岡野岬石の資料蔵

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(58)絵画における光と空間

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(58)絵画における光と空間(205頁)

絵でいえば、僕がリアルに描いていて、やがて変わるときがきた。

僕が「幻視された景観」(桑原住雄、『岡野浩二作品集1964~1981』の巻頭分より)という事で、精緻な細密描写で風景を描いていたころ、同じようにリアルな細密描写の他の画家がちらほらと出て来た。克明に描くというと物故作家では、まず岸田劉生だ。岸田劉生は、やっぱりいい。同じように克明に描いても、克明に描く画家はたくさんいても、何故、岸田劉生だけは特別で、芸術の香りがするのだろうと思った。

そう思うだけでは駄目。そこから、どう設問し推論するかが大事なんだ。何故、岸田劉生の絵はいいのだろう。克明に描く人は他にもいるし、その弟子で椿貞夫という人がいて、劉生の影響で何でも克明に描いていた。しかし、克明に描いても描いても、似て非なるもので岸田劉生にはならないのだ。克明さという点でいえば、僕も克明に描くけれど、どうもこのままでは岸田劉生のようにはならないなぁと思った。「どう描けば岸田劉生のような芸術の香りのする絵ができるのか?」というわけだ。

僕は、絵の変化の直前に、崖や岬をモチーフにした絵を描いていた。「あれ。モネにも崖の絵があったなぁ…」と思って画集でモネの崖を見ると、とてもいい。僕の崖の描き方とは何かが違う。それで、ブリジシトン美術館に行って、モネの絵を観て、その時初めて印象派の核心をはっきりと体感した。その前後にマチス展(1981年3月20日~5月17日、於:東京国立近代美術館)もあり、どちらが先だったか分らないが、あの時に僕は、開眼した。いや、開眼というより身体、眼が体感し反応した。

モネの絵が、ちょうど鍵穴に、鍵がぴったりとはまってピーンと鍵が開いた感じ。昔学校の、引き戸ではないドアーの鍵で真鍮でできた大きな鍵があった。あれが、鍵穴にぴったりはまってガチャンといくような感じで、モネの絵が、リアリティーを持って僕に見えた。どんな感じかと言うと、モネの絵もマチスの絵も、僕はそれまで目から情報を入れて脳の中の違う場所でその情報処理をしていたから、画家の為さんとする眼に反応できなかったのだ。あるいは周波数がシンクロ(同調)していなかったのだ。それが、脳の中の正しい情報処理の場所に、ピタッと入った感じがした。それまで僕は、モネは自分の感覚で主観表現をしていると思っていた。しかし、それが違っていたのだ。客観描写をしていたのだ。彼は、感覚で自分勝手に描いていたわけではなく、対象を光の関係存在として描写していたのだ。自然主義的リアリズム(クールベ)は、世界を実体存在として認識し描写するのに対し、印象派(モネ)は、世界を光の関係存在として認識し描写するという事だ。乱暴に言えば、脳から眼を切り離して独立させるという事かなぁ。世界を光の関係に還元して、光だけを追っていくわけだから。そこの所が、僕はどうしても違う所に(知性、言語のフィールドに)情報を入れていたから分らなかった。印象派の画家の絵を、解釈学的に観ていたので分らなかったのだ(シュールリアリズム、表現主義、コンセプチュアルアート等の作品は解釈学的である)。この時に「美」にアプローチするためのコツ、方法論を見付けた。「美」は現象学的に接しなければならないのだ。

それと前後してマチス展もあった。マチス展でも、『ダンス』の第1バージョンの絵の前で僕の目が初めての反応を示した。色彩が光となって画面の前方に立ち上がってきてバイブレーションするのだ。心地よい、意識のクリアーな幻覚で、これも身体的反応だった。その時に常設展で岸田劉生の『道路と土手と塀(切通之写生)』(1915)の絵を観た時に、空も地面も塀も三次元になっていないことに気付いた。奥行きがない。全部立っているんだ。描写されている対象の三次元の配置を組み換えて、絵画空間を新たに秩序立てないと、美しい空間にならない。リアリズムは三次元の空間に秩序立てるけれど、印象派や岸田劉生は二次元(平面)に絵画空間を秩序立てている。(アングルや岸田劉生の絵を二次元というのに疑問があると思うが、奥行きは非常に浅く二次元的である)

こうして、1981年前後は僕にとって絵画上のドラスティックなパラダイムの変化が現出した、シュトゥルム‐ウント‐ドラング(疾風怒涛)の時代だった。

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