岡野岬石の資料蔵

岡野岬石の作品とテキスト等の情報ボックスとしてブログ形式で随時発信します。

テキストデータ 芸術の杣径 著書、作品集、図録

(50)僕の世界観

投稿日:

(50)僕の世界観(182頁)

世界を描出しようとする僕の絵は、内面の「事」を対象にするのではなく、外界の「物」を対象にする。世界観のもっとも外側の物を、描くモティーフに措定する。何故、シュールレアリスムや表現主義ではないかというと、内と外という、まさにそこの所の違いなのだ。フロイトは、無意識の領域を自分の自我の内側に置いて人間の心を構造化した。僕は、これには納得がいかない。無意識は内部にはない。自分の心の最深部に自我があるのではない。あるいは、じぶんの内部世界の全てを自我が包み込んでいるのではない。人間は、外部世界の中で部分だが、自分の内部世界でも自我は部分なのだ。

デカルトの「我思う、故に我在り」にも、疑問がある。「私」は「思惟するもの」であって、いっさいの物質性から独立した存在である…のだろうか。

「我写す、故に我在り」と言ったほうが、今の僕の実感に近い。

無意識というのはフロイトの主張とは逆に、外側にある。鏡に意識はなくても、外界は勝手に写りこむのだから、自我意識が解釈したり体験したりする以上のものを、勝手に脳の内部に写しこんで世界を形成していくのだから、そのように形成された内部世界の中に自我意識が部分として後から育っていくのだ。

そうすると、自我意識の外側は最初から無意識なわけである。自分が体験したり、意識したり、解釈したりする前に、もうすでに世界は写りこむ。目の前の話相手の外側は暗黒でなく、ピントはぼけているが眼球はちゃんと情報処理している。自我意識がまだ育ってない乳児にも、勝手に世界は写りこむ。そのようにして、外界が脳の中の自我の外側に拡がるわけだ。そういう人間の心の構造は、フロイトの解釈した構造と全然違う。僕の世界観は、フロイトの世界観とは構造が違う。そう考えると、自我は自分の内部でも部分なのだから、自分の内面世界を描出しようとしても、全体を描こうとすれば、自我よりも時空全体、コスモロジーを描写対象にするのは当然の事だろう。

最初僕は、人間と世界との関係を、相互挿入空間として捉えていた。現実の空間の中に取り出して指し示すことはできないが、AがBを包み同時にBがAを包んでいる空間、二枚の鏡を合せたような空間。ところが、その空間では、実存あるいは自我の存在の入り込む場所がない。自我意識は確かに在る。

こんな矛盾を抱えていたころ、この問題に丁度ピッタリの文庫本を買った。「カオスー新しい科学を作る」(J・グリック著、新潮文庫、平成3年12月発行)で、その中で、バタフライ効果やマンデルブロ-集合やフラクタル構造の概念に出会った。

人間と世界は、外に向かっても内に向かっても、フラクタル構造の空間になっている。実存哲学の祖であるキルケゴールは「自己とは、関係ではなくて、関係がそれ自身と関わる、そのことなのである」つまり、人間は関係に関係する存在である、と言っている。門外漢なので間違っているかも知れないが、マンデルブロ-集合は方程式の答えをその方程式の変数に挿入して又その答えをその方程式に…という作業を延々と繰り返して、その答えを複素数平面の上にプロットすると出来るようだ。つまり、関係に関係する関係を図に表せばマンデルブロー集合になるのだ。

生物は外部世界を内部世界に写しこむのだから、内部世界と外部世界は同じ構造である。フラクタル幾何学、マンデルブロー集合のような形態で人間は存在している。そう考えると、部分と全体は自己相似形なのだから、外側へ拡張しても内側に収斂しても同じ形が現れる。肝心の自己そのものがそういう形態になっているのだから。

という事は、世界を描く事は僕自身を描くという事と同じなのだ。世界と人間はそういう構造になっている。内を描くという考えも、外を描くという考えも同じ事なんだけれど、何しろ僕は、世界の、自分の持っている世界観の、一番外側の所を、外側というよりも全体を作品に描出したい。それを、自分の芸術のベクトルにしたいと思っている。

自分というものを放下する。自我とか、自分の中の私性などは、自分の事はともかく、他の画家のそのような作品は「ソー・ホヮット(だからどうなんだ。それがどうした)」と言いたくなる。(マイルス・デイビスの曲に「ソー・ホヮット」という作品があるが、So what?が彼の会話の時の口癖だったそうだ)

僕のイズムと、シュ-ルレアリスムや表現主義の系統のイズムと一線を画すのは、そこなのだ。だからこそ僕の場合は、空間とか子供のころの体験などを源として、自分の世界観を形成している所が、絵において問題になってくる。絵画にしても彫刻にしてもそうだ。

表現内容で一線を画すのがシュールレアリスムや表現主義だとして、画面上は似ていてもやはり一線を画すのが模様やデザインや図。自分の世界観を問題にしなければ、あるいは、そこを何とかするから芸術になるのであって、これが装飾オンリーだとか、デザインだけになると、同じように美を目指していて一見似ているけれど違うのは、そこの所が違うのだ。模様になってはダメ。模様や図になってはいけない。

それでやっぱり、内部を描いても外部を描いても相似なのだから、フラクタル構造は全体と部分が自己相似形なのだから、形としては同じ。私性を排除して客観描写に徹しても、外を描いても、やっぱり僕の中では世界観だから、僕の実存的時空概念だから、自分自身を描いていると言ってもいいだろう。

-テキストデータ, 芸術の杣径, 著書、作品集、図録
-

執筆者:

関連記事

(44)実存的時空(自転車とぶつかったこと)

(44)実存的時空(自転車とぶつかったこと)(166頁) 僕が小学校の低学年か、幼稚園の頃の出来事。車などは少なくて、当時は造船所の通勤に皆自転車を使っていた。自転車は貴重で、日曜日になると今の自家用 …

(7)パラダイム

(7)パラダイム(32頁) そう、物を見るパラダイム(世界を認識する時の枠組み)の違いだ。写実的なデッサンを教えるのはかんたんだが、このパラダイムの違いを教えることは容易ではないのだ。同じリンゴを見て …

(23)セザンヌの前に(写真の登場)

(23)セザンヌの前に(写真の登場)(78頁) セザンヌがなぜ、「近代絵画の父」と言われるのか。 その前に言っておかなければなければならないのは、まず印象派が、印象派を完成したモネの印象派が一番の革命 …

嶺北だより(2023年)

嶺北だより(2023年)  2023.09.19 【嶺北だよりプロローグ】 明日朝、始発のバスで四国の棚田を描きに行きます。1週間滞在し、四国の帰りに玉野に寄り、来月の始めに帰柏します。それまでルーテ …

(64)「これは何だ」は反語

(64)「これは何だ」は反語(230頁) ピカソが、画面に1本の線を引いて「これは何だ。これは何だ…」と独り言をつぶやきながら絵を描いているフィルムがあるそうだ。その事を引用して野見山暁治氏(1920 …