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(27)僕は間に合わなくてもいい

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 (27)僕は間に合わなくてもいい(124頁)

生きとし生きるもの、動物だけでなく、植物も、物も、万物は因と縁で今ここにこのように現成している。そして、幸運にも自分たちは、世の中で、シャケで言えば一腹の卵のその中のたった一個の卵が自分だ。他の卵は自分の兄弟姉妹。自分だけでなく、みんなが、万物がそうなっている。何かになっている。初潮から閉経まで、母親から一生に何個卵子が出来るか知らないが、その中のたった一個が僕になった。僕でない確率の方がずっと高かったのに、そんな一個の卵から僕が現成した。それが悪人でも善人でも、万人がそうやって世の中に現成しているのだ。

それなのに、いったい何が不満というのか? ありがたいことだ。そういう風に世の中が見えたら、バナマ文書のように、使いきれない莫大なお金を持っていながら、税金を取られたくないために他国の通貨で他国の銀行に隠すとか、そんなのは嫌だ。恥ずかしくグロテスクなことだ。恥を知れと言いたくなる。「人々(にんにん)食分(じきぶん)あり、命分(みょうぶん)あり」と、道元禅師も言っている。一人で食べ切れない食料を冷蔵庫にため込んでも、ゴミになるだけだ。お金だって例外ではない。

僕が一番言いたいことは香厳撃竹である。僕自身が全元論に気づいたのは、香厳撃竹で、それまですべての意味不明だったことが、僕が子供の時に偶然ギンヤンマを捕る方法を見つけて、世界の構造に気付いたのと同じように、ひらめいたのである。ひらめいた時には嬉しい。香厳の先生が「教えたらお前に一生恨まれるのだよ」と言ったのもよく分かる。ふつうは教えてやったらいいと思うが、だからこそ香厳も気づいたときに、教えてくれなかったことに限りなく感謝した。先生のいる方向に礼拝し、父母の恩よりも高いと言った。香厳にはその時、立体が見えたのだろう。ランダムなドットしか見えなかったものが、自力で見えた。

そこで重要なことは、箒で掃いた石が竹に当たる音を聞いて悟ったからと言って、翌日から箒で石を竹にぶつける練習をしたらおかしいだろう。これを画家を含めて他の芸術家がやりがちなのである。それがマンネリズムである。それは世界が自分の裸眼で見えたのでなく、形だけのまねである。自分の身体で直接悟れば、そんなナンセンスなことはしないし、それが無意味な行為だと分かる。

悟ったら修行を止めるかというと、止めない。それが素晴らしい。道元は「一発(いちほつ)菩提心を百千万発するなり」という。発(ほつ)菩提心というのは悟りの一歩目。自分はそういう道をこれから進もうと発心(ほっしん)する、その一歩目からじつは始まっているのである。修証一等だからである。そして同様に、悟ったからといって修行は終わりではない。香厳はその場だけで悟ったのではなく、悟ろうとする過去の蓄積があったから悟ったので、どの一点でも外したら、もし諦めていたらその場を箒で掃いても悟ることはできない。全部が修証一等なのである。

ここからではない。ずっとそうなのだ。それで悟れなくてもいいのだ。その方向で努力していたらいいのだ。自分はそう思う。絵を描いて僕は間に合わなくて、そこまで行けなくても良い。還暦を過ぎてイーゼル絵画を決断したけれど、もし中途で終わっても構いはしない。それこそ竿灯進歩だ。悟ろうが悟れまいが、このラインを考えたらこの原因を考えたら、僕が途中で倒れたとしても、過去にこんな奴がいたのだと、いつか継ぐ者がいるだろう。そういうものだ。世界はそうなっている。

お釈迦さまも道元も、みな過去の人がそう言っているわけで、香厳の先生も、教えてもいいけど教えたら恨まれるのだよ、と教えなかったのは、僕が知っているとかそういうものではないということである。気づかないと意味がないのだ。回答はこうだよと教えても、お前自身がお前の身体で直覚しないと仕方ないのだ、ということだ。

人に教えるのもまた面白いのだ。僕のものでもなんでもないのだから、この真理をみんなに分けたい。皆もやれ、幸せになるぞということ。道元は一人で帰ってきて、勢力的には小さいところから始まった。でも、そういうのでいいのだ。慧能や禅宗のいろんな話は、身につまされるものがたくさんある。道元も慧能も時間と空間を越えて残り、僕の今ここで出会う。世界の法である真善美に当て嵌まるものだけが、歴史に残っていくのだ。いやそうでなくて、「存在」そのものが「真・善・美」なのだ。そうなので、画家はそれを現場でイーゼルを立てて描写するだけなのである。

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