岡野岬石の資料蔵

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『仏陀』増谷文雄 著 角川選書ー18

【国体(国の形態)】

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『画中日記』2020.11.05【国体(国の形態)ー1】

昨日から、アメリカ大統領選挙で世界中が鳴動している。ハッキリと選挙結果が出ても、混乱は当分続くだろう。アメリカは1776年に独立して今年で建国236年の国だ。そして、アメリカという国は、50の州が集まってできた、連邦制の国なのです。だから、州の上位概念の国、アメリカを象徴するものを持っていないのです。

さまざまな、人種や宗教、イズム、価値観の違い、紛争を調停するのは、多数決と裁判しかない。人間を超越している〈真・善・美〉も、個人個人は持っていたとしても、人間が多数決で決めるのです。だから、アメリカで一番「えらい」のは大統領なので、結局、アメリカでは大統領より偉い人はいないのです。

私が中学生の時に、世界史でナポレオンがフランスの皇帝に即位したということを習った。その時、「アレっ」と疑問が湧いた。それでは、日本に置き換えれば、豊臣秀吉が天皇になるのか、つまり、世俗権力が天皇になるのか、という疑問だ。

世界史では、ナポレオンが皇帝になるのに疑問がなくても、日本史ではそれはおかしいだろう。そんなことは、日本ではあってはならないことだ。

『画中日記』2020.11.06【国体(国の形態)ー2】

磁石というのは、無理に折ってもN局とS局とは分けられない。どんなに折っても、小さな磁石になるだけで、N局とS局は単独で取り出せない。磁石と同じように空間も時間も、じつは全部がそうなっている。世界中の全ての存在がそうなっている。全部が分けられない。自分と対象物、主観と客観、心と身体(からだ)、資本家と労働者、いうようには分けられない。神も、天も、プラトン的イデア界も別個にあるのでなく、磁石のように、割っても割っても決して分けられないものなのだ。存在の構造が分けられない。細胞レベル、心のレベルも同様で、分けられない全体としてのマンデルブロー集合の形態(かたち)で在るのです。時間についても同様です。そのことは、もちろん「国家」でも同じです。

『画中日記』2020.11.07【国体(国の形態)ー3】

日本は2680年間在り続け、これからも在り続けるだろう。日本国民は、明日の朝陽が上るかどうかを心配したりしないように、日本の国が、明日亡くなって違う国になってしまうことを、心配しない。

世俗権力の上位概念を持てない国は不幸だ。自分の外側、人間の外側に、それを超越した世界の存在を、持てない人は不幸だ。〈真・善・美〉は超越で、実在している。身の内に超越を持たない人も不幸だ。内も外も、実存を超越した世界で、現実の人生を送ることができる日本は幸せな国だ。日本では革命は起こらない。天皇陛下という存在があるからだ。個々人が内に、〈真・善・美〉の超越を持って生活し、外に世俗権力(金と力)を超えた存在を、在らし続けた日本は、奇跡の国だ。

アメリカの大統領選挙は、アメリカにとって大きな分岐点であるだろう。無神論者、あるいはコミニズムやサタニズムがまかり通って、その嘘や不正に、アメリカ国民自身がペナルティーをつけられなければ、アメリカはボロボロになるだろう。

日本人の私は、全元論で性善説なので、楽観しているけれど、それにしても、アメリカという国のシンボルが国旗だけしかないというのでは、争いの種は尽きないので、いつまでも問題は残るが。

『画中日記』2020.11.08【国体(国の形態)ー4】

アメリカの今回の大統領選挙は、大きな相転移の分岐をむかえている。世界存在の構造からいって『悪の栄えたためし無し』なのである。

しかし、もともとテンセグリティー構造の日本と違って、ブロック型の構造をテンセグリティー構造に脱構築ができるかどうかだ。ブロック型の構造をあらためて造り直すには、一度壊さなければならない。アメリカのように新規に建国する場合はブロックで造ればいいが、その造った構造体を脱構築する場合には、問題が出てくる。

(テンセグリティについては、下記に、以前拙著『芸術の杣道』に書いた文章をペーストします)

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●テンセグリティー

テンセグリティーとは耳慣れない単語だが、バックミンスター・フラーの本のなかにでてくる言葉だ。いろいろ調べてみたのだが、どこにも載っていないのでフラーの造語なのかもしれない。意味は、圧縮力(tension)と引張力(compression)の両方から成り立つ構造、のことのようだ。フラーの本の挿絵を参考にして自分で作った模型をみていると、いろんなことが解ってくる。個々の人間もその人間がつくった社会も、この模型をアナロジーにして透かし見ればはっきりと構造が見えてくる。社会と人間もじつは全てテンセグリティーだ。社会もある意味では個人から始まるが、そこでも僕が以前から言っている〈フラクタル〉に行き着く。

マクロの宇宙もそうなっている。月があって地球があって太陽系があって,銀河系があって大宇宙を形作っているが、個々の星はお互いに接してはいない。それが太陽系という形態を作り、銀河系という形態をつくり、宇宙という形態を作っている。

ミクロの世界もそうなっている。分子、原子、素粒子、とどこまで小さく割っていってもムクな個体(粒)に辿りつかない。どんなに微細な小宇宙もテンセグリティーによって構造化され形態をなしている。

社会も、国家や会社や地域社会や家庭などいくつものコミュニティ(共同社会)を形成しているが、その実体はない。個々の人間(コンプレッション)がテンションによってコミュニティを作っている。個々の人間をコンプレッションとすると、テンションは何かというと「愛(超越)」、「欲望(食欲、性欲、金銭欲、権力欲)」、「恐怖(暴力)」の三つ。国家、地域社会、会社、家庭などのほとんどのコミュニティが三つのうちのどれかをテンションにして成り立っている。その三つ、すぐ目につくのはそういうこと。

人間が、個々バラバラにあるものがコミュニティとして一つにカッチリと形成するには、世界中を見渡してもほとんどがお金か権力か宗教か民族のいずれかだ。テンションをかけなければきちっと形成しないのだから、ハサミで紐を切ってしまったら、もともとはバラバラなのだから、お金が結びつけたり、昔の社会なら権力者の強制力が、個々を結びつけていた。暴力が使えなくなると、自由主義社会では金の力であり、結局お金に代わるものはとりあえず見つからない。宗教や民族は世界中の紛争をみると分かるように構造態が開かれてないので他のコミュニティとの問題が多すぎる。フラーは〈エコロジー〉や〈共生〉や〈宇宙船地球号〉の概念の先駆者で、この辺のことも言及しているようなので、興味がある人はフラーの著書を読んでみればいいと思う。

この模型を作ってみて、僕に最も役立ったのは、自分自身はこうなっている、このような構造態で人間を考えなければならない、ということに気付いたことだ。僕は今まで自分を、ブロックを積むように日々を過ごし、その結果が現在のじぶんである、と考えていた。だから、もし人生の途中で間違いに気付き人生をまるごと脱構築(ディコンストラクション)しようとしたら、バラバラにしたブロックを新たに一から積み上げなければならない。今までの蓄積を捨てさる勇気と、新たに築きあげる気の遠くなる作業をしいられるので、若くないととても踏み出せない。おまけに、ブロックの脱構築の場合は今までの形態のブロックで新しく使えないかたちのブロックは捨てなければならないし、また新しく削って作らなくてはならない。幸い、僕の場合は紆余曲折して今にいたっているが、まあ幸運だった。人間の構造をブロックを積み上げた構造とみないで、引張力と圧縮力でできた構造態だと思えば、脱構築も簡単だ。この模型の紐を切り離して、新しい点に結び直して新たな構造態を作ればいいのだ。ブロックを積み直して新たな形態を作るのに比べ、棒と紐の構造態は質的に組み替え直すことは大変だが時間的には雲泥の差だ。それに、過去の経験で捨てさるものはなにもない。自分の過去の紐と棒を使って自分の全体を組み直せばいいのだから。

『画中日記』2020.11.09【国体(国の形態)ー5】

日本は、国の形態、構造の変化がほとんどない。太平洋戦争での敗戦も、国体の護持を唯一の条件に降伏した。昭和21年(1946)に生まれた私が、思い出してもひどかった敗戦後の戦後レジームや文化も、安倍内閣以降急速に復活している。この復元力は、国の形態と構造を成している日本人一人ひとりの世界観を、外部からの大きな圧力にかかわらず、変節しなかったことが大きな要因だろう。

日本だけが、日本一国だけが、何故、2680年間あり続け、将来もあり続けるのだろうか。それは、要素としての一人ひとりの世界観と、国の形態と、世界存在の形態と構造がフラクタルになっているからであろう。世界存在の時間を通貫している法(ダルマ)は〔真・善・美〕である。〔真・善・美〕は、ポストモダニズムのいう人それぞれ、百人百通りではない。〔真・善・美〕は、人間ごときものが新しく創造できない。〔真・善・美〕は多数決で人間が決められるものではないし、ましては、金や権力が決めるものではない。だから、〔真・善・美〕に関わる人、例えば数学者にはノーベル賞がないのだ。〔真・善・美〕は超越である。

存在の法、世界の法が〔真・善・美〕であるならば、人は人間を超えた、その超越に向かって生きなくてはならない。学者は〔真〕に向かわなくてはならないし、政治家は国を〔善〕くする方向に行為しなければならないし、画家は〔美〕しい作品を描かなければならない。画家が美しい作品を描かないで他に何をするというのか。

-『仏陀』増谷文雄 著 角川選書ー18

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