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(41)演繹(仮説)と帰納(実験結果)の繰り返し

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(41)演繹(仮説)と帰納(実験結果)の繰り返し(126頁)

画家は死んだときに、作品として後世にその人が残るといえる。忘れ去られるか残るかどうかは別として、作品が、その画家の存在証明だ。仮に、自己の内部の向かわずに外界の描写に徹したとしても、それはそれで、やはり自分なのだ。だからフラクタル幾何学でいえば、内側に向かっても、外側に向かっても、どちらでも同じ形になるのだ。言葉の上では僕自身を否定して、どうでもいいと言いながら、世界と自己がフラクタルだったら、そうなるはずだ。部分と全体が、自己相似形なのだから。

自分自身はとりたてて内部の無意識世界や人生上の出来事をモチーフにはしていないが、僕の作品は僕自身であると言われたら僕であると思う。ちょっと、そういう思弁的なことになると、他人にとっては聞いていてあまり面白くない。面白くないばかりでなく、あまりためにならないというか、役に立たない。

そういう問題を、具体的に、どうやって美しい絵を描くかという方法論に持ってこないといけない。美のベクトルに向かわずに、そのまま方向で思弁を続けていくとと、コンセプチュアルアートになってしまい、「ご説ごもっとも」的な、概して目を楽しませない見ていてつまらない絵になってしまう。

絵描きはそういった問題を考える時に、具体的な問題にならざるを得ないわけだ。色は、形は、コントラスト(明暗)は、線は、パレットの上で絵具をいじるのだからその決定は具体的だ。

画家がある命題を立てたら、始めの一歩は仮説演繹法にかぎると、僕は思う。つまり、仮説演繹法だから、仮説を立てて演繹し実験の結果から帰納する。思弁的な事ともう一つ、実験(画家ならばエスキース)して実地に実践して、実験結果をもう一回仮説に戻す。絵描きだったら美しい絵が出来たり出来なかったり。それをもう一回、その始原の方に、原理原則の方にフィードバックして、もう一回仮説を立て直したりして見つけた法則を、また次の命題に利用して…という風に、常に演繹と帰納を繰り返さなければならない。

一般的な人間で言えば思弁と実践と、常にやり取りというか、行き来しなければならない。

思索だけだとか、実験一筋とか、どちらもそれだけでは駄目なのだ。実験一筋というのは、ほとんど経験論者だ。経験だけでやっている「頭で考えてては駄目だ。ただ描くことだよ」というやつだよ。かといって、描かないで頭で考えてばかりしていてもやはり駄目。それでは両方とも駄目だ。

ちょっとここで、以前ラジオの放送大学を聞いていてメモしたカントの言葉を紹介しよう。カントは、それまで経験論(イギリス、感覚を重視)と観念論(フランス、ドイツ、合理論つまり知性重視)とに分かれていた世界観を一つにまとめあげた人なんだ

 「内容を欠いた思想は空虚であり、概念を欠いた直感は盲目である」

「直感的内容を欠如した、単なる概念だけによる考えや思想は、その思想や考えに現実的に対応する直感的内容を持たないために、空虚な考えないし思想であり、他方その逆に直感を一定の形式にまとめあげるという、概念の形式による働きを欠如したような純然たる感性的直感は、経験としてのまとまりを持った対象を認識していることのはならないのであって、従って、概念を欠如した直感というものは何も認識しないという意味において盲目なのである」

つねに帰納と演繹を繰り返して、その間に実践を挟んで…。それは子供の時の体験と同じ。たとえば、メンコ(パッチン)に負けるという事象があるだろう。いつも負ける。そのとき、どうするんだ?たまたま子供の時と言ったけれど、それは人生全般も同じだ。社会に出て行って、適応して、生活して、生きていかなければならない。そのときに、どうするんだ?そのときに、前に話した「漁師になるにはどうしたらいいのか」というアナロジーが参考になる。

実践というのは、そのたとえで考えてみるといい。画家でなければ、自分で魚を釣らなくてもいいのだけれど。つまり、いい漁労長の船に雇われるか、漁業会社に就職すればいいのだけれど、絵描きは一人ひとりが漁師だから、漁業会社の社員ではない。絵描き一人ひとりは、画家を志したなら、自分は「漁師」になるという実践的な方法論で努力するんだ。

では、どうするかという問題を考えよう。目に見えない海の下のことを、その構造を知る。それが世界を知ることだよ。世界を知って、自分の居る位置を知って、魚(美)の習性を知って、的確な仕掛け(スキル、テクニック、描画技法)を魚の目の前に下ろして魚(美)を釣り上げて、この世界に顕現させる。

これは、決して社会や時代と切り離されて、山奥の方丈で一人思索するというのとはまるで違うんだ。実践的なことで、誰にでも当てはまる。

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