岡野岬石の資料蔵

岡野岬石の作品とテキスト等の情報ボックスとしてブログ形式で随時発信します。

テキストデータ 芸術の杣径 著書、作品集、図録

(40)世界とは何か、自己とは何か、どう生きるか

投稿日:

(40)世界とは何か、自己とは何か、どう生きるか(123頁)

一見複雑にみえても、ほとんどの哲学の命題は「世界とは何か」「自分とは何か」「どう生きるか」という3つの問題に関わっている。その問題を認識者(人間)との関係に置き換えると「真」「善」「美」。カントもそうだ。純粋理性批判(真)、実践理性批判(善)、判断力批判(美)、この3つがそういう事だ。それ以外の命題があるのかなぁ。

行為の原因は自己である。アトリエで孤独にオファー(注文、依頼―社会との関係)のない絵を描いていると、この問題をとことん考えて、自分の行為を理論武装しないと、自分の人生そのものが無意味になってしまうし、そもそも絵を描くというモチベーション(動機)もあやしくなる。ただ生まれて、意味のない絵を描いて、死んで行く、すべからくそんなもんだ、とは認めたくない。諸行無常の永劫回帰の環を越えたい。

「幻なんかじゃない。人生は夢じゃない。僕達はハッキリと生きてるんだ」。もう解散したが、ブルーハーツの歌詞の一節だ。

それで「自分とは何か」だが、これも突き詰めて考えると不思議な存在だ。現に今ここに在る自分の行動を、自在にコマンド(指令、命令)する自己意識は、何処にどのような形であるんだろうか。

僕の得意な思考実験をしてみよう。

もし、あなたと僕と、首を切ってお互いに入れ替えたら、どっちが僕になるの?首のある方に行くと考えるのが自然な答え。首から下を、入れ替えたと考えれば、当然、頭のある方に自分が行くだろう。

しかし、次の問題はちょっと難しい。もし、脳だけ入れ替えたとしたら、どっちに行く?これは難しい。どうしてかと言うと、たぶん脳の方にいくだろうと思う。行くけれども、今ここに僕がいて、この空間的位置関係の中に配置されている。僕の腕をつねれば、あなたが痛いのではなくて僕が痛い。自分の意識というのは、ここのパースペクティヴの中全部を配置しているけれど、パースペクティヴの中の目とか、耳とか、空間の中の「ここ」が、一緒に引き連れて向うに行くのかどうか、これはちょっと難しい問題だ。だって、ここがあそこになるんだよ。…難しいけど、まあここでは、脳のある方に行くとしよう。

次の思考実験は、もし脳の部分部分をブロックごとに入れ替えたらどうなるの?まずは前頭葉とか、部分的に時間差をつけて少しづつ入れ替えたら、いつの時点で、どの部分の時に、僕がそっちに行くのか。あるいは行けないのか…。

最後の思考実験は、もし仮に、脳の海馬の部分の移植で入れ替わったとしたら、またもや海馬の細胞を少しづつ切り分けて時間差をつけて移植したらどうなるのか。最後は、細胞ひとつひとつを移植していったら…。

自己意識が、実体としてある場所に偏在していると仮定して、このような思考実験をすると、自分はいつの間にか消えて無くなる。

近代哲学の父といわれたデカルトの「私は思惟する、ゆえに私は在る」として「方法的懐疑」から自己の思惟の存在を除外した説は、僕は容認できない。泥酔しても、ボケても、夢の中でも、自己意識は消えない。人の免疫細胞にも、脳のない単細胞生物にも、自他のパースペクティヴは持っている。

そのへんはフラクタル幾何学というか、マンデルブロー集合のような形象で、世界と自分の関係は、人間だけでなく他の生物も植物も、有機物はすべて、存在していると、マンデルブロー集合のように、実体的に内外の境界がなく、ゲシュタルト(全体性)であると僕は考える。

そう考えないと、自己意識が自分の体の中のある場所にぽつんと在るという形で考えると、どうも思考実験すると、そうなってはいないような感じがする。

どうしても、要素還元的にではなくて、全体(ゲシュタルト)として考えないと、世界と自己の関係を捉える事ができない。

世界観を、そうやって映像化するというか、表象するというか、イメージするというか、形象化すると、自分が日ごろ制作している絵が、問題になってくる。それでは、僕が実践している絵を描く行為は、どういう事をすればいいのか。

世界と自己の関係が、部分と全体は自己相似形であるマンデルブロー集合のような形で存在しているとしたら、外側に向かおうが内側に向かおうが、結局は同じ事。僕は自分というものをあくまで排除する方向で絵を描いているのだが、結局はくるっと裏返って自分の内側の世界観が現れてしまうのだ。

あくまで、容れものとしての世界と自分の存在の在りようが重要で、たまたまの自分の人生上の出来事とか、自分の考えとか、つまり容れものの中身はたいした問題だとは僕には思えない。だから、シュ-ルレアリスムや表現主義の方向は、僕の目指すべきベクトルとは違うのだ。

だいたい、今まで勉強した知識や体験は、自分の中で個々に孤立していると、あまり役に立たない。ちょうど本箱の本のように「この知識はここにあるはずだ」と、自分の世界観の中で、自分の座標系の中で、きちんと形象化されていないと、折角の知識が、全体の中で関連付けられて有機的に体系化されるというわけにはいかない。受験勉強のように、無駄な知識で終ってしまう。

-テキストデータ, 芸術の杣径, 著書、作品集、図録
-

執筆者:

関連記事

(7)パラダイム

(7)パラダイム(32頁) そう、物を見るパラダイム(世界を認識する時の枠組み)の違いだ。写実的なデッサンを教えるのはかんたんだが、このパラダイムの違いを教えることは容易ではないのだ。同じリンゴを見て …

(13)数学に人生を賭けた人

(13)数学に人生を賭けた人(70頁)  神があるか否か、自己があるか否か等の最大の全体の概念は、全元論から考えたらなんと簡単なことかと僕は思う。世の中の悩みもトラブルもそうである。僕が『清兵衛と瓢箪 …

(57)原因と結果

(57)原因と結果(202頁) たとえば、飛行機事故が起きたとして、事故の原因と結果をどのように解釈し、責任をだれがとるかという事を考えるには、どうしたらいいか。こういう場合は事故の原因と結果のみに限 …

(72)塗り重ねても光る方法

(72)塗り重ねても光る方法(251頁) 晩年のマチスは一九三五年あたりから、絵を直す場合に塗り重ねて直すのではなく、一旦塗った絵具を拭き取ってから新たに初めからやり直すという技法で描いている。何故、 …

(13)方法論

(13)方法論(45頁) こういう技法を少し教わって、その方法を使って自分で色々考える。それ以後は、教わるのではなく、方法論を知れば、そういう方法でやればすむわけだ。推論の糸口は、教わって分っているの …