。彼は、その教法にふさわしくも、迷妄と幻想の中に存する客観的な悪魔をしりぞけて、正しい観察と思惟の中において把握された、わが衷(うち)なる悪しき営みに対して、譬喩として、このことばを語っているのである。しかるうえは、わたしどもは、ふるき経典の中においてしばしば遭遇する悪魔物語においては、それをかかる衷なる悪しきものの譬喩として、もう一度新たに解釈すべきではないであろうか。では、つぎに三、四の悪魔物語をとりあげて、そのことを試みてみよう。

統治の誘惑   南伝の相応部経典の第四には、『悪魔相応』と名づけられる一群の経典があって、そこには二十五経の悪魔物語が集められている(漢訳のおいては、雑阿含経の第三九巻がそれらの大多数――三経をのぞく――を集録している)。その一つ、『統治』と名づけられる一経は、つぎのように語っている。

それは、釈尊が、コーサラ(拘薩羅)国も雪山(ヒマーラヤ)の麓(ふもと)の、とある家の小さな屋舎にとどまっていた時のことであった。そのとき釈尊は、ひとり静かに思念していたが、その思念の中でこのようなことを考えた。

「国の統治というものは、殺すことも害することもなく、勝つも負けるもなく、悲しませることもなく、法のまにまに統治することは、できないものであろうか」

すると、悪魔が、その思念するところを知って、釈尊のまえに姿を現じて言った。

「世尊よ、世尊はみずから統治したもうがよい。世尊みずから統治したもうて、その理想のように、法のまにまに治めたもうがよい」

「悪魔よ、なんじは何を理由として、わたしに統治せよと言うのであるか」

「世尊よ、あなたは四如意足(しにょいそく)を修めなろうて、なにごとも思うままならぬことはことはない。さればもし、世尊にして、雪山(ヒマーラヤ)を化して黄金となさんと欲して決意したもうならば、かの雪山もまた化して黄金となるであろう」

それは、聖者の自負と大なる欲望をこって、悪魔の誘惑をこころみたものであった。だが、釈尊は毅然(きぜん)としてその誘惑をしりぞけることができた。その答えは、つぎのような偈文(げもん)(韻文)をもって伝えられている。

「たとい雪山を化して黄金となし、

さらにこれを二倍すといえども、

よく一人の欲をみたすに足らず。

かく知りて、人は正しく行なわねばならぬ。

人間の苦しみとその原因をさとる者は、

いかでか、かかる欲貧(よくとん)に傾こうぞ。

物欲に依(よ)る者は物欲に縛せられる。

人はよくその縛を解くことを学ばねばならぬ」

すると悪魔は、「世尊はわれを知りたもう。われは世尊に観破せられた」と、苦しみしおれて、その姿を消した、と経典のことばは結ばれてある。

この悪魔のこころみは、しばしばキリスト=イエスが荒野において遭遇した悪魔のこころみに比せられている。イエスは、バプテスマのヨハネによって洗礼をうけ、神の受託を受けたるのち、御霊(みたま)によりて荒野にみちびかれ、そこで、さまざまの悪魔のこころみをうけたという。その誘惑の一つは、釈尊におけるこの悪魔のこころみとおなじく、政治的権勢に関するものであった。それは、マタイ伝福音書によれば、このように記されてある。

悪魔はイエスを、たかい山の頂につれて行って、世のもろもろの国と、その栄えとを指ししめして言った。「なんじもしひれ伏してわれを拝するならば、これらをことごとくなんじに与えよう」それに対してイエスは、「サタンよ、退け。『主なるなんじの神を拝し、ただこれのみの事(つか)えたてまつるべし』と録(しる)されているではないか」と答えたので、悪魔はたちまち離れ去ったという。

では、釈尊もまた、その大悟(だいご)成道(じょうどう)ののちのおいても、なお悪魔の試みにあい、その誘惑とたたかわねばならなかったのであろうか。いな、さきに言ったように、もしふるき経典に記す悪魔のわざとは、わが衷(うち)における悪しき者のいとなみであるとするならば、釈尊は、仏陀覚者となられたのちにおいても、なお、わが衷において悪しき者のいとなみを経験swられねばならなかったであろうか。それに対して、ふるき教学者たちはむろん「然(しか)らず」と答えてきた。だが、果たしてそうであったであろうか。もしそうであったとするならば、この悪魔のこころみを、わたしどもはいかに解したならばよいのであろうか。

説法者の反省  おなじく『悪魔相応』の中に集録せられる「ふさわしき」と題する悪魔物語は、つぎのように記されてある。

それは、釈尊が、コーサラ(拘薩羅)の国の、エーカサーラー(一葦)という村におもむいた時のことであった。そこは、ある波羅門(ばらもん)の所領する村であった。そこでもまた、釈尊は、大勢の在家の人々にとりまかれて、いつものように説法を説かれた。その時、悪魔がまた姿をあらわして、世尊にむかってささやいて言った。

「他人に説法を説くということは、

なんじにふさわしい本務(つとめ)ではない。

なんじはその不相応を行いて、

貪(むさぼ)りと瞋(いか)りとに縛らるるなかれ」

それに対して、釈尊の答えは、おなじく偈文をもって、つぎのように述べられてある。

「他人の利益と哀憐(あわれみ)とのために、

正覚者は教法を説くのである。

如来は貪りをも瞋りをも、

すでにことごとく解脱しているのである」

それを聞くや、悪魔はまた、「世尊はわれを知りたもう。世尊はわれを看破したもうた」とて、意気沮喪(そそう)して、その姿を消したという。

このみじかい悪魔物語は、釈尊がつねに、教法の説者としての自己を反省したことを語っているのではないか。思いおこしてみると、釈尊は、初めて法輪を転ぜんとすつに際しても、ふかくみずから省み思うて、人々はこの教法をよく理解してくれるであろうか、このことを説いて果たして徒労ではないであろうかと、思いめぐらされたこともあった。そして、ついに毅然(きぜん)として説法者として立つの決意をかためたことが、かの梵天勧請(ぼんてんかんじょう)の説話としてしるされている。また、かの鹿野苑(ろくやおん)において、比丘たちに伝道の委託をなすにあたっても、また悪魔が来たりささやいていたと経典はしるしている。その問答もまた偈文をもって、このように記されてある。

「なんじは一切世間において、

なお悪魔のわなにかかっている。

悪魔の縄はなおなんじを縛っている。

沙門よ、なんじはいまだわれより免れじ」

そのような悪魔のささやきに対して、釈尊は毅然として、

「われは一切世間において、

すでに悪魔のわなを脱れた。

悪魔のわなを脱れた。

悪魔の縄はすでに断ちきられた。

破壊者よ、なんじはやぶれたのである」

さらにまた、一つの経は、大勢の会衆にとりまかれ、かの祇園精舎において説法する釈尊の耳に、悪魔の声がこのようにささやきかけたとも記している。

「いかなれば大衆の前にありて、

怒るるところもなく獅子吼(ししく)するや。

ここになんじの力づよき敵手があるに、

なんじはすでに勝てりと思うなるか」

それに対する釈尊の答えは、こうであった。

「如来は大いなる会衆を前にして、

恐れなきによりて心よろこぶ。

如来はすでにさまざまの力を得て、

愛著(あいじゃく)の世を遠く超えはなれたのである」

考えてみると、多くの教祖や宗祖のうちにあって、釈尊のように教法を説くことにおいて躊躇の心をしめしたものはなかった。かの梵天勧請の説話によれば、釈尊ははじめ、説法よりむしろ沈黙に心かたむいていたとも記されている。いまの悪魔物語によれば、彼は大いなる会衆を前にしながら、なおわが衷なる声と取りくんでおる。それらのことをわたしどもは、うかつに見逃してはならない。

釈尊は、みずから「一切知者である」「一切勝者である」と公言している。それは、一見したところ、はなはだしい傲慢のことばとも思われる。だが、彼は、ふかくみずから省みることなしに、かかる公言をあえてしたのではなかった。むしろ、この師は、神経質にすぎるほどに、わが衷なる悪しき者と戦いつつ、遠慮ぶかく人々の前に立って、その教法を説いた人であった。そのことを、わたしどもは、これらの悪魔物語の中に知ることができるのである。

食欲の誘惑   わが衷なる悪しき者の中において、もっとも抜きがたく勝ちがたきものは、なんといっても、よくのむさぼりであろう。ことに、食欲のことは、もっとも素朴にして、かつ勝ちがたい。そのゆえに、釈尊の弟子たちは、一鉢の生活に徹することを、つねにきびしく教えられていた。その一鉢の食について、一つの悪魔物語は、つぎのようなことを伝えている。

それは、釈尊が、マガダ(摩掲陀)の国のパンチャサーラー(五葦)という村におもむいていた時のことであった。その日はちょうど、この村では、相思のわかき男女がたがいに贈り物をかわすお祭りの日であった。そのような日であったためか、この日、この村に托鉢にでかけた釈尊には、誰も鉢に食物をいれてくれるものがなかった。そのことを、『悪魔相応』の一つの経は、つぎのような書きかたで伝えている。

時に、パンチャサーラー村の家主たちは、「沙門ゴータマ(釈尊)は食を得ざれかし」と、悪魔にとり憑(つ)かれていた。そのために世尊は、托鉢にいでたまえる時の、清らかに洗いたるままの鉢にて帰らねばならなかった。その時、悪魔は、また釈尊のまえに姿を現わし、釈尊に語りかけて言った。

「沙門よ、托鉢の食を得ることができたか」

「わたしが、食を得られないように、なんじが、たくらんだではないか」

「それでは、世尊、もう一度かの村にあと帰られるがよい。今度は、わたしが鉢に食を得られるようにしてあげよう」

これは、さきに村の家主たちをして釈尊に食を与えざらしめた悪魔が、今度は釈尊を駆(か)って欲貧(よくひん)におもむかしめんとする誘惑のわなであった。その誘惑を釈尊は観破することができた。そして、悪魔にむかって答えて言った。

「如法(にょほう)に行ずるものを犯して、

悪魔は不徳をなしたのである。

波旬(はじゅん)よ、なんじはこの悪を犯して、

その結果はみのらずと思うや。

所得あることなしといえども、

われらは心楽しくも住まんかな。

かの光音天(こうおんてん)のそれのごとくに、

われらは歓喜(よろこび)を食としてあらん」

それを聞いてかの悪魔は、また「世尊はわれを知りたまえり。世尊はわれを観破したまえり」と、しおれ苦しんで姿を没した、という。

食物のことは、わたしども人間にとっては、ひくい欲望であると言うことができるかもしれない。だが、低くかつ素朴ではあるが、この欲望に勝ちきることは、まったく難しい。さきに言及したイエス=キリストの荒野における悪魔のこころみの中にも、食欲に関する誘惑があった。そのときイエスは、四十日四十夜の断食によって飢えていた。すると悪魔が来たって「なんじもし神の子ならば、命じてこれらの石をパンとならしめよ」とよびかけた。それに対するイエスの答えは、よく知られている「人の生くるはパンのみに由(よ)るにあらず」という旧約のことば(申命記八ノ三)によってなされた。

腹の充(み)ち足りている時には、人はどんなことでも言うことができるであろう。しかし、腹はへり、食べるものはないどん底にたち到った時には、人はたいてい、その虚勢を暴露してしまう。人間のほんとうの値打ちは、そのような時にわかる。そのような場合に立ちいたったときにも、なおかつ、「人の生くるはパンのみに由るにあらず、神の口より出ずるすべてのことばによる、と録されているではないか」と言うことを得たのは、イエス=キリストであった。そして、釈尊はいま、むなしく鉢をかかえての帰り途(みち)において、「もう一度かの村にあと帰って食を得るがよい」とささやきかける悪魔の声に対し、毅然として、得ると得ざるとによりていささかも心をうごかすことなき聖者の真骨頂をもっともよく示しているのである。

そして、わたしどもはおもう。たとい大悟成道ののち、なお釈尊の心中に、衷(うち)なる悪しき者が残存していたとしても、それはいささかも釈尊の真の価値をそこなうものではないであろう。それはむしろ、釈尊が依然として生身の人間であったことを証するものであって、わたしどもにふかい親しみの情をいざなうものである。

政治の理想について考えた時には、もし自分がみずから統治したならば、と考えてみたとしても不思議でないではないか。托鉢の帰り途に、空(から)の鉢の中をながめて、もう一度ゆけば貰えるであろうにと、ふと思ったとしてもよいではないか。あるいはまた、大衆にとりまかれて教法を説きながら、わたしは果たして説法者としてふさわしいであろうか、貪(むさぼ)りや瞋(いか)りの心にとらわれてはいないであろうかと、なおみずから問い、みずから省みなければならなかったとしても、それはむしろ尊敬すべき学ぶべきことではなかったか。

ただ、いけないことは、悪魔のささやきに惹(ひ)かれ、衷(うち)なる悪しきもののいとなみに負けることである。釈尊にも、悪魔はしばしばささやきかけた。そのことを経典はすくなからず記しとどめている。それは釈尊のうちなる悪しきものの営みであったに相違ない。だが、釈尊は一度だって、そのささやきに耳をかたむけ、その営みに負けたことはなかった。経典のしるすところによると、釈尊に対する悪魔のさまは、「蓮(はす)の葉をもって山を砕かんとする」もののごとくであり、「爪にて岩を掘らんとする」ものに似ており、あるいはまた、「歯にて鉄をかまんとする」愚かさに比せられている。そこに、わたしどももまた、釈尊のさし招く道にしたがい行きたいと思う理由が存するのである。(197頁)(第15章おわり)

第十五章 聖職者のまえに立ちて――対機説法(1)

いかれる波羅門  釈尊すなわち釈迦(サキャ)族よりいでし尊敬すべき聖者の名が、しだいに、ひろく人々の注意をひき、つよく人々の心をとらえはじめるにつれて、それを心よからぬ眼でもって眺めていた人々もあった。波羅門すなわちこれまでこの国の人々に聖職者として臨んでいた人たちがそれであった。そして、ふるい経典のいくつかは、彼らの心よからぬ思いが、ついに釈尊の前に、あるいは讒謗(ざんぼう)となり、あるいは瞋恚(しんに)となって爆発した場合のあったことを記しとどめている。

そのような経典の一つは、つぎのように記されている(南伝、相応部経典、7、2、讒謗。漢訳、雑阿含経、42、8-9)。

それは、釈尊が、王舎城の郊外のヴェールヴァナ(竹林園)にあった時のことであった。そこに、ひとりの波羅門が、今日の言い方でいえば、どなり込んできたことがあった。その原因は、同族の波羅門の若い者が、釈尊の教法(おしえ)に心ひかれて、ついに釈尊の下に投じ、釈尊によって出家したことが、彼らの自尊心をきずつけたからであったと思われる。

釈尊の前に立ったその波羅門は、怒りをその面にみなぎらせて、「烈(はげ)しい悪しきことばをもって、世尊を讒謗し非難した」と経のことばはしるしている。おそらくは、若い者の心をたぶらかす誘惑者であるとか、波羅門にあらずして教法を説くは四姓の本務に背くものであるとか、そのような非難や讒謗が、聞くに堪えぬことばで、釈尊に投げつけられたのであろう。

だが、釈尊は、すこしも檄した反応をしめさず、不快の色すらもなく、ただだまって聴いていた。そして、相手の罵詈雑言(ばりぞうごん)が出つくした時、しずかに彼に問うて言った。

「波羅門よ、なんじはこれを如何に思うか。なんじにも親戚・朋友など、訪れてくる客があるであろう」

「しかり、ゴータマ(瞿曇、くどん、ゴータマの姓)よ。わたしの宅にも時々、朋友、親族の来訪するものがある」

「その時には、波羅門よ、なんじは彼らに御馳走を出すことがあるであろう」

「むろん、わたしは彼らに御馳走を進ずる」

「その際に、波羅門よ。もしも彼らがその御馳走を受けなかったならば、そのご馳走は誰のものとなりであろうか」

「さればとよ、もし客人が御馳走を受けて下さらねば、それはまた、わたしのものとなるの外はあるまい」

それは、まことに奇妙な問答の風景であった。何のために釈尊が、そのようなことを問うのであるか。かの波羅門には何の見当もつかない。悪口雑言の限りをたたきつけて、それでも相手が何の反応もしめさず、いささか気抜けの態(てい)であるところを、ふと相手の問いに引き込まれて、何の見当もなしに答えているうちに、彼はいつの間にか、釈尊によって教えを説かれているのであった。

波羅門よ、いまわたしの問いに、なんじの答えたとおりではないか。なんじはさきほどから、しきりにわたしを讒謗(ざんぼう)し非難しているが、わたしはその御馳走はいただかない。だから、それらはなんじ自身のものとなるの外はあるまい。主人と客人とが、ともに食い、ともに歓(かん)を交わすのが、御馳走というものであろう。なんじがわたしを讒謗し、またわたしがなんじを讒謗しかえす。あるいは、なんじがわたしを非難し、またわたしがなんじを非難する。そうしたならば、これは、わたしが御馳走を受けたというものであろう。だがわたしは、いま見られる通り、この御馳走はいただかない。だから、客人のいただかないこの御馳走は、波羅門よ、それはなんじみずからのものとなるの外はないのである」

「では、ゴータマよ。あなたはまったく瞋(いか)らないというのであるか。わたしはかつて聴いたことがあった。真の聖者というものは、その面前に罵辱(ばじょく)呵責(かしゃく)を受くとも、瞋ることがないというと。ゴータマよ、あなたはほんとうに、このわたしの罵詈雑言にも、少しもいかる心をおこさないのであろうか」

釈尊は、その時、しずかに肯(うなず)いて、つぎのような偈(げ)を説いた。

「よくおのれを調御(ちょうぎょ)し、

正しき生活をいとなみ、

正智(しょうち)によりて解脱したる者に、

何処よりか忿(いか)りはおこらん。

忿るものには忿りかえすは、

さらに悪しきを加うるもの。

忿ろものに忿りかえさずして、

人は二つの勝利を得るのである。

他の人の忿れるを知りて、

正念におのれを静むる人は、

よく自己(おのれ)に打ち勝つとともに、

また他人の利益(りやく)を行(ぎょう)ずるのである。

かかる人は、おのれにとり、

また他人にとりてよき医師である。

ただ法に無知なるもののみが、

かかる人を愚者なりと思うであろう」

かの波羅門は、釈尊のこの教訓によって、その場において出家の許しを乞い、やがて熱心なる修行の結果、ついに阿羅漢(聖者)の境地にいたることを得たという。

二つの勝利  わたしどもは、釈尊が貪(とん)と瞋(しん)と痴(ち)の三つをあげて、それらがわたしどもの正しき知慧(ちえ)のはたらきをおおいに妨げている三つの主要なる悪徳であると、つねに説き誡(いまし)めていたことをよく知っている。そのことはよく知っているけれども、それらの教誡(きょうかい)のもつ真の重さを、わたしどもは果たして、ほんとうに了解しているのであろうか。ことばを知り、名目を知ることだけにとどまってはいないか。こんとうに了解するということは、自己の体験を通しての納得でなければならぬという。そのような納得を、わたしどもは、貧につき、瞋につき、また痴について、充分になし得ているのであろうか。

そのような反省をもって、いま、経典を披見しつつ、いかれる聖職者(波羅門)のまえに立てる釈尊の姿を仰ぐとき、わたしどもは、自己の了解のなお浅きことをしみじみと思わざるを得ないものがある。それは、さきにあげた経の場合もみではない。その外にも、釈尊は、すべてみごとに「二つの勝利」を克ち得ておられる。立派に、自己に打ち勝つとともに、また相手の瞋恚(しんに)に打ち克っているのである。

そのような場合の一つを、またある経典(南伝、相応部経典、7、3、阿修羅王。漢訳、雑阿含経、42、7、阿修羅塩)は、つぎのように記しとどめている。

それも、また、釈尊が王舎城のほとりなる竹林の園にあられた時のことであった。そこでもまた、身内の若者が釈尊にしたがって出家したことに激怒した一人の波羅門が、釈尊のところに到(いた)って、その忿怒を悪罵讒謗にこめて、釈尊に投げつけたのであった。その当たるべからざる勢いの前に、しかし、釈尊はただ黙していた。それを、かの波羅門は、自分はまったく釈尊を圧倒したのだと思った。

「沙門よ、なんじは負けた。沙門よ、なんじは打ち勝たれた」

だが、勝ち誇り顔の波羅門に対して、その時、釈尊は、静かに、偈をもって語って言った。

「荒々しき悪しきことばを語りて、

愚かなる者は勝てりと思う。

されど、まことの勝利は、

よく堪忍を知る人のものである。

忿(いか)れるものに忿りかえすは、

更に悪しきを加うるもの、

忿れるものに忿りかえさずして、

人は二つの勝利を得るのである。

他の人の忿れるを知りて、

正念におのれを静むるひとは、

よく自己にうち勝つとともに、

また他人の利益を行ずるのである。

かかる人は、おのれにとり、

また他人にとりてよき医師である。

ただ法に無智なるもののみが、

かかる人を愚者なりと思うであろう」

かくて、この波羅門も、釈尊の教訓に心うたれ、その場において出家の許しを乞い、やがて熱心な修行ののち、ついに阿羅漢の一人となることを得た、と経典はしるしている。

また、ある経典(南伝、相応部経典、7、4、毘蘭耆迦(ビランギカ)。漢訳、雑阿含経、42、10、瞋罵(しんば))は、そのような場合のひとつを、このように記しとどめている。

それも、また、釈尊がかの竹林の園にあったときのことであった。そこでも、また、一人の忿怒をいただける波羅門が、釈尊を訪れて、釈尊のまえに立った。だが、この波羅門は、まえの波羅門とはちがって、罵詈雑言をあびせかけるかわりに、ただ黙然(もくねん)として釈尊のまえに立っていた。その眼はいかりに燃えていたであろう。その口唇は興奮にひきつっていたであろう。だが彼は何にも言わずに、釈尊のまえにただ立ちつづけていた。相手がうかつなことでも言えば、それをしおに責めたてようというのであったかもしれない。あるいは、忿怒に興奮してことばがでず、ただ相手をにらみつけていたのかもしれぬ。

その時、やがて釈尊が口をひらいて、この怒れる波羅門にさとしたことばは、偈によって、このように記しのこされてある。

「もし汚悪なき清浄なる人を汚さば、

その汚れはかえって自己(おのれ)に帰するであろう。

あたかも、逆風にむかって細塵(さいじん)をまけば、

そはかえって自己をけがすがごとく」

その教訓によって、いかりに張りつめた波羅門の心は、一ぺんにくず折れてしまった。そしてこの波羅門もまた、釈尊の随徒となって、ついに阿羅漢となることを得たという。釈尊は、ここでもまた、相手のいかりに激発せられることなく、よく彼を聖道にみちびくことによって、「二つの勝利」を克(か)ち得られたのである。

われも耕す  このような、ふるき聖職者たる波羅門のまえに立った釈尊の態度現行をしるし止めた経は、これらの外にも、なお数多く存している。それらの中でも、もっとも感銘ふかく思われるものの一つに『耕田(こうでん)』と名づけられる経がある(南伝、相応部経典、7、11。漢訳、雑阿含経、4、11)。それは大様つぎのように記されてある。

それは、釈尊がマガダ国の南山エーカサーラー(一葦)という波羅門村にあった時のことであった。その村では、時あたかも春耕播種(はしゅ)の時節にあたり、経にいわゆる耕田波羅門は、村人を指揮して、いまや繁忙をきわめているところであった。

そのころのある朝のこと、衣をつけ鉢を持して、威儀を正した釈尊の托鉢する姿が、この波羅門の家のまえに立った。家の中ではちょうど、朝の食物を人々にわけているところであった。だがこの波羅門は、その食物のわけ前を釈尊の鉢に施そうとはしまかった。それどころか、彼はつかつかと釈尊に近づいて、詰問して言った。

「沙門よ、わたしどもは、みずから耕して種まき、みずから取りいれて食うのである。沙門よ、なんじもまた、みずから耕して種まき、みずから収穫して食うがよい」

その詰問は、みずから労働することなき、精神の世界にのみたずさわる人々にとって、急所をついた詰問のように思われる。そのような詰問のまえに立った釈尊が、なんと答えたであろうかは、わたしどもにとってははなはだ関心がふかからざるを得ない。その時、この波羅門の詰問に対して答えた釈尊のことばは、

「波羅門よ、わたしもまた耕して種まく。わたしもまた、耕して種まいて食を得るのである」

と記されている。それは、わたしどもにとってもはなはだ意外に思われることばであるが、かの波羅門にとってもまた、まったく予期しなかった答えであった。彼はけげんな顔をし、すこしく狼狽した。彼は、この沙門が牛を御し、犂(すき)をひかせ、田畑を耕すということを見たことも聞いたこともなかった。では、この沙門は、何をもって「われも耕す」と言うのであろうか。彼はまず、そのことを訊(ただ)してみなければならぬと思った。

「だが沙門よ、わたしどもは、尊者の牛を見たこともない。また尊者の棃を見かけたこともない。それなのに、尊者が、――-われもまた耕し、われもまた種まく――との言はいかなる意味であろうか」

そして経のことばは、この波羅門の問いを、かさねて偈文をもって記し、かつ、それに対する釈尊の答えをも、また偈をもってのべている。

「なんじはむずから耕す者なりというも、

われはなんじの耕すを見たることなし。

われは敢(あ)えてなんじに問わんとす。

われらいかにしてなんじの耕すを知ることを得べき」

「信は種子なり。調御(ちょうぎょ)は雨なり。

知慧は軛(くびき)につなぎし鋤(すき)なり。

慚(ざん)はその柄にして、定(じょう)はその縄なり。

身において守り、語においてまもり、

食するにはよく量を知り、

清浄(しょうじょう)をもって草刈りとなし、

道に楽しみ住するはわが休息なり。

精進(しょうじん)は重荷を負いてゆく牛にして、

われらを瑜伽(ゆが)安穏の境地にはこぶ。

われら、行いて帰ることなく、

われら、おもむきて悲しむことなし。

かくのごときがわが耘耕(うんこう)なり。

不死はその果実なり。

われら、かくのごとき耘耕をなして、

すべての苦悩より脱(のが)れたり」

では、かかる偈によって、釈尊は、いかなることを説いたのであろうか。

思うに、耕すとは、開発することに外ならない。そして、荒地を開発して、よりよき人間のあり方を実現する仕事にたずさわる人々もまた、「われも耕す」と言うことができるはずである。そのことを英語の cultivate(耕す)につながる一連のヨーロッパ諸言語におけることばは、もっとも明瞭に映し出している。そこでは土地を耘耕(うんこう)することと、人間精神を開拓して教養をあらしめる、洗練と優雅とを与える、あるいは教え化することは、まったく同一の語根をもって言い表されているのである。

人はみずから耕し、みずからそのよき収穫を得るがよい。そのことは、この耕田波羅門のいう通りである。みずから額に汗することなくして、いたずらに他人のあわれみにすがるがごときものは、人間の中のもっとも賤(いや)しい存在であろう。だが、人のみずから耕すべきものは、けっして田畑のにには限らない。わたしどもがみずからよき種をまいて、みずからよき取り入れを挙ぐべきものは穀物のみではない。なんとなれば、人の生くるはパンのみによるのではないからである。わたしどもにとっては、田畑を耕すこととともに、人間精神の荒野を耕して、よき収穫をあぐべきことが、またおなじく大事なことである。その仕事を釈尊は「われも耕す」と語ったのであった。

対価を受けず  かの波羅門は、釈尊の説かれたもうところを、ようやく理解し、納得することができた。そこで、朝の食事をわかって、うやうやしく、釈尊の鉢に供養しようと思った。

「釈尊よ、これを受けたまえ。尊者はまことに耕す人であらせられる。尊者の耕したもうは、人間の不死安穏のためであることを、わたしはいまよく納得することを得たのである」

だが、その時、釈尊は、その供養をしりぞけて、さらに、つぎのことをかの波羅門に教えた。その教えもまた、偈文によって記しとどめられている。

「われは偈を唱えて食を得るものに非ず。

けだし、そは知見あるものの法に非ず。

覚者はすべて誦偈(じゅげ)の対価をうけず。

ただ法に住するこそ、その生活の道なり。

もろもろの煩悩をつくし果たして、

まことに尊敬すべき聖者を見なば、

波羅門よ、かかる人に供養せよ。

そは功徳を求むる者の福田なり」

この偈については、多少の説明を加えなければならぬ。なんとなれば、この偈の精神は、今日のところ、まったく埋もれ、忘れられているがゆえに、人はかえって、釈尊のこの供養拒否をこそ不可解に思うであろうからである。

供養とは、本来、尊敬の表現であることを、わたしどもはまず、はっきりと知らねばならない。すぐれた人格や聖なる存在に対してささげられる供養はいうまでもなく、貧しい人々に対して施す供養すらも、元来はそのような尊敬の表現でなければならない。わたしどもは、すぐれた人格や聖なる者に対しては、当然そのまえに頭をさげねばならぬ念をいだくであろう。それとともにまた、貧しき人人や、悪しき人々においてさえも、彼みずからの存在は彼自身にとって明らかに、何ものにも代えがたいものである。そして、人格とは、そのような絶対価値に対してあたえられたことばに外ならない。そのことは、かの常不軽(じょうふぎょう)菩薩が賢愚富貧に対して合掌することを行としたという、あの一見不可解なる修行において、もっとも端的に物語られている。

ところで、供養とは本来尊敬の表現とするならば、それは何らかの対価として、進じ与えられるべきものであってはならない。それは、ただ、絶対価値のもの、すなわち対価を考え得ざるがごときもの(かかるものをわたしどもは人格の外には考えることはできない)に対してのみなされるべきものである。そのゆえに、釈尊によって定められた托鉢の作法によれば、行乞(ぎょうこつ)する比丘たちはただ黙然として家々におもむき、供養する者あれば受け、与える者なければ去るのであって、今日の托鉢僧の多くの者がなすがごとく、家の戸口にあって経を誦(ず)するがごときことはなさなかった。なんとなれば、托鉢僧への供養はただ尊敬の念よりのみ与えかつ受けらるものであって、けっして乞うて受くべきものでもなく、誦経(ずきょう)の対価として与えらるべきものでもなかったからである。

そこことが理解せらるるならば、いま、かの波羅門の供養をしりぞけたもうた釈尊のことばは、もはや不可解ではないであろう。釈尊は、さきにかの波羅門のために偈(げ)を説きたもうた。波羅門はそれによって一つの重要なことを獲得することを得た。だからといって、それに対する礼(それは対価である)として、いままで拒んでいた供養を進ぜようというのは、供養の本来の意味にかなったものではない。「われは偈を唱えて食を得るものではない。さようのことは知見あるものの法ではない」と、毅然(きぜん)として釈尊がそれをしりぞけたゆえんがそこにあるのである。

このことは、今日の仏僧ならびに仏教者に対して、痛烈なる反省をうながすものであることに、わたしどもは断じて目をおおうてはならない。仏門に読経してその労働の対価としての布施を受くる仏僧は、偈を唱えて食を得ているものに外ならぬではないか。死者の葬儀をつかさどって、その対価としての謝礼を受くる僧侶は、それも誦唱の賃金をうけているものに外なるまい。さらに、いわゆる檀家なる人々が、読経追善に対する報謝としての布施のほかには、ほとんど供養なるものを考えることができないのも、また同じような錯覚の中にあるものと言わなければなるまい。そして、それらの錯覚こそ、今日の仏教の病根であることを思うととき、わたしどもは、「われは断じて、誦偈の対価を受けず」と、この波羅門の供養の食をしりぞけたもうた釈尊のげんこうに、かっと目を見ひらき、すべからく痛恨の念をもって反省をいとなむべきであると思うのである。(211頁)

第一六章 庶民とともに――対機説法(2)

大海のごとく ここにわたしは、釈尊が庶民とともにあり、庶民のために説いた教法(おしえ)のいくつかをとりだして、その梗概(こうがい)をしるしながら、その深い意(こころ)をたずねてみたいと思う。

それにつけても、まず思いおこすのは、かの「八未曾有法(みぞうほう)」と呼ばれる説法の一説である(漢訳、中阿含、35、未曾有法品、阿修羅経。南伝、増支部経典、8、19、波呵羅(バハーラーダ))。そこでは、釈尊は、大海の有する八つの未曾有法(他に見られない作用)にちなんで、釈尊の教える法と律に依(よ)る人々の間にも、おなじく八つの、他においては見がたいいとのみの存することを説いているのであるが、その一つとして、釈尊はかように語っている。

「たとえば、もろもろの大河あり。いわくガンガー、ヤムナー、アチラヴァテー、サラブー、マヒーなり。これらは大海にいたらば、さきの名称(なまえ)をすててただ大海とのみ号す。かくのごとく、刹帝利(クシャトリヤ)(王族武人)波羅門(ブラーマン)(司祭者)吠舎(ヴァイシャ)(庶民)首陀羅(スードラ)(奴隷)の四姓あり。されど彼らは、如来所説の法と律において出家せば、さきの姓名をすてて、ただ沙門杓子とのみ号する」

この一節の説法は、いうまでもなく、仏教僧伽(サンガ)においてはすべての人々が平等であることを教えている。よく知られているように、インドにはカースト(caste 種姓)とよばれる社会制度がある。それは、この一節の中にみえる四姓を基底として、さらにははなはだしく細分せられたものであり、その固陋(ころう)なること古今と東西にそのたぐいを見ぬほどのものである。種姓を異にする人々は、結婚することもできず、食事を共にすることもできない。種姓によって人々は、社会的義務と権利とを異にするのみならず、宗教的義務をも異にするさだめであった。その社会にあって、釈尊が、大海の一味なるがごとく、人々はすべてこの僧伽の中にあっては平等であり、大海の中にあっては、これにそそぎ入る水は、もとの河の名を失うがごとく、この教法の中においては、人々はただ釈子沙門にすぎないと喝破(かっぱ)したことは、実におどろくべきことであったと言わねばならない。

では釈尊は、かかる社会の中にあって、何をもって万人平等を説き得たのであろうか。それは、いわゆる業観(ごうかん)によるものであった。人はその生まれによって尊いのでもなく、またその生まれによって賤(いや)しいのでもない。人の尊さと卑しきとは、その行為によるのである。

釈尊はそのような見解に立っていたがゆえに、ある時、ある波羅門に対して、

「生まれによりて波羅門たるにあらず、

生まれによりて卑しき者たるにあらず。

人はその行為によりて波羅門となり、

その行為によりて卑しき者となる」

と説いたこともあった。

したがって、釈尊はその教法を何ものに対しても拒まなかった。波羅門がきたってその門をたたけば、彼は何の敵意をもさしはさむことなく、扉をひらき法を説いた。庶民がきたって彼の教法を乞えば、何のいやしむこともなく、彼はこころよく彼らのために教法をかたった。彼には、尊卑のさしへだてもなく、貧富の区別もなく、智と愚とのわかちすらもなかった。汚物を掃除する者が、その肩の荷をかたえに置いて、彼のまえにひざまずいたことがあった時にも、彼は慈眼をもって迎えた。眼をいからし、悪罵(あくば)をそそぎながら、彼のまえに突っ立った波羅門にも、かれの慈眼はすこしも曇らなかった。あるいはまた、一句を記憶することもできない愚かな者が、さめざめと泣きながら門のほとりに立っている姿がその眼にうつった時には、彼の慈眼はひとしおやわらいでその愚かなる者のうえにそそがれたこともあった。

では彼が、庶民たちのまえに立ち、庶民たちの質問に答えた時、その慈眼はどのように輝き、その慈語はいかなることを説いたであろうか。

ある乱暴者のために ある時のこと、釈尊が例によって、かの祗陀林(ぎだりん)の精舎にあると、ひとりの村人が訪れてきた。彼はある村の長(おさ)であったのであるが、日ごろから乱暴者であったために、経の編集者たちも、彼のことを「暴悪と名づくる村の長」(暴悪聚落主)と記しとどめている。おそらく彼は、その日ごろ、人々から乱暴者よ、暴悪なる者よと呼ばれていたにちがいない。

「大徳(だいとく)よ、ひとは私をよんで、“暴悪”と申します。なんの因縁によって、わたしはそのように呼ばれなければならないのでしょうか。大徳よ、世間には“柔和”とよばれている者もあります。それは何の因により、何の縁によるものでありましょうか」

釈尊を訪れ、釈尊を拝して、そのように訴えた彼は、きっと乱暴者といわれることを苦にしていたのであろう。彼もまた暴悪とよばれるよりは、柔和とよばれたいと思っていたに違いない。だが、人人はけっして柔和なる者とは言ってくれないで、いつでも彼を乱暴者として遇する。乱暴者として扱われてみると、腹も立とう、意地もあろう。そして、また、いよいよ暴悪なる村の長として人々のまえに立ちはだかる。これはいったい、誰が悪いのであるか。何の因果というものであろうか。彼の訴えは、このような訴えであったと思われる。

それに対して、釈尊が彼に教えさとしたことばを、ふるき経はつぎのように記している。

「村の長よ、ここにある人があって、彼はいまだ貪欲(とんよく)を捨てることができず、貪欲のために他人を怒らしめ、他人の怒りにあって自分もまた怒りを現わしたとすると、その人は呼んで暴悪と称されるであろう。また、村の長よ、彼はいまだ瞋恚(しんに)を捨てることができず、瞋恚のゆえに他人を怒らしめ、他人の怒りにあって自分もまた怒りを燃やしたならば、その人は称して暴悪と呼ばれるであろう。愚痴についても、またおなじであって、村の長よ、人が暴悪と名づけられる因縁はここにあると知らねばならぬ。

しかるに、村の長よ、ここにまた人があって、彼はすでによく貪欲をすてることを得、貪欲すでに無きがゆえに、他人を怒らしむることもなく、他人の怒りに会うこともなきがゆえに、みずからも怒りを現わすこともないとするならば、人々は彼を呼んで柔和であると称するであろう。また、村の長よ、彼はよく瞋恚(しんに)をすてさり、愚痴をはなれることを得て、すでに瞋恚なく、愚痴なきがゆえに、他人を怒らしめることもなく、したがって他人の怒りにあうこともないからして、みずからもために怒りを現わすことがないとするならば、人々はまた柔和であると彼を称するであろう。村の長よ、人が柔和と称されるには、このような因縁があると知らねばならない」

釈尊のことばは、実際には、もっと懇切に、噛んで含めるような、そして、おそらくは、もっと砕けたことばであったにちがいない。慈眼はほころびそめた花のように、じっとかの村の長の面にそそがれていたにちがいない。その悲しげな長の面は、やがて和らぎの表情にかわってきた。そして、こくりとうなずいていったのである。

「大徳よ、おことばはまるで、迷った者に道を示されるようでございます。おおわれた物の覆いをとって下さったように思われます。暗(やみ)の中に燈火をもたらしたもうて、眼あるものは見るがよいと仰せされるような思いがいたします。今までは人が悪いのだとばかり思っていたのでありましたが、よく解(わか)りました。では、今日よりはじめましてこの生涯の終わりますまで、大徳の教えに導かれてゆきたいと思います。願わくは、わたしを在家の信者として許したまわんことを」

この話は、南伝では相応部経典(42、1、1、暴悪)に、また漢訳では雑阿含経(32、6、悪性)の中に存している。(216頁)

ある役者のために またある時のこと、釈尊がかの王舎城の郊外なる竹林の園にあったころ、タラプタというある村の長がたずねてきたことがあった。彼の村は、代々芝居の役者を業とするものの村であったらしく、経のことばは彼のことを歌舞伎聚楽の主であると記している。

さて、彼が釈尊を訪れて問うたことは、その村の代々の言い伝えについてのことであった。

「大徳よ、わたしは、昔から代々の歌舞伎役者の言いつたえとして、かように聞いております。すなわち、すべてこの歌舞伎者は、舞台において真実と偽装とをもって人々を笑い楽しましむるがゆえに、身壊(こわ)れ命終わりし後には、喜笑天に生まれることができると、かように聞いておりますが、世尊はこれについて如何にお考えでありましょうか」

だが釈尊は、このように問われても、すぐには答えようとしなかった。

「村の長よ、そのようなことを問うのは、止めたがよいであろう。わたしにそんなことを聞くのは措(お)いたがよい」

それでも彼は、問うことをやめなかった。経のことばはそれについて何ごとをも記していないが、おそらく彼は、この言いつたえについて、何か疑いをもち始めていたのではなかったであろうか。そのゆえにこそ、彼はわざわざ釈尊を訪れて、このことについて教えを乞わんとするのではなかったであろうか。釈尊は二度までも、問うことを止めよ、とすすめた。彼はそれを押し切って、三度びおなじ質問をもって釈尊の教えを乞うた。そこで釈尊は、それほどまでに問うならばと、大体つぎのように説いたのであった。

「村の長よ、昔から歌舞伎者は、よく真実と偽装とをもって人々を笑い楽しましめるがゆえに、死しての後は喜笑天に生まれる、と言い伝えているというが、それは邪(よこし)まの見解であると申さねばならぬ。なんとなれば、昔から歌舞伎者のしていることを考えてみうがよい。歌舞伎を見ようとして集まってくる人々は、まだけっして貪欲をはなれてはいない。その人々のまえに役者たちは、あらゆる貪欲の対象をあつめ展じ、かつそれを強調して人々の心をかきたてる。また彼らは、いまだ瞋恚(しんに)をぬけきらぬ人々のまえに、あらゆる瞋恚のさまを演じ示して、人々の激情をかきたてる。さらにまた、彼らはいまだ愚痴を脱しきれぬ人々をまえにして、さまざまの愚痴にすがたを演出して、いよいよ人々の愚痴をふかからしめる。かくのごとく、村の長よ、歌舞伎者はみずから貪欲に、瞋恚に、愚痴に陶酔して、それによってまた他の人々をも貪欲に、瞋恚に、愚痴に陶酔せしめるのである。されば彼らは、死して後には、喜笑と名づくる地獄におちるであろう」

かくて彼は、出家を許され、修行をかさねて、やがて阿羅漢の一人となることを得たという。この経は、南伝においては相応部経典(42、2、布吒(フタ))に、また漢訳においては雑阿含経(32、2、動揺)の中にみえている。

この経について注意されることが二つあるであろう。その一つは、ここに釈尊は生天(しょうてん)のことを説いておられること、地獄と天国とのことを語っていることである。釈尊の基本的立場からすれば、この生天の思想は一つの迷妄でしかない。したがって釈尊は、比丘たちとの問答においては、生天のことを語ったこともないし、比丘たちがそのような観念にとらわれていれば、断固として、それを拒(しりぞ)けたもうておられる。だが、在家の人々にして深く生天の思想になずんでいるものに対しては、彼は敢(あ)えてその考え方を斥(しりぞ)けることなく、むしろ、みずからその思想の中に入って、その観念の中において、正しい方向への導きを策していられる。それが、いわゆる対機の説法にほかならない。

もう一つは、ここに釈尊は、ほんの片鱗だけではあryが、その芸術論を語っておられることである。そのような見解は、経の他の処のでは殆(ほとん)どみることがないのであるが、ここでは、はからずも、歌舞伎者の問いに際会して、して、歌舞伎なるものの演ずる人生における役割について、釈尊らしい見解を説いていられる。それは、今日の芸術にたずさわる人々からみれば、やや一面的であって、容易に承服しがたいものであろうと思われる。しかし、今日の文学や演劇や音楽も(岡野注;絵画も)また、そのあまりに人々の官能に訴え、人々の衝動をかきたてようとしていることにおいて、真面目によき人生の建立(こんりゅう)を考える人々の納得しがたいものが多いことを、誰も否定することができないのではあるまいか。

村の長への教え またある時のこと、釈尊がナーランダー(那爛陀)の郊外なるバーヴァーリカンバという林にあったとき、アシバンカプッタという村の長が、釈尊を訪ねて来たことがあった。彼は釈尊にむかって、このようなことを訊ねた。

「大徳よ、西の方より来たれる波羅門は、水瓶を持ち、花環(はなわ)をつけ、水に浴し、火につかえて、死せる人々を天界に昇らしめることができるという。大徳は、世尊にましまし、応供(おうぐ)にましまし、正等覚者(しょうとうがくしゃ)であらせられると聞くが、大徳もまた、人々の身壊(こわ)れ命おわりてのち、よく善趣天界(ぜんしゅてんがい)に上生(じょうしょう)せしめることを得るであろうか」

ここに西の方より来たれる波羅門というのは、おそらくクル地方を指さして言っているのであろう。そこは波羅門なる階級の成立したところであって、いわば彼らの本拠であった。彼らの本務とするところは、吠陀(ヴェーダ)を学び、祈祷をとなえ、供犠をいとなんで、人々の現世の栄えと来世の生天を祈ることであった。そして人々は、聖者(しょうじゃ)のいとなみとはかかるものであり、宗教のたずさわるところはかかることであると思っていた。したがって、いま、すぐれたる宗教者として人々のまえに現われた釈尊もまた、かかるいとなみにたずさわる聖職者であると思った人々のあったことも、けっして無理からぬことであった。

かように問われた釈尊は、ここでもきっと慈眼に笑みをたたえていられたであろう。そして、いきなり彼の質問をしりぞけるかわりに、静かにこのような問いを試みられたのであった。

「村の長よ。わたしの方からなんじに問うてみたいことがある。なんじの思うとおりに答えてみるがよい。

村の長よ、こんな場合になんじはいかに思うであろうか。ここに一人の人があって、人を殺し、物を盗み、偽りを語るなど、あらゆる邪(よこし)まの行為をなしたとするがよい。さてその人が死んで、そこに大勢の人が集まってきて、――この人は死して後に善趣天界に生まれますように――と、祈禱し、合掌したとするならば、なんじは如何に思うか、この人は大勢の人々の祈禱合掌の力によって、死してのち天界に生まれることができるであろうか」

「いいえ、大徳よ、その人は天界に生まれることはできますまい」

彼はそう答えるより他はなかった。釈尊はさらに、彼に問うて言った。

「村の長よ、また、かような場合には、なんじは如何に考えるであろうか。たとえば、ここに一人のひとがあって、深い湖の水のなかに大きな石を投げ込んだとするがよい。そのとき、そこに大勢の人々が集まってきて、――大石よ、浮かんでこい、浮かびあがって、陸にのぼれ――と、湖のまわりをめぐりながら、合掌し、祈禱したとするならば、その大きな石は、大勢の人々の合掌祈禱の力によって、浮かび上がってくるであろうか」

「大徳よ、いいえ、その石が浮かんでくるはずはありません」

「それと同じことであろう。村の長よ、あらゆる邪悪の行為をつんできたものが、いかに祈禱したからとて、合掌したからとて、死してのち天界におもむく道理はない。その人は、身壊(こわ)れ命おわりてのちは、悪趣地獄におもむくの外はないのである」

村の長の顔には、しだいに、釈尊の教えるところを、納得し確信する色がみえてきた。釈尊は、さらに、彼に対する問いを重ねた。

「では、村の長よ、さらに、かような場合には、如何に思うであろうか。たとえば、ここにまた一人のひとがあって、生ける者を害さず、他人の物を盗まず、偽りのことばを語らず、あらゆる善き業(ごう)をつんだとするがよい。さて、その人が死んで、そこに、大勢の人々が集まってきて、――この人は死してのち、悪趣地獄に生まれますように。――と祈禱し合掌したとせば、どうであろうか。この人は大勢の人々の祈禱合掌の力によって、死してののちは地獄に生まれなければならぬであろうか」

「いいえ、大徳よ、そのような人が悪趣地獄に生まれる道理はありません」

そのように答える村の長の面には、もはや確信のほほえみすらも浮かんでいたであろう。だが、釈尊は、さらに譬(たとえ)をもって、かさねて説いて言った。

「村の長よ、その通りである。たとえばここに一人のひとがあって、深い湖に油壺を投じたとするがよい。すると、壺は破れて油は水の面に浮いたとする。その時、大勢の者が集まってきて、――油よ沈め、油よ水の底にくだれ。――と祈りをなし、合掌して、湖のまわりを繞(めぐ)ったとするならば、なんじはいかに思うか。その油は人々の祈禱合掌の力によって、水の底に沈んでゆくであろうか」

「いいえ、大徳よ、油が水の底に沈む道理はありません」

「それと同じことではないか、村の長よ、あらゆる正善の行為をつんできたものが、いかに祈ったからとて、合掌したからとて、その力によって悪趣地獄におもむく道理はないのであって、その人は、身壊れ命終わりてのちにおいては、善趣天界に生をうくるであろうこと必定である」

釈尊は、いつの間にか、因果必然の道理を説いて、この村の長をして、納得し確信せしめたもうたのである。かくて彼は、その場において、「願わくは、今日より終生かわることなき帰依の信者として、許し受けられんことを」と、在家の信者となったという。

この経は、南伝の相応部経典(42、6、西地方人)の中に見え、おなじものは漢訳には見えない。生天の思想を許し容(い)れていることにおいては、まえの経とおなじであるが、祈禱供犧の力に対しては、断固として拒否の態度をとっている点において、今日の仏教者の反省を促すものが存している。(212~222頁)(第十六章おわり)

第一七章 譬喩(ひゆ)をもって

布の喩 「かようにわたしは聞いた」と、一つのふるい経(南伝、中部経典、7、布喩(ふゆ)経。漢訳、中阿含経、93、水浄梵志経)は、美しい譬喩をもって教える釈尊のことばをしるしとどめている。

それは、釈尊がやはり、かの祗陀林の園の精舎にましました時のことであった。彼は、比丘たちを呼びあつめて、このように説き教えた。

「比丘たちよ、ここに一枚の布があって、それは穢(よご)れ垢づいているとするがよい。それを染物工が、藍(あい)色なり、黄色なり、紅色なり、あるいは茜(あかね)色なりに染めようとて、染色の壺のなかに浸したとしたならば、いかがであろうか。その時、この布は染色もあざやかにすめ上がるであろうか。そうはゆくまい。何故かというと、それはいうまでもなく、布が清浄でないからである。それとおなじように、比丘たちよ、なんじらの心が穢れていたならば、悪しき結果が予期せらねばならぬのである」

それはけっして、難しい道理を説いているのではない。比丘たちは多分、もうとっくに、その道理を知っていたことであろう。だが、知っていることだけが仏教ではない。知った正しい道理が、ほんとうに身について来なければならない。知得が証得にまで深まって来なければならない。そのためには、美しい、または強い譬喩がしばしば大きな役割を与えられる。なんとなれば、生活に即したふかい印象を、それらは人々の心にもたらすことができるからである。

「比丘たちよ、もしまた、ここに無垢にして清らかな布があって、それを染物工が、あるいは藍に、あるいは黄に、あるいは紅に、また、あるいは茜色に染めようとして、染色の壺にひたしたとするならば、いかがであろうか。その時この布は、きっと染色もあざやかに染め上がるであろう。何がゆえにしかるかといわば、それは布が清らかであるからである。それとおなじく、比丘たちよ、なんじらの心が清浄であったならば、なんじらは善き結果を期待することができるのである」

ここにわたしどもは、釈尊の譬喩の一つの性格を見ることができると思う。いま譬喩について、釈尊とイエス=キリストを比較してみるならば、この二人の教祖は、ともに、しばしば譬喩をもって語ったという点において、相似ているということができる。また、その譬喩がともに、ある時には美しく、ある時には強く、また巧妙であったことにおいて、あえて優劣を言いがたいものであった。だが、その譬喩の性格はたいへん相異なっていたと言わねばならない。

イエスの譬喩は、簡頸(かんけい)で美しい。彼はいきなり、その譬喩とともに、聴く者をして結語のまえに立たせる。「雨は善き者のうえにも悪しき者の上にも等しく降る」彼がそのように譬喩を説いた時、聴く者はすでに最後のことばのまえに立っているのである。すなわち、「天なる父の愛はくまなく、すべての者のうえに注がれる」ことが、すでにそこに語られ示されているのである。釈尊の譬喩は、それとはなはだ対照的である。その譬喩はおなじく美しい。だが、イエスのそれが簡頸であるのに対して、釈尊のそれは理路をみちびくのである。イエスはその譬喩とともに、いきなり結語のまえに立たしめるのに対して、釈尊の場合には、出発点と結語との間にあるく道がある。その道を釈尊はまことに巧みにみちびくのである。

この布の喩(たとえ)の経のことばは、さらにつづけられる。

「比丘たちよ、では心のけがれとは何であろうか。欲のむさぼり、邪(よこし)まの貪欲は心のかがれである。瞋(いか)りは心のけがれであり、恨みは心のかがれであり、過ちをかくすは心のけがれであり、吝(おし)んで施さぬは心のかがれであり、偽り瞞(だま)すことも心のけがれである。また、心の頑(かたく)ななるものも心の汚れであり、性急なるも心の汚れであり、慢(おご)り憍(たか)ぶるも心の汚れであり、放逸なるもまた心のけがれである」

釈尊の綿密整然たる譬喩説法は、さらに諄々(じゅんじゅん)として、語りつづけられる。

「比丘たちよ、したがって、ある比丘は、欲のむさぼりは心のけがれであると知り、欲のむさぼりを心の穢(けが)れとして、これを捨離することに努める。あるいはまた、その他、恨み、いつわり、おごり、なおざり等を、それぞれ心の汚れであると悟り、それらを心の穢れとして、捨離することを努める。そして、そのように努めることにより、よく心のけがれを捨離することをうるにいたると、その時、彼はよく仏と法と僧とに対して、もはや壊することなき信を持することをうるにいたるのである」

布の譬喩によって、心の清浄のいかに大切であるかを説きたもうた釈尊は、さらに説きすすんで、心の洗浄の方法を語り、三宝への浄信を語り、また解脱の境地をかたる。

「比丘たちよ、かかる境地にいたった比丘は、たとい浄白の米飯のほどこしを受け、これに調味を加え、薬味をくわえて食すといえども、それは彼にとってなんの障害ともならぬであろう。穢れ垢づいた布も、清らかな水に入りて洗わるるとき、それは清らかにして無垢なる布となるであろう。金の鉱石はるつぼに入りて練(ね)らるる時、それは清浄にして純粋なる黄金となるであろう。そのごとく、心のけがれを去ってよく解脱したる比丘は、いかなる施食をうけて食するとも、それは彼にとって何のさまたげとならぬ。

そのとき、彼は、ただ慈悲の心をもって、あまねく一切をおおい、東も西も、南も北も、上も下も、全世界にわたりてあます隈(くま)もなく、ただ広大にして博深なる無量の慈悲心をもって覆い住するのである。またその時、彼の心のうちには、はっきりと解脱の自覚がなり、――わたしは解脱した。わが迷いの生活はすでに終わった。清浄なる修行はすでに成った。作(な)すべきことはすでに作された。この上はもはや、かくのごとき迷いの生をくりかえさぬ。――との確信がなるのである」

そして釈尊は、かかる人こそ、「内心の洗浴をもって、おのれを洗い清めた人ということができる」と、この譬喩説法の結語をのべるのであった。

内心の洗浴 だが、この「布の喩の経」は、それで終わってはいない。

この譬喩説法を聞いていたのは、比丘たちだけではなかった。そのあたりに立っていた一人の波羅門もまた、聞くとはなしにその説法のことばを耳にしていたのである。そして、釈尊がしきりに、洗うとか、また水で清めるとか、洗浴するとか言われることばがきこえるので、彼は、ふと心をひかれて釈尊のところにやってきた。何がゆえにそのようなことばに心をひかれたかというと、この経の漢訳の題目にもみえるように、彼は「水浄梵志(すいじょうぼんし)」すなわち洗浴によって悪業(あくごう)を洗い清めうると主張する波羅門であったからである。

「世尊よ、あなたは洗浴、洗浴といわれるが、あなたは何処で洗浴なさるのであろうか。あなたもまたバーフカー河におもむかれるのであるか」

洗浴行者であったその波羅門には、釈尊のことばのそこだけが、つよく耳朶(じだ)にひびいたものとみえる。その質問を受けたとき、釈尊はきっと、その面に微笑をうかべておられたであろうと思われるが、やがて反問して言った。

「波羅門よ、わたしがバーフカー河におもむいて、何をしようと言うのであるか。わたしには、バーフカー河に何の用事があろうか」

「世尊よ、バーフカー河は、人々をして解脱せしめる。かの河は、まことにたっとい河である。バーフカーは人々に福徳をあたえる。そのゆえに人々は、かの河に沐浴して、そのなせる悪業を洗い浄(きよ)めんとするのである」

それが、洗浴行者としての、かの波羅門の信ずるところであった。それに対して、釈尊は、まことになすべきものは、内心の洗浴であって、河川の洗浴はよく悪業を浄めるものでないことを、かの波羅門のために説き教えたのであった。経のことばはその教示を、例によって、偈文をもって記しとどめている。

「バーフカーに、アディカッカに、

ガヤーに、またスンダリカーに

サラッサティーに、バヤーガに、

あるいはまたバーフマティーにと、

愚人はつねに河に浴すれども、

その悪しき業は浄められない。

スンダリカーは何の用に立とうか。

バヤーガも、またバーフカーも、

何の用にか立つことを得ようか。

悪しき心をいだける者、

また罪あやまちを犯せし者の、

罪業ふかきを河は浄はせぬ。

心浄き者には常に春祭があり、

心浄き者にはつねに布薩(ふさつ)があり、

心きよき者、おこない浄き者には、

加行おのずからに成就せられる。

波羅門よ、来たってここに浴するがよい。

生きとし生ける者に安穏を与えるがよい。

なんじもし、妄語(いつわり)をかたることなく、

なんじもし、生ける者を害(そこな)うことなく、

与えざる物を盗(と)ることもなく、

よく信を樹(う)えて、貪(むさ)ぼることもなければ、

ガヤーにおもむいて何をかなそう。

ガヤーは単に水槽にすぎぬ」

このように説き教えられた時、彼もまた釈尊のおしえを納得することを得て、その場において出家の許可をうけ、やがて放逸ならずして勇猛に精進をつとめた結果、彼もまたよく出家の目的を達して、聖者の一人となることを得たという。

彼の岸にわたす いま一つの、美しい、かなりながい譬喩説法について語ってみよう(南伝、中部経典、34、牧牛者小経、漢訳、雑阿含経、47、7、牧牛者)。

それは、世尊が、比丘たちをつれて、ヴァッジー(跋耆)の国をあちこちと遊行(ゆぎょう)せられて、ウッカチェーラーという土地で、かのガンガー(恒河)の河岸に達した時のことであった。その時、釈尊は、比丘たちとともにガンガーの河の岸にたって、その状景にふさわしい譬喩を説いた。

「比丘たちよ、むかしマガダ(摩掲陀)の国に、ひとりの愚かしい牛飼いがあった。雨期の最後の月をすぎて、彼は、牛の群れをつれて、このガンガーの彼(か)の岸に渡ろうとした。しかるに彼は、この岸をもよく観察せず、またかの岸をもよく観察せず、適当な渡し場でないところを、牛を駆って流れに入ったために、牛の群れは河流の中程にいたって立ち往生し、密集して溺死するという災厄にあってしまったという。それは何のゆえであったかというと、よく観察しなかったからに外ならなかったのである」

そのような喩(たと)え話をして、そこで釈尊は、比丘たちをかえりみて言った。

「それとおなじく、比丘たちよ、いかなる沙門にあれ、また波羅門にあれ、もし彼らがこの世界をよく知らず、また、かの世界をもよく知らず、観察のいたらぬものがあったならば、彼らにしたがって聴いて信ぜんとする人々は、ながき不幸を見なければならぬであろう」

今日においても、わたしどもは、そのような誤った導き方をしている人々の少なくないことを知っている。かくのごときを指して、イエスは、「それは盲人(めしい)の手引きする盲人に似ている、盲人もし盲人を手引きせば、二人とも穴に落ちるであろう」と、語ったことがあった。釈尊の譬喩説法は、さらに懇切に語りつづけられる。

「比丘たちよ、むかし、まだマガダの国に、ひとりの知慧ある牛飼いがあった。彼もまた、雨期の最後の月をすぎて、牛の群れをひきいて、ガンガーの彼の岸に渡ろうとした。そのとき彼は、この岸をよく観察し、またかの岸をよく観察して、しかるべき渡し場によって、牛どもを対岸に渡そうとした。すなわち、彼はまず、牛どもの中でもっともつよいものを選んで、それらを流れに入れ、よく流れを横切って、安全にかの岸に到らしめた。つぎに彼は、牛の群れの中で比較的につよいもの、よく馴らされたものを流れに入れて、またよく河の流れをこえて、無事にかの岸にいたらしめた。そして最後には、まだ力の弱い犢(こうし)たちや、乳ばなれしたばかりの牛どもを流れに入れたのであるが、彼らもまた、すでにかの岸にわたった親牛たちの吼える声にひかれ励まされて、無事に河の流れをよぎって、かの岸に到り着くことを得さしめたという。それは何のゆえであったかというに、彼がよく観察しよく導くことを得たからに外ならないのである」

かく語るとき、釈尊は、いうまでもなく、この道をゆく人々のことを喩(たと)え語っているのであった。そして、また次のように説き加えた。

「比丘たちよ、それとおなじく、いかなる沙門にあれ、また波羅門にあれ、彼らがもし、この世界をよく知りつくし、またかの世界をもよく知りつくし、観察充分にして、導くことをうるならば、彼らについて、聴いて信ぜんとする人々は、ながき幸福をみることをうるであろう。

比丘たちよ、牛の群れの中で、最初にガンガーの流れを渡った力づよい牛たちのごとく、比丘たちの中でも、すでに煩悩を断ち、修行をみたし、所作すでに弁じおわった者もある。彼らはすでに魔の流れをよぎって、安穏に彼岸にある。また比丘たちよ、かの牛の群れの中で、よく馴らされ、比較的つよい牛たちが、ついで流れをこえることを得たように、比丘たちの中でも、すでに三結(さんけつ)を断ち、貪瞋痴(とんじんち)もうすく、正覚(しょうがく)決定せる者もある。彼らもまた、やがて魔の流れをよぎって、無事に彼岸に到るであろう。さらにまた、比丘たちよ、乳離れしたばかりの牛や、いまだ力かよわい犢(こうし)たちも、すでに彼の岸にある母牛たちの呼び吼える声に惹(ひ)かれ励まされて、ついに流れを渡りえたように、比丘たちの中にあっても、いまだ煩悩つよく、修行の力よわき者もあれど、彼らも、また、よく法に随(したが)い、信に依(よ)らば、やがては魔の流れをこえて、彼の岸にいたることができよう。

比丘たちよ、わたしはよくこの世界を観察した。またよくかの世界を観察した。すべての世界を知りつくして、わたしは正覚者、一切知者となった。されば比丘たちよ、このわたしについて聴いて信ぜんとする者は、ながく利益と幸福とを見ることができるであろう」

年ごとに、秋が来て空が晴れわたると、この岸からかの岸へと、牛の群れを南に渡す牧牛者がみられる。その岸に立って、その河の流れをゆびさしながら、煩悩熾盛の彼岸にわたるこの道のあり方を語りたもうたその譬喩は、まことに美しく、また巧みにして、かつ懇切をきわめたものであった。

毒箭のたとえ 釈尊の譬喩をかたる場合に、わたしどもは、かの「毒箭(どくや)の喩(たとえ)の経」の譬喩(漢訳、中阿含経、221、箭喩経。南伝、中部経典、63、魔羅迦小経)を語りおとすことはできない。それはこの仏の道においては、何ごとに努力を集中すべきであるか、何ごとに心をうばわれてはならないかについて、はなはだ適切な教誡(きょうかい)を垂れさせ給うたものである。その説法の因縁をつくったのは、マールンクヤ(魔羅迦)という哲学ずきの比丘であった。

それは、例のごとく、釈尊が祇園精舎にあらわれた時のことであった。その時、かの比丘は、一つの不満をもって、師を訪れ、師の前に坐して言った。

「世尊よ、わたしは、ひとり空閑処(くうかんじょ)に坐しているとき、心の中でかように思った。世尊は、このような問題については一向に説かれない。すなわち、この世界は常住であるか無常であるか。この世界みは辺際(へんざい)ありやなしや、霊魂と身体とは同じであるか別なるか。あるいは、人は死後もなお存するか存せざるか。このような問題について、世尊は何ごとも説いて下さらない。問えば答えることを拒みたもう。わたしはそれが不満であって、堪えられない。いまわたしは、かさねて世尊に問い申す。それでも答えたまわずば、わたしはこの道をすてて俗に還(かえ)るのほかはない」

ここでマールンクヤが言うところの問題なるものは、そのころの思想家たちの、いわば流行の課題であった。この哲学ずきの比丘は、それらの問題についてすぐれた解答をこの師に期待していたのであろう。だが、他の経においてもしばしばみられるように、それらの問題にたいして、釈尊はいつも黙然として答えなかった。この比丘はそのことを不服として、今日はどうしても答えを得ようと、意気ごんでたって来たのである。

「マールンクヤよ、わたしはかってなんじに、このような問題について教えるがゆえ、わたしの許(もと)に来るがよいと言ったことでもあったであろうか」

そう言われてみると、別にそのような約束で出家したわけではなかった。だから、「そうではなかった」と答えはしたものの、彼はますます不服そうな顔をふくらませていたに違いない、そのとき、静かに、そして懇切に語りいでた譬喩が、「毒箭の喩」としてひろく知られているのである。

「マールンクヤよ、ここに人があって、毒矢に射られたとするがよい。その時、彼の親友たちは、彼のために医者を迎えるであろう。だが彼は、この毒矢を射た者は何びとであるか。また、この矢を射た弓はいかなる弓であるか。あるいはまた、この矢は、その矢柄はいかがであり、その羽は何でできており、この先端はいかなる形ををしているか。それらのことが知られざるうちは、この矢を抜いてはならぬと言ったとするならば、いかがであろうか。マールンクヤよ、もしそうすると、彼は、それらのことを知りうるまえに、命終わらねばならぬであろう。

マールンクヤよ、それとおなじく、もし人あって、かかる問題について説かれざる間は、わたしの許で清浄(しょうじょう)の行を修しないと主張したならば、いかがであろうか。彼もまた、ついに浄行を修する機会なくして、命終わらねばならぬのである」

では釈尊は、それらの問題について、何故に、どこまでも黙然不答の態度をとったかというと、それにはさまざまの解釈がある。だが、今は、それらの解釈にふかく触れないこととするが、この経においても、その理由は一応説かれている。すなわち、それらの問題に深入りすることは、けっして出家の目的たる解脱涅槃に役立つものではないということであった。そのことを、釈尊は、かの比丘に教えて、このように語っている。

「マールンクヤよ、世界は常住であるとか無常であることかいう見解を立てても、それによって清浄の行が成る道理はない。むしろそれらの見解の存するところには、依然として、生老病死、愁悲苦悩がとどまり存するであろう。わたしはただ、この現在の生存において、それらを克服することを教えるのである。

そのゆえに、マールンクヤよ、わたしの説かないことは、説かれぬままに受持するがよい。わたしの説いたことは、説かれたままに受持するがよい。マールンクヤよ、世界の常住・無常・有辺・無辺などのことは、わたしはこれを説かない。何故に説かないにであるか。それは道理の把握に役立たず、正道(しょうどう)の実践に役立たず、正覚・涅槃に資することなきがゆえである。そのゆえに、わたしはそれらのことを説かないのである。

それでは、マールンクヤよ、わたしの説いたことは何であろうか。マールンクヤよ、『これは苦である』とわたしは説いた。『これは苦の集起(じっき、原因)である』とわたしは説いた。『これは苦の滅である』とわたしは説いた。また『これは苦の滅にいたる道である』とわたしは説いた。何故にわたしはそれらのことを説いたのであろうか。それは、道理の把握をもたらし、正道の実践に基礎をあたえ、正覚、涅槃に資するがゆえである。

そのゆえに、マールンクヤよ、わたしの説かないことは、説かないままに受持するがよく、わたしの説いたことは、説かれたままに受持するがよいというのである」

かの比丘は、この譬喩説法によって、それまでの迷妄をはなれ、歓喜して釈尊の教えを信受したという。わたしどももまた、この説法を深く味わうことによって、よく釈尊の教えのまことに指すところを見いだすべきであると思うのである。(223~235頁、第17章おわり)

第一八章 善き友とともに――僧伽の精神

僧に帰依したてまつる

「比丘たちよ、わたしは、よく未(いま)だ生ぜらる善を生じ、あるいは、すでに生じたる不善を捨つるに、これにまさる一法を知らない。それは、比丘たちよ、友の善きことである。比丘たちよ、友善ければ、いまだ生ぜらる善法を生じ、また、すでに生ぜらる不善の法を捨てることをうるであろう」

「比丘たちよ、わたしは、よくいまだ生ぜらる不善を生じ、すでに生ぜる善を捨つるには、これにすぐる一法を知らない。比丘たちよ、それは友の悪しきことである。比丘たちよ、友悪しければ、いまだ生ぜらる不善の法を生じ、また、すでに生ぜる善法を捨つるにいたる」

これは、増支部経典の一集にみられる対句である。そこでは、これを釈尊が、何びとにたいし、またいかなる因縁によりて説かせ給うたかを、知ることができない。また、これまで、これらの句は、人々によって深い注意を払われていなかったように思われる。

だが、わたしどもは、心してふるい経典をひもとき読んでゆくと、そこには、おなじ思想につながる一連の考え方の存することを知ることができる。たとえば、おなじく増支部経典の一集にまたこのような双句が記されている。

「比丘たちよ、わたしは、外の人の因として、かほどにも大いなる不利益をきたすものは、他に一因をも見ることを得ない。比丘たちよ、それは即(すなわ)ち、友の悪しきことである。比丘たちよ、友の悪しきは、大いなる不利益をきたす」

「比丘たちよ、わたしは、外の人の因として、かほどにも大なる利益をきたすものは、他に一因をも見ることはできない。比丘たちよ、それは即ち、友の善きことである。比丘たちよ、友の善きことは、大なる利益をきたす」

そこでは、経典は、多くの「自己の中にある因」を説いた釈尊のことばをつらねている。釈尊の考え方は、疑いもなくその主調を、おのれを省察することにおいている。したがって、釈尊は、おのれの中に存するもろもろの因を指摘して、これあるがゆえにかかる悪しき結果が生ずるのであり、これあるがゆえに、これこれの善き結果は生ずるのであると、あるいは放逸と不放逸とをあげ、あるいは懈怠(けだい)と精進とをならべ、あるいはまた大欲(だいよく)と知足とを語って、比丘たちを教誡した。それらの中にあって、ただ一つ、「外の人にある因」を説いて、「それは友の悪しきことであって、かほどにも大いなる不利益をきたすものは、他に一因をも見ることを得ず」と誡(いまし)め、また「それは友の善きことであって、かほどにも大なる利益をもたらすものは、外の人から来る因としては、他に一つもないのである」とさとしていることは、わたしどもにとって、けっして軽々しく見すごしてよいことであるとは思えない。

善い友をもたねばならぬ。悪しき友をもってはいけない。それはわたしどもが、日常生活の実践の中においても、つねに教えられてきた卑近な教えであった。そのゆえに、わたしどもは、かような釈尊の教誡についても、えてして軽く聞き流しがちである。だがじっと考えてみると、それこそは、かの僧伽(サンガ)の精神――おなじ教法のもとにいそしむ伴侶(ともがら)が、ともに励まし合い、ともに反省し合って、その道を成就しようとする、かの僧伽の精神にまで通ずるものであることが知られる。

仏教は人間の宗教である。神をやのむこともなく、奇蹟をまつこともせぬ。そのゆえに、祭祀(さいし)をいとなむこともなく、祈禱(きとう)をささげることもない。そのような釈尊の宗教においては、依(よ)るべきものとしては、自己のほかにはないと説かれる。自己のよく調えられたるとき、人はまたと得がたい依処(よりどころ)をうるのであると語られたこともあった。

だがわたしどもは、この自己調御(ちょうぎょ)の道をゆくに、まったく孤独ではないのである。なんとなれば、釈尊はわたしどもの先達として、すでにこの道を開き、この道をゆき、この道を成就して、なんじらも来たれとさし招いている。わたしどもは、その行履(あんり)を仰ぎ、その言行に力をあたえられ、その芳躅(ほうたく)をふまんとするがゆえに、「仏に帰依したてまつる」と表白するのである。また生身の釈尊こそはすでにこの土にあらぬけれども、その説き教えた教法は、いまもなおわたしどもの師として存している。わたしどもは、それによって正しき道を知り、それによって正しき人間のあり方を教えられうると信ずるゆえに「法に帰依したてまつる」と表白するのである。

さらにまた、わたしどもが、「僧に帰依したてまつる」と表白するゆえんのものは、いわゆる四方僧伽の存在に信頼し、力を与えられるがゆえに外ならない。なるほど、わたしどもをとりまく世界は、依然として邪悪にみち、汚穢(おえ)に垢づいている。だが、その中にあって、なお釈尊の道をしたい、教法にしたがって実践している人々も存する。過去においてそうであったように、今日もなおしかるであろうと思われる。わたしどもはけっして孤独ではない。わたしどもはけっしてひとりよがりの道をあるいているのではない。かく信ずることによって、わたしどもは、法につながる善き友の手を感じ、それにとって、励まされ、力づけられれ、また懈怠(けだい、 善を修めることを努力しない心の状態)の生じたときには反省し鞭撻(べんたつ)されることができるのである。それが僧伽の精神であって、いまここに記してとどめた「善き友」の教えもまた、断じて、軽々に読みすごしてはならぬと言わねばならない。

日の出のきざし  では、わたしどもは、さらに、一連の「善き友」についての釈尊の教えのことばをたずねて、その深き意味を味わってみよう。

まず、わたしどもは、相応部経典の四五、道相応と称される一連の諸経のなかに。多くの「善き友」についての教えの存することを思い出すことができる。それらのすべては、かのサーヴァッティー(舎衛城)の郊外なる祗陀林の精舎において説かれたものである。その中の一経は、おおよそ、このように記されてある。

「比丘たちよ、朝な朝な太陽が東にのぼるときには、その先駆として、またその前相として、東の空に明るい相が出ずるであろう。比丘たちよ、それとおなじく、比丘たちが八つの聖道(しょうどう)をおこすときにも、その先駆たり、その前相たるものが存する。それは善き友のあることである。

比丘たちよ、善き友をもてる比丘においては、八つの聖道を修習し、八つの聖道を多修するであろうことを、期して待つことができる」

そして釈尊は、さらに、善き友をもてる比丘が、いかにして八つの聖道を修習し多修するかを、正見(しょうけん)につき、正思(しょうし)につき、正語(しょうご)につきなど、八つのおのおのについて述べている。

この太陽の昇る前の東の空の明るみに喩(たと)えての説法は、まことに美しく、かつ清らかな譬喩(ひゆ)であって、釈尊のしばしば語り出でたもうたところであった。ここでも、この「善き友」と題する経の外、さらに戒や不放逸や正理(しょうり)などにつき、おなじ譬喩をもって説かれていて、それらの七つの経をあつめて、また「日輪広説」と題されてあるのであるが、それらの中にあって、この「善き友」の経は、その第一経としてあり、かつ、さきにのべたように、ただ一つの「外の人による因」としてであった。

さらに、おなじく相応部経典の四五、道相応と称せられる諸経の中には、つぎのように説かれた経がある。

「比丘たちよ、ここに一つの法があり、それは八つの聖道をおこすに利益が多い。その一つの法とは何であろうか。それは謂(い)わく、善き友のあることである。

比丘たちよ、善き友をもてる比丘においては、八つの聖道を修習し、八つの聖道を多修するであろうこと、期して待つことができるのである」

また、それらの諸経の中の一つの経においては、このようにも説かれてある。

「比丘たちよ、わたしは、未だ生ぜざる八つの聖道を生ぜしめ、すでに生ぜる八つの聖道を修習し円満ならしめるものとして、他にこれにすぐる一つの法をも知らない。比丘たちよ、それはすなわち善き友のあることである。

比丘たちよ、善き友をもてる比丘においては、八つの聖道を修習し、八つの聖道を多修するであろうこと、期して待つことができるであろう」

そして釈尊は、かかる善き友をもてる比丘たちが、いかにして八つの聖道を修習し多修し円満するかを、八つのおのおのに分別して説いているのである。その説き方は大体において、さきに述べた増支部経典の説き方と、同工異曲のものということができる。

道のなかばにあらず  では、善き友をもつということは、この聖なる道をゆかんとするものにとって、さきの太陽の出ずる先駆たる明るみの譬喩のごとく、単に前兆たり、先駆たるの意義を有するのみのものであろうか。しかるとせば、それは、僧伽の精神に通ずるというほどの、おもき意義を有するものではないと言わねばならぬのではないか。さきの一経の譬喩は、まことに美しい譬喩ではあるが、そのような印象もまたそこに生ずるのである。だが、釈尊がこのことに置く意味は、はるかにもっと重いものであったようである。おなじく相応部経典の四五、道相応のなかに存する『半(なかば)』と題せられる一経(同本、漢訳、雑阿含経、27、15。および28、21)は、そのことに関して、釈尊とアーナンダ(阿難)との間につぎのような問答が、交わされたことを記しとどめている。

それは、釈尊が釈迦族のすむサッカラという村にとどまり住しておられた時のことであった。その時、かの常随の弟子アーナンダは、ふと師の釈尊を拝して、このようにたずねて言った。

「大徳よ、善き友人(善知識)善き朋輩(善伴党)善き交友(善随従)を有するということは、これは、この聖なる道の修行(梵行)の、なかばをなすものであると思われますが、いかかでありましょうか」

善き師をもち、善き友をもち、善き弟子をもつということは、要するに、善き伴侶をもつことに外ならぬ、さきに釈尊が善き友というのも、つぶさに言えば、このことに外ならぬのである。なんとなればこの道においては、師はすなわち先達(せんだつ)なる伴侶であり、弟子すなわち後よりきたる伴侶であって、つまりところ、いずれもまた道の友にあらざるはないのである。

ところで、アーナンダは、かかる善き伴侶をもつということは、この道の修行のすでに半ばを成就せるにひとしと考えてよいのではあるまいか、と釈尊に問うたのであった。その問う心はすでに、善き友をもつことの意義をはなはだ高く評価して、ここまで評価することは行きすぎであろうかと、そのことを師にうかがわんとするにあったであろう。しかるに、釈尊は、その問いをとらえて、いまだ善き友の意義を評価することの、なお足らざるを教えておられるのである。

「アーナンダよ、この言をなすなかれ。アーナンダよ、この言をなすなかれ。アーナンダよ、善き友人、善き朋輩、善き交友をもてる比丘は、八つの聖道を修習す、八つの修道を多修するであろうことは、期して俟(ま)つことをうるのである」

そして、釈尊は、善き伴侶をもてる比丘たちが、いかに正見を修習し、いかに正思を修習し、いかに正語を修習す、ないしいかに八つの聖道を修習し、円満するかを語ったのち、さらに、つぎのごとく教えて言った。

「アーナンダよ、この理によっても知るがごとく、善き友人、よき朋輩(ほうばい)、善き交友をもつということは、これこの聖なる道の修行のことごとくである。アーナンダよ、なんじらは、わたしを善き友となすことによって、生(しょう)・老・病・死の法の中にあるものにして、しかも、その法より解脱することを得、愁・悲・苦・悩の法のなかにあるものにして、しかも、それらの愁・悲・苦・悩を解脱しうるのである。このことによってもまた、アーナンダよ、善き友人、善き朋輩、善き交友をもつということは、この道のすべてであると知るべきである」

この問答は、はなはだ興味ふかい。アーナンダもまた、つねに師の教誡をきいて、善き友をもつことの深く重い意味を、すでに何ほどか知っていたにちがいない。そのゆえに、彼は、このことは、この道の半ばにも相当するものであろうかと評価したのであった。そして、もしや、自分の評価があまりに重きにすぎはせぬかと、そのことを師にただしてみた。すると釈尊の答えは、意外にも、その評価はまだ足りぬというのであった。このことこそこの道のすべてであるというのであった。わたしどもは、この問答を、ほんとうにしみじみと味わってみなければならぬのではないか。

人は善き友をもたねばならぬ。そんなことは、既にとっくに知っているとわたしどもは思う。そんな平板な、卑近な教えを、わたしどもは、今さらに釈尊によって教えられることはないと思うであろう。しかるに、釈尊は、それこそ、この道のすべてであると知らねばならぬと説かれておられる。そのことばをわたしどもは、いかにして味わいとればよいのであろうか。

この道のすべて  さらに、相応部経典の45、道相応の第3、『舎利弗(しゃりほつ)』と題する一経によれば、このことについて、釈尊とその弟子サーリプッタ(舎利弗)とが、このように問答を交わしていることが知られる。それもまた祇園の精舎においてのことである。釈尊を拝し、釈尊に対坐したサーリプッタは、白(もう)して言った。

「大徳よ、善き友人(善知識)善き朋輩(善伴党)善き交友(善随従)をもつことは、これ聖なる修行のすべてであると思われるが、このことはいかがでありましょうか」

それは、さきの経典において釈尊がアーナンダに教えさとした「善き友」についての考え方とまったく一致するものである。したがって、釈尊は、

「善いかな、善いかな、サーリプッタよ、善き友人、善き朋輩、善き交友をもつことは、この道の修行のすべてである」

と、彼の問うところを深く肯定して、さらに、さきの経とおなじ趣旨のことを、くりかえして説いておられる。では、その考え方は釈尊の弟子たちもまた、よく理解していたところであったとおもわれるのであるが、その理解に、わたしどもは、いかにして到達すればよいのであろうか。

それについて、わたしはさらに、このことについて釈尊が、コーサラ(拘薩羅)の国のパセーナディ(波斯匿)に教えられた一経の存することを思いおこすことができる。そこでは、釈尊は、在俗の信者なるかの王にたいして、その身分にふさわしく、きわめて具体的に説き教えられているのみならず、さらに興味ふかいことには、そこで釈尊は、さきの一経におけるアーナンダの問答を引用して語っておられる。したがって、わたしどもはそこに、はからずも、かのアーナンダに教えた「善き友」の考え方につき、釈尊みずからの具体的な解説を見いだすことをうるのである。

おなじ相応部経典の三、『拘薩羅相応』によれば。この王はしばしば、独坐静観のうちに思索しては、その結論なり疑問なりをたずさえて釈尊を訪れ、教えを乞うたのであるが、この経(南伝、相応部経典、3、18、不放逸、漢訳、雑阿含経、46、17、従仏教)においてもまた、かの王は独り坐し静かに思索して、

「世尊によりて法は善く説かれた。それは善き友、善き仲間をもつことであって、悪しき友、悪しき仲間をもつことではない、ということになるのではないか」

との結論にいたった。そこで彼は、ただちに釈尊を訪れて、その思うところを呈して、教えをこうた。

すると釈尊は、王ののぶるところを、「その通りである」と、ふかくいなづいたのであったが、ふと、さる時、かのアーナンダと交わした問答を思いおこして、

「大王よ、ある時、わたしは釈尊族のすむある村にいた。その時、大王よ、アーナンダはわたしに問うて、善き友、善き仲間をもつことは、この道の半ばであると思ってよいかと言った」

と、語りいでた。そして、経のことばは、そこに、かの経の問答をつぶさに再現しているが、いまわたしどもは、もはや、それをここにくりかえすの必要はない、言うところは、善き友をもつことは、この道のなかばどころか、そのすべてであるというにあって、釈尊は、その問答をつぶさに語ることによって、きっと、かの王をして、その結論をさらに深く理解し印象せしめたのであろう。そしてさらに釈尊は、それに付け加えて、つぎのように説き教えたのであった。

「大王よ、かかるがゆえに、王は、かくのごとく学ばれるがよい。――わたしは善き友、善き朋輩、善き仲間をもつものとなろう。――と、かく王は努めて学ばれるがよい。

大王よ、善き友、善き朋輩、善き仲間をもつものとなるには、この一法に住せなければならぬ。それは即ち、善をなすことにおいて放逸ならざることである。

大王よ、王がよく不放逸に住し、怠ることがなかったならば、王の後宮はみな、かく思うであろう。――王は不放逸に住したまい、怠ることあらせられぬ。われもまた、不放逸に住し、怠ることがあってはならぬ。――と。

  大王よ、また、王がよく、怠ることなく不放逸に住せられたならば、王の武臣たちもまた、かく考えるであろう。――われらの王は怠ることなくよく不放逸に住したもうてあられる。われらもまた、怠ることをせず、不放逸に住せねばならぬ。――と。

さらに、また大王よ、王がよく不放逸にすて、怠ることがなかったならば、王の国民たちもまた、かように思うであろう。――われらの王は、よく不放逸にましまし、怠ることあらせられず。われらもまた、怠ることなく、よく勤めねばならぬ。――と。

大王よ、かくのごとく、王がよく不放逸に住し懈怠(けたい)することなければ、自己もよく護られ、後宮もよく護られ、武臣も国民もまた護られることとなるのである」

その教え方は、この王の身分にふさわしく、卑近にしてかつ具体的に語られてある。わたしどもはそこに必ずしも、深い教学的な教えを見いだすことはできない。だが、善き友の結びつき――僧伽の精神――が、この道における大きな徳目であるゆえんは、これらの説法を通して、しみじみと感ぜられる思いがするのである。(236~246頁)(第18章おわり)

第一九章 雑話すべからず――教誡説法

教誡説法  静かな、思索する人であった釈尊には、露出した感情のほとばしりを見ることが、まことに稀(まれ)であった。その弟子たちを叱咤(しった)して「サタンよ、しりぞけ」と怒号したイエス、そのような激越な感情的な言行は、釈尊においてはまったく見受けられない。

釈尊にとっては、そのような激越な感情の奔流は「瞋恚(しんに)」とよばれる煩悩の作用であって、それは、克服され、壊滅されねばならぬものであった。もしも、それらの感情のほとばしりが放置せられたならば、わが衷(うち)におけるみちびくもの――智慧(ちえ)はおおいかくされ、人は、手綱(たづな)なき奔馬のごとく、思いもよらぬ禍いの中に突入するであろうと考えられた。

「激揺する馬車を抑止するがごとく、勃発したる忿怒(ふんぬ)をよく抑止する人。わたしはこれを真の御者とよぶ」

『法句経(ほっくぎょう)』の一句は、そのように、釈尊のことばを伝えている。感情はそのままに放置せられてはならぬ。忿怒は勃発するがままにまかせてはならぬ。それらにたいして、人は智慧をもって手綱をしめなければならぬ。よく智慧をもって激情を貫き、これを奔馳(ほんち)せしめざる人こそ、釈尊には、すぐれた人であると考えられた。

「騾馬(らば)の調御せられたるは良く、気高き信度馬(しんどば)(インダス河地方産の駿馬)は良く、調御せられたる大象は良い。されど自己を調御したる人は、さらに良い」

そのようにも、『法句経』の一句は、釈尊の考え方を伝えている。

だが、釈尊の弟子たちの中にも、すぐれた人々ばかりはいなかった。修行にたえかねて在家の生活へと逃げ帰った者もあった。師の説法の座において居眠りをしたものもあった。比丘同士で論諍(ろんそう)にふけり、激語をもって争ったものもあった。あるいはまた、つまらぬ世間ばなしにふけって、師の注意を受けた比丘たちの例も、ふるき経の中にしばしば書きとどめられている。

では、そのような場合に、釈尊は、比丘たちに対して、どのようにふるまわれたであろうか。彼らに対して、どのように指摘し、どのように教え誡(いま)しめ、またどのように導かせたもうたであろうか。それらのことは、わたしどもにとって、はなはだ興味ふかく、かつ教えられるところが多いのである。なんとなれば、そのような時にこそ、この師の生ける姿は、他のどの場合よりもはっきりとうかがわれるからである。釈尊の人となりが、もっとも鮮明に出てくるのは、そのような場合であったからである。

それでは、そのような場合の釈尊の言行をしるしとどめた三、四の経をひもといて、この師の生ける姿のあざやかな印象をもとめてみよう。

法談と聖黙  『ウダーナ』すなわち『自説経』と称されるものの一経(小部経典、自説経、9)は、大様つぎのように記されている。

それもまた、釈尊が、かのジェータ(祇園)林の精舎にとどまってあられたときのことである。托鉢から帰ってきた比丘たちは、カレーリ樹の傍の頂きの、尖ったまるい屋根をもった集会所にあつまって、よもやまの世間ばなしをはじめた。その中の一人が、

「友だちよ、みなさんは世間にいたころ、いろいろの技芸を学んだことであろうが、いったい、いかなる技芸が、あらゆる技芸の中で最上第一のものであろうか」

という話題を提出すると、世間ばなしは、その話題を中心として、ぱっとはなしの花をさかせた。あるものは、

「それは象を御する術にきまっている。象を御する技術が、何といっても、最上第一の技術である」

と主張した。きっと、この比丘は、世にある時分には、象を御する術を得意としていたにちがいない。すると、また一人が、

「象を御することよりも、馬を御することこそ、もっとすぐれた技術を要するものである。馬を御する術こそ、あらゆる技芸中の第一最上の技芸である」

と言いだした。この比丘はきっと、以前には馬を御することを得意としたにちがいない。さらに、また一人は、車を御することが、最上第一の技芸であると言った。また一人は、弓術がそれであるといい、また一人は、剣術がそれであるとも言った。さらにまた、他の比丘たちは、算術の術をあげたものおあり、書を記す術をあげたものもあり、詩作の術を誇ったものもあった。そのほか、順世(じゅんせ)術とか四相術とか、そのようなことばもこの経はしるしとどめている。

そのような話題がみんなの注意をひき、めいめいが、その得意とするところを、あらゆる技芸中の最上第一なりと主張しはじめたのでは、論議は熟し、そのつくるところを知らないであろう。どうやら、その世間ばなしは、托鉢から帰ってきた昼下がりの頃から、夕刻までつづいて、なお尽くるところを知らなかったようである。

夕刻、釈尊は、独坐静思の坐よりたって、この円形尖頭の集会所の方へと、歩を運んだ。遠くから比丘たちの話し声が聞こえてくる。だが、釈尊が近づくと、比丘たちはそれと知って、たちまち静粛に帰り、釈尊をむかえて、その座に招じた。

「比丘たちよ、なんじらは今、いかなる話題によって、ここにつどい集まっていたのであるか。比丘たちよ、なんじらの話はいまだ尽きなかったようであるが、その話題は何であったか」

かく問われて、比丘たちは、ありしがままを答えた。そして、その話題の結論のいまだ出でぬうちに、師が入来したのであると言った。それに対して、釈尊は、静かに教えて言った。

「比丘たちよ、かかる談話にふけることは、なんじら善き男子(なんし)の、家よりいでて家なき出家沙門の身となった者にふさわしいことであろうか。比丘たちよ、なんじらが、つどい集まった時には、ただ二つのなすべきことがあるのである。その一つは、法に関する談話、いま一つは、聖なる沈黙である」

雑話すべからず  いま一つの経(小部経典、自説経、8)もまた、比丘たちがつまらぬ無駄話にふけっていたことを記しとどめている。そこでは、彼らは、托鉢にでて町の中でみたさまざまのことについて、つい夢中になって語りふけっていたようである。経のことばは、その話柄をいささか抽象化して、このように記している。

「友よ、托鉢にいでたる比丘は、托鉢のために往来して、しばしば眼にて快き色(もの)をみることを得、耳にて快き声を聞くことを得、鼻にて快き香をかぐことを得、舌にて快き味をあじわうことを得、身にて快き触処にふるることを得るであろう。しかも友よ、托鉢に出たる比丘は、尊ばれ、敬われ、重んぜられ、供養せられる。いざ、われらもまた托鉢者となろう。しからば、われらもまた、眼にて快き色(もの)を見ることを得べく、耳にて快き声を聞くことを得べく……」

ここに眼・耳・鼻・舌・身とならべ記されてあることは、この談話がすでに、五根(ごこん)という仏教術語によって、類型化せられていることを示しているのであって、これをもっと具体的にいえば、おそらくそれは女のことや食べもののことなどであったに相違あるまい。その話題の下劣なること、今日の閑人の雑話と、すこしも選ぶところはなかったであろう。

彼らはいま、釈尊の教えのもとにあって、聖なる目的を追求することに専念する人々であった。だが、世間の垢は、なお彼らの身心から除き切られてはいなかった。だから、ふと世間なみの話題がでてくると、つい夢中になって、そのような無駄話にふけることもあったのであろう。その時、釈尊が静かに現われて彼らの話題をきき、彼らに誡(いまし)め語ったことばは、この経においても、さきの経のそれと同じく、そのような話題について語り合うことは、聖なる目的の追求者にとってふさわしくないということであり、また、比丘のつどいにおいてなすべきことは、ただ法の談話と尊き沈黙のみであるということであった。

その教誡(きょうかい)のことばはまことに平凡である。だが、そのことばは、よく味わい得るものにとっては、まことに味わいぶかいものであることをわたしは指摘しておきたい。

わたしはかつて、かの芭蕉翁の『行脚(あんぎゃ)の掟』の一条に、「俳諧(はいかい)のほか雑話すべからず、雑話いでなば、居眠りして労をやしなうべし」とあるを見て、異常な感銘を感じたことがあった。一道に秀(ひい)ずる者の心底に存するものは、これなるかなと思ったことであった。しかるに、いまふとひるがえってみれば、それはすでに、遠き以前に釈尊が教えたところであったのである。

法の談話と、尊き沈黙とのみが、比丘たちの集会においてなさるべきことであるとの教誡は、すべて一途(いちず)に専念するものの当為を教えたものにほかならぬ。それは、他の仏教述語をもっていえば、不放逸というに通じ、また精進とよばれるものに通じ、さらには、信と称せられる心の状態も、そのほかのことではないのである。比丘たるものは、いうまでもなく、釈尊の教法を聴き、その教えに納得して、いまや「この師の教えを措(お)きて依(よ)るべきところなし」と思い定め、この人生向上の道をあるきはじめた人々であるはずである。しかるとすれば、彼らの当(まさ)になすべきことは、不放逸にして、この道に精進することのほかにはないのである。雑然たる世間的関心の介入することを、彼らの心は、断乎として排除しなければならぬ。彼らの心は、ただ法にのみ一向にむかっていなければならぬ。その清浄にして無雑な心境こそが、信であるのである。そのことを、釈尊はいま、無駄話にふける比丘たちに教えて、なんじらのつどえる時になすべきことは、ただ法の談話と、尊き沈黙とのみであると説き給うているのである、とわたしどもは知らねばならぬ。

喧騒を叱る  したがって、釈尊は、比丘たちが騒然としていることを、はなはだ喜ばなかった。

ある経によれば(南伝、中部経典、67、車頭聚落経、増一阿含経、45、2)このようなこともあったと記しのこされている。

それは釈尊が、チャートゥマー(車頭)という聚落(むら)の、アーマラキー樹園にとどまり住していた時のことであった。その時、サーリプッタ(舎利弗)とモッガラーナ(目犍連)を上首とする多数の比丘たちが、師の釈尊に見(まみ)えんために、この聚落に到着した。その中には、久々にて、師にお目にかかることをたのしみにしていた比丘もあり、また、はじめてこの大なる聖者の姿を仰ぐことに心をおどらせていた新しい比丘もあった。

釈尊と共にもとからこの樹園に止住していた比丘たちは、彼ら新到の比丘たちをむかえて、大いに喜び、床座を設け、衣鉢(えはつ)をおいて、たがいに久しぶりの歓談をかわした。

その声があまりに高くかつ喧(かしま)しかったので、釈尊のいるところまで聞こえた。釈尊は、近侍の比丘アーナンダ(阿難)をよんでたずねて言った。

「アーナンダよ、あの漁師たちが魚を獲(と)る時のような、あの声高な喧騒は、何ごとであるか」

「世尊よ、あれはサーリプッタ(舎利弗)とモッガラーナ(目犍連)のひきいる多勢の比丘たちが、世尊におめもじせんとて、いましがたこの樹園に到着いたしまして、旧住の比丘やyいと挨拶を交わし、久々の歓談をたのしんでいるのであります」

アーナンダ(阿難)があるがままのことを答えると、釈尊は、その主だった者を呼んでくるようにと命じた。

召された比丘たちが、釈尊を拝して、その座についた時、釈尊は彼らにむかって言った。

「比丘たちよ、なんじらのあの声高な喧騒は何ごとであるか。まるで漁師たちが魚をとる時のようではないか。

比丘たちもまた、ありしがままをもって答えるの外はなかった。

「比丘たちよ、行け、わたしはなんじらをして去らしめる。なんじらは、わたしの前にあってはならぬ」

そのことばは、なお、声をはげましての叱咤ではなかったと思われる。それにしても、わたしどもは、このようなつよい叱責(しっせき)のことばを、その弟子たちにむかって語った釈尊を、他のどの経にもたずねることはできない。わたしどもはこの師にしてなおかつ、かかる叱咤(しった)のことばを吐くかと、この経をひもといて、わが眼をうかがわんばかりである。

この叱責のことばに遇(あ)って、かえすことばをもたぬ比丘たちは、ただ「畏(かしこ)まれり」とのみ答えて、師のまえに深く伏しぬかずき、やがて、しおしおと起(た)って、床座をたたみ、衣鉢をととのえて、またこの樹園を去って行った。

ちょうどその時分、この聚落(むら)の釈迦族の人々は、何かの用事で会議所にあつまっていた。見ると、さきほど到着したばかりの比丘たちが、また、とぼとぼと、かの樹園から去ってゆく。何ゆえならんと、いそぎ出て問うてみると、師の叱責を受けて、去らしめられるのだという。

「しからば、尊者たちは、しばらくここに坐して待っておられるがよい。わたしどもが行ってお詫びしたならば、あるいは大徳のお心を和らげることができるかも知れぬ」

そして、この聚落の釈迦族の人々は、釈尊を訪れて、かの比丘たちのために、このように申しあげた。

「世尊よ、願わくは、かの比丘たちを歓び迎えられたい。世尊はいつも比丘たちを、快く摂(せっ)せられたもう。そのごとく、今日もまたかの比丘たちを、許し摂せられたまえ。世尊よ、かの比丘たちの中には、出家してまだ久しからぬ新人の比丘たちも見受けられる。彼らはもしいま世尊を見ることを得なかったならば、あるいは異心を生ぜんやもはかりがたい。

世尊よ、たとえば、若い種子が水を得なかったならば、その発育は異変を生ずるであろう。そのごとく、出家していまだ久しからぬ比丘たちは、もし世尊を見奉(たてまつ)ることができなかったならば、あるいは変心の生ぜんことも保(たも)しがたい。

世尊よ、また譬(たと)えば、幼き小生が、母牛を見ることができなかったならば、いかがであろうか。それと同じく、もしこの法と律に入りてなお日浅き比丘たちが、いま世尊を見奉り、世尊の教えに接することができなかったならば、いかがであろうか。

世尊よ、願わくは、今日の不束(ふつつか)を許したまい、かの比丘たちを、いつものごとく、歓び摂したまえ」

この釈迦族の人々のことばは、まことに条理をつくしていた。釈尊はじっとそのことばを聞いていたが、やがて心を和らげ、彼らを許し迎えて、さらに一場の説法を彼らのために行なった、という。

論諍を誡める  釈尊はまた論諍(ろんそう)することを好まれず、弟子の比丘たちが、われをわすれて諍論するのを、しばしば誡(いまし)め教えたことがあった。

一つの経に(中部経典、48、憍賞弥経)よれば、コーサンビー(憍賞弥)の国のゴーシタ(瞿師羅)園にあった比丘たちが、何かの問題について、はげしい論諍を行ない、激語を交えて、果つるところを知らなかったとき、釈尊は彼らを召して、問うて言った。

「比丘たちよ、なんじらは、議論にふけり、たがいに激しいことばを相手になげて、いつまでも和するにいたらずという。それに相違ないか」

「世尊よ、そうであります」

「比丘たちよ、それでは、このことをなんじらはいかに思うか。なんじらがたがいに論じ諍(あらそ)い、激しいことばを相手にむかって語るとき、その時、なんじらは、陰にも陽にも、身における慈悲を行ない、口における慈悲をいとなみ、意において慈悲をいだいているであろうか」

「世尊よ、そうではありません」

「比丘たちよ、もし然(しか)るのでなかったならば、なんじらはそこに何を求めて、たがいに諍い論ずるのであるか。愚かなる者よ、かくのごときはただ、ながき不利と不幸とを招くにいたるであろう」

そして、和合にみちびく六つの法について説かれたのが、この経の骨子をなすのであるが、そこには、明らかに、論諍に関する釈尊の見解が見られる。議論をもって争い、激語をもって相手に勝たんとすることは、一見するところ、牙をもってする動物の争いにすぐれ、刀杖(とうじょう)をもってする世人の戦いにまさっている。だが、うちに慈悲をいだくことがなかったならば、その心事は、牙をもって争う者と何の選ぶところがあり、刀杖をもって戦う者に何のまさるところがあろうか。もし人々がよく慈身業(じしんごう)をいとなみ、慈語業(じごごう)をいとなみ、慈意業(じいごう)をいとなまんとするならば、けっして激語論諍におよぶ道理はない。そのゆえに、釈尊は、論諍をこととする比丘たちに、いつも強い叱責をあたえたのであった。

他の経によれば(中部経典、128、随煩悩経)、このようなこともあった。

それもおなじコーサンビー(憍賞弥)のゴーシタ(瞿師羅)園の比丘たちのことであった。彼らの中に、またもや、紛諍をおこし、激越の語をもって相争うものがあった。そのことを、一人の比丘が釈尊に乞うて言った。

「世尊よ、願わくは、慈愍(じみん)をたれたまい、彼らの許(もと)にいたって、教えをたまわらんことを」

そこで釈尊は彼らの許にいたり、彼らに呼びかけて言った。

「あわれ比丘たちよ、諍論することなかれ、異論することなかれ……」

その時、その座にあった一人の比丘は、釈尊のことばをおさえとどめて釈尊に申して言った。

「世尊よ、われらの法の主にまします世尊は待たされよ。世尊はかかることに嬈乱(にょうらん)せられてはならぬ。われらは応(まさ)にみずからこの紛諍を鎮(しず)めるであろう」

かの比丘は、釈尊がかかることに心労されるのを見るに忍びず、断じて自分たちだけで、この事を処理せねばならぬと思ったのである。それは釈尊にとっても、うれしい比丘たちの心づかいであった。

ではと、釈尊は、その場を去って、やがて衣鉢をととのえ、コーサンビーの町に托鉢におもむきたもうた。その道すがらこの師はつぎのような偈を誦(じゅ)したもうたという。その偈の一部は、いまかの『法句経』の第三偈と第四偈にも、記しとどめられていることを知るものもあろう。

「ひとわれを罵(ののし)れり、われをうてり、

われに打ち勝てり、われを笑えりと、

およそかくのごとく怨(うら)み思う者には、

いつまでも敵意の鎮まることなし。

ひとわれを罵(ののし)れり、われを擲(う)てり、

われに打ち勝たり、われは笑われたりと、

およそかかる怨念(おんねん)あることなき者には、

いつか敵意は鎮まるであろう。

他人の牛馬、財産をかすめる者、

他の国土を略奪する人々にも、

なお和するということがある。

いかでかなんじらに和することなかるべき。

もしなんじら、よき友をもつことを得、

賢にして慧(え)ある同行者を得なば、

一切の艱難(かんなん)にうちかちて、

ともに歓喜し、ともに行ずるがよい。

もしなんじら、よき友をもつことを得ず、

賢にして慧(え)ある同行者を得ずんば、

林中をゆくかの大象のごとく、

ただ一人にして、独り往(ゆ)くがよい」(247~259頁)(第19章おわり)

第二十章 貴賤と吉凶

賤しき者は誰ぞ  ここに、四つの経に記しのこされたる釈尊の教法をとり出して、この師は、いかなる人を貴(たっと)しとし、いかなる人を賤(いや)しとしたか、また、いかなるが吉にして、いかなるが凶であると教えたかを、あわせたずねてみたいと思う。その四つの経は、すべて『スッタニパータ』(経集)にふくまれるものであって、〈貴〉については『婆私叱(ヴァーセッタ)経』(3、9)、〈賎〉については『賎民経』(1、7)、〈吉〉については『大吉祥経』(2、4)、〈凶〉については『敗亡経』(1、6)が、おのおの釈尊の教えを偈文をもって記しとどめている。

思うに、貴賤、吉凶ということは、わたしどもの日常実践において、つねに私どもの思惟と行動の原動力をなしているものであって、善悪の概念もただちにこの貴賤の概念と結びついており、禍福の概念もすぐにこの吉凶の概念に隣している。わたしどもは、もし人が、何を貴とし賤となすかを知りうるならば、あるいは何を吉となし凶となすかを察することができるならば、ただちに推して、その人の人となりをも、その人の日常行動の大様をも知ることができるであろう。

それらの経の一つ、『賎民経』と称する経においては、釈尊もまた、「似而非(えせ)沙門」となじられ、「賤しき者」と呼ばれたことがあった。それは、例によって、釈尊がサーヴァッティー(舎衛城)の郊外なる祗陀林の精舎にあらわれた時のことであった。ある朝のこと、釈尊がサーヴァッティーの町に托鉢におもむき、たまたまある波羅門の住居に近づくと、いきなり、罵(ののし)る声があびせかけられた。

「坊主よ、そこにとどまれ、‘えせ’沙門よ、そこにとどまれ。賤しき者は、そこにとどまって、この神聖なる場所に近づいてはならぬ」

その波羅門は、事火(じか)すなわち火をたっとび、火をまつることを業とするものであって、いまや、その住居において、神火を点じ、供物をそなえて、事火の祭式をいとなもうとするところであった。そこに、行乞する釈尊が近づいて来たので、「賤しき者よ、この神聖なる場所に近づいてはならぬ」と罵り叫んだのであった、だが、その時、釈尊は、静かにかの波羅門に問うていった。

「波羅門よ、しかえあばなんじは、卑しい者とは何であるか、また人はいかなることをなせば、賤しき者となるのであるか、知っているか」

そう問われてみると、彼は、すぐに答えることはできなかった。そのような問題について深く考えてみることもなかった、急所をつかれて、たじたじとしたのである。

「沙門よ、わたしは何が賤しいか、どうすれば賤しい人になるか、答えることができない。沙門よ、それについて、なんじの考えを教えて下さるまいか」

そこで釈尊が、かの波羅門のために、説き示した教法を、この経は二十七の偈文をもって、記しとどめている。その説き方はいわゆる次第説法であった。彼はまず、いろいろと具体的に、賤しいと言わるべき例をあげてゆく。

「村に於(おい)て、あるいは林園に於て、

他の人の所有に属する物を、

与えざるに、盗心をもて盗る者、

かかる人は賤しいと知るべきである。

他人に負債をもてる者が、

返済を迫られ、遁辞(とんじ)をかまえて、

なんじに負債あることなしと言う、

かかる人は賤しいと知らねばならぬ。

証人として問われたる時に、

自己のために、また他人のために、

また財のために虚偽を語る人、

かかる人は賤しいと知るがよい。

まことに些少(さしょう)なる欲のために、

道ゆく人々を殺害して、

些少の金品を奪うがごとき者、

かかる者は賤しい人と知るがよい」

そこでは、物を盗むこと、偽りを語ること、命ある者を殺すことなどが、賤しいこととして語られている。それをなす人が賤しい人であることは、何人もこれを拒むことはできない。かの波羅門もまた、これを肯(うべな)うのほかなかったに違いない。

つづいて、釈尊はまた、つぎのような事例をあげてゆく。

「年老いて人生のさかりを過ぎし

母たる人、もしくは父たる人を、

みずからは富裕に暮らしながら扶養せぬ者、

かかる人は賤しいと言わねばならぬ。

母や父や、また兄弟姉妹を

あるいはことばをもって悩まし、

あるいは手をもって打擲(ちょうちゃく)する、

かかる人は賤しいと言わねばならぬ。

みずから悪しき行為をなしながら、

このこと知られざれと願い、

隠匿(いんとく)せんことに心をくだく人、

かかる人は賤しいと言わねばならぬ」

かかる人の行為は、ただちに世の罪を構成するものではないかも知れないが、けっして立派な生活と言うことはできない。かかる生活の賤しいことは、かの波羅門もまた認めざるを得ない。

さらに、釈尊は、語りつづけて教える。

「おのれを高くほめそやし、

他人をけなし軽んずる者は、

自慢のためにかえって卑賎(ひせん)に堕す。

かかる人もまた賤しいと言わねばならぬ。

まことは聖者(しょうじゃ)にあらずして、

みずから聖者なりと公言する者は、

一切世間をあざむく戝であって、

かかる者は実に最下の賎民である」

そして釈尊は、よく知られたる一偈をもって、それらすべての事例を結論して教えた。

「人は、生まれによって賎民たるにあらず、

生まれによって波羅門たるのではない。

人は、行為によって賎民となり、

行為によって波羅門となるのである」

「暗(やみ)の中に燈火をもたらして、『眼ある者はこれを見よ』というがごとく、釈尊は多くの事例をもってわたしのために法を説きたもうた』というのが、ここでもまた、かの波羅門の入信のことばであった。

波羅門の階級は四姓(四つの基本的階級)の最上に位する。したがって、波羅門として生まれたものは貴い、然(しか)らざるものは賤しいというのが、彼が波羅門的因襲の中でいだきつづけた心の暗夜であった。そのゆえに、祭火に近づく釈尊にすら、「賤しき者は、近づいてはならぬ」と罵った。その心の暗(やみ)の中に、いま一道の光がさし入った。それは、人間の行為が一切を決するという真理であった。人の尊いのは、その行為が尊いからであり、人の賤しいのは、そのなすところが賤しいからであるという。この千古不磨(せんこふま)の道理にめざめ得て、彼は生涯を在家(ざいけ)信者として、釈尊にしたがうものとなったという。

尊き者は誰か  つぎに、『婆私吒経』とよばれる一経もまた、おなじく、人間の行為が一切を決するという原理――それが業(ごう)説にほかならぬ――によって、ここでは、何人が真に尊貴なる人であるかが説き示されておる。そして、その結論もまた、さきの経とおなじく、つぎのような偈文をもって説かれている。

「人は、生まれによって聖者たるにあらず、

生まれによって非聖者たるのではない。

人は、行為によって聖者となり、

行為によって非聖者となるのである」

それは、釈尊が、イッチャーナンガラ(伊車能伽羅)という村の森にとどまっていた時のことであった。この村には、多くの著名な波羅門たちが居住していたが、その中の二人の間に、いったい波羅門とは何であるか、という議論がおこった。その一人は、父母ともに由緒(ゆいしょ)ただしく、七世代の祖先にいたるまでの血統に欠点なきものが、真の波羅門である、と主張した。また一人は、戒を具し、義務を全うしたる者こそ、そのゆえに波羅門である、と主張した。かくて、たがいに論じ合ったが、いずれも他を説得することを得ず、論議は果てしがなかった。二人は、ついに、それでは、いまこの村の森に釈迦族より出た有名な沙門が止住している。往(ゆ)いて彼の解答を求め、それによって議論の決をつけようということになった。それは波羅門自身の本質に関する問題である。しかも、その問題の決を波羅門ならぬ釈尊に問うて、その解答のままに「我らも受持せん」という。そのことは、当時すでに釈尊の名声がいかに大であったかを知るべき資料でもある。

ともあれ、二人の波羅門は、釈尊を訪れ、いんぎんな礼を交わし、さて、議論の経緯(いきさつ)をのべて、「生まれによりて波羅門なり」とすべきか、それとも「行為によりて波羅門なり」というべきかを、説き教えたまえと乞うた。その問いも、またそれに対する答えも、経のことばはともに偈文をもって記し、実に五十三節をつらねているのであるが、いまは散文を主としてその要領をのべておくこととする。

釈尊の説明は、この二人の波羅門をまえにして、まことに精細をきわめる。まず初めに、彼は生物について語る。草木について語り、昆虫について語り、獣物について語り、蛇類について語り、魚類について語り、また鳥類について語る。そして、それらはすべて「その生まれによって相形(そうぎょう)の別ある」ことを指摘する。それらは、その生まれによって草であり、水であり、魚であり、鳥であるというのである。しかるに、

「これらの生物がその生まれによって、

相形の別さまざまなるがごとき、

生まれによる相形のべつなるものは、

人間においては見ることを得ぬ」

人々がたがいに別異あるのは、その身体の形相についてではなくして、ただ波羅門とか、武士とか、農夫とかの別が存するのみである。すなわち、人々の中で、土地を耕して生活する者は農夫であり、種々の工巧(たくみ)を職とする者は工人であり、売買をもって生業とする者は商人である。また、武術をもって生きる者は武士であり、祭りを司(つかさど)って生活する者は祭官であり、盗みをもって業とする者は盗賊である。然(しか)るとするならば、「その生まれによって波羅門ばり」ということは、あり得ないではないか。

それでは、いかなる人をまさしく波羅門というべきであろうか、と釈尊は説きすすめてゆく。ここで彼が「波羅門」ということばをもって指さしているのは「聖者」に外ならないのであるが、まことに「聖者」――「波羅門」の名に値する人とは、いかなる人であろうかを、釈尊はまた詳細に語る。それは「一切の煩悩を断じおわった人」であらねばならぬときも説かれる。また「無明(むみょう)を捨てさり、真理を覚(さと)れる人」であるべきだとも語られる。あるいは、

「蓮(はす)の葉が水に染まることなきがごとく、

芥子(けし)粒が錐(きり)の尖(さき)にとどまらぬがごとく、

もろもろの欲に染著(せんじゃく)せざる者、

かかる人をわたしは波羅門という」

とも記されておる。あるいはまた、

「違背する人々の中にて違背せず

笞(むち)を執れる人々の中にて笞をとらず、

取著(しゅじゃく)をいだく人々の中にて取著なき、

かかる人をわたしは波羅門という」

とも語られている。それらの説明の中で、釈尊は、しだいに仏教的人間の理想を説き教えてゆく。そして、人は生まれによって波羅門となるのではなくして、行為によって波羅門となるのだという結論を、不動に彼ら二人の波羅門の心に納得せしめる。彼らはそれによって、聖者とは、波羅門とは、まことに尊貴なる人間とは何であるかを、「暗の中に燈火をもたらして『眼ある者はこれを見よ』というがごとく」に教え示されて、彼らもまた、生涯を在俗の信者として、釈尊にしたがうものとなったと、経のことばは結ばれている。

吉祥と敗北の門  さらに、『大吉祥経』とよばれる著名の一経は、人の吉祥について説かれている。それは、釈尊が祇園精舎にあった時、夜半にして天神があらわれ、「わがために、最上の吉祥について語りたまえ」と乞(こ)えるに対して、釈尊が教え示すという形式がとられている。その形式は、他の経においても、しばしば用いられている形式であって、そこには、天神そのものではなく、“その名は知られていないが、天神というよりほかない善き人”というほどの意をもって、“ある人”が語られている。

その説法の内容は、十二偈にわたり、ここでもまた次第を追うて、漸々(ぜんぜん)に高き吉祥を説き、ついに、仏教的生活者の最高の境地が語られる。それは美しい、そしてあじわいふかい偈々であるが、その一々はすでに、さきに説いた。(第十一章参照)

さらにまた、『敗亡経』と称される経は、人々はいかにして敗れ亡ぶるか、人々の凶運はいかにして来るかを、つぎのように教えている。この経は、さきの『大吉祥経』の対(つい)をなすもののごとく、かの経が人々の吉の面を説くに対し、この経は人々の凶の面を語っておる。さらに、経の構成もまた相同じく、夜半の天神の教えを請(こ)えるに対して、釈尊が偈をもって教え答えるという形式をとっている。古い註書(ちゅうしょ)によれば、釈尊は、かの『大吉祥経』を説いて三経目に、つづいてこの経を説いたという。

また、この経に、人々の敗亡(ほろび)にいたる理由として語られるものの幾偈かは、さきの『賎民経』に説くものと、その内容をひとしくしている。それらは当然の一致であろう。なんとなれば、人々をして賤しからしむる行為こそ、人々を敗亡みちびくものであり、また、人々をみちびいて敗亡の門にいたらしむる行ないこそ、人々を賤しからしむものであって、善と吉と貴とが一致し、悪と凶と賎とが相応するのが、この人生の当然であらねばならぬからである。

さて釈尊は、ここでは、「我らは世尊に、敗れ亡ぶる人について問いたい。何が敗れ亡ぶる者の敗亡の門であろうか。願わくは我らのために説きたまえ」と請う天神にこたえて、まず結論的な説法をなしている。

「勝ちて存(のこ)る者を知るは易(やす)い。

敗れ亡ぶる者を知ることも易(やさ)しい。

法を欲する者が勝ち存(のこ)る者となり、

法を欲せぬ者が敗れ亡ぶる者となる」

この説き方は、さきの諸経にみた次節説法と異なる。さきの説法が帰納する説き方であるに対して、この説き方は、まず原則を打ち出して、そこに具体的事例をあてて、演繹(えんえき)するという行き方である。その具体的な事例は十二あげられ、総じて二十五偈よりなっている。その四、五の事例をここに引いてみよう。

「睡眠を事とし、集会を好み、

懶惰(らんだ)にして奮起することなく、

しかも事々に忿(いかり)をなす人、

これが敗れ亡ぶる者の門である」

人はつねに心の眼を覚ましていなければならぬ。無用の会談会食を好んで独座静観の時を失ってはならぬ。精進して奮起することを知らねばならぬ。よく忿(いかり)をなすものは、かえって懶惰(らんだ)懈怠(けだい)の人に多いことを知らねばならぬ。しからざれば、敗亡の門はたちまちに彼の前に開かれるであろう、という。

「多くの財を擁し、金銀をたくわえ、

ゆたかな飲食をほしいままにし、

しかも、ひとり美味をむさぼる、

これが敗亡にいたる門である。

年老いて人生の盛時(さかり)をすぎし、

母たる人、また父たる人を、

みずからは富裕に暮らしながら扶養せぬ者、

これが敗亡にいたる門である」

富んでいるということは、かならずしも吉祥の道ではない。富貴にして奢(おご)るものもあり、富裕にしていよいよ慳貪(けんどん)なるものもある。もし心せざれば、この道もたちまち敗亡の門に通ずるであろうという。この二句は、『賎民経』の一偈とその内容をひとしくする。

「おのが妻をもって満足せず、

もろもろの遊女にまみえ、

また他人の妻女にゆく者、

これは敗亡(ほろび)への門であると知るがよい。

青春をすぎたる人が、

テインパル果のごとき乳房の女をもち、

彼女への嫉妬のため夜も眠らず、

これは敗亡への門であると知るがよい」

この第一句もまた、内容のほぼおなじものが、『賎民経』にみられる。愛欲女色のことに規制を失うものは、賤しい者であるとともに、またみずから敗亡の門に御するものと知るべきである。

「刹帝利(クシャトリヤ)(武族)の家に生まれたる者が、

財は小に、割愛は大に、

この世に不可能なる王位を希(ねが)う、

これは敗亡(ほろび)への門と知らねばならぬ」

栄誉や権勢に対する欲求も、その程をこえる時には、また敗亡の門に通ずる。この一偈は、弱小なる釈迦族のクシャトリア(刹帝利)に生まれた釈尊が、ついに出家するにいたった動機の一端をほのめかすものではないかともいう。だが、その推測の当否は、いまは知るべくもない。

以上、四つの経によって、人の貴賤と吉凶につき、まことに具体的な釈尊の教えを引いて記しとどめた。心して教えの意を汲めば、それらはすべて、ただちに、わたしどもの日常実践のための教えとして役立ちうるであろう。(260~273頁)

第二十一章 法を見るものはわれを見る

法の相続者たれ  釈尊の数多い説法のなかで、もっとも感銘ふかい説法はどれであろうかと、わたしは自分自身に問うてみることがある。そのたびに、わたしは自分の問いに答えることができない。なんとなれば、わたしにとって感銘ふかい説法は、けっして三、四にとどまらないからである。だが、その中から三、四をあげてみよと求められるならば、わたしはつぎのような説法をあげるであろう。

その一つは、「なんじらは、わたしの法の相続者たれ、財の相続者たるなかれ」と教え説かれた『法嗣経(ほうしきょう)』(南伝、中部経典、三。漢訳、中阿含経、88、求法経)の説法の一部である。それもまた、かの祗陀林の僧園にてのことであった。釈尊は、ふと比丘たちに呼びかけて、このように説きたもうた。

「比丘たちよ、なんじらは、わたしの法の相続者とならねばならぬ。財の相続者となってはならぬ。わたしはなんじらを憐愍(れんみん)して、わが弟子たちは法の相続者たれかし、財の相続者たることなかれかし、と願っているのである。

比丘たちよ、もしなんじらが、わたしの財の相続者となり、法の相続者とならなかったならば、なんじらはそれによって、他人より指さされ、かの師の弟子たちは、財の相続者にして法の相続者にあらず、と批評せられるであろう。わたしもまたそれによって、他人に指さされ、かの師の弟子たちは、財の相続者であって法の相続者にはあらず、と評されるであろう。

比丘たちよ、さらばなんじらは、心してわたしの法の相続者とならねばならぬ。財の相続者となってはならない。さすれば、なんじららも、またわたしも、他人の指弾を受け、かの師の弟子たちは財の相続者であって、法の相続者ではないなどと、非難せられることはないであろう。そのゆえに、わたしはここに、なんじらはわたしの法の相続者たれ、財の相続者たるなかれ、と説くのである」

この説法を披見していると、わたしどもは、釈尊がじかにわたしども今日の仏教者にむかって教誡(きょうかい)を垂れているかのような錯覚にとらわれることがある。悲しい哉(かな)、今日の仏教者にして、財の相続者たるものははなはだ多く、法の相続者たらんと努むるものははなはだすくない。今日の仏教の弊は、詮(せん)じつめれば、ことごとくここにいたるのではないか。しかるとすれば、この経の説法こそ、今日の仏教者が耳を傾け、心に慚(は)じて、もっとも受持すべきものではないか。

だが、財の相続者たらずして、法の相続者たることは、いうは易(やす)くして、行うことはまことに難(かた)い。釈尊じきじきの聖弟子にして、なおかつ、ともすれば財の相続者となり、法の相続者たらんことを怠る者もあった。さればこそ、ここ祗陀林の精舎にて、かかる説法も説き出でられたのである。そして釈尊は、さらに、説き加えられて、財の相続者たらざらんとするには、また、よく法の相続者たるためには、いかなる決意をもつべきかについて、つぎのような譬喩(ひゆ)をのべているのである。

「比丘たちよ、わたしはいま、そのことについて、譬喩を説こう。比丘たちよ、わたしはいま、食を得、充分にたべ、なおかつ余分があって、それを捨てようと思っているとき、二人の比丘が疲れきって、腹をすかせて帰って来たとするがよい。そのとき、わたしは彼らに向かって、かように語ったとする。『比丘たちよ、わたしはいま食をおわって、なおここに余分が残っている。わたしは、これを捨てようと思っていたのだが、もしなんじが欲するならば、食べるがよい』そう言われて、一人の比丘は、かように考えた。『師は、ここに余分な食物があるから、食べたらどうかと仰せられる。それはわたしがいただけなければ捨てられる食物である。だが、師はいつもわれらに教えて、なんじらはわたしの法の相続者たれ、財の相続者たることなかれ、と説かせ給うている。しかるに、この食物もまた一つの財である。これはいただくことをやめよう』そして彼は、疲れきって、腹のすいた身体をよこたえて、その夜をすごした。

比丘たちよ、しかるにもう一人は、このように考えてみた。『師はあのように仰られる。それは余分の食物だから、食べたらどうか、食べなければ捨てるのだ、との仰せである。では頂戴(ちょうだい)して、この空腹をみたし、この疲労を回復しよう』そして彼はその余分の食を受け、空腹をみたして、その夜をすごしたとする。

そこで比丘たちよ、この二人の比丘のうち、いずれが尊敬に値いするであろうか。比丘たちよ、一人の比丘は空腹をみたして、一夜をすごすことができた。だが、真に尊敬にあたいし、称讃に値するものは、さきのもう一人の比丘である。なんとなれば、彼は一夜の空腹に堪えねばならなかったが、そのことは彼にとって、ながく小欲・知足・精勤(しょうごん)に資することを得るからである。

比丘たちよ、このゆえに、なんじらはわたしの法の相続者たれ、財の相続者たるなかれとわたしは説くのである」

世間の常識の立場にあって解するならば、この説法には、なお何か解しかねるものが残るであろう。だが、心して深く味わってみるならば、この説法のもつ感銘は、まことに深いものであって、釈尊にしたがわんとするものの用心は、所詮、「法の相続者たれ、財の相続者たらざれ」という、この一句につくるとさえおもわれる。

法を見るものはわれを見る  『如是語経(にょぜごきょう)』の第九二経、『和合衣(わごうえ)』と題せられるものは、ほんの短文にすぎぬが、これもわたしにとっては、もっとも感銘ふかい経の一つである。それは、何処で、何人に対して説かれたものであるかも知られないが、その全文は、つぎのごとくである。

「比丘たちよ、たとい比丘が、わたしの和合衣(わごうえ)の裳(もすそ)を執り、後より随行して、わたしの足跡を踏もうとも、もし彼が、はげしい欲望をいだき、欲望のために、激情を抱き、瞋恚(いかり)をいだき、邪(よこし)まの思惟にかられ、放逸にして和解なく、いつまでも惑うてあるならば、彼はわたしから遠く離れてあり、またわたしは彼から遠く離れてあるのである。そのゆえは何であろうか。比丘たちよ、かの比丘は法を見ず、法を見ざる者はわたしを見ないからである」

それは、静かな、おだやかな調子で語られている。だが、そのおだやかなことばの内容は、じっと味わってみると、妥協いやしくもせざる厳しさにあふれている。「法を見ざる者は、われを見ざるなり」釈尊の道にしたがうものにとって、これほど厳しいことばはない。わたしどもは、時に寺に詣(もう)ずることをもって、仏教者であると称することを得るであろうか。このことばのまえに立つものは、断じて「否」と答えなければならぬ。またわたしどもは、時に看経(かんきん)するのゆえをもって、仏の道をゆくものと称することを得るのであろうか。このことばの厳しさにふれることを得たものは、即座に「然らず」と答うるの外はない。さらにまたわたしどもは、しばしば仏前に合掌するのゆえをもって、われは仏弟子なりと称することもできぬであろう。なんとなれば、たとい釈尊その人の和合衣のもすそを執って随行しようととも、よく法を見ることなきものはわれを見ざる者であると誡(いまし)めているからである。

ではわたしどもは、いかにすることによって、よく真の仏弟子となり、よくまことの仏教者たりうるのであろうか。そのことにつき、この経における釈尊のことばは、つぎのように語りつがれている。

「また比丘たちよ、たとい比丘が、わたしを去ること由旬(ゆじゅん)(由旬 yojana とは距離の単位、四十里または三十里、あるいは十六里にあたるという)のかなたに住すとも、もし彼が、はげしい欲望をいだかず、欲望のために激情をいだくこともなく、瞋恚をいだくこともなく、よこしまの思惟にかられることもなく、不放逸にしてよく和解し、道心堅固にして、よく一境に心をとどむることをうるならば、則(すなわ)ち彼は、わたしの近くにあるのであり、またわたしは、彼の近くにいるのである。そのゆえんは何であろうか。比丘たちよ、かの比丘は法を見るものであり、法を見るものはわたしを見るからである」

これもまた、わたしどもにとっては、まことに心の暖まる師のことばであると申すことができよう。わたしどもは、時も処(ところ)も、師の釈尊を去ることははなはだ遠い。時はすでに、釈尊とわたしどもの間には二千幾百年をへだて、処としては、わたしどもは縁うすくして、仏跡の一つをもいまだに拝したことはない。だが、この経においては、師は「たとい互いに隔たること遠くとも、よく法を見るものは、わたしのすぐ傍にいるのである」と説いている。それはわたしどもにとって、まことに嬉しいことばである。わたしどもは、たとい時処において隔たること幾千年、幾千里であろうとも、よく師の教法を解し、よく師の教法に随順することによって、師はわたしどものすぐ傍にいるのである。「法を見る者は、われを見るのであり、われを見る者は、法を見るのである」そこにわたしどもは、心あたたまる仏教的情緒の存することを、ふかく味わってみるべきである。

弾琴のたとえ  いま一つ、わたしにとっては、思いおこすたびに心あたたまる説法がある。それは、ソーナ(守籠那)と称する比丘のために説かれた、静かな問答からなる教誡であった。

それは、釈尊がマガダ(摩掲陀)の国の都、ラージャガハ(王舎城)のほとりになる霊鷲山(りょうじゅせん)にとどまっておられた時のことであった。そのほとりの寒林にあって、緊張した修行をつづけていたソーナ比丘は、いま心に迷いを生じていた。その迷いを、経のことばはかように記している。

「わたしは、いま、世尊の弟子たちの中にあって、精進をもて住するものの随一であると思う。それにもかかわらず、わたしは一向に解脱することができない。このようなことでは、わたしはむしろ、家に還(かえ)ったほうがよいのではないか。わが家には財宝ががある。わたしはその財宝の受用によって幸福な生活をいとなむことができる。わたしはむしろ、この学道をすてて、俗生活にもどり、わが財宝を受用して、幸福な生活を送るほうがましではあるまいか」

それは刻苦にすぎた精進が、かえって道を閉ざしていたからである。釈尊の成道(じょうどう)まえの精進刻苦においても、おなじ事情のことがあったと伝えられる。だが、ソーナはそのことに気づかず、かえって、これほどまでの精進刻苦にもかかわらず、なお道の打開を見ぬとするならば、むしろ、この道の沙門たることを断念して、俗世に帰るがましではないかと考えるにいたった。

釈尊は、この熱心なる比丘の危機を察知した。そして、彼をかの寒林におとずれて、その心境をただした。かの比丘は、あるがままに、その思うところを打ち明けた。その時、釈尊が、ふとかの比丘に問うたことは、彼が世俗にあったころ得意としていた琴のことであった。

「ソーナよ、なんじがかつて家にありしころには、大へん琴を弾ずることが巧みであったと聞いているが、そうであろうか」

ソーナは、素直に、そうであったと答えた。

「それでは、ソーナよ、なんじはよく存じているであろう。なんじの琴の糸が、あまりに強く張られていたならば、なんじの琴は、よき音(ね)を、発するであろうか」

むろん、そーなは、「否」と答えるほかはなかった。

「では、ソーナよ、なんじの琴の糸が、あまりの弱く張られたいたならば、どうであろうか。かなでてよき音を生ずることができるであろうか」

その答えもまた、「しからず」でなければならなかった。

「ソーナよ、では、その琴の糸が、あまりに強くなく、ゆるくもなく、程よく張られてあったならば、いかがであろうか。なんじはこれをかなでて、よき音を生ずることをうるであろう」

ソーナが、「しかり」と答えたとき、釈尊は、その問答の結論を、つぎのように説き教えた。

「ソーナよ、まさにそれと同じであると承知するがよい。刻苦精進にすぎれば心高ぶって静かならず、精進穏にすぎれば倦怠にかたむく。そのゆえに、ソーナよ、なんじは平等の精進に住し、また諸根の平等を守り、かの中(ちゅう)における相をとるがよい」

その教誡によって、ソーナは、これまでの極端におもむく態度をやめ、やがて、出世の究極の目標を、実現することを得た。そのことを、彼はみずから『長老偈経(ちょうろうげきょう)』の中に、つぎのように語りのこしている。

「直(すぐ)き道を説き示されたならば、往きて還ることなかれ。みずからおのれを励まして、究竟(くきょう)の境地を成就せよ。

われ極端の努力をなせしとき、世間無上もわが師には、弾琴のたとえをもて、法を説き示したもうた。

われはその言を聴きて、教えを楽しみて住し、涅槃に達せんがために止観を行じ、三明(さんみょう)を逮得(たいとく)して、仏陀の教えを成就した」

その教えとは、いうまでもなく。中道(ちゅうどう)の教えである。中道の教えは、釈尊の教説のあらゆる部分を貫いて存する。哲理についていえば、有無の二端をはなれることであり、実践に即していえば、苦楽の二端におもむかざることであり、さらに衆道の実際についていえば、いま釈尊がソーナのために説いたように、「諸根の平等をまもり、平等の精進に住し、かの中における相を取る」こととなるのである。

では、「諸根の平等をまもる」といい、「平等の精進に住する」というのは、どのようにすることであろうか。それについてはブッダゴーシャ(仏音;ぶっとん)の造れる『清浄道論』のなかに、「諸根平等の行道」の題の下に、このソーナ比丘の物語を取り上げて、つぎのような説明がなされている。それをここに引用しておきたい。

「根平等の行道とは、信等の諸根(信根・精進根・念根・定根・慧根の五根をいう)を平均の状態となすことである。けだし、もし彼に信根のみ強くして、他の根が弱かったならば、その時には、精進根は策励作用を、念根は不散乱作用を、慧根は知見作用をいとなむことができない。ゆえに、法の自性をを観察することにより、また心して信根のみが強くならぬようにして、これを捨断するがよい。ヴァッカリ長老の物語が、この場合の適例である。

次に、もし精進根のみが強ければ、信根は勝解(しょうげ)作用を行なうことができず、その他の根もそれぞれの作用をいとなむことができない。ゆえにその精進根を、軽安等の修習によって捨断しなければならない。この場合の適例としては、ソーナ長老の物語があげられるであろう。

かように、他の根に於ても、一つの棍のみが強いときには、他の根はそれぞれの作用を行なうことができぬと知らねばならぬ。しかして、特にこの場合は、信と慧との均等ならびに定(じょう)と精進との均等が賞讃せられる。けだし、信がつよく慧がよわい者は、迷信におちいり、信ずべからざるを信ずる。また、慧がつよく信がよわい者は、奸邪(かんじゃ)に傾き、薬より起これる病気のごとく、治癒しがたい。ただ、両者の均等によりて、信ずべきことを信ずる。

つぎに、定がつよく精進がよわい者は、定には懈怠の傾向があるがゆえに、懈怠の征服するところとなる。また、精進がつよくして定がよわい者は、精進には悼挙(じょうこ)(心たかぶって静かならぬこと)の傾向があるがゆえに、悼挙によって征服せられる。ただ、定が精進とよく相応するとき、懈怠におちいる憂いなく、また、精進が定とよく相応するとき、悼挙におちいることがない。ゆえに、よくこの両者を均等にしなければならぬ」

論書の論ずるところは、こまごまと分別して、煩瑣(はんさ)にわたり、無味乾燥であるが、その説くところは、仏道の実践においてもまた「中に処する」ことが肝要であるというにある。それを釈尊は、かのソーナを前にして、よく解脱にいたるの道はたとえば琴の糸の締め方のごとしと説いたのである。まことに滋味深々とした生きた説き方であるということができるであろう。

老齢すでに八十  ともあれ、釈尊は、このようにして、静かな、行きとどいた、そしてその人その人に適切な、滋味あふれるがごとき説法をもって、迷える人類の中に大いなる、正しき道を不動に確立した。その伝道説法は、歳月にして四十五星霜のながきにわたり、その間いささかの倦(う)むことも弛(ゆる)むこともなかった。

だが、疑いもなく、釈尊もまた人間であった。老少不定(ふじょう)、人間無常。すでに八十の齢(よわい)をかさねた釈尊の身のうえには、ふかく老衰のかげがさい、入滅の時もさしせまったようであった。経のことばは、アーナンダ(阿難)を前にして語られたこのような一句を記しとどめている。

「アーナンダよ、わたしは老い衰えた。老齢すでに、八十におよんだ。たとえば、アーナンダよ、古い車は革紐のたすけによってやっと動くことができるが、思うにわたしの身体も、革紐のたすけによってやっと動いているようなものだ」

そのことばもまた、わたしにとっては、忘れがたいものの一つである。だが、この末期におよんでも、この師はいよいよ心を励まして教法を説きつづけた。しかも、それらの説法は、また一際(ひときわ)すぐれて感銘ふかいものであった。

では、次章に、それらの教法のいくつかを記しとどめて、わたしもまた筆をおくこととしたい。(274~283頁)

第二十二章 自燈明、法燈明――最後の説法

末期の記録  齢(よわい)すでに八十に達せられた釈尊の現身(うつしみ)は、老い衰えてしまっていた。元来が、この師の身体はたくましい方ではなかったと思われる。いくつかの説法の記録の中には、「わたしは背(せな)が痛む。しばらく憩(いこ)いたい」とて、上足(じょうそく)の弟子をして説きつがめたものがある。たとえば、『求法経』(中阿含経、88)では、「法の相続者たれ、財の相続者たらざれ」と説きたもうたが、やがてサーリプッタ(舎利弗)をさしまねいて、「なんじ、緒比丘のために、如法に説法せよ。われ背痛を患う。今は小息を欲す」とて、さらに師の教えを広説することを命じておられる。

あるいはまた、『有学経(うがくきょう)』(中部経典、53)では、釈迦族の新しい会堂の入堂式にんぞみ、夜おそくまで説法したが、ここでも背の痛みを訴え、アーナンダ(阿難)をして代わって、「カピラヴァッツの釈迦族のため、有学にして道に従う人々』に、さらに詳(つぶ)さに説かしめたというそれらの経の記録に接するたびに、わたしは、しとどの痛ましさを感ずるとともに、また、かの師の現身をそこに仰ぎ見る思いにひたることができる。

ともあれ、釈尊は、そうした身体をもって、倦(う)まずたゆまず、遊行(ゆぎょう)説法をつづけられること四十五年に及んだ。いまや、老衰のかげはいよいよ深く、末期(まつご)の日も遠くはないと思われた。にもかかわらず、釈尊は、アーナンダ(阿難)らを具して、さらに最後の遊行伝道の旅にいでたった。その記録が、今日、『遊行経』(漢訳、長阿含経、2-4)ならびに『大般涅槃経』(南伝、長部経典、16)として残っているところのものである。

実のところ、『遊行経』または『大般涅槃経』は、明らかに、はじめからまとまった一経であったとは思われない節(ふし)がかずかず見いだされる。いささか注意して読めば、ただちに気づかれることは、幾つかの箇所においては、前後の連絡がはなはだ緊密を欠いていることであり、また若干の所説は、明らかに後代の事実を取り扱ったものであり、それはあたかも、かの共観福音書を髣髴(ほうふつ)せしめるものがある。だが、そのような散漫な編纂(へんさん)にもかかわらず、この経の骨子をなすところのものはきわめて明確である。それはいうまでもなく、この比類なき人の大いなる死と、その死を前にして説きのこされた最後の説法を伝えんとするのである。そして、この経のもつ重き価値と大いなる魅力もまた、その事実とそのことばとを、ここに書きつらねて、この伝記の結びとしたいと思う。

最後の旅路  最後の説法の旅は、ラージャガハ(王舎城)からはじまる。

「いざアーナンダ(阿難)よ、アンバラッティカーの園に行こう」

「畏(かしこ)まりました。世尊」

そして、釈尊はラージャガハ(王舎城)を去って、北へ向かって旅立たれる。侍者アーナンダ(阿難)のほか、多くの比丘がそれに随(したが)った。ラージャガハ(王舎城)からアンバラッティカー園へ、さらにナーランダー(那爛陀)を経て、パータリプッタへ。そして釈尊はいたる処(ところ)において、教えを乞う人々のために法を説いた。それらの説法の様子は、しばしば類型化された表現をもって、

「こは戒である。こは慧(え)である。戒とともに定を修すれば、その効果は大きく、その利益は大きい。定とともに慧を修すれば、その効果は大きく、その利益は大きい。慧とともに脩せられた心は、もろもろの煩悩より解脱する」

と語られたと記されている。

パータリプッタというのは、今日のパトナの地であって、昔も今もガンジス河中流の要衝であった。釈尊はそこからかの河を北に渡った。この村を釈尊が去るときには、かの国の大臣ヴァッサカーラ(雨勢)らが見送り、

「今日、世尊のいで給える門をゴータマ門と名づけ、また世尊の渡りたもう渡場(わたし)をゴータマ渡場と名づけまする」

と、最後の名残をおしんだとも記されてある。また、その渡場をわたって北の岸に立った釈尊は、ながれを渡る人々のさまを眺めながら、このような偈を説いたとも記されている。

「世の人々が籠筏(かごいかだ)を結ぶ間に、

深所をすて、橋を架して、

河の流れを渡る者こそ、

よく渡りたる者、賢者という」

その心はいうまでもない。人はこの苦にみちた此岸(しがん)をすてて、究竟(くきょうう)は安穏(あんのん)なる彼岸(ひがん)におもむかねばならぬ。では、いかにして渡ればといかというに、ここに精密に観察し、精細に組織せられたこの道があるではないかと、その教法を、自信をもって指されたのである。

自己を依拠とせよ  ガンジス河を北に渡った釈尊の一行が、さらに北行して、ヴェーサリー(毘舎離)の都のあたりに到ったころ雨期がはじまった。それは恐ろしい湿度と暑気の季節である。釈尊は弟子たちに命じて、おのおの知人や友人などを頼って安居(あんご)に入らしめ、みずからもまたヴェールヴァナ(竹林)という村で雨安居を送った。だが老衰したこの師の身体は、その暑さと長雨にたえかねて、病を生じた。その苦しさは死ぬばかりであった。

だが、釈尊は、精神力をもってその病とたたかった。

「わたしは、ここで死んではならぬ。わが弟子たちに最後の教訓をのこさずして死ぬることは、わたしにはふさわしからぬことである。わたしはいま正念(しょうねん)をもって、この病に耐え、寿命をとどめなければならぬ」

そのように念じて、釈尊は、その老耗の身をもってよく病に打ち勝った。

雨期もようやくにして終わり、師が病気を克服して、設けの席に坐した時、アーナンダ(阿難)がその前に伺候(しこう)して言った。

「世尊よ、世尊は健やかになられました。世尊よ、世尊はよく病に耐えられました。世尊の病おもく、身の衰えさせたもうた時には、わたしは四方が暗くなったように思いました。だが、ふとわたしは、――師は、比丘僧伽(びくサンガ)のことにつき何かを仰せられぬうちは、亡くなられるはずはない――と思ったとき、いささか安堵することができました」

師の病篤(あつ)きを前にして、四方も暗くなるばかりであったというアーナンダ(阿難)の心境は、察するにあまりがある。だが釈尊は、何ごとかこの教団のことについて遺言せずして入滅せられるはずはない、というのは何の意味であろうか、それはいうまでもない。彼は、釈尊がその後嗣、師なきのちのこの教団の指導者を指名するであろうことを期待していたのである。だが、釈尊は、その期待の誤りであることを説いて、このように語ったのである。

「ではアーナンダよ、比丘僧伽はわたしに何を待望するというでのであるか。わたしはすでに内外の区別もなく、ことごとく法を説いたではないか。アーナンダよ、如来の教法にはあるものを、弟子に隠すというような、教師の握りしめた秘密の奥義はないのである。またアーナンダよ、もしわたしが、『われは比丘たちの指導者である』とか、『比丘たちはわれに頼っている』とか思ったならば、わが亡きのちの比丘たちについて何かをかたらねばならぬであろう。だが、わたしは、比丘僧伽の指導者であるとも、また比丘僧伽はわたしに頼っているとも思わない。だから、わたしは比丘僧伽に関して何をか語ろうか。

さればアーナンダよ、なんじはただみずからを燈明とし、みずからを依処(よりどころ)として、他人を依処とせず、法を燈明とし、法を依処として、他を依処とすることなくして住するがよい。

まことにアーナンダよ、今に於(おい)ても、またわれ死して後においても、自らを燈明とし、自らを依処として、他人を依処とせず、法を燈明とし、他を依処とすることなくして、修行せんと欲するものこそ、アーナンダよ、かかる者こそ、わが比丘たちの中において最高処にあるのである」

この説法を、わたしども後世の仏教者は、「自燈明(じとうみょう)、法燈明(ほうとうみょう)」も垂訓とよび、あるいは「自帰依(じきえ)、法帰依(ほうきえ)」の教えとして、如来の幾千百の説法の中においてもっとも重要な、もっとも基本的な説法の一つとして尊重する。なんとなれば、これは、この師の教えのこした道をゆかんとするものの根本的な態度を、もっとも明確に説き教えているからである。もしわたしどもが、なんじは仏教者として何を依りどころとするかと問われるならば、わたしどもは断乎(だんこ)として「おのれこそおのれの主である。おのれこそおのれの依処である」と答えねばならぬ。それを今日のことばをもって言わば、仏教は無神論であるということもできる。われらにとって、依るべきものは自己のほかになく、仰ぐべきものは法のほかにない。われらの膝は神のまえにもかがめられるべきではなく、われらの舌は他の何びとをも「われらの主」として讃(ほ)めたとうべきではない。『法句経』の一句はそのことを、

「おのれこそおのれの主である。他のいかなる主があろうか。自己のよく調えせられたる時、人はまことに得がたい主を得るのである」

とも述べている。そしてこの自主自信の道の精神を、いま師はその入滅を前にして、もっとも簡勁(けい)明確な垂訓としてのこしたのである。

沙羅の並木にて  最後の説法の旅は、さらに北に向かってつづけられた。だが、ついに、クシナーラ(拘尸那羅)のマッラ(末羅)族の住むほとり、ウバヴァッタヴァとよばれる沙羅(サーラ)の林にいたった時、如来の生身の力はつきはてた。

「アーナンダよ、わたしは疲れた。わたしは横になりたい。この沙羅の双樹の間に、頭を北に向けて床を敷いてもらいたい」

アーナンダは床をしつらえた。釈尊は右脇を下にし、足のうえに足をかさね、如法に臥(ふ)して、安静にされた。その時、経のことばによれば、沙羅の双樹は時ならざるに花咲き、虚空よりは香華が如来のからだに降りそそぎ、微妙な音楽が天の方より聞こえてきた、それらはすべて如来供養のためであったという。それらの経のことばは疑いもなく、この大いなる師の最後を荘厳に描写せんとする古典的手法にちがいない。だが、その古き描写と関連しつつ、そこに記しのこされている釈尊の垂訓は、千古をつらぬいて光り輝くであろうことばであった。

「アーナンダよ、樹々は時ならぬ花をひらき、虚空よりは香華ふりそそぎ、微妙の音楽は天の方よりおころうとも、かかる手段をもって、如来は崇(あが)められ、尊ばれ、供養せられるべきものではない。アーナンダよ、比丘もしくは比丘尼、優婆塞(うばそく)もしくは優婆夷(うばい)にして、よく法と随法とによって住する者こそ、如来をこの上もなく崇め、尊び、供養する者であると知らねばならぬ。されば、アーナンダよ、なんじらは、いま、法と随法とによりて住し、法によりて行ずべきであると、かように学ぶべきである」

考えてみると、それはまこと恐るべき垂訓である。わたしどもは、しばしば、仏前に香華をささげ、読経するがごときをもって、仏教者としての能事がおわれりと思う。だが、かかることはけっして如来供養の道ではないと教えられる。なんじらはただ法を知り、法に随って実践せよと教えられる。まことの如来供養はこの外にないというのである。

この経の、このあたりの編集はまことに散漫をきわめる。だが、その散漫の中にも、この師の教法の真骨頂はさんとして輝いている。この大いなる師は、まもなくしてその生涯を閉じんとしていられる。その最後の時を前にして、この師の教えはひときわ明確に語りだされる。その光輝は、何ものをもっても蔽(おお)うことはできないのであった。

アーナンダは、いまや明らかに、この師の入滅のちかいことを知った。彼はひとり退いてさめざめと泣いた。

その時、このアーナンダを召して、教え諭(さと)された師のことばは、情けにあふれ、かつ毅然(きぜん)たるものであった。

「アーナンダよ、悲しむな。慟(なげ)くことをやめよわたしはいつも、教えていたではないか。すべて愛する者とはついに別れねばならぬ。生じたるものはすべて壊(え)せずということはできない。

アーナンダよ、なんじは長い間にわたって、わたしの侍者としてまことによく世話をしてくれた。それは立派なことであった。このうえは、さらに精進して、すみやかに究極の目標を実現するがよい。

アーナンダよ、あるいはなんじらは、かく思うかもしれない。――師のことばはおわった。われらの師はすでにない――と。だがアーナンダよ、そのように思うべきではない。アーナンダよ、わたしによって説かれ教えられた教法と戒律とは、わが亡きのちに、なんじらの師として存するであろう」

そこにも、また、わたしども滅後の仏教者の服膺(ふくよう)すべき垂訓が、炳乎(へいこ)として輝いているではないか。

大いなる死  釈尊はさらに、比丘たちを病床のほとりに呼びよせて、彼らにいった。

「比丘たちよ、なんじらなお、仏のこと、法のこと、僧伽のこと、あるいは道のこと、実践の方法などについて、疑いまたは惑いがあらば、いま問うがよい。後になって、――わたしは世尊に面接していたのに、問うことができなかった――との悔いをあらしめてはならぬ」

それは、導師としての釈尊の面目を、よくよく現していることばとして、ふかく味わってみなければならぬ、師はいま病の床に臥して、まもなく死をむかえようとしている。その場にいたっても、この師はなお説きかつ教えんとする。疑いをのこしてはならぬ。惑いをあらしめてはならぬ。そのゆえに彼はなお命をとどめて来たのである。そして、今こそ問えと、弟子たちを促したもう。そこにわたしどもは、人間の偉大なる教師であったこの人の真骨頂を、しみじみと味わうことができるのである。

だが、比丘たちは、誰も問うものはなかった。この師の臨終をまえにして、声を出しうるものはなかった。二度、そして三度、師は促した。だが、みんな黙していた。

すると、アーナンダが申して言った。

「世尊よ、まことに稀有(けう)のことである。世尊よ、この比丘僧伽は、もはや一人の比丘といえども、疑いもしくは惑いをのこす者とてはないと信ぜられます」

釈尊は、このことばをふかくうなずいた。そして、しばし黙然としてあった後、静かに口を開いて最後のことばをのべた。

では、比丘たちよ、わたしはなんじらに告げよう。――諸行は壊法(えほう)である。放逸なることなくして精進するがよい。――これがわたしの最後のことばである」

そして釈尊は、静かに眼を閉じ、また、ことばを発することもなかった。静かな静かな、そして覚者にふさわしい臨終であった。

「アヌルッダよ、世尊は亡くなられた」

アーナンダが、そっとアヌルッダの耳もとにささやいた。

経もことばは、ここでもまた最上の荘厳の表現を企てている。「世尊の般涅槃(はつねはん)に入り給いし時、般涅槃とともに大いなる地震あり、人々は恐怖し、身毛堅立せり。また天の方に太鼓ひびきぬ」またその時、梵天(ぼんてん)や帝釈(たいしゃく)が偈を説いたとも記されている。それらはいうまでもなく、古典的表現の常套(じょうとう)の手法fらった。それらの中にあって、アヌルッダの説いた偈が、そぞろにわたしどもの心にしみ入ってくる。

「心安らけき救済者は、

いまや入る息も出る息もない。

欲なき者は寂静(じゃくじょう)に達し、

聖者(しょうじゃ)はいま滅したもうた。

ゆるぎなき心をもて、

よく苦にたえたまい、

燈火の消ゆるがごとく、

心の解脱をとげたもうた」(おわり)

(2025年6月24日フェイスブック連続投稿終了)

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